第131審/日常の犯罪⑭
2026年春、Netflixドラマ化に向けて、主演の柳楽優弥、松村北斗のコメントが掲載されている。ドラマ化については追って記事を書く(つもりだ)が、とりあえずビジュアル的には文句なく、製作者の履歴もいい感じで、かなり楽しみだ!薬師前が池田エライザなのもだいぶいいとおもう。というか池田エライザしかいない気がする…
今回は巻頭カラー、九条と烏丸が、横並びの国会と皇居、立憲主義と象徴天皇制に、この国独特の構造をみている。「理屈で立って感情で揺れる」とは烏丸の見事な評言だ。
ふたりは市田による烏丸、また烏丸母へのインタビューのため待機中である。いまから、というこのタイミングで、母親はやっぱりいやだと電話で言い出す。ひとことでいえば事実に、現実に、世間に直面するのが怖いというはなしだが、服が若い頃ので似合わないとか髪がへんだとか、第三者からすると首を傾げてしまうような理由づけだ。烏丸いわく、ユーモアのある変わったひとなので、そういうのもあるかもしれないが、「出かけられない理由を探す」みたいなことではなく、案外そんなものなのかもしれない。服が似合わないのはそれが古いからだ。しかしそれを「似合わない」と評価するちからはある。それを第三者に見られたくない、つまり、過去にとらわれて現実を生きていないことを第三者目線で知りたくない、という反応なのである。
弁護士になった息子がそばにいる、という心強い状況で母はようやく決意する。むかえにきた烏丸が見たのはマスクやメガネで完全に顔を隠した母親である。別にそれでもいいが、なんならリモートでもかまわないと烏丸が提案。声だけでもいいと、すでにつながっていた電話で市田がいう。
市田も緊張している。電話の先には市田と九条、それにのら。のらは命の恩人の家族に会うということで張り切ってオシャレしてきたがむだになってしまった。
市田は、過熱する煽動的報道で家族は傷つけられてしまったが、どのような思いだったかと訊ねる。夫は人を助けるために死んだのに“裏の顔”とやらをやたらに暴かれ白い目で見られてきた、真実を語る機会もなかったと母はいう。市田はその記事を書いたのはじぶんだと告げる。数字がほしいばかりにろくな裏どりもせず烏丸一家を社会的に殺したと、かなり勇気がいるであろう告白とともに謝罪する。母は、マスコミから謝罪を聞くのは初めてだとしつつも、当然受け容れはしない。今度は許しとお金が欲しくなったかと。
見かねて烏丸が標本のクワガタの写真を母にみせる。即気持ち悪いとするのが烏丸母らしさなのだろう。これは烏丸が父親ととったクワガタだ。母は、そのあと手は洗ったのかとか、帰り道に食べたサンドイッチが忘れられないといえば防腐剤と添加物がとか、トンチンカンな応答ばかりだ。まるでいま虫取りから帰宅した息子と話しているようなのである。
烏丸父は烏丸を喜ばせるのがうまかった。そして、誰かを守れという背中を見せてくれた。しかし母からすると、そのせいで夫は死んだのである。
のらが話し出す。母親も最初は驚いている。のらは、数年経ってからネット掲示板で烏丸遺族が残酷な目にあっていることを知ったがなにもできなかったという。事件当時は子どもで、リアルタイムでの騒ぎは追ってなかっただろうが、動ける年になってからもなにもしなかったことはのらにも悔やまれたのだ。しかし、あまりにも強烈な体験である。死体もみたはずだ。しかたないようにもおもえる。母親も当時のことは特に何も言わない。
のらはその後、ひとを守るちからが欲しくて自衛隊に入った。しかし現実は情けなかった。「決断する権利すらない組織」とは強烈だ。そこには主体性がなく、内部では上にぺこぺこして下に偉そうにするみっともない状況ばかりだった。
幻滅したのらはいまひとに言えない仕事をしている。烏丸母は、異様な反応速度でのらのこの言を拾う。ちゃんとした職業をしていたらまだ報われた、無駄死にだと。ありうる言説なのだが、のらの告白からほとんど間髪入れず言っているので、まるで前からそれを知っていたかのようだ。つまり、のらを否定できる材料が出てくるのを待っていたのである。
のらは涙を流して謝る。なにも出来なかったことを責められれ状況はありえたろうが、この責められかたは予想できなかったかもしれない。烏丸母は一方的にはなしを終了させようとし、市田が失礼を詫びる。が、失礼なのはどっちだかと、ここで思いがけず九条が介入するのだった。
つづく
予想をはるかに超えて殺伐としてしまったが、そこへ九条がだいぶはっきりした態度で入ってくるのがおもしろい。まあまあ…みたいには止めないのね。九条もこの事件は検事が父で弁護士が師匠という状況で近いし、のらは依頼人、烏丸は後輩ということで、おもうところはあるのかもしれない。九条はこういう状況でも実務的な態度をとることが多いし、皮肉ならともかく、「失礼なのはどっちだか」というような、「失礼さ」を評価する主観的立場をとることはかなり珍しい。つまり、九条はたぶんそれを主観的だとは考えていない。見たようにこの事件について九条は、当事者とはいえないまでも広く浅く関与している。だから第三者的視点が確保できているという感覚があるのかもしれない。
しかし、九条にはどのあたりが「失礼」に見えたのだろう。正常なコミュニケーションとは言い難かったとはできるだろうが、烏丸母の状況・体調を考えれば自然ともいえる。市田やのらに反論できない非があることもまちがいない。その上で「失礼」を論じようとすると、これは説教に近くなる可能性がある。ここで説教とは、たとえば親や教師が子どもに道理を説くとき、つまり、明文化されていない、もしくは子どもが共有していないこの世の摂理に彼らが背いたときの状況であるとする。その場合、走ってはいけない廊下を走る子どもを叱るのはただ注意になるが、いじめられているクラスメイトを見てみぬふりすることについて語るときは説教となる。書いていないから、もしくは若すぎるから、子どもにはその意味が理解できないかもしれない。だがいずれわかる。大人は、長く生きているぶんそれがわかる。だから教える。「公平に見て失礼だ」といえない状況で失礼さを説くには、そうした「そこにない条件」を加えなければならないのだ。これは法律家的態度とは言えないかもしれない。しかし、法律の初期衝動は、比較できない価値観の関係を調停するところにある。法律を規定する憲法、そしてそれを幹とする立憲主義が、そもそもルターの時代の宗教改革による価値観の対立から始まっているものだ。とするならば、これはむしろ、かなり原理的な意味合いで法律家といえるのかもしれない。薬師前に入ってもらいたいところだ。
烏丸母はもともとおもしろい人物だったらしく、どうもこのちぐはぐな応答もたんに事件がもたらしたものといえない感じがある。そして、じぶんが過去にとどまっていることの意味も、実は理解している。それが、服や髪型を理由に出かけたがらない場面にあらわれているのだ。服は古く、髪型はひとに会うことを想定していない。そしてそれを「変だ」といえるためには、それが古く、行き届いていないものであることを知っていなければならないのだ。知っているが、母は烏丸父の死を正面から受け止めることができないため、それを回避しようとする。つまり、それが起きていない過去にとどまるのである。より厳密には母の状態は事件後のものなので、前に進みたくない、その意志がないということを、身振りを通じて自他に示し続けることで、後悔や怒りを保存し、夫の死や存在をなかったものにするおそれのある「未来」から目をそらしているのである。それが「おかしい」ことは理解している。しかしあまりの理不尽さに、受け容れることができない。
烏丸も、平気にみえて、じつは同じところを揺蕩っている。ただ彼はそれを読み換え、逆に弁護士業に活かしてしまうことで前進している。昆虫の標本である。標本とは、時間の封入されたものだ。過去はそこに硬直したまま保存されている。だがそれには分類・管理の役割もある。これが、判例に成型される法律家の思考と相似形なのである。
のらの登場はこれを動かす可能性があった。事件の被害者である彼女が大人になって現れるという状況は、時間がすすまなければ起きえない。つまり過去から引き剥がすのである。しかし見たように、烏丸母は、じぶんの状況をわかった上でそうしている。だから、常に周囲を呪い、たとえば髪型を「変だ」とするような立場にある第三者を否定する見方に慣れてきたのだろう。それが、まるで待っていたかのようにのらの発言から間髪入れず彼女を否定するようなあの態度になるのである。
のらは守るために自衛隊に入り、幻滅し、みずからの手で守り、強くあろうとするため、「子ども」のように大麻農園とその一連の作業行程を考案した。これは、「決断する権利すらない」という強烈なひとことともに、ただのらという人物を豊かにする材料にとどまらず、作品に通奏する問題提起になっていきそうに感じる。今回冒頭の九条と烏丸のやりとりもそうだし、少し前の壬生と菅原、またしばらく登場がないが白州次郎みたいなひと、このあたりに、国への失望と力への意志が感じられるのだ。だが、法治や立憲主義、また平和を否定するものでもなさそうである。法律、また広く憲法には、あなたもわたしも平和に生きるためにどうするのがベストかが書かれている。それはたんなる、当座の約束事にすぎないのかもしれない。しかし、どうやらここには「守る」ための「力」と「平和」
のせめぎ合いがあるようなのである。法律はそこでどう機能するのだろうか。
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