第132審/日常の犯罪⑮
烏丸母がリモートで市田のインタビューを受けているところだ。烏丸母のそばには烏丸が付き添い、市田の近くには九条と、被害者のひとりだったのらがいる。
烏丸母は烏丸晃子(あきこ)という名前だ。九条は、晃子同様、のらも苦しんできたのだと説明する。名前を言われて驚く晃子に、九条、烏丸両者からあの裁判を九条が傍聴していたこと、鞍馬検事は九条の父親であることが告げられる。
そこへ遅れて薬師前がやってきた。のらが胸の内を明かそうというところだ。いまでも夢の中で犯人に襲われて、叫び声で娘を起こしてしまう。あのような事件では、被害者はじぶんが助かった事実をなかなか受け入れられないと九条が解説。理解はできても、そこには助かってしまった罪悪感がある。つまり、生還を受け入れたところで楽になるわけではないのだ。
すぐに険悪な雰囲気を察していた薬師前に、無茶振り司会者のように九条がこの解説のつづきを丸投げする。日本では被害者支援は加害者の100分の1だと。刑務所では職業訓練やカウンセリングなど、更生、社会復帰の用意がまがりなりにもあるが(それじゃダメだというはなしも以前にあった)、被害者はない。行き届かないというより、理解が及ばないという感じだろう。システムがそれを知らないのだ。
「罪を償う仕組みはあっても、傷を癒す仕組みはない。
人を守る法律が人を置き去りにしているのが現状です」
薬師前の具体的なはなしを受けて九条がいう。
そうして弱った状況に、世間のひどい言葉や無関心が追い打ちをかける。
晃子も状況は理解している。ふつうの生活に戻らなきゃいけない。しかし心が追いつかない。息子には救われてきた。しかし、時間を奪っているような感じがして申し訳ない気持ちもあったと涙ぐみながら晃子はいう。横に座る烏丸は、会いたくてきているのだと優しく語りかける。愚痴ばかりで重いだろうということについては、九条と働くようになってから重いはなしに慣れたと、微妙になぐさめにならない冗談もいう。この笑えない冗談の感じ、母親ゆずりだったんだな。
持ち直した晃子が非礼を詫び、のらに娘がいることを聞く。のらは、突如たがが外れて、涙をポロポロこぼしながら気持ちがわかるという。生き残った罪悪感だ。助かってよかったねと言われるたびここれが軋む。いまでもありありと思い出される凄惨なあの現場。なんでもない街の音があのときに重なる。胸が締めつけられ、からだが硬直する。悪夢で何度も飛び起きる。そんな日々にあらわれたのが娘だった。「自分のため」という虚勢が、娘のためならなんでもできるという気持ちに変わった。だからいまこうして感謝を伝えにこれた。いままで考えることを避けていた烏丸たちに目を向けることができるようになったのだ。
なにかがほどけたようになった晃子は、のらや娘と会う約束をする。九条もだという。
インタビューを終え、晃子は換気扇をふさいでいたテープをはがし、陽の光を感じるのだった。
つづく
のらも烏丸母も、互いに地獄を抱えていた。それが分かち合われ、回復の兆しを見せたいい回だった。
晃子は、ふつうの生活に戻らなきゃいけないのに心が追いつかないとしていた。しかし、ほんとうはそうではない。「ふつうの生活」は表象でしかない。心穏やかなら、引きこもっていたっていい。それがなによりも楽だというなら、いまのままでかまわないのだ。そうではないから、彼女は苦しみ、まわりもなんとかしようとする。なぜなら、それは過去に執着するということだったからだ。
これは今回ののらの証言でより鮮明になった。過去にとどまる、過去に執着するのは、たとえば晃子では、夫が死んだことを認めたくない、生きていてほしいという願いによるものだった。しかし同時にそこには、「その先」にすすんだところでなにもない、それどころかいまより悪いという感覚もあったのである。結果、晃子ものらも苦痛のなかにとどまることを無意識に選択してしまう。のらでは、生き残ってしまった罪悪感が「その先」にあるわけだが、残された晃子にもその感覚はあったろう。過去にとどまることでもたらされる苦痛はこれを解消するものでもあったはずだ。
どうすればここを抜け出せるのか。のらでは「娘」が決定的となった。生き残った罪悪感とは、「なぜ死んだのが他のひとでじぶんではなかったのか」ということだ。犯人の恣意や偶然が、現実的にはそれを左右したわけだが、そういうはなしではない。この感覚の裏側には当然、それはじぶんになりえた、また肥大して「じぶんが死ねばよかった」にやすやすと転じうるのである。これを解除するにはふたつの道がある。ひとつはもちろん、このような呪いから逃れることだ。犯人の恣意や偶然がじぶんを生き残らせたという客観のみを容れて、そうした負の感覚を忘却するのである。しかし現実にはそのようにうまくはいかない。いちど刻まれたこころの傷は人格を形成するいち要素となるから、それを忘れるということは、人格そのものを改変したり、部分的に抹消したりすることを意味するからだ。
ではどうするかというところで、ひとは必然性に救われる。じぶんが生き残った「理由」をはめこむ物語を創出するのである。
じぶんが生きていることには理由がある、必然性がある、このように考えることで、こころの傷がもたらした人格的歪みはそのままに、呪いは解除される。しかしこの視点には新たな苦痛の芽がある。それは、死んだひとへのまなざしのなかにある。自分が生き残ったことには理由がある。とすれば、死んだひとにはそれがなかったことになる。そんなはずはないのに、みずからの生の必然性を強く感じるほど、この差異の感覚は強まってしまう。だからひとは“弔い”をするのだろう。じぶんにできて死んだひとには可能性のレベルでもできないこととは、その死者を弔うということだけだ。この使用法の範囲では、“弔う”という動詞はほとんどなにも意味せず、同時に多くを意味している。生還したものが亡くなったものをまなざし、その死を悲しみ、やすからな眠りを願うときわたしたちがすること、それが“弔い”なのだ。苦しみ抜いた彼女たちがようやく見つけた「必然性」は、このとき弔いになる。だからのらはやっと烏丸一家にまっすぐ向き合うことができたのである。
晃子においては、のらという、夫が救った生命が、娘を通じて必然性を獲得したという事実が、彼女を救うことになった。過去から逃れるためのいちばんのくすりは、時間はすすんでいるという物理的事実を知ることだ。しかしそれはただ知るだけでは不足だし、逆効果の可能性もある。必要なのは納得だ。晃子は、のらと娘の存在に、現在に至るまでの時間の流れを遠く感じとった。その上で、晃子もまた夫を弔わなければならない。夫をきちんと死なせ、じしんの生に必然性を見出すのである。今回ようやく彼女はその一歩を踏み出せたのだ。
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