今週の九条の大罪/第73審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第73審/至高の検事⑨

 

 

 

 

今回は九条の兄、蔵人がメインの回だ。いままで断片的に、わかりやすい描写しかなかったが、けっこう深堀されるぞ。

とはいえ、検事の仕事はなんかよくわからんなあ・・・。とにかく、東京地検特捜部としてなにかゼネコンの談合事件を立件したということのようだ。上司、宇治部長はその仕事内容よりネットなどのニュースの取り上げられかたをほめているようであるのが印象深い。

 

トイレでは、タメ口どうしなのでたぶん同期とかだとおもうが、別のものには、並んで用を足しながら「鞍馬だけだ」といわれる。いずれ東京高検検事長になり、次長検事から検事総長になってもらう希望の星であるというはなしだ。蔵人はイギリス大使館にもいっていたことがあるらしい。とりあえず今回の手柄はたぶん宇治のものになるだろうが、筋書きを書いているのは蔵人である。そして、なにしろ世間の関心を操作するのもうまいと、やはりここでも外部評価のことをいわれる。大衆を巻き込まないと正当性を保てないから、と蔵人はこたえるが、彼の目標はそんなところにはない。そんなことでかんたんに操作される「愚民」に合わせてばかりいては国が腐る。検察を強くして国を正したい、それが彼の考えだ。しかし現実の出世コースは検察庁ではなく法務省勤務で、捜査も公判もせず法律をつくる連中のほうだと蔵人はいう。よくわからないが、検事のいわゆる出世コースからはずれているということだろうか。

 

また薬師前と烏丸がデートしてる。競馬で勝ったから薬師前のおごりで酒を飲んでかにを食べている。そこへ記者の市田も誘おうとしているところだ。あとで合流したいが、いまは動けないと電話で市田はいう。検事の張り込みをしているということで、もちろんそれは蔵人のことだ。はなしをきいて、烏丸の感想もちょっと聞ける。一般目線として、薬師前は検事を少し怖いというが、烏丸は嫌悪感を示す。検事は独任制の官庁と呼ばれているという。検察だけが刑事事件の起訴の権限をもっている。つまり検察が不起訴にしたら無罪。ひとの運命を決める権限があるということだ。

これは薬師前がいっているのかな、ネットなどでは捜査権があることで検察は事件のストーリーを描きやすいというふうにいわれがちだという。世論を味方につければ捜査の正当性も担保される。これはまさに蔵人がいっていたことだ。そしてその世論がどのように形成されるかというとマスコミを通じてということになるが、そのマスコミが、検察からのリークに期待して独自の調査をしなくなってしまうと、完全に検察のおもうがままになってしまうわけである。もちろん、現実はそんな陰謀論みたいにはできていないだろう。だがそういう図をたやすく思い描くことができるということが怖さにつながるのかなというはなしだ。烏丸はいちおう、検察も組織なので、決裁は上司が行う、検事が独断で決めることはないという。

 

蔵人と市田が合流する。ふるいつきあいのようだ。蔵人は市田の文章を気に入っていて、市田は市田で情報源として蔵人に恃んでいる。今回も蔵人はいいネタをもってきており、市田もそれを待っている。まさに薬師前のいう図に近い景色なのである。蔵人は喫煙所に入って市田を待たせるのであった。

 

 

検事どうしのうわさばなしだ。たぶんトイレで蔵人と話していた同期の男が、蔵人の「弁慶の泣き所」について語る。嫉妬とかないのかなとおもったけど、まあ、くちでいうだけの感情で済むはずもないか。蔵人の弱点とは、むろん弟の九条である。九条は依頼人を選ばないので、結果としては反社の相手ばかりしており、顧問になることは拒んだものの、けっきょく世間は彼を伏見組の実質的顧問とみているようだ。そうである以上、蔵人は反社とのつながりを否定できない。九条が世間の目にとまる前にちゃっちゃと弁護士をクビになってくれればと蔵人は願っているにちがいないのだ。

 

その九条のもとには、いかつい子分を大勢連れた京極がやってきている。壬生と連絡がとれないがどこにいるかと。そして机のうえに人間の足先がのぞくバッグが乱暴におかれる。ひとひとりが入るような大きさには見えないし、ばらばらにされた死体をどこかから見つけてきたのだ。これは京極の息子・猛の死体だ。息子は死んだ、壬生はどこだと京極はくりかえすのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

ばれないではいられないだろうなとはおもっていたが、すごいかんたんに死体までいってしまったな。

 

だが、京極はどうやって猛の死体にたどりついたのだろう。ふつうの流れなら、なんか犬飼はハメられてるっぽい描写があったから、依頼人の男かあるいはまったく別のルートから犬飼が猛を拉致したということが伝わり、捕まってしまったみたいなことだろう。だがこれは犬飼は捕まっているのだろうか。犬飼にはまだ壬生に対する忠誠心のようなものはそうないだろうから、もし捕まっていたら、おそらく壬生の居場所を吐いているだろう。としたら彼はそれを知らないのだろうか。だが、この感じはどうも犬飼はまだ捕まっていないような感じがする。写真にとられていた場面もあったので、おそらく犬飼が犯人であることはもう京極は知っているだろう。知ったうえで、その面倒をみている壬生に会いにきているのだ。問題は死体である。どうやってあの山奥まで京極がたどりついたかだ。可能性としてはふたつ、猛がなんらかの通信装置をスマホ以外にもっていて、居場所がわかったというもの、もうひとつは、誰かの裏切りである。たぶん後者だろう。あのツーブロックの男だ。彼は京極を敵にまわすことを非常におそれていたので、じゅうぶんありえることだ。これが、直接か電話かで死体の場所を伝え、じぶんだけは見逃してくれるよう頼んだのだ。

 

今回のはなしで気になるのは愚民のくだりだ。ようやく、蔵人のスタンスが描かれ始めたわけだが、いきなり世論を形成する市民を愚民呼ばわりである。けっこうはなしとしては複雑なので、書きながら整理していく。

現実の検察のすがたにかんしてはともかくとして、ここでは烏丸と薬師前の会話による相対化もこみで考えると、検察の仕事では「世論」というものが強い意味をもっている。世論が、捜査そのものや、それが暴くものについての価値判断の後ろだてになる。ではこの世論がどのように形成されるかというと、マスコミを通じてということになる。だから、宇治部長や同期は外部評価を意識する。客観的にその仕事ぶりがどのように描かれているかということが世論との距離に直結するのであれば当然のことだ。このマスコミの仕事が、きっちり批評の任務を果たしているのであれば問題はないかもしれない。だが現実には、市田がそうしているように、マスコミは情報源として検察を頼っているぶぶんがある。調査対象と癒着しているような状況なのだ。それでは客観的な批評は期待できない。ここに薬師前は怖さを感じるというはなしだ。検察とマスコミと世論が三角形を描いてバランスをとるところ、実質的にはマスコミが検察の支配下におかれることにより、世論は気付かぬ間にコントロールされて、評価するつもりが手渡された小さいものさしで目前の書割を計測しているだけになってしまうのである。

こうして、好むと好まざるとにかかわらず日ごと強化される検察の独任制の内側で、蔵人はそれを構成する単位であり、また彼自身が最終的に目標としている強く正しい国の成員であるところの国民・市民を「愚民」ととらえていると、こういうはなしである。

 

コントロールするもの、支配するものがその対象を軽蔑するというのはよくあるはなしだ。相手が尊敬に足るものであるなら、その支配が達成できたとき、それは自信につながっていくだろう。だがここではそういう自己実現的なはなしをしているのではない。そういうシステムがまずあり、そのなかで出世しつつ、目標を達成しようとする、そういう野心のものとして、蔵人が描かれているのだ。つまり、「愚民」たる世論形成の当事者を支配することそれじたいは目的ではない。だから、理由が必要になる。彼らは愚かだから支配される、そういう、問題を問題として認識せずにすませるための回路のようなものが、ここでは必要になるのだ(とはいえ、現実には支配そのものが目的の者ほど市民を愚民視しそうな気もするが)。

ここで問題なのは蔵人のインテグリティではない。厳密には重大な問題だが、そういうひともいるだろうし、こころでおもうことまではとめられない。ひっかかるのはそこではない。彼が、強く正しい国家を求めているということである。こんにちにおける国家とは、定義的には理念以上のものではない。わたしたちがそれぞれに、国と聞いて思い浮かべるものの平均的図像、それが国家にほかならない。極端なはなし、人間が誰もないジャングルのなかに「国家」が誕生することはない。だから、もし国家が理念をこえて量的なものになるとすれば、それはそれを構成する国民の総和という手続きを必ず経由することになる。にもかかわらず、蔵人は国民を「愚民」と切り捨てたそのくちで、高潔な理想を語るのである。これが成り立つためには、当然彼のなかで国民と国家が断絶していなければならないことになる。これは強者の理論である。というのは、絶対王政とかのちにあたまをもたげた全体主義とかは、こうした国家観から生まれてきたものにちがいないからである。ここでいういわゆる国家とは、どちらかといえば近代的なものであり、寡頭政治的なかつての「国家」というものは、ただ強者の巨大な家のようなものにすぎなかったはずだ。とすると蔵人は原始的国家を夢見ているかというと、そういうことでもないだろう。彼はあくまで善なるものを探究するものである。問題はそれがどこでどのように転倒するのかということだ。

ポイントは、彼の考える検察の強さとか国家の正しさとかいったことだ。この言説が自明のものとして含むのが「強さ」「正しさ」だということなのである。彼のなかでは、「正しさ」、つまり善なるものの輪郭が、非常に明瞭に浮かんでいるのだ。

 

これまでくりかえしみてきたことだが、この点こそが、九条とはっきり考えかたを異にする分岐点である。九条はふたりのちがいを、あなたに見えないものがじぶんには見えるという言い方で表現した。これは『星の王子さま』の基本テーゼを思い起こさせるものだということも何度も書いた。ここで見える見えないを分かつのは言語であり、もっといえば大人のロゴスである。となりあうあるふたつの言語が、ほんらいなめらかに連続する事象をふたつに分かつ。分かたれた事象は、そのふたつの語によって表現可能である。だが、そのふたつの語をあわせてみても、もとの事象そのものにはならない。ピアノの鍵盤のシとドのあいだにも音はあるが、西洋近代音楽の理論は原則的にそこを汲むことはない。蔵人にとっては、ピアノで表現できないその音は存在しないし、仮に存在するのだとしても、考える意味がない。では九条はというと、セロニアス・モンクがそうしたように、シとドを同時に叩き、不協和音のなかにロゴスの見落としを探り当てるのである。

 

蔵人にとっての揺るぎない善は、法律という言葉の宇宙によって保証されているものだ。ここには「正しさ」がある。「強い」検察は、九条のようなにえきらない態度でもたもたどうでもいい「愚民」を相手にするものではなく、ただ正しさを断定していくものだ。ここでの「愚民」は、九条が指摘する彼の見落としの、別のかたちでのあらわれといっていいだろう。まさしくその人間の愚かさ、善や正しさという面からでは測定できないような価値判断、こういうものが、現実には「世論」を形成している。だから、これは選民思想的なものとも異なるのだ。蔵人には見えていないのだから。彼には、この国民と国家の断絶ということがそもそも見えていない。検察を「強く」しているのが彼の意識的にか無意識的にか見落としている人間の「愚かさ」だという矛盾にも気付くことはない。それに気付くためには、見落としがあるかもしれないという保留の姿勢が必要になるからである。彼には九条というアウトロー弁護士がいるというのは、こう考えるとむしろ強みのような感じもするが、現実には、その見落としをただ「愚民」として切り捨ててしまうのとまったく同じ手つきで、彼は弟を口内炎のようなものとしかおもっていないのだ。

 

市田のもってきたネタとはなんだろうか、というところで、今回の猛の件、また九条そのものの進退ということがかかわってくるのだろうとおもわれるが、今回もうひとつ気になったのは蔵人の喫煙描写である。ぼくじしん喫煙者なのでこんなことをいうのもナニだが、完全無敵超人みたいな蔵人がスモーカーだというのは少し意外ではないだろうか。まだ断定できる段階ではないが、これは彼の完璧無敵人生の瑕疵のようなものにもみえる。つまり、弟のことだ。とすると、彼はひょっとして弟を求めているぶぶんもあるのかもしれない。喫煙者にとってのタバコは、瑕疵であるとともに大切なものでもあるからだ。周囲に配慮しつつ、またからだに悪いこともしりつつ、やめられないタバコのようなものとして、彼はどこかで弟のことをとらえているのかもしれない。

 

 

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