第140審/三つの裁判⑥
服役中ののらを、彼女の娘・梨沙のかわいらしい手紙を携えて亀岡が訪れている。烏丸もいる。亀岡と烏丸のみの組み合わせっていままであったっけ?なにか新鮮な感じがある。
梨沙の手紙はたくさんある。これは…たまらないなあ。なによりも罪を悔いる罰なんじゃないかな。
お手紙にはとにかく会いたい気持ちがあふれている。薬師前が親戚に連絡をとって預かってもらってるみたいなはなしだったけど、どう説明してるのかなあ。
唐突に烏丸がのらの好きな食べ物をたずねる。市田を経由したインタビューで和解したのらを、烏丸の母は待っている。好きな食べ物を作っておく、要するに出所したら食べるから練習しておくということだ。のらはウイダーとこたえている。ウイダーって、プロテインのあれかな。伝えとくと烏丸は言っているが…
のらは、梨沙に会えるまで、18歳になるまで毎日手紙を書くと泣きながらいう。成人式でじぶんの振袖を着てくれるか心配しているが、亀岡はきっと喜ぶという。
いつもの屋上で九条、烏丸、亀岡、薬師前、ブラックサンダーが燻製パーティー。梨沙はいま6歳なので、のらが社会復帰するころには18か19になっている。のらは娘の成長を見ることができないのだ。娘と離れている九条にもそのつらさはよくわかる。お金では買えない大切なものを失い、外からの時間から隔絶されて、置いてけぼりの感覚だけが募っていく。それが刑務所暮らしだ。ここでは曽我部も想起されている。
九条が燻製の様子をみているあいだ、薬師前が亀岡になぜ今回の件で文句をいわないのかと尋ねる。法律の前で裏切られるのは当たり前のことだから、と亀岡はこたえる。九条は曽我部の利益の最大化を果たし、のらは伏見組から逃れるためそれを受け入れた。弁護士の複雑な判断の結果なのである。
久々の中川さんと娘のあいだでは曽我部が話題になっている。のらと同じタイミングで、曽我部がキャラ弁を作ったことがあるのだ。中川さんの娘も気に入ったらしく、曽我部は弁当屋になればいいのにと言っている。そうなればいいよね。出所したら聞かせてあげて。
独房、手を洗いながら、のらは梨沙のことを思い出している。ふわふわの髪、もちもちのほっぺ。それに触れたくておかしくなりそうになっているのだった。
つづく
触れたいものに触れられないこと、それがおそらく、基本的な自由を奪われた受刑者のいちばんの苦痛なのだろう。
刑法による刑罰の正当化は目的刑論と応報刑論の2通りの考えかたが存在し、さらに目的刑論は一般予防・特別予防と言った考えを内包し、また分岐する。要するに、どういう根拠で国が国民の自由を制約し、場合によっては命を奪うのかということだ。ここでこの論点に立ち止まることはしないが、今回ののらの描写は、おそらく真鍋先生が取材を通じて「なにがいちばんキツイか」を聴き取ったものではないかと思われる。自由の制限といっても、ピクリとも動けない拘束衣を着せられて五感を遮断されるというような状況ではないわけである。仮に家族が面会に来てくれなくても、九条のような弁護士は様子を見に来てくれるだろうし、そうすれば会話ができる。本の差し入れなんかもある。問題なのは、自由の「制限」ということなのだ。面会は、24時間いつでめよいわけではないし、本も、通常、内容など確認された上で渡されるだろう。この世に本が100冊しかないとして、「どれを読んでもよい」が真の自由だとしたとき、「このうち、この20冊は読んでいい」となるのが「制限」ということなのである。
ただ、これは、強い意志や、ある種の鈍感さを持ってすれば、乗り越えられるかもしれない。というのは、外にいるわたしたちには、本というものがその「100冊」だけではないことを知っている。だとするなら、わたしたちが「わたしたち」という自由のもとに読むこの世のすべての本以外にも、本は存在する可能性がある。これはSF的なはなしではなく、考えかたの模型だ。読むことのできるその20冊を全宇宙だと信じ込むことができれば、そこに体感的な自由の制約はない。魯迅が「鉄の部屋」と呼び、映画『マトリックス』が描いた蒙昧の檻に、一時的なことだと信じ込みみずからの世界を縮小してしまえば、そこにはもう自由の制約はない。くりかえすように、国がそれをすることの根拠、意味や価値は、議論の必要なことだろうが、受刑者がそれをどう乗り越えるかという現実問題に限っていえば、できるかどうかは別として、そのようなことが理論的には可能だろう。
ただそうした「制限」に属さない苦痛が存在し、それがのらのいう「触れる」ということなのである。量的縮小としての「制限」なら、意志の強さや鈍感さ、また慣れによって乗り切ることができるかもしれない。この本がだめでもあの本がある。しかし梨沙の頬に触れることをほかのなにかに代替することはできない。これは、たんに五感のうち特に触覚について、拘禁という刑罰が物理的拘束を意味するものである以上、痛みが強くなるということでもあるが、加えて相手の交換不可能性ということがある。九条がいう、失ってしまうお金で買えないものとは、このような「他で替えがきかないもの」のことなのだ。たとえば、時間である。また、特定のひとからの、曽我部では父からの信頼である。そして、この世にひとりしかいない梨沙という娘の頬なのである。刑罰は、こうしたものについての、解釈による乗り越えを許さないのだ。そのひとにとって特別な意味をもつものからの隔絶、それが、刑罰による自由の制約ということの正体なのである。
そのひとにとって特別なものとは、もちろんそのひと自身を構成するものでもある。とすれば、ここにおける「罰」とは、そのひとがそのひとであることから遠ざかるということでもある。これが刑法の予定するところであるのかは不明だ。だが、出所すればのらはまたのらとして生きていかなければならない。「悪いのら」であることから遠ざかるという意味ではこれも意味があるだろうが、刑法はそれら「特別なもの」をなんらかの価値判断のもとに区分したりはしない。のらは、大麻から離れることにはなるが、梨沙からも離れることになる。ここでのらがすがることができるのは薄らいでいく記憶だけだ。だから娘からの、また彼女じしんからの手紙が重要なのだ。のらがのらであることを忘れずにいることだけが、出所後に彼女が彼女に戻っていくときのたよりとなるのである。
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