今週の刃牙らへん/第8話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第8話/親子

 

 

 

ジャック・ハンマーと範馬勇次郎が街を練り歩く!

よくこういう場面あるけど、歩くからには、どっかに向かってるんだよな。それとも、散歩しようと声かけてこうなるのか・・・。

 

すれちがう通行人はあっけにとられている。ジャックは二度の骨延長手術で243センチにまでなっている。こないだディズニーで2メートル近い外国人を見たけど、「でっか・・・!」と声が出てしまうくらいでかかった。以前いた道場でも190センチ程度が最大で、知人にも2メートル超はいない。ジャックは、そんなまれにみかけるレベルの身長のものを、40センチ以上上回るのだ。ほとんど着ぐるみなのであった。しかも、ジャックの骨延長手術は手足を伸ばすものなので、要するにものすごい足が長いということなのである。もしかしたら、それに対応しようとして、からだのほかのぶぶんが変化しているなんて可能性もあるかもしれない。

そこにあの筋肉。パッと見は「ものスゴく足が速そう」ということらしい。

ジャックと比べれば勇次郎はいかにも小柄である。しかしそれでも190センチ以上はあり、彼のばあいはまた、数量的な大きさの問題ではない、印象レベルの個性がある。不自然な犬歯と逆立つ紅蓮の毛髪、皮膚からは金属質の光沢が放たれる。以前、勇次郎のフィギュアが出たとき、あまりにもテッカテカだったので、そうポストしたら、バキ公式から先生の指示でそうなったとリプライがついたことがある。金属的な印象は板垣先生のイメージする勇次郎に欠かせない要素なのだ。

 

このふたりは親子なわけだが、いっしょにいることはあまりない。ジャックは勇次郎にこだわっているが、勇次郎は「血が薄い」として、ジャックをあまり顧みてこなかったのだ。

ジャックは、身長に機能が追いついたと、むかし光成にいっていたことをそのままいう。勇次郎は、「立ち姿」にそれはあらわれているという。完全とはいえないらしい。ということは、まだ伸びる可能性があるということだ。しかし追いついていると。この反応にジャックは驚いてしまう。九条を殴る父親ばりに、勇次郎はジャックに低評価をくだし続けてきたのだ。読者的にも驚きである。

「立ち合いの位置取り 敵より高きに身を置くこととす」と、勇次郎は宮本武蔵の言葉を引く。といっても、五輪書を通じて知られる歴史上の“あの宮本武蔵”ではなく、彼らがたたかった武蔵だ。オビワンの「I have the high ground」だな。

高ければ有利、なら伸ばす、というジャックの発想を、勇次郎は短絡、安易、無節操と形容する。ジャックは言葉を受け取り、少し落胆したようである。それを嫌いますかと、敬語で問う。だがこれは否定の言葉ではなかった。「出来ることではない」と勇次郎はいうのだ。ジャックの人目を気にしない強さへの渇望には、嘲笑もつきまとうだろう。骨延長には想像もできない激痛もともなう。加えて、知っているのに誰も踏み込まなかった聖地・嚙みつきに踏み入り、技術体系として確立させた。勇次郎はその純度を評価するのだ。初めて誉められて、ジャックは立ち止まり、へんな汗をかくのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

これで勇次郎のお墨付き、ジャックの方向性がまちがってはいなかったということがわかったわけである。

勇次郎からの評価は、これまで書いてきたこと、つまり本部たちによるジャックの評価のこたえあわせでもある。本部たちが指摘した、人目を気にするエエカッコしいの「刃牙らへん」には、勇次郎さえ含まれていた。今回勇次郎はじぶんのことを語ってはいないので、彼の自己評価がどうなのかということはわからないが、できるものではないとすることで、純度という点においてジャックはたしかに類を見ない、「刃牙らへん」を超越した存在であるということを認めたのである。

 

ジャックの強みはカッコつけないことにある。ここでいうカッコ、つまり格好というのは、たんに見た目とか美学的なこととかを超えて、通常の生活が成立するための条件のようなものも含まれている。これは「強さ」に限らないだろう。なにか追っている夢のようなものがあるとして、家族を捨て、生活を捨て、そのことによって生じる社会的立場の損失も気にせず、人生の全時間をそこに費やす、そんな生きかたができたら、じぶんだって××ができるかもしれない、ということを考えたことのないひとはいないだろう。ぼくは若いころピアノにかんしてはそういうことをおもっていた。学校なんかなければ、家族なんていなければ(でも住むところと食べるものは自然に生じてほしい)、睡眠なんて不要な肉体であれば、もっとピアノ上手くなるのにと、そういうふうに毎日考えていた。しかし、ふつうのひとは、ピアノのために将来を棒に振らないし、家族を捨てないし、眠いから眠るのである。ジャックにとっての格好とはそういうはなしだ。必要ならそれをやる。そのことによって生じる不都合すべてを無視する。じぶんの立場に引き寄せて考えてみればよくわかることだが、まさしく勇次郎がいうように、「出来ることではない」のである。

 

これが勇次郎にとってもそうだったというのが今回のポイントで、勇次郎にかんしては、その必要がなかったという可能性はある。彼にも生活のこだわりのようなものはあるだろう。「人目」を気にする生きかたはしてこなかったとしても、たとえば、ふるまいにかんする美学のようなものは感じ取れる。古めかしい言葉遣いや、特に親子喧嘩開始前に見えたことだが、スノッブなこだわりを通じて、彼なりのイメージというものがあるらしいということがわかるのだ。勇次郎はそれを捨て去る必要もなくすでに強いからそうしなかったわけだが、強さのためにそれを捨て去れるのかというと、たぶんちょっとためらうのである。つまり、勇次郎がジャックを評価するということは、勇次郎にも「こういうふるまいがカッコイイのだ」という美学が存在していることを示すのである。

 

だが、ではそもそも「カッコイイ」とはなんなのか、という問題がここでは生じる。というのは、勇次郎は世界最強の男、どんなわがままも腕力だけで通す人間だからである。彼を笑う人間などいない。彼の“かっこよさ”を評価できる人間が、この世にはいないのである。しかし、それは言葉や身振りを通じて表面には出てこないというだけのはなしだ。みっともないふるまいについて、「みっともないなあ」と、誰もそれをくちにすることはできなくても、思うのは自由だ。逆に、勇次郎ほどの強者であればこそ、こういう点は気にかかるのかもしれない。誰も彼に本音はもらさない。なにもかも思い通りにできるのに、内心の自由だけは侵すことができない。これはある意味、「なにもかも思い通りにできる」という状況がもたらす背理かもしれない。なんでもおもうがままの強者だからこそ、相手の内心からは遠ざかる。侵す範囲が広ければ広いほど、見えないものが増えていくのである。

そういうわけで、なんでもわがままで通せる彼がなぜカッコつける必要があるのかという点については、まずこのように、地上最強の生物としての延長線上としてとらえることができる。ここでは「強くなる」ということは版図の拡大のようなものととらえることができるだろう。しかし、人間には外面と内面がある。「強さ」は外面までしか捕捉することができない。そして、外面を侵すほどに、内面は隠されてしまう。地上最強の生物として版図を拡大する行為が次に目指すものは、自然その内面ということになる。こうして、彼はごく当たり前のマナーとか、じぶんなりの美学のようなものを身につけていったのである。

 

もうひとつの可能性としては、女性のほうが理解しやすいかもしれないが、たんにその美学をじぶんのために行使しているという可能性である。直観的にはむしろこちらではないかという感じもする。つまり、生を賦活する、モチベーションの源としての美学だ。これはそもそもどこかから評価されることを期待していない。想定していないということではないが、主題ではない。ミニスカートを履くのは、男性の性的興味を期待してのことではなく、たんにそれがかわいいからである。ひとことでいえば、なりたいじぶんになるということだ。勇次郎ほど「他人」がどうでもいい立場であれば、むしろこちらにいきそうな感じがするのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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