すっぴんマスター -2ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第68話/いざ尋常に



もう何回目かわからん、連続勇次郎回記録更新中。単発もいいけどそろそろまとまったはなしも読みたいな…



夜のお散歩、河川敷。勇次郎は別に散歩を堪能してるというふうではない。どこか目的地があるかのようだ。そこへ、約束していたかのようにひとりの男が現れて、立ちふさがる。立ち合うつもりだ。


男は狩場乙(かりば おつ)と名乗る。すごい名前だ。道に入ってきたというより待っていた感じなので、勇次郎がよくここを、この時間歩くことを知っていたのかもしれない。それが遠くにいる勇次郎からも見えたから、勇次郎に散歩のくつろぎが感じられなかったのだ。


狩場は「地上最強の生物」という勇次郎の異名をわざわざじぶんからくちにして笑いをこらえてみせる。勇次郎を煽るとは、久しく見なかったタイプの人類である。つまり、狩場は勇次郎が誰か、なにものかわかったうえで来ているということだ。しかし、ひとは手持ちをものさしを超えるものは計測できないのだし、ふつうはそうしたものに対しては敬意をはらい、計り知れないものがあることを想定する。そうしないと、恥をかくだけならまだいいが、命に危険が及ぶこともある。

狩場がそうしないのはなんらかの事情で確固と完成してしまった自信があるせいだろう。勇次郎は狩場の余裕のみなもとが腰に備えた拳銃であるとあっさり見抜く。においから、オイルが2種類、2丁拳銃だとも。オイルって、整備するときにつかうやつかな。銃じたいが2種類なのか、これだけではよくわからない。ぱっと見同じ銃のようだが、それぞれ別のオイルを使っているということか? 


自信満々の狩場もさすがにこれにはたまげる。しかし自信がゆらぐわけではない。会話から間髪入れず左腰の銃を抜くが、いつのまにか目前に迫っていた勇次郎に手首をキャッチされる。

どれだけ実力差があっても、向かってくるものに勇次郎は容赦がない。軽く掴んだ手首を捻って肩を外し、くるくると操作して腕を結んでしまう。骨はバキバキに折れているに違いない。


壮絶な痛みのはずだが、銃を出している以上、この立ち合いが命に関わるものであることを、さすがに理解してはいるのだろう、狩場はすぐに右の銃もぬく。しかしその手を勇次郎の前蹴上げが切り裂く。手首が切断、皮一枚でつながっている。


じっさいには切ったというより切れてしまった感じなのかも。蹴り上げた銃が落ちてきて狩場の頭頂部に激突。それが勝負ありの合図になった。ようやく激痛を感じて丸くなる狩場を置いて、勇次郎が去っていくのだった。




つづく




わりと久しぶりな勇次郎の対人間勝負なのであった。

とはいえ、銃をふたつ持っているくらいであの余裕は、狩場もわかってるようでぜんぜんわかっていないのである。もっとずっとでかくて連射できる銃が無数にある状況で無双してた人物なんだから…。遠くからねらうならまだしも、正面切って決闘の形式でやるのはいくらなんでもむちゃすぎる。だいたい、オリバがショットガンをものともしない例もある、あたまやのどを撃ち抜くのでない限り1発2発弾を受けたところで結局は同じことだろう。


しかし考えてみれば、このような市井のハンターみたいなひとというのは、勇次郎にとってもひまつぶしくらいにはなるのかもしれない。特に日本では、勇次郎を仕留めらるような火器は原則国が所持している。つまり、その使用に際しては国の意図が関わることになる。勇次郎は世界のパワーバランスを保つ存在であり、仮に撃ち殺せば、それはどこかの国が突如消滅することと同レベルの事件を意味するのであり、たいへんな混乱は避けられない。たぶん戦争もはじまる。それがわかるから、勇次郎に果たして通用するのかということとは別に、たとえば彼を狙撃しようとする国は現れないのである。ところが狩場タイプの、勇次郎が好物とする武術家たちに匹敵する火力を持ってしまっている、いわば素人には、そんな外交問題は関係ないのである。いまでも勇次郎がたたかいを求めるなら、彼のようにアウトサイダー的な、国が管理するレベルの火力をうっかり所持してしまっている、そしてそれを向けてくるものは、得難いかもしれない。



冒頭、続く勇次郎回を単発モノとみなしたけど、これらがじつは単線で結ばれるという可能性はないだろうか。

この流れが勇次郎人間化計画であるということじたいはくりかえし書いてきた。タイミング的に狩りというよりおそらく熊退治と思われる行動、イノシシに感謝、老婆を親切心で救い、加納の疑問にしっかり応え、「ノリ」を感じ取って、ランマー相手にたわむれのようなこともしっかりやり、総理のような人物には愛のなんたるかを教える。そこでは、依然として「腕力」が基本になっているとしても、かつて見られたような粗暴さや理不尽はもうない。しかしそれでもこれらが単発であることはまちがいない。なぜこうなるのか。そして狩場の役割はなんだろう。


こういうことの意味が、狩場のアウトサイダー的ありよう、部外者的立場を省りみると、明らかになるかもしれない。要するに勇次郎は、人間として未熟で、ふつうの人間がふつうに生きていたら獲得できている視点というものをもたない。これをつぶしていく作業が勇次郎人間化計画なのである。そして、事実としては、いかに勇次郎が未熟でも、彼の生活はそれじたいで成立しており、たとえば「弱者の気持ちがわからない」のだとしても、問題なく生きていけるのだ。ではどうやってこの最強者は「弱者の気持ちがわからない」を克服できるのだろうか。それが結局、「アウトサイダーを見逃さない」というところにつながるのかもしれない。ふだん見落としている物事を拾おうとしても、ふつうにしていては見えないから見落とすわけである。だから、ある種のほころび、生活のなかの違和感を見つけたら積極的に向かっていく、これが手っ取り早いのである。これは勇次郎の意図でもあるかもしれないし、作品の意図ともいえるかもしれない。だから、騒ぎを聞いて熊を退治し、目前でおばあさんが転びそうになれば率先して助け、知人の疑問には本気で対応し、むかしなら殺していたであろう襲撃者を教育的に再起不能にするのである。


問題を「弱者の気持ちがわからない」のただひとつと仮定して、たとえば「弱者になってみる」という方法もあるだろう。しかしそれはあまり現実的ではないし、効率も悪い。ひとはなぜ争うかという疑問に、戦場に飛び込んでみるのもひとつの行動だし、じっさい勇次郎はそういうタイプだった。しかしそれで得られるものも結局彼の尺度により解釈されるものだ。銃弾をよけることのできる彼に「戦争」を一般にかたることができないのと同様、たとえば貧困、孤独、身体の不自由などに身を置いても、彼が感じることはいわゆる「弱者」のそれとは異なるだろう。鍛えられたからだは多少の貧困をものともせず、孤独はいつものことであり、狩場をポケットに手を入れたまま葬ることができるのだから。

こうした上で、彼の解釈の及ばないものは、ある種のほころびとともに現れるのを待つしかないのである。これは少し読書の感覚に近い。本屋にいき、意外性とともに当初探していたものではない本と出会い、世界が広がるあの感覚だ。この流れが単発になるのは、勇次郎にとっての本屋での出会いのようなアウトサイダー的ほころびを、彼が毎日待っているからなのである。


勇次郎の強さは全知全能的ふるまいをもって表現される。最大トーナメント、襲いくる参加者をそれぞれの流儀で圧倒し、刃牙の胴廻し回転蹴りふうのカウンターには、同じ技のカウンターでこたえ、郭海皇が消力を見せれば、まねたのかもともとできたのか、消力をやってみせる。「おまえにできておれにできないことはない」、これを突きつけ、こころを折るのが勇次郎のやりかただ。だから刃牙は、全知全能が見落とす「未知」を探した。ひとつが師匠、ゴキブリである。さらに上位の存在価値を探す成長衝動の過程で、誰もが目を背けるゴキブリから究極の脱力を見出す柔軟性は、刃牙を最強たらしめるもっとも言及すべき美点である。達人中の達人である武蔵でさえ「師匠」は見抜けなかった。そして、作品外から、作者からのギフトのように送られたのが、『餓狼伝』からの奥義、「虎王」である。バキはかつて加納戦でこの動きをしたことがあったが、そういうはなしではない。ポイントはこれが作品外、つまり全知全能が知り得ないところから来ているということなのだ。

このように、勇次郎には「未知」が効く。だがげんに全知全能に近い彼にとってそうそう「未知」など見つからない。だいたい、探しても見つけられるものではない。かくして彼の未知との遭遇待ちが開始したのである。









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第143審/承認の欲求②




新章2話目、登場人物たちの複雑な名前が次々と明らかになるぞ。


まず、前回から出ている女の子ふたり、仕事辞めたいと言っていた黒っぽい服の子は姫愛羅(てぃあら)で、リボンの、路上で客をとり、ホストに掛けもあった子が、だいぶ名前は出ないのだが、どうやら心愛(ここあ)だ。たぶんそう。違ったら教えてください。

定着していると言ってもよいほど代表的なキラキラネームであり、本名と思われる。調べたら「姫愛羅」はちがう読みも多数あるようだが、ひとまず名前の読みとしては「あり得る」程度のものにはなっていると思われる。


で、その黒っぽいほう、仕事を辞めたいと言っていた姫愛羅はじっさい辞めたらしい。服屋の販売員をやっていた。いまふたりでスマホで見ているのは、ひつじちゃんというひとのプロデュースしたコンカフェの写真だ。てぃあらは従業員募集に申し込んだ。服屋で働いていたくらいだし見た目は申し分なさそうだが、1000人受けて30人ということで、落ちてしまった。

前回、お金を稼がなきゃというはなしはあった。とりあえずパパ活だが、パパ活は本業があったほうが人気あるのだという。そんなの、適当に前にやってた仕事ということにすればいいような…。やったことある仕事なら嘘もバレにくいだろう。そういうはなしではないのかな。

てぃあらはホスト通いなどについては不明だが、占いで詐欺にあっている。1000万預けて毎月5万ずつしか返ってこない。よくわからないが、1000万出せるちからがありながら、なんというか、不安定で不確定な毎日である。

次はてぃあらのパパ活のはなし。村田という、ふたりでよく話題にする60過ぎの男だ。見た目カタギの役職者感のある人物だが、なかなかのものである。かばんのなかみは大金に宗教くさい本、うがい薬。かばんのなかはあたまのなかということだ。村田は女のことしか考えていない。うがい薬は避妊だか性病だかに効くみたいな都市伝説がかつて、そしておそらくいまもあり、それを信じてるっぽい。大金は、いつでも未成年を買えるように持ち歩いている。だからすぐ目をつけられ、美人局にあう。すると、なぜかてぃあらに連絡がくる。金を借りるとかでなく、行為もなく、ただ「怖い」と連絡がくるのだ。村田はいま携帯をロッカーに預けて逃げ隠れしているが、ヤクザが出てくるはなしでもない、キモいだけだとてぃあらが慰める、それで5万くれる、みたいな流れだ。異様な世界だが、てぃあらがそのように村田の状況を相対化しているのは興味深い。てぃあらはそういうことが難なくできるくらいあたまが働くし、経験もあるわけだ。


最後に、ふたりは笠置雫の目撃情報について話し合う。雫が殺した修斗のことも知っていたらしい。雫と面識はなく、行き場がなさそうな彼女を立ちんぼしてるのかなと想像する。ひとを殺しているわけである、怖いといいつつ、かなり近いところにいる雫を、我が身と合わせて心配するような感覚っぽい。


ひとりになったてぃあらは八幡聡明(やわたとしあき)という弁護士にあう。SNSでなにやら高そうな料理の写真に名言みたいのを添えて投稿する、いままでなかったタイプの弁護士だ。

てぃあらは八幡に、どこか高い店でのパーティーに連れて行ってもらったらしい。八幡はてぃあらを人間として下に見る感じをまったく隠さない。SNSの投稿をみても、そのように畜群を想定することで自身の位置高めようとする傾向が感じられる。この部屋はてぃあらの家らしいが、八幡が与えているもので、無料で飼ってるんだからきれいにしてよと、露悪的な感じすらなく、当たり前のことをいうようにモラハラをくりかえす。そうすることで自身の「別格」を確認しているのである。



そこへ誰かから連絡がくる。知人に同期の九条を紹介してほしいという内容だ。八幡も九条は嫌いらしい。すごいな九条先生は。このタイプにも嫌われてるのかよ。



一ノ瀬貴族というREIGNグループのホストだ。太客から売り掛けが回収できなくて店長に殴られ、大切な顔を腫らせてしまっている。この太客というのが、流れからしてリボンの女の子、心愛である。

話し相手は深泥池哲也(みぞろがいけてつや)、「ゴールデンGUY」というスカウトグループの幹部だ。八幡に連絡していたのは深泥池である。

深泥池は貴族の状況を理解しており、ここあのことも知ってるっぽい。合計500万近いここあの借金を肩代わりすると深泥池はいう。かわりに人生を預かる。見た目がよくて依存する、そんな彼女たちは、彼らにはかっこうの売り物なのだった。



つづく



名前がぜんぜん覚えられない。どうしよう…


八幡は深泥池とつながりがあるわけだが、以前弁護したことがあるのか、それとも八幡も九条や山城のようにためらいなく悪人を弁護する人間なのか、そのあたりはわからない。九条について毒づく内容ははやくバッジを飛ばせというもので、九条的なスタンスについてはどちらかというと否定的なように見えるが、こんなタイプだから、金になるならなんでもという山城的ぶぶんもありそう。まだ弁護士としてのスタンスはわからないが、少なくとも九条を能力的に下に見てそうだなという感じはする。


八幡は九条と同期だそうなので、30代半ばか後半くらいかなという感じがするが、そのSNSは一時的に大金を手にした若い成金みたいに露骨である。弁護士であるから学はあり、年もそれなりにいっていてこれをするのは、効果の面で成功体験があるからだろう。もしくは精神面でそれをしないではいられないなにかがあるということだ。


彼がSNSで何をしているかというと、じぶんが選ばれた人間であるということの表現である。すべて食事の写真みたいだが、食べているものとそれを出している店を、高い腕時計のようにじぶんのイメージに着せて、それがいかに特殊な状況であるか示すのである。

ただ、これらはあくまで外部にあるものだ。前回振り返ったように、これは笠置雫の「消費の産物」にも見られたもので、「家」のない世界で何者かであろうとする近代人が意図せず行う、モノを通じた自己のプライシングである。

現代人なら誰しもしていること、言挙げすることでもほんらいはないのかもしれない。しかし、ほとんど無邪気ともいえるてぃあらへのあのような物言いを「ふつう」とするのは抵抗がある。


彼はそこに名言的なひとことまで添える。たんに、たとえば「高そうな腕時計」は、そこに含まれる意味をにおわせるにとどまる。要するに伝わらないひとには伝わらない。そういう状況を許さないから身も蓋もないあのような言葉が添えられるのだ。高そうな食事、高そうな店というモノだけでは伝わらないかもしれないという状況を彼は許さない。ある人物に、腕時計が高いこと、つまり金持ちだということが伝わらないのは、その人物がそこに価値を見出さないからである。八幡はそれを認めない。そこに格差や選民があるということを、すべてのものに認めさせたい。わざわざ言葉が添えられるのはそのためだ。


しかしそれは逆に、彼がそうしたちがう価値観のものの出現を恐れているということでもある。雫らにおける「氾濫するモノ」は、彼女らが「家」をもたないがゆえのことだった。ここで「家」とは、「『存在」をなにか別のものに言い換えなくてもよい場所」である。彼もまた、彼のままでいられる、真にリラックスできる場所をもたないものなのかもしれないが、貧困などの状況を考えれば、構造としては相似でも、雫と同じ状況だとはいえないようにおもえる。となると彼はなにをしているのか?自尊心の保持である。八幡は、自信喪失を恐れているのだ。彼の場合の「家」は、彼のなかにある。もちろん、八幡も人間だし、それがゆえモノで武装するわけだが、雫ほどに他人を求めるというタイプでもない。この武装は彼じしんに向けられたものなのだ。写真の言葉は、価値観を異にする人間の胸ぐらをつかんでわからせるためのものだ。そしてそうした行為を通じ、八幡はじぶんが選ばれしものだということを自己催眠的に確認しているのである。



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第142審/承認の欲求①


新章開始だ!

テーマは承認欲求か…。取り立てて副題にするまでもなく、承認欲求は真鍋昌平作品の主人公たち、特に力と金に依存しない側の者たちの基本テーマなわけだが、どういう内容になっていくだろう。


まず、アイドルの推し活をしているふたりの女性が描かれる。チェキを撮るためにいちにちに万単位のお金をつかう。握手券がCDにつく、とかではなく、どうもチェキそのものについて1枚いくらという売り方をしているらしい。


黒い服の子が9万、リボンの服の子が3万ということで、少ないとかバカじゃんとか言ったりして笑い合っている。額は額だが、悲壮感はなく、人生のモチベーションは人それぞれ、健全な感じさえする。

ふいに、なにやってるんだろうとか、彼女いるのかなとか、こういう活動をしているとあたまをよぎるものだし、だいたいはそれを直視しないよう努めるものだが、彼女たちはそうではない。腸のように並ぶ自分たちを腸活じゃんといったり、ふつうに彼女いるでしょといってみたり、きわめて客観的なのだ。SNS時代に入り、じぶんはなにで、どう見られて、社会的にはどういうポジションで、といったセルフイメージの点景化のようなことは、特に若い世代では日常になっているだろう。そういう客観的評価を常に内面化し、ある種の軽さとニヒリズムが同居しているのである。


黒い服の子はふつうに会社員なのだろうか、仕事辞めたいなどという。ライブの日だけ生きてる感じがする、というのも、なんだか“ふつう”の感想だ。次回遠征は福岡、お金稼がなきゃと言ってふたりは別れる。


たぶんこれはそのリボンの子で、彼女もお金は稼がなければならないが、カタギの会社員ではないのかもしれない。街で男をとり、数万稼ぐ。道にはそうした女の子たちが無数に並んでいる。誰もスマホをみて、客をとる、という積極性はない。ただ、いる。


リボンの子はホスト通いもしており、280万も売り掛けがあって、ホストからは催促の電話がきている。とはいえ、少しでも入れられるだけ入れて欲しいという程度の催促である。まだ優しい感じだ。そこにも悲壮感はない。ただ、ちょっとうんざりしているだけだ。金金いわないアイドルの方がいい。


九条、烏丸、薬師前がお茶中だ。裁判が終わったところである。いい結果だったらしく、ふたりとも饒舌だ。そこへ薬師前が別の話題。3年の刑期を終えて出てきた笠置雫から連絡がないというのである。




つづく



ドラマでも役者の好演もあり印象深かった雫が再登場だ。



彼女たちの語り口は興味深い。じぶんのはなしなのに他人事みたいであり、しかし他人事のようで真剣である。ある種アイドルと考えかたが近いようでもある。

SNSが出現して以降の現代人は、個人差はあれ、誰もこうした考えかたを身につけているだろう。主語があり、その主観から述語が生じるのは変わらないとしても、その経過はオミットされ、述語とその結果だけが、巨大なSNS地図のうえにマッピングされる。そしてそれをソーシャルな感性の及ぶ限りで、差異化して、自分というヴィークルが“なに”であるかをつきとめ、言い当てようとする。入力に対してひとつの解をAIが出力する時代の自己認識法なのである。


こうした極端な客観、相対性のなかの存在ということについてぼくは、しずくを主人公にした「消費の産物」で、「家」のない世界での資本主義的プライシングと考えた。






ここで「家」とは「『存在」をなにか別のものに言い換えなくてもよい場所」ということになる。

なんでもないもの、じぶんがなにものであるかを考えずとも存在が許される唯一の場所を「家」だとしたとき、精神的よりどころである家をもたないものは常になにものかであることを自他両面から強いられる。資本主義社会に生き、好むと好まざるとにかかわらず「モノ」を通じた自己価値の創出に親しむ現代人は、誰しも多かれ少なかれその傾向を抱えているだろう。「消費」を通じ、無数の「モノ」をまとうことで、社会的価値をじしんの存在そのものに読み換えるのである。

だから奪われる。存在価値が、ここでは「家」に基づく愛などの情念が生むものではないからだ。


今回も、たんにしずくが登場するからという以上に、「消費の産物」と地続きであることが感じられる。


推し活の子らのことはまだなにもわからないし、SNSのことなども出てきたわけではないが、おそらく、最初に書いたように、ここに見えるものは過度の客観による主語の空洞化と思われる。世代をさかしらに言い立てなくても、誰にもある経験かもしれない。学校や会社などで、じぶんはどのように見られているか、どういう立場か、やはり個人差はあるだろうが、誰しも思い悩むものだ。ただ現代ではSNSがそれを可視化、そして数量化してしまったというちがいはあるだろう。いいね100よりはいいね150のほうが価値がある。そのような他者からの評価を過剰に意識してしまい、内面化してしまう結果、そもそもその評価が対象とする述語を生み出した主語が空洞化してしまうのである。「モノ」で構成される資本主義的有機物と同じく、存在そのものの生々しさを欠いたまま、虚しささえただの言葉として、評価の行き来のなかに埋没させてしまう、既出の述語パターンの組み換えでしかないのである。



「消費の産物」では、九条はしずくの「家」になろうとしているようだった。モノでかざらなくてもよいし、評価の文脈もない、ただいていい場所、それが「家」だ。しずくはそこにすぐ向かうことをよしとしなかったようである。なにものかであることを望むことじたいはきわめて自然でもある。しずくはこの世界で過剰にならずにやっていけるだろうか。




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第67話/笑ー無(しょーぶ)




ホテルの勇次郎の部屋を訪れる総理大臣らしき女性。ただ、今回も役職や変形された名前などいっさい表示はない。「女性」ということで…


テーブルをはさんで女性は着席している。何用だと問う勇次郎はふんぞり返ってえらそうだが、権力者に対する威嚇的な意味はなさそうだ。えらそうはえらそうだが、それはいつものことで、他意はない、どころか表情などからは問いそのままの不思議そうな感じさえ見える。本気でなにしに来たのかわからなそう。勇次郎が初の女性総理を知らないという可能性ももちろんある。山ごもりしてたしな。ただどことなくこれは、そもそも日本の権力者がわざわざ会いに来るという状況じたいがよくわからないというふうに見える。アメリカ大統領だって、宣誓以外では会いたくないだろう。彼らには危険地帯だ。敵意も感じられず、マジでなにしにきたんだ…?という感じなのかも。



女性も緊張しているが、たぶん決めてあったセリフをくちにする。「わたしたちは理解(わか)り合えると確信します」と。勇次郎は「わかりあう」より「わたしたち」という言い方に引っかかってるようだ。しかしそれだけ、ムクムク筋肉を盛り上げて立ち上がったりはしない。


女性は、大国のトップたちが例外なく勇次郎をおそれていることを語る。しかもその原因が腕力にあることを強調、これを「ステキ」だとする。あなたの感想ですよね。


だが、言い方としては明らかに「女性」から「男性」に向けた「ステキ」だが、これはじつは公人としての発言だった。勇次郎がいるだけでじゅうぶんな核抑止力になる、というはなしである。

勇次郎は、愛国心はないという。


時間をあけて、女性がホテルの用意した車椅子に乗り、SPに押されて出ていく様子が描かれる。めまいがしたそうだが、ほんとうはなにが起きたか?

愛国心はないという勇次郎に、全世界的な博愛主義かと女性はいう。彼女にとって愛は必ず帰属先に向けられるものらしい。黙って立ち上がる勇次郎はいきなり女性にディープキスだ。ふたりとも目開けてて超こええ。なんだこれ。


訴える、とする女性を、わかったからもう帰れと、背中を見せて勇次郎はいう。たぶん腰を抜かしたのだろう、女性はこうして、外のSPに車椅子を用意させたのだった。



つづく



いやはや…

いったいなにを書けば…


勇次郎人間化計画の流れで言うと、これは愛について考えたもの、ととらえることができるかもしれない。できないかもしれないが。


愛国心がないという勇次郎に、では博愛主義なのかと女性はたずねる。彼女は、腕力をベースにしたものとはいえ、大国のリーダーがおそれる存在として勇次郎をあつかい、会談しているので、このやりとりを政治家どうしのもののように考えているのかもしれない。それならこのはなしはわかる。政治家どうしなら、その政治行動の動機はなんなのかという点で、愛国心でないなら博愛、世界平和ということかと。これならわかる。違和感が残るのは、やはり勇次郎は政治家ではないのであり、それが「見てわからないか」ということ、さらに、モデルの戦略に基づいたものか、この「ステキ」は明らかに私人としてのものに見えるということである。この女性は、私人としての感情と公人としての動機を、意図的に混乱させているのである。そうすることで、公的次元で行われる、広く通時的な視野で運ぶ政治を、私的な幻想下に矮小化し、運搬しやすく作り替えるのである。


おそらく、でしかないが、女性は、「いつものように」、勇次郎をとりこもうとした。「わたしたち」という幻想のなかに連帯し、多様性を認める社会では逆行ともいえる「理解し合う」という物語を持ちかけ、女性として「ステキ」とくちにして持ち上げ、生じたであろう男性的高揚感をそのまま公的次元にスライドさせて、核抑止力としてあることを本人に認めさせるのである。ひとつひとつはいかにも俗っぽいものだが、組み立ててみれば壮観ともいえる戦略的コミュニケーションである。それぞれが、誤ってもいるし、時代錯誤でもある。多様性社会では理解し合う必要はない。むしろ逆だ。理解できないものが存在することをまず知ることからそれははじまる。強者、とりわけ男性的腕力への女性的へつらいも、いかにもアナクロニズムだ。だがそれらを組み合わせたコミュニケーション地図は、少なくともこれまでは、それなりに有用だったのだろう。


問題はそれを勇次郎がどう受け止めたかだ。これはもやはり想像でしかないが、「愛国心がない」をそのままにうけとらないことに、彼は、彼女が愛についてなにも知らないというふうに受け取ったのではないか。勇次郎はあたまも切れるので、彼女が政治的文脈で愛を語っていることはわかったはずである。しかし、「ステキ」とくちにし、私的感情と意図的に混乱させるさまをみて、彼女にほんとうの私的感情の居場所がないことに気づいたのではないか。「愛国心がない」が意味するのは「愛国心がない」ということだけであり、他国を愛していたり博愛精神であったりすることを意味しない。この意味で愛はリビドーである。リビドーは電力のようなものだから、こちらに注がれていないならあちらに注がれているという推理が成り立つ。したがって公的動機に見られる「愛」はいっしゅの性欲なのだ。


たほうで、私的な愛は、そのようなものではない。AにふられたからBを好きになる、というふうに感情は働かない。私と公を使い分ける彼女が、ある面それを見失っていると、勇次郎は見破ったのである。キスは、それじたいでなにかを目指したものではないだろう。しかし、たとえば彼女はかつての恋人のことを思い出すかもしれない。勇次郎に欲情してしまうとか、なんならそんなことでもいい。ともかく、公的なリビドー的愛と比較したとき、個人に生じる愛情はもっとリニアで衝動的なのだ。人間・勇次郎はそれを突きつけたのである。










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ちょっと前までは帰宅後に1日1本ペースで映画をみる日々だったが、バイオリズム的なことなのか、なんとはなしに現在はそういう感じが落ち着いており、観たいものはウォッチリストなどに溜まってはいるが2時間確保する体力と根性がない…みたいな状況になっている。すぐ元通りになるとはおもうけど。

ともかく、その、相方と映画をみていたタイミングでゲームをやることが増えているというはなしだ。いまはモンハンストーリーズ2である。






こんなにおもしろいゲームがあるかと、この何週間かプレイしまくりである。


モンハンは3DSで4からやってる。そこから、4G、クロス、ダブルクロス、ライズ、サンブレイクまではやった。プレイ時間的にはダブルクロスがいちばんやったのかな…。4(4G)は、はじめてでもあり、とても難しかった。後半、古龍が登場するあたりからまったく歯が立たなくなり、あいつを倒すためにこの装備が欲しい…となってもそれを作成するために倒さなければならないモンスターが倒せない、みたいになっていたことをよく覚えている。


少年時代からゲームは身近にあり(漫画はダメな家だったがゲームはOKだった。たぶん、よくわからなかったのだろう)、語れることはたくさんあるが、それらはすべて個人的な思い入れにすぎず、技術的にもゲーマーというか、ゲームがうまいタイプの人間ではないので、こういうはなしにもなるわけだが、それでも、ゲームバランスが調整されたのか、たんに上手くなったのか、ダブルクロスはかなりやりこめたようにおもう。


とはいえ、モンハンはぼくには「終わりがこないゲーム」で、必ずクリアできないクエストにぶつかるものである。やりきる、極めるということがないのだ。下手なので。でもおもしろい。もたもたやってるうちに、じゃっかん飽きて他のゲームにハマったり、しばらくしてまた戻ってきて少しすすめてみたり、そうこうするうち新しいシリーズが手に入ったり…という感じだった。ライズ/サンブレイクは、いっかい飽きてやってない期間があったとおもう。


というわけで、古参でもなくべつにうまくもないオフライン一般ハンターをやってきた。そんななかで、いまモンハンストーリーズ3が出てるよね。これが面白そうだったので、switch2もないし、1個前のストーリーズ2をはじめた次第である。


ストーリーズの存在はもちろん知っていた…。しかし、本編のリアルなモンスター造形に慣れているものとしては、アニメっぽい絵に抵抗があった。それにナビルーという、へんなアイルーのデザインである…。しかしはじめてみればモンスターの造形はゲームの世界観にふさわしい、なんということのないもので、ナビルーもすぐに大好きになってしまった。

そして、やっぱり決定的だったのは、「モンスターと仲良くできる」ということだ。これが、ぼくのいちばんやりたかったことなのだと、ストーリーズをやってみてはじめて自覚した。ライズで「操竜」というシステムが導入され、一時的にモンスターに乗れるようにはなっていた。また好きなキャラクターを「盟友」として連れて行けるというのもよかった。だが、だったら「盟竜」がいいな…と思っていたのである。いいなもなにもない、それがストーリーズという作品だったのだ。ただ、ストーリーズはアクションではなくRPGで、戦闘はコマンド入力である。だからたぶん最初から除外していたのだろう。まさかにこんなにおもしろいとは。


しかし、これがこのゲーム単独の価値なのかというと、それはちがうのだろう。モンスターと仲良くできるというこの感動、おもしろさは、モンハン本編をしっかりやりこんで、モンスターをたくさん知っていればこそのものだ。本編では強くてしかたないバゼルギウスやラージャンやイヴェルカーナにライダーとして乗れる、いっしょにたたかえる、その価値がわかるのは、ハンターだけなのである。だから物語のなかにもライダーとハンターの葛藤が描かれるのだし、カイルはツンデレなのである。


おもしろかったのはナビルーのあの顔のデザインが、劇中でもへんな、変わったものとして扱われていることだ…。ナビルーは1にも3にも登場するらしいが…何者なんだろうな。ちっこいのにめっちゃえらそうにしてて、元気いっぱいでポジティブで、ちょこちょこついてきてすげーかわいい。あとメラルー商会っていう、なんにつかうんだか、ビンの王冠集めてる闇商人ふうのクロネコも超かわいい。無意味に会いに行っちゃう。



とりあえずストーリーはクリア、上位に入り、現在竜の拠り地9層に入ったところ。オトモンのレギュラーはテオ・テスカトル、燼滅刃ディノバルド、イヴェルカーナ、ジンオウガ亜種、ティガレックス、キリン。キリンは入ったばっかりで連れ回してレベル上げ中。ティガレックスがいちばん長いかな。スピードのオトモンで強いのがなかなかいなかったのと、連れ回して伝承しまくってるうちにすごい強くなっちゃった感じだ。そう、このゲームは、序盤に出てくるようなアオアシラとかドス系とかも、しっかり育てればちゃんと強くなるというのがすばらしい。というか、書くのがいまになってしまったが、このゲームのもっとも評価すべき点ではないかとおもう。げんに相方は、クルルヤックが好きなので、同じくらいの進行度だがまだふつうに最前線に超強いクルルヤックがいて、岩で身を守っているのである。


モンスターは、モンスターの巣に入り、卵で手に入る。このゲームがあまりにおもしろいので、職場のモンハンやるひとにすすめたらすぐ始めたのだが、この卵運搬中モンスターにエンカウントしたら卵を落とすのではと心配していて笑った。本編はそうだもんな。


で、この卵を持ち帰ると、街にある厩舎で孵化できるのだが、この孵化のときだけ、モンスターが赤ちゃん状態なのである。いうまでもなく、これがハンパではない。ハンパなかわいさの破壊力ではない。ラギアクルスとか、ディノバルドとか、マジでやばい。もともとゴツゴツ系でコワモテほどギャップがすごい。モンスターが好きでモンハンをやっているというひとは、絶対にやったほうがいい。絶対にベビーを見たほうがいい。絶対にだ。









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