今週の九条の大罪/第74審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第74審/至高の検事⑩

 

 

 

 

息子の猛の行方不明に関連して、京極が壬生を探しに九条の事務所へやってきたところだ。机のうえにはかばんに入っている人間の足が転がる。何本か指がとれている。前回、まだ犬飼を見つけてはいないらしいことと、彼が息子の死を断定していることから、これを猛の死体のいちぶと考えたが、あとの描写とあわせて考えると、どうもこの足は猛のものではなく、犬飼に仕事を依頼した男のものっぽい。

 

九条は、立場のある京極がこんな物騒なもの広げて軽率だ、みたいなことをいう。物騒っていうか、人間の足なんだけど、よく落ちついていられるなこのひと。

依頼者どうしのトラブルになるし利益相反になるからということで九条は介入できないと応える。知らないとも教えないともいわず、かかわらないというスタンスだ。まあ、そういうしかないのかな。もし無理強いするようなら、事務所を出入り禁止にすると。京極はしばらく黙ってから、机のうえのペンを拾ってへし折る。なにか精密機械が仕込まれているようで、録音機能があるみたい。続けて部屋中に仕込まれている録音機器や防犯カメラを子分たちにおさえさせる。そして、不気味な丁寧さで九条を伏見組の守護神だとたたえ、非礼を詫び、同じテンションでスマホで撮影した首謀者の男の拷問写真を見せる。耳や鼻をそがれ、目玉もくりぬかれている衝撃的な画像だ。さすがに九条も目を見開いて驚いている。男はすべて白状したらしい。2週間拷問して山に埋めると。白状して用事は済んでおり、しかも殺すことは決定しているのに拷問は続けるらしい。

急がないと犬飼は海外に逃げてしまう、親の気持ちがわかるなら壬生の場所を教えてくれと。

 

 

伏見組若頭補佐、雁金正美(かりがね まさみ)の登場だ。いつも2時間くらいしか眠らなそうな顔をしている。雁金は若者の構成員が壬生らを殺すのに及び腰なのにイラついているようだ。外国人を雇って殺させることはできるだろうが、いつでも組に身体賭けられると大きなくちでいっていたのはなんだったのだという状況である。反論できないところだが、構成員の若いふたりは黙ってうなだれている。そこに鍛冶屋小鉄という年をとったヤクザがあらわれる。幹部とかではなく、ふつうに構成員のままおじいさんになった感じのようだ。鍛冶屋くらい年をとると、腕っ節がどうこうという問題ではなくなってくるだろうし、時代もあって金儲けの面でもついていけなくなってくるだろう。そういうわけで若いヤクザは陰でバカにしてきたようだが、肝心なときに彼らは動かない。鍛冶屋は最後にひと花さかせたいと雁金に持ちかける。雁金は、壬生は一般人だから銃はつかうなとだけいうのだった。が、鍛冶屋は年寄りだ。失敗したら恥をかく。お守りがわりに、隠していた銃をもって出かけていくのだった。

事務所を離れたところで若いヤクザふたりの本音が聞こえてくる。まず、壬生はふつうに強い。シャブ中のおっさんだったらまだしも、モブマッチョも含めて考えると、かなり覚悟の必要な殺しなのである。しかも、文字通り組のためならともかく、猛のカタキなのである。猛には彼らもさんざんいやなおもいをさせられてきたらしい。

そこに今度は艮克茂(うしとら かつしげ)という男がトラックに乗ってあらわれてふたりに乗れという。破門された元ヤクザらしい。このトラックで壬生の工場につっこむつもりなのだという。だが電話を通じて雁金にとめられ、いちおう納得するそぶりをする。抗争全盛期を経験している武闘派ヤクザはアツい、というのがふたりの若者の感想だ。だが、シャブでヨレていたともいう。そして、その足で、艮は予告どおり工場に突っ込むのであった。

 

工場が壊されたことを車中の壬生が久我に伝える。犬飼はすぐ見つかってしまうだろう。壬生のグループは天明會というらしいが、そうなったらグループはまるごと拉致されるだろうというのが壬生の予想だ。実行犯の犬飼たちは、首謀者と同じように2週間拷問後に殺され、ほかの関係者は準構成員にされると。獅子谷甲児がいなくなったあとのシシックみたいなものだな。

壬生や久我は拉致に関与はしていないが、いわば犬飼の保護者的ポジションであり、ただではすまないだろう。壬生の胸にはおもちが光る。どうせ殺されるなら逆に京極たちをぶっ殺すかと、すごい冷静な真顔で壬生はむちゃくちゃなことをいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

最終章なのかなこれ、ぜんぜんシリーズなかばという感じがしないのだけど・・・。

雁金、鍛冶屋、艮と、レギュラーっぽい感じでしっかり名前が表示されるキャラが立て続けに登場した。雁金はともかくとして、ほかのふたりがレギュラーかというと、ちょっとちがう感じはする。だが、こう、ぽんぽんと新キャラがわいてでてくるのは、なかなか興味深い。特に鍛冶屋と艮にかんしては、こうした「悲劇」を待っていたかのような感じすらある。これがウシジマくんなら、ヤクザの生きかたを描くにあたって登場したのかもしれないというふうに読むべきだろうが、九条の大罪ではどうだろう。

 

全体を通してあるもっとも大きな問題は「言葉」への意識である。ここでの「言葉」は、ひとつには法律文書を指す。そして、それに基づき、鍛え上げられた法的思考法も含む。そのうえで、言葉は、事象の横顔を描き出すものではあっても、決して全体にはなりえないということをどのように受け止めるか、というところで、九条と蔵人は分岐する。蔵人では、「言葉」は世界に覆いかぶさった網目そのものである。システムなのだ。だが九条における「言葉」は、ピアノの鍵盤や、ストップモーション・アニメのようなものでしかない。九条はその、シとドのあいだにある音を聴こうとするものであり、そこに空隙が存在することすら認めない蔵人の見落としを拾うものなのである。

この対立が本作のもっともおおきなテーマであり、ほぼ全体とみて差し支えないとおもわれる。少なくとも、烏丸や流木、山城などの弁護士たちはすべてこの問題の内側に回収されていく。だが、壬生をメインとした半グレやヤクザの太い物語があることもまちがいない。それはどういったものか。

 

壬生にかんしていえば、それは主体性の物語ということになるかもしれない。壬生は京極にじぶんの命と愛犬おもちの命を天秤にかけさせられ、結果おもちを殺してしまった。だが、選択というものは、選択肢が等価であり、どちらを選ぶべきか一考の余地があるときでなければ成り立たない。じぶんとおもちの命という、比較できない選択肢を提示し、さも壬生に責任があるかのように京極は物語を演出したが、じっさい壬生は逆らうことができなかった。この選択は、身振りとしてはまちがいなく壬生のものではあったが、主体性を欠くものだったのである。こういう強制が可能なものを「強者」という。京極は、みずからおもちの死を選んだという壬生の物語を強権的に描いたのである。こう見ると、「強者」とは、物語を描くもの、ということになる。ちょうど小説家が神の視点で登場人物を原稿用紙に遊ばせ、それぞれに「選択」をさせてぜんたいの構造を築くように、強者はあくまで弱者の責任のもとに弱者の物語を自由に描き出すのである。

 

今回、犬飼に仕事を依頼した首謀者は、目をくりぬかれるレベルの凄惨な拷問を2週間受けることになった。その後彼は殺される。そして、この2週間というのは、伏見組ではお決まりのようである。壬生が同じようなことをいっているのだ。なぜこのようなことをするのかというと、壬生がその伏見組の慣例を知っているという事実が示すように、見せしめ的な意味があるだろう。逆らえば信じられない苦痛とともに2週間生かされたあと殺される、こういうことがうわさレベルで広まることが、まず第一の目的である。もうひとつは、死によって完結する生ということがある。首謀者の男を殺すことはかんたんだ。だが、伏見組に逆らうこと、今回でいえば若頭の息子を殺すほどのことをしでかしたものが、ただ死んでしまうだけで、伏見組が負うことになった負債が解消されるということはないわけである。外部的な意味では「伏見組に逆らえば2週間拷問されたのちに殺される」といううわさが広まればじゅうぶんだ。ここではもう少し内発的な動機について考えたい。つまり、彼らにとっては、彼らに逆らうという行為の重大性を遡及的に評価する意味も含めて、相手をなるべく長く苦しめ、そうかんたんには完結させないものとしたいのである。この理路はウシジマくんの獅子谷甲児が椚を生きながらえさせていたときに気がついたものだ。椚は兄の鉄也を殺した首謀者だ。だから復讐の対象である。椚を殺すのはたやすい。しかし、甲児にとっての偉大な兄・鉄也の命が、椚の命を奪うことでつりあいのとれるものであるはずがなかったのである。だから、甲児は椚を生かし、復讐完了を先延ばしにするしかなかった。似たような理屈がここからは感じ取れるのだ。今回は京極の息子が死んでいるという点でややこしいが、要するにこれは自己評価の問題だ。伏見組は、じぶんたちの強さ、大きさを、逆らうものに対する攻撃性の大きさで表現する。彼らをあっさり殺してしまっては、彼らの生が完結するとともに、逆らったものが奪ったものの価値も小さく完結してしまうだろう。それを彼らは許さない。ことがいかに重大であるか自他に示すため、彼らはいちいち復讐をおおげさにするのである。

そして、ここに宿る意味はもうひとつあり、それが物語の主人公は誰なのかということなのだ。復讐は当然後手になる。やられた行為に対応するものとして出現する。だが、後手でありながら主体性を欠くことのない復讐もある。それが、このようにして、やられたぶんをはるかに超える大きさで圧倒することなのだ。その結果、主客は逆転する。首謀者は猛を殺し、その復讐に伏見組は首謀者を殺した。事実としてはそうなる。だが、凄惨な拷問は、まるで復讐のほうが先にあったかのように、物語を書き換える。まず伏見組の凄惨な拷問があり、追って首謀者の行為が認識されるのである。因果が逆転するのだ。

 

 

猛が死亡したことにより、新キャラのヤクザがぽんぽん出てきたことにはそういう意味がある。ヤクザでは、「誰が主体か」ということが、ことほどさように重大なのである。いま、猛が殺されたことで伏見組は負債を抱えている状況にある。これをはるかにしのぐプラスを創出し、彼らが「されたこと」が中心からはずれるほどにならなければ、彼らの強者性は貫かれないのだ。

 

そうした主体性問題に、壬生もまたかかわっているわけだが、もしこの件を九条/蔵人の対立に関わらせようとしたら、ぼくではソクラテスが想起される。ソクラテスはプラトンによって描かれた数々の「対話」で知られているが、それは現代でいう「対話」とは少し異なっている。彼は、まちゆく名士とか賢者とかと議論し、これを乗り越えるが、彼らのいうことは、ソクラテスの論理を補強する反対概念のようなものを出ることがない。ふつう「対話」といえば、全体に価値中立的な枠組みのなかで、ポリフォニックに展開するものである。しかしプラトンの描くソクラテスは、名士や賢者、ソフィストを論破し、彼の議論を徹底的ですきのないものに彫琢していくのである(ややこしいが、ここでいう「論破」も、いまいわれる論破とは異なる。現在いわれている「論破」は技術的なものをいうので、ソクラテスよりソフィストよりのものだ)。だから、ソクラテスの「対話」は、きっぱりいってしまえばどこまでもモノローグなのだ。相手と論戦をしているようで、実は作品通して、主語はソクラテス以外ではありえないのである。

この対話の景色でいうと、九条はポリフォニックな対話、というより、対話的傾聴(対話者が存在するときにのみあらわれうる発話)を志向するものであり、蔵人は、相手方の論理をじしんの内側に回収することなく、ゆがめてでもモノローグの内側に回収するソクラテス的なありかたということになる。主体性の獲得、もしくは奪取ということにかんしていえば、壬生も含めた不良たちは蔵人的であるといえるかもしれない。

 

というはなしはなかばむりやりのおもいつきなので、今後つかっていくかわからないが、とりあえず思索の記録として残しておく。

 

 

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