すっぴんマスター -2ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

仕事後にランド行ったとき。ネクタイにマイメン・ギデオンにくっついてもらった。




大晦日、ブログ納め。

今年はなにをした1年だったのか…。35を過ぎたくらいから2,3年くらいがそれまでの1年くらいの密度になっているようで、記録をつけていないとはっきりしたことがなにもいえなくなっている。好きなものですらそうだ。最後にディズニーに行ったのはいつか?映画館は?と聞かれても、正確に答えられないのである。この2年くらいのあいだのいつかに何度か、たぶん、みたいな認識なのだ。で、調べると5年前だったりする…

ブログも最近は雑で、定期の更新しかしていないので、日記の役目は果たしていない。もう、ひたすらスマホの写真をたどる以外ないのだった。


ディズニーは、たぶん3回。たぶんね。まず1月23日に行ってるな。今年はシーは行かなかったみたいだ。1月は、シュガーラッシュのパルパルーザがやっていたときだな。

このとき、いつも必ず乗っているイッツ・ア・スモールワールドの前でアベンジャーズのテーマが流れてたまげたのをよく覚えている。withグルートということで、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2のベビーグルートが世界をまわるというコンセプトになっていたのである。各地にそれぞれヒーローもいてグルートの相手をしていて、ほんとかわいいから、みんな行ってね。一回中断してからまた始まったはず。




ちなみにグルートの声は日本語



5月15日に行ったときにはドナルドの2度目のパルパルーザ。パルパルーザとは、ディズニーに行かないひとにはどう説明したらいいかわからないが、「イベントをやっている」くらいでいいのかな。パーク全体が、シュガーラッシュやドナルドの世界観に満たされる感じだ。日中にはパレードもあるが、これが参加型のやつで、ぼくはどちらかというと黙って口開けて見ていたいから、とにかく参加して、帰宅してから他人が上手に撮った動画見て再体験したりしてる。

9月26日夜にもパークに行った。ハロウィンイベントが始まっており、初めてスケリントン・ジャックされたホーンテッド・マンションに行くことができたのだった。







3月27日には闇金ウシジマくん原画展、7月1日には刃牙博。ウシジマ展がはるか昔な感じがして何回も調べてしまった。ぼくを形成する二大漫画が年内どちらも展示会をしたというのは、考えてみればすごいことだ…が、たんにぼく世代がターゲットというはなしなのだろう。



九条タッチの丑嶋社長







七海ひろきみたいな刃牙



あとは、ごく最近になるが、12月18日にちいかわパークに行ってきた。



あのこラブ






ちいかわは、もちろんひとなみに知っていたし、当たり前にぬいぐるみを持っていたし、かわいく感じていた。コミックもぜんぶ買ってる。しかし、相方が友達とパークに出かけ、写真やらなんやら見せてもらううち着火してしまった。コミックもぜんぶ持っていたし、アマプラでアニメも見てきたはずだが、“ちゃんと”ではなかった。なんでも偏執的に探究してしまうぼくでは珍しく、きわめてカスタマー的無責任スタイルで、浅くкаваийを享受していたのである。それだけちいかわがコンテンツとして強力ということなのだろうが、なぜかそのときに考察サイトを見ていて、モモンガの正体やあのこの出自など、はなしには聞いていたが直視はしてこなかったちいかわ世界のどぎつさにとらわれてしまったのだ。幸い、くりかえすが、原作はぜんぶあるし、なんならナガノ先生の他の本もあった。アマプラは毎日つけている。そういうわけで、12月あたまくらいから正気を失ったちいかわ漬けになっているのであった。


ちいかわはディズニー以上に身近にファンが多く、またディズニー以上にライトなファンもヘビーなファンもいる印象がある。そうすると、いまこういう時代なので、誰推しかというはなしになる。それがぼくはほんとうに困る。最初は、いつものやつで、じぶんで誰が好きかわかっていないパターンかとおもわれた。ぼくは宝塚や映画でも、誰が好きか自分でよくわからない。わからない、というと、相方に、「いやどう考えても早霧せいなでしょ」「ニコール・キッドマンでしょ」といわれ、そうかも…となるのである。いつもそうなのだ。しかしちいかわはみんな好きなのだ。強いて言えば、毒を含むモモンガやあのこが気になる存在ではあるが、推しとはちがうような…という感じだ。じゃあ持っているグッズの量は?となると、ハチワレやうさぎが多いようだし、事実めちゃくちゃ好きだが、この時点ですでにひとり絞れてないし、たんにあのこのグッズが少ないだけではという反論も可能である。というわけで、推しを聞かれてもいつもモゴモゴいうだけなのだった。


このくらいにしとこうかな。筋トレのはなしはできたらまた年明けにしようかな。今年は新しいトレーニング(アンイーブン・プルアップ)に入れたし、久しぶりに年末に書こうかと思っていたが、間に合わなかった。なるべく書きたい。みなさま、1年間お疲れさまでした。良いお年をお迎えください。




またね






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今回も漫画とそれ以外の読書はまとめる。まず漫画。



【漫画】


今年はジョジョランズ5巻からジョジョランズ7巻まで、ぜんぶで44冊の漫画を読んだ。ジョジョにはじまりジョジョに終わったわけである…。


漫画は、減らそうと努めてきたのでこれでいいといえばそうなのだが、ちょっと減りすぎかもしれない。ほんとう、継続購入してるものの新刊以外読まなくなってしまった。これじゃあどんどん感覚が錆びていく。審美的な意味でもそうだし、いまぼくは書店に所属したままよく似たちがう仕事をしているのだが、いざ書店に戻ったときに感覚が追いつかないかもしれない。


書くべきこともマジでまったくないな…。相変わらず福満しげゆきは追っているので、スクエニから出たのはうれしい驚きだった。先生、応援してます…!








【小説・評論など】


今年は20冊、本を読めた。相変わらずひどい数だが、去年が12冊、その前が9冊という、もはや履歴書の趣味の欄に「読書」と書けないレベルになっていたことをおもえば、持ち直してきているのだとおもう。

少ないのでぜんぶ書き出す。出版社は記入しません。


『会計と経営の七〇〇年史』田中靖浩

『ひっくり返す人類学』奥野克巳

『明治大正 翻訳ワンダーランド』鴻巣友季子

『白い人・黄色い人』遠藤周作

『世界は経営でできている』岩尾俊平

『団地のふたり』藤野千夜

『荒木飛呂彦の新・漫画術』荒木飛呂彦

『差別する人の研究』阿久澤麻理子

『苦手な読書が好きになる!ゼロからの読書教室』読書猿

『科学史・科学哲学入門』村上陽一郎

『論理的思考とは何か』渡邉雅子

『無限の果てに何があるか』足立恒雄

『詭弁論理術』野崎昭弘

『路地』三木卓

『「無限」に魅入られた天才数学者たち』アミール・D・アクゼル

『問題解決能力があがる 自治体職員のための法的思考の身につけ方』中村健人

『無限論の教室』野矢茂樹

『はじめてのガロア』金重明

『数学基礎論』前原昭二 竹内外史

『人間集団における人望の研究』山本七平



みてわかるように今年は数学の読みものにハマっていた。特にゲオルク・カントル(カントール)の無限論である。最初に興味を持ったのは去年読んだ、瀬山士郎の『現代数学はじめの一歩 集合と位相』だったとおもうが(とてもおすすめです)、その対角線論法の美しさである。




集合の要素の基数(個数)を濃度であらわし、無限に要素をもつ集合の濃度に大小があると考えたのだ。要素を一定の規則のもとに並べることができれば、それは自然数によって番号をふれるということだから、自然数の“無限”と同じ大きさになる。これをアレフゼロという。だから、たとえば「偶数」は、2,4,6,8,,,と並んでいて、順番に①,②,③,④と番号がふれるから、アレフゼロである。ふつうに考えると偶数と奇数は交互にくるのだから、自然数の半分くらいに思われるが、そうではないのだ。では有理数(分数で表せる数)はどうか?これも、きれいに並べることができるからアレフゼロである。では無理数(分数で表せない数)を含む実数はどうか。カントールはここで対角線論法という非常にあざやかなやりかたで実数の数はアレフゼロより大きいことを示したのだ。無限にも大小があることを証明したのである。

これに感動してから、ブルーバックスや角川ちくまあたりの読みやすそうな無限論系の本をあさるようになった。と言ってもほとんどKindleだが。毎日通勤時に数学のことを考えるのが楽しかった。ぼくは、実は数学科出身なのである。数学はほんとうに得意で、その方面で期待される人間だった。しかし、よくあるはなしだが、そうしてちやほやされて驕らずにいることはぼくの人間力では困難であり、例にもれずぼくは勉強というものをまるでしなかった。ピアノと読書がじぶんの使命だと確信していたからだ。それでも、じっさいたぶん才能はあったので、大学には数学一本でいけた。たぶん満点だったから返さなくてよい奨学金までもらえた。しかしそこまでである。ろくに学んでいないから経験値もなく、ちょっと向いているくらいで大学数学ができるはずがない。最初はまだよかった。なにもしなくても、数学が得意な連中が集まる中でトップにたつことができた。それが心地よかったことは否定できない。だがすぐについていけなくなった。驕りから、まったく学ばないからだ。さらに、ついていけない事実に直面したくなくて、ぼくは積極的に授業をサボるようになった。そうやって単位を落としていき、それ以外の理由もあったが、やがて中退となった。よくある話でしょ。いやになるよ。


思いがけず自虐ネタに走ってしまったが、無関係なはなしでもない。近頃のぼくに芽生えた数学熱は、現職が文系の専門職で、じぶんのオリジナリティがどこにあるかと考えたときたどりついたものだと思われる。だがそれをモチベーション面で支えているのはあの頃の後悔の感覚なのだ。もはやあの、学校という、いまおもえば考えられないくらい学びに適した環境は消え去った。いま片手間でやったってまともには身につかないだろう。でもほんとうはぼくにも数学が好きな瞬間があったのだ。それを思い出したいのではないかなとおもう。


そうしていろいろ読み進めていったが、カントールはデデキントとともに集合・無限論の父みたいなひとなので、たいがい最初のほうに出てくる。今年もっとも読むのを頑張った『数学基礎論』は、以後も参照することになるであろうすばらしい一冊だが、開始2ページで登場する。要するにごく初歩なのだ。そこからヒルベルト、またゲーデルに至ってようやくひと息つける、という感覚なのである。だが、ぼくはもう誰かにちやほやされるために数学をするのではないから、適当にやっていこうと思っている。と言いつつ、年末年始は無謀にも『ゲーデルに挑む』に挑もうとしているわけだが…。著者の田中一之氏は、その、現在のぼくのバイブル的一冊となっている『数学基礎論』の解説を書かれていたのだ。






『数学基礎論』はたいへんコンパクトにまとまりながらしっかり証明も載っており、すばらしい1冊なのだが、読みものとして数学の知識なしで読めるかというとそういう本ではない。いくつかおすすめできる本はあるが、今年読んだ中ではだんぜん『「無限」に魅入られた天才数学者たち』である。体裁的にはカントールとゲーデルを中心に据えた伝記みたいなものだが、必要に応じて非常にわかりやすく彼らの考えたことが説明されているのである。また、ユダヤ系と思われるカントールの原風景ともいえるカバラ(ユダヤ神秘主義。映画の『π』に出てくる。ヘブライ語アルファベットに数字を割り当て、単語にその数字の和を見出して、和の等しいものどうしに特殊な関係性を見る)などにもくわしく言及しているのも特色といえるだろう。めちゃくちゃおすすめです。




この状況で小説も3つ読めてるのはまあよかったとおもう。山本七平は、ときどき禁断症状的に読みたくなることがあって、買って置いてあったのを読んだ。また新しくなにか買っとかないとな…


それ以外の、年間の“この1冊”的なことでいうと、『差別する人の研究』になるかなとおもう。部落差別にかんする本だが、さまざまなありかたをするレイシズムを細かに分析しており、勉強になった。


それから『法的思考の身につけ方』も何回も読み返している。自治体職員の〜とあるけどそうでなくても法的思考の訓練によいし、地方公務員以外にも、図書館や郵便局、公共交通機関、電気ガス会社など、準公務員のかたにも非常に役にたつとおもう。









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今年も もうすぐ終わるよ 答えを 探してもないよ ということで2025年まとめ。まずは、あまり書くこともなさそうだが映画。


今年の映画館は4回だけ。去年が5回、その前が12回。ぼくと相方のあいだにあった一時期の映画館ブームは去ってしまったのかもしれない…。去年も書いた気がするが、原因はたぶんディズニーで、パークにいったりグッズを買ったりで消費の大部分がそちらにいってしまっているため、興味の問題というより物理的に消極的にならざるをえないぶぶんはある。まあ、ディズニーに比べたら映画のチケット代なんてたいしたことはないんだけど…


その映画4回にしたところで、うち3回がMCU、もうひとつがディズニーアニメのズートピア2なのだから、結局ぜんぶディズニーで、やれやれというところである。


マーベルに関しては、2月20日に『キャプテン・アメリカ:ブレイブ・ニュー・ワールド』、5月28日『サンダーボルツ』、7月25日『ファンタスティック4』と、基本はおさえることができた。エンドゲームで主要キャラが退場してからみてないというひとは多いかとおもうが、正直ぼくのなかにもそうした萎靡沈滞の感覚はある。さらに、もともと計画されていたドラマ展開とコロナ禍が時期的に一致し、よくもわるくもそちらに注力するようになってから、ストーリーやキャラクターがあまりにも広がりすぎてしまったということもあった。さらにいえば、展開上の必然として、また今後もMCUを続けていく上での必然としてあらわれたマルチバースや変異体という概念は、こうした広がりをサポートするかのようなものだった。かくして、そうとう追ってるひとでも知らないヒーローがいる、みたいな状況が生まれていったのである。マーベルのおもしろさは、キャラクターやストーリーの、分厚い蓄積による深みにある。だから、ただヒーローが集まるだけ、ブラックパンサーがクリントの名を呼ぶだけで感動できる。ところがこうした無限遠にもおもえる世界観の広がりは、おもしろくも疎外感を生むものでもあったのだ。


エンドゲームにいたるまでのあのすばらしい作り込みの物語はまちがいなく歴史に残るもので、未来ではきっと指輪物語に匹敵するあつかいになっていると思われる。そんな脚本をつくる製作者側がこの状況に気づかないはずもないわけだが、マルチバース的広がりははなしの必然でもあり、ある意味観客の疎外感もまた必然だった可能性もある。売り上げ的にしんどくとも、ともかく、これをやりきろうと、そういう意識はあったのかもしれない。そこへ、サノスの次にあらわれた大型ヴィラン、征服者カーン役のジョナサン・メジャース有罪判決である。


事件ののち、あらたに脚本を組み直した製作は、ドクタードゥームを新ヴィランに設定、この配役をアイアンマンのロバート・ダウニー・Jr.に決め、さらに最近の予告ではクリス・エヴァンスのキャプテン・アメリカ再登場が発表された。会社的に、また脚本的に苦しい状況で、「たしかなもの」に逃げたようにも見えるかもしれない。じっさい、知人のマーベルファン何人かはみんな、彼らが復帰する喜びと、エンドゲームの感動が毀損されるような感覚のふたつに引き裂かれているようである。しかし、ぼくにはこの決定もまたあくまで脚本上の合理性にしたがったもののようにみえる。というのは、キャプテンはわからないが、ドゥームがアイアンマンの変異体である可能性も出てくるからである。また、そもそもなぜ予告のキャプテンは若いのかなどということもある。ひろがりきったマルチバースの宇宙という現実がいまの困難を強いるなら、その現実がもたらしうる喜ばしいことも積極的に導入してしまおうと、そういうパラダイム・シフトが感じられるのである。


そのいっぽうで、いまでもマーベルはミクロの人物造形や人間関係にじゅうぶんな注意を払っている。今年の3作はどれもそういう内容だった。あのキャプテンの後任という、信じがたいプレッシャーのもとに、ベストを尽くすばかりでなくきちんと仕事を果たそうとするサムの新キャプテンの姿には、感動しないではいられなかったし、ひとりの大人の人間としてとても奮い立たせられた。逆にいうとこういう感覚は、あまりにもヒーローでリーダーだった前のキャップにはなかったものだ。サムは超人血清を拒否したのもよかったよね。いまいちばん好きなヒーローかも。


サンダーボルツのぜんぜんダメな感じもほんとによかった。セントリーに文字通り歯が立たないさまをみて、このひとたちは、ありがちな「とはいえなんとかしてくれる」というキャラクターですらないのだなということがよくわかった。ただ、それぞれが抱えている地獄、それが観客のものの相似形であるぶん、感情移入しないわけにもいかず、この図式は新キャップと同じである。エレーナは姉を失った悲しみと尊敬の気持ちでアイデンティティを保つのが難しくなっており、またウィンターソルジャー、レッド・ガーディアン、USエージェントもまたそれぞれに“あの”キャプテン・アメリカとの差異にもがき、それぞれの劣等感に苦しんでいる。これはあなたの物語だと、この2作はくりかえし伝えてくるのだ。


こういうなかでファンタスティック4は仕切り直し第1作という感じがある。世界観としてもそうだし全体の洒落た雰囲気もそうだ。4人のすごさと素朴さを並行的に描き、遠さと親しさを同時に表現することに成功しているとおもう。





12月26日にはズートピア2。ペリリューなどみたい映画はたくさんあるなかで、どうしても時間がとれず、ズートピアだけはなんとかみることができた。まあ、思ったとおり超よかった。どこかで語りたいが、たぶん無理だろうな。1みてるひとは必ずみてね。



さて、今年は実は映画館だけでなく、家でサブスクを通じて視聴した映画もカウントしていた。と言っても、Xでタグをつけてタイトルをつぶやいてきただけだが。ただ、年間どれくらい見ているのかなということは気になっていたので、とりあえずやってみた。73作だった。秋に入ったくらいから、帰宅してご飯を食べて気絶してしまうみたいな日が続き、ぜんぜん見なくなってしまっていてが、だいたい5日に1本というペースである。毎日みるときは毎日みるのだが…。ネットフリックス、アマゾンプライム、ディズニープラスと、すべてウォッチリストにかなり溜まっていて、みたいものはたくさんあるのだが、なかなか、起きていられないのだった。


自宅映画については、今年も韓国ホラーよくみていたのかな。むかしからよく見てるが、今年は意識してみていた感じ。で、あるタイミングで下の胸くそ映画ガイドを買って、しらみつぶしに見ていくことにもなった。




胸くそ映画好きなので知っているものも多かったが、『凶悪』や『哀愁しんでれら』などふだんは見向きもしない邦画に触れられたのが大きかった。

あとは映画紹介動画などもよく参考にし、『マイ・マザーズ・アイズ』という傑作にも出会えた。邦画はあまりくわしくないのであてにはならないが、個人的には三本指に入る作品だった。また見たい。





ホラーではないものでは『コンサルタント』のシリーズも印象に残ってる。この手の映画で最近あたりがなかったので…。パニッシャーのひとがかっこいいんだよ。

同系列で韓国映画の『THE KILLER/暗殺者』もすごいよかったな。こういうのが見たかった!って、なんかすっきりした記憶がある。


こんなところで。







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第56話/到達





神心会本部で行われている愚地独歩の模範組手である。秒殺された末堂に続き、勝てば明日から伝説ということで、竹、三島、長谷川の3人が一対多の組手にとりかかる。しかしはじまるや否や独歩が透明になるという怪現象が起こり、竹がやられ、あっという間にふたりになってしまうのだった。


三島が背後をとられたところだ。多数というのは、技術的にはかなりの制約を課すので、見た目ほど効果はうすいわけだが、意味がないわけではない。戦略なんか無視して団子になって力任せに襲いかかるだけでも、おそらくひとりでいるよりはずっと効果がある。しかしそれは素人どうしのはなしかもしれない。相手が素人なら、威力のない拳が顔にかするだけでも効果は大きいし、それが10、20と重なってうち込まれれば勝負ありである。しかし独歩にはそもそもそれが当たらないだろう。また、多数側の竹らが多数での挑戦に慣れていないということもある。これはゲバル対マウスでも言及があった。さらに彼らは格闘家だから、自分たちが多数でいることに慣れていないという直感もあったろう。そうして、彼らはせっかくの有利をまったく活かさず、ひとりずつやられていくのだった。


背後をとられてえりをつかまれており、三島はもう負け判定でよさそうだが、種明かし的に独歩が続けてくれる感じだ。軽く突いて距離をとった独歩が、異名にある超強打とやらを打ってみろと挑発する。あとの解説からすると、要するに独歩は三島に前に出てもらいたかったようだ。カウンター型だと独歩の透明化はあまり意味がないのだ。


三島も空手家の自尊心がある。気合いを入れ直し、構えも新たに蹴りをはなつ。再び独歩はすりぬけるが、それを追って裏拳。しかしそこにも独歩はもういない。改めて背後をとられ、あたまを小突かれて一本判定。すごすごと帰っていくのだった。


克巳がいま起きていることを解説する。といっても、克巳じしん組手をみながら理解した感じっぽい。たたかいが大好きな独歩は、常に前進する。これは比喩ではない。文字通り、前に進み、距離を詰める。どんな条件下でも、独歩はこれをやめなかった。その結果として、ついには相手をすり抜けてしまったのだと。わかったようなわからないようなはなしだが、独歩も特に否定しないのでそういうことらしい。


というわけで、多数の有利がもはやない、最後のひとり、長谷川の番なのだった。



つづく



なるほど、前進か、っていうほど納得はいかないが、刃牙とはまた異なった透明化を独歩はしており、そこには彼オリジナルのぶぶんがあるはずで、としたら前進であると、こう考えればよいのかもしれない。ふつう踏み込まないところでずんずんくるありようは、予想を超え、イメージのなかの相手をすり抜けて消えてしまうだろう。こちらの攻撃、もっといえばこちらが相手として存在しているという事実が通常もたらす防御意識だとかためらいだとか、そういうものがいっさいなく、それどころか前進してくる、その感じが、とりわけ予測と反射のあいだに生きる格闘家にとってはつかみがたいものになるのである。その気配が立ち姿からして現れており、もうその場にはいないという感覚を呼び起こし、透明にしていたわけである。


長谷川になにかできるとはおもえないが、少なくとも透明化を無効にする方法はある。独歩の前進につきあわないことである。また、攻めることに集中しすぎないことである。格闘家が経験や勘から自然にイメージする「本来独歩がいるべき場所・とるべき姿勢」にとどまらないから独歩は行方不明になる。その「本来」は、じぶんとの関係性において、じぶんという相手を前にした独歩という想定から、これを読み取ろうとする。だったらそれをしなければよい。独歩との関係性を断てばよい。だから、独歩は三島を煽り、攻撃させたのだ。間合いに自覚的な防御タイプなら、勝てないまでも、少なくともこの魔法を無効にすることはできるだろう。ただ、そういうはなしは、究極的にはたたかわなければよいという状況になる。空手なんかやめてしまえば独歩の透明化に惑わされることもないし、敗北することすらない。しかもいまは試合ではなく組手であり、戦略的になることにそこまでの意味はない。もちろん長谷川の空手観、価値観しだいとなるが、最終的には攻めなければならない状況になるのかもしれない。



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第133審/日常の犯罪⑯



市田による烏丸母へのインタビューを終えた九条と烏丸。一時はどうなることかと思われたが、最後にはわかりあうことができた。烏丸母も九条を気に入ったようである。


いっぽう、しばらく描写がなかった曽我部である。出雲の子分である井出におどされているところだ。出雲が奪いたい大麻部屋が空っぽで、どうなっているのか詰められている。泥棒が入った感じになっているので、曽我部や百井的にはおそらくヤクネタの求馬のせいにしてしまいたいところだ。しかし泥棒はおそらく入っていない。なんらかの方法で移動させたのだ。


部屋には監視カメラがあるので、管理している百井に聞けばなにかわかるのでは?と井出がいうのを曽我部が持ち前の、というかほぼ正直な発言とおもうが、「ぼくはなにも知りません」スタイルで乗り切ろうとする。井出としても曽我部は振ってもなにも出てこないという感じかもしれない。殴られて鼻血の出ているところを弾いたりして軽くおどすにとどめ、とりあえず出雲に連絡する。

求馬は伏見組の末端らしいが、構成員かどうかはよくわからない。出雲も知らない。とにかく小物だ。求馬は金本の派手な車を譲り受けて乗り回しているらしいからすぐ見つかるだろうと。そう…。曽我部いじめが大好きなそのふたり、繋がってんのね。

だが井出もまるまる曽我部を信じたわけではない。信じてないっていうか、曽我部なので、当てにならないという感じかもしれない。別の線もあたるという。なんだろうな、のらのことはバレてないとおもうが、買い手など脅して突き上げ捜査的に別ルートからたどるのかもしれない。



求馬は「ウーパールーパー」という名前で売人をしている。公衆トイレの前で買い手の「蟹江腰巾着」と待ち合わせだ。とりあえずトイレのなかへ…と誘い、ももちとナイフで暴行、金だけ奪ってしまう。金ずるの曽我部と連絡がとれないから、こうしてちまちま稼いでいる。が、それは百井に返す金である。へんな関係だよな…


続けて「令和ぽんぽこ」と待ち合わせ。相手は車に乗っている。しかしそれは、伏見組のものなのである。たぶん、何度か登場している鍛冶屋だ。ほかにも何人かいる。スタンガンなどで求馬はあっさり捕まるのだった。


求馬のウーパールーパーのアカウントは曽我部が教えたものらしい。すぐ吐くだろうと井出はいうが、求馬はやっていない。求馬が死んでくれたらいいが、こんなことで殺されるはずもなく、この嘘は急場しのぎでしかないので、曽我部は気が気じゃないだろう。


部屋でのこの様子を、インタビューを終えたあとののらがスマホでみている。あんな感動的なやりとりのあと、細い目になってすごむのら、いいな…。


じっさいに部屋から大麻など動かしたのは、のらの腹心の髭鼠だった。てっきり伏見組に呼び出されたとき百井が手を打ったものと思われたが、もともと不安を感じていたのらが、なんらかの方法で状況を知ったか、あるいはたまたまのタイミングでかで、髭鼠に命じたらしい。


と、のらがなにかに気がつく。カメラ越しに気づいたのかな。曽我部を連れて事務所に戻ろうとする井出、それを、警察が囲む。嵐山である。なぜ麻薬取締官でなく組織犯罪の嵐山が?と井出は訝しむ。

ともかく逮捕。嵐山は曽我部がいることに驚いているので、曽我部が心配したようなルートでの逮捕ではないらしい。


カメラはたしか部屋の外にもあったし、一連の流れを把握しているのかもしれない。のらは即九条に連絡する。ついさっきのヒューマンドラマ的なやりとりもあり、さすがののらもちょっと気まずそう。だが、とにかく曽我部聡太が逮捕された。九条の出番というわけである。




つづく



なるほど、こういう流れで曽我部はふたたび「依頼人」になるわけね。


しかし、こののらから九条の連絡の流れ、大丈夫かな。のらはおそらく、部屋のなかや外をうつしていた監視カメラ越しに事態を知っている。それが九条に知られるのはいいが、どうあれ「九条はどうやって曽我部本人から連絡がある前にその逮捕を知ったのか」というはなしにならないだろうか。


「日常の犯罪」では、曽我部がまた悪いことしてるらしいということで再犯率の高さが話題になり、直近の烏丸母やのらとのやりとりでは被害者を癒すしくみがないことに触れられた。どちらもいわばソースとして薬師前が出張っているのが印象的だが、今回のはなしはぜんたいにそうしたシステムの瑕疵について述べられているようである。「日常の犯罪」を通して読むときの印象では、まずは近頃あらわれはじめた闇バイトが直接の元ネタなんだろうなというふうにみえる。だがそもそも闇バイトがなぜ成立してしまうかというと、社会的困窮とその不可視性、犯罪・福祉両面への知識不足が当然ある。つまり経済と教育両方向にわたる格差だ。そこにSNSの易さが悪い意味で影響する。社会的困窮じたいは、マルクスの時代からいわれている、もはやシステムのともいえないような、人類の瑕疵のようなものかもしれないが、教育格差は新しいともいえるかもしれない。要するに、「それは悪いことだ」という状況への感覚の鈍りである。仕事の細分化とSNSを通じた軽さのせいで、はっきりした自覚のないまま悪事を働いてしまうものもいる。冷静に考えたら悪なんだけど、あまりの手軽さと、見せられている世界のせまさに、感覚が麻痺してしまうのだ。これはたんに教育を受ける機会の不平等というようなことだけが問題になる事態ではないのである。教育のほうでも予期していないような微細な悪が活発になってきているというはなしなのだ。そして、善良な市民もふつうに使っている適法なSNSが、同様のアルゴリズムを使って、それら微細な悪を合体させ、実現してしまうのである。


こうした、わたしたちを豊かに、健全に生活させる「システム」は、しかし常になにかをとりこぼす。おもえばこれは九条の大罪を通じてのテーマでもある。彼と対立する兄の蔵人は、ロゴスのひとだ。彼の世界では、世の出来事はなにもかも法律文書で解釈可能である。しかし、そうした完全性は常にふたしかさを宿すものだ。極端に言えば、蔵人の世界観では、法律が想定していない事態や人物は存在しないことになってしまうのだ。法律、つまりシステム、もっといえば「言葉」を、どんなときも真である第一原理にすえるということは、そういうことなのである。


九条は、そうしたとりこぼしを見逃さない弁護士なのだ。しかし彼は三次元人なので、ひとりしかいない。誰も彼も救えるわけではない。では誰を救うのかというと依頼人であると、こういうはなしである。九条は革命家ではない。現場のひとだ。だからシステムの改善のほうには向かっていかない。なぜなら、彼にはいま目前にいる依頼人、困っているひとのほうが、緊急度が高いからだ。システムが変わらなければ曽我部は曽我部なりの合理性をもっていつまでも犯罪を重ねるだろう。だからこれは、どこまでも対症療法というか、絆創膏を貼るような行為をでないかもしれない。でも、いま曽我部は痛がっている。これが、依頼人が「依頼人である」という状況であり、九条が自認するところの弁護士の役目なのだ。


のらの気持ちの切り替えはちょっとかっこよさすらあるが、娘の存在がのらをのらにしており、そのためにはやく危険な仕事から足を洗ったほうがよいのではというぶぶんと、その娘のために非合法でも稼がなければいけないというぶぶんの、背反する原理が彼女にはあり、いまはそれが解消するかもしれない大事な時期である。なんとか危害が及ばないでほしいと願っていたが、とりあえずは嵐山が介入したので、ヤクザ的危機は去ったとみてよいだろう。ただし、むろんのこと、嵐山は警察であり、のらはこの件の黒幕なのである。いつも通りカンモクパイが通れば、曽我部ではなしはおさまるだろうけど、令状まであり、嵐山もなにかつかんではいるらしい。カンモクパイってたしか証拠がない場合じゃなかったっけ。嵐山はなにをつかんでいるのだろう。









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