第142話/巨人と球
オリバのリベンジマッチはいまのところオリバ優勢で進んでおり、いまオリバがパックマン状態になっているところだ。
宿禰はそれをマスキュラーポーズと受け取る。ボディビルの大会では、ポーズが指定されない自由な時間に多くの選手がモースト・マスキュラーポーズをとる。オリバが肋骨をつかまれた状態でやってしまったあれだ。細部の筋肉の作りこみより、全体のバルク、とにかく筋肉がそこにたくさんあるということを示す、わかりやすいポーズである。その究極がこの球体なのであると。
宿禰は200キロを超える巨体を舞わせてこれをスタンプするが、不可解な弾力とともに弾き返されてしまう。ヒットポイントに力が集中することで、どんな攻撃も無効にしてしまうのがこの技なのだ。宿禰はオリバの力士としての引き出しに驚嘆している。彼がいままで想像もしなかったような筋肉やちからへのアプローチなのである。
オリバはまるいまま怯えるなという。そして、これ以上どうしようもない、歯が立たないというなら、立ち去れと。ただし、それは負けということである。敗北を受け入れるということであるとも。
歯が立たないとしても宿禰は別に大きなダメージを負っているわけではない。これが負けというのは無理がある気もするし、宿禰も受け容れる気はない。宿禰は力任せに蹴りも放つが、スーパーボールでも蹴っているように弾かれてしまう。
このファイトには目撃者がいた。飲食店経営・松永智史であり、ふっとんだ宿禰が半壊させた車の持ち主である。帰ろうと駐車場にきてみたら車が壊れていて、かたわらには3メートルくらいの力士、その前には直径2メートルくらいのなんかでかい球があるという状況だったのである。もちろんこれらの数字は体感的なもので、さすがに彼らもそこまで大きくはないが、2メートル近い一流選手というのはじっさい3メートルくらいあるように感じるものである。彼らくらいの筋量ならなおさらだろう。モニタリングの撮影を疑うレベルの現実離れした状況なのであった。
拳、鉄槌、かかと、肘、どれも通用しない。負けではないにしても、どうしていいかわからないというのが宿禰の心境だろう。そのとき、松永は球が開くのを目撃した。跳ね上がり、けもののくちのように開き、手足を牙のようにして力士に襲いかかったのである。そしてひと飲みなのであった。
つづく。
さすがに宿禰をパックマンするのは無理だろう・・・とおもっていた時期がぼくにも。
だが、バキを飲み込んだときのように、全身がきれいに収納されるというわけにはいかなかったようで、宿禰の手足はかなりはみ出ている。でも、バキ戦のときも全身がおさまるまではちょっと時間がかかったような気がする。暴れ飛び出る手足をひとつひとつつかんで、完全に収納し、丹念にこねくりまわして、ペッとする、それがこの技だ。表面積的に無理な気もするけど、もしオリバが宿禰の全身をおさめることに成功したら、それはそれは、バキどころのダメージではないかもしれない。いやでも力士って関節もかなりやわらかいっていうしな、どうだろう・・・。
バキ世界では特定の実在ファイターがモデルとなって描かれることが多いが、オリバにもセルジオ・オリバという実在のボディビルダーのモデルがいる。セルジオ・オリバも、ビスケット・オリバと同じく、掌側を外に向けて拳を高くあげたあのポーズをよくやっていた。だが、ボディビルディングは格闘技ではない。こういう意味で、前回も書いたように、実にオリバらしい技というのがこのパックマン、オリバボールである。というのは、この技というのは、マッスルコントロールをつかっているからである。マッスルコントロールとは筋肉の任意のぶぶんにちからを入れる技術のことで、なかやまきんに君の筋肉ルーレットもそうだし、力こぶが首のうしろを通って逆の腕に移るように見えるパフォーマンスを見たことのあるかたもいるかもしれない。とにかく、おもった箇所に必要なちからをこめることができる、これがボディビルダーの強みである。なぜこういうことが可能かというと、ボディビルディングの思考法には筋肉を分離させてとらえるところがあるからだ。人間の運動というものは複数の筋肉と骨や関節が複合的に働きあって実現するものだ。たとえば野球の投球においてもっとも重要な筋肉は肩なのだろうが、もちろん肩だけが異様に発達しているからといってすごい速い球が投げられるということにはならないわけである。握力も、腕をたぐりよせる胸のちからも、体幹や下半身も、すべての筋肉が総動員されて球を投げるという単純な動作は成立している。そこに筋肉や関節のやわらかさだとかちからを抜くタイミングのセンスだとかもからみあい、ようやく速球が誕生するのだ。こういうわけであるから、特にアスリート系のトレーニングもまた複合的なものが望ましい。そのほうが効率的かつ安全でもある。だがボディビルは動作効率を超えて一般には見過ごされるような細かな筋肉まで鍛え上げていく。通常大きな筋肉に隠れているような筋肉がどれだけ鮮明に浮き立つか、そういうところに主眼がある。そこで、トレーニングは筋肉をアイソレートしてとらえるものに自然なっていく。こういう背景が呼んだものがオリバボールだというわけである。小さな筋肉まで不必要に鍛え上げる、からだのどんなぶぶんにもちからをこめることができる、というようなことは、関節を中心に複合的に筋肉を働かせるアスリートの実用思考からは遠いものとなる。しかし、それがファイトに使うことができるとしたらどうだろう。その果てに出現したのが、マッスルコントロールで防御をするオリバボールであるというわけだ。
しきりに感心する宿禰の姿が示すように、オリバのこの技は、きわめてオリバらしく、オリジナリティあふれるものとなっている。そして、ここでより重要なことは、それが球体だということである。これは明らかに例の三角形と逆三角形のどちらが優れているかという文脈の先にあるものだ。内容的にあまり進んでいないのでこれもまた前回のくりかえしになるが、三角形と逆三角形のありようはそれぞれ守りと攻めにわけることができる。そしてこれは、それを実現していた両者のファイトスタイルや気性、出自とも連続したものだ。聖地に住まいこれを守る宿禰は(そして“力士”は)、どこかに進み出て悪を退治するタイプの戦士ではない。しっかりとそこに根付き、不動の体重で守るものだ。だから安定した三角形タイプの体型、ファイトスタイル、思想になる。対するオリバは、いわゆる意味でのファイター的な、狩猟タイプになる。逆三角形は不安定さとともに攻撃性や肉食性、前進する意志のようなものを宿している。こういう異なった両者のどちらがうえかというはなしだったのである。ここんい入り込んできたのが球体である。ここにおける「球体」がなにを導入するのかというと、上下の区別のない世界である。三角形が安定しているとか、逆千角形が不安定で前のめりだとか、そういうイメージは、そもそも「地面」や「重力」があってのことである。宇宙空間には「逆三角形」などというものは存在しない。上下を規定する重力が存在しないからだ(そもそも踏みしめる大地がないので、「ファイト」という概念じたいが存在できない可能性もあるが)。もちろん、じっさいには大地のうえでたたかっているので、オリバの球体にも大地の要素はある。だがそれはキャンセルされている。ここで球体に「上下」の概念が加わりうる状況というのはなにかというと、「転がる」という状況である。直径を等しくする円や球体は、仮にいま絶対的な地点から(たとえば画面越しの固定された視点から)転がしたとしても、数学的にはなんの変化も観測できない。わたしたちがそれを「転がった」ととらえることができるのは、たとえば位置であり、たとえば見た目の上下感覚だったり(オリバボールなら腕の場所とかでわかる)、ともかく、地上の「上下」が自明である状況においてのみなのである。しかし、オリバはなんらかの方法を用いて転がらないようにしているのだ。正面から蹴られて、前腕ぶぶんの筋肉で弾く、これがオリバボールの防御原理なわけだが、本来はそれと同時転がってしまわなければならない。そうならないのは、球体の反対側の接地面において、等しいちからでふんばっているからなのだ。オリバがじっさいにはどのようにして「転がらない」を実現しているかは不明だ。ここで重要なのは、事実として彼が転がっていかないということである。転がらない、もしくは転がったとしても認識できない、こういう状況は、上下のない世界であると考えられるのだ。そして、上下のない世界とは、大地のない世界、安定や不安定といった評価法がない世界、すなわち、三角形や逆三角形といったファイトスタイルが意味をもたない世界ということになるのである。
この球体スタイルは、こうみると三角形の理念を弁証法的に包括するようでもあるが、これも前回書いたように、三角形が依存する大地じたいがそもそも球体であるというところがおもしろいところだろう。いわばオリバボールは、大地がなければありえなかった安定・不安定の競走を超えて、みずから自律的に大地を生み出すのである。そして上下の概念を生み出す重力とは、球体の中心に向かって働くちからだ。つまりパックマンである。宿禰は、彼がこだわり、毎日くりかえし四股でふみつけ、ちからの源としてきたにちがいない大地に吸収されてしまったことになるのである。
その中心地点でもやはり上下の感覚はないだろう。だが、ここで思い起こされるのは、宿禰の稽古法であった、250キロの膨張する力士である。宿禰は立禅的に気を練りつつ、全方向に250キロの体重を動かせ続ける、存在し得ない力士をイメージして一人相撲をして鍛えてきた。これは実質「爆発する力士」である。爆発する以上、ここには中心がある。爆発しようとするものを制圧すること、これを、彼は日常的に行ってきたのだ。そしてこれはオリバボールと同じ原理なのである。「爆発する力士」には安定も不安定もない。これと組み合い、抑える、これが宿禰の力士としてのありかたなのだ。この稽古でなにが確認できるかというと、ひとつにはまず動作の「抜け」である。ゴムボールを握れば指のあいだからボールがやわらかくふくらんでくるように、「爆発する力士」は宿禰の腕をすりぬけてありとあらゆる方向に飛散していくだろう。これを宿禰はひとつひとつの動作を細かく調整しながら抑えていく。ここからは、彼が聖地を守るものとして自然に身につけたであろう、「不均衡を是正する」という動作の傾向が見て取れる。オリバもまさに、暴れるバキを収納するために、動作の「抜け」を見つけてとびでるバキの手や足をひとつずつ拾い、最後には完全に球体のなかにしまいこんでいたが、実は宿禰もまったく同じことをやっていたのだ。だとするなら、オリバボールは宿禰にも可能であるということになる(腹がじゃまをするとかそういう現実問題はおいて)。宿禰の驚きようをみると、おそらく彼はそのことに気がついていない。とすると、今後気付く可能性がある。つまり、大地に依存した安定/不安定の原則から逃れた、みずから中心的を創出するありかたに、ということである。オリバは宿禰に大きなヒントを与えてしまった可能性があるのだ。
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