すっぴんマスター -5ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第128審/日常の犯罪⑪




曽我部が九条を訪ねてきたあと、薬師前が依頼した仕事について烏丸に礼を言っているところだ。飲みに行くというのに九条はかってについていく。


ここで、曽我部が九条を訪れ、また犯罪行為に関わっているらしいことが薬師前に共有される。薬師前は驚くでもなく舌打ちまじりに馬鹿曽我部よばわりだ。

曽我部は模範囚だったわけだが、こうしてまたもとの状態に戻っている。烏丸によれば、出所者の半数が再犯をするらしい。住む場所も仕事もない、保証人もないし毎日が非正規の日雇い、生活も心も安定しないのだと、冷たい表情の薬師前が解説。「再犯」と聞くと、悪いやつが悪いことをくりかえすというたんじゅんな図像を思い浮かべてしまうが、そういう性悪説とか自然状態的なはなしではないわけである。曽我部が模範囚だったのも、曽我部を知っているものからしたら自然なことで、ここに偽りはない。そりゃあ、おとなしい曽我部は、模範的だろう。にもかかわらずこうなる。つまり、模範囚であった事実は、刑務所の外ではなにも意味しないのである。なんと虚しいはなしだろう。そして、ということは、模範的であると評価する刑務所の制度も、外の世界とはなにも関係ないことにもなる。




「刑務所は更生施設じゃない。


社会復帰困難者製造所ですよ」




九条も皮肉をいうわけである。


河辺のお店に着いてからもはなしは続く。

再犯はもともとの環境要因もある。孤立した状態でむかしの悪い仲間としかつるめず、また悪いことをする。さらに曽我部は知的障害や精神疾患もあり、支援がなければどんどん悪くなってしまう。

しかし九条にいわせれば、曽我部なりの経済合理性になる。社会はじぶんを受け入れない、ルールもよくわからない、そんななかで安定しようとしたら、リスクは高くても裏稼業にいくしかない。九条は別に皮肉を言ってるわけではない。そして、以上のはなしを聞くと、たしかに曽我部には曽我部の一貫性があるのかなという感じもする。


だが薬師前は当事者の合理性で仕事をしていない。再犯を、犯罪を減らすため、社会を改善するために働いている。でも社会のほうはなかなか更生に理解がない。わずかなものでも、支援がなければどうにもならないひとは大勢いる。でも全員は救えない。だから、可能性のあるほうから救っていく、というのが九条の持論だ。


さて、出雲に呼び出されている百井と曽我部。農場の規模を聞かれ、じぶんはディーラーでありグロワーではないというが、“今は”だよな?と言われる。グロワーが栽培するひとで、ディーラーが上位売人。通常の曽我部のポジション、いわゆる売人がプッシャー。出雲もこのはなしの意図、というか百井の返答がよくわからない。「農場」を持っているのはディーラーじゃないのか? それに“今は”ってなんだ? これから百井がグロワーになる予定はたぶんない。のらの農場を受け継いで、もっと稼ぐディーラーになるのだから。ということは、のらのことがバレているというはなしではなく、前はグロワーもやってたろ?みたいなことなのかな。しかし、だとしても、グロワーと農場の規模って関係ない気が…。


出雲が縮こまっている曽我部に話しかける。聞きたいのは曽我部と同じ刑務所にいて、彼を助けたこともある京極のことだ。曽我部はまず、姿勢がよかったという。前にも感じたけど、最初にまず姿勢についていうって、やっぱり曽我部は文才があるな。

風呂場でみた印象的な観音様の刺青について曽我部は語る。曽我部を助けて独房に入れられて、拘束衣を着せられたせいで手と首を痛そうにしていたという。お礼は結局言えなかったそうだ。


とりあえず京極の近況を聞いてから、仕事のはなしにうつる。出雲は曽我部のいた農場を案内させる気だ。これと前のやりとりをつなげるなら、少しクリアになる。要するに、管理してる農場のはなしでなく、いまいる、目の前の農場の規模を出雲は聞いているのだ。まあ、だとしてもよくわからないが…。


百井がはなしに介入しようとすると、出雲は例の、壬生らを入れる予定の穴の写真が表示されたスマホをテーブルにおき、いきなり百井のあたまをかかとおとし気味に踏みつける。そして百井の前のテーブルに座って髪を掴み、言い訳を許さないとするのだった。




つづく




百井はかわいそうなタイミングで農園を預かることになっちゃったな。というか、だいぶ前からヤクザの存在を感じ取っていたのらがうまく丸め込んで売りつけたということなのかも。


曽我部は模範囚だった。それが再び法を侵している。こういう説明だけでは伝わらないものがあることが、今回の3人の会話では描かれた。この言い方には、「模範囚だったのに」という、その状況が導くものとはちがう結果がもたらされているニュアンスがある。そうすると、読み手(聴き手)は瞬時にいろんな背景を読み取るだろう。たとえば、ひとは結局悪なのだとか、改心することなどないのだとか、いちど味をしめるとやめられなくなるのだとか、そういう「物語」だ。しかし、少なくとも曽我部はそうではないし、おそらくそういう状況は多いのである。それは、制度が実質的に再犯を強いているということなのだ。消極的再犯制度とでもいえようか。これを九条は製造所と皮肉ったわけである。


九条はこの曽我部の選択に彼なりの合理性を認めてはいるが、それでいいと思っているわけではない。救えるところから救っていくといういかにも現場の人の考え方だ。政治思想として制度に直面しようとするなら、もちろんこれでは不充分である。たとえば制度批判をする思想書がこういうスタンスでは書かれる意味がない。それは随筆である。しかし九条は、きわめて現実的にものを考える人間だ。その彼が「救える」と考えるものは誰か。どんなきっかけかは人それぞれだろうしほとんどが偶然といってよいだろうが、それが、要するに「依頼人」なのである。彼が曽我部のなかに合理性を見出すのも、今回はまだ依頼には至っていないが、知人だからだ。というのは、結局はそういう犯罪行為を「よくないこと」であり「救うべき」と考えるなら、ほんらいはそこに合理性を見出す意味などないからである。にもかかわらず、多少冗談っぽくそれをするのは、曽我部が依頼人(仮)であり、その行動理路を理解しなければならない対象だからなのだ。


出雲の“今は”はなんだかよくわからなかったが、百井の立ち位置が、これまでかこれからはわからないが、どうあれ変化する、もしくはしたものだという認識は出雲にはあるようだ。ふつうに読むとのらの存在を感じ取っていそうなのだが、そうでないようにも見える。だが、立場が変わっている以上「上」がいるのは当たり前だから、出雲はそこに興味がないというだけかもしれない。のらは子どもがいるし、逃げ切ってほしいが、百井はどうだろう。


前回書いたように、百井がこうして目をつけられているのは、彼が抱えるものが「商品」だからである。値をつけられる売りものなのだ。のらではそうではなかった。彼女は、じしんのちからで顧客を探し、ノウハウを見出し、いまの秩序を作った。いわば彼女じしんと地続きのである。この連続性は、直前に描かれたふたりの児童と響き合う。曽我部はこれを公共財として接し、奉仕した。それが、「ひと」と連続したものの社会的強度をあらわしてもいたのだ。

しかしのらが百井にわたした農場は、現実問題売っていることもあり、まぎれもない商品である。これは輪郭がはっきりしており、範囲も意味価値も第三者と共有できるものである。これを、百井は抱えることになった。百井がほんものなら、さらに育むこともできるかもしれない。しかし、逆に動きを制限してしまうこともある。マルクスの「疎外」論を思い浮かべるとよいだろうか。資本主義社会で労働者は、みずから生み出したものに支配される。百井はこれを労働で生み出してはいないが、のらのもとで働き、気に入られ、彼自身望んだ点でこれが労働の結果であることはまちがいなく、状況としてはよく似ているだろう。さらにいえば、これがたしかに労働の生産物とはいえない点がよくないのである。そこには、みずから生み出したという責任感もなければ、子どものようなじしんとの連続性もない。ただ身の丈にあわないものをポンと預かり、成功したいという野心に突き動かされてみずから疎外に向かっているという状況なのだ。


そう考えると、ここで出雲は、外部からの略奪者ではないのである。こうした非連続なかりそめの「商品」に最初から含まれている宿痾なのだ。




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第50話/突入



今週は、板垣先生じしんの「ゾウキン絞り」体験から。

13歳のころ、勉強も体力もいまいち、だが喧嘩とゾウキン絞りだけは光るものがあった吉田くんにかけられたときの記憶だ。コツはすきまをあけないこと。要するに誰でもできる。この絵も、語り口も、いいしれぬものがある。このころの、痛みや悪意の記憶って一生残るし、板垣先生においてもいやな思い出だったんじゃないかなという感じがする。それが、いやなまま、少し冗談混じり語ることができるくらいには遠くなっている感触だ。ゾウキン絞りしかとりえがない吉田くんの背中がいい。


で、それを花山薫がやる。タイヤを裂きあの握力、あのパワーで、引き裂くつもりでやる。花山はすきまをあけた非吉田スタイルであるが、吉田くんのいうコツはおそらく「どうすれば痛いか」ということで、どっちにしろ引き裂いているのだから関係ないのだろう。もはやギャグですむ威力ではないのである。ただ、握撃と違って肉が爆ぜたりはしていないようだ。直線的に皮膚が裂けた感じ。


握撃と違ってジャックもできそうな技ではあるが、できるかどうかふつうは考えないものでもあり、ジャックは痛みよりたまげているっぽい。その顔面にヤクザキック。意外な柔軟性である。その蹴りで腹も貫く。園田はそこに「理」をみている。

柔軟性もそうだが、これほど「拳」のイメージが強いファイターもなく、ジャックはここでこれほど強烈な蹴りがくることは予想してなかったっぽい。シコルスキーが冷や汗を流す鋼鉄の腹筋をダメージが通る。


腹への蹴りでジャックが嘔吐。ただ、表情の描写に乏しいせいもあるのかもしれないが、あまり苦痛やダメージの深刻さは感じられない。ジャックとしては、ファイトしてたら起きることがふつうに起きているという感じかもしれない。よき叫び、よく痛がり、よく嘔吐するのが規範にとらわれない逸脱者ジャック・ハンマーである。


さらに花山の左拳が追撃。最近よく見られる描写で、花山は拳をねじ込んでいる、が、空手の正拳やボクシングのスクリューとはちがい、からだの位置的に拳を思い切り振ったらそうなったという感じだろうか。


吐瀉物があたりを飛び交い、野次馬にかかる。そして最後に、右のビンタ、張り手である。ジャックはダウン、園田のそばにいた警官ががまんできなくなり、複数人で止めに入るのだった。



つづく



こういう終わりかたでいいのかもな… 

まあジャックはいっかい気絶してそのときのファイトが終了しても「続き」をする男であるし、警察が止めたからなに?と考えそうではある。じっさい地下闘技場ならまだ試合は途中だろう。創作過程のはなしになるが、ジャックはいま重要なタイミングで花山はあんまり負けさせたくない…、みたいなことで外部からの干渉で強制終了ということになったのだろう。とすると、花山戦で描かれるべきことはもうすべて出たことになるのだが。


最後の攻撃はなんとビンタであった。握力、拳を握るちからをこれほど描きながら、形式的な決め技は握らない手によって行われたわけである。


ゾウキン絞りは、ぼくの少年時代・地域ではたんに「ぞうきん」と呼ばれていた。最初にそれをやられたときはけっこう衝撃を受けていたようにおもう。こんなかんたんなことでこんなに痛くなるのかよと。

そんな無造作な攻撃が、花山の手にかかると必殺になる…というはなしでももちろんあるのだが、刃牙らへんの文脈ではそうならない。なぜなら、同じようにだれでもできる技、「オンナコドモ」の技とさえ言われる噛みつきを引っさげて、「エエカッコしい」なファイターたちの価値観をゆさぶるのが本作のテーマだからである。にもかかわらず、作中でもっとも美学にこだわる、「エエカッコしい」の象徴のような人物である花山が、噛みつきと同属性であるつねりやゾウキン絞りをしているわけである。


ジャックは相手によってファイトスタイルを変えるということがあまりないが、それは花山も同様だ。どちらも、ただ花山を/ジャックを目いっぱい表現してみせるだけだ。つまり、ファイトにおける自己表現に他者を必要としない。ひたすら、すべきと感じたことをする。噛みつきが女の技であるとか、ゾウキン絞りが子どもの技であるとか、彼らには関係のないことだ。ここまできたら、ふたりは似ているどころではない、ほぼ同じファイト観とみてよいのではないか。

しかるに、花山にはたしかに「エエカッコしい」としかいいようのない規範意識があり、ジャックにはない。この差は明らかだ。このちがいはどこから生じるのか。その差は、「規範」との位置関係にあるのだろう。ジャックは、批判思想的な立ち位置にある。これは、意図的でもあり、同時に無意識でもある。母の代理人としての彼は象徴的な「噛みつき」という女性的な技を通じ、かなり意図的に逸脱する者である。また同時に、ひたすらに強さを求めるものとして、従来の規範、つまり「かっこよさ」を基礎付ける美学を否定し、必要に応じて噛みつきだろうがドーピングだろうがためらいなく採用する者である。まず規範があり、首をふる、それがジャックだ。

対して花山は、規範にたどりつこうとするものである。それは、ヤクザとしての義の精神であり、侠客立ちの物語があらわす純粋行為体としての自己、というロールモデルだ。ヤクザ的義侠心は法律や国家権力の誤謬を拾うものだ。これは悪党全般にいえることである。警察のトップに土下座をさせない花山は、自分たちが警察という規範ありきの存在であることをよく知っている。無法地帯に反社会的勢力は存在しないのだ。それがヤクザとしての「規範」である。また侠客立ちは花山のたたかいかたを規定する。“名もなき”博徒は死してなお小さな花山の先祖を守った。名前もない、いのちすら絶えた状況で、守るという述語だけが自律し、残ったのだ。これが花山にとっての、ファイトにおける究極となっている。だから彼は、ギフトを授かったものとして、まずこれを手放す。相手に徹底的に殴らせ、自己を滅する。そうして原罪を解消し切ったところで、ようやくたたかいはじめることができるのである。


こうして、ほぼ同じと言っていいふたりが分岐する。規範を批判するものと、無限の彼方にある規範に馴染もうとする者の違いなのだ。しかし内実は変わらない。どちらも言ってみれば「使えるものはなんでも使う、他人は関係ない」というありかたなのだ。しかしジャックはそれを規範を否定した結果として行い、花山はあるべき姿として目指すのである。



つまり、ある意味では…と断るまでもないだろうが、ジャックにもたしかに美意識のようなものは存在している、もしくは美意識を持ちうるということなのだ。それを美意識、規範と認めてしまったほうが楽だと、花山はレバ刺しやファイトを通じて伝えようとしたはずだ。しかし、前にも書いたが、これはジャックを変容させうる思考法だ。いまのジャックは批判精神でここまで強くなった。仮にジャックが花山のメッセージを受け取ったとして、その「進化」がかならずしも彼にプラスに働くとは限らないのである。




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第127審/日常の犯罪⑩



曽我部が九条のもとにやってきたところだ。

曽我部はまずあいさつが遅れたことを詫びる。烏丸用だったコーヒーを出し、弁護士は何か起きてから連絡がくるものだからそれでいいという。

曽我部は砂糖やミルクを大量に入れたコーヒーを飲みつつ、どもりながら話し出す。百井やのらと話すときにはない緊張だ。声も震えているっぽい。

曽我部は、パーカーが裏返しだったのをさっき直した、ひとは意外と他人に無関心だというはなしから始める。上手なコラムの書き出しみたいだな。緊張のためか支離滅裂な印象が強いが、意外と文章書くの上手かったりするのかも。


強い人間に従って生きてきたが、じぶんはそもそも「考える」ことが苦手であるという。九条の前での緊張は、これのあらわれだろう。頭のいいひとの前にくると、つい屈服して、必要以上に頭がよくないようにふるまってしまうのだ。考えたって無意味だとおもえるから。

いまの生き方はキツイがそれは自分以外もそうかもしれない。誰かの役に立てればなんでもいい。曽我部はそういうことをいう。しかしそれは薬師前が聞くはなしで、九条もそう助言する。もっとちがうはなしがある。要するに、警察が動いててヤバいというはなしだ。ここで曽我部は、まだ内容には触れていないが、自分が違法な仕事をしていることを初めてほのめかしたことになる。

まあそれはわかっていたことなので、九条にはなんでもない。そして、動きが感じられるということは、たぶんぜんぶ監視されてると九条はいう。逮捕は時間の問題だ。

だが曽我部がいま感じてる最大のストレスは出雲だ。百井が呼び出されていたあれに、曽我部も行くことになっているのである。

九条は、役に立てればなんでもいいとはいえ、人間関係の整理をした方がいいという。他人ではなく自分の人生を生きるべきだと。


のらと百井のイチャイチャ。出雲の呼び出しを曽我部が聞いている描写のあとなので、あのときとはまた別の日なのだろう。すごいしょっちゅう会ってるっぽいな。

ふたりは昼からお酒。稼げているからこその余裕である。のらは3年で2億5千万の利益を出したという。身を起こして仕事中のいつもの三白眼になって、引き継ぐならマニュアルを渡して丁寧に導くと約束する。栽培をするグロワーは闇金から買った債務者で、その闇金も紹介してくれる。グロワーは部屋を割り当て個別に仕事をさせる。給料は50万。

腹を括ったという百井は5千万で権利を買うことに。のらはふたつ忠告する。ひとつは、犯罪者は寂しがり屋だからすぐ集まるということ。すると、バレる。だから個別に管理する。もうひとつは、最初に金のはなしをするやつを信用するなということ。金で裏切るから。


そうして百井は曽我部とともに、最初から最後まで金のはなししかしない出雲と会う。なぜ呼ばれたか?どうも、思っていた以上に大きい販路を抱えていたことが気に食わないらしい。なぜ言わなかったかみたいなことだ。それを詰めると。まあまあ怒ってる、が、これもまたヤクザ的な顔芸だろう。出雲は怒っててもわりとカッコいいな…



九条は曽我部がまた罪を犯しているらしいことを烏丸に話したようだ。九条の皮膚感覚としては、逮捕以上の地獄が待っていると。



つづく



出雲が百井にキレていたのはこういうことだったか。でも、14巻読んでみたけど、小さく言ってたりはしてないような…


これでのらは退場かもしれないな。子どももいるし、出雲とかと関わってほしくなかったからよかった。

でも、だとしたらのらはなんのために登場したのだろう。彼女の役割はなんだったのか。

ひとつには、出雲がまさにいま詰めようとしている、百井の向こうに広がる大麻農園があるだろう。百井は売人だと自己紹介していたし、ただ売人だと名乗るだけでは、億単位を稼ぐのらの手腕は見えてこないわけである。百井はのらからそれを授かることになったわけだが、いかにマニュアルがくわしくても、果たして「のらのように」できるのかというと、難しそうである。そういう、身の丈に合ったというと大袈裟だが、自身のちからで育んだものではないなにかを、ひとはどう扱うのか、というところが論点になってくる。そしてここには、のらが女性だったことも響いてくる。引退したらのらは外国でもう少し子育てな注力できるようになるだろう。「育てる」という行為の非労働性というか、貨幣と交換可能ではない、輪郭のはっきりした事物とは言い難い、自己存在との連続性みたいなものが、のらと農園のあいだにもある。これは曽我部もお弁当作りを通じて触れたものだ。子どもを公共財として、これに奉仕することで、曽我部はおそらく作中ではじめて「大人」になれたのである。

しかし百井に引き継がれるとき、それは範囲の明瞭な事物になる。これはつまり「商品」である。言葉の指し示す意味価値がはっきりしないものは、経済的な評価もできないから値付けも難しい。だから利益を生むためにされる労働は時間を用いて計測される。子育てのように自己と連続したありようで作られたのら農園は、この時点ではまだ売り物ではなかった。しかし、のらの手を離れ、百井のものとなったとき、それは明確に「商品」となる。そうして出雲の出番になる、というわけである。

のらの役割は、関係者を分析し、洞察力を働かせ、ゼロから暗中模索で創造した自己の拡張といってもよいしろものを、百井に渡すということだったと思われる。農園の固有の価値は、いかにのらが引き継ぎに努めても、失われるだろう。百井はひととして信頼され、セックスの相性もよかったため、農園をもらうことができた。希望はそこにしかない。のらは金でこれを手放すが、彼女は明らかに「百井だから」これを譲っている。農園を、のらの信頼する百井という存在と地続きにすることは、金のはなししかしないものから彼ら自身を守ることにもなるだろう。


百井やのらと話すときとは比べものにならないくらい、曽我部が九条に緊張していたのは興味深い。まず、百井らはあくまで仕事上の知り合いである。したがって彼らは曽我部を必要としており、多かれ少なかれ曽我部は役に立っている。だからそこまで緊張しない。しかし九条の会う曽我部はプライベートの、そうした関係性のなかにはない単独の人間である。それが、スマホを忘れて出かけてきてしまったときのような心許なさを呼び込んでいるのだろう。そしてやはり、彼特有の自己否定の論理である。曽我部は、自分はバカだという強い自覚があるから、あたまのよいひとの前では不必要にバカになってしまう。考えても意味がないから、考えなくなってしまう。そういう心理が萎縮させる。ただ、九条は味方になってくれるということは曽我部もわかっているので、これは習慣が出ているというようなことかもしれない。


九条がいうように、内容的には薬師前に聞かせても良さそうな感じではあった。それでもそうしなかったのは、薬師前が優しく、親身になって怒ってくれるぶん、迷惑をかけたくないと考えたからだろう。とにかくひとの役に立っていたいというのは、迷惑をかけたくないということと表裏一体だからだ。誰かにとってプラスの存在でいたいものは、マイナスになりうる状況を当然避けるのである。

九条が見抜く通り、この思考法が彼を迷わせる。役に立ちたい「誰か」は、誰でもいいわけではないはずだ。人間関係の整理とはそういうことだ。その「誰か」を選ぶこともまた自分の人生を生きることにつながるはずである。そして、「誰でもいいから役に立ちたい」の結果「誰にも迷惑をかけたくない」になっている以上、人間関係の整理を果たせば彼は今度こそ薬師前に電話をすることができるようになるだろう。わたしは、あなたの役に立ちたいのであり、あなたはわたしのかける迷惑を拾ってくれるのである。




↓九条の大罪15巻、8月末発売予定でしたが、10月30日に延期されたようです。








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第126審/日常の犯罪⑨



久々の菅原だ。韓国からカンボジア、タイに流れてきた菅原を壬生が訪ねているのだ。

菅原はプールに入ってご機嫌だが、壬生は誘われても入らない。目の前で水死したやつを見てから…とか言ってるが、めんどくさいだけだろう。

菅原はタイをかなり気に入っており、壬生にも勧めている。日本にいるよりははるかに安全だし、新しいビジネスもはじめたらしい。

壬生は、宇治から聞いたはなしとして、出雲が必死で自分たちを探していると語る。足がつかないように気をつけろと。壬生はそれを言いにきたわけでもないだろうか。

菅原は肝に銘じるという。

そのあとタコスを食べて、菅原は大麻を吸おうと壬生を誘う。壬生は、なぜか、なにを肝に銘じたのかと皮肉っぽくいう。菅原はいまを楽しめと。タイでは一時医療用の大麻が解禁されたが、娯楽目的の使用が増え、今年再規制され、医師の処方箋が必要になったそうだ。観光客が娯楽目的で大麻を買うことはもともと認められていないので、捕まったりしたら身元が割れて出雲に見つかりそう。でも、壬生の皮肉はそういうことでもないのかも。いかにもタイを満喫していて緊張感を欠く感じが引っかかったのだろう。


その宇治と出雲は麻雀をしている。宇治は、いやでも出雲と関わらなきゃいけないからたいへんだなあ。すごいストレス感じてそう。

そこで、出雲は百井から手を引くよういう。宇治は黙るが、地獄耳なんだわという軽いノリではなしが進む。出雲はなんかいつかのとき百井について謎の怒りを見せていたから、どうなるか少し心配だったが、宇治はあっさり手を引くとして、もめないようだ。

それから出雲は、「穴」を買ってくれないかと持ち出す。山奥に穴を掘る業者からふたつ買ったらしいのだが、そんな穴の位置を知っている業者が存在していていいのか、ということで、業者云々はジョークかもしれない。もちろん、壬生と菅原を生き埋めにするためのものだ。それを聞いて宇治は「追うのをやめたんですか?」という返しだ。埋めたいなら追わなければならないわけだが、それを宇治に買わせる、つまり宇治にあげるというから、そう聞いたのだろう。それと、ここにはヤクザ的文法みたいなものを通じてしかわからないものもあるっぽい。とにかくなにか大きな動きがあったことを宇治は理解し、探ったのである。大きな動きとは、タイで菅原が見つかったことなのだった。

だから宇治にそのひとつを200万で買って欲しいということだが、なぜ無関係(ということになっている)な宇治が買わなければならないのか、ここにも出雲からの探りがある。宇治はたんに高すぎると言って退席してしまうが、なぜ自分が?とか言ってもよかったかも。いや、でもここで反論して解答の用意がない質問とかが始まってもめんどくさいかな…。表向き壬生の幼馴染であることにはちがいはないし。ヤクザどうしの会話はコミュニケーションとして高度すぎる。



さて、キャラ弁をのらと中川さんに頼まれた曽我部はもうそれを作ったらしい。ふつうに出歩いてるのは、短期のあの仕事が終わったのか、のらが手配して外出してるのか。

曽我部はどちらにもスプランキーのお弁当を作ったみたいだ。最近ゲーセンとかヴィレヴァンで見るやつだ。流行り始めくらいのときにハギーワギーが出てきたこともあるし、こういう、家にいたんではわからない流行りを見つけるの、真鍋先生はすごいよな。

のらの娘は大喜びで初めて「ぴっかり」したらしい。意味がわからずググッたよ…。きれいに完食することを「ぴっかりん」というらしい。勉強になりました。

中川さんのところでも子どもは喜んでくれたみたいだが、中川さんじしんはひどい顔で曽我部に金を貸してくれないかという。太客がついて稼げるからというはなしで曽我部がかわりに弁当を作ったわけだが、中川さんの昔の男が、ヤバいひとに金を借りてしまって頼ってきたということだ。いまも好きなの?と曽我部は聞く。やっぱり少しは気になるか。でもそうではない。嫌いだ。風俗で働いていることを生活保護のひとにばらすぞと脅されたのだ。

以前から中川さんのお金で遊び回っていた人間だ。なんとか逃げたのに頭虫、ユスリカみたいにわいてくる。いまの平穏を失いたくない。だから助けてくれと、中川さんはいうのである。


またのらとセックスしてたらしい百井のもとに出雲から連絡。夜顔を貸せと。文の感じからしても嫌な予感しかしない。でもこのはなしは、ヤクザを警戒しているのらにも早めに伝わったほうがいいかもしれない。


別の日、九条の事務所を誰かが訪れる。烏丸が、九条なら屋上にいると伝える。気安い雰囲気だ。そして九条は、そろそろ来ると思っていたと、曽我部を迎えるのだった。



つづく



曽我部は、薬師前ではなく九条のとこに行くのだな…


今回は盛りだくさんだったな。ストーリー追うだけでけっこう長くなってしまった。


出雲が金づるとして百井に目をつけているのはいいとして、なぜ宇治にこういう態度なのかがよくわからない。すでに出雲は京極がケツモチをしていたということで百井と対面していて、面倒をみると宣言しており、それがゆえ、別ルートで百井を知った宇治を牽制している状況だ。としたら、宇治はあとからきているわけだから、こういうはなしになるのも自然なのかな。でもそれならそれで、あいつは京極のかわりにじぶんが面倒みてるから…みたいなはなしになりそうで、いまいち百井の奪い合いの文脈がわからない。15巻出たら読み直さないと。


このなかで、百井の上司にあたるのらの存在だけは隠れている。すごい上物のハッパで、なんというか、よくできたシステムという感じがするから、出雲や宇治は百井よりさらにうえの存在に勘づいてはいるだろう。それ以上に、ここで百井らはヤクザ間のいやがらせ的攻防のアイテムにもなっている。宇治が百井一派をねらうのは、出雲がいうように、仮想通貨で稼いでいる宇治のことであり、金が目的なのではない。出雲がからんでいるからこそなのだ。出雲としてもそういう気持ちはあり、だからこそ、宇治が暗躍しているのを知ってわざとなんでもないことのように、堂々と正面から「おれのだけど文句ある?」とするのかもしれない。

この「おれの」のなかに、のらは入りたくない。のらもタイに行くって言ってたかな、ノウハウは完成したので、そうなったら海外に逃げるみたいなことを言っていた。しかし出雲らは組織がまるごとほしい。となると、のらは百井を切る以外ないだろう。百井がのらから受け取ったノウハウで現行の売り上げを維持するなら、出雲的にも文句はないというか、なにも起こってないからだ。

ただ、成功してなにものかになろうとする百井だって、ヤクザはいやだろう。誰だってヤクザは嫌だろうが、ヤクザ的攻防をみてもわかるように、この駆け引きに使われるコマが百井である必要はないのである。コマであることを仮に許容したとしても、じぶんである必然性がないポジションは本意ではないだろう。のらにもそういうところがあり、彼らは「じぶんである必然性」を求めて居場所を選ぶのである。たとえば百井がのら以上の商才やセンスを発揮して、出雲もたまげるほどの売り上げを出すなら、それが百井であるべき理由は生じるだろう。しかしそうではないのだ。


曽我部は九条のところになにをしにきたのか。流れからすると中川さんの元カレのことなのかな。まだわからないが、もしかするとここからの流れは、曽我部が他人のためにちからを尽くす展開になるかもしれない。いま彼自身もたいへんな状況で、げんにときどき薬師前に無言電話をかけたりしてしまっているわけだが、今回最後のコマの曽我部からは決意が感じられ、いつもとちがうものがみえる。たんに苦しいからなんとかしたくてというふうではないのだ。それならやはり薬師前を訪ねるのではないか。

この兆しは、前回のキャラ弁のくだりからあったわけである。子どもという公共財への奉仕だ。のらや中川さんに子分のように使われながらひどさは感じられず、それどころかおかしみが見えたのは、キャラ弁作りが社会人的ふるまいの模型だったからだ。こうしたことを通じて、おとなは社会の成員になる。曽我部がじしんの弱さを脱するためにすべきことは、たんに強くなることだけなのではない。ほかの弱きものにおもいをいたすことができるようになれば、社会全体の「弱さ」はそのぶん緩和される。薬師前はまさにその最前線にいるわけだが、曽我部がまず九条のもとにきたのは、九条がこうしたことにもドライに戦略的に携わるからだろう。だいたい、中川さんの件だとすると、カタギではなさそうな人間も関わっており、薬師前の管轄ではなさそうだ。曽我部じしん、まだ久馬のようなものに搾取される立場ではあるが、以前よりたくましくはなっている。そこで生じたわずかな余裕が、彼を九条のもとに行かせたのだろう。



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第49話/至上のコミュニケーション



花山のつねり・むしりをやせ我慢で突破したジャック。ジャックは、倒れたところから立ちあがろうとする花山の顔面に蹴りかかる。


すごい音がしたっぽい。ジャックの蹴りを花山が拳で受け止めたのだ。脛と拳頭、骨と骨がぶつかり合ったわけである。


脛も拳も衝撃でビリビリしている。痛みもあるだろう。だが砕けてはいないらしい。たいそう硬いと聞いていたが砕けてはいないとジャックは挑発する。なぜどちらもくだけていないのかはわからないが、花山はパンチをしたわけではないし、互いの関節が機能する方向的にたまたまそこに弾力が備わったのかもしれない。


会話でファイトが止まっているいまということか、園田の部下が、さすがに止めようという。しかし死刑囚編以来、まさに“刃牙らへん”の洗礼を受けてきた園田にとっては、これは警察としてとめに入るべきたぐいの暴力ではない。対話なのだった。それを園田が理解してくれるのはうれしいが、警察としての仕事を果たしていないことはたしかで、部下のひともたいへんだな。


ジャックの攻撃が続く。左のパンチから裸締めだ。といっても、なぜか不完全なかたちである。このまましめることもできるだろうが、よく言われるような脱出不可能という様子ではない。まったく格闘技を知らないひとに写真だけみせてやらせたらこうなりそう。

だが、ジャックの目的はチョークではない。足も胴体に絡ませて全身をのせた状態で首筋に噛みついたのだ。血が高く噴き出す。動脈を切ったのだろうか。だとしたら、どちらが勝つにせよ決着は近い。


だが、ジャックは知らないことだが、花山に裸締めは通用しない。握撃というとんでもない技があるからだ。いや、あれは技じゃないんだった。

だが今回花山が見せたのは握撃ではなかった。よく似てるがちがう。そして、読者も痛みが想像できるたぐいのやつだった。腕の肉をそれぞれの手で互い違いにしぼる、ぞうきんしぼりなのだった。

それを花山がやればどうなるか。木崎はなんだか悟ったような口調で、おそらくじしんの少年時代を思い出しつつ、花山が使っちゃダメなやつだと語る。当然皮も肉も裂けるのである。互いに血を噴き出すものすごい状況になるのだった。



つづく



また痛そうなことをこのひとは…


“ぞうきん絞り”も、よく少年時代にやったりやられたりしたやつだ。

つねりもそうだが、花山のこれらの攻撃はむしろちょっとカッコ悪いのではないか、ということは第46話で少し書いた。






つねりやぞうきんは花山の想定する行動モデルの範疇であり、彼の美学に反するものではないのだ、というはなしだが、それにしても、やっぱりこのファイトにおいては、花山はわざとこういう攻撃をしてるんじゃないかという感じがする。

そして、これが重大なのだが、ジャックの噛みつきは、花山が用いるこれらの攻撃と属性的には同じではないかということがあるのだ。


花山に行動モデルがあり、それはつねりやぞうきんを含むとしよう。するとどうなるか。花山は、それら「ちょっとカッコ悪い攻撃」をしながらも、依然として「エエカッコしい」である。だとするなら、噛みつきにこだわるジャックもまた「エエカッコしい」なのではないか?ちがいは、かたわらに他者の目線をイメージするかいなかではないのか。花山はそれを言おうとしているのではないだろうか。ジャックの「エエカッコしい」批判は他者の目線を宿している。そんなものにこだわらず、使いたいものを使いたいように使えばよいのではないのかと、花山は伝えているのではないか。


うえの記事にも書いているが、ジャックの噛みつきはとても象徴的な技だ。「オンナコドモ」の技とされる噛みつきをすすんで取り入れ、その強力さのうちに彼の合理性とともに、ジェンダーロールを含む社会的規範からの逸脱という身振りが、母親の代理的ファイターであるという出自込みで含まれているのだ。ジャックはこれを意識することもあるだろうし、噛みつきの合理性が生きる範囲では、これを忘れることもあるだろう。だが彼が気にしているといないとに関わらず、ここにはある種の政治的意味がどうしても含まれてしまう。フェミニストが性について語る言葉はすべてフェミニズムの言説になってしまう。その思想が定着していない界隈ではなおさらそうだ。花山はここからジャックを解き放つ存在なのではないだろうか。


仮に解き放たれることがあったとして、それはなにを意味するだろう。つまり、「カッコ悪い技にこだわるのも美学の内であり、そこに他人の評価は不要である」となったとき、なにが起こるか。ひとまずジャックが抱える(と読者は考える)いっしゅのややこしさは失せるだろう。だが、彼が打ち立てたせっかくの「エエカッコしい」批判の文脈は骨抜きにされてしまう。花山はたしかにそういうタイプの「エエカッコしい」かもしれない。カッコ悪い技もカッコよくしてしまう男だ。だがジャックがエエカッコしい批判を加えていたものは、誰か個人というよりは、ファイター一般にありがちな心性というほどのものだったはずだ。これは生きていたほうがいいだろう。なぜなら、その批判的精神が噛道を道たらしめているからだ。母親の代理としての自己、女の技である噛みつきを「強力だから」という理由づけをしてあえて用いる反骨、これらはどれも人生にしんどさを呼び込んできた。だがそれがあったからジャックは強かったのである。どういう落とし所があるのかというとわからないが、ジャックにはジャックの人生がある。梢江との関係を刃牙にただしたときのように、花山は優しいが、おせっかいなぶぶんもあり、しかもそういうときの花山はいやに「物分かりのいい大人」だ。それが出てきているのかもしれない。



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