第59話/異大
勇次郎礼賛回である。
街を闊歩する勇次郎。すれちがうひとはふりかえり、遠くにいても目で追ってしまう異彩。
まず語られることは、たいがいの場合その大きさである。だが、実は勇次郎はそんなに巨大ではない。190センチちょっとだ。2メートル超が珍しくない世界では、まあ小さくはないけど、平均より大きいくらいと思われる。だがまず大きさが印象に残る。さらに50センチくらい大きいジャックと並んで歩いていたときですらそうだった。
その印象は身長というより体格からきている。“ガタイがいい”の究極形である。
それを形容するには“異様”という言葉がいい。バッキバキにパンプした勇次郎の肉体は、なんかもう、内臓みたいである。首は太いというかプリン型だし、腕は太いというか球体である。筋肉に押し上げられ、のびでいるはずの皮膚は、おそらくそれでいて厚みや強度が波ではないため、金属的な光沢を帯びている。かつてのツイッター、現Xで、発売された勇次郎のフィギュアがあまりに金属的にテカテカだったためそうつぶやいたら、公式より板垣先生の指示だと教えてもらったことがある。勇次郎の金属的感触は先生のこだわりなのだ。
そしてその動きはすきがなく、ただ歩く動作には機能美が満ちている。なにかに備えるように、その歩き方はクラウチングスタートの姿勢や大型の猫科をおもわせる。考えたこともないが、足も速いのだろう。
そしてここからが、『バキ道』から導入された勇次郎の新しめの特徴である。男性ホルモンの分泌量だ。老若男女問わず、自分以外をすべて異性としてしまうほどなのだった。
こんなはなしのあとにシルバーカーを押したおばあちゃんが現れるのでひやりとするが、大丈夫、だめなやつではないです。カートに体重を預けながらやっと進むおばあちゃんが、じぶんの足につまずいて顔から転びそうになるのだ。それを、勇次郎が、ありえない姿勢でキャッチする。手刀でおばあちゃんの胴体を両断しているようにもみえるがそっと受け止めた結果だ。手のひらではなく、前腕の背刀側を使っているところにもジェントルを感じる。そして、もういっぽうの手ではカートをつかんで空中にふりあげている。
大丈夫か、みたいなことは特にいわないが、いちおう、少し笑みを浮かべて顔をみているので、ふつうに親切としてやったっぽい。これほどあふれでる野性を隠さない男がみせる優しさに、周囲はわき、おばあちゃんも赤くなるのだった。
つづく
勇次郎すげー回、なんでいつも歩いてる場面なんだろうな。かんけいない他人が見かけるといえばそりゃ道だけど。もっとこう、パチンコとかやらないのかな。ええ、すごい出てました、とか言ってさ。日常をもっと知りたいよね。
勇次郎の歩く姿はクラウチングスタートのよう。今回機能美という言葉出ていないし、そもそも美という観点から勇次郎を見ているものはいないのだが、ファイターがピクルの動作に見惚れてしまったように、その動作にはどこかに向かう志向性があるのである。坂口安吾は現在機能美と呼ばれるものを必要美と書いていた。目的物があり、それに向かうための必要性に要請されて労力がむだなく配置された状況をそう呼ぶのである。
クラウチングスタートのように勇次郎の「存在」は機能性を隠さない。ふつう、生物は、いまをただ生きるということ以上の目的をもたないし、ましてやなんらかの志向性が機能として備わるほど肉体に刻印されるなんてこともないだろう。スポーツであれ学問であれ、その専門とするところのものが、間接的にではなくじかに第三者に伝わるということはふつうはない。しかし勇次郎は、その専門、つまり「強さ」において、ふつうの専門家の専門性を上回り、存在そのものに刻まれ、誰がみてもわかるものになっている。だから、街ゆく場面を描いたものが多いのである。
とはいえ、なにゆえ強さの専門家である彼がクラウチングスタート的に前のめり気味なのか。ここに勇次郎の抱える背理というか自己矛盾があった。それは、ヘンペルのカラス的なパラドックスである。彼が最強であり、誰も勝てないことはほとんど自明である。しかし、完全に自明なのではない。としたらそこに絶対性はない。絶対を求めるなら、たたかい続けるしかない。論理的には、対偶をとればよい。この場合、証明したいのは「彼より強い生物は存在しない」というようなことだから、その対偶は「存在しているものはすべて彼より弱い」ということになり、黒くないもの一般がすべてカラスではないことをたしかめることでカラスが黒いことを証明するような途方もなさが宿ることになるのである。
勇次郎のホルモン問題についてはこれまでも考えてきた。
これもまた、彼が相対性のなかに生きているエピソードでもあった。オスやメスというものは、対概念がなければそもそも存在せず、彼が全人類を異性とみなすということは、彼のホルモンがもたらす存在にかかわるあらゆるオス性は、世のメス性によってのみ規定されるということなのだ。
だが、これはある種の呪いであり、正確にはこの無限相対地獄から勇次郎は解放されているはずである。最強であるために彼は敗者を必要とする。雄度の高さを明らかにするためには男にも雌になってもらう。こういう世界に彼がいたのは、事実最強であったからで、それを保たなければならないという、誰に向けたものでもない宿業があったからだ。しかし、親子喧嘩を経て、少なくとも単独の最強者であることから彼は解放されたのである。
彼が強さと雄度において他者を必要とする段階は過ぎた。もう他人を傷つけることはないとは言い切れないが(思考習慣というものがひとにはある)、必要はなくなった。たほう、事実としてかれは強く、圧倒的に雄である。これが今回のジェントルにつながっている。強いから、弱いものを助ける。雄だから、雌に優しくする。こういう、ふつうの人類が当たり前に身につけており、ほぼ内面化されているせいでむしろ意識的にしないことすらある(助けを願わない弱者はいてもいいし異性からの優しさが常に好ましいものであるわけでもない)行為を、道徳を学んだ小学生のように彼は実現するのである。親子喧嘩は彼を人類にしたのである。
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