第51話/強いか
花山・ジャック戦についに警察が介入。勝負終了である。
だが、とめるまでもなく、出血多量で花山は限界だったようだ。武蔵戦もそうだったが、痛みでとまる男ではないので、いつもこのように機能停止するように気絶するのである。…と書いて、これもどっかで見た表現だなと気がつく。ジャックのトレーニングなのであった。ほんとうによく似たふたりだったわけである。
たほう、結果としてはボコボコにされたジャックだが、致命傷は負っていない。花山があの握力で首や顔面を狙っていたらはなしは違っていたろうが、どうあれそうはならず、蓄積したダメージでダウンはしたものの、歩いて帰れる感じだ。ジャックはわざわざ逆立ちをして起き上がり、形式的に質問をする警察に、ただの喧嘩だと述べる。どっちが上かの強さ比べ。ジャックは張り倒され、花山は出血で失神。ただそれだけだと。
花山を頼むとだけ言って去るジャックを止めようとするものもあるが、園田が制する。事実、ただの強さ比べだったろうと。被害届も決して出ないのだし、これ以上なにをどうということでもないのだった。
さて、花山ジャック戦が終わって、次の動きである。珍しくジャック抜きの展開っぽい。本部の道場で加藤と花田が刃牙の強さについて語っている。
加藤は、なぜか刃牙の強さを疑っているようである。武術家は疑わなくなったらおしまいだと。当初刃牙のライバルっぽい感じで登場した加藤がいうと重いな。もちろん、加藤だってほんとうはわかっているはずだ。しかし理性と自尊心が、いやいや待てよ、ほんとうにあの身長、あの体重で、そんなに強いなんてことがあるかと、ときどき揺さぶってくるのだろう。
花田ももちろん疑う日々だが、刃牙を疑ったことはない。そうおもうなら立ち合ってみればと、「LINE聞いてみたら?」くらいの軽さで花田はいう。
加藤はもうひとつ、「範馬の血」という、刃牙界ではなかば自明視されている強さの要素にも疑問と不満がある。範馬がふつうじゃないのはわかってるけど…、と、加藤はうまくことばにできないようだ。なんとなくわかるような気がする。それってもう、技術とか体力とか意味ないって認めるようなものじゃないかと、こういう気持ちだろう。少なくともそれを追うものが全面的に認めてしまうのはどこかいびつだ。親が優秀だから遺伝子が…などと言って競争相手の背中を見続けている現実を受け入れて良いのかというはなしである。
勇次郎はいいよと、加藤はそこは認める。しかし刃牙である。170センチ弱70キロ程度で、勇次郎に勝ったというのである。「勝った」という事実はあるし、理解もしているわけだが、納得できないという感覚だろう。
かくして刃牙と立ち合うことを決めた加藤は、昼日中、刃牙の追跡を開始するのだった。
つづく
加藤…。加藤よ…。
当初刃牙らへんはタイトル通り刃牙周辺のキャラクター、特にレギュラーではない、花田のような人物を描いていくのかなという雰囲気があった。やがて、もともとの意味…、本部がガイア、加藤と話していて、「エエカッコしい」な連中という意味で「刃牙らへん」と発言した、あの流れに還っていき、それを相対化する究極存在としてジャックが描かれてきたわけだが、「刃牙らへん」という語の解釈じたいは固定されたものではない。「刃牙(やその他レギュラー)のようなカリスマを前にかすんでしまう、まあまあ魅力的なのに出番がない人物」を指す語としたって別にいいわけである。花田はその代表格で、げんに「刃牙らへん」開始時は花山と戦ったりしていたのだ。その流れを、少し戻す感じかもしれない。
実はこういう展開は初めてではなく、死刑囚篇はまさにそういう内容だった。負けはしたが、ドリアンとたたかう末堂はかっこよかったし、ガイア、本部は持ち味を発揮していた。相手が無法者であったから、それに対応するものに最初からあった多様性が浮き彫りになった、というようなところだろう。
現在の展開には物語らしい物語はない。ジャックが宿した、「刃牙らへん」の意味をエエカッコしいと解釈する立場もひとつの見解にすぎないとすればなおさらそうである。ではどのようにして花田や鎬、加藤が現れうるのかというと、刃牙らへん、つまり刃牙のまわりに、オルタナティブでありながら主体性を持った存在として現れたときである。それはどんなときか? そのひとつが、「刃牙」に疑問を持ったとき、というわけである。
この「刃牙」もまた多義的だ。それは、まずは個人の名前であるが、その個人が、最強者としての名前であり、加藤の友人としての名前であり、「範馬の血」を流すものの名前でもあり、複雑に分岐する。だがここで加藤は多くを説明しないことである意味これらすべてに疑問を投げかけているのである。つまり、メタ的に、虫のいどころの悪い読者が「170センチ70キロでこんな強いわけねーだろ」などとおもうのと同質の感想が、加藤からももれでているのだ。つまりこれは世界そのものへの疑問である。そんな世界ありうるか?ということなのだ。いわば、自明としてあること、週刊連載漫画が常識としているようなことに、加藤は「武術家としての疑問」という形式で挑戦しているのである。
「範馬の血」もまた一種のお約束であり、「それを認めなければ議論がすすまない」というたぐいの公理的な前提だ。しかし加藤はあくまで物語の内部から武術家としてこの前提に疑義を呈する。武術家としては、そんなふうにかんたんに認めていいものではないということは書いたとおりだ。スポーツ選手が「外国のひとはでかくて強いから勝てないよ」などとは思っても認めないのと同じことである。そんなことを「当たり前」にしてしまってどうするということだ。だが、これはそれだけで済まない疑問なのである。たとえば「主人公」とか「ラスボス」とかが身にまとって行使する、作品が成立するとともにモノの道理として出現する権力構造、これを加藤はひとことで相対化したのだ。
ジャックは今後どうなっていくだろうか。彼が刃牙らへんにおける中心的人物であることはおそらく変わらない。なぜなら、「刃牙らへん」という語の解釈においてここまで当事者を揺さぶるものはほかに考えられないからである。だが、花山戦はこういう結果になった。ほんとうの実戦なら立ち上がれるジャックの勝ちかもしれないが、一時的にでもダウンしている以上、この段階では負けであるともとれるかもしれない。だが今回のたたかいで重要だったのはジャックの学びである。よく似たふたりのちがいは、規範を規範と認めるかいなかということである。ジャックにも明らかに美意識はある。花山はふだんやることがあまりない、つねりやゾウキン絞りなど、噛みつきと同属性の技をつかうことで、ジャックの批判精神、また「カッコつけない」もまた美意識ではないか、ということを伝えていたのだ。これはジャックに伝わったろうか。個人的には、いまジャックは批判者として強くなったのだから、伝わらなくてよいとおもうが、変化があってもいいかなとはおもう。なんかしばらく描かれなさそうなので忘れそうだが、再登場の際にはそのあたり注目したい。
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