すっぴんマスター -7ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第52話/児戯




じぶんが更新遅れているぶん、一週勘違いしていた。すみません。まあ、もともと最近はこんな感じのペースだが…。というわけで駆け足でいきます。



刃牙の強さを武術家として正しく疑い、尾行する加藤。尾行はいいとして、いつどこでしかけるか加藤は迷っている。と、前方をいく刃牙が急に曲がり、危うく見失いかける。もちろんそうはならない。とっくに尾行に気づいていた刃牙が相手を気遣っていい感じの駐車場に入ってくれたのだ。


刃牙は相手が加藤だとまではわからなかったようだ。気配がありすぎて、誰かがきているのだけわかった感じである。それでおあつらえ向きの駐車場に入っているのだから、主導権はもう刃牙のものだ。尾行する意味なかったな。


バレバレだったのがじゃっかん気まずいが、気を取り直し、加藤は疑っていることを述べる。こわいもんなしみたいな顔してるけど、そんなに強いんだっけ?と、これから負けるひとみたいなからみかただ。まあ負けるんだけど。

ただ、じっさい刃牙の態度は「なぜか親戚の評価はやたら高い悪役令嬢」みたいで、鼻にはつく。明らかに加藤をなめており、これはちょっとムカつくかもしれない。

刃牙は、加藤さんなんだから不意打ちしたらいいのにと、加藤でなくてもどういう意味だと言いたくなる言い草だ。とはいえ奇襲不意打ちは事実実戦派の加藤には自然な行動でもある。無意識に実力差は理解しており、奇襲をかけることで現れるかもしれない刃牙の「本身」を回避しているのかもしれない。


不意打ちをしなかったのはその必要がないから…などとしゃべりながら加藤がしかける。なにかはわからないが左手だ。しかし刃牙の右縦拳がこれにあわせて加藤の眼前にそっと置かれる。「グー」と。これを弾く加藤の動作にあわせて「チョキ」が目の下に添えられる。最後に放たれた左上段には金的への「パー」である。じゃんけん、児戯というわけである。


金的を叩かれて苦しむ加藤の手を刃牙が握って起こす。チャンスとみた加藤だがあっさり合気でからだが回転。ちょうど握手の態勢である。ここで終わりにしませんか?という刃牙の言葉を受け、加藤は「お見それしました」と負けを認めるのだった。



つづく



だめか。まあ、そりゃあそうだよな。あまりにもかけはなれた実力。加藤、心折れないかな…。


刃牙にとっては児戯に等しいファイトだったわけだが、ここには刃牙独特のサディズムというか、彼の嫌なぶぶんがよく出ている。たんにじゃんけんという児戯に等しいたたかいであると表象するだけでもなかなかだが、その全パターンを刃牙はやったわけである。つまり、加藤はなにを出してもこのじゃんけんには負けるのである。刃牙は手を抜かれた相手の気持ちをピクル戦を通じて知っているはずだ。つまり、わかってやっているのである。

ただ、刃牙はピクルに手を抜かれたとき奮起してもいるので、そのように決めつける前に一考する余地はあるかもしれない。このように格下扱いされることでむしろひとは強くなると、刃牙はじぶんを標準としたときに考えている可能性があるのだ。加藤とは長い付き合いである。そうであってほしい。


加藤の疑いは粉々に砕けて消滅したことだろう。彼自身いうように、疑いをなくしたら武術家はおしまいだ。なぜなら、武術家とは、究極「じぶんがいちばん」だからである。しかし、とはいえ、刃牙との実力差を、加藤もほんとうはわかっていたはずだ。たしかに最近は刃牙世界のトップファイターでもその強さが「リアル」になってきているぶぶんがあり、これは親子喧嘩終了と無関係ではない。親子喧嘩を経て宮本武蔵に至り、そして大相撲編で実践されることで、刃牙らが住む裏世界とボクシングのチャンピオンや力士が生きる、監視カメラを通じて独歩の危険な技や勇次郎の不死身っぷりを見る表世界は繋がった。この結果として、本部のような意外なキャラが活躍するようにもなったのである。


詳細は以下に。記事4本、めちゃくちゃ長いけど、刃牙道まとめに書いた考察記事です。おもしろいよ!





こういうわけで、板垣作品である餓狼伝を読んだ後だと「強さ」のものさしが狂い、ぼくもこの感覚になるが、なんか刃牙の強さが計測できるような感じがしてしまうのだ。

加藤はそんなメタ事情は知らないわけだが、一種の波が来ているのだろうとは思われる。表裏合体それじたいは、作品世界のなかでじっさいに起きているからだ。となれば、「じぶんがいちばん」である武術家がじしんの度量衡を疑うのも自然なことである。価値観が変わりつつあるなかに彼は生きているわけなのだから。


しかしそれでもやっぱり刃牙は圧倒的に強かった。こうみると、案外加藤のメンタルも心配はいらないかもしれない。価値観が微妙に変化した世界で、加藤は「あの体格でそこまで強いなんてありうるか?」という、極めて常識的な疑問を抱えたのである。事実としてはありうるわけだが、加藤にはそれでも、新しい世界の座標軸の内側にじぶんの位置を見定める必要があったのだろう。


また、自明視されてきた「範馬の血」について加藤が少しでも触れてくれたことも今回は大きかった。広い意味での「刃牙らへん」は、そんなことをわけ知り顔に語る者たちではほんらいないはずである。独歩も、渋川も、ジャックも、じぶんがいちばん強くありたいはずだ。それを彼らが、また作品が思い出すきっかけになればとおもうが、難しいのかな。











管理人ほしいものリスト。執筆に活かします↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini5@gmail.com

第51話/強いか



花山・ジャック戦についに警察が介入。勝負終了である。

だが、とめるまでもなく、出血多量で花山は限界だったようだ。武蔵戦もそうだったが、痛みでとまる男ではないので、いつもこのように機能停止するように気絶するのである。…と書いて、これもどっかで見た表現だなと気がつく。ジャックのトレーニングなのであった。ほんとうによく似たふたりだったわけである。


たほう、結果としてはボコボコにされたジャックだが、致命傷は負っていない。花山があの握力で首や顔面を狙っていたらはなしは違っていたろうが、どうあれそうはならず、蓄積したダメージでダウンはしたものの、歩いて帰れる感じだ。ジャックはわざわざ逆立ちをして起き上がり、形式的に質問をする警察に、ただの喧嘩だと述べる。どっちが上かの強さ比べ。ジャックは張り倒され、花山は出血で失神。ただそれだけだと。

花山を頼むとだけ言って去るジャックを止めようとするものもあるが、園田が制する。事実、ただの強さ比べだったろうと。被害届も決して出ないのだし、これ以上なにをどうということでもないのだった。


さて、花山ジャック戦が終わって、次の動きである。珍しくジャック抜きの展開っぽい。本部の道場で加藤と花田が刃牙の強さについて語っている。


加藤は、なぜか刃牙の強さを疑っているようである。武術家は疑わなくなったらおしまいだと。当初刃牙のライバルっぽい感じで登場した加藤がいうと重いな。もちろん、加藤だってほんとうはわかっているはずだ。しかし理性と自尊心が、いやいや待てよ、ほんとうにあの身長、あの体重で、そんなに強いなんてことがあるかと、ときどき揺さぶってくるのだろう。

花田ももちろん疑う日々だが、刃牙を疑ったことはない。そうおもうなら立ち合ってみればと、「LINE聞いてみたら?」くらいの軽さで花田はいう。

加藤はもうひとつ、「範馬の血」という、刃牙界ではなかば自明視されている強さの要素にも疑問と不満がある。範馬がふつうじゃないのはわかってるけど…、と、加藤はうまくことばにできないようだ。なんとなくわかるような気がする。それってもう、技術とか体力とか意味ないって認めるようなものじゃないかと、こういう気持ちだろう。少なくともそれを追うものが全面的に認めてしまうのはどこかいびつだ。親が優秀だから遺伝子が…などと言って競争相手の背中を見続けている現実を受け入れて良いのかというはなしである。


勇次郎はいいよと、加藤はそこは認める。しかし刃牙である。170センチ弱70キロ程度で、勇次郎に勝ったというのである。「勝った」という事実はあるし、理解もしているわけだが、納得できないという感覚だろう。


かくして刃牙と立ち合うことを決めた加藤は、昼日中、刃牙の追跡を開始するのだった。




つづく




加藤…。加藤よ…。


当初刃牙らへんはタイトル通り刃牙周辺のキャラクター、特にレギュラーではない、花田のような人物を描いていくのかなという雰囲気があった。やがて、もともとの意味…、本部がガイア、加藤と話していて、「エエカッコしい」な連中という意味で「刃牙らへん」と発言した、あの流れに還っていき、それを相対化する究極存在としてジャックが描かれてきたわけだが、「刃牙らへん」という語の解釈じたいは固定されたものではない。「刃牙(やその他レギュラー)のようなカリスマを前にかすんでしまう、まあまあ魅力的なのに出番がない人物」を指す語としたって別にいいわけである。花田はその代表格で、げんに「刃牙らへん」開始時は花山と戦ったりしていたのだ。その流れを、少し戻す感じかもしれない。


実はこういう展開は初めてではなく、死刑囚篇はまさにそういう内容だった。負けはしたが、ドリアンとたたかう末堂はかっこよかったし、ガイア、本部は持ち味を発揮していた。相手が無法者であったから、それに対応するものに最初からあった多様性が浮き彫りになった、というようなところだろう。

現在の展開には物語らしい物語はない。ジャックが宿した、「刃牙らへん」の意味をエエカッコしいと解釈する立場もひとつの見解にすぎないとすればなおさらそうである。ではどのようにして花田や鎬、加藤が現れうるのかというと、刃牙らへん、つまり刃牙のまわりに、オルタナティブでありながら主体性を持った存在として現れたときである。それはどんなときか? そのひとつが、「刃牙」に疑問を持ったとき、というわけである。


この「刃牙」もまた多義的だ。それは、まずは個人の名前であるが、その個人が、最強者としての名前であり、加藤の友人としての名前であり、「範馬の血」を流すものの名前でもあり、複雑に分岐する。だがここで加藤は多くを説明しないことである意味これらすべてに疑問を投げかけているのである。つまり、メタ的に、虫のいどころの悪い読者が「170センチ70キロでこんな強いわけねーだろ」などとおもうのと同質の感想が、加藤からももれでているのだ。つまりこれは世界そのものへの疑問である。そんな世界ありうるか?ということなのだ。いわば、自明としてあること、週刊連載漫画が常識としているようなことに、加藤は「武術家としての疑問」という形式で挑戦しているのである。


「範馬の血」もまた一種のお約束であり、「それを認めなければ議論がすすまない」というたぐいの公理的な前提だ。しかし加藤はあくまで物語の内部から武術家としてこの前提に疑義を呈する。武術家としては、そんなふうにかんたんに認めていいものではないということは書いたとおりだ。スポーツ選手が「外国のひとはでかくて強いから勝てないよ」などとは思っても認めないのと同じことである。そんなことを「当たり前」にしてしまってどうするということだ。だが、これはそれだけで済まない疑問なのである。たとえば「主人公」とか「ラスボス」とかが身にまとって行使する、作品が成立するとともにモノの道理として出現する権力構造、これを加藤はひとことで相対化したのだ。


ジャックは今後どうなっていくだろうか。彼が刃牙らへんにおける中心的人物であることはおそらく変わらない。なぜなら、「刃牙らへん」という語の解釈においてここまで当事者を揺さぶるものはほかに考えられないからである。だが、花山戦はこういう結果になった。ほんとうの実戦なら立ち上がれるジャックの勝ちかもしれないが、一時的にでもダウンしている以上、この段階では負けであるともとれるかもしれない。だが今回のたたかいで重要だったのはジャックの学びである。よく似たふたりのちがいは、規範を規範と認めるかいなかということである。ジャックにも明らかに美意識はある。花山はふだんやることがあまりない、つねりやゾウキン絞りなど、噛みつきと同属性の技をつかうことで、ジャックの批判精神、また「カッコつけない」もまた美意識ではないか、ということを伝えていたのだ。これはジャックに伝わったろうか。個人的には、いまジャックは批判者として強くなったのだから、伝わらなくてよいとおもうが、変化があってもいいかなとはおもう。なんかしばらく描かれなさそうなので忘れそうだが、再登場の際にはそのあたり注目したい。










管理人ほしいものリスト。執筆に活かします↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini5@gmail.com

第128審/日常の犯罪⑪




曽我部が九条を訪ねてきたあと、薬師前が依頼した仕事について烏丸に礼を言っているところだ。飲みに行くというのに九条はかってについていく。


ここで、曽我部が九条を訪れ、また犯罪行為に関わっているらしいことが薬師前に共有される。薬師前は驚くでもなく舌打ちまじりに馬鹿曽我部よばわりだ。

曽我部は模範囚だったわけだが、こうしてまたもとの状態に戻っている。烏丸によれば、出所者の半数が再犯をするらしい。住む場所も仕事もない、保証人もないし毎日が非正規の日雇い、生活も心も安定しないのだと、冷たい表情の薬師前が解説。「再犯」と聞くと、悪いやつが悪いことをくりかえすというたんじゅんな図像を思い浮かべてしまうが、そういう性悪説とか自然状態的なはなしではないわけである。曽我部が模範囚だったのも、曽我部を知っているものからしたら自然なことで、ここに偽りはない。そりゃあ、おとなしい曽我部は、模範的だろう。にもかかわらずこうなる。つまり、模範囚であった事実は、刑務所の外ではなにも意味しないのである。なんと虚しいはなしだろう。そして、ということは、模範的であると評価する刑務所の制度も、外の世界とはなにも関係ないことにもなる。




「刑務所は更生施設じゃない。


社会復帰困難者製造所ですよ」




九条も皮肉をいうわけである。


河辺のお店に着いてからもはなしは続く。

再犯はもともとの環境要因もある。孤立した状態でむかしの悪い仲間としかつるめず、また悪いことをする。さらに曽我部は知的障害や精神疾患もあり、支援がなければどんどん悪くなってしまう。

しかし九条にいわせれば、曽我部なりの経済合理性になる。社会はじぶんを受け入れない、ルールもよくわからない、そんななかで安定しようとしたら、リスクは高くても裏稼業にいくしかない。九条は別に皮肉を言ってるわけではない。そして、以上のはなしを聞くと、たしかに曽我部には曽我部の一貫性があるのかなという感じもする。


だが薬師前は当事者の合理性で仕事をしていない。再犯を、犯罪を減らすため、社会を改善するために働いている。でも社会のほうはなかなか更生に理解がない。わずかなものでも、支援がなければどうにもならないひとは大勢いる。でも全員は救えない。だから、可能性のあるほうから救っていく、というのが九条の持論だ。


さて、出雲に呼び出されている百井と曽我部。農場の規模を聞かれ、じぶんはディーラーでありグロワーではないというが、“今は”だよな?と言われる。グロワーが栽培するひとで、ディーラーが上位売人。通常の曽我部のポジション、いわゆる売人がプッシャー。出雲もこのはなしの意図、というか百井の返答がよくわからない。「農場」を持っているのはディーラーじゃないのか? それに“今は”ってなんだ? これから百井がグロワーになる予定はたぶんない。のらの農場を受け継いで、もっと稼ぐディーラーになるのだから。ということは、のらのことがバレているというはなしではなく、前はグロワーもやってたろ?みたいなことなのかな。しかし、だとしても、グロワーと農場の規模って関係ない気が…。


出雲が縮こまっている曽我部に話しかける。聞きたいのは曽我部と同じ刑務所にいて、彼を助けたこともある京極のことだ。曽我部はまず、姿勢がよかったという。前にも感じたけど、最初にまず姿勢についていうって、やっぱり曽我部は文才があるな。

風呂場でみた印象的な観音様の刺青について曽我部は語る。曽我部を助けて独房に入れられて、拘束衣を着せられたせいで手と首を痛そうにしていたという。お礼は結局言えなかったそうだ。


とりあえず京極の近況を聞いてから、仕事のはなしにうつる。出雲は曽我部のいた農場を案内させる気だ。これと前のやりとりをつなげるなら、少しクリアになる。要するに、管理してる農場のはなしでなく、いまいる、目の前の農場の規模を出雲は聞いているのだ。まあ、だとしてもよくわからないが…。


百井がはなしに介入しようとすると、出雲は例の、壬生らを入れる予定の穴の写真が表示されたスマホをテーブルにおき、いきなり百井のあたまをかかとおとし気味に踏みつける。そして百井の前のテーブルに座って髪を掴み、言い訳を許さないとするのだった。




つづく




百井はかわいそうなタイミングで農園を預かることになっちゃったな。というか、だいぶ前からヤクザの存在を感じ取っていたのらがうまく丸め込んで売りつけたということなのかも。


曽我部は模範囚だった。それが再び法を侵している。こういう説明だけでは伝わらないものがあることが、今回の3人の会話では描かれた。この言い方には、「模範囚だったのに」という、その状況が導くものとはちがう結果がもたらされているニュアンスがある。そうすると、読み手(聴き手)は瞬時にいろんな背景を読み取るだろう。たとえば、ひとは結局悪なのだとか、改心することなどないのだとか、いちど味をしめるとやめられなくなるのだとか、そういう「物語」だ。しかし、少なくとも曽我部はそうではないし、おそらくそういう状況は多いのである。それは、制度が実質的に再犯を強いているということなのだ。消極的再犯制度とでもいえようか。これを九条は製造所と皮肉ったわけである。


九条はこの曽我部の選択に彼なりの合理性を認めてはいるが、それでいいと思っているわけではない。救えるところから救っていくといういかにも現場の人の考え方だ。政治思想として制度に直面しようとするなら、もちろんこれでは不充分である。たとえば制度批判をする思想書がこういうスタンスでは書かれる意味がない。それは随筆である。しかし九条は、きわめて現実的にものを考える人間だ。その彼が「救える」と考えるものは誰か。どんなきっかけかは人それぞれだろうしほとんどが偶然といってよいだろうが、それが、要するに「依頼人」なのである。彼が曽我部のなかに合理性を見出すのも、今回はまだ依頼には至っていないが、知人だからだ。というのは、結局はそういう犯罪行為を「よくないこと」であり「救うべき」と考えるなら、ほんらいはそこに合理性を見出す意味などないからである。にもかかわらず、多少冗談っぽくそれをするのは、曽我部が依頼人(仮)であり、その行動理路を理解しなければならない対象だからなのだ。


出雲の“今は”はなんだかよくわからなかったが、百井の立ち位置が、これまでかこれからはわからないが、どうあれ変化する、もしくはしたものだという認識は出雲にはあるようだ。ふつうに読むとのらの存在を感じ取っていそうなのだが、そうでないようにも見える。だが、立場が変わっている以上「上」がいるのは当たり前だから、出雲はそこに興味がないというだけかもしれない。のらは子どもがいるし、逃げ切ってほしいが、百井はどうだろう。


前回書いたように、百井がこうして目をつけられているのは、彼が抱えるものが「商品」だからである。値をつけられる売りものなのだ。のらではそうではなかった。彼女は、じしんのちからで顧客を探し、ノウハウを見出し、いまの秩序を作った。いわば彼女じしんと地続きのである。この連続性は、直前に描かれたふたりの児童と響き合う。曽我部はこれを公共財として接し、奉仕した。それが、「ひと」と連続したものの社会的強度をあらわしてもいたのだ。

しかしのらが百井にわたした農場は、現実問題売っていることもあり、まぎれもない商品である。これは輪郭がはっきりしており、範囲も意味価値も第三者と共有できるものである。これを、百井は抱えることになった。百井がほんものなら、さらに育むこともできるかもしれない。しかし、逆に動きを制限してしまうこともある。マルクスの「疎外」論を思い浮かべるとよいだろうか。資本主義社会で労働者は、みずから生み出したものに支配される。百井はこれを労働で生み出してはいないが、のらのもとで働き、気に入られ、彼自身望んだ点でこれが労働の結果であることはまちがいなく、状況としてはよく似ているだろう。さらにいえば、これがたしかに労働の生産物とはいえない点がよくないのである。そこには、みずから生み出したという責任感もなければ、子どものようなじしんとの連続性もない。ただ身の丈にあわないものをポンと預かり、成功したいという野心に突き動かされてみずから疎外に向かっているという状況なのだ。


そう考えると、ここで出雲は、外部からの略奪者ではないのである。こうした非連続なかりそめの「商品」に最初から含まれている宿痾なのだ。




↓九条の大罪 15巻 10月30日発売予定







管理人ほしいものリスト。執筆に活かします↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini5@gmail.com

第50話/突入



今週は、板垣先生じしんの「ゾウキン絞り」体験から。

13歳のころ、勉強も体力もいまいち、だが喧嘩とゾウキン絞りだけは光るものがあった吉田くんにかけられたときの記憶だ。コツはすきまをあけないこと。要するに誰でもできる。この絵も、語り口も、いいしれぬものがある。このころの、痛みや悪意の記憶って一生残るし、板垣先生においてもいやな思い出だったんじゃないかなという感じがする。それが、いやなまま、少し冗談混じり語ることができるくらいには遠くなっている感触だ。ゾウキン絞りしかとりえがない吉田くんの背中がいい。


で、それを花山薫がやる。タイヤを裂きあの握力、あのパワーで、引き裂くつもりでやる。花山はすきまをあけた非吉田スタイルであるが、吉田くんのいうコツはおそらく「どうすれば痛いか」ということで、どっちにしろ引き裂いているのだから関係ないのだろう。もはやギャグですむ威力ではないのである。ただ、握撃と違って肉が爆ぜたりはしていないようだ。直線的に皮膚が裂けた感じ。


握撃と違ってジャックもできそうな技ではあるが、できるかどうかふつうは考えないものでもあり、ジャックは痛みよりたまげているっぽい。その顔面にヤクザキック。意外な柔軟性である。その蹴りで腹も貫く。園田はそこに「理」をみている。

柔軟性もそうだが、これほど「拳」のイメージが強いファイターもなく、ジャックはここでこれほど強烈な蹴りがくることは予想してなかったっぽい。シコルスキーが冷や汗を流す鋼鉄の腹筋をダメージが通る。


腹への蹴りでジャックが嘔吐。ただ、表情の描写に乏しいせいもあるのかもしれないが、あまり苦痛やダメージの深刻さは感じられない。ジャックとしては、ファイトしてたら起きることがふつうに起きているという感じかもしれない。よき叫び、よく痛がり、よく嘔吐するのが規範にとらわれない逸脱者ジャック・ハンマーである。


さらに花山の左拳が追撃。最近よく見られる描写で、花山は拳をねじ込んでいる、が、空手の正拳やボクシングのスクリューとはちがい、からだの位置的に拳を思い切り振ったらそうなったという感じだろうか。


吐瀉物があたりを飛び交い、野次馬にかかる。そして最後に、右のビンタ、張り手である。ジャックはダウン、園田のそばにいた警官ががまんできなくなり、複数人で止めに入るのだった。



つづく



こういう終わりかたでいいのかもな… 

まあジャックはいっかい気絶してそのときのファイトが終了しても「続き」をする男であるし、警察が止めたからなに?と考えそうではある。じっさい地下闘技場ならまだ試合は途中だろう。創作過程のはなしになるが、ジャックはいま重要なタイミングで花山はあんまり負けさせたくない…、みたいなことで外部からの干渉で強制終了ということになったのだろう。とすると、花山戦で描かれるべきことはもうすべて出たことになるのだが。


最後の攻撃はなんとビンタであった。握力、拳を握るちからをこれほど描きながら、形式的な決め技は握らない手によって行われたわけである。


ゾウキン絞りは、ぼくの少年時代・地域ではたんに「ぞうきん」と呼ばれていた。最初にそれをやられたときはけっこう衝撃を受けていたようにおもう。こんなかんたんなことでこんなに痛くなるのかよと。

そんな無造作な攻撃が、花山の手にかかると必殺になる…というはなしでももちろんあるのだが、刃牙らへんの文脈ではそうならない。なぜなら、同じようにだれでもできる技、「オンナコドモ」の技とさえ言われる噛みつきを引っさげて、「エエカッコしい」なファイターたちの価値観をゆさぶるのが本作のテーマだからである。にもかかわらず、作中でもっとも美学にこだわる、「エエカッコしい」の象徴のような人物である花山が、噛みつきと同属性であるつねりやゾウキン絞りをしているわけである。


ジャックは相手によってファイトスタイルを変えるということがあまりないが、それは花山も同様だ。どちらも、ただ花山を/ジャックを目いっぱい表現してみせるだけだ。つまり、ファイトにおける自己表現に他者を必要としない。ひたすら、すべきと感じたことをする。噛みつきが女の技であるとか、ゾウキン絞りが子どもの技であるとか、彼らには関係のないことだ。ここまできたら、ふたりは似ているどころではない、ほぼ同じファイト観とみてよいのではないか。

しかるに、花山にはたしかに「エエカッコしい」としかいいようのない規範意識があり、ジャックにはない。この差は明らかだ。このちがいはどこから生じるのか。その差は、「規範」との位置関係にあるのだろう。ジャックは、批判思想的な立ち位置にある。これは、意図的でもあり、同時に無意識でもある。母の代理人としての彼は象徴的な「噛みつき」という女性的な技を通じ、かなり意図的に逸脱する者である。また同時に、ひたすらに強さを求めるものとして、従来の規範、つまり「かっこよさ」を基礎付ける美学を否定し、必要に応じて噛みつきだろうがドーピングだろうがためらいなく採用する者である。まず規範があり、首をふる、それがジャックだ。

対して花山は、規範にたどりつこうとするものである。それは、ヤクザとしての義の精神であり、侠客立ちの物語があらわす純粋行為体としての自己、というロールモデルだ。ヤクザ的義侠心は法律や国家権力の誤謬を拾うものだ。これは悪党全般にいえることである。警察のトップに土下座をさせない花山は、自分たちが警察という規範ありきの存在であることをよく知っている。無法地帯に反社会的勢力は存在しないのだ。それがヤクザとしての「規範」である。また侠客立ちは花山のたたかいかたを規定する。“名もなき”博徒は死してなお小さな花山の先祖を守った。名前もない、いのちすら絶えた状況で、守るという述語だけが自律し、残ったのだ。これが花山にとっての、ファイトにおける究極となっている。だから彼は、ギフトを授かったものとして、まずこれを手放す。相手に徹底的に殴らせ、自己を滅する。そうして原罪を解消し切ったところで、ようやくたたかいはじめることができるのである。


こうして、ほぼ同じと言っていいふたりが分岐する。規範を批判するものと、無限の彼方にある規範に馴染もうとする者の違いなのだ。しかし内実は変わらない。どちらも言ってみれば「使えるものはなんでも使う、他人は関係ない」というありかたなのだ。しかしジャックはそれを規範を否定した結果として行い、花山はあるべき姿として目指すのである。



つまり、ある意味では…と断るまでもないだろうが、ジャックにもたしかに美意識のようなものは存在している、もしくは美意識を持ちうるということなのだ。それを美意識、規範と認めてしまったほうが楽だと、花山はレバ刺しやファイトを通じて伝えようとしたはずだ。しかし、前にも書いたが、これはジャックを変容させうる思考法だ。いまのジャックは批判精神でここまで強くなった。仮にジャックが花山のメッセージを受け取ったとして、その「進化」がかならずしも彼にプラスに働くとは限らないのである。




↓刃牙らへん5巻 9月8日発売予定







管理人ほしいものリスト。執筆に活かします↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini5@gmail.com

第127審/日常の犯罪⑩



曽我部が九条のもとにやってきたところだ。

曽我部はまずあいさつが遅れたことを詫びる。烏丸用だったコーヒーを出し、弁護士は何か起きてから連絡がくるものだからそれでいいという。

曽我部は砂糖やミルクを大量に入れたコーヒーを飲みつつ、どもりながら話し出す。百井やのらと話すときにはない緊張だ。声も震えているっぽい。

曽我部は、パーカーが裏返しだったのをさっき直した、ひとは意外と他人に無関心だというはなしから始める。上手なコラムの書き出しみたいだな。緊張のためか支離滅裂な印象が強いが、意外と文章書くの上手かったりするのかも。


強い人間に従って生きてきたが、じぶんはそもそも「考える」ことが苦手であるという。九条の前での緊張は、これのあらわれだろう。頭のいいひとの前にくると、つい屈服して、必要以上に頭がよくないようにふるまってしまうのだ。考えたって無意味だとおもえるから。

いまの生き方はキツイがそれは自分以外もそうかもしれない。誰かの役に立てればなんでもいい。曽我部はそういうことをいう。しかしそれは薬師前が聞くはなしで、九条もそう助言する。もっとちがうはなしがある。要するに、警察が動いててヤバいというはなしだ。ここで曽我部は、まだ内容には触れていないが、自分が違法な仕事をしていることを初めてほのめかしたことになる。

まあそれはわかっていたことなので、九条にはなんでもない。そして、動きが感じられるということは、たぶんぜんぶ監視されてると九条はいう。逮捕は時間の問題だ。

だが曽我部がいま感じてる最大のストレスは出雲だ。百井が呼び出されていたあれに、曽我部も行くことになっているのである。

九条は、役に立てればなんでもいいとはいえ、人間関係の整理をした方がいいという。他人ではなく自分の人生を生きるべきだと。


のらと百井のイチャイチャ。出雲の呼び出しを曽我部が聞いている描写のあとなので、あのときとはまた別の日なのだろう。すごいしょっちゅう会ってるっぽいな。

ふたりは昼からお酒。稼げているからこその余裕である。のらは3年で2億5千万の利益を出したという。身を起こして仕事中のいつもの三白眼になって、引き継ぐならマニュアルを渡して丁寧に導くと約束する。栽培をするグロワーは闇金から買った債務者で、その闇金も紹介してくれる。グロワーは部屋を割り当て個別に仕事をさせる。給料は50万。

腹を括ったという百井は5千万で権利を買うことに。のらはふたつ忠告する。ひとつは、犯罪者は寂しがり屋だからすぐ集まるということ。すると、バレる。だから個別に管理する。もうひとつは、最初に金のはなしをするやつを信用するなということ。金で裏切るから。


そうして百井は曽我部とともに、最初から最後まで金のはなししかしない出雲と会う。なぜ呼ばれたか?どうも、思っていた以上に大きい販路を抱えていたことが気に食わないらしい。なぜ言わなかったかみたいなことだ。それを詰めると。まあまあ怒ってる、が、これもまたヤクザ的な顔芸だろう。出雲は怒っててもわりとカッコいいな…



九条は曽我部がまた罪を犯しているらしいことを烏丸に話したようだ。九条の皮膚感覚としては、逮捕以上の地獄が待っていると。



つづく



出雲が百井にキレていたのはこういうことだったか。でも、14巻読んでみたけど、小さく言ってたりはしてないような…


これでのらは退場かもしれないな。子どももいるし、出雲とかと関わってほしくなかったからよかった。

でも、だとしたらのらはなんのために登場したのだろう。彼女の役割はなんだったのか。

ひとつには、出雲がまさにいま詰めようとしている、百井の向こうに広がる大麻農園があるだろう。百井は売人だと自己紹介していたし、ただ売人だと名乗るだけでは、億単位を稼ぐのらの手腕は見えてこないわけである。百井はのらからそれを授かることになったわけだが、いかにマニュアルがくわしくても、果たして「のらのように」できるのかというと、難しそうである。そういう、身の丈に合ったというと大袈裟だが、自身のちからで育んだものではないなにかを、ひとはどう扱うのか、というところが論点になってくる。そしてここには、のらが女性だったことも響いてくる。引退したらのらは外国でもう少し子育てな注力できるようになるだろう。「育てる」という行為の非労働性というか、貨幣と交換可能ではない、輪郭のはっきりした事物とは言い難い、自己存在との連続性みたいなものが、のらと農園のあいだにもある。これは曽我部もお弁当作りを通じて触れたものだ。子どもを公共財として、これに奉仕することで、曽我部はおそらく作中ではじめて「大人」になれたのである。

しかし百井に引き継がれるとき、それは範囲の明瞭な事物になる。これはつまり「商品」である。言葉の指し示す意味価値がはっきりしないものは、経済的な評価もできないから値付けも難しい。だから利益を生むためにされる労働は時間を用いて計測される。子育てのように自己と連続したありようで作られたのら農園は、この時点ではまだ売り物ではなかった。しかし、のらの手を離れ、百井のものとなったとき、それは明確に「商品」となる。そうして出雲の出番になる、というわけである。

のらの役割は、関係者を分析し、洞察力を働かせ、ゼロから暗中模索で創造した自己の拡張といってもよいしろものを、百井に渡すということだったと思われる。農園の固有の価値は、いかにのらが引き継ぎに努めても、失われるだろう。百井はひととして信頼され、セックスの相性もよかったため、農園をもらうことができた。希望はそこにしかない。のらは金でこれを手放すが、彼女は明らかに「百井だから」これを譲っている。農園を、のらの信頼する百井という存在と地続きにすることは、金のはなししかしないものから彼ら自身を守ることにもなるだろう。


百井やのらと話すときとは比べものにならないくらい、曽我部が九条に緊張していたのは興味深い。まず、百井らはあくまで仕事上の知り合いである。したがって彼らは曽我部を必要としており、多かれ少なかれ曽我部は役に立っている。だからそこまで緊張しない。しかし九条の会う曽我部はプライベートの、そうした関係性のなかにはない単独の人間である。それが、スマホを忘れて出かけてきてしまったときのような心許なさを呼び込んでいるのだろう。そしてやはり、彼特有の自己否定の論理である。曽我部は、自分はバカだという強い自覚があるから、あたまのよいひとの前では不必要にバカになってしまう。考えても意味がないから、考えなくなってしまう。そういう心理が萎縮させる。ただ、九条は味方になってくれるということは曽我部もわかっているので、これは習慣が出ているというようなことかもしれない。


九条がいうように、内容的には薬師前に聞かせても良さそうな感じではあった。それでもそうしなかったのは、薬師前が優しく、親身になって怒ってくれるぶん、迷惑をかけたくないと考えたからだろう。とにかくひとの役に立っていたいというのは、迷惑をかけたくないということと表裏一体だからだ。誰かにとってプラスの存在でいたいものは、マイナスになりうる状況を当然避けるのである。

九条が見抜く通り、この思考法が彼を迷わせる。役に立ちたい「誰か」は、誰でもいいわけではないはずだ。人間関係の整理とはそういうことだ。その「誰か」を選ぶこともまた自分の人生を生きることにつながるはずである。そして、「誰でもいいから役に立ちたい」の結果「誰にも迷惑をかけたくない」になっている以上、人間関係の整理を果たせば彼は今度こそ薬師前に電話をすることができるようになるだろう。わたしは、あなたの役に立ちたいのであり、あなたはわたしのかける迷惑を拾ってくれるのである。




↓九条の大罪15巻、8月末発売予定でしたが、10月30日に延期されたようです。








管理人ほしいものリスト。執筆に活かします↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini5@gmail.com