第128審/日常の犯罪⑪
曽我部が九条を訪ねてきたあと、薬師前が依頼した仕事について烏丸に礼を言っているところだ。飲みに行くというのに九条はかってについていく。
ここで、曽我部が九条を訪れ、また犯罪行為に関わっているらしいことが薬師前に共有される。薬師前は驚くでもなく舌打ちまじりに馬鹿曽我部よばわりだ。
曽我部は模範囚だったわけだが、こうしてまたもとの状態に戻っている。烏丸によれば、出所者の半数が再犯をするらしい。住む場所も仕事もない、保証人もないし毎日が非正規の日雇い、生活も心も安定しないのだと、冷たい表情の薬師前が解説。「再犯」と聞くと、悪いやつが悪いことをくりかえすというたんじゅんな図像を思い浮かべてしまうが、そういう性悪説とか自然状態的なはなしではないわけである。曽我部が模範囚だったのも、曽我部を知っているものからしたら自然なことで、ここに偽りはない。そりゃあ、おとなしい曽我部は、模範的だろう。にもかかわらずこうなる。つまり、模範囚であった事実は、刑務所の外ではなにも意味しないのである。なんと虚しいはなしだろう。そして、ということは、模範的であると評価する刑務所の制度も、外の世界とはなにも関係ないことにもなる。
「刑務所は更生施設じゃない。
社会復帰困難者製造所ですよ」
九条も皮肉をいうわけである。
河辺のお店に着いてからもはなしは続く。
再犯はもともとの環境要因もある。孤立した状態でむかしの悪い仲間としかつるめず、また悪いことをする。さらに曽我部は知的障害や精神疾患もあり、支援がなければどんどん悪くなってしまう。
しかし九条にいわせれば、曽我部なりの経済合理性になる。社会はじぶんを受け入れない、ルールもよくわからない、そんななかで安定しようとしたら、リスクは高くても裏稼業にいくしかない。九条は別に皮肉を言ってるわけではない。そして、以上のはなしを聞くと、たしかに曽我部には曽我部の一貫性があるのかなという感じもする。
だが薬師前は当事者の合理性で仕事をしていない。再犯を、犯罪を減らすため、社会を改善するために働いている。でも社会のほうはなかなか更生に理解がない。わずかなものでも、支援がなければどうにもならないひとは大勢いる。でも全員は救えない。だから、可能性のあるほうから救っていく、というのが九条の持論だ。
さて、出雲に呼び出されている百井と曽我部。農場の規模を聞かれ、じぶんはディーラーでありグロワーではないというが、“今は”だよな?と言われる。グロワーが栽培するひとで、ディーラーが上位売人。通常の曽我部のポジション、いわゆる売人がプッシャー。出雲もこのはなしの意図、というか百井の返答がよくわからない。「農場」を持っているのはディーラーじゃないのか? それに“今は”ってなんだ? これから百井がグロワーになる予定はたぶんない。のらの農場を受け継いで、もっと稼ぐディーラーになるのだから。ということは、のらのことがバレているというはなしではなく、前はグロワーもやってたろ?みたいなことなのかな。しかし、だとしても、グロワーと農場の規模って関係ない気が…。
出雲が縮こまっている曽我部に話しかける。聞きたいのは曽我部と同じ刑務所にいて、彼を助けたこともある京極のことだ。曽我部はまず、姿勢がよかったという。前にも感じたけど、最初にまず姿勢についていうって、やっぱり曽我部は文才があるな。
風呂場でみた印象的な観音様の刺青について曽我部は語る。曽我部を助けて独房に入れられて、拘束衣を着せられたせいで手と首を痛そうにしていたという。お礼は結局言えなかったそうだ。
とりあえず京極の近況を聞いてから、仕事のはなしにうつる。出雲は曽我部のいた農場を案内させる気だ。これと前のやりとりをつなげるなら、少しクリアになる。要するに、管理してる農場のはなしでなく、いまいる、目の前の農場の規模を出雲は聞いているのだ。まあ、だとしてもよくわからないが…。
百井がはなしに介入しようとすると、出雲は例の、壬生らを入れる予定の穴の写真が表示されたスマホをテーブルにおき、いきなり百井のあたまをかかとおとし気味に踏みつける。そして百井の前のテーブルに座って髪を掴み、言い訳を許さないとするのだった。
つづく
百井はかわいそうなタイミングで農園を預かることになっちゃったな。というか、だいぶ前からヤクザの存在を感じ取っていたのらがうまく丸め込んで売りつけたということなのかも。
曽我部は模範囚だった。それが再び法を侵している。こういう説明だけでは伝わらないものがあることが、今回の3人の会話では描かれた。この言い方には、「模範囚だったのに」という、その状況が導くものとはちがう結果がもたらされているニュアンスがある。そうすると、読み手(聴き手)は瞬時にいろんな背景を読み取るだろう。たとえば、ひとは結局悪なのだとか、改心することなどないのだとか、いちど味をしめるとやめられなくなるのだとか、そういう「物語」だ。しかし、少なくとも曽我部はそうではないし、おそらくそういう状況は多いのである。それは、制度が実質的に再犯を強いているということなのだ。消極的再犯制度とでもいえようか。これを九条は製造所と皮肉ったわけである。
九条はこの曽我部の選択に彼なりの合理性を認めてはいるが、それでいいと思っているわけではない。救えるところから救っていくといういかにも現場の人の考え方だ。政治思想として制度に直面しようとするなら、もちろんこれでは不充分である。たとえば制度批判をする思想書がこういうスタンスでは書かれる意味がない。それは随筆である。しかし九条は、きわめて現実的にものを考える人間だ。その彼が「救える」と考えるものは誰か。どんなきっかけかは人それぞれだろうしほとんどが偶然といってよいだろうが、それが、要するに「依頼人」なのである。彼が曽我部のなかに合理性を見出すのも、今回はまだ依頼には至っていないが、知人だからだ。というのは、結局はそういう犯罪行為を「よくないこと」であり「救うべき」と考えるなら、ほんらいはそこに合理性を見出す意味などないからである。にもかかわらず、多少冗談っぽくそれをするのは、曽我部が依頼人(仮)であり、その行動理路を理解しなければならない対象だからなのだ。
出雲の“今は”はなんだかよくわからなかったが、百井の立ち位置が、これまでかこれからはわからないが、どうあれ変化する、もしくはしたものだという認識は出雲にはあるようだ。ふつうに読むとのらの存在を感じ取っていそうなのだが、そうでないようにも見える。だが、立場が変わっている以上「上」がいるのは当たり前だから、出雲はそこに興味がないというだけかもしれない。のらは子どもがいるし、逃げ切ってほしいが、百井はどうだろう。
前回書いたように、百井がこうして目をつけられているのは、彼が抱えるものが「商品」だからである。値をつけられる売りものなのだ。のらではそうではなかった。彼女は、じしんのちからで顧客を探し、ノウハウを見出し、いまの秩序を作った。いわば彼女じしんと地続きのである。この連続性は、直前に描かれたふたりの児童と響き合う。曽我部はこれを公共財として接し、奉仕した。それが、「ひと」と連続したものの社会的強度をあらわしてもいたのだ。
しかしのらが百井にわたした農場は、現実問題売っていることもあり、まぎれもない商品である。これは輪郭がはっきりしており、範囲も意味価値も第三者と共有できるものである。これを、百井は抱えることになった。百井がほんものなら、さらに育むこともできるかもしれない。しかし、逆に動きを制限してしまうこともある。マルクスの「疎外」論を思い浮かべるとよいだろうか。資本主義社会で労働者は、みずから生み出したものに支配される。百井はこれを労働で生み出してはいないが、のらのもとで働き、気に入られ、彼自身望んだ点でこれが労働の結果であることはまちがいなく、状況としてはよく似ているだろう。さらにいえば、これがたしかに労働の生産物とはいえない点がよくないのである。そこには、みずから生み出したという責任感もなければ、子どものようなじしんとの連続性もない。ただ身の丈にあわないものをポンと預かり、成功したいという野心に突き動かされてみずから疎外に向かっているという状況なのだ。
そう考えると、ここで出雲は、外部からの略奪者ではないのである。こうした非連続なかりそめの「商品」に最初から含まれている宿痾なのだ。
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