すっぴんマスター -3ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第59話/異大



勇次郎礼賛回である。

街を闊歩する勇次郎。すれちがうひとはふりかえり、遠くにいても目で追ってしまう異彩。

まず語られることは、たいがいの場合その大きさである。だが、実は勇次郎はそんなに巨大ではない。190センチちょっとだ。2メートル超が珍しくない世界では、まあ小さくはないけど、平均より大きいくらいと思われる。だがまず大きさが印象に残る。さらに50センチくらい大きいジャックと並んで歩いていたときですらそうだった。

その印象は身長というより体格からきている。“ガタイがいい”の究極形である。


それを形容するには“異様”という言葉がいい。バッキバキにパンプした勇次郎の肉体は、なんかもう、内臓みたいである。首は太いというかプリン型だし、腕は太いというか球体である。筋肉に押し上げられ、のびでいるはずの皮膚は、おそらくそれでいて厚みや強度が波ではないため、金属的な光沢を帯びている。かつてのツイッター、現Xで、発売された勇次郎のフィギュアがあまりに金属的にテカテカだったためそうつぶやいたら、公式より板垣先生の指示だと教えてもらったことがある。勇次郎の金属的感触は先生のこだわりなのだ。


そしてその動きはすきがなく、ただ歩く動作には機能美が満ちている。なにかに備えるように、その歩き方はクラウチングスタートの姿勢や大型の猫科をおもわせる。考えたこともないが、足も速いのだろう。


そしてここからが、『バキ道』から導入された勇次郎の新しめの特徴である。男性ホルモンの分泌量だ。老若男女問わず、自分以外をすべて異性としてしまうほどなのだった。


こんなはなしのあとにシルバーカーを押したおばあちゃんが現れるのでひやりとするが、大丈夫、だめなやつではないです。カートに体重を預けながらやっと進むおばあちゃんが、じぶんの足につまずいて顔から転びそうになるのだ。それを、勇次郎が、ありえない姿勢でキャッチする。手刀でおばあちゃんの胴体を両断しているようにもみえるがそっと受け止めた結果だ。手のひらではなく、前腕の背刀側を使っているところにもジェントルを感じる。そして、もういっぽうの手ではカートをつかんで空中にふりあげている。


大丈夫か、みたいなことは特にいわないが、いちおう、少し笑みを浮かべて顔をみているので、ふつうに親切としてやったっぽい。これほどあふれでる野性を隠さない男がみせる優しさに、周囲はわき、おばあちゃんも赤くなるのだった。




つづく



勇次郎すげー回、なんでいつも歩いてる場面なんだろうな。かんけいない他人が見かけるといえばそりゃ道だけど。もっとこう、パチンコとかやらないのかな。ええ、すごい出てました、とか言ってさ。日常をもっと知りたいよね。



勇次郎の歩く姿はクラウチングスタートのよう。今回機能美という言葉出ていないし、そもそも美という観点から勇次郎を見ているものはいないのだが、ファイターがピクルの動作に見惚れてしまったように、その動作にはどこかに向かう志向性があるのである。坂口安吾は現在機能美と呼ばれるものを必要美と書いていた。目的物があり、それに向かうための必要性に要請されて労力がむだなく配置された状況をそう呼ぶのである。

クラウチングスタートのように勇次郎の「存在」は機能性を隠さない。ふつう、生物は、いまをただ生きるということ以上の目的をもたないし、ましてやなんらかの志向性が機能として備わるほど肉体に刻印されるなんてこともないだろう。スポーツであれ学問であれ、その専門とするところのものが、間接的にではなくじかに第三者に伝わるということはふつうはない。しかし勇次郎は、その専門、つまり「強さ」において、ふつうの専門家の専門性を上回り、存在そのものに刻まれ、誰がみてもわかるものになっている。だから、街ゆく場面を描いたものが多いのである。


とはいえ、なにゆえ強さの専門家である彼がクラウチングスタート的に前のめり気味なのか。ここに勇次郎の抱える背理というか自己矛盾があった。それは、ヘンペルのカラス的なパラドックスである。彼が最強であり、誰も勝てないことはほとんど自明である。しかし、完全に自明なのではない。としたらそこに絶対性はない。絶対を求めるなら、たたかい続けるしかない。論理的には、対偶をとればよい。この場合、証明したいのは「彼より強い生物は存在しない」というようなことだから、その対偶は「存在しているものはすべて彼より弱い」ということになり、黒くないもの一般がすべてカラスではないことをたしかめることでカラスが黒いことを証明するような途方もなさが宿ることになるのである。



勇次郎のホルモン問題についてはこれまでも考えてきた。







これもまた、彼が相対性のなかに生きているエピソードでもあった。オスやメスというものは、対概念がなければそもそも存在せず、彼が全人類を異性とみなすということは、彼のホルモンがもたらす存在にかかわるあらゆるオス性は、世のメス性によってのみ規定されるということなのだ。

だが、これはある種の呪いであり、正確にはこの無限相対地獄から勇次郎は解放されているはずである。最強であるために彼は敗者を必要とする。雄度の高さを明らかにするためには男にも雌になってもらう。こういう世界に彼がいたのは、事実最強であったからで、それを保たなければならないという、誰に向けたものでもない宿業があったからだ。しかし、親子喧嘩を経て、少なくとも単独の最強者であることから彼は解放されたのである。


彼が強さと雄度において他者を必要とする段階は過ぎた。もう他人を傷つけることはないとは言い切れないが(思考習慣というものがひとにはある)、必要はなくなった。たほう、事実としてかれは強く、圧倒的に雄である。これが今回のジェントルにつながっている。強いから、弱いものを助ける。雄だから、雌に優しくする。こういう、ふつうの人類が当たり前に身につけており、ほぼ内面化されているせいでむしろ意識的にしないことすらある(助けを願わない弱者はいてもいいし異性からの優しさが常に好ましいものであるわけでもない)行為を、道徳を学んだ小学生のように彼は実現するのである。親子喧嘩は彼を人類にしたのである。



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第135審/三つの裁判①



「日常の犯罪」もクライマックス、というところで新章である。と言っても、いわれなければ気づけないレベルではなしは連続している。ウシジマくんの形式とはもっとも異なる点だ。作品として章立ては息継ぎ程度の意味合いしかなさそうだ。



九条の指示で曽我部が嵐山にのらの住所を伝え、のらが逮捕されたところだ。九条は屋上でたこ焼きを食べているところだが、例の「日本一のたこ焼き」ではなく、冷凍食品だという。行ってみたが臨時休業だったと。語の意味するものと意味されるものの異同、そしてそれを求める弁護士としての探究は「九条の大罪」を駆動するエンジンのようなものなので、やはり九条はあそこにはたどりつけないらしい。


そこへ電話。刑事の嵐山からだ。捕まえたのらが九条を呼んでいるからだ。しかし九条はそれを即答で断るのだった。嵐山もじゃっかん戸惑う態度である。


しばらくして薬師前が宴会に参加している。なんで断ったかと聞かれ、じぶんは曽我部の弁護を引き受けており、利益相反になるからと九条はこたえる。あとでわかりやすい解説がある。

ふたりはどのくらいの量刑になるか。曽我部は3年、主犯ののらは8年と烏丸が見立てる。薬師前は、のらが親とは縁を切っていることを知っており、まずは元パートナーなどを当たって、のらの娘の行先を探す係だ。


のらのもとには亀岡がやってきた。よかった、強めの弁護士が来てくれた…。九条が内々にたのんだんだろうな。うん、のらは亀岡がいいよ。

利益相反について、亀岡がわかりやすく説明。のらを助けるには曽我部が悪いと言わなければならず、曽我部を助けるにはのらが悪いとしなければならない、これをひとりの弁護士ではできないと。九条の冷淡にもみえた「お断り」だが、亀岡の説明でのらには自然なものになったはずだ。現実にはそこまでくっきり二者択一状況にはならないのだろうが、まあだいたいそういうことだと理解すればよいか。


量刑については、亀岡はまだ話さない。急に買い物帰りに逮捕されたので、娘の梨沙は家にひとりで待っている。自分でカップ麺をつくり、ときどき母に電話をかけて、お手紙を書きながら待っているのだった。のらは申し訳ない気持ちで涙が出てしまう。亀岡は、全力を尽くすと、強い言葉と表情でのらを励ますのだった。



曽我部とともに捕まった井出のもとには久々の山城がきている。咳をしており具合が悪そう。京極の弁護をしていた彼だが、京極は破門されてしまったからもうお金はないかもしれず、とにかく払いを重視する山城は離れていくのかと思われたが、引き続き伏見組を見ているらしい。


井出は率直に疑問を投げかける。麻薬事件なのだから麻薬取締官が来るところではないのか、なぜ組織対策課の嵐山がいきなり現れたのかと。そりゃタイミングを探してずっと捜査してたんだろということになるが、この件はまだ伏見組は関与していない。関与しようとはしてたけど、まだなにもしてない。要するに、内心を見抜けるエスパーでもない限り、伏見組を張っているだけでこの動きはできないのだ。百井らにこれから関与しようとしている、ということを知っているもの、つまり内部のものが伝えなければ、嵐山はこの動きをとれない。



山奥に百井と求馬が車で運ばれている。首輪つきでさらに奥へ。求馬をつかまえた鍛冶屋や、他にも複数のヤクザの姿。目的地には出雲である。例の、壬生と菅原用に掘って、宇治に売ろうとしていた穴だ。


井出の推理は山城から出雲に伝えられた。チンコロしたのは百井なのか?穴を前に出雲が詰めるのだった。





つづく



とても新章第一話とはおもえない展開である。が、冷静考えたらここからが九条ら弁護士の出番なのだから、「日常の犯罪」はその準備してだったのかも。


動きを整理すると、事務所でのやりとりのあと、井出の運転で出雲、百井、曽我部が大麻部屋に向かっている。車には出雲と百井が残り、井出と曽我部が部屋へ。しかし部屋にはなにもなく、窓が破られていたため、曽我部は心当たりとして求馬が盗んだかもみたいなことを言ったっぽい。井出は電話で車にいる出雲にこのことを話し、部屋を出たところで嵐山に捕まった。ということは、よく考えると、あの現場の、おそらく少し離れたところに出雲はいたのである。手配がかかった求馬はすぐ捕っていたが、これはSNSを使ったもので、たぶん井出ら逮捕よりあとだろう。出雲はたぶんそんなに近くにはいなかっただろうし、逮捕を視認したとしても組対の嵐山だとはわからなかったかもしれない。もちろん、不信なタイミングではあり、警察が組織対策課でないとしても、ヤクザなので、チンコロは常に疑うべきだが、そこから百井を連れて逃げた出雲が山城から井出の推理を聞き、ちょうど捕まえた求馬ともども詰めるかとなったわけだ。とすると、現状、出雲サイドではまだ大麻を盗んだのが求馬ではないかとなってるわけだが、その情報じたいが曽我部のもので、これは百井の部下であり、ぜんたいに自分たちはハメられたのでは?となっているわけである。じゃあ求馬は解放しても良さそうな気がするが…



亀岡がのらの担当になってくれたのは心強い。亀岡は、地元でだらしない生活をしている双子の妹に「ありえたわたし」をみる(第39審参照)。

性産業の存在そのものを否定するような過激な言動をとりつつも、根本にはこうした女性へのシンパシーと連帯の感覚がある。たとえばのらは、犯罪者である。市民としてこれは認められない。しかしいっぽうで、それを選ばざるを得なかった状況を追体験もする。そこに「ありえたわたし」を見出し、「私は偶然生き残った」と感じたとき、フェミニズムは起動する。フェミニズムが「お気持ち」ベースであると揶揄する向きもあるが、それは常に残酷さを伴っている。男性支配社会でフェミニストが女性の不利を男性的言説を超えて語ることは困難だからである。『82年生まれ、キム・ジヨン』はそういう小説だった。





亀岡は、フェミニストでも見解が分かれる性産業についてもはっきりした態度をとるものだが、根本にはこの感覚がしっかりとある。きっとのらに寄り添って仕事をしてくれるにちがいない。

九条は、利益相反が明らかだからと、驚くほどあっさり弁護を断っていたが、そもそものら逮捕は九条が曽我部に住所をいうように伝えたからで、こうなることは予期していたのだろう。で、その時点でたぶん亀岡が念頭にあったのだ。そして、以前書いたように、九条はどこかで、のらは罪を償うべきだと考えていたのかもしれない。だから意外なほどなにもかもあっさりのらについて進める。梨沙のためなのだ。


冒頭、冷凍のたこ焼きをそれなりにおいしく食べる場面では、かりそめながら一般に流通する語の定義も、それなりに有効であることを思わせる。それは、「女性」のことか、「犯罪」や「贖罪」のことか、それはわからないが、語による抽象がとりこぼすものを拾いつつ、その語をそのままに戦略的にいかすことも必要なときがある。九条はのらを記号的「女性」とはみていない。だが「親」とはみているだろう。彼にも娘がいるからだ。そこで、冷凍のたこ焼きたる「女性」性を通じてもっとも有能と思われる亀岡を想起したのである。九条はそういうこともできるのだ。










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第58話/天真爛漫




神心会本部で行われている独歩による模範組手である。

末堂に続き、大会上位入賞3名が挑戦したが、みんなはなしにならないまま終わってしまった。とここで、末堂のナイス煽りもあり、克巳が挑むことになったのである。


武であれ芸であれ術であれ、“道”と語られるものはなんでも、やがては合理化に向かうのが道理だと独歩はいう。道理も理の一種ではあるから、ある意味で“道”は歩み始められたときから合理に支配されていると、暗く受け止めることもできそうだが、それを発見する旅だとも言い換えられるかもしれない。「コツ」とはそういうことだと。極めるとはそういうこと。

そうなってしまえば、相手が誰だろうと何人だろうと「百戦危うからず」だ。

前回はわからなくて適当に済ませてしまったが、調べたらこれは孫子だった。調べるほど、これは数学的帰納法と同じ構造である。要するに、ひとりめを倒したあと、ふたりめを倒すことができるなら、理論的にはさんにんめも倒せることになり、それはどこまでも続く。もちろん、戦況は刻一刻と変化する。しかし、コツとは、それをつかむことなのだ。スタミナが切れてきたら、それに合わせた変化を自身に施し、パターンを守る。必勝の思考法なのである。


克巳はなんか独歩の説教がめんどくさそうにみえるが、克巳ってもともと高慢なキャラクターとして登場して、デザインもそうなってるせいか、いつもそう見える。たぶん尊敬の気持ちは強くあるんだろうけどぜんぜんそう見えない。


開始、克巳がかまえ、かなりゆっくり距離をつめていく。移植した烈海王の右手が前だ。ほぼ眼前にせまるそれを、独歩が無造作になめる。なんかやななめかただな。擬音も「エロ…」となっている。女子部が観戦してたら小さい悲鳴が出そうなねっとりしたなめかただ。

たぶん独歩はあえてねっとりやってる。体育会系育ちがちょっと驚くくらいでなければこれは意味がないからだ。不意打ちすぎて克巳も声を上げて手を引っ込めている。その金的へ、独歩が背足をそっとあてがう。威力はないが一本である。


あまりのことにあっけに取られる道場性の前で、独歩が息吹を披露する。意味はわからないが、なんだろう、まだまだ、体力じゅうぶん、余裕だよみたいなことかな。


じっさい、余力はじゅうぶん、まだやりたいものはいるかと独歩はいう。みんな黒帯とはいえいち道場生に、末堂や克巳が完封されたあとでなにができるのか。もちろん誰も応えない。少し残念そうに独歩は退場、克巳が「お見それしました」の言葉をかけるのだった。



つづく




独歩はあれだな。達人になりすぎてしまって、勝負を成立させない方向に強さの意味が変わってきてしまっているな。内容は異なるけど、たたかいの場にたどりつけなあ渋川の境地に達している。


渋川は護身を極めてそうなったが、事実としてはふたりともだれより強くありたい武術家、強いんだ星人である。この組手内容では、勝利であり、また生還ではあったとしても、強さとして評価することは難しい。いずれ独歩もこれでは満足できないとなるかもしれない。


渋川剛気だけではない。コツについて語る独歩の姿は、理を極めれば速さ等無用みたいなことを言っていたときの郭海皇とかぶってみえた。理とはそもそもなんなのか。たとえば理合とは、一般に、理想的な動きに漸近し、やがて合致することを意味するだろう。そのために技術がある。ここに、まず理想が流派によってまちまちであることと、そこへのアプローチたる技術体系、すなわち解釈もまちまちであることで、スタイルというものが生じる。だが、独歩や、郭や渋川のような達人が語る理は、思想的な意味での理想、もしくは合理、システムのようなものを指しているわけではないように思われる。げんに今回独歩は、合理化が道理だと、そもそもの前提条件に理を忍ばせている。こうした超ベテランたちが、ある種の悟りとともに見出すものでしか感じることもできない摂理のようなものが武術にはあるのである。



そして、おそらく、彼らにとってすら、その理は全貌が明らかではない。それは顔の見えない神のようなものだ。しかしときどき、それの存在が感じられるときがある。彼らはその経験をよりたしかなものにしようと、技を磨く。そうして、彼らはやがて技の内側に理を見つけるようになる。なるほど、こうすればいいのかという発見の積み重ねの先に、少しずつ理は明らかになる。だがそれは存在証明にはならない。信仰者が日々の幸運に神を見出すようなものだ。「コツ」とは、理の全貌を把握することを意味しないのである。


これは考えてみれば別に特殊なことではない。自転車にのるときわたしたちは明らかにつかんだ「コツ」を行使しているが、それは別に、自転車のしくみや物理法則を熟知しているからではない。ただ、それがそこにあることは、少なくともわたしにはわかる。このとき、理が兆す。帰納法やアブダクションなど、思考と経験を結びつけることから物理学は始まったが、科学の初期地点では極めて重要かつ自然な推論方法だ。彼らベテラン武術家はたくさんのことを経験している。そしてそのさきに、なにか網羅的なものを感じ取る。彼らがなぜか「理」という硬度の高い、意味内容がしばられそうな語を使いがちなのかというと、そのアプローチが科学のものとよく似ているからなのだ。


ファイトの際には、とるべき行動はそのときどきで無数に存在する。今回の手をなめるという動作も、これでなければいけないというものではない。だから理とは、その響きとは裏腹に、台本のようなもの、アカシックレコードなのではない。だが独歩らは、あるかないかの「理」があらわれるパターンだけは熟知している。つまり、そのとき、それをするしかないと思われることをただする、それが「コツ」を掴んだという状態なのである。若い道場生にはまったく参考にならない模範組手にはなってしまったが、独歩はたしかに、「コツ」の向こうに範、つまり理を感じているのであり、これは模範のつかまえかたをみせた組手だったのである。









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第57話/余力



神心会本部にて行われている独歩による模範組手、末堂瞬殺に続き実力者3名が挑むことになったがあっという間に最後のひとりである。

当初は一対多という話だったが、独歩の狡知か3名の委縮か、そうはならず、結局1人ずつ戦ってる。3名はそれぞれタイプのちがう空手家だったし、一対多が実現したら勝ち負け以前にそれこそ模範的な組手になったんじゃないかという気がするが、たぶんどうしても勝ちにいっちゃう独歩の武術家精神が出てしまったんだろう。


最後の三段・長谷川丈流は171センチ84キロということで、身長のわりにはけっこう重いが、「速射砲」の異名をもつ軽量級的なファイトをする男だ。1秒間に8連射ということである。


長谷川はいい顔をしている。独歩も、長谷川が腹を括ったことを感じているようだ。まあモブとはいえ神心会なので、パチモンではないわけだ。館長の教えということだが、館長は克巳なんだけど、どっちのこといってますか。


長谷川が右拳で仕掛けるが、異音とともに不発、戸惑い顔ですぐに引く。中段を狙ったようだがじっさいは独歩の右手あたりに伸びている。長谷川じしんも速いせいで、なにが起こったのか克巳以外にはわからない。ちなみに、ここで克巳は「指導員」と呼ばれている。館長も指導中は指導員と呼ばれるのかどうか不明だが、これまでの流れからしていまの館長は独歩なのだと断定してよさそう。


独歩は長谷川の速さやコンビネーションは否定していないようだ。しかし、そもそも拳が武器でない、拳が豆腐のようであると。長谷川の右手が破壊されている。コンビネーションの出鼻として、ある意味不用意に放たれた拳を、独歩が拳で粉砕したのである。


すでに戦意喪失している長谷川の前に立った克巳が、巻藁の部位鍛錬から、いちからはじめるよう示唆する。長谷川が下がってから、結果3対1の組手は弱いものいじめになってしまったと克巳はいう。うん…、でもこれは、3対1ではなく、組手を3回やっただけだよな? 最初はたしかに囲んでいたけどぜんぜん同時にいかないし…。むしろ責めるべきはそこじゃないかな。


だったらと、意識を取り戻して壁にもたれて座っている末堂がいう。克巳が模範を示せばよい。これは、この場では末堂しかいえない感じのことなので、よくやったようにおもう。


克巳はすぐにやる気になってくれた。独歩は、なんならここにいる全員とでもたたかうつもりであるが、自分と立ち合ったあとそんな余力があるかと克巳が煽り返す。合理を極めれば100対1も危うからずと、独歩も負けないのだった。



つづく



そうだった、刃牙らへんはこういう組み合わせを楽しむ作品だった。ピクル戦の前とか、本気なのかよくわからないような状況で軽く接触するようなことはこれまでもあったが、正面から組手、克巳いわく「立ち合い」をするのは初めてのことである。


当初克巳は、空手を終わらせた男として登場した。最強をうたう格闘団体の長である独歩が勇次郎に負けたタイミングで最大トーナメントをやることになり、組織としてとっておきを出さなければならないと考えた独歩が、いちばん強いやつとして、自分とは別に養子の克巳を出場させたのである。そのころは、またいまも部分的には、克巳は独歩を超える空手家だった。才能やセンスという意味ではじっさいそうなのだろう。だが両者が戦っていつでも克巳が勝つのかというとよくわからない感じがあった。なんというか、ややこしいのである。まず克巳はお調子者のお坊ちゃんだから、ピクル戦まではろくにその才能をいかせていなかった。他方で独歩は、空手家として誰より強くあろうとしながら、神心会として克巳を最強にしなければいけないみたいなぶぶんも少なからずあるようである。しかもそれは息子なのだ。さらに克巳はまだ若く、独歩は百戦錬磨という言葉がこれほど似合う人物もいないというキャラクターである。なんというか、どう比較すればよいのかよくわからなかったのだ。


しかしピクル戦を経て克巳はようやくじしんの才能に追いつき、完成した。いまの克巳こそが、登場当初の独歩による評価にふさわしいのである。たぶん独歩は、まさしく親が子を見るその見方で、未来の、完成した克巳を幻視していたのだろうなと感じる。


そして、そういうことなら、独歩だって本気を出せるはずだ。未来を幻視する親、もしくは指導者としてではなく、正真正銘、100パーセント空手家として向き合えるはずなのである。



合理性のくだりは、なにかの引用かな。吉岡一門とのたたかいなどで武蔵が言ってそうだが、わからない。合理的にひとりを倒せるなら、ふたりめも倒せる。とするなら3人目も。そうして、ひとりでも100人を倒せるという、数学的帰納法のような考え方である。現実には、体力の問題や、100人という規模を合理性の内側に回収することじたいの困難があるので、そううまくはいかないが、理論としてはありえるものだ。ドリアンもこの詭弁的論法で神心会を黙らせていたな。いくら神心会が大勢集まっても、彼らは1対1でしかたたかうことができない。そしてひとりでドリアンに勝てるものはいない。したがって彼らが勝つことはない。あのくらいベテランになると、そういうハッタリもまた強さの範疇なのである。


末堂はイメージ斬りで、竹、三島は距離の見誤りによる透明化で、長谷川は拳粉砕で、それぞれ最小限の動きで、独歩は彼らを倒した。多数戦を意図してのこともあるだろうが、共通点としては、すべて相手の独歩にかんする認識を利用しているということはある。イメージ斬りは末堂のほうにそれをイメージできるだけの実力が備わっていなければならないが、いずれにせよ彼の思考に手を加えたものである。透明化は、いつどんなときも前進するという独歩のファイトスタイルがある種非合理的すぎて距離を見誤るために起こる。長谷川は、おそらく試合巧者であるから、いつもの勝ちパターン的に動いたところを砕かれた。こんな攻撃は試合にはないからだ。こういうふうに、独歩は洞察力にも優れているのである。相手の弱いところをじぶんの強いところで叩くというのはファイトの基本だが、独歩は認識面でもそういうことができてしまうのである。果たして独歩は、克巳に見誤らせることができるだろうか? たぶん体力では克巳が上回ると思われる。だから独歩は認識面で克巳をコントロールしたいはずだ。模範組手ということもある。しかしいまの克巳に精神的死角があるのか。そういう意味では、今回の合理のくだりから、すでにたたかいが始まっている可能性があるのである。




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第134審/日常の犯罪⑰




タイに潜伏中の菅原と壬生がもぐもぐデートである。

壬生はタイにも知人がいるらしく、菅原はそれが少し引っかかったようだが、ふつうに仕事に使えるからいつか紹介するつもりらしく、あやしいはなしではないっぽい。壬生が九条に電話だ。


九条は運転中。助手席の烏丸と、例の「日本一のたこ焼き屋」のはなしをしている。隣に「世界一のタコス屋」ができたらしい。このはなしは、定義が曖昧なまま、なんなら空語のまま、それを拒むか、存在としてとにかく認めてしまうかという点で、蔵人の排中律的ロゴスと九条の星の王子さまスタイルのパトスの、対立として読み取ることができた。烏丸もタイプとしては蔵人側なのだが、「だからこそ九条に魅力を感じる」のが彼である。

これまで「日本一のたこ焼き屋」は九条や烏丸のなかに葛藤があるとき出現することが多かった。言葉による「定義」とは、ある種の抽象であり、したがって捨象が行われているからだ。運転中に壬生からの電話が鳴り、目的地の警察署についてから九条が電話に出ているが、烏丸はなにをおもうか。


曽我部は井出と大麻部屋から出てきたところを嵐山に捕まり、取り調べを受けている。テレグラムでの買い手らとのやりとりはきちんと消してきたが、警察が解析すればわかってしまうらしい。大麻部屋はのらが指示をした髭鼠の行動でからっぽだったが、思わせぶりにカメラもある。そして買い手の証言もあるらしい。物証はないわけだが、嵐山はおどしもこめて言っているから、現在の曽我部のほんとうのまずさはいまいちわからない。嵐山の目的は黒幕、要するにのらだ。カメラからたどれないのかなという気もするが、まだ嵐山はなにもつかんでいないらしい。突き上げ捜査とやらで買い手からたどり、売人の曽我部までたどりついた、リーダーまであと一歩、という段階だ。


カンモクは証拠がないときに有効な戦略だ。逃げ場はないと嵐山はいうが、現実どうなのだろう。まだなにかたりなくてカンモクされると困るのか、それとも黒幕をつきとめるために取引するつもりなのか? ともかく嵐山は、曽我部の人物を知ってもいる。出所したばかりで、また捕まっていいのかと、複雑な思考が苦手な曽我部を攻めていく。

嵐山は、今回押収した、曽我部が刑務所で書いていた日記みたいなノートも読み込んでいる。曽我部を落とすためだ。そこには、行きたいところ、食べたいものがたくさん書いてある。そこには「二度と悪い事しない。起こさない。」という宣言もみえる。お前は悪いやつじゃない、ひとの悪意を読み取れないからすぐ信用して利用される、それだけだと。しかし、曽我部は、カンモクの一環か、とにかくわからないを貫く。金本に五十音言えと言われてまず五十音がわからなかったと、こんなところにも金本が出てくる。戦略としても、金本の呪いの強さがわかる。


嵐山的には、曽我部は頑固だが口を割ったことがあるからもう少しという感覚だ。しかし厄介なのは九条だ。九条はやはりカンモクを指示している。ということは、証拠も決定打にはなっていないということかな。


曽我部はとにかくのらと娘を心配しているらしい。だから口を割ることはできないと。しかし曽我部は再犯で、実刑は避けられない。少しでも刑を軽くするために、九条はのらのことを正直にはなすよう、指示を変える。このとき、九条はのらの住まいを知っているかと訊ねている。キャラ弁を届けたから曽我部は知っている。九条はそれを聞いてカンモクから指示を変えているのだ。のらが捕まるのもしかたないと。たんに嵐山に伝えるための住所を知ってるか?という事だろうか。



曽我部はしゃべったらしい。買い物帰りののらを嵐山らが捕まえる。家で待つ娘のご飯を買ってきたところだが、帰ることはできない。じゃあと、のらは九条を呼ぶようにいうのだった。



つづく



ああ…いやな展開だ…

のらが九条を呼んだとして、九条が仕事を受けることは可能だろうか。ポイントは利益相反だが、どうだろう、相反という状況でもないのかなという気もする。それに、曽我部にのらを告発させる九条ものらの状況をもちろん知っている。たしかに九条はそんなのらの事情を完全に無視することもできる人間だが、今回はどうだろう。


少し考えられるのは、のらの事情を知っていればこそ、彼女が犯罪者であることが引っかかるのではないかということだ。それは和解前の烏丸母も言っていたし、それは正論でもあった。九条は、弁護を引き受けるにしても、のらに犯罪から足を洗わせ、罪を清算させようとしているのかもしれない。


しかし、のらが黒幕であることはもともとわかっていたことだ。なぜ九条はいまこの指示をするのか。以上のような考えがあるのだとしても、それなら曽我部にはカンモクの指示の前にこのことをいいそうである。それが、曽我部の葛藤を聞いてから急にそうなっているのだ。

理由と思われるものは住まいについてのやりとりしかない。ただ「のらさん」だけでは嵐山も捕まえられない。でも住まいがわかるならはなしは別だと。曽我部は苦しそうにしているし、嵐山も取引をする気はありそうだ。そういうことを、とりあえず曽我部がカンモクしているあいだに見てとった。そこで、少しでも曽我部の誠実さを示すために、こういう運びになったのだろう。


「日本一のたこ焼き屋」は判断にくもりが生じそうなときや、特に九条と烏丸で見解がわかれそうなとき、またたんに烏丸が九条を心配しているときなどにこれまで出現してきた。それは、言葉による「定義」のとりこぼしを体現するようなエピソードだからである。「日本一」の含意は、たこ焼き大会みたいなもので優勝したという事実を示すものかもしれないし、「おいしい」ということについてのおおげさな表現かもしれない。もっといえばこれはなにが日本一か書かれていないので「日本一小さい」のかもしれない。そのコノテーションはあまり重要ではない。問題はそのように名指されたものをどう受け取るかである。「日本一」の含意はともかく、これを言葉のままに受け取るということは、論理的にはそのたこ焼きが「非日本一ではない」と受け取るということなのである。

だがこの言葉の論理的性質を正面から受け取るばかりが人間ではない。「日本一」でもないし「非日本一」でもないたこ焼きも存在しうる。なぜなら、言葉は主観と客観のあわいにたゆたうものだからだ。恋人の作ったたこ焼きはどちらかにあてはまるだろうか。全日本たこ焼き大会に出場しない地元の超うまいたこ焼き屋は非日本一だろうか。そうして、わたしたちは主観と客観の「落とし所」を瞬間的に見定めてふだんから会話をしているのである。


しかし法律文書はそうあってはならない。日によって、ときによって、ひとによって解釈がわかれてしまっては法治は実現しない。だから法的思考は論理的になる。排中律になる。そしてその権化が蔵人というわけである。

だが、その言葉による定義も万能ではない。言葉の定義もまた言葉によって行われているからである。だから、どこかでわたしたちは、幻想としての公理にたよることにはなる。それは悪いことではないだろう。そんなことにいつまでもこだわっていたら社会生活が成り立たない。しかし取りこぼしは起こる。そして、「どこかで幻想にぶつかる」ことを自覚しないままでいるものには、この取りこぼしじたいが目に入らない。九条はそれを拾うもの、というわけである。九条にとっては、言葉の前に世界がある。内実がある。だから、味の検証というはなしになる。これは、言葉が差異でもって世界の凹凸を生み出すソシュール的言語観以前の、人間がすでにあるものを名付ける、創世記的な世界観に近いが、現前する世界に直面する弁護士としては自然な哲学なのだ。


そして、カフカの『城』みたいに、このたこ焼き屋に彼らがなかなかたどり着けないのも象徴的だ。九条も蔵人もスタイルとしてどちらにも理由がある。その道の探究、たこ焼き屋への漸近が、この仕事の使命なのだろう。







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