すっぴんマスター -2ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第140審/三つの裁判⑥




服役中ののらを、彼女の娘・梨沙のかわいらしい手紙を携えて亀岡が訪れている。烏丸もいる。亀岡と烏丸のみの組み合わせっていままであったっけ?なにか新鮮な感じがある。

梨沙の手紙はたくさんある。これは…たまらないなあ。なによりも罪を悔いる罰なんじゃないかな。

お手紙にはとにかく会いたい気持ちがあふれている。薬師前が親戚に連絡をとって預かってもらってるみたいなはなしだったけど、どう説明してるのかなあ。


唐突に烏丸がのらの好きな食べ物をたずねる。市田を経由したインタビューで和解したのらを、烏丸の母は待っている。好きな食べ物を作っておく、要するに出所したら食べるから練習しておくということだ。のらはウイダーとこたえている。ウイダーって、プロテインのあれかな。伝えとくと烏丸は言っているが…



のらは、梨沙に会えるまで、18歳になるまで毎日手紙を書くと泣きながらいう。成人式でじぶんの振袖を着てくれるか心配しているが、亀岡はきっと喜ぶという。



いつもの屋上で九条、烏丸、亀岡、薬師前、ブラックサンダーが燻製パーティー。梨沙はいま6歳なので、のらが社会復帰するころには18か19になっている。のらは娘の成長を見ることができないのだ。娘と離れている九条にもそのつらさはよくわかる。お金では買えない大切なものを失い、外からの時間から隔絶されて、置いてけぼりの感覚だけが募っていく。それが刑務所暮らしだ。ここでは曽我部も想起されている。


九条が燻製の様子をみているあいだ、薬師前が亀岡になぜ今回の件で文句をいわないのかと尋ねる。法律の前で裏切られるのは当たり前のことだから、と亀岡はこたえる。九条は曽我部の利益の最大化を果たし、のらは伏見組から逃れるためそれを受け入れた。弁護士の複雑な判断の結果なのである。



久々の中川さんと娘のあいだでは曽我部が話題になっている。のらと同じタイミングで、曽我部がキャラ弁を作ったことがあるのだ。中川さんの娘も気に入ったらしく、曽我部は弁当屋になればいいのにと言っている。そうなればいいよね。出所したら聞かせてあげて。



独房、手を洗いながら、のらは梨沙のことを思い出している。ふわふわの髪、もちもちのほっぺ。それに触れたくておかしくなりそうになっているのだった。



つづく



触れたいものに触れられないこと、それがおそらく、基本的な自由を奪われた受刑者のいちばんの苦痛なのだろう。

刑法による刑罰の正当化は目的刑論と応報刑論の2通りの考えかたが存在し、さらに目的刑論は一般予防・特別予防と言った考えを内包し、また分岐する。要するに、どういう根拠で国が国民の自由を制約し、場合によっては命を奪うのかということだ。ここでこの論点に立ち止まることはしないが、今回ののらの描写は、おそらく真鍋先生が取材を通じて「なにがいちばんキツイか」を聴き取ったものではないかと思われる。自由の制限といっても、ピクリとも動けない拘束衣を着せられて五感を遮断されるというような状況ではないわけである。仮に家族が面会に来てくれなくても、九条のような弁護士は様子を見に来てくれるだろうし、そうすれば会話ができる。本の差し入れなんかもある。問題なのは、自由の「制限」ということなのだ。面会は、24時間いつでめよいわけではないし、本も、通常、内容など確認された上で渡されるだろう。この世に本が100冊しかないとして、「どれを読んでもよい」が真の自由だとしたとき、「このうち、この20冊は読んでいい」となるのが「制限」ということなのである。

ただ、これは、強い意志や、ある種の鈍感さを持ってすれば、乗り越えられるかもしれない。というのは、外にいるわたしたちには、本というものがその「100冊」だけではないことを知っている。だとするなら、わたしたちが「わたしたち」という自由のもとに読むこの世のすべての本以外にも、本は存在する可能性がある。これはSF的なはなしではなく、考えかたの模型だ。読むことのできるその20冊を全宇宙だと信じ込むことができれば、そこに体感的な自由の制約はない。魯迅が「鉄の部屋」と呼び、映画『マトリックス』が描いた蒙昧の檻に、一時的なことだと信じ込みみずからの世界を縮小してしまえば、そこにはもう自由の制約はない。くりかえすように、国がそれをすることの根拠、意味や価値は、議論の必要なことだろうが、受刑者がそれをどう乗り越えるかという現実問題に限っていえば、できるかどうかは別として、そのようなことが理論的には可能だろう。


ただそうした「制限」に属さない苦痛が存在し、それがのらのいう「触れる」ということなのである。量的縮小としての「制限」なら、意志の強さや鈍感さ、また慣れによって乗り切ることができるかもしれない。この本がだめでもあの本がある。しかし梨沙の頬に触れることをほかのなにかに代替することはできない。これは、たんに五感のうち特に触覚について、拘禁という刑罰が物理的拘束を意味するものである以上、痛みが強くなるということでもあるが、加えて相手の交換不可能性ということがある。九条がいう、失ってしまうお金で買えないものとは、このような「他で替えがきかないもの」のことなのだ。たとえば、時間である。また、特定のひとからの、曽我部では父からの信頼である。そして、この世にひとりしかいない梨沙という娘の頬なのである。刑罰は、こうしたものについての、解釈による乗り越えを許さないのだ。そのひとにとって特別な意味をもつものからの隔絶、それが、刑罰による自由の制約ということの正体なのである。


そのひとにとって特別なものとは、もちろんそのひと自身を構成するものでもある。とすれば、ここにおける「罰」とは、そのひとがそのひとであることから遠ざかるということでもある。これが刑法の予定するところであるのかは不明だ。だが、出所すればのらはまたのらとして生きていかなければならない。「悪いのら」であることから遠ざかるという意味ではこれも意味があるだろうが、刑法はそれら「特別なもの」をなんらかの価値判断のもとに区分したりはしない。のらは、大麻から離れることにはなるが、梨沙からも離れることになる。ここでのらがすがることができるのは薄らいでいく記憶だけだ。だから娘からの、また彼女じしんからの手紙が重要なのだ。のらがのらであることを忘れずにいることだけが、出所後に彼女が彼女に戻っていくときのたよりとなるのである。









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第139審/三つの裁判⑤




九条の指示で曽我部がすべてをしゃべり、のらの13年の刑が決まったところだ。


ちなみに、懲役という名称は2025年6月1日に廃止され、禁錮とあわせて「拘禁刑」に一本化された。罰として作業を行わせるのではない「改善更生」が主眼となっている。ただ、それ以前に行われた行為については引き続き懲役という名称は使われるとのこと。







帰り道で亀岡を連れた薬師前につかまり、九条が詰められる。やはり亀岡はなにも聞いておらず、当初確認したように曽我部はカンモクするという認識でいたらしい。のらは12年も娘に会えないのだよと。12年って、未決勾留期間を差し引いただいたいの年月ということだろうか。


九条は、曽我部の利益の最大化を考えただけだという、いつもの態度である。それにしても13年はキツイだろう。亀岡は控訴するつもりだ。

亀岡の反応は常識的におもえるが、九条はそこで、のらに伝えてほしいとひとことだけはさむ。「百井が行方不明になった。二度と現れない」と。



のらは当然、曽我部、九条に腹を立てている。亀岡は控訴しようというが、あわせて九条に言われたことも伝える。すぐに意味を理解したのらは、だらだら冷や汗をかきながら、刑を受け入れるという。中のほうが安全だから。


九条、烏丸、薬師前が、本と服を持って曽我部を訪れる。そして薬師前は曽我部父にも会ってきたという。身体を心配していたと。前に捕まったとき、出所したらいっしょに暮らそうみたいなはなしがあったが、ぼくは忘れていた(ドラマで思い出した)。今回の件では最初から父の気配などまったくなかったが、いちおう試してはみたらしい。気を使うのは最初だけ、すぐに嫌なところが目につきだして喧嘩になる。

烏丸は、そんな曽我部を笑ってしまうほどボロクソにいう。仕事も続かない、約束も守れない、楽な金に逃げる…家族にとっては時限爆弾だと。でも、そんな曽我部を父はまだ受け入れるつもりだ。

曽我部は、父も善人ではないと、なんだかよくわからない反論をする。牛丼屋の紅生姜や公衆トイレのトイレットペーパーをたくさん持って帰ったりしてるから。窃盗でしょ?という曽我部に、九条がなぜかでかいコマで違いは法的な位置付けだと応えている。


薬師前が、のらは12年も入るのだから反省しろというと、曽我部は、かつて九条に言われたことをもういちど九条に言ってもらう。「法律は人の権利は守る。だが人の命までは守れない」と。なぜいまこれを想起したのか、曽我部もどこかで事態を理解しているのかもしれない。九条は、百井が伏見組に殺された件を曽我部にも話す。のらは、娘と二度と会えなくなるより長期刑を選んだのだ。


刑務作業中、曽我部は死んだ金本や百井のことを考え、次はじぶんかとおびえて嘔吐する。これに懲りて反省してくれればよいと九条らは願うのだった。





つづく



コメントでも指摘があったが、九条はのらの命を守るため、こうした行動に出たようだ。

ドラマを観ていて思い出しもしたのだが、九条は金本対策で曽我部のときにも同じことをしていたのである。






今回曽我部が九条にいわせていた「法律は人の権利は守る〜」はこのときのものだ。

これを、曽我部は九条にいわせた。あのとき言われたアレ、なんだっけな、なんかあのときのアレと状況が似てる気がするなと、たぶんそんなことを考えて、くちにした。つまり曽我部は、詳細を聞かずとも「そういうこと」なんだろうと直観していたのである。


何をもって曽我部がそのような直観に至ったかというと、九条のふるまいしかない。「依頼人の利益の最大化」を図ったという視点で言えば、特にいままさに捕まっている曽我部からすれば、直観をはさむ余地などない。なんかへんだなと感じるきっかけがなければならないのだ。それが、突然の指示変更と、限られた情報しか得られないとはいえなんかへんだなと曽我部が感じるほどの不自然さである。


このことは事前に亀岡に共有されることはなかった。烏丸は微妙だが、薬師前も同様である。のらの反応を踏まえたうえで亀岡が苦々しく思いつつも黙らざるを得ないという風情であることからしても、これは話しておいてもよかったことのようにおもえる。しかしそうならなかった。九条は、亀岡にも、曽我部にも、のらにも話すことなく、これを実行したなぜか。それは、この判断が法的文脈の外側にあるものだからである。一般論的に言って、法は秩序維持と人権保護のために機能する。しかし秩序など知ったことではないというものもいる。彼らは、じしんもまた保護されない自然状態に身を置くことを代償に悪事を働くのである。


ほんらい、彼ら悪人は、法の外にあるものではない。アウトローは、文字通り法が成立していなければ存在することができない。禁酒法時代のアル・カポネのように、それをみずから選び取ることで利益を得るものもあるだろうが、彼らの目的、動機に関わらず、法治国家で彼らは「法令遵守」の否定を行う者である。つまり、原理的に言って、「法的文脈で語れないこと」などというものは存在しない。これは、正義や道徳といった、法律と同程度に包括的な原理全般についていえることだ。もしこの世に正義しか原理がなければ、いわゆる悪というものも単独で、自己同一性をもって存在することはできない。ただ「正義に反する」ものが異端として出現するだけだ。


しかしそれは後からやってきたものの植民者的な詭弁である。それを言ってみたところでどうなるのかということだ。法律や正義といった原理は、「みんな」が守ることではじめて有効になる。それを、機能を理解しながら守らないものは、不法者としての自己認識にあるものなのだから、こういうものは「無敵」なのである。

ただ、だからといって正義や道徳をあきらめることもない。その上でいかに道徳が成り立つかは、古今東西、ありとあらゆる物語を通じて描かれてきた。ここで問題になるのはそういうはなしではない。これはおそらく、九条の問題なのである。法的手続きを遵守することをどのような場合も是とする彼の、一貫性にかかわることだからなのである。むろん、亀岡や薬師前に事前に知らせて困惑させたくない、みたいなこともあるだろう。だがもっとも重要な点はそこにはない。彼が悪人も弁護するのは、弁護士や法律といったものの機能それじたいの価値を守るためだ。その意味で彼も烏丸や蔵人と同じくロゴスの住人でもある。書いてあることを守る。それが彼らの任務なのだ。


だが、これはやがていびつに分岐する。書いてあることをひたすら守る蔵人は、書いていないものを無視することができる。見えないものを存在しないと断定することができる。これに対して九条は、「あなたには見えないものが自分には見える」とする(大意)。これが、『星の王子さま』の「大切なものは目に見えない」に通じるというはなしはくりかえししてきた。また、悪人を捨て去る、蔵人に限らない一般的な目線は、「手続きを守る」はずのロゴス的立場から逸脱している。なぜそうなるのかというと、たとえば蔵人には、最初から正義概念があるのであり、山城などにおいては払いの多寡というものさしが混ざり込んでいるからである。ふしぎなはなしだ。徹底的な法的思考をするものは皆ロゴス的になり、事物をあまねく言葉の網が覆う世界観に住むことになる。しかし、彼らはその投網をする以前の原始的価値観を捨てず、網目の特定部分を無意識に黒塗りしてしまっているのである。


九条は、「法律」という網を「世界」という大地に投げ、言語・ロゴスという網目で世界を細かく分類した際に、いちど大地をすっかり漂白した、もしくはそうであった場合の状態になるよう努めている。これが彼にあの、傍目には異様でもある強靭な、あるいはかたくなな一貫性をもたらす。だが、法の外に、法を意に介さないものがおり、これをコントロールできないことは理解している。ここで、おそらく逆流が起こるのだ。彼は、その一貫性により、依頼人をどんな場合も守ろうとする。このときはじめて法の外が視界に入るのである。彼の動機はどこまでも「依頼人の利益の最大化」である。のらは依頼人ではないが、依頼そのものは行われたし、人となりもよく知っており、曽我部の案件が深いかかわりをもつ人物だ。こうして彼は、法の外側にいる脅威を「発見」し、コントロール可能な法の内側でできることをするのである。


以上が九条の内側で瞬間的に起こったことだ。そして、これを他人にあらかじめ語ることはできない。なぜなら、法律や正義などの、いってみれば大味な原則の内側で、それ以外の原則をわずかでも含めてくだした判断は、一貫性に悖るからである。これは、ある種の偶然から、誰の法的意識も経由せず実現しなければならなかったのである。










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第62話/スイートルーム




勇次郎回、衝撃の4回目である…!

ここまでくると明らかに意図がある。これはいままでもよく見られた、読点のような意味なし回ではないのである。これは『刃牙らへん』として、刃牙周辺キャラとしての勇次郎の日常を描くものなのだ。


今回は勇次郎のトレーニング描写。いつもの0000号室でパンツ一丁で自重トレだ。しかし…マットとかタオルとか敷かないのか…。カーペットにじかに汗が垂れてくさくなりそう。


なにをしているかというと、まずは両の親指のみで体重を保持してからだを屈曲、つま先を真上まであげている。この体勢で足を水平にしたものがLシット、斜めまで持ち上げたものがVシットであるから、Iシットとでも呼ぶべきかな。それも親指のみ使ってのことだ。

Vシットの時点で相当の腹筋が要求されるわけで、柔軟性含めてすさまじい体勢ではあるが、できるひとは体操界隈なら現実でもいそうという感じはする。勇次郎はあの巨体だし、親指との合わせ技となるとなかなか厳しいが、なんというか、現実感覚の延長で捕捉できる動きなので、すごいはすごいが、勇次郎だしな、というところだ。刃牙もよくやってる。

ただ、刃牙もだけど、彼らはこの手の自重トレを筋トレではなく練りの一種としてやっているふしがある。親指でIシットじたいはなんでもない。そこから動くこともできる。だがポイントはそこにはなく、彼らならもちろんそのくらいの筋力はある。そこから、身体のコンパウンドな働きを感じながら微調整を重ねていく。宿禰の四股みたいなもので、自己との対話という意味合いが強いようにおもえる。


じっさい、勇次郎はここから徐々に腹筋をほどいていき、ゆっくりとハンドスタンドへ移行していく。この汗の量なので、そうとうの時間、親指だけを接地させて浮いているのだろうと思われる。

美しい倒立のあと、再び腹筋を収縮させ、足を前に戻す。先ほどは、足を開いてあいだから顔を出すほど高くあげていたが、今度は閉じたまま、Vシットに近い位置だ。しかし腕は右をはずし、左の親指のみである。さすがにこれはできるひといないだろう…

そして、腕ではなく指で跳ね上がり、今度は右の親指で、片手ハンドスタンドの状態で着地。緩急つけてすさまじい自重トレをしめくくるのだった。


そのあと、呼びつけたのか時間通りなのか、アンガス牛3キロと赤ワインが運ばれる。トレーニングするものにとってこのタイミングのお肉は回復に向けたものだが、勇次郎はじっくり味わい、堪能している。うまそう。


前から担当しているひとと同じかな、野村だっけ、彼が、勇次郎の変わらぬ健啖ぶりをたたえる。親子喧嘩前に刃牙に聞かれたときも「健啖」という語を使っていたな。ぼくはこのひとが使うのを読んで「健啖」という語が記憶に定着したよ。まあ、丁寧な言葉しか使えない状況で、そうとしか言えないんだろうな。


ただ、まだコメントがある。解釈が追いつかないと。勇次郎が椅子をふたつ使った例の開脚をしたまま最後のワインを飲んでいるのである。トレーニングなのかストレッチなのか、ずっとそうしていたらしい。


彼にはわりと気を許している勇次郎は、彼の評価、解釈が追いつかないという言葉を受け、百も承知、個室でしかやらないとご機嫌にいうのだった。




つづく



わざわざ指摘するということは、勇次郎の奇行に慣れている彼も初めて見たということだろうか。

それか、いつも聞きたかったのを、今日はご機嫌っぽいから言ってみたとかそんなことかも。


いちおう、今回も勇次郎の社会性が描かれていた。奇抜な行動もひとめを気にして行うという、わりと重大な発言である。


しかも、勇次郎は野村?に「解釈が追いつかない」としか言われていない。要するに、わからないとしか言われていない。もちろんこの言葉にはその奇妙さを指摘する意味合いが内側に含まれてはいる。だからこそ勇次郎は、「百も承知」というのである。奇妙にみえるのはわかっている、だから人前ではやらないよと、こういうことなのだから。こんなふうな、AIには理解が難しいタイプのやりとりじたいもまた新鮮である。人目を気にするのも、もっといえば「人目を気にしているそぶりをする」のも、会話相手の意を汲むのも、強さとはわがままを押し通すことである世界の王者には似つかわしくないわけである。


くりかえし見てきたように、勇次郎がこうなれたのは親子喧嘩が大きい。絶対であることから解放され、喧嘩中にも経験した「観戦され受け入れられる自己」を通じて街を歩く際サングラスまでするようになった彼は、もう以前までの暴力魔人ではない。絶対であるために常に相手にメスであってもらわなければならない宿業から、勇次郎は解き放たれた。

しかし、とはいえ、科学的事実としてホルモン問題は残る。また、刃牙みたいに弱くてもいいとなったわけではない。こういうところに初めて葛藤が生じつつあるのが現在なのかもしれない。


また、今回のようなホテルでのふるまいは、喧嘩の前からあったものでもある。だが、原理的に言って、あれらの行為は、「普通」に対するある種の憧れがもたらした模倣に過ぎなかったはずである。ホテルで食事といえばジャケット着用が当たり前だと、拳法着のうえにそれを羽織って刃牙をしかる彼が帯びていたなんとも言えない滑稽さはこれが模倣であることによったものだ。彼はその価値を理解はしても、真に意味をわかっていたのではない。動物が人語を理解しているとしかおもえない動きをすることがあるのと近いかもしれない。敗北を知らず、強くあることしか知らず、そして強さを示すには他者を蹂躙するしかなかった人生で、彼には「他者」がいなかった。他者とは、思い通りにならないもののことだからである。もしそんなものがあるなら、彼はそれを倒さなければならない。存在理由レベルで他者を認められなかった、それをすると彼ではなくなってしまったのが、範馬勇次郎だったのである。


いうまでもなく、マナーとか、人目とか、皮肉やら解釈やら会話の機微やら、そういうことは、比較不能な価値観のもとに生きる無数の人間からなる関係性の網目を調整する、人類が備え、また身につけ、構築する機能である。そんなものは最強者には必要ない。しかし、彼は孤独だった。「俺以外のすべて」がコミットする、彼には不要なそうしたもろもろに、彼は憧れていたはずである。それが、喧嘩以前から彼に古臭くすらあるマナーを身につけさせたのだ。


そしていま、刃牙のおかげで彼は最強であることからわずかに解放され、他者を獲得しつつある。つまり、いままでは模倣にすぎなかった社会的ふるまいの意味を、理解しつつある。今回のようなやりとりも、事実勇次郎は楽しいのではないだろうか。だから勇次郎はうきうきで、「人目を気にする自分」を表現するのである。











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第138審/三つの裁判④




九条が曽我部に洗いざらい話すよう指示しているところだ。

当初はセオリー通りカンモクパイ路線だったが、百井の件を経た出雲と通じる宇治、そして壬生からの連絡で、方向性を変えたのである。それはのらを裏切るということであって、曽我部も戸惑っている。


のらを担当する亀岡は、やはりのらにカンモクを指示している。証拠がないからしゃべる利点がないし、証言可能な曽我部は沈黙するということを九条から聞いているからだ。亀岡はのらに娘のはなしをして励ましている。


のらを取り調べる嵐山は、曽我部はもうしゃべったから黙る意味はないとくりかえす。これはおそらくほんとうなわけだが、曽我部がしゃべる以前からこう言っていたわけだからあまり信用できない。亀岡に言われた通りのらは黙秘を続ける。嵐山は、曽我部のようなやつが裏切らないわけないだろと、わずかにではあるが以前からは変化を加え、ほんとうのはなしであることを伝えようとしているようでもあるが、まあ、もうどっちでもよいのだろう。あとで話したかったは通らないからなと念を押す。


しばらくして事件がニュースになっている。のらが主犯格として逮捕されたというところまで報じており、おそらく百井らのように各農場を預かっていたのであろう男たちも捕まって顔写真が公開されている。まだ逮捕としかいわれておらず起訴ではたい、だからこれがなにを意味するのかわからないが、曽我部がしゃべったとみてよいだろうか。

だがすぐ九条と烏丸の会話で明らかになる。自分たちが担当する曽我部も起訴されたが、自白した末端であり、軽く済む、のらはそうはいかないだろうと。曽我部も、なのであるから、このニュースはのらの起訴を意味する、つまり曽我部の証言を証拠として検察も動くということなのだろう。


そして裁判。九条や烏丸もいる。のらが、起訴内容に誤りはないか尋ねられている。のらは、亀岡に任せると。亀岡は、栽培も共謀もない、無罪を主張。そこで、バッジが光る検察官が曽我部を証人として呼ぶ。描写のなかで、曽我部にはありのままを話せばよいとアドバイスしたという、外にいる九条と烏丸が差し込まれている。


亀岡は、曽我部が何をいうか理解しているのか、よくわからない。起訴に至っているわけだからなにか証拠が出てしまったか、あるいは曽我部が証言することになったかと考えそうだが、彼女はたんにしかるべく対応するとしかいわない。


曽我部は曽我部らしく落ち着かない。指示していたのは誰かと問われ、いともあっさり、のらですと応える。


そしてさらに別の日、おそらくこれはのらの判決と思われるが、彼女は懲役13年、罰金600万を言い渡されるのだった。




つづく



懲役または罰金ではないのかと思って調べたら、大麻取締法では併科と言って両方が課せられることがあるらしい。重いな…





しかし見たところ、「及び」はあるが、懲役じたいが13年にもなるような罰則はない。大麻取締法違反だけではない、併合罪の1.5倍のアレかな。


時系列は、見たまま受け取ってよいだろうか。いちおう、日付が改まっていると思われる場面では裁判所の表札のコマが挿入されている。見たままなら、九条が亀岡には内緒で曽我部にすべて話すよういい、たぶん曽我部は話し、ニュースが出て、最初の裁判でのらは無罪を主張、間が空いて、曽我部が証言、ということと思われる。

気になるのは曽我部の証言を受けてのらがたまげていることだ。亀岡の表情は微妙である。ニュースが出た時点で、また起訴されている時点で、曽我部が白状した可能性はかなりあった。だから亀岡はもしかしたらどこかの段階で九条が裏切ったことに気づいたはずである。もう手遅れだからのらには黙っていたということだろうか。


亀岡がなにを考えているのか、どこまでわかっているのかは次回以降待たないといけない。そもそもが、なぜ九条が曽我部に自白をすすめたのかも不明だ。大麻や栽培用具などがまったく出てきていないので、うまくすればカンモクパイになれたところ、九条は壬生からの知らせを通じてなんらかの動きを予期したかあるいはもっとよい戦略を思いついたかして、指示を変えたのである。

囚人のジレンマ的な調整問題状況でいえば、最初の時点では両者が互いに黙ったままでいればパレート最適状態になれた。そううまくいくとも思えないが、要するに両者がもっともダメージのない状態でいられた。囚人のジレンマのモデルでは、相手がどうするかわからないぶん、黙っていることにはリスクがあるため、互いに合理的な判断をするとどちらも自白することになり、これをナッシュ均衡というが、この場合、九条と亀岡が通じ合っていたぶん、そして亀岡が九条を信用していたぶん、均衡が崩れ、曽我部の総取りとなったわけである。この「信用」も一方的なもので、おそらく九条は亀岡に指示変更について話していないし、だからこそこのような状況になった。亀岡も、たんに知り合いとしてではなく、弁護士としての判断を確認するかたちで九条にはなしをしており、なんらかの情報、もしくは判断にかたよりがある状況と考えられる。たんに状況の動きによって、たとえば証拠が見つかりそうだとか、なんらかの予想から自白したほうがよさそうだと判断したのなら、九条は亀岡に話していた可能性が高い。同じ理路で最初はカンモクの予定を伝えているからである。しかしそうしなかった。もしくは、伝えていたとしても亀岡にはどうしようもなかった。要するに、これは総取りをすることそれじたいに意味がある指示変更なのだ。


直前まであった烏丸母とのやりとりを考えると、九条がのらに罪を償い足を洗ってもらいたいと考えていた可能性はある。しかし傍聴中のあの、コピー用紙みたいに空白で平板な九条の表情を見る限り、これはたまに出現する弁護マシン状態のようにもみえる。ただただ、彼の依頼人である曽我部にもっとも有利な方向を選んだだけなのかもしれないのだ。亀岡との関係が損なわれてもよい。亀岡は依頼人ではないから。じっさい、彼がどんな仕事も、どんな人物も受け容れるのは、それが「依頼人」である限りにおいてである。逆に、それが徹底していなければ、不用意にトラブルに巻き込まれかねないということもあるだろう。壬生からの情報のなにがこのようにさせているか不明だ。しかしおもえば彼にとっての、あるかないかの道徳律みたいなものは、以前から「依頼人であるかどうか」だったのである。まれに、笠置雫のように、目をかけることもあるが、そうした感情にしたがうふるまいはトラブルを招く可能性が常にあるのであり、最悪かんじんの依頼に影響することもあるのである。


ただ、のらと比べて亀岡の表情が微妙であるのは気にかかる。亀岡も優秀だろうから、九条の隠された意図に気づいているのかもしれない。




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第61話/猪追



驚愕の勇次郎スゲー回、3回目である…!

3回はいままでなかったようにおもう。スゲーな。


体長2.3メートル、310キロ、えーとこれは、イノシシ?イノシシでいいのかな。それが山のなか進んでいる。とても空腹なようで、複数の一文字の漢字が入り乱れるたまに見られる表現で、イノシシの現在のあたまのなかが描かれている。ほぼ食べること、わずかに牝のことという感じだ。


そこに、前方からひとがやってくる。イノシシはまずそれを敵として認識したようだ。これくらいでかいと年も相当とっているから、いろいろ経験があるのだろう。

それでまあ、その人物が勇次郎だというはなしだ。


前回同様勇次郎のからだは汚れている。熊退治でしばらく山にこもっていたものと思われるが、もちろん、じしんの欲求を満たす目的もある。こんなでかいイノシシを勇次郎がほうっておくわけがないのだった。


相手が何者なのかを理解するなりイノシシは猪突急旋回、勇次郎すれすれで江戸走りのひとみたいにあざやかなUターンである。距離的にUターンしなかったらぶつかってそうだが、勇次郎は動いていない。逃げるのがわかっていたみたいだ。


危険を感じて猛スピードで逃げるイノシシを、速い走り方なのか、悪路であるためか、わからないが、ちょっとカッコ悪い動きで勇次郎が追う。


誰かがこのときのことをストライダム大佐に話している。なんか久しぶりの登場な気がするが、ポール・ヘイマン的な立ち位置のひとで、ファイトをするわけではないから思い出しにくいし、わからない。ひょっとしたらせっかくの勇次郎スゲー回なのに勇次郎のマネージャーみたいな彼が出てないことを板垣先生が思い出して3回目に至ったのかもしれない。


ストライダムが正しくこのはなしのなにがスゲーなのかを解説する。トラックではない、でこぼこの獣道、それでもイノシシのスピードは時速4,50キロになるだろう、でもそれじゃ彼に追いつかれると。勇次郎は砂浜やぬかるみでも9秒切るから。9秒って、100メートル走のことだとおもうが、ともかくここで勇次郎の走る速さが数字で表現される。かつて水泳などで似た表現はあったが、どちらにしてもこれはかなり珍しい。身長体重すら勇次郎はかなりあいまいだ。絶対的強さをもつキャラクターであるぶん、イメージ面でも展開上の制約面でも、計測されないままでいるほうがなにかとよいのである。とはいえ、ぬかるみで9秒じゃ結局どのくらいの速さかよくわからないが、まあストライダムは100メートルとはいってないからな。1キロかもしれん。


速さだけではない。当然のように素手で仕留めるだろうとストライダムはいう。餌だから。

またイノシシはすごい死に方をしている。手足はバキボキに折れ、からだは雑巾みうにしぼられており、腹部と頭部にでかい穴がある。ただ、逆に、勇次郎も一撃で仕留めるというわけにはいかなかったのだなとも感じられる。


亡骸に「いただきます」の一礼し、勇次郎は、むしり取った足をじかに食べる。食べるのは片足だけらしい。7キロほどのその肉を30分で食べ、「ごちそうさま」の一礼して勇次郎は去っていくのだった。



つづく



勇次郎、生で食って大丈夫なのか…。武蔵だってピクルの勧める生肉はあとで焼いて食うって言ってたぞ。


ファイト以外の勇次郎描写って「よくある」のだけど、このタイミングであることになにか意味はあるだろうか。

物語の流れ(文脈)という点以外でいえば、前回みたように、熊退治にかんしては勇次郎の社会貢献的な要素が感じられた。

まず最初、最近定番になっている、自分以外がメスであるというアレが描かれた。げんに最強であり、自他ともに認めるその絶対性を証明するには、彼は逆説的に他者を必要とした。誰よりも強いためには、誰も彼より強くないことを示すほかない。これが彼のなかの野性と反応し合ってあのような人格になった。しかし刃牙との親子喧嘩を経て勇次郎はそこから解放されたはずである。事実最強であるため、そのホルモン量から自分以外がメスにみえるという状況にちがいはない。ただ、それをいちいち示してまわる必要はないし、ふつうの男性が恋してもすべて変態行動には出ないのと同様、目に入るなり性欲のままにふるまうことを回避しようとするような社会性も、同時に身についたはずである。それがあの、老婆への親切が示すところだ。

そして熊退治は、明らかに昨今の熊騒動から導かれた状況である。つまりこれは社会貢献である。やはり、野性はそのままのはずだ。しかし少なくとも見かけ上の動機は異なる。勇次郎の暴力衝動はそのままに、そこから相手を蹂躙することで得られる証明を除いたものが、熊退治だったと考えられるのである。


ではイノシシについてはなにが描かれたか。勇次郎の汚れ方からして、しばらくの間彼は野宿をしているものと思われる。目的は最初から最後まで熊退治だったのかもしれない。それはわからないが、この間、どうやって生活していたのかということが、ここでは描かれているのかもしれない。

そしてポイントはやはりいただきますとごちそうさまの一礼だ。これらは、仕草に意味が宿る記号的な儀礼であるから、思考法としては言語運用に近く、きわめて人間的な行動だ。たんに食べ物への感謝を示している場面で、意外な一面を示すだけではない。ここには「人間」がいるのである。そこが、野性に突き動かされて暴力から食事に至りながらも、これまでとはわずかに変わっているところなのだろう。ここにはたしかに社会性がある。性欲はそのままにしながら誰彼構わずすることはもうなく、そればかりか老婆に親切にする、暴力衝動を満たしつつも表向きは社会貢献的にクマを退治する、そして、空腹のまま必要以上にイノシシを叩きのめしながら人間的儀礼を欠かさない。異様な道のりではあるが、ともかくも勇次郎は「人間」の道を歩みつつあるのである。









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