第68話/いざ尋常に
もう何回目かわからん、連続勇次郎回記録更新中。単発もいいけどそろそろまとまったはなしも読みたいな…
夜のお散歩、河川敷。勇次郎は別に散歩を堪能してるというふうではない。どこか目的地があるかのようだ。そこへ、約束していたかのようにひとりの男が現れて、立ちふさがる。立ち合うつもりだ。
男は狩場乙(かりば おつ)と名乗る。すごい名前だ。道に入ってきたというより待っていた感じなので、勇次郎がよくここを、この時間歩くことを知っていたのかもしれない。それが遠くにいる勇次郎からも見えたから、勇次郎に散歩のくつろぎが感じられなかったのだ。
狩場は「地上最強の生物」という勇次郎の異名をわざわざじぶんからくちにして笑いをこらえてみせる。勇次郎を煽るとは、久しく見なかったタイプの人類である。つまり、狩場は勇次郎が誰か、なにものかわかったうえで来ているということだ。しかし、ひとは手持ちをものさしを超えるものは計測できないのだし、ふつうはそうしたものに対しては敬意をはらい、計り知れないものがあることを想定する。そうしないと、恥をかくだけならまだいいが、命に危険が及ぶこともある。
狩場がそうしないのはなんらかの事情で確固と完成してしまった自信があるせいだろう。勇次郎は狩場の余裕のみなもとが腰に備えた拳銃であるとあっさり見抜く。においから、オイルが2種類、2丁拳銃だとも。オイルって、整備するときにつかうやつかな。銃じたいが2種類なのか、これだけではよくわからない。ぱっと見同じ銃のようだが、それぞれ別のオイルを使っているということか?
自信満々の狩場もさすがにこれにはたまげる。しかし自信がゆらぐわけではない。会話から間髪入れず左腰の銃を抜くが、いつのまにか目前に迫っていた勇次郎に手首をキャッチされる。
どれだけ実力差があっても、向かってくるものに勇次郎は容赦がない。軽く掴んだ手首を捻って肩を外し、くるくると操作して腕を結んでしまう。骨はバキバキに折れているに違いない。
壮絶な痛みのはずだが、銃を出している以上、この立ち合いが命に関わるものであることを、さすがに理解してはいるのだろう、狩場はすぐに右の銃もぬく。しかしその手を勇次郎の前蹴上げが切り裂く。手首が切断、皮一枚でつながっている。
じっさいには切ったというより切れてしまった感じなのかも。蹴り上げた銃が落ちてきて狩場の頭頂部に激突。それが勝負ありの合図になった。ようやく激痛を感じて丸くなる狩場を置いて、勇次郎が去っていくのだった。
つづく
わりと久しぶりな勇次郎の対人間勝負なのであった。
とはいえ、銃をふたつ持っているくらいであの余裕は、狩場もわかってるようでぜんぜんわかっていないのである。もっとずっとでかくて連射できる銃が無数にある状況で無双してた人物なんだから…。遠くからねらうならまだしも、正面切って決闘の形式でやるのはいくらなんでもむちゃすぎる。だいたい、オリバがショットガンをものともしない例もある、あたまやのどを撃ち抜くのでない限り1発2発弾を受けたところで結局は同じことだろう。
しかし考えてみれば、このような市井のハンターみたいなひとというのは、勇次郎にとってもひまつぶしくらいにはなるのかもしれない。特に日本では、勇次郎を仕留めらるような火器は原則国が所持している。つまり、その使用に際しては国の意図が関わることになる。勇次郎は世界のパワーバランスを保つ存在であり、仮に撃ち殺せば、それはどこかの国が突如消滅することと同レベルの事件を意味するのであり、たいへんな混乱は避けられない。たぶん戦争もはじまる。それがわかるから、勇次郎に果たして通用するのかということとは別に、たとえば彼を狙撃しようとする国は現れないのである。ところが狩場タイプの、勇次郎が好物とする武術家たちに匹敵する火力を持ってしまっている、いわば素人には、そんな外交問題は関係ないのである。いまでも勇次郎がたたかいを求めるなら、彼のようにアウトサイダー的な、国が管理するレベルの火力をうっかり所持してしまっている、そしてそれを向けてくるものは、得難いかもしれない。
冒頭、続く勇次郎回を単発モノとみなしたけど、これらがじつは単線で結ばれるという可能性はないだろうか。
この流れが勇次郎人間化計画であるということじたいはくりかえし書いてきた。タイミング的に狩りというよりおそらく熊退治と思われる行動、イノシシに感謝、老婆を親切心で救い、加納の疑問にしっかり応え、「ノリ」を感じ取って、ランマー相手にたわむれのようなこともしっかりやり、総理のような人物には愛のなんたるかを教える。そこでは、依然として「腕力」が基本になっているとしても、かつて見られたような粗暴さや理不尽はもうない。しかしそれでもこれらが単発であることはまちがいない。なぜこうなるのか。そして狩場の役割はなんだろう。
こういうことの意味が、狩場のアウトサイダー的ありよう、部外者的立場を省りみると、明らかになるかもしれない。要するに勇次郎は、人間として未熟で、ふつうの人間がふつうに生きていたら獲得できている視点というものをもたない。これをつぶしていく作業が勇次郎人間化計画なのである。そして、事実としては、いかに勇次郎が未熟でも、彼の生活はそれじたいで成立しており、たとえば「弱者の気持ちがわからない」のだとしても、問題なく生きていけるのだ。ではどうやってこの最強者は「弱者の気持ちがわからない」を克服できるのだろうか。それが結局、「アウトサイダーを見逃さない」というところにつながるのかもしれない。ふだん見落としている物事を拾おうとしても、ふつうにしていては見えないから見落とすわけである。だから、ある種のほころび、生活のなかの違和感を見つけたら積極的に向かっていく、これが手っ取り早いのである。これは勇次郎の意図でもあるかもしれないし、作品の意図ともいえるかもしれない。だから、騒ぎを聞いて熊を退治し、目前でおばあさんが転びそうになれば率先して助け、知人の疑問には本気で対応し、むかしなら殺していたであろう襲撃者を教育的に再起不能にするのである。
問題を「弱者の気持ちがわからない」のただひとつと仮定して、たとえば「弱者になってみる」という方法もあるだろう。しかしそれはあまり現実的ではないし、効率も悪い。ひとはなぜ争うかという疑問に、戦場に飛び込んでみるのもひとつの行動だし、じっさい勇次郎はそういうタイプだった。しかしそれで得られるものも結局彼の尺度により解釈されるものだ。銃弾をよけることのできる彼に「戦争」を一般にかたることができないのと同様、たとえば貧困、孤独、身体の不自由などに身を置いても、彼が感じることはいわゆる「弱者」のそれとは異なるだろう。鍛えられたからだは多少の貧困をものともせず、孤独はいつものことであり、狩場をポケットに手を入れたまま葬ることができるのだから。
こうした上で、彼の解釈の及ばないものは、ある種のほころびとともに現れるのを待つしかないのである。これは少し読書の感覚に近い。本屋にいき、意外性とともに当初探していたものではない本と出会い、世界が広がるあの感覚だ。この流れが単発になるのは、勇次郎にとっての本屋での出会いのようなアウトサイダー的ほころびを、彼が毎日待っているからなのである。
勇次郎の強さは全知全能的ふるまいをもって表現される。最大トーナメント、襲いくる参加者をそれぞれの流儀で圧倒し、刃牙の胴廻し回転蹴りふうのカウンターには、同じ技のカウンターでこたえ、郭海皇が消力を見せれば、まねたのかもともとできたのか、消力をやってみせる。「おまえにできておれにできないことはない」、これを突きつけ、こころを折るのが勇次郎のやりかただ。だから刃牙は、全知全能が見落とす「未知」を探した。ひとつが師匠、ゴキブリである。さらに上位の存在価値を探す成長衝動の過程で、誰もが目を背けるゴキブリから究極の脱力を見出す柔軟性は、刃牙を最強たらしめるもっとも言及すべき美点である。達人中の達人である武蔵でさえ「師匠」は見抜けなかった。そして、作品外から、作者からのギフトのように送られたのが、『餓狼伝』からの奥義、「虎王」である。バキはかつて加納戦でこの動きをしたことがあったが、そういうはなしではない。ポイントはこれが作品外、つまり全知全能が知り得ないところから来ているということなのだ。
このように、勇次郎には「未知」が効く。だがげんに全知全能に近い彼にとってそうそう「未知」など見つからない。だいたい、探しても見つけられるものではない。かくして彼の未知との遭遇待ちが開始したのである。
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