『田舎教師』田山花袋 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『田舎教師』田山花袋 新潮文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「文学への野心に燃えながらも、田舎の教師のままで短い生涯を終えた青年の出世主義とその挫折を描いた、自然主義文学の代表的作品」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

 

 

山花袋は、日本的自然主義と『蒲団』の影響で、とにかく私小説、じぶんのことを書いた作家というイメージが強いが、本作や、「重右衛門の最後」などを読むと、なにかこう、感じるところのあった人物や事物に取材して、それを我がことのように書くということにも優れていたのだとわかる。おもえば、僕が最初に読んだ田山花袋は『東京震災記』という、いまでいうノンフィクションだったし、本書によれば、日露戦争のときに従軍して書いたものもあるらしい。本質的に観察と感情移入の作家なのだ。

 

 

 

主人公は林清三という文学青年。田舎の小学校の教師である。モデルとなった文学青年がじっさいにいて、花袋は亡くなった彼の日記などを読んで、本書を執筆したということだ。自分自身のことを暴露的に書いた「田山花袋」というものへの思い込みと、じっさい花袋に似ているぶぶんもあるために、途中まで僕はこれを名前だけ変えた私小説と読んでいたが、途中に田山花袋じしんが、原杏花(はらきょうか)という名前で登場して、それは否定される。

清三の友人たちも、多くは文学青年で、同人誌などつくって精力的に活動している。が、月日が過ぎるにつれて、彼らは彼らで、より上等な資格を得て、進学していく。清三には、田舎に取り残されたという焦りと、ほんとうのじぶんはもっとなにかができるはずだ、という憤りみたいなものが募っていく。清三の家は貧乏で、父親が絵画の贋作など売り歩いている感じの不安定な仕事であり、母親は清三のことだけを頼りに生きている。結果としては、金銭面でも、また時間や状況という面でも、家庭の事情は、清三からチャンスを奪うことになる。少なくとも清三はそう感じている。そういう気持ちで、裕福な家庭に育った友人たちがなんの問題もなく出世していくのを、田舎でオルガンなど弾きながら羨望のまなざしでみているのである。

彼が一時期居候していたお寺の和尚さんがかなりのインテリで、花袋であるところの原杏花とも知り合いだ。そういうところで、清三は和尚さんのことを尊敬しているが、同時にもやもやしたものも感じている。それほどのひとが、なんでこんなところで和尚さんなんかやって、つまらない毎日を送っているのか。荻生という、最後まで清三の近くにいた友人は、郵便局につとめているカタギの人間で、これも、当初はこころのどこかで軽蔑していたようなところがある。美穂子という、気になる女性がいたのだが、これは友人の恋人となってしまう。だが、解説でも指摘されているように、そこに失恋の痛みはなく、美穂子もまた、高嶺の花として、出世主義的なものをくすぐる存在でしかなかった。失恋というより、敗北感とか羨望とかのほうが大きい感じだ。

こういう状況で、ふとしたときに、清三は村からすこし離れた中田というところになじみのくるわをつくることになる。そこの遊女に、恋心らしきものを抱えるのだ。明治期の小説にはこういう展開が非常に多くて、相手は仕事でやっているという理屈をこえて、優しい女性を好きになってしまう気持ちはわからなくもないが、どうしてみんなそうまでして?と感じられるかもしれない。一般論があるのかないのかわからないが、大雑把に考えて、このころは結婚というとお見合いや紹介がふつうで、男女間の人間としての距離も遠く、女性の前で身も心も裸になるということが、通常の生活ではなかったのではないか、ということはおもいつく。だから、商売上とはいえ、属性を除いて、ひとりの人間として接することができるそういう状況に、どっぷりつかってしまうのだ。

が、その女性も、やがてどこかに身請けされて、いなくなってしまう。清三も、まるきり彼女のことを信じていたわけではなかったが、現実をつきつけられて、大きく失望してしまう。

失望は立て続けにやってくる。教師の仕事のかたわら、彼はオルガンを弾いて、独学の詩をのせてうたうなどということを熱心にしていた。詳細は不明だが、歌曲の譜面を集めて練習したりということもしていたらしい。友人たちが東京に出て、出世していくのを見ながら、文学愛好じたいは変わらずとも、そこに出世をみるぶぶんは薄れていき、清三は音楽学校(のちの芸大)を受けることにしたのである。だが、はじめて上京したその実技試験の日、彼は、じぶんのやってきたことがおままごとだった、何の役にも立たなかったということをつきつけられる。このあたりは、僕もひとりの(ある意味出世主義的な)文学青年、また音楽愛好家でもあったので、なかなか、苦しいものがあった。

 

 

そうしたあたりで、ようやく清三は、絶望のなかのあきらめとともに、田舎教師のポジションに落ち着いていく。関さんという、植物にくわしい同僚の存在もあって、彼の興味はしだいに植物に傾いていき、またぞろここに出世主義的なものを見出し、いつか試験を受けるなどといいはするが、その語調は以前と比べてけっこう現実的だ。焦燥感はないし、それに人生をかけるということもない。あくまで田舎教師として落ち着いたその先に、やってみようかな、というくらいのものだ。これと同時に、日露戦争と、彼の体調不良がやってくる。当初は胃腸の問題とおもわれていたものが、体力の低下や肺の病気のような症状を呈し、足に腫れ物までできてしまう。日露戦争の報せを聞いて、旅順の侵攻ぐあいなどを平凡ないち国民として気にしつつ、同時に、弱っていくからだで、じぶんはそこに参加して名誉を得ることすらできない、と悟る。花と、自然の観察だけが残り、やがて清三は死んでしまう。

 

 

巻末にある福田恆存の解説はじつに手厳しい。たしか、なにかの本でもこのひとは花袋に手厳しかった気がするが、『田舎教師』の主人公は清三ではなく、その背景に広がる、田舎の風物や生活だとフォローしつつも、「たいくつな小説」と断じるのだ。花袋が、たとえば清三の恋心にかんして、ほんとうの恋ではなく、恋に恋しているだけだということを自覚したうえで書いたのであれば、本書は思想小説になったかもしれない、しかしそうではないと。たしかに、花袋には、清三のありようをそれじたいとして無批評に描写しているぶぶんはある。花袋の観察者としての性質を考えたらそれも自然なのだが、どうあれそれがはなしをたいくつにしていると。たしかに、僕も、途中までは、本書をそう熱心には読んでいなかった。だが、遊女に恋心を抱えて、失望するあたりから、がぜんおもしろくなってくる。だから、僕は解説にそう書かれていて、びっくりしてしまった。え・・・すごいおもしろかったんだけど、と。

 

 

まず、その、背景に広がる自然やひとびとの生活の美しさである。たんに、あるがままを描こうとした日本的自然主義の面目躍如、ということでもあるが、これは、それじたい独立したものとして描かれているのではない。自然主義作家・田山花袋はそういうつもりだったのかもしれないが、じっさいにはそうではない。失望のあとにやってくるやまい、死の予感、これによりそうようにあらわれたのが、花を観察する趣味である。このことが、時間の流れ方を二層構造にするのである。

清三は、ひとことでいえばたしかに出世主義だ。恋に恋したように、文学青年としての姿も、別に文学に特別な思いいれがあるわけではなくて(ないわけでもないが)、そういう、じぶんを特別なものだ、足を引っ張る家族などの理由がなければ、じぶんにもそういうチャンスはきっとやってくるはずだ、という感覚だけが暴走しているもので、だから、それは文学でなくてもよかったのである。しかし、それは、清三を未来の場所から見ているからそういえるのである。清三には、そのときどきの文学や、音楽や、植物が真実であって、それを通したいつの日かの自己実現を夢見ている。これが、彼に未来を感じさせていた。つまり、明日も同じように生きていて、上手くいけば出世しているじぶんを想像させていたのである。清三は、そうした夢を通して、未来を想像していた。これが、叩きのめされ、完全に失われる。そのあとに、死の予感と自然の美しさがやってくる、ということが重要なのだ。

 

 

中国の三国時代や日本の戦国時代の映画やゲームなどを見ていると、将軍などではない、末端のいち兵卒が、どうしてそうかんたんに命を投げ出せるのだろうとおもうことがある。将軍のすぐそばにいるものが、尊敬する将軍のために命をかけるのはわかる。しかし、将軍としゃべったこともなく、テレビもない時代、おそらく人伝のイメージでしか知らない将軍や国のリーダーのために、なぜ死ぬことができるのか。「死ぬことができる」という点については、そのときの感性であるとしかいえないのかもしれないが、どういうつもりで死んでいったのかということになれば、わからないこともない。彼らは、じぶんが死んだあと、それを糧にして版図を拡大する国、そして将軍、さらには、そこで生きる家族のことをおもっていたにちがいないのである。人間は、身体レベルでは、じぶんの寿命をこえる時間の範囲を感じることができない。それは想像力の仕事である。だが、戦時だけはおそらく別なのだ。ひとはそのとき、視点を肉体から公的なものに移すのだ。日々の生活におわれる肉体的な視線が、戦争中においては、いってみれば「国民」の視線にかわるのである。じぶんが死んだあとも国はある。それどころか、死ぬことは国にとってプラスになるはずである。そう信じることができたとき、彼らは命を投げ出す覚悟を決めたにちがいないのだ。

この、肉体時間をこえたところにある時間の感覚を、本書では自然、端的に花々が担っているのである。季節を決めて、「今年もまた」同じように咲く花は、それじたいによって、いままでも、そしてこれからも、同じように咲き続けることを示唆する。これが、肉体を超えた、「じぶんがいない世界」を想像させるのである。

失望の果てに、清三は、想像の世界では無制限に広がるばかりだったじぶんの生を、有限なものと規定せざるを得なくなった。ここでやってくるのがやまい、そして死の予感である。本書後半における自然の描写は美しい。しかしそれは、それ単独で美しさを宿しているのではない。有限であることをつきつけられた清三の生との対比において、その美しさを発揮しているのである。

 

 

加えて日露戦争だ。これは、有限であることをつきつけられたその生を、どのようにして区切るべきか、という清三の感覚に響いてくるものではないかとおもわれる。病床で彼は、戦地で倒れる同胞におもいをはせ、彼らのほうがまだ幸福だと、もはやなにをなすこともないじぶんと比べておもい、涙を流す。これは、そうした無限の展開を示す美しい自然との対比のなか、どのようにじぶんの生をまっとうすべきかという、「死にかた」のはなしなのだ。

彼の死を悲しむものは多い。美穂子のことなどもあって一時期疎遠になった友人たちも、やせていく彼を心配していたし、死後連名で墓石を立てたりしてくれた。だが、ほんとうに、心の底から彼の死を悲しみ、涙を流したのは、母親と、荻生、それに、ひで子という、清三のことを尊敬し、おそらくにくからずおもっていたにちがいない教え子だけである。あんなに親しげにしていたインテリの和尚さんは、原(花袋)の関係で寺にいなくて、葬式にさえいないのである(お経はかわりに、まあまあ仲のよかった小使があげている)。荻生は、いってみれば作中いちばんまともな「大人」で、アベンジャーズでいうホークアイみたいなものだ。彼の学生時代がどんなものだったかはわからないが、芸術家志向の友人たちのなかにあって、少しもその傾向がなかったとはおもわれない。彼もまた、どこかの段階であきらめ、生を有限なものとして、小さな生き方に徹してきたはずなのである。そしてひで子は、最後のページで教師になったことが明らかになっている。彼女は、恋愛感情を越えて、清三のポジションを継いでいくものだ。そうした「小さな生」をまっとうしようとするものだけが、清三の死に涙を流しているのだ。彼が、大きな夢に破れて、失望のなか「小さな生」に沈静した、そのことじたいに感情移入できる必要はない。荻生やひで子にも、出世主義的なぶぶんがわずかにでもあり、それをあきらめたのちに「小さな生」がある、とはいわない。だがそれでも、日露戦争を背景にした描写のなかで、その「死にかた」が問題になっていることはまちがいない。彼が「小さな生」を荻生のように貫徹できなかったのは、その導入が失望によるからだ。そして、そのままそれを原因にして、彼は「小さな生」さえ貫徹できずに亡くなった。そしてそれを止められなかったことが、荻生たちには無念なのである。

 

 

 

 

『蒲団・重右衛門の最後』田山花袋 書評↓

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