すっぴんマスター -6ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第54話/“空手”



神心会本部で謎に行われつつある愚地独歩と門下生の立ち合い。勝てばいっきに伝説という状況にあらわれたのは、現役最強のチャンピオン、末堂厚である。


克巳は、独歩の空手が競技用のそれとはまったく異なるものであることをくりかえす。そんなことは誰でも知ってるし、「競技」を成立させたのがそもそも独歩世代なのだから、なんだかわからない念押しだが、末堂は表格闘技の強者で、競技ばかりのファイターだから、念のため付け加えた感じかもしれない。

末堂はそれに対して、克巳よりむしろ自分のほうが独歩の空手がどんなものか知っていると、謎のマウントだ。なぜか館長をやめた独歩が館長呼びで克巳が師範呼びだ。独歩にかんしてはまあ、「カンチョー」っていうか、ぼくもむかしバイトしてたコンビニの店長とかにばったり会うと「テンチョー」って呼ぶけど、そういう感じかもしれない。しかし克巳の師範呼びはかなり失礼な気が…。こういう場では、役職ではなくてたんに先生という意味でそう呼ぶとかかな。いずれにせよ、両者には独特の距離感がありそうだ。

マウントの意味はわからない。末堂もたぶん内弟子とかだろうし、息子の克巳以上に直接の稽古は多いのかもしれない。それに克巳は天才だから、適当に教えたらあとはひとりで完成させてそう。また、競技者だからこそちがいがよくわかる、というような意味もあるかもしれない。


なにかゴニョゴニョやっている克巳と末堂を制して、末堂が焦れてると、独歩がいう。焦れてるのは独歩である。末堂は緊張からかかなり汗をかいている。

開始とともにガードをかためた末堂が接近、左の追突きだ。しかし独歩はノーガード。突きはかわされたのか、とにかく当たらない。あっという間に巨大な末堂のふところに入った独歩が、右の手刀を首筋にあてがう。たまにやるひといるけど、ジャブの中に入るというのはふつうではない。あわせていてはいくらすばやくても間に合わないので、読んでいるのだ。

いちど寸止めされた手刀が、すぱッという、独歩の声とともに振り抜かれる。ダメージはないが、末堂がイメージしたのはすっとぶ自分の首である。武蔵が現世に持ち込んだイメージ斬りだ。いくら独歩でも首は切れないとおもうが、これはおそらく先程の末堂のマウントを拾うものである。垂木や瓶など、ふつう切れないものをさくさく両断するのが独歩の手刀だ。それを長いあいだ見てきたからこそ、このようなイメージをしてしまうのである。

末堂がダウン。たぶん失神している。大半の門下生はなにが起こったのかもわからないだろう。


しかしこれでは模範組手にならない。独歩で模範組手をやろうとしてたのかよという驚きもあるが、実際これじゃ誰の稽古にもなってない。他に…というところで、三島、長谷川、竹の3人が挙手。なかなかの気迫でまるで果し合い、独歩は喜ぶ。そして、それとなく独歩がうながし、3対1の組手が実現することになるのだった。


つづく



一対多が前景化されたものとして描かれるのは意外と新鮮かもしれない。ゲバル対マウスくらいかな…


末堂はほんらい相当強いはずなのだが、独歩には歯が立たなかった。しかしこれは、末堂の才能不足とか努力不足とか、そういうはなしでもないようにおもう。あの体格と闘争心である、末堂くらいなら、どちらかといえば才能があるほうととらえてもいいはずだ。

気になるのは克巳のブレた態度である。克巳は、この組手でなにがしたいのだろう。なんとなく、独歩のほうでは“模範組手”をするつもりはなさそうにみえるし、じっさい克巳もそうして煽っている。しかるに、末堂はバリバリ表格闘技のかまえでつっこんでいってる。競技は、ルールによる制約によって成り立つものだ。いかに独歩が祖系的な実戦空手をやるのをわかっていても、末堂のほうでもしその競技の延長にある模範組手をやろうとしていたなら、多少は不意をつかれることになる。たとえばまさに手刀は、通常の組手稽古であらわれることのない技だ。これはグローブを使ったボクシングでいうフックの軌道で、おもに首から上をねらうものである。素手で打つフックは手首や拳に負担がかかるので、今回のような軌道で首やこめかみを打とうとしたら手刀のほうが利にかなっている。しかるにそれをしないのは、一般にフルコンタクト空手では手で顔面を打たないからである。末堂は、今回の組手がそのような技の飛び出してくるものであることを理解していただろうか。しかも克巳は、後出しとはいえ、“模範組手”とまで付け加えている状況なのである。

チャンピオンがそんな甘い認識でいてはいけないのかもしれない。しかし、少なくともそれを克巳や独歩はいえないはずである。なぜなら、彼らはそのように選手に制約を課し、技術向上のための合理的ルールを設定した側の人間だからである。プライベートの時間がとれないことについて会社が「仕事してるからじゃない?」と言ってくることはないのである。


このようにして、じつは表と裏、それぞれの格闘技には非対称なぶぶんがある。そう難しいはなしではない。赤信号を渡る歩行者がみえたら、車は急ブレーキを踏むだろう。ルールというものは、ぜんたいの合意と、たしかに遂行されるというそれぞれにおいての確信がなければ無効になる。ルールを想定しないものがあらわれたときにみずからのふるまいを微調整するのは(その瞬間的状況においては)ルールにしたがっている側なのである。


ただ、道交法とは異なり、格闘技のルールなどというものは一時的かつ閉鎖的なものだ。今回のように、道場で、しかもじゃっかんの“模範組手”ふうの雰囲気がある状況では説明不足が否めないが、ストリートで律儀にフルコンルールを守る必要はないのだし、そこからどうやって離れるかが競技人の課題となる。しかしそれは末堂の問題だ。このように考えたとき、実戦とはなにか、少なくとも、独歩が体現するような実戦性とはなにかということが少し見えてくる。さまざまな相があることとはおもうが、両者の非対称性に注目したとき、実戦性は、ある種の没コミュニケーションに宿るのである。ひとは、多かれ少なかれルールに縛られている。なかには超自我的に内面化され、道徳と化しているルールさえある。まずはどれだけここから逃れられるかが最初の課題になる。次に、非対称性があらわになる。ルールによる拘束の程度はひとによって様々だ。だから、厳密にいえばすべての人類は誰に対しても非対称であるということになるかもしれない。思えば格闘技におけるルール設定はこれを解消し、まったく同じ条件に両者をおくものになるわけだが、実戦では、相手にどれだけルールにこだわらせるかがポイントになってくる。つまり、不意に赤信号をわたりきることのできるもの、合意を無視できるもの、これが実戦では勝者となるのである。これは黙って、いきなり行われるものだ。いまから赤信号をわたりますという宣言は、ごくせまい範囲における新たなルール設定にとどまるものである。これが没コミュニケーションということだ。


こういう意味で、克巳のブレた態度はコミュニケーション不全に近く、やや独歩に加担したものにみえる。だがそれこそが実戦なのだ。競技者は、車のドライバーとして正しく、「歩行者が赤信号で立ち止まるとは限らない」というゆさぶりを受けることになるのである。


そういうことならと、信号なんか全無視で爆走してやるとなったのが今回の3人だろう。しかしゴールド免許保持者は果たしてその必要となんなら許可があったとしてアクセルを思い切り踏めるのだろうか。そして、それになれたアウトローたる独歩を捕捉できるのだろうか。なんかへんな読み方になってしまったが、これもひとつの視点になりうるかもしれない。









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こんにちは。このハロウィンで42歳になりました、ツッキーニです。たまには筋トレのはなしを。




※これまでの筋トレ記事は以下に。あと筋トレ者の基本情報としてプリズナートレーニングの記事もどうぞ。











最近の大きな変化といえば、アンイーブン・プルアップができるようになったことだ。




片方の手でぶら下がり、空いた手で鍛える手の手首をつかんで補助とする、クローズ・プルアップの次の段階の種目になる。スタローンがよく映画のなかでやってる。見たことないけどロッキーが有名らしい。ぼくでは、『デイライト』で爆弾を天井にしかけるときにやっていたのが印象に残ってる。9月上旬くらいかな、いつものようにプルアップをしていて、ふと、できるような気がしてやってみたらできた、という感じである。



 ↓このポストのように、アンイーブン・プルアップに入ってからは記録がわりにときどき前のやつをリポストする形式で感想を書いている。しかし、これだと新しいほうから古いほうにさかのぼるかたちでしか読めず、リプを使ったツリー形式にすればよかったと後悔中である…


 


補助ありとはいえはじめて片手でプル動作ができたときの達成感はたいへんなもので、これまで急がず慌てず念入りに鍛えてきた筋肉が実った、というふうにも感じられたが、じっさいはそう単純でもなかった。

まず、日によってできる回数のバラつきがひどかった。最初、アンダーハンド(手のひらがこちら向き)でいきなり6回とかできたのだったかな。新しい種目に挑戦すると、たいていの場合意外な回数ができる。なぜなら、フォームが不正確だからである。しっかりぜんたいに負荷が伸びるように、その種目で可能なことがすべてできるようになるには時間がかかる。だから、慣れてくるにつれて回数が落ちるという現象も起きる。たとえば、コンヴィクト・コンディショニング(プリズナートレーニング)では1レップに6秒かけるわけだが、最初は、厳密にやっているつもりでも4秒しかかけていなかったりするのである。

そういうわけで、最初の6回は、おそらく楽なフォームでやっていたからだろうとおもわれた。あれ、できる!となった喜びで、カウントを急いだ可能性もある。次のときだったかに、ハンマーグリップ(手の甲や手のひらが横を向く握り)でやってみたら10回できたときも、まあまぐれだろうと思われた。じっさいそうだった。そこから、技術的に優れていくにつれ、回数はどんどん減っていった。いまは持ち直して、1セット目は正しいフォームで10回できるようになっているが、2〜3回しかできない日もあるのである。


そして、左右のバラつきもひどい。これはいまもだ。右利きだから、当然左のほうが弱いと思われるので、左からはじめるのだが(そうしないと左右不均衡になる)、左がたとえば10回できた同じ日に、右が3回しかできないみたいな日が多かったのである。アンイーブン・プルアップは、片手でぶら下がりはするものの、もういっぽうで手首をつかんでいるわけだから、上腕から先、肩、背中にかんしては、クローズ・プルアップ…両手を接近させたプルアップにかなり近い負荷のかかりかたをすることになる。インターバルはクローズ・プルアップやふつうのプルアップをするときと同じようにとっているし、タイガーベントを鉄棒で片手で行う三頭筋のエクササイズもスーパーセットでやっているから、時間はじゅうぶんあいている。にもかかわらずこれだけの差が出る。としたら、左右でグリップ力に差があるのかもしれない。最初はそう考えた。げんにぼくは、右利きなのだが、小さい頃は左利きで、腕相撲も左はまず負けない。ぜんたいに右が強いのはたしかとしても、握力は左のほうがあるのではと、そう考えた。としたら右のグリップを鍛えなくてはいけない。そうしてその次に、今度は右からはじめたら、たんに結果が逆になるだけなのだった。要するに、補助で手首をつかんでいるほうの手も、当然のことながらかなり使用していて、そこでグリップを消耗していたのである。


となると、左右の差というより、とにかくグリップが足りないというはなしになる。そこでぼくは、いきなりアンイーブン・プルアップができてしまったものだからスルーしてしまったが、冷静に考えると片手ハンギング、たんに片手でぶら下がるというようなトレーニングをまったくしてこなかったことに気がついたのだ。そうして行った片手ハングで、ぼくはまともにぶら下がることができないことも発見する。同様に片手ながら両肩をつかうアンイーブンプルアップをしている時間をはるかに下回る間しかぶら下がっていられないのだ。つまり、問題の根源はグリップではなく肩にあったのである。それに、なんとなく肩がはずれそうな恐怖もあった。これはプリズナートレーニングでも繰り返し書かれていることで、安全のため、ハンギングやプルアップの際には上腕骨を肩のくぼみにすっぽりおさめることを意識して、“ロック”しなければいけない。もちろん、両手のプルアップでもこれは意識してきた。だが片手となったとき、これができるかどうか自信がなく、かたい身体運用のまま、すぐに落下してしまうのである。


かくして、すべての問題は肩帯、肩の深層筋にあると判明したのが現在までの段階だ。グリップ云々は、まず安全に、安定して片手でぶら下がれる肩帯ができてからだ。そうしてはじめて、すでに完成しつつあったグリップ強化に戻れる。前回のハンギングでははじめて片手ハンギングのコツがつかめた。これまでは、なんとなくの恐怖から、全身をすさまじく硬直させていたようである。どうもからだを水平にしようとしていたような感じもあった。これが、肩を中心に、重力を感じながらわずかにからだをななめにすることで、自然なものになった。肩さえロックしていれば、他の筋肉は自然なコントロールにまわすべきなのだ。


それから、寒くなってきてからは、トレーニング中これまでなかった種類の頭痛を感じるようになった。自重以外のトレーニングをほとんどしたことがないので、この、片手のプルアップの領域がもたらす負荷は人生最大と言っていいだろう。つまり、かつてなく力んでいる。それを寒い中やったことで、すさまじい頭痛を呼んでしまったのだ。これまでぼくはウォーミングアップというものをあまり重視してこなかった。理由はふたつある。ひとつ、基本的な考え方が格闘技にあるので、ふだん活動しているその流れで実践できなければ意味がないと考えているフシがある。もうひとつは、ウォーミングアップであまり消耗したくないということだ。だが血管が切れてしまってはたいへんだ。というわけで寒くなってからはかなり念入りにからだをあたためるようにしている。これまでは、軽い体操のあと、その日鍛える箇所についてごくかんたんな種目を1セットやる、みたいなことをしていた。片手プッシュアップの日なら、インクライン・プッシュアップを30回みたいなことだ。しかし今回の頭痛からは筋肉があたたまっているかどうかという次元ではないものも感じた。こういうときは、巨大な大腿筋を動かすスクワットがいい。なので、①鉄棒でプル動作10回②鉄棒でインクラインプッシュアップ10回③スクワット系種目10回④カーフレイズ10回、これを1セットとして、休まず8〜10セット行っている。動作としてはどれも楽なので消耗は抑えられるし、モチベーションも損なわない。そしてこれくらいやればそうとう寒くても全身があたたかくなってくる。そうしたら頭痛はなくなった。そして、危惧していたメイントレへの影響もほとんど感じられない。冬場はこれでいこうとおもう。


プルアップを行う公園トレのルーティンとしては、まず背中の日がある。フルプルアップをたくさんやる日だ。セットの最後にアンイーブン・プルアップを1セットだけやる。ただこのときは感覚を忘れないという程度のモチベーションで、あまりがんばらない。このとき、スーパーセットでディップスも何セットもやるので、これは胸の日でもあり、じつはいまはあまりプッシュアップをやっていない。10日に1回くらい、2セットやるくらいだ。


背中から2日あけて、最近もうけたハンギングの日がくる。片手、両手、タオルなどさまざまなバリエーションで刺激を加える。なるべく背中や腕は使わない。以前腕の日にやっていた自重のシュラッグを、いまはこの日にやっている。レッグレイズを加えてもいいかもしれない。


そこから1日だけあけて腕の日。クローズ・プルアップをメインとして、さらにアンイーブン・プルアップを集中的に行う。また最近は、片手プルアップのトップポジションで停止するワンアーム・フレックスハングと、そこからゆっくりおりるネガティブ動作も加えている※。むろん、ろくに停止はできないしすとんと落ちる。だが、肩のロックさえ気をつければ、アンイーブン・プルアップのさらに先、片手だけでからだを動かす感覚をつかむのにはかなりいいと感じている。


ひとつだけじぶんに向けて書いておくと、アンイーブン・プルアップは、成長段階のひとつとして非常に有効な内容にはなるが、あまり長居すべきではないとも感じている。名前のとおり、とても不均衡なのだ。特に補助にまわっている手にかかる負荷をコントロールすることはかなり難しい。できないと言ってもいいかもしれない。強いちからでつかむだけ、バーをつかんでいる側の肩や背中からは負荷が逃げていく。両手でバーを握っているときにはわかりやすいそうした不均衡やちからの流れが、非対称になることで把握しにくいのだ。なのでこの段階ではこれまでよりいっそう通常のプルアップやクローズプルアップに集中してもいる。一刻もはやく、補助をはずした片手プルアップができるようになりたいところだ。



※今日(更新当日)は腕の日で、ここにあるとおり片手フレックスハングをやったらいつもよりずっとキツく、ぜんぜんできなくて、よく振り返ったらフレックスハングは背中の日にやっていたのだった。種目が増えてきてごちゃごちゃしてきた。このタイミングでブログ書いといてよかった。










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第130審/日常の犯罪⑬



ついに伏見組に壬生が見つかってしまった。すでにタイで見つかっていた菅原を張っていた出雲の子分が、菅原に金を貸しにきた壬生を目撃したのである。壬生はこれ、洗濯してるの?


出雲は案外冷静だ。冷静すぎて超こわい。なにこのひと。彼は、部下に経緯を訊ねる。まず菅原は、伏見組とつながりがある現地の金融屋を通じて見つかった。ギャンブルで金が必要になり、念入りにタイまでかけていた指名手配に引っかかったわけだ。出雲がそこですぐ菅原をつかまえずに泳がせていたのが壬生発見に繋がったわけである。

なんか事情はわからないが伏見組はタイで海苔巻き屋をやっているらしく、そこに組員もいるらしい。そこに4人、さらに兵隊を送ると出雲はいう。そこにはどうも宇治も含まれているようなのである。


さて、屋上でブラサンと戯れる九条のところに記者の市田がやってくる。

マスコミ報道で人生を変えられてしまったひとを新連載のコラムで取り上げたいということである。この言い方だと、新連載の主旨がそういう人々をあつかうということなのか、それとも連載開始のいまだけなのかわからないが、最初に烏丸、そして烏丸父の事件を取り上げたいということなので、少なくともしばらくは続くようだ。そして、できれば烏丸母も。

九条があっさりお母さんは無理だと応えるから、市田は、あのとき週刊誌の記事で烏丸父を悪く書いたのはじぶんだと告白する。烏丸らへのつぐないという意味もあるが、そのままマスコミ側の仕事を続け、他ならぬマスコミの仕事において贖罪をすることに意味がある、というような感じだろう。罪を償うとともに、マスコミというものの歪みを正すことにもつながるから。

九条はズバズバとはっきりいう。しかし市田は、手段はどうあれこの仕事をまっとうしたいという感じだ。人生をかけるという市田に、どう転ぶかわからないとしつつ九条も折れるが、逆に九条のほうから、会ってほしい人物がいることが告げられる。むろん、最近知り合った、事件の被害者であるのらである。九条から話を聞いた烏丸は、たしかに荒療治だがふさぎこむ母親を治すいい機会かもしれないが、あまり乗り気ではない。


烏丸がはなしを飲んだかはまだわからないが、のらは承諾してくれた。恩人の家族に会うということで緊張しているのら。事件を思い出すやら感謝の気持ちを思い出すやら、胸がいっぱいになって涙があふれる。それを、小さな娘が慰めるのだった。



忘れそうだが曽我部は出雲に言われて井出を大麻農場を案内しているところだ。しかし部屋にはなにもない。文字通りなにもない。とぼける曽我部を井出が殴る。と、よく見ると窓が外側から割れている。誰かが盗んだのか?心当たりは?と聞かれ、曽我部はあると応える。佐々木久馬なのであった。




つづく



並行して重要なはなしが展開するウシジマくんみたいな展開でわくわくする。


大麻部屋にはかなりいろいろなものがあったので、ここまできれいに持ち出すのはひとりでは難しいだろう。百井と曽我部が意味ありげに視線を交わしていた場面もあった。たぶん、久馬に部屋がバレた件をうまく利用し、苗や機材を移動させたことがバレないよう、彼に罪をなすりつけるつもりなのだろう。百井にとっても久馬は腐れ縁、邪魔なだけだったろうし。出雲らから逃げられるわけではないがとりあえずこの場はなんとかなるだろうし、一石二鳥かもしれない。


タイには宇治もいくことになりそうだ。

宇治と壬生は信念で結びついており、宇治が壬生を殺すようなことはおそらくありえない。だが宇治がヤクザのままでいることもまた彼らにとっては重要なので、宇治はあくまで出雲も命令を守りつつ壬生を助けなければいけない。こう考えると、やっぱり菅原が売られるかたちになるのではないかと思われる。壬生が武器を提出して京極が捕まったことは事実として動かないので、彼らがすべきことはとにかく逃げることである。つまり、この場を逃げられさえすればそれでいい。菅原はそのための生け贄としてちょうどいいのではないかというはなしだ。菅原じしんも追われているのだし、多少は伏見組の溜飲も下がるだろう。まあ、菅原があることないことしゃべって出雲の壬生へのうらみが増大するかもしれないが…



烏丸家とのらの接触は、父の死から停止してしまっている時間を動かして、緊張状態を寛解する可能性が高い。

烏丸も母も、父が英雄的に死んで、それが週刊誌のゴシップで毀損されてから、過去に生きている。母はふさぎこみ、現実を直視できなくなってしまった。烏丸は、弁護士業に救われることになっているが、対症療法に近く、根治はしていない。彼は異様な数の昆虫標本を家に飾っている。標本は、昆虫を瞬間のなかに封じ込め、観察したり鑑賞したりする方法だ。烏丸は法を通じてこの標本思考を世界解釈として実現している。裁判は判例によって部分的に制限されている。そうした判例、また、とにかく過去にあった事例を、それぞれパターンとして受け止め、分類して管理する、そういう標本思考が、彼の弁護士業には生きているのである。だから烏丸は、母と同じように硬直した過去にとらわれながら正常でいられる。つまり、彼にとって弁護士業は、根治を阻みながらもそれによってもたらされているものを完全に活かすことのできる仕事なのだ。


市田による取材は、まずは市田じしんを回復するものだ。そのためにそっとしておいてほしい当事者をつかうのは自分勝手かもしれない。しかし市田はあの事件を後悔しているし、そもそも当時からして本意ではなかった。彼女はいまでも記者である。報道、マスコミの仕事にももちろん価値があるのに、彼女にとってはあの件がずっと引っかかっていた。このままではマスコミとしての正しい役割さえ肯定できない。他ならぬじぶんが、あの事件を再び取材し、反省とともに世間に示さなければならないと、ここには自己肯定に加えて使命感も見えるわけである。



ここにのらも加わる。硬直した過去を動かすのは、「硬直していない」という物理的事実である。なぜ過去にとらわれすぎるのが良くないのかというと、それが過去だからである。時間が止まっているように感じられても、事実はそうではない。時間は、好むと好まざるとに関わらず進んでいる。だから硬直した過去は現実の流れと齟齬をきたすことになる。つまり、必要なことは、硬直は錯覚だったと悟ることなのだ。これを理解するために、事件からときを経て立派になったのらの姿ほど効果的なものはないだろう。過去のなかに父がいるぶん、そこにはあたたかさもあるだろう。だから母はいやがるかもしれない。しかしほんとうの体温はもうそこにはない。のらを通じて、母は事件に真に直面することができるはずである。



しかし、問題はむしろ烏丸なのだ。なぜなら、彼の仕事は標本思考によって成り立っているからだ。これを融解することは、根治につながる。だが同時に、夜中に勝手に行われるスマホのバージョンアップみたいに、その世界認識の更新も自動的に始まってしまうのである。だから烏丸はなんとなく乗り気ではないのだ。烏丸は弁護士としての九条のありかたにとても興味を持っているわけだが、しかしそれはこの先にしかない。



以前、烏丸の思考法を無時間モデルと解したことがある。







ここでいう無時間モデルとは、空語を厭う、もしくは理解できない彼が、言葉の意味の充実を求めて法律家になり、リニアな意味の連なりを見出しているということだ。「空語を厭う」は、父の理不尽な死によるものかもしれない。父の死をもたらした犯人の心情はまったく理解できない。あの犯人における「犯罪」という語には、まったく意味が入っていない。空っぽだ。そんななかで、語のなかに「意味」がピッタリはまった法律の文章だけが心強かった。しかし法律の文章には基本的に時間が流れていない。ひとによって、また同一人物でも日によって、内容の解釈が異なってしまうようなものは法律にならない。これが烏丸に無時間モデルの思考法をほどこした。通常、言葉において、意味するもの/意味されるものはそこまで安定しない。プロレスファンと格闘技ファンでは「強い」の意味がよく似ているのにまったく異なっている。「日本一のたこ焼き屋」みたいな表現もそうだ。彼は「意味」が一望のもとにおさまらない不規則かつ予測不可能な時間的モデルを嫌う、もしくはうまく理解できないのである。おもえばこれは、事例を単位のようにあつかう標本思考につながっていたわけだ。標本思考はいわば「理解できないものの一覧」なのである。彼は、それを放置することじたいをよしとはしない。ではどうするかというと、事例として分類するのである。





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第53話/蠢く猛者ら




1話足らず使って刃牙に挑み1話足らずで完敗した加藤。わかっていた結果ではあるが、もうちょっとなんかあって欲しかったかな…


それについて、花田が光成とハブ酒を飲みながら話してる。弱いというわけではないが、相手が刃牙じゃ痛めつけてももらえないと光成はいう。ドリアン戦を見せてやりたいなあ。加藤はホンモノのファイターなんだけど。

笑いつつ、厳密には少し痛めつけられたと、フォローにならないが、加藤を知る花田はいう。いらついた様子がないのは、刃牙が強いのがもっともだからだろう。加藤が弱いというか刃牙が強すぎるのだ。

自分はやらないのかといわれ、まったくそんなつもりがないことを花田ははっきりいう。あれは、小型ではあるが、頭脳と猛毒を備えた猛獣であると。どう甘めに見積もっても無理だ。


一拍おいて光成が、師匠である本部の花田評を引く。センスや姿勢、身体能力など、入門初日から逸材だったと。花田はあまりの光栄に鳥肌を立てている。以前ならともかく、いまの本部は「宮本武蔵を倒した人物」である。その言葉の価値も大きい。花田は最初からその価値を理解しているだろうが、改めていまの本部からいわれたは感動も大きいだろう。

光成はその「光栄」をどう使うかとあおるが、花田は良くも悪くも身の程がわかっちゃう男だ。刃牙、勇次郎、本部、克巳、ジャック…。本当の天才たちを知っているのである。


そのひとり、愚地独歩が道場生が大勢いるなかに正座している。克巳の司会で、道場生と組手、というか立ち合いが行われるようだ。といっても、よくある独歩の稽古としてのそれではなく、今回独歩はあくまでゲスト指導員という感じっぽい。勝てば今日から伝説になれると聞いてみんなわりとマジの顔になる。勝てばね。勝てばだよ?虎に勝つ人に勝てばね。


そこへ現れたのが末堂厚である。



つづく



ジャック(=本部)による「刃牙らへん」の特殊解釈、「エエカッコしい」なものたちという括りはいったん置き、言葉そのままの、刃牙に登場する魅力的な周辺キャラを描いていくはなしになりそうだ。


末堂は『グラップラー刃牙』時代からいる、最初のボスキャラである。モデルは極真の八巻。神心会決勝で刃牙と対戦、そこから独歩を通じて裏格闘技といえる地下闘技場へはなしを移動させる流れでもあり、いわば表格闘技を象徴する人物であった。とはいえ、八巻がモデルである、表とはいえ神心会のチャンピオン、実力はある。ファイターとしてはずいぶんおとなしくしていたが、ドリアン戦で復活、負けはしたがふつうに強いということがよくわかるいいファイトをみせた。このたたかいがまた、死んでる可能性もある終わり方で、しばらく出てこないのが心配だったが、ピクル登場あたりでときどき姿をみせるようになっていた。


表と裏でなにが異なるのか、ひとつにはルールである。一般にわたしたちが目撃する格闘技の試合がどのようにルールを定めるかというと、選手の技術をどう高めるかという面と、入門者を増やすためにどう興行を成功させるかという面のふたつがあるようにおもわれる。ルールが厳しく、タイトであるほど、選手全体の技術が向上することはボクシングや柔道、レスリングをみれば一目瞭然である。現代では総合格闘技のルールも選手も洗練されてきているが、それも長い歴史を通じて問題点が共有され、ひとつひとつ解消されてきた結果だ。

しかし裏格闘技は基本的にルールがない。厳密には、たとえば地下闘技場は武器が禁止だったり、一対一だったり、決まりごとはある。試合の時間と場所が決まっていることも制約のひとつだ。しかしそれは、ルールを設けていくというより、路上の実戦から必要な箇所を削っていくという感覚である。

どこからこういうちがいが出るかというと、ひとことでいえば主催者である。格闘団体が主催する試合は、いま述べたように選手の技術向上と興行の成功が目的となる。原理的には試合場とは、修めた技術を確かめる場所であり、相手を倒す場所ではないのだ。しかし裏格闘技は試合会場、ハコが主催者となる。そのハコが実戦を志向すれば裏格闘技に近づいていく。やがて地下にもぐり、法すら感知できないほど深く隠れてしまったとき、それは地下闘技場となるのである。


裏格闘技、つまり、刃牙らが生きる、法を超えた場所での強さ比べの現場でも、表の格闘技者が強いということはありうる。裏格闘技ではひたすら個人が比べられるので、たとえば世界最弱の格闘団体でも所属しているのが勇次郎なら裏でも強いのは当たり前である。ただ、末堂には明らかに象徴的影がある。述べたように、彼は物語としては踏み台にされるかたちで現れたのだ。


表と裏そのものは、親子喧嘩、武蔵編を経て完全に接合した。前回も貼ったリンクだが、読んでほしいのでまたつけておく。






こういう状況で、裏格闘技の住人たちは少しずつ存在を了解されつつある。実力差があるぶん、基本的には表が裏を迎え、負けるというパターンに必然的になっていく。裏で名をなすものは個人で強いものたち、まさに花田のいう天才たちなのだからそれも自然だ。しかし、個人であることから逃れたとして、表格闘技者は弱いのだろうか。大相撲編では、巨鯨などが個人としての強さを見せはしたが、結局は刃牙らにまったく歯が立たなかった。しかし末堂はどうだろう。末堂個人が強いということはもちろんある。だが、くりかえすように、末堂は「表格闘技の強い人」代表みたいなところがあるのだ。かなり高い確率で、彼のファイトは個人対個人にならないのだ。ドリアン戦が例外となったのは、加藤をやられたうらみが、その強い原動力となっていたからだろう。流れとして独歩はしっかり裏の技を使いそうだ。つまり表向きの技術体系にない技だ。末堂がこれをあくまで表格闘技者として受け止めるのか、才能ある個人として対応するのかでもはなしは変わってくるが、できたら表格闘技の技術で応えてほしいところである。









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第129審/日常の犯罪⑫



百井らを詰め、農園を案内させようとする出雲。曽我部と百井は意味ありげに密かな視線を交わしている。出雲は井出というさっぱり顔の若者に車を出すように指示する。


九条の事務所。訪れているのはのらである。百井に5000万で農園をゆずったタイミングで出雲が出てきたので、のらはうまいこと逃げられた感じになるのかと思われたが、ちがうみたい。

のらのフルネームは野村乃蘭という。のらは本名だったのだ。なんか全体にかわいい名前だな。曽我部の紹介で来たという。のらと聞いて九条ははじめて理解したようなので、曽我部は「のらさん」としか言ってないのだろう。曽我部らしさとそれでかまわずにいる九条らしさが出たやりとりだ。


のらの用事は、現行のトラブルではなく、曽我部も言っていた立て続けの職質である。警察の内偵が入っているのではないかと。そのときは、内偵が入っているなら警察はなにかつかんでいる、という話だった。職質じたいは任意だが、現実にはなかなか断れるものでもなく、へんに暴れると公務執行妨害となる可能性もある。だから応えるしかない。これからこわいのは家宅捜索で踏み込まれ、栽培の現場をおさえられることだ。

九条はくしゃみをしながら説明し、鼻炎にきくのか、フリスクをかじってのらにもわける。

以上はまあ当たり前のはなしで、問題は、なぜ内偵が入っているのか、そしてどのタイミングで警察は踏み込んでくるのかである。内偵じたいは、内部からの情報提供か、客からたどっていく突き上げ捜査の結果と考えられる。まあ、ありうる話だということだ。家宅捜索についてはこれ以上議論はないが、とりあえず電話は通信アプリを使って履歴をすぐ消すなどするように九条はいう。九条はこんな指示しちゃって大丈夫なのかな…。すでにのらはやっているようだが、弁護士がそんなアドバイスをくれることに喜んでいる。


そこへ烏丸が法廷からもどる。顔をみて、のらは、二度見するような妙な反応をみせる。そして、お父様はご存命か、それは烏丸克信さんではないかと聞く。訝しむ烏丸に事件を知っているとだけ話して、今後のことを頼みながらのらは帰っていく。九条はのらが誰なのかわかっていたようだ。烏丸の父親が命をかけて守った女性なのだった。


タイにいる菅原と壬生。菅原はタイでビジネスを始めたと言っていたが、始めたところなのでいろいろ物入りなのかもしれない、壬生からお金を借りたらしい。壬生はなにしに菅原に会いにきたのかなと思っていたが、これなのかも。

菅原は手広く稼ぎまくる壬生の手腕を素直に認めている。壬生ならタイでも成功すると。それは、流れを読んでためらわず先手をうてる1パーセントの人間だ。公平を求めて、不公平をなげき、いつも親や政治家などのせいにしている人間にはそれは不可能である。




「世の中は支配と操作で動いてる。

1パーの人間は善人の顔して奴隷を作る。


善良な人間は使い捨てのコマにされる。


捨てられる前に自分から盤をひっくり返さなきゃ人生を変えられない」




こう言う壬生は、菅原のことをどう思っているのだろう。


井出のしけた車で出た出雲ら。出雲は百井と車で待つとし、井出は曽我部に部屋を案内させる。たしかにあの栽培部屋のようだ。すんなりここまで来たが…。

車内の出雲のところへ草生というものから電話。タイの描写に描かれていた人物だ。ついに壬生を見つけたという重大な報告なのだった。



つづく





菅原はもう見つけたというはなしだったから、辛抱強く菅原を見張って、今回ついに壬生が現れたということだろう。


のらはまだ退場ではなかったか…。それどころかメインストーリーにからむ人物だったわけである。

烏丸の父が誰を守ったのか、そしてその人物が助かったのかどうかは、いままで謎だったようにおもう。

この事件の犯人を弁護したのが流木で、検事が九条の父・鞍馬だった。そして傍聴席には若い九条や、被害者の息子である烏丸も当然いたのだ。なんか宇宙的意味が感じられる裁判だ。もちろん、その犯罪の理不尽さを考えたとき、弁護人を通じて守られる加害者の権利というものはどういう価値をもつのかという点で、作品を駆動する「法制度の存在理由」について問いかける立場と響き合うのだが、当事者である烏丸にとっては後日談もある。当時週刊誌に配属されていた記者の市田が不本意にも加担した暴露で、父の英雄的行為は毀損されてしまったのだ。ただでさえ、父の急死は烏丸ら遺族を宙に放り出したろう。ここへさらに人の世のままならなさのようなものも痛感され、彼らにはなにもたしかなものがない状況になっていたのである。

現在の烏丸の部屋には無数の昆虫標本が飾られている。烏丸じしん、父の死を、厳密には父の死の意味を受け止めることができていない。彼はこれに、昆虫を時間から解き放って対象化する標本と同じく、硬直した過去の事例に弁護士として直面することで自己を保っている。弁護士の仕事が、あのときのことをたしかな事実として受け入れさせ、烏丸をぎりぎり生かしているのである。


そこにあらわれた、父が守ったというのらはどういう存在だろうか。それは、事件に体温を加えるものなのだ。事件の「標本化」は、烏丸が弁護士であるから成り立つ自己治癒である。そうでない当事者、つまり母親のような遺族がこれをすると、過去は硬直し、身動きがとれなくなる。のらの登場は硬直した過去を融解し、いきいきとした事実にする可能性がある。それは、ふつうに考えたら「いいこと」なのだが、いまそのように硬直した事例を参照先とすることで弁護士業につく烏丸ではどうだろう。烏丸は、九条と比べるとロゴスの人間、言語を通じて受け取ることが可能な事物をもってして世界をあまねく認識するものであり、これは思えば標本思考が根本にあったわけである。のら登場はこれの解除を暗示するというはなしだ。それが烏丸にとってどうなのかは不明である。九条のような弁護士にはなれるかもしれないが、烏丸の持ち味が失われるのは惜しい気がする。が、それも目を背け続けている傷があればこそだとしたら、それでいいのかもしれない。



見つかってしまった壬生だが、引用のセリフもあり、なんとなくこの状況は菅原を売りそうな雰囲気である。菅原はいまお金がない。人望はどうなのだろう、わからないが、タイに子分を連れてきている様子もない。ひとを貨幣のようにとらえることができる冷酷な壬生にとって、もう菅原はあまり役に立たない、というか、いまがもっとも役に立つときということにならないだろうか。菅原の油断し切った感じも引っかかる。いちどは殺されかけた相手なのにな…。菅原はもっとできるやつだったよね。だからこそ壬生は引き入れたとおもうんだけど。なんかボーっとしてるなあ。



↓九条の大罪15巻 10月30日発売予定





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