第54話/“空手”
神心会本部で謎に行われつつある愚地独歩と門下生の立ち合い。勝てばいっきに伝説という状況にあらわれたのは、現役最強のチャンピオン、末堂厚である。
克巳は、独歩の空手が競技用のそれとはまったく異なるものであることをくりかえす。そんなことは誰でも知ってるし、「競技」を成立させたのがそもそも独歩世代なのだから、なんだかわからない念押しだが、末堂は表格闘技の強者で、競技ばかりのファイターだから、念のため付け加えた感じかもしれない。
末堂はそれに対して、克巳よりむしろ自分のほうが独歩の空手がどんなものか知っていると、謎のマウントだ。なぜか館長をやめた独歩が館長呼びで克巳が師範呼びだ。独歩にかんしてはまあ、「カンチョー」っていうか、ぼくもむかしバイトしてたコンビニの店長とかにばったり会うと「テンチョー」って呼ぶけど、そういう感じかもしれない。しかし克巳の師範呼びはかなり失礼な気が…。こういう場では、役職ではなくてたんに先生という意味でそう呼ぶとかかな。いずれにせよ、両者には独特の距離感がありそうだ。
マウントの意味はわからない。末堂もたぶん内弟子とかだろうし、息子の克巳以上に直接の稽古は多いのかもしれない。それに克巳は天才だから、適当に教えたらあとはひとりで完成させてそう。また、競技者だからこそちがいがよくわかる、というような意味もあるかもしれない。
なにかゴニョゴニョやっている克巳と末堂を制して、末堂が焦れてると、独歩がいう。焦れてるのは独歩である。末堂は緊張からかかなり汗をかいている。
開始とともにガードをかためた末堂が接近、左の追突きだ。しかし独歩はノーガード。突きはかわされたのか、とにかく当たらない。あっという間に巨大な末堂のふところに入った独歩が、右の手刀を首筋にあてがう。たまにやるひといるけど、ジャブの中に入るというのはふつうではない。あわせていてはいくらすばやくても間に合わないので、読んでいるのだ。
いちど寸止めされた手刀が、すぱッという、独歩の声とともに振り抜かれる。ダメージはないが、末堂がイメージしたのはすっとぶ自分の首である。武蔵が現世に持ち込んだイメージ斬りだ。いくら独歩でも首は切れないとおもうが、これはおそらく先程の末堂のマウントを拾うものである。垂木や瓶など、ふつう切れないものをさくさく両断するのが独歩の手刀だ。それを長いあいだ見てきたからこそ、このようなイメージをしてしまうのである。
末堂がダウン。たぶん失神している。大半の門下生はなにが起こったのかもわからないだろう。
しかしこれでは模範組手にならない。独歩で模範組手をやろうとしてたのかよという驚きもあるが、実際これじゃ誰の稽古にもなってない。他に…というところで、三島、長谷川、竹の3人が挙手。なかなかの気迫でまるで果し合い、独歩は喜ぶ。そして、それとなく独歩がうながし、3対1の組手が実現することになるのだった。
つづく
一対多が前景化されたものとして描かれるのは意外と新鮮かもしれない。ゲバル対マウスくらいかな…
末堂はほんらい相当強いはずなのだが、独歩には歯が立たなかった。しかしこれは、末堂の才能不足とか努力不足とか、そういうはなしでもないようにおもう。あの体格と闘争心である、末堂くらいなら、どちらかといえば才能があるほうととらえてもいいはずだ。
気になるのは克巳のブレた態度である。克巳は、この組手でなにがしたいのだろう。なんとなく、独歩のほうでは“模範組手”をするつもりはなさそうにみえるし、じっさい克巳もそうして煽っている。しかるに、末堂はバリバリ表格闘技のかまえでつっこんでいってる。競技は、ルールによる制約によって成り立つものだ。いかに独歩が祖系的な実戦空手をやるのをわかっていても、末堂のほうでもしその競技の延長にある模範組手をやろうとしていたなら、多少は不意をつかれることになる。たとえばまさに手刀は、通常の組手稽古であらわれることのない技だ。これはグローブを使ったボクシングでいうフックの軌道で、おもに首から上をねらうものである。素手で打つフックは手首や拳に負担がかかるので、今回のような軌道で首やこめかみを打とうとしたら手刀のほうが利にかなっている。しかるにそれをしないのは、一般にフルコンタクト空手では手で顔面を打たないからである。末堂は、今回の組手がそのような技の飛び出してくるものであることを理解していただろうか。しかも克巳は、後出しとはいえ、“模範組手”とまで付け加えている状況なのである。
チャンピオンがそんな甘い認識でいてはいけないのかもしれない。しかし、少なくともそれを克巳や独歩はいえないはずである。なぜなら、彼らはそのように選手に制約を課し、技術向上のための合理的ルールを設定した側の人間だからである。プライベートの時間がとれないことについて会社が「仕事してるからじゃない?」と言ってくることはないのである。
このようにして、じつは表と裏、それぞれの格闘技には非対称なぶぶんがある。そう難しいはなしではない。赤信号を渡る歩行者がみえたら、車は急ブレーキを踏むだろう。ルールというものは、ぜんたいの合意と、たしかに遂行されるというそれぞれにおいての確信がなければ無効になる。ルールを想定しないものがあらわれたときにみずからのふるまいを微調整するのは(その瞬間的状況においては)ルールにしたがっている側なのである。
ただ、道交法とは異なり、格闘技のルールなどというものは一時的かつ閉鎖的なものだ。今回のように、道場で、しかもじゃっかんの“模範組手”ふうの雰囲気がある状況では説明不足が否めないが、ストリートで律儀にフルコンルールを守る必要はないのだし、そこからどうやって離れるかが競技人の課題となる。しかしそれは末堂の問題だ。このように考えたとき、実戦とはなにか、少なくとも、独歩が体現するような実戦性とはなにかということが少し見えてくる。さまざまな相があることとはおもうが、両者の非対称性に注目したとき、実戦性は、ある種の没コミュニケーションに宿るのである。ひとは、多かれ少なかれルールに縛られている。なかには超自我的に内面化され、道徳と化しているルールさえある。まずはどれだけここから逃れられるかが最初の課題になる。次に、非対称性があらわになる。ルールによる拘束の程度はひとによって様々だ。だから、厳密にいえばすべての人類は誰に対しても非対称であるということになるかもしれない。思えば格闘技におけるルール設定はこれを解消し、まったく同じ条件に両者をおくものになるわけだが、実戦では、相手にどれだけルールにこだわらせるかがポイントになってくる。つまり、不意に赤信号をわたりきることのできるもの、合意を無視できるもの、これが実戦では勝者となるのである。これは黙って、いきなり行われるものだ。いまから赤信号をわたりますという宣言は、ごくせまい範囲における新たなルール設定にとどまるものである。これが没コミュニケーションということだ。
こういう意味で、克巳のブレた態度はコミュニケーション不全に近く、やや独歩に加担したものにみえる。だがそれこそが実戦なのだ。競技者は、車のドライバーとして正しく、「歩行者が赤信号で立ち止まるとは限らない」というゆさぶりを受けることになるのである。
そういうことならと、信号なんか全無視で爆走してやるとなったのが今回の3人だろう。しかしゴールド免許保持者は果たしてその必要となんなら許可があったとしてアクセルを思い切り踏めるのだろうか。そして、それになれたアウトローたる独歩を捕捉できるのだろうか。なんかへんな読み方になってしまったが、これもひとつの視点になりうるかもしれない。
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