すっぴんマスター -22ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第92審/生命の値段①

 

 

 

九条の逮捕・釈放を経て、新章で再開!ぜんたいに服の印象が黒っぽくなって変わっている。ずいぶん前のことになるが、釈放されてささやかなお祝いをしたとき、逮捕された人間にとって、たくさん接見に来てくれる弁護士がどれだけ心強いか理解した、といっていた。そして、よりいそう精進すると。そのことそれじたいは、理屈としては九条も知っていたはずである。それを実体験的に、肌で理解したというはなしだ。つまり、じぶんはまだ依頼人の立場からは遠いところにいたということを悟ったわけである。「精進」がなにを指すのかはおそらく複雑だが、端的には、この距離を縮めることを指すものとおもわれる。今回の新章から印象が変わっていることの原因は、ここにある。

 

 

白栖総合病院の医院長、雅之が謝罪会見を行っている。あとでわかるが、横にいるのはヤメ検の弁護士、相楽弘毅だ。むかし烏丸がいた東村ゆうひ弁護士事務所所属ということである。新型コロナ患者を受け入れるとして補助金を受け取りながら、じっさいは患者を拒み病床使用率ゼロで運営をしていたということで、不正受給額は20億を超えるという。責任をとって雅之は辞任、次期医院長には息子の大介を任命すると。ニュースをみている九条と烏丸は炎上すると予言する。炎上もなにも、不正なことをしたのだから非難されるのは当然では・・・とおもったが、ポイントはそこではなく、息子があとを継ぐというところだった。

 

白栖は相楽に文句をいっている。相楽とあたまを下げたら一件落着のはずが、バッシングは過熱しているじゃないかと。ぜんぜん、反省とかはなく、マインド的には生活指導の頭髪検査でつかまった半端な不良高校生みたいな感じだ。

相楽は、息子の件については忠告したということである。しかし白栖的には、開業医の既得権益を他人に譲るわけにはいかないということのようだ。ニュース記事の文章をみても、白栖は独力で病院を大きくしたようで、ここまでくるには苦労もあったのかもしれない。加えて、跡継ぎとして馬鹿な息子に大金をかけてきたという感覚もあるらしい。開業医は医師免許さえあればやっていける、だから何浪させてでも息子に免許をとらせたのだと。

雇われている身として炎上を沈静化させることに依存はない、相楽は人員を増やして対応すると約束する。依頼人ファーストだと。

 

どこかのホテルらしきところで白栖が、今度は壬生に愚痴っている。なんで壬生かっていうと、女の子を用意しようとしているところらしい。病院経営は甘くない、世間はわかってない、というはなしに、壬生は思いのほかのってくる。前回明らかになった意外なほどの保守思想のあらわれである。日本の医療機器は80年代までは技術の高さに定評があった、しかしレーガン・中曽根の協議で、医療品の承認をアメリカに得なくてはならなくなり、輸入が輸出を上回ったと。ここでも不利な立場におかれてしまっているわけである。が、白栖は俗物なので、じぶんに有利なものでも、そういうはなしにはのってこない。だいたい、壬生にそこまでの議論を期待してもいないのだろう。

 

烏丸は相楽のことを知っている。雲の上の存在だったと。あんなふうに炎上させる無能ではなかった。だが九条は、金儲けについては優秀だと笑うのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

烏丸の知っているころから相楽が能力的に変わっていないのであれば、九条がいっていることを踏まえると、今回の炎上は相楽の予想通りということになるのだろう。そうして仕事を増やし、白栖からお金をとっているということじゃないかな。

 

まだ導入部なのでナニだが、「生命の値段」という副題でもあり、当然、人間の価値の交換可能性のはなしになってくるとおもわれる。医療業界が描かれるのだとすれば、白栖のような俗物タイプでは特に、患者がその対象となってくるが、この観点は法律の世界にもあてはまるだろう。

九条は、蔵人が最初から悪人を悪人であると規定するのとは反対に、零度の態度で依頼人に接し、ひたすら手続きを守る。もっといえば、法律がなんらかの決定をくだしても、それは九条になんの影響もない。善も悪もない、ただ、予断を回避し、機械的な対応をするために、彼は感情を捨て去った。回想シーンでは泣いているのに、その記憶を呼び起こした母の墓の前では無表情で雨に打たれているというのは、そうしたことの象徴だ。現実には、九条はそうとうに心優しい男だ。それだからこそ、事前に態度を決定してしまうようなありかたでは見落としてしまうような弱いものに目をかけることができる。それを彼自身は、ある種の公平性による結果だと自己分析するわけである。

こういうふうにみたとき、依頼人に「値段」をつけるとはどういうことだろう。ひとつには、山城がそうであるように、金になるかならないかという視点で依頼人を評価するということがある。だが、医療と法律をあわせて観察している状況で、この見立ては表層的すぎるかもしれない。両者におけるより本質的なことを抽象すると、それは、ある算出可能な価値の原理のなかにおいて、ある人物と人物のあいだに差がないことがある、ということなのである。じっさい、法律はそうなのだ。同じ状況、同じ事件で、AさんとBさんで結果が異なってしまうようでは法治できているとはいいがたい。人治を超越した原理の支配する世界では、必然的にそういう定量的評価のしかたがあらわれてくるのである。もちろん、九条もここに与するものだろう。とするならば、蔵人との対比では感情の抑圧がフィーチャーされたところ、今回では彼の心優しさのぶぶんが際立つものかもしれない。

 

壬生は保守思想を隠さないようになっている。それじたいはひとそれぞれ、自由なので、別にかまわないのだが、気になるのはコミュニケーションのほうである。白栖は俗物で金持ちである。これが、病院経営が理解されないことについて愚痴っている。それを受け、たいへんなのはよくわかると一拍おいたうえで、アメリカとの不平等な関係性にいきなりはなしが飛ぶ。このように、あらゆる問題をひとつの原因に収束させる思考法を陰謀論とよぶ。げんにそうした現実があるかどうかは問題ではない。なにもかもそこに帰着させようとする思考の癖のようなものを、そう呼ぶのだ。今回の壬生からはそれが見えてしまった。まあ、壬生はふつうにキレモノなので、この一事をもってここまで書くのもなんなのだが、なんとなしの違和感は残るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第9話/帰ってこい

 

 

 

鎬昂昇のジャック戦が迫る!というか、試合はもう明日行われるらしい。。花田はいったい、マジでなにしに登場したんだ・・・。

 

 

鎬昂昇は兄・紅葉の前で自重による調整を行っている。調整といっても、内容的には自重でできるもっとも難しい動きの連続だ。三本指での逆立ち、くらいならバキ世界ならできるものはごろごろいるとおもうが、そこから足をつけないまま、腕の外側に足をまわしてVシット的な姿勢になる。パワーとか持続力とかいうことより、筋肉と筋肉、関節や骨の協働性を確認しているようなのだ。肉体と重力の関係、頭や顔の向き、手足の位置、こういうものにおもいを馳せつつ、アクロバティックな動きを含めながら回転して着地、見直し終了としている。紅葉はそれをまるで体操というが、昂昇はそれを受けてなのか、体操からも学ぶべきだとする。武術家は攻防の緻密度と空中での操作性においてルーズだと。独歩のモデルのひとりである大山倍達は、多分にフィクショナライズされたある書物で、格闘家以外で強い可能性のあるものとしてダンサーをあげていた。もちろん、ここに体操を含めてもいいだろう。なにしろ彼らは、からだをどのように動かすか、どれだけ正確にコントロールするかということに血道をあげるものたちなのだから。

 

昂昇は、「見直し」は終わったところで、吊り輪をつかって次の運動に入る。ということは、これは見直しではないということだろうか。見直して、歪みが見つかったから調整してるとか、そんなことかな。人差し指と中指だけをひっかけて自在にからだを動かしていく。最終的には、指をひっかけた状態で臀部を上部にまであげていくのだった。指っていうか手首の柔軟性に驚きである。

 

兄がなにかいおうとするのを、昂昇が制し、明日の相手はアスリートでも武術かでもなく、頭脳を備えた「猛獣」であるとする。ジャックのキケン度はそのまま彼の価値である。とりあえず生きて帰ってくれば必ず治療(なお)すと兄はいうが、昂昇は無傷で戻ると応えるのだった。

 

光成邸には花田がきていて、明日のはなしをしている。光成的には、鎬昂昇がナイフ1本で猛獣に挑む、という構図に見えるらしい。素人なら勝てない、プロのナイフ使いなら、と、花田は応えるのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

まじめなはなし、花田はここで「ものさし」の役割をしているということなんではないかとおもう。鎬昂昇とジャックという、意外性のある対決がどのようなものになるか、いい具合に武術性と実戦性を備えた人物として、計測する働きをしたのかもしれない。それくらい、鎬昂昇とジャック・ハンマーを比べるという行為が、作品にとってはよそよそしいものだということだ。そこにもっとずっと登場回数的によそよそしい花田を出しても意味はない気がするが・・・。しかも花田はジャックと接触してないもんな。なぜか花山にあいさつにいっていたけど。

 

ダンサーや体操選手が強いというのは、少し想像してみればよくわかることかもしれない。相手と向き合い、どのような速度、どのような角度で攻撃がやってくるのか、また当たったときの衝撃はどのようなものか、こういうことを知るには、経験が必要だろう。それなしで、無垢な状態のダンサーが最初から強いということは、あるいはないかもしれない。しかしそういう、闘争の現場のアウトラインのようなものさえわかってしまえば、身体の操作に長けたものが強くなるのは自然なことだろう。だいたい、突きや蹴りがまともに当たる気がしないし。

鎬昂昇は空手家だし、身体の感じからしてもいかにも自重を好みそうなところはあった。だがここに、彼は操作性という要素を付け加えたわけである。といっても、これは彼の特殊性によるものというより、けっこう自然にこういう考え方でいる格闘家は多いかもしれない。瞬発力を身につけるのにフリーウェイトはもちろん有用だが、それらのコントロールは神経と筋肉の協働性によるものなのだ。そして、床やバー、吊り輪をつかったトレーニングは、これを擬似的に、高い強度で行うというわけである。

 

 

通常の格闘技術は、自身の輪郭を淡く保ちながら、相手の動きに応じて変化していく外向きの体系である。それと比較したとき、ジャックの嚙道は、たんに技のひとつとして嚙みつきを用いるだけでなく、それを必殺のカウンターとして用いるところに特色があった。嚙みつきに用いるのは当然歯であり、つまりジャックは攻撃の際顔面を差し出すことになる。このことが、基本的には待ち(とは限らないが)、カウンターの戦術に傾かせるものとおもわれる。宿禰が「練りこむ」といううまい表現をしていたが、相手の動きに対応しつつ、しかるべき「嚙みつき」のベストポジションに状態を運ぶのが、この意味では嚙道の王道ということになるかもしれない。

鎬昂昇では、この「練りこむ」ということが、身体の操作性、つまり自身との対話に該当する。ジャックも昂昇も嚙みつきや貫手だけが決め技ではない。ほかにも無数に相手を倒せる技はもっているだろう。しかし、とはいえ、最終的にはそのもっとも強力な技のあるところに相手を運ぶことができれば勝ちと、こういう理屈がまちがいということでもない。ひとはジャックを猛獣よばわりだが、それはいかにもキャッチフレーズ的というか、周囲を幻惑する言葉遣いで、じっさいにはジャックも身体の操作性を探究した結果、嚙みつきを練りこむことに成功しているのである。こうみると、両者はよく似ているわけである。ナイフ1本でもそれがプロの手さばきなら、猛獣が爪や牙をもっているのと事情は変わらないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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11月30日、またディズニーランドに行ってきた!ランドは今年3回目。さすがに年内はこれでおわりかな






今回の目標は4つ。てっきりシーにあるものと思い込んでいたカリブの海賊の新しいやつに乗る!いつもスルーしちゃうクリッターカントリー行ってミーコがいないか確認!いい加減××マウンテンみたいなのに乗ってみる!パレードをちゃんと座って見る!以上である。


ミーコは『ポカホンタス』に出てくるアライグマで、すごいかわいいんだけど、たまにクリッターカントリーにいるらしいと知って、そういうはなしになった。ビジュアル的にはほんとう、ただのアライグマなんだけど、たまらないかわいさがある。たぶん、イタズラっぽさが表情に出てるんだろう。リゾート40周年ということで日中行われているハーモニー・イン・カラーというパレードにも、こちらは備えつけられた機械だが、登場している。





今回はきちんと座ってハモカラ見たので、ミーコも見えた

クリッターカントリーははじめて行ったのだけど、けっこうすいてて快適だった。近くにあるウエスタンランドにはカントリー系のアトラクションや店がたくさんあり、かなり楽しいので入り浸りがちだが、夜になるとかなり暗くなるということが前回わかってので、なるべく日中に西側を済ませたのだった。まあ、暗いことは暗いんだけど、なんだろうな、小学校とか中学校の課外授業的なやつで体験する、キャンプファイヤー的なわくわく感はあり、夜は案外若い付き合いたてのカップル向けかもしれない。ウエスタンウエアというカッコいいアパレル店もあって、前回は寒すぎてふつうにカーディガン買ってしまった。


https://www.tokyodisneyresort.jp/tdl/shop/detail/539/



で、まあミーコはいなかったんだけど、そういうものなのでしかたない。

そのへんで前回食べ損ねたおにぎりサンド食べたんだっけな。ポテトとセットのやつで、買って、近くの茂みみたいなところの外縁に腰掛けたら、カモの強襲を受け、ひっくり返されて半分くらいポテト失ってしまった。


カリブの海賊は新しくなってからは初めて。なにが新しいって、まずはもともとアトラクションがあって、そのあとジョニー・デップの映画が作られて、そんでその世界観でアトラクションも作り直されたというところ。ジャック・スパロウや映像のみでデイヴィ・ジョーンズが登場する。あと、不明確だが、声からしてバルボッサかなという人物も出てくる。開始時に予想してなかった下り坂によるスピードアップのスリルタイムがあり、仰天した。いや、なんか前から悲鳴が聞こえるなーとはおもってたんだけど。


そんでまあ、流れからするといま西にいるわけだし、スプラッシュかビッグサンダーマウンテンに乗るべきか?となったんだけど、今回よくわかったのは、ぼくらくらいのんびり散歩気分できて、現在行われているパレード3つをぜんぶみようとすると、時間なさすぎて、60分待ち超のものはちょっとためらってしまうということだ。というわけで結局今回もマウンテン体験は見合わせた。スペースマウンテンは来年改装に入ってしまうから乗るならいまなので、まあ、次回は西から東に回って、15時過ぎにやる季節もののパレードはあきらめて、喫煙所があるためにいつも拠点として活用しているところでもあるし、乗ってみようかなというところである。


そういうわけで、今回ももたもた、うろうろ、なにをするでもなく徘徊する時間が大部分を占めてしまい、寒いやら疲れるやらで、ル・フウのチュロスを2回も食べてしまった。ふつうのやつとちがう味なんだけど、慣れたらもとのが思い出せなくなるくらいおいしくて、しかもリアルに体感でわかるくらい体力が回復する、美女と野獣エリアなのになぜかすいてるのもいい。おすすめである。


よかったのはやはりパレード3つをすべて指定の場所に座って鑑賞したことだ。ハモカラは夏に初めてみた時点では半分くらい知らないキャラだったが、それからディズニープラスで勉強を重ねて、ほとんど原典を知っている状態になっている。そうさせる楽しさがあるのだ。とりわけ気に入っているのは『ズートピア』である。ヴィジュアル的には地味にも感じられるカールじいさんが、おそらく風船のイメージを手がかりに前面に出ているのもうれしい。こんなふうにカールじいさんがフィーチャーされることなんてもうしばらくないだろうな…









エレクトリカルパレードはクリスマスバージョン。あまりの多幸感に毎回涙出てくる。ウォルト・ディズニーはえらいものを生み出しよったもんだ…と、巨大な海とか山、建造物を前にしたときみたいな脱力感がいつも訪れるのであった。

後半、また例よってなにするどうするとうろうろしていて、小さな世界に入ろうとしているところで、ミッキーの声が聞こえてきた。ナニナニ、どっかにミッキーいるの?と、うろうろキョロキョロしていたらいきなり花火が打ち上がってたまげた。これも初だった。やると知らなかったぶん、うれしい驚きである。



第8話/親子

 

 

 

ジャック・ハンマーと範馬勇次郎が街を練り歩く!

よくこういう場面あるけど、歩くからには、どっかに向かってるんだよな。それとも、散歩しようと声かけてこうなるのか・・・。

 

すれちがう通行人はあっけにとられている。ジャックは二度の骨延長手術で243センチにまでなっている。こないだディズニーで2メートル近い外国人を見たけど、「でっか・・・!」と声が出てしまうくらいでかかった。以前いた道場でも190センチ程度が最大で、知人にも2メートル超はいない。ジャックは、そんなまれにみかけるレベルの身長のものを、40センチ以上上回るのだ。ほとんど着ぐるみなのであった。しかも、ジャックの骨延長手術は手足を伸ばすものなので、要するにものすごい足が長いということなのである。もしかしたら、それに対応しようとして、からだのほかのぶぶんが変化しているなんて可能性もあるかもしれない。

そこにあの筋肉。パッと見は「ものスゴく足が速そう」ということらしい。

ジャックと比べれば勇次郎はいかにも小柄である。しかしそれでも190センチ以上はあり、彼のばあいはまた、数量的な大きさの問題ではない、印象レベルの個性がある。不自然な犬歯と逆立つ紅蓮の毛髪、皮膚からは金属質の光沢が放たれる。以前、勇次郎のフィギュアが出たとき、あまりにもテッカテカだったので、そうポストしたら、バキ公式から先生の指示でそうなったとリプライがついたことがある。金属的な印象は板垣先生のイメージする勇次郎に欠かせない要素なのだ。

 

このふたりは親子なわけだが、いっしょにいることはあまりない。ジャックは勇次郎にこだわっているが、勇次郎は「血が薄い」として、ジャックをあまり顧みてこなかったのだ。

ジャックは、身長に機能が追いついたと、むかし光成にいっていたことをそのままいう。勇次郎は、「立ち姿」にそれはあらわれているという。完全とはいえないらしい。ということは、まだ伸びる可能性があるということだ。しかし追いついていると。この反応にジャックは驚いてしまう。九条を殴る父親ばりに、勇次郎はジャックに低評価をくだし続けてきたのだ。読者的にも驚きである。

「立ち合いの位置取り 敵より高きに身を置くこととす」と、勇次郎は宮本武蔵の言葉を引く。といっても、五輪書を通じて知られる歴史上の“あの宮本武蔵”ではなく、彼らがたたかった武蔵だ。オビワンの「I have the high ground」だな。

高ければ有利、なら伸ばす、というジャックの発想を、勇次郎は短絡、安易、無節操と形容する。ジャックは言葉を受け取り、少し落胆したようである。それを嫌いますかと、敬語で問う。だがこれは否定の言葉ではなかった。「出来ることではない」と勇次郎はいうのだ。ジャックの人目を気にしない強さへの渇望には、嘲笑もつきまとうだろう。骨延長には想像もできない激痛もともなう。加えて、知っているのに誰も踏み込まなかった聖地・嚙みつきに踏み入り、技術体系として確立させた。勇次郎はその純度を評価するのだ。初めて誉められて、ジャックは立ち止まり、へんな汗をかくのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

これで勇次郎のお墨付き、ジャックの方向性がまちがってはいなかったということがわかったわけである。

勇次郎からの評価は、これまで書いてきたこと、つまり本部たちによるジャックの評価のこたえあわせでもある。本部たちが指摘した、人目を気にするエエカッコしいの「刃牙らへん」には、勇次郎さえ含まれていた。今回勇次郎はじぶんのことを語ってはいないので、彼の自己評価がどうなのかということはわからないが、できるものではないとすることで、純度という点においてジャックはたしかに類を見ない、「刃牙らへん」を超越した存在であるということを認めたのである。

 

ジャックの強みはカッコつけないことにある。ここでいうカッコ、つまり格好というのは、たんに見た目とか美学的なこととかを超えて、通常の生活が成立するための条件のようなものも含まれている。これは「強さ」に限らないだろう。なにか追っている夢のようなものがあるとして、家族を捨て、生活を捨て、そのことによって生じる社会的立場の損失も気にせず、人生の全時間をそこに費やす、そんな生きかたができたら、じぶんだって××ができるかもしれない、ということを考えたことのないひとはいないだろう。ぼくは若いころピアノにかんしてはそういうことをおもっていた。学校なんかなければ、家族なんていなければ(でも住むところと食べるものは自然に生じてほしい)、睡眠なんて不要な肉体であれば、もっとピアノ上手くなるのにと、そういうふうに毎日考えていた。しかし、ふつうのひとは、ピアノのために将来を棒に振らないし、家族を捨てないし、眠いから眠るのである。ジャックにとっての格好とはそういうはなしだ。必要ならそれをやる。そのことによって生じる不都合すべてを無視する。じぶんの立場に引き寄せて考えてみればよくわかることだが、まさしく勇次郎がいうように、「出来ることではない」のである。

 

これが勇次郎にとってもそうだったというのが今回のポイントで、勇次郎にかんしては、その必要がなかったという可能性はある。彼にも生活のこだわりのようなものはあるだろう。「人目」を気にする生きかたはしてこなかったとしても、たとえば、ふるまいにかんする美学のようなものは感じ取れる。古めかしい言葉遣いや、特に親子喧嘩開始前に見えたことだが、スノッブなこだわりを通じて、彼なりのイメージというものがあるらしいということがわかるのだ。勇次郎はそれを捨て去る必要もなくすでに強いからそうしなかったわけだが、強さのためにそれを捨て去れるのかというと、たぶんちょっとためらうのである。つまり、勇次郎がジャックを評価するということは、勇次郎にも「こういうふるまいがカッコイイのだ」という美学が存在していることを示すのである。

 

だが、ではそもそも「カッコイイ」とはなんなのか、という問題がここでは生じる。というのは、勇次郎は世界最強の男、どんなわがままも腕力だけで通す人間だからである。彼を笑う人間などいない。彼の“かっこよさ”を評価できる人間が、この世にはいないのである。しかし、それは言葉や身振りを通じて表面には出てこないというだけのはなしだ。みっともないふるまいについて、「みっともないなあ」と、誰もそれをくちにすることはできなくても、思うのは自由だ。逆に、勇次郎ほどの強者であればこそ、こういう点は気にかかるのかもしれない。誰も彼に本音はもらさない。なにもかも思い通りにできるのに、内心の自由だけは侵すことができない。これはある意味、「なにもかも思い通りにできる」という状況がもたらす背理かもしれない。なんでもおもうがままの強者だからこそ、相手の内心からは遠ざかる。侵す範囲が広ければ広いほど、見えないものが増えていくのである。

そういうわけで、なんでもわがままで通せる彼がなぜカッコつける必要があるのかという点については、まずこのように、地上最強の生物としての延長線上としてとらえることができる。ここでは「強くなる」ということは版図の拡大のようなものととらえることができるだろう。しかし、人間には外面と内面がある。「強さ」は外面までしか捕捉することができない。そして、外面を侵すほどに、内面は隠されてしまう。地上最強の生物として版図を拡大する行為が次に目指すものは、自然その内面ということになる。こうして、彼はごく当たり前のマナーとか、じぶんなりの美学のようなものを身につけていったのである。

 

もうひとつの可能性としては、女性のほうが理解しやすいかもしれないが、たんにその美学をじぶんのために行使しているという可能性である。直観的にはむしろこちらではないかという感じもする。つまり、生を賦活する、モチベーションの源としての美学だ。これはそもそもどこかから評価されることを期待していない。想定していないということではないが、主題ではない。ミニスカートを履くのは、男性の性的興味を期待してのことではなく、たんにそれがかわいいからである。ひとことでいえば、なりたいじぶんになるということだ。勇次郎ほど「他人」がどうでもいい立場であれば、むしろこちらにいきそうな感じがするのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第91審/至高の検事27

 

 

 

 

ブラックサンダーが釈放された九条を隠しきれない喜びとともに迎える。ブラックサンダーは烏丸が面倒をみていたので、烏丸もセットだ。お祝いに流木と薬師前も呼んでるということだ。そして、この日は母親の命日でもあるらしい。なんか、父親的なものとの確執にばかり目を向けてきたので、九条の母親がどうなっているのかというのは、意外と考えたことなかった。亡くなっていたのか。

 

九条はブラサンといっしょにまず母親の墓参りに向かう。また雨が降っている。第10審、はじめて蔵人が登場した、父親の墓参りでも雨は降っていた。

九条は雨の中、傘もささず、ジョギングのかっこうのまま母親の好きだった花を供え、当時を思い出す。ちょうど、烏丸の父親が殺された事件をやっていたころのような感じがする。まだ司法試験には通っていないっぽい。病室で動けない母親のあたまを、水のいらないシャンプーで洗っているところだ。

九条は、成績が落ちて、また蔵人と比較されて父に叱られたというはなしをする。父の望むような人間にはなれない。しかし誰かの役には立ちたい。いまからは想像もできないが、九条はぼたぼた涙を流していう。母親は、大丈夫だと、誰よりも優しいからというが、そのあとに、蔵人と呼びかける。衰えた母のあたまのなかにも、もう九条はいないのだった。

 

会場は、これは、九条が寝泊りしている事務所の屋上ではなくて、以前薬師前と三人で話していたところだろう。烏丸、流木、薬師前がビールをもってあらわれる。お料理もおいしそう。

流木は、なにはともあれ九条が弁護士のままでいられてよかったという。手助けしようにも、流木は壬生の弁護をしていたので、利益相反となり、動けなかったのだ。ひとえに、これは独立までした烏丸のおかげだ。九条は、中に入ってわかったという。たくさん接見にきて、会いにきてくれる弁護士がどれだけ心強いかを。心機一転、より精進していくことを九条は誓うのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

前回、今回から新章に入るみたいなことが書かれていたけど、それは次回になったようだ。クリスマス発売の4・5合併号か・・・けっこうあとだな・・・。

直近の数回と比べると極端に情報量が少ない回だったが、まあ、こういうワンクッションが必要だったということだろう。

 

九条は、母親との関係においても安らぎを見出すことはなかった。おそらく、あのように泣きつくからには、母親は父の行定のようには、九条に厳しくあたることはなかったものとおもわれる。けれども、おそらく病気のせいで混濁した母親の意識は、「泣きじゃくる息子をなぐさめる」という物語の情景に、蔵人を組み込んでしまうのである。もちろんこれは、成績優秀な蔵人のほうが、母親のなかにおいても存在としては大きかったということなのだろう。しかし同時に、弱り、洞察力を欠いた意識の内側において、母親は「泣きじゃくる息子」を蔵人と判断したということでもある。そもそも、誰かの役に立ちたいという願いのあとに、優しいから大丈夫という反応は、なんだか、かみあっているのかいないのか、よくわからない。優しいから、役に立つことができるということなのかもしれないが、兄弟をとりちがえるほど混濁した意識なのであれば、ここは相手のいうことを反復するようななぐさめかたをしそうなものである。しかも、ここには「いつもありがとう」という言葉まで付け加わっているのだ。というわけでぼくはここに、母親のもとに通い詰めている「誰よりも優しい」蔵人の姿を見るのである。取り違えたというより、「泣きじゃくる息子」の招待として、母親のなかではそれを蔵人とすることがきわめて自然であったということなのだ。

 

墓参りをする九条は雨にぬれ、その彼が思い起こす過去の彼は泣きじゃくっており、対比的である。つまり、この雨は彼の抑圧された感情のあらわれということだ。ここでの雨は、悲しさ・さびしさのようなある特定のこころの働きというよりは、大きく「感情」というようなものとおもわれる。彼が感情を抑圧するのは、ありとあらゆる前提条件をふたしかにするためだ。じっさいには、根底的に彼の感情が機能しているからこそ、弱いものへのまなざしは生き続けているのだが、もっと前の段階、仕事に着手するはじめのときには、感情は不要である。それは、蔵人や嵐山が「悪」であると決めつけるような結論ありきの二元論を呼び込む。これを、九条は回避する。そうでなければ、「手続きを守る」ことはできないからだ。そういう判断をくだす「感情」は、父や母の墓においてきたのである。しかし、行き場を失った心的エネルギーは発露の場所を探し出す。それが、作品としては雨になっているということなのだろう。

 

 

さて、最長となった「至高の検事」もこれでおしまいということであるが、けっきょく至高の検事とはなにを指していたのだろう。いままでスルーしてきたが、じつは単行本では副題が変わっていて、最初の9話が「検事の権限」、そのあとが「暴力の連鎖」となっている。おそらく、「至高の検事」としては、兄の蔵人、ないし父の行定が描かれる予定だったのだろう。だが、そうはならなくなり、単行本ではこのように方針が変更されたのだ。本誌では、「至高の検事」としてはじまってしまっていることは変えられないので、最後まで突っ走った、ということだろう。だがそんな野暮なことをいっていてもつまらないので、もう少し考えてみる。とはいえ、それが蔵人を指すものではないようである、ということはまちがいないだろう。けっきょく蔵人は事件にも九条にも直接かかわらなかった。「至高」かどうか判定する現場にそもそもいないのだ。ではそれがなにを意味するのかというと、若い烏丸や、もちろん蔵人らのスタンスの先にどうしても想定されることになる「絶対法」のようなものとおもわれる。

 

蔵人の世界観においては、「悪」は常に指定可能である。しかし九条ではそうではない。ただ法律とそれを遵守するための手続きに基づいた結果があるだけであり、悪もなにもない。これは、悪法をめぐる九条と烏丸の対立にもあらわれる。烏丸は、悪法は変えなければならないとする立場だ。しかし九条は、悪法もなにもない、ただかいくぐるとする。つまり九条は、法律そのものの意味内容を重視しない。もちろんなんでもいいということではないが、一定水準以上の条件を満たした法律なら、とにかく機能していればよい。そして、それだけなのだ。だが烏丸は制度とたたかわなければならないとする。このとき、法を「悪」と判定するものはなんなのだろう。そして制度とたたかって悪法を改正できたとして、それはいったいどういうものになるのだろうか。かくして烏丸のスタンスは、到達できるかどうかは別問題として、自然と「完全無欠の、瑕疵のない絶対法」を要請するのである。どんな事件も完璧に中立的かつ理論整合的に裁定できるシステムがもし存在するなら、そこにはもはや裁判は必要ない。ただ、インプットと同時に出現するアウトプットを述べあげるものがいればよいだけなのだ。検事という仕事にもし「至高」があるとすれば、それはおそらくそういうものになるだろう。そこでは弁護士も不要である。絶対法においては、守られるべき権利は自然と守られることになる。悪は裁かれ、世界には正義が漲る。しかしもちろん、こんなものは幻想である。目指すのはいっこうにかまわない、というか人類のミッションといってもいいくらいのことかもしれないが、現実的にはまぼろしなのである。

 

法が、言葉が全世界を説明しきるとする蔵人的立場は、こういうものを想定しなければためらいなく動くことはできない。もし、法、つまり言葉が全世界を説明“しきれない”のだとすれば、見落としがあるということになる。検事であるわたくしが、裁判官が、法が、見ることのできないものがこの世にあるということを認めることになる。世界は法の述べるかたちをしていない。世界のほうで、法になじむように歪んでくれるということもないのだ。これが九条のいう、蔵人には見えないというものの正体である。といっても、九条にもそれが見えているということではない。九条はただ、「見えないものがあるかもしれない」と、どのようなふるまいの前にも一拍保留の時間をおくようにしているだけなのだ。しかしそのちがいは大きいだろう。そしてそれは、感情を雨にうつすことでようやく可能になるのである。

 

 

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