すっぴんマスター -4ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第130審/日常の犯罪⑬



ついに伏見組に壬生が見つかってしまった。すでにタイで見つかっていた菅原を張っていた出雲の子分が、菅原に金を貸しにきた壬生を目撃したのである。壬生はこれ、洗濯してるの?


出雲は案外冷静だ。冷静すぎて超こわい。なにこのひと。彼は、部下に経緯を訊ねる。まず菅原は、伏見組とつながりがある現地の金融屋を通じて見つかった。ギャンブルで金が必要になり、念入りにタイまでかけていた指名手配に引っかかったわけだ。出雲がそこですぐ菅原をつかまえずに泳がせていたのが壬生発見に繋がったわけである。

なんか事情はわからないが伏見組はタイで海苔巻き屋をやっているらしく、そこに組員もいるらしい。そこに4人、さらに兵隊を送ると出雲はいう。そこにはどうも宇治も含まれているようなのである。


さて、屋上でブラサンと戯れる九条のところに記者の市田がやってくる。

マスコミ報道で人生を変えられてしまったひとを新連載のコラムで取り上げたいということである。この言い方だと、新連載の主旨がそういう人々をあつかうということなのか、それとも連載開始のいまだけなのかわからないが、最初に烏丸、そして烏丸父の事件を取り上げたいということなので、少なくともしばらくは続くようだ。そして、できれば烏丸母も。

九条があっさりお母さんは無理だと応えるから、市田は、あのとき週刊誌の記事で烏丸父を悪く書いたのはじぶんだと告白する。烏丸らへのつぐないという意味もあるが、そのままマスコミ側の仕事を続け、他ならぬマスコミの仕事において贖罪をすることに意味がある、というような感じだろう。罪を償うとともに、マスコミというものの歪みを正すことにもつながるから。

九条はズバズバとはっきりいう。しかし市田は、手段はどうあれこの仕事をまっとうしたいという感じだ。人生をかけるという市田に、どう転ぶかわからないとしつつ九条も折れるが、逆に九条のほうから、会ってほしい人物がいることが告げられる。むろん、最近知り合った、事件の被害者であるのらである。九条から話を聞いた烏丸は、たしかに荒療治だがふさぎこむ母親を治すいい機会かもしれないが、あまり乗り気ではない。


烏丸がはなしを飲んだかはまだわからないが、のらは承諾してくれた。恩人の家族に会うということで緊張しているのら。事件を思い出すやら感謝の気持ちを思い出すやら、胸がいっぱいになって涙があふれる。それを、小さな娘が慰めるのだった。



忘れそうだが曽我部は出雲に言われて井出を大麻農場を案内しているところだ。しかし部屋にはなにもない。文字通りなにもない。とぼける曽我部を井出が殴る。と、よく見ると窓が外側から割れている。誰かが盗んだのか?心当たりは?と聞かれ、曽我部はあると応える。佐々木久馬なのであった。




つづく



並行して重要なはなしが展開するウシジマくんみたいな展開でわくわくする。


大麻部屋にはかなりいろいろなものがあったので、ここまできれいに持ち出すのはひとりでは難しいだろう。百井と曽我部が意味ありげに視線を交わしていた場面もあった。たぶん、久馬に部屋がバレた件をうまく利用し、苗や機材を移動させたことがバレないよう、彼に罪をなすりつけるつもりなのだろう。百井にとっても久馬は腐れ縁、邪魔なだけだったろうし。出雲らから逃げられるわけではないがとりあえずこの場はなんとかなるだろうし、一石二鳥かもしれない。


タイには宇治もいくことになりそうだ。

宇治と壬生は信念で結びついており、宇治が壬生を殺すようなことはおそらくありえない。だが宇治がヤクザのままでいることもまた彼らにとっては重要なので、宇治はあくまで出雲も命令を守りつつ壬生を助けなければいけない。こう考えると、やっぱり菅原が売られるかたちになるのではないかと思われる。壬生が武器を提出して京極が捕まったことは事実として動かないので、彼らがすべきことはとにかく逃げることである。つまり、この場を逃げられさえすればそれでいい。菅原はそのための生け贄としてちょうどいいのではないかというはなしだ。菅原じしんも追われているのだし、多少は伏見組の溜飲も下がるだろう。まあ、菅原があることないことしゃべって出雲の壬生へのうらみが増大するかもしれないが…



烏丸家とのらの接触は、父の死から停止してしまっている時間を動かして、緊張状態を寛解する可能性が高い。

烏丸も母も、父が英雄的に死んで、それが週刊誌のゴシップで毀損されてから、過去に生きている。母はふさぎこみ、現実を直視できなくなってしまった。烏丸は、弁護士業に救われることになっているが、対症療法に近く、根治はしていない。彼は異様な数の昆虫標本を家に飾っている。標本は、昆虫を瞬間のなかに封じ込め、観察したり鑑賞したりする方法だ。烏丸は法を通じてこの標本思考を世界解釈として実現している。裁判は判例によって部分的に制限されている。そうした判例、また、とにかく過去にあった事例を、それぞれパターンとして受け止め、分類して管理する、そういう標本思考が、彼の弁護士業には生きているのである。だから烏丸は、母と同じように硬直した過去にとらわれながら正常でいられる。つまり、彼にとって弁護士業は、根治を阻みながらもそれによってもたらされているものを完全に活かすことのできる仕事なのだ。


市田による取材は、まずは市田じしんを回復するものだ。そのためにそっとしておいてほしい当事者をつかうのは自分勝手かもしれない。しかし市田はあの事件を後悔しているし、そもそも当時からして本意ではなかった。彼女はいまでも記者である。報道、マスコミの仕事にももちろん価値があるのに、彼女にとってはあの件がずっと引っかかっていた。このままではマスコミとしての正しい役割さえ肯定できない。他ならぬじぶんが、あの事件を再び取材し、反省とともに世間に示さなければならないと、ここには自己肯定に加えて使命感も見えるわけである。



ここにのらも加わる。硬直した過去を動かすのは、「硬直していない」という物理的事実である。なぜ過去にとらわれすぎるのが良くないのかというと、それが過去だからである。時間が止まっているように感じられても、事実はそうではない。時間は、好むと好まざるとに関わらず進んでいる。だから硬直した過去は現実の流れと齟齬をきたすことになる。つまり、必要なことは、硬直は錯覚だったと悟ることなのだ。これを理解するために、事件からときを経て立派になったのらの姿ほど効果的なものはないだろう。過去のなかに父がいるぶん、そこにはあたたかさもあるだろう。だから母はいやがるかもしれない。しかしほんとうの体温はもうそこにはない。のらを通じて、母は事件に真に直面することができるはずである。



しかし、問題はむしろ烏丸なのだ。なぜなら、彼の仕事は標本思考によって成り立っているからだ。これを融解することは、根治につながる。だが同時に、夜中に勝手に行われるスマホのバージョンアップみたいに、その世界認識の更新も自動的に始まってしまうのである。だから烏丸はなんとなく乗り気ではないのだ。烏丸は弁護士としての九条のありかたにとても興味を持っているわけだが、しかしそれはこの先にしかない。



以前、烏丸の思考法を無時間モデルと解したことがある。







ここでいう無時間モデルとは、空語を厭う、もしくは理解できない彼が、言葉の意味の充実を求めて法律家になり、リニアな意味の連なりを見出しているということだ。「空語を厭う」は、父の理不尽な死によるものかもしれない。父の死をもたらした犯人の心情はまったく理解できない。あの犯人における「犯罪」という語には、まったく意味が入っていない。空っぽだ。そんななかで、語のなかに「意味」がピッタリはまった法律の文章だけが心強かった。しかし法律の文章には基本的に時間が流れていない。ひとによって、また同一人物でも日によって、内容の解釈が異なってしまうようなものは法律にならない。これが烏丸に無時間モデルの思考法をほどこした。通常、言葉において、意味するもの/意味されるものはそこまで安定しない。プロレスファンと格闘技ファンでは「強い」の意味がよく似ているのにまったく異なっている。「日本一のたこ焼き屋」みたいな表現もそうだ。彼は「意味」が一望のもとにおさまらない不規則かつ予測不可能な時間的モデルを嫌う、もしくはうまく理解できないのである。おもえばこれは、事例を単位のようにあつかう標本思考につながっていたわけだ。標本思考はいわば「理解できないものの一覧」なのである。彼は、それを放置することじたいをよしとはしない。ではどうするかというと、事例として分類するのである。





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第53話/蠢く猛者ら




1話足らず使って刃牙に挑み1話足らずで完敗した加藤。わかっていた結果ではあるが、もうちょっとなんかあって欲しかったかな…


それについて、花田が光成とハブ酒を飲みながら話してる。弱いというわけではないが、相手が刃牙じゃ痛めつけてももらえないと光成はいう。ドリアン戦を見せてやりたいなあ。加藤はホンモノのファイターなんだけど。

笑いつつ、厳密には少し痛めつけられたと、フォローにならないが、加藤を知る花田はいう。いらついた様子がないのは、刃牙が強いのがもっともだからだろう。加藤が弱いというか刃牙が強すぎるのだ。

自分はやらないのかといわれ、まったくそんなつもりがないことを花田ははっきりいう。あれは、小型ではあるが、頭脳と猛毒を備えた猛獣であると。どう甘めに見積もっても無理だ。


一拍おいて光成が、師匠である本部の花田評を引く。センスや姿勢、身体能力など、入門初日から逸材だったと。花田はあまりの光栄に鳥肌を立てている。以前ならともかく、いまの本部は「宮本武蔵を倒した人物」である。その言葉の価値も大きい。花田は最初からその価値を理解しているだろうが、改めていまの本部からいわれたは感動も大きいだろう。

光成はその「光栄」をどう使うかとあおるが、花田は良くも悪くも身の程がわかっちゃう男だ。刃牙、勇次郎、本部、克巳、ジャック…。本当の天才たちを知っているのである。


そのひとり、愚地独歩が道場生が大勢いるなかに正座している。克巳の司会で、道場生と組手、というか立ち合いが行われるようだ。といっても、よくある独歩の稽古としてのそれではなく、今回独歩はあくまでゲスト指導員という感じっぽい。勝てば今日から伝説になれると聞いてみんなわりとマジの顔になる。勝てばね。勝てばだよ?虎に勝つ人に勝てばね。


そこへ現れたのが末堂厚である。



つづく



ジャック(=本部)による「刃牙らへん」の特殊解釈、「エエカッコしい」なものたちという括りはいったん置き、言葉そのままの、刃牙に登場する魅力的な周辺キャラを描いていくはなしになりそうだ。


末堂は『グラップラー刃牙』時代からいる、最初のボスキャラである。モデルは極真の八巻。神心会決勝で刃牙と対戦、そこから独歩を通じて裏格闘技といえる地下闘技場へはなしを移動させる流れでもあり、いわば表格闘技を象徴する人物であった。とはいえ、八巻がモデルである、表とはいえ神心会のチャンピオン、実力はある。ファイターとしてはずいぶんおとなしくしていたが、ドリアン戦で復活、負けはしたがふつうに強いということがよくわかるいいファイトをみせた。このたたかいがまた、死んでる可能性もある終わり方で、しばらく出てこないのが心配だったが、ピクル登場あたりでときどき姿をみせるようになっていた。


表と裏でなにが異なるのか、ひとつにはルールである。一般にわたしたちが目撃する格闘技の試合がどのようにルールを定めるかというと、選手の技術をどう高めるかという面と、入門者を増やすためにどう興行を成功させるかという面のふたつがあるようにおもわれる。ルールが厳しく、タイトであるほど、選手全体の技術が向上することはボクシングや柔道、レスリングをみれば一目瞭然である。現代では総合格闘技のルールも選手も洗練されてきているが、それも長い歴史を通じて問題点が共有され、ひとつひとつ解消されてきた結果だ。

しかし裏格闘技は基本的にルールがない。厳密には、たとえば地下闘技場は武器が禁止だったり、一対一だったり、決まりごとはある。試合の時間と場所が決まっていることも制約のひとつだ。しかしそれは、ルールを設けていくというより、路上の実戦から必要な箇所を削っていくという感覚である。

どこからこういうちがいが出るかというと、ひとことでいえば主催者である。格闘団体が主催する試合は、いま述べたように選手の技術向上と興行の成功が目的となる。原理的には試合場とは、修めた技術を確かめる場所であり、相手を倒す場所ではないのだ。しかし裏格闘技は試合会場、ハコが主催者となる。そのハコが実戦を志向すれば裏格闘技に近づいていく。やがて地下にもぐり、法すら感知できないほど深く隠れてしまったとき、それは地下闘技場となるのである。


裏格闘技、つまり、刃牙らが生きる、法を超えた場所での強さ比べの現場でも、表の格闘技者が強いということはありうる。裏格闘技ではひたすら個人が比べられるので、たとえば世界最弱の格闘団体でも所属しているのが勇次郎なら裏でも強いのは当たり前である。ただ、末堂には明らかに象徴的影がある。述べたように、彼は物語としては踏み台にされるかたちで現れたのだ。


表と裏そのものは、親子喧嘩、武蔵編を経て完全に接合した。前回も貼ったリンクだが、読んでほしいのでまたつけておく。






こういう状況で、裏格闘技の住人たちは少しずつ存在を了解されつつある。実力差があるぶん、基本的には表が裏を迎え、負けるというパターンに必然的になっていく。裏で名をなすものは個人で強いものたち、まさに花田のいう天才たちなのだからそれも自然だ。しかし、個人であることから逃れたとして、表格闘技者は弱いのだろうか。大相撲編では、巨鯨などが個人としての強さを見せはしたが、結局は刃牙らにまったく歯が立たなかった。しかし末堂はどうだろう。末堂個人が強いということはもちろんある。だが、くりかえすように、末堂は「表格闘技の強い人」代表みたいなところがあるのだ。かなり高い確率で、彼のファイトは個人対個人にならないのだ。ドリアン戦が例外となったのは、加藤をやられたうらみが、その強い原動力となっていたからだろう。流れとして独歩はしっかり裏の技を使いそうだ。つまり表向きの技術体系にない技だ。末堂がこれをあくまで表格闘技者として受け止めるのか、才能ある個人として対応するのかでもはなしは変わってくるが、できたら表格闘技の技術で応えてほしいところである。









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第129審/日常の犯罪⑫



百井らを詰め、農園を案内させようとする出雲。曽我部と百井は意味ありげに密かな視線を交わしている。出雲は井出というさっぱり顔の若者に車を出すように指示する。


九条の事務所。訪れているのはのらである。百井に5000万で農園をゆずったタイミングで出雲が出てきたので、のらはうまいこと逃げられた感じになるのかと思われたが、ちがうみたい。

のらのフルネームは野村乃蘭という。のらは本名だったのだ。なんか全体にかわいい名前だな。曽我部の紹介で来たという。のらと聞いて九条ははじめて理解したようなので、曽我部は「のらさん」としか言ってないのだろう。曽我部らしさとそれでかまわずにいる九条らしさが出たやりとりだ。


のらの用事は、現行のトラブルではなく、曽我部も言っていた立て続けの職質である。警察の内偵が入っているのではないかと。そのときは、内偵が入っているなら警察はなにかつかんでいる、という話だった。職質じたいは任意だが、現実にはなかなか断れるものでもなく、へんに暴れると公務執行妨害となる可能性もある。だから応えるしかない。これからこわいのは家宅捜索で踏み込まれ、栽培の現場をおさえられることだ。

九条はくしゃみをしながら説明し、鼻炎にきくのか、フリスクをかじってのらにもわける。

以上はまあ当たり前のはなしで、問題は、なぜ内偵が入っているのか、そしてどのタイミングで警察は踏み込んでくるのかである。内偵じたいは、内部からの情報提供か、客からたどっていく突き上げ捜査の結果と考えられる。まあ、ありうる話だということだ。家宅捜索についてはこれ以上議論はないが、とりあえず電話は通信アプリを使って履歴をすぐ消すなどするように九条はいう。九条はこんな指示しちゃって大丈夫なのかな…。すでにのらはやっているようだが、弁護士がそんなアドバイスをくれることに喜んでいる。


そこへ烏丸が法廷からもどる。顔をみて、のらは、二度見するような妙な反応をみせる。そして、お父様はご存命か、それは烏丸克信さんではないかと聞く。訝しむ烏丸に事件を知っているとだけ話して、今後のことを頼みながらのらは帰っていく。九条はのらが誰なのかわかっていたようだ。烏丸の父親が命をかけて守った女性なのだった。


タイにいる菅原と壬生。菅原はタイでビジネスを始めたと言っていたが、始めたところなのでいろいろ物入りなのかもしれない、壬生からお金を借りたらしい。壬生はなにしに菅原に会いにきたのかなと思っていたが、これなのかも。

菅原は手広く稼ぎまくる壬生の手腕を素直に認めている。壬生ならタイでも成功すると。それは、流れを読んでためらわず先手をうてる1パーセントの人間だ。公平を求めて、不公平をなげき、いつも親や政治家などのせいにしている人間にはそれは不可能である。




「世の中は支配と操作で動いてる。

1パーの人間は善人の顔して奴隷を作る。


善良な人間は使い捨てのコマにされる。


捨てられる前に自分から盤をひっくり返さなきゃ人生を変えられない」




こう言う壬生は、菅原のことをどう思っているのだろう。


井出のしけた車で出た出雲ら。出雲は百井と車で待つとし、井出は曽我部に部屋を案内させる。たしかにあの栽培部屋のようだ。すんなりここまで来たが…。

車内の出雲のところへ草生というものから電話。タイの描写に描かれていた人物だ。ついに壬生を見つけたという重大な報告なのだった。



つづく





菅原はもう見つけたというはなしだったから、辛抱強く菅原を見張って、今回ついに壬生が現れたということだろう。


のらはまだ退場ではなかったか…。それどころかメインストーリーにからむ人物だったわけである。

烏丸の父が誰を守ったのか、そしてその人物が助かったのかどうかは、いままで謎だったようにおもう。

この事件の犯人を弁護したのが流木で、検事が九条の父・鞍馬だった。そして傍聴席には若い九条や、被害者の息子である烏丸も当然いたのだ。なんか宇宙的意味が感じられる裁判だ。もちろん、その犯罪の理不尽さを考えたとき、弁護人を通じて守られる加害者の権利というものはどういう価値をもつのかという点で、作品を駆動する「法制度の存在理由」について問いかける立場と響き合うのだが、当事者である烏丸にとっては後日談もある。当時週刊誌に配属されていた記者の市田が不本意にも加担した暴露で、父の英雄的行為は毀損されてしまったのだ。ただでさえ、父の急死は烏丸ら遺族を宙に放り出したろう。ここへさらに人の世のままならなさのようなものも痛感され、彼らにはなにもたしかなものがない状況になっていたのである。

現在の烏丸の部屋には無数の昆虫標本が飾られている。烏丸じしん、父の死を、厳密には父の死の意味を受け止めることができていない。彼はこれに、昆虫を時間から解き放って対象化する標本と同じく、硬直した過去の事例に弁護士として直面することで自己を保っている。弁護士の仕事が、あのときのことをたしかな事実として受け入れさせ、烏丸をぎりぎり生かしているのである。


そこにあらわれた、父が守ったというのらはどういう存在だろうか。それは、事件に体温を加えるものなのだ。事件の「標本化」は、烏丸が弁護士であるから成り立つ自己治癒である。そうでない当事者、つまり母親のような遺族がこれをすると、過去は硬直し、身動きがとれなくなる。のらの登場は硬直した過去を融解し、いきいきとした事実にする可能性がある。それは、ふつうに考えたら「いいこと」なのだが、いまそのように硬直した事例を参照先とすることで弁護士業につく烏丸ではどうだろう。烏丸は、九条と比べるとロゴスの人間、言語を通じて受け取ることが可能な事物をもってして世界をあまねく認識するものであり、これは思えば標本思考が根本にあったわけである。のら登場はこれの解除を暗示するというはなしだ。それが烏丸にとってどうなのかは不明である。九条のような弁護士にはなれるかもしれないが、烏丸の持ち味が失われるのは惜しい気がする。が、それも目を背け続けている傷があればこそだとしたら、それでいいのかもしれない。



見つかってしまった壬生だが、引用のセリフもあり、なんとなくこの状況は菅原を売りそうな雰囲気である。菅原はいまお金がない。人望はどうなのだろう、わからないが、タイに子分を連れてきている様子もない。ひとを貨幣のようにとらえることができる冷酷な壬生にとって、もう菅原はあまり役に立たない、というか、いまがもっとも役に立つときということにならないだろうか。菅原の油断し切った感じも引っかかる。いちどは殺されかけた相手なのにな…。菅原はもっとできるやつだったよね。だからこそ壬生は引き入れたとおもうんだけど。なんかボーっとしてるなあ。



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第52話/児戯




じぶんが更新遅れているぶん、一週勘違いしていた。すみません。まあ、もともと最近はこんな感じのペースだが…。というわけで駆け足でいきます。



刃牙の強さを武術家として正しく疑い、尾行する加藤。尾行はいいとして、いつどこでしかけるか加藤は迷っている。と、前方をいく刃牙が急に曲がり、危うく見失いかける。もちろんそうはならない。とっくに尾行に気づいていた刃牙が相手を気遣っていい感じの駐車場に入ってくれたのだ。


刃牙は相手が加藤だとまではわからなかったようだ。気配がありすぎて、誰かがきているのだけわかった感じである。それでおあつらえ向きの駐車場に入っているのだから、主導権はもう刃牙のものだ。尾行する意味なかったな。


バレバレだったのがじゃっかん気まずいが、気を取り直し、加藤は疑っていることを述べる。こわいもんなしみたいな顔してるけど、そんなに強いんだっけ?と、これから負けるひとみたいなからみかただ。まあ負けるんだけど。

ただ、じっさい刃牙の態度は「なぜか親戚の評価はやたら高い悪役令嬢」みたいで、鼻にはつく。明らかに加藤をなめており、これはちょっとムカつくかもしれない。

刃牙は、加藤さんなんだから不意打ちしたらいいのにと、加藤でなくてもどういう意味だと言いたくなる言い草だ。とはいえ奇襲不意打ちは事実実戦派の加藤には自然な行動でもある。無意識に実力差は理解しており、奇襲をかけることで現れるかもしれない刃牙の「本身」を回避しているのかもしれない。


不意打ちをしなかったのはその必要がないから…などとしゃべりながら加藤がしかける。なにかはわからないが左手だ。しかし刃牙の右縦拳がこれにあわせて加藤の眼前にそっと置かれる。「グー」と。これを弾く加藤の動作にあわせて「チョキ」が目の下に添えられる。最後に放たれた左上段には金的への「パー」である。じゃんけん、児戯というわけである。


金的を叩かれて苦しむ加藤の手を刃牙が握って起こす。チャンスとみた加藤だがあっさり合気でからだが回転。ちょうど握手の態勢である。ここで終わりにしませんか?という刃牙の言葉を受け、加藤は「お見それしました」と負けを認めるのだった。



つづく



だめか。まあ、そりゃあそうだよな。あまりにもかけはなれた実力。加藤、心折れないかな…。


刃牙にとっては児戯に等しいファイトだったわけだが、ここには刃牙独特のサディズムというか、彼の嫌なぶぶんがよく出ている。たんにじゃんけんという児戯に等しいたたかいであると表象するだけでもなかなかだが、その全パターンを刃牙はやったわけである。つまり、加藤はなにを出してもこのじゃんけんには負けるのである。刃牙は手を抜かれた相手の気持ちをピクル戦を通じて知っているはずだ。つまり、わかってやっているのである。

ただ、刃牙はピクルに手を抜かれたとき奮起してもいるので、そのように決めつける前に一考する余地はあるかもしれない。このように格下扱いされることでむしろひとは強くなると、刃牙はじぶんを標準としたときに考えている可能性があるのだ。加藤とは長い付き合いである。そうであってほしい。


加藤の疑いは粉々に砕けて消滅したことだろう。彼自身いうように、疑いをなくしたら武術家はおしまいだ。なぜなら、武術家とは、究極「じぶんがいちばん」だからである。しかし、とはいえ、刃牙との実力差を、加藤もほんとうはわかっていたはずだ。たしかに最近は刃牙世界のトップファイターでもその強さが「リアル」になってきているぶぶんがあり、これは親子喧嘩終了と無関係ではない。親子喧嘩を経て宮本武蔵に至り、そして大相撲編で実践されることで、刃牙らが住む裏世界とボクシングのチャンピオンや力士が生きる、監視カメラを通じて独歩の危険な技や勇次郎の不死身っぷりを見る表世界は繋がった。この結果として、本部のような意外なキャラが活躍するようにもなったのである。


詳細は以下に。記事4本、めちゃくちゃ長いけど、刃牙道まとめに書いた考察記事です。おもしろいよ!





こういうわけで、板垣作品である餓狼伝を読んだ後だと「強さ」のものさしが狂い、ぼくもこの感覚になるが、なんか刃牙の強さが計測できるような感じがしてしまうのだ。

加藤はそんなメタ事情は知らないわけだが、一種の波が来ているのだろうとは思われる。表裏合体それじたいは、作品世界のなかでじっさいに起きているからだ。となれば、「じぶんがいちばん」である武術家がじしんの度量衡を疑うのも自然なことである。価値観が変わりつつあるなかに彼は生きているわけなのだから。


しかしそれでもやっぱり刃牙は圧倒的に強かった。こうみると、案外加藤のメンタルも心配はいらないかもしれない。価値観が微妙に変化した世界で、加藤は「あの体格でそこまで強いなんてありうるか?」という、極めて常識的な疑問を抱えたのである。事実としてはありうるわけだが、加藤にはそれでも、新しい世界の座標軸の内側にじぶんの位置を見定める必要があったのだろう。


また、自明視されてきた「範馬の血」について加藤が少しでも触れてくれたことも今回は大きかった。広い意味での「刃牙らへん」は、そんなことをわけ知り顔に語る者たちではほんらいないはずである。独歩も、渋川も、ジャックも、じぶんがいちばん強くありたいはずだ。それを彼らが、また作品が思い出すきっかけになればとおもうが、難しいのかな。











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第51話/強いか



花山・ジャック戦についに警察が介入。勝負終了である。

だが、とめるまでもなく、出血多量で花山は限界だったようだ。武蔵戦もそうだったが、痛みでとまる男ではないので、いつもこのように機能停止するように気絶するのである。…と書いて、これもどっかで見た表現だなと気がつく。ジャックのトレーニングなのであった。ほんとうによく似たふたりだったわけである。


たほう、結果としてはボコボコにされたジャックだが、致命傷は負っていない。花山があの握力で首や顔面を狙っていたらはなしは違っていたろうが、どうあれそうはならず、蓄積したダメージでダウンはしたものの、歩いて帰れる感じだ。ジャックはわざわざ逆立ちをして起き上がり、形式的に質問をする警察に、ただの喧嘩だと述べる。どっちが上かの強さ比べ。ジャックは張り倒され、花山は出血で失神。ただそれだけだと。

花山を頼むとだけ言って去るジャックを止めようとするものもあるが、園田が制する。事実、ただの強さ比べだったろうと。被害届も決して出ないのだし、これ以上なにをどうということでもないのだった。


さて、花山ジャック戦が終わって、次の動きである。珍しくジャック抜きの展開っぽい。本部の道場で加藤と花田が刃牙の強さについて語っている。


加藤は、なぜか刃牙の強さを疑っているようである。武術家は疑わなくなったらおしまいだと。当初刃牙のライバルっぽい感じで登場した加藤がいうと重いな。もちろん、加藤だってほんとうはわかっているはずだ。しかし理性と自尊心が、いやいや待てよ、ほんとうにあの身長、あの体重で、そんなに強いなんてことがあるかと、ときどき揺さぶってくるのだろう。

花田ももちろん疑う日々だが、刃牙を疑ったことはない。そうおもうなら立ち合ってみればと、「LINE聞いてみたら?」くらいの軽さで花田はいう。

加藤はもうひとつ、「範馬の血」という、刃牙界ではなかば自明視されている強さの要素にも疑問と不満がある。範馬がふつうじゃないのはわかってるけど…、と、加藤はうまくことばにできないようだ。なんとなくわかるような気がする。それってもう、技術とか体力とか意味ないって認めるようなものじゃないかと、こういう気持ちだろう。少なくともそれを追うものが全面的に認めてしまうのはどこかいびつだ。親が優秀だから遺伝子が…などと言って競争相手の背中を見続けている現実を受け入れて良いのかというはなしである。


勇次郎はいいよと、加藤はそこは認める。しかし刃牙である。170センチ弱70キロ程度で、勇次郎に勝ったというのである。「勝った」という事実はあるし、理解もしているわけだが、納得できないという感覚だろう。


かくして刃牙と立ち合うことを決めた加藤は、昼日中、刃牙の追跡を開始するのだった。




つづく




加藤…。加藤よ…。


当初刃牙らへんはタイトル通り刃牙周辺のキャラクター、特にレギュラーではない、花田のような人物を描いていくのかなという雰囲気があった。やがて、もともとの意味…、本部がガイア、加藤と話していて、「エエカッコしい」な連中という意味で「刃牙らへん」と発言した、あの流れに還っていき、それを相対化する究極存在としてジャックが描かれてきたわけだが、「刃牙らへん」という語の解釈じたいは固定されたものではない。「刃牙(やその他レギュラー)のようなカリスマを前にかすんでしまう、まあまあ魅力的なのに出番がない人物」を指す語としたって別にいいわけである。花田はその代表格で、げんに「刃牙らへん」開始時は花山と戦ったりしていたのだ。その流れを、少し戻す感じかもしれない。


実はこういう展開は初めてではなく、死刑囚篇はまさにそういう内容だった。負けはしたが、ドリアンとたたかう末堂はかっこよかったし、ガイア、本部は持ち味を発揮していた。相手が無法者であったから、それに対応するものに最初からあった多様性が浮き彫りになった、というようなところだろう。

現在の展開には物語らしい物語はない。ジャックが宿した、「刃牙らへん」の意味をエエカッコしいと解釈する立場もひとつの見解にすぎないとすればなおさらそうである。ではどのようにして花田や鎬、加藤が現れうるのかというと、刃牙らへん、つまり刃牙のまわりに、オルタナティブでありながら主体性を持った存在として現れたときである。それはどんなときか? そのひとつが、「刃牙」に疑問を持ったとき、というわけである。


この「刃牙」もまた多義的だ。それは、まずは個人の名前であるが、その個人が、最強者としての名前であり、加藤の友人としての名前であり、「範馬の血」を流すものの名前でもあり、複雑に分岐する。だがここで加藤は多くを説明しないことである意味これらすべてに疑問を投げかけているのである。つまり、メタ的に、虫のいどころの悪い読者が「170センチ70キロでこんな強いわけねーだろ」などとおもうのと同質の感想が、加藤からももれでているのだ。つまりこれは世界そのものへの疑問である。そんな世界ありうるか?ということなのだ。いわば、自明としてあること、週刊連載漫画が常識としているようなことに、加藤は「武術家としての疑問」という形式で挑戦しているのである。


「範馬の血」もまた一種のお約束であり、「それを認めなければ議論がすすまない」というたぐいの公理的な前提だ。しかし加藤はあくまで物語の内部から武術家としてこの前提に疑義を呈する。武術家としては、そんなふうにかんたんに認めていいものではないということは書いたとおりだ。スポーツ選手が「外国のひとはでかくて強いから勝てないよ」などとは思っても認めないのと同じことである。そんなことを「当たり前」にしてしまってどうするということだ。だが、これはそれだけで済まない疑問なのである。たとえば「主人公」とか「ラスボス」とかが身にまとって行使する、作品が成立するとともにモノの道理として出現する権力構造、これを加藤はひとことで相対化したのだ。


ジャックは今後どうなっていくだろうか。彼が刃牙らへんにおける中心的人物であることはおそらく変わらない。なぜなら、「刃牙らへん」という語の解釈においてここまで当事者を揺さぶるものはほかに考えられないからである。だが、花山戦はこういう結果になった。ほんとうの実戦なら立ち上がれるジャックの勝ちかもしれないが、一時的にでもダウンしている以上、この段階では負けであるともとれるかもしれない。だが今回のたたかいで重要だったのはジャックの学びである。よく似たふたりのちがいは、規範を規範と認めるかいなかということである。ジャックにも明らかに美意識はある。花山はふだんやることがあまりない、つねりやゾウキン絞りなど、噛みつきと同属性の技をつかうことで、ジャックの批判精神、また「カッコつけない」もまた美意識ではないか、ということを伝えていたのだ。これはジャックに伝わったろうか。個人的には、いまジャックは批判者として強くなったのだから、伝わらなくてよいとおもうが、変化があってもいいかなとはおもう。なんかしばらく描かれなさそうなので忘れそうだが、再登場の際にはそのあたり注目したい。










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