今週の九条の大罪/第70審 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第70審/至高の検事⑥

 

 

 

薬師前が毎朝新聞の編集部にきてインタビューを受けている。相手はいつか輝幸の件で山城に直撃取材をしようとしていた市田智子だ。

市田は「犯罪者の社会復帰」という連載をもっていて、弱者の社会復帰を支援している薬師前の仕事についてはなしを聴いていたというところだ。薬師前が最初に連載を知ったのは烏丸が誉めていたからで、市田に薬師前を紹介したのも烏丸らしい。意外とアクティブにそういうところで動いてくれるんだな。

 

そこで、烏丸を知っている相手なので、薬師前が彼のはなしをはじめる。薬師前はひとの世話ばかりしているタイプの人間なので、この手の描写は意外と貴重だ。烏丸が担当した執行猶予者に会いに行った際、時間が余ったからショッピングモールで食事したり、ゲームコーナーをうろついたりしたことがあったらしい。デートっぽいいい雰囲気だ。パスタはおいしかったが、食べる前に想像できる味で感動がなかったと、すましたスフィンクスみたいな顔で烏丸はいう。ゲームコーナーではクレーンゲームのなかにいるコアラが目に入る。コアラっていうか、なんだろうこれ、ハギーワギーみたいなくちをしたやつだ。薬師前はコアラを集めているという。どこがいいかというと、意外性である。見た目はかわいいけどマッチョ、毎日すすんでユーカリの毒を摂取して、それを抜くための盲腸が2メートルもある、へんな生き物だ。

でも薬師前はクレーンゲームが苦手だという。烏丸は捨てる日が想像できるものはいらないというが、薬師前が「私は捨てない」というので、烏丸が一発でゲットする。むかし下手なのをバカにされて、動画で研究したことがあるそうだ。とはいえ、クレーンゲームって確率機とかあるから、ものによっては上手くてもとれないことはあるよね。運もよかったのかも。薬師前はお礼にマッサージ機をおごるのだった。

 

薬師前は、なぜこの連載をしているのかと市田に訊ねる。

市田は週刊誌の記者だった。まだ週刊誌に勢いがあったころで、編集部で寝泊りもふつうの時代に新入社員として入った。資料があっても目次だけ読んで、翌週には忘れられるゴシップ記事を量産する日々。そこである無差別殺人事件が起こった。絵を見れば読者にはわかることだが、烏丸の父親が殺された事件である。流木が弁護をし、九条の父・鞍馬が検事を務めたものだ。烏丸の父は、他の被害者を守るために殺されたのだという。前回や今回のはなしだけでは、死者が何人いたのかなどくわしいことはよくわからず、父親が守った人間が生還したのかどうかもわからない。だが、ともかく父親は誰かを守ろうとした。東大法学部出身、有名商社のエリート社員ということもあって、一時的にこれは英雄譚として取り上げられたが、翌週、市田の上司、編集長は、この「英雄」のゴシップを拾ってこいと指示したのである。うそかほんとか、市田は援助交際の記事を書き、雑誌は売れた。世間の目は1週間でくるりとかわり、遺族は同情から誹謗中傷の対象になった。それで市田は週刊誌をやめた。

続けて市田は従業員のふりをして葬儀に潜入したという。ひっそりとした家族葬で、母親と息子、つまり烏丸しかいなかったという。烏丸は母親を支え、線香の火を寝ずに見守っていたと。ということは、お葬式は二度目の記事が出たあとということになるだろうか。警察に預けられていたりして、しばらくあげられなかったとか、そんなことなのかな。市田は烏丸の名前を出してはいないが、薬師前はこれを烏丸のはなしだと理解しているようである。

 

同様のはなしを、警察署前で遭遇した九条と烏丸もしている。明るかった母はそれから笑わなくなった。楽しんでると不謹慎といわれそうで、人目をおそれてしまうのだ。「誰も自分を救えない」と「死んだほうが楽」が口癖になってしまった母。他者に絶望し、なにも期待せず、無でいることを選んだ生きかた。その母親の目と九条のものが、似ているのだと烏丸はいう。だから心配しているのだ。どういう意味かな、九条は、過去と現在に固執すると未来を失う、だから自分は変わったと、九条は応えるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

情報量の多い回だった・・・。うまく考えまとまるかな?

といっても描かれたのはふたつの状況、薬師前を通して観察された烏丸の意外な一面と、市田経由で語られた烏丸の過去と、さらにそれが彼にとっての九条への心配にどうつながっているのかということだった。

 

薬師前の観察描写で気になる点といえば、二度も出てきた「想像できる(出来る)」という文句である。ひとつめは、食べたパスタがおいしかったという薬師前の他愛のないことばに対し、にべもなく、食べる前から味が想像できて感動できなかったというくだりである。このぶぶんからは、なんとなく、高校生くらいの男子がしでかしてしまいそうなニヒルの演出みたいにも見えなくもないが、烏丸にデート経験があまりないということではないだろうから、そう見えるだけだろう。いや、でも勉強ばっかりしてて案外・・・。

ともかく、それと呼応するように、今度はコアラのくだりで、同じようなセリフが出てくる。ぬいぐるみというのは生活不可欠のものではないから、いつか捨てる日がくるかもしれない、こないかもしれないが、可能性はゼロではない。捨てるという状況は、想像可能である。そういうものはいらないというはなしだ。

どちらも、想像できるものについて、彼は興味をもたないということを描いたものだ。この「想像できる」というのは、いままでのぼくの文脈でいえば、「空語ではない」くらいの意味だろう。彼が九条とともに「日本一のたこ焼き屋」にあのようにこだわるのは、それが空語だからである。なにも意味していない、もしくはなにを意味しているのかわからない、だから、気になる。気になるその先からは、探究するのか、それともただただ落ち着かないのかに分岐するだろうが(たこ焼き屋は後者のぶぶんもある)、ともあれ、言葉の意味するところが、過不足なく言葉を充実させているという状況が、「想像できる」ものなのである。意味するものと意味されるものが完全に一致する状態とでもいえばいいだろうか。ふつう、言葉はそのようにはできていない。プロレスファンがくちにする「強い」と格闘技ファンがくちにする「強い」は意味が異なるだろう。だが、そのように、主観やそのときどきの状況によって意味が変化しないもの、もしくは、してはいけない、しないように使用者が努めるべき言葉が、世の中にはあるわけであって、それは法律の文書であるわけである。ひとによって単語それぞれに別の意味が付与されていては統一的なルールも刑罰も成り立たない。立法事実や広く「常識」などを前提としつつも、基本的には解釈の揺れが起こらないように、条文は書かれているのである。これは、「想像できる」世界だろう。だが感動はない。また、ぬいぐるみに関していえば、コアラの行く末について、いくつかのパターンが瞬時に理解できるということが「想像」のなかでは起こる。そこには「捨てられる」も当然含まれる、だからほしくない。ここに見えているものは、捨てられる可能性が少しでもあるものはほしくないという、理解しあえないなら無でいいとした母親の感情にも通じる虚無感もみえる。だがここで注目すべきは時間感覚だろう。烏丸の「想像」の範疇では、ぬいぐるみの「捨てられる未来」が瞬時に可能性として織り込まれるだろう。こう書くと、彼が依拠する言葉が、分岐する無数の状況として「捨てられる」を想定するということになりそうだが、おそらくそういうことではない。むしろ逆である。烏丸の思考法は、むしろ未来を硬直させる無時間モデルなのである。じっさいには、世の現象という現象はより複雑だ。薬師前の「パスタおいしかった」は、ただ薬師前の味覚を通して感じられたパスタの味がリポートされ、情報として共有されているわけではない。これは「会話」である。同意するなり、批評を加えるなり、なんなら反論するなりすることで、会話は成立する。もし「未来」のモデルを想定するのであれば、そこにはこういう、複雑な派生、ぶつかりあう波のような、行く先を把握することに意味が見出せないほどの大きな起伏が潜んでいるはずなのである。それを、法律家としての思考習慣か、過去の経験からか、彼は無時間モデルに回収してしまうのである。

 

ただ、これは彼が好んでやっていることでもある。前回述べられたように、烏丸は、理解不可能な事件のなかで法律だけが機能して明確だったとしていた。そこに生きる意味を見出そうとしたと。無差別殺人は極端だとしても、世の中は理解できないものごとでみちみちている。それを、法律の無時間モデルに回収し、「想像できる」ものとする、それが彼の願いであり、げんに実行している思考法なのだ。不思議なのは彼がそれについてどうやらそれほど誇りをもってはいないようだということである。いや、誇りをもってはいるかもしれないが、論破するのが大好きなひとが喜々として相手をやりこめるような悦楽の表情は見られない。そういうものだから、とでもいうようなあきらめが感じられるのである。おそらくこの彼の表情が、そのまま九条への興味へとつながっているのだろう。九条はその「理解できないもの」を理解できないままにしておく人間だからである。すべてを「想像できる」のなかにおさめようと努めてきた人生で、烏丸はしかしそこに感動を見出すことはなかった。つまらなかったし、疑問もあったのかもしれない。そういうところに九条と出会い、なにが彼にそうさせているのか、研究しようとしたのではないだろうか。薬師前の、コアラについての「意外性」のくだりも、表情は描かれていないが、烏丸は意外と興味深く聞いたのかもしれない。意外性とはまさに想像の外にあるものだ。つまり、薬師前が「意外性」を求める感情は、「想像できる」世界に自ら身をおいてつまらなそうにしている烏丸のものと近いのである。

 

そして、九条を心配する烏丸だ。市田の書いた記事により、被害者だった烏丸の母親は誹謗中傷を受けるようになった。以来、母親は笑わなくなり、他者を求めなくなった。それは、ひとを信じられなくなったということもあったろうが、ひとめを気にしてということも大きかったようである。そんな母親と九条の目が似ているという話だ。

どうしてこのふたりの目が似てしまうのかというと、感情を殺しているからなのだが、ではなぜ感情を殺しているのか。むしろ意味するものと意味されるものが一致する世界、すべてが理解できる世界に住む烏丸や、九条の兄・蔵人のほうが、感情を殺しているといえそうでもある。だがそうではないのだ。烏丸は、じしんの経験もあり、たぶんそういう面もあるだろうが、蔵人はそうではない。なぜなら彼は法律と一体化しているからである。法律への帰属意識が、自己同一性レベルにまでなっているため、感情を殺す必要がないのである。また、解釈に揺れがない、もしくは揺れを想定しなくてよい地図のようなものを手にする旅人は、迷いがないということもあるだろう。彼らは現象を外部にはじき出して対象化することができる。感情があるかないかを問題にする必要がにない状況を作り出すことができるのだ。

だが九条はそうではない。複雑な状況だが、九条は、人間としての感情が「ある」ということをむしろ認めていくことで、自らの感情を殺すことになる。「家族の距離」などでは、彼の同情心のようなものの片鱗も見えたが、原則的に彼はむしろ感情を殺すことであのような仕事が可能になる。蔵人らが現象を対象化するいっぽう、九条はみずからの感情を対象化するのである。どうしてそうする必要があったかといえば、「理解できないもの」を理解できないままにしておくためである。蔵人には見えないもの、星の王子さまが大切なものだとした「目に見えないもの」の価値をそのままに保存するためである。これは、ポジティブな意味でもネガティブな意味でもあらわれうるだろう。たとえば、しずくのような非常に弱い少女の考えていることを「ほんとうに」理解する必要は、“理解者”にはない。できるにしくはないが、絶対条件ではない。ただ、彼女のために、物理的にも心理的にも居場所を確保する、彼女の発言や行動をいったんプールし、括弧にいれて整理する。それが「理解者」だ。これは「理解できないもの」をそのままにするばあいのポジティブな相だ。ネガティブな相は、むろん、到底許せるものではない悪人を弁護する際にあらわれる。だが、九条のポリシーはそれも守らなければならない。その際に感情を殺す必要が生じる。それは当然そうだろう。「理解できない」ものがそのままになっているのだから、納得もいかないのである。納得がいかなくても、しずくのようなものは、誰かに危害を加えるものではないから、負の感情がわいてくることもないが、森田のような男ではそうもいかないだろう。

そうした九条の表情が烏丸の母親と似るということは、母親の状況、つまり理解を絶した他者の悪意にさらされるという状況が、すなわち九条にとっての悪人との対話に通じるということだ。先週まつりあげた英雄を今週たたきのめす週刊誌に合理性や一貫性はない。ただ、気まぐれな指先の恣意で売上をとろうとするだけの、ほんらいであれば些細な存在だ。だが人間の悪意はそれを拾い上げ、増幅させる。そのときついに、「理解できないもの」は「害をなすもの」に変化する。そうなったときわたしたちにできることは、それらを決してわかりあうことのできないものとしてブロックすることだけである。いや、現代でいう「ブロックする」という状態は行動として主体性が強く、強い意味をもっている。ここで彼らがとるべき行動はもっと消極的なものになるだろう。つまり、それがそこにいるということを感じないようにするということ、感情を殺すということなのである。

 

それについて九条が述べた「過去と現在に固執したら未来を見失う」という言葉はいかにも謎めいている。正直なんのことをいっているのかわからないが、烏丸のはなしを聞いたあとなので、行動の因果についていっているのかもしれないとはおもう。つまり、たとえば烏丸では、過去の凄惨な事件があって、いま弁護士の仕事をしている。これが行動の因果である。事件という原因があり、弁護士の仕事をしているという結果がある。だがたとえばここで、法律はすべてを見通すものであるという、当初の動機となった見立てがまちがいだったとしたら、という疑問が烏丸のなかでわいているとしたとき、それはもちろんいまの行動に影響をおよぼすわけである。げんに彼はいま九条の行動原理を理解しようと流木のもとに身を寄せているし、迷いに迷っている。具体的にそのことをいっているというわけではないのだろうが、おそらく九条はそういうはなしをしているのだ。そこに至った原因、また経緯、そういうものにこだわると、行動がブレブレになり、到達すべき未来を見失ってしまうと。そして同時にこれは、外部ではなく、自分自身を無時間モデルで見るということでもあり、烏丸らとの対比でいえば平仄もあう。意味するものと意味されるものが一致する世界観においては、過去から未来が、複雑な分岐と可能性の重さのちがいによって広がってはいても、硬直したひとつの写真のようなものとして把握できる。そのぶん、彼らはそれを観察する自分というものを外側において、感情を殺さずにすむ。けれども九条は逆である。九条の観察対象は伸縮する宇宙のようなものだ。そのためには固定された空間座標の原点が必要になる。それが無時間モデルの自己なのである。

 

 

 

↓九条の大罪 8巻 3月30日発売

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com