『アントマン&ワスプ:クアントマニア』を観た | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

2月23日、アントマン3作目の『アントマン&ワスプ:クアントマニア』を観てきた!

 

 

 

 

 

 

まだ公開されたばかりということもあり、ネタバレはひかえるべきなので、とりあえず記録として記事を書く。

 

劇場でMCUを観るのはこれで3回目かな。最初がエンドゲーム、次が去年のブラックパンサーで今回。DVDなど通して自宅で鑑賞するようになったのは、5年くらい前だ。当時はユアン・マクレガーにはまっていた。ユアン主演の、スマトラ島沖地震を題材にした『インポッシブル』には、けなげに家族を守ろうとする少年役でトム・ホランドが出演していた。むろん、まだ彼がスパイダーマンを演じるようになる気配すらないような時代である。このトムホがあまりにもかわいくて、いまどういう仕事してるのかなと調べて、話題になっているのは知っていたがなにをどう楽しめばよいのかよくわからなかったMCU作品のスパイダーマンに主演することを知ったのである。そのときはまだ主演が決定したくらいの感じだったようにおもう。ちょうどいい機会だということで、ぼくらはそのままマーベル作品を見ていくことにしたのである。MCUは全作品がひとつの世界を共有した壮大な物語で、スパイダーマンをみようとしたら他のもみていかなければならなかった。そうでなくとも、もともとぼくは大学時代トビー・マグワイアのスパイダーマンをTシャツ着て歩くくらい好きだったので、ためらう理由などなかったのだった。そこからはMCUにはまったすべてのひとと同じく、延々と作品世界の拡大に幸福を感じる日々なのであった。たしか、最初にいきなりアベンジャーズをみたのだとおもう。ロキがヴィランだった最初の集結ものだ。むろん、そこまでにアイアンマンらの丁寧な作品群があったうえでのアベンジャーズであるのだから、意味がよくわからないポイントも多かったのだが、それでも水準以上の満足感をもたらすのがこのシリーズである。そこから底なし沼だった。

 

 

アントマン/スコット・ラングはアベンジャーズのメンバーのなかでももっとも平凡な人間である。すごうでの泥棒であり、スーツの着こなしやたたかいのセンスなど考えると彼をそう呼ぶことには抵抗もあるが、超人血清を打ったキャプテン・アメリカが体力的には標準に見えるレベルの超人が集結する世界なので、それもしかたのないことだ。エンドゲームでいったんの区切りがついてからは、さらなる作品世界の拡大のために、エターナルズやTVAといった、サノスが懐かしくおもえてくるような超・超人や組織が登場するようにもなり、さらにその感じが強まっている。だが、アントマンはスコットの普通感がむしろその原因であるかとおもえるほど、つねに重要な役割を果たしている。彼がからだの大きさを自由に変えられるのはピム粒子という道具のおかげなのだが、これが、エンドゲームでは世界を救うことになる。時空間の概念が現実世界とは異なる量子世界を経由することで、ヒーローたちはタイムトラベルができるようになり、サノスがインフィニティストーンを集めてあの指パッチンにより人類を半減させた世界の前に戻ってストーンを回収、世界を復元することに成功したのだ。アントマンは、指パッチンが行われたとき量子世界にいた。彼を呼び戻すはずだったホープたちが消滅してしまったため、彼は5年間極小世界をさまようことになったのだ(じっさいの体感時間は5時間程度。そこからスコットは量子世界は時間の流れかたもちがうと気がつき、タイムトラベルのアイデアに至る)。あの行為によって消滅した人間の条件というのはけっきょくよくわからず、たんじゅんに2分の1の確率で助かっただけなのかもしれないが、量子世界は現実と原理を異にするというはなしなので、そのことによって彼が助かった可能性もある。

 

今回は、サノス以来となる大型ヴィランである征服者カーンとたたかうことになる。エンドゲーム以降のMCUはマルチバースの概念が持ち込まれ、無数の並行宇宙が存在することを前提に、時空の衝突や干渉、またそのはざまにおける物語を描いている(描きつつある)。ことばとして理解することの困難な物語世界を、映像作品として体感的に理解できるように設計する映画作りには感動しっぱなしだが、ともあれ、カーンはそうした並行宇宙が当たり前の次元における王である。彼はこの以前にドラマの『ロキ』にも登場している。このときは「在り続ける者」という名乗りだった。カーンはもともとずっと未来の科学者である。彼は並行宇宙の存在に気がつき、行き来するようになり、別次元のじぶんと協力しておのおのの宇宙における科学技術を発展させていったのだが、やがて次元間で侵略戦争が始まるようになる。このままでは全次元の全人類が全滅してしまう、そういうところで、「在り続ける者」を名乗るカーンは神聖時間軸を設定、決定論的に定まった運動以外の分岐が起こらないよう管理するようになる。そのために用意された機関が「ロキ」に出てきたTVAである。「在り続ける者」はひとことでいえば独裁者だったが、まだマシだったともいえる存在で、宇宙を決定論の内側にとどめようとする限りでわたしたちに自由意志はないことになるが、原理的にわたしたちはそのことに気がつくことはできない。その存在をアピールしてくることもないし、まさに神の立場にいたのが彼だったのだ。だが、魯迅のいう鉄の部屋にまどろんで酸欠で死ぬだけの人生でほんとうにいいのだろうかという疑問は、黒幕の存在を知る、もしくは感じてしまったあとでは、当然浮んでくるわけである。それが『ロキ』というドラマだった。自由意志は決定論のもとではそもそも意識されることがない。だがTVAがなんのために存在しているかというと、分岐を防ぎ、変異体を剪定するためだ。決まった路線をはずれた予想外の動きをとるものはTVAによって存在を抹消される。この瞬間、ひとはじぶんたちが鉄の部屋の内側にいて酸欠寸前であることに気がつくわけである。もし剪定から逃れて生還してしまうものがあらわれたら、そのものはものの道理として宇宙の真理そのものを疑うことになるわけである。

 

ロキのネタバレにもつながるのであまり書かないが、在り続ける者はそれでもマシだったというのは、要するに彼がいなければそうした管理が行われず、カーンどうしの抗争や並行宇宙の存在が自明となったあとに予想されるトラブルが多発するからである。今回のアントマンからフェーズ5に突入したMCUはこれを描くことになる。そして、ある種保守的なカーンだった在り続ける者より厄介なカーンを最初に目撃し、たたかったのが、アントマンだったというわけである。

 

 

アントマンの魅力はその普通感にあるが、その感じをもっとも際立たせるものは父親としてのふるまいだろう。スコットは、すごく当たり前に、むしろ映画的にといってもいいほど、娘のキャシーを愛している。その感じがこちらの相好を崩すのである。今回はそのキャシーが、ホープのワスプに続き、シリーズ三人目のヒーローとしてスーツを着てたたかう。いくつもすばらしい演出はあったが、印象深いのはスコットが分裂するところだ。ある場面では、いかにも量子世界らしく、「可能性としてのスコット」が細胞分裂的に増殖していく。彼がとりえたかもしれない行動やセリフが、彼自身の存在となってあらわれるのである。つまり、迷いが多ければ多いほど、分裂は加速していく。しかし通信装置からキャシーの声が聞こえたとき、スコットたちの意見は一致し、ひとつの目的に向けて、ちょうど蟻が高いところに登ろうとするとき高波のようになって上方に伸びていくようにして、集合意識をかたちづくるのである。迷いによってスコットはいくつもの可能性、いくともの「ありえたじぶん」を生み出してしまう。だがどのスコットももれなくキャシーを愛している。そのうえでとる行動は変わらない。だから協力する。蟻にはスタートレックのボーグのような集合意識があると聴いたことがあるが、動機を同一としたとき、集合意識は人間のなかにもあらわれうるものなのだ。

この場面でさらに胸をうつのは、直後愛するホープがあらわれるのだが(ホープも分裂しまくっている)、ふたりが合流した瞬間、可能性としての彼らが一挙に収束していくのだ。つまり、いっさいの迷いがなくなり、とるべき行動がひとつに定まるのである。愛するひとといっしょにいるとき、「完全」になるというような感覚を覚えることがある。古代ギリシャではじっさいそのように考えられていた。ひとはもともと対となるもの(異性とは限らない)と背中を合わせた球体だったと考えられていたのだ。迷いは、自身におけるある種の欠落感がもたらすものだ。しかしホープと合流したスコットには全一感しかないのである。

 

この場面からは、キャシーや、またホープとの関係性にある「愛」が、マルチバース的な可能性の並存より全一的世界と親和性が高いことも感じられる。当たり前のことかもしれない。これは並行世界ほど大規模な物語を描く場合に限らない。ぼくにとって印象深いのはファイナルファンタジー7に登場するケット・シーと、ジョジョ6部に登場するフー・ファイターズである。詳細は省くが、彼らは、死んだとしても、必要な手順を踏めば、復活することができる。だが、復活した彼らは、仲間と冒険をともにした、死んだ彼らではない。同じだけど別人。この感性は、愛が存在より経験によって育まれるものだということを示唆している。例に出しておいてナニだが、古代ギリシャの球体人間は、「運命のひと」を予感させる、例のロマンチック・ラブ・イデオロギー的だが、これらの愛の全一感は経験に依存しているのだ。経験は通時的なものであり、どこかに並行的に存在しているかもしれない「運命のひと」とは異質なものだ。とすると、マルチバースの権化であるカーンに対抗するのは愛である、ということになるかもしれない。これはクローン人間についての倫理的議論にも通じるものがあるが、じぶんとまったく同一人物が存在するとなったとき、ひとはどのように自己同一性を保つのだろうか。直観的にはまったく問題なく日常をすごせるようにもおもわれるが、ここでいっているのは、自身の唯一無二性(の実感)をどのように保存すればよいのだろうか、ということだ。マルチバースの「自分」は厳密には同一人物ではないが(ロキを観ればわかる)、自己同一性が崩壊し気が狂う、とまではいかないまでも、ゆさぶられることはまちがいない。わたしたちは、マルチバースが自明の世界で、朝起床したときに、自分が前日眠りについたときの自分と絶対に同一人物であると、どのように確信するのだろうか。ここに、物語的には経験、記憶、そして愛が生きてくる余地がある。マルチバースを支配するカーンは、カーンの連合体みたいなものとして活動しているようだが、自意識じたいはあるようであり、だからこそ戦争も起きる。今作に登場したカーンや「在り続ける者」は異端のようだが、それでも、そういうものがあらわれるということは、つめにその兆しはあるということなのだ。しかしカーンはその世界を守ろうとするだろう。その彼らと、今後アベンジャーズや人類の利害がどのように対立するのかは、はなしが複雑すぎることもありまだよくわからないが、こう考えると、キーワードは経験であり、「愛」なのではないかなというふうにおもうわけである。

 

もはやアベンジャーズ作品をみていない状況が思い出せないので、「単独でも観ることができます」みたいな無責任なことはちょっといえなくなっているが、たぶん観れるとおもう。が、もしほんとうにいきなり本作から観ようとするなら、とりあえず前のアントマン2作と、ドラマの「ロキ」は見ておいたほうがいい。でも、ロキをみるためには、少なくともアベンジャーズの1は観ておいたほうがいいよね。しかしそのためには最初のアイアンマンから観ておく必要が・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com