今週の九条の大罪/第91審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第91審/至高の検事27

 

 

 

 

ブラックサンダーが釈放された九条を隠しきれない喜びとともに迎える。ブラックサンダーは烏丸が面倒をみていたので、烏丸もセットだ。お祝いに流木と薬師前も呼んでるということだ。そして、この日は母親の命日でもあるらしい。なんか、父親的なものとの確執にばかり目を向けてきたので、九条の母親がどうなっているのかというのは、意外と考えたことなかった。亡くなっていたのか。

 

九条はブラサンといっしょにまず母親の墓参りに向かう。また雨が降っている。第10審、はじめて蔵人が登場した、父親の墓参りでも雨は降っていた。

九条は雨の中、傘もささず、ジョギングのかっこうのまま母親の好きだった花を供え、当時を思い出す。ちょうど、烏丸の父親が殺された事件をやっていたころのような感じがする。まだ司法試験には通っていないっぽい。病室で動けない母親のあたまを、水のいらないシャンプーで洗っているところだ。

九条は、成績が落ちて、また蔵人と比較されて父に叱られたというはなしをする。父の望むような人間にはなれない。しかし誰かの役には立ちたい。いまからは想像もできないが、九条はぼたぼた涙を流していう。母親は、大丈夫だと、誰よりも優しいからというが、そのあとに、蔵人と呼びかける。衰えた母のあたまのなかにも、もう九条はいないのだった。

 

会場は、これは、九条が寝泊りしている事務所の屋上ではなくて、以前薬師前と三人で話していたところだろう。烏丸、流木、薬師前がビールをもってあらわれる。お料理もおいしそう。

流木は、なにはともあれ九条が弁護士のままでいられてよかったという。手助けしようにも、流木は壬生の弁護をしていたので、利益相反となり、動けなかったのだ。ひとえに、これは独立までした烏丸のおかげだ。九条は、中に入ってわかったという。たくさん接見にきて、会いにきてくれる弁護士がどれだけ心強いかを。心機一転、より精進していくことを九条は誓うのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

前回、今回から新章に入るみたいなことが書かれていたけど、それは次回になったようだ。クリスマス発売の4・5合併号か・・・けっこうあとだな・・・。

直近の数回と比べると極端に情報量が少ない回だったが、まあ、こういうワンクッションが必要だったということだろう。

 

九条は、母親との関係においても安らぎを見出すことはなかった。おそらく、あのように泣きつくからには、母親は父の行定のようには、九条に厳しくあたることはなかったものとおもわれる。けれども、おそらく病気のせいで混濁した母親の意識は、「泣きじゃくる息子をなぐさめる」という物語の情景に、蔵人を組み込んでしまうのである。もちろんこれは、成績優秀な蔵人のほうが、母親のなかにおいても存在としては大きかったということなのだろう。しかし同時に、弱り、洞察力を欠いた意識の内側において、母親は「泣きじゃくる息子」を蔵人と判断したということでもある。そもそも、誰かの役に立ちたいという願いのあとに、優しいから大丈夫という反応は、なんだか、かみあっているのかいないのか、よくわからない。優しいから、役に立つことができるということなのかもしれないが、兄弟をとりちがえるほど混濁した意識なのであれば、ここは相手のいうことを反復するようななぐさめかたをしそうなものである。しかも、ここには「いつもありがとう」という言葉まで付け加わっているのだ。というわけでぼくはここに、母親のもとに通い詰めている「誰よりも優しい」蔵人の姿を見るのである。取り違えたというより、「泣きじゃくる息子」の招待として、母親のなかではそれを蔵人とすることがきわめて自然であったということなのだ。

 

墓参りをする九条は雨にぬれ、その彼が思い起こす過去の彼は泣きじゃくっており、対比的である。つまり、この雨は彼の抑圧された感情のあらわれということだ。ここでの雨は、悲しさ・さびしさのようなある特定のこころの働きというよりは、大きく「感情」というようなものとおもわれる。彼が感情を抑圧するのは、ありとあらゆる前提条件をふたしかにするためだ。じっさいには、根底的に彼の感情が機能しているからこそ、弱いものへのまなざしは生き続けているのだが、もっと前の段階、仕事に着手するはじめのときには、感情は不要である。それは、蔵人や嵐山が「悪」であると決めつけるような結論ありきの二元論を呼び込む。これを、九条は回避する。そうでなければ、「手続きを守る」ことはできないからだ。そういう判断をくだす「感情」は、父や母の墓においてきたのである。しかし、行き場を失った心的エネルギーは発露の場所を探し出す。それが、作品としては雨になっているということなのだろう。

 

 

さて、最長となった「至高の検事」もこれでおしまいということであるが、けっきょく至高の検事とはなにを指していたのだろう。いままでスルーしてきたが、じつは単行本では副題が変わっていて、最初の9話が「検事の権限」、そのあとが「暴力の連鎖」となっている。おそらく、「至高の検事」としては、兄の蔵人、ないし父の行定が描かれる予定だったのだろう。だが、そうはならなくなり、単行本ではこのように方針が変更されたのだ。本誌では、「至高の検事」としてはじまってしまっていることは変えられないので、最後まで突っ走った、ということだろう。だがそんな野暮なことをいっていてもつまらないので、もう少し考えてみる。とはいえ、それが蔵人を指すものではないようである、ということはまちがいないだろう。けっきょく蔵人は事件にも九条にも直接かかわらなかった。「至高」かどうか判定する現場にそもそもいないのだ。ではそれがなにを意味するのかというと、若い烏丸や、もちろん蔵人らのスタンスの先にどうしても想定されることになる「絶対法」のようなものとおもわれる。

 

蔵人の世界観においては、「悪」は常に指定可能である。しかし九条ではそうではない。ただ法律とそれを遵守するための手続きに基づいた結果があるだけであり、悪もなにもない。これは、悪法をめぐる九条と烏丸の対立にもあらわれる。烏丸は、悪法は変えなければならないとする立場だ。しかし九条は、悪法もなにもない、ただかいくぐるとする。つまり九条は、法律そのものの意味内容を重視しない。もちろんなんでもいいということではないが、一定水準以上の条件を満たした法律なら、とにかく機能していればよい。そして、それだけなのだ。だが烏丸は制度とたたかわなければならないとする。このとき、法を「悪」と判定するものはなんなのだろう。そして制度とたたかって悪法を改正できたとして、それはいったいどういうものになるのだろうか。かくして烏丸のスタンスは、到達できるかどうかは別問題として、自然と「完全無欠の、瑕疵のない絶対法」を要請するのである。どんな事件も完璧に中立的かつ理論整合的に裁定できるシステムがもし存在するなら、そこにはもはや裁判は必要ない。ただ、インプットと同時に出現するアウトプットを述べあげるものがいればよいだけなのだ。検事という仕事にもし「至高」があるとすれば、それはおそらくそういうものになるだろう。そこでは弁護士も不要である。絶対法においては、守られるべき権利は自然と守られることになる。悪は裁かれ、世界には正義が漲る。しかしもちろん、こんなものは幻想である。目指すのはいっこうにかまわない、というか人類のミッションといってもいいくらいのことかもしれないが、現実的にはまぼろしなのである。

 

法が、言葉が全世界を説明しきるとする蔵人的立場は、こういうものを想定しなければためらいなく動くことはできない。もし、法、つまり言葉が全世界を説明“しきれない”のだとすれば、見落としがあるということになる。検事であるわたくしが、裁判官が、法が、見ることのできないものがこの世にあるということを認めることになる。世界は法の述べるかたちをしていない。世界のほうで、法になじむように歪んでくれるということもないのだ。これが九条のいう、蔵人には見えないというものの正体である。といっても、九条にもそれが見えているということではない。九条はただ、「見えないものがあるかもしれない」と、どのようなふるまいの前にも一拍保留の時間をおくようにしているだけなのだ。しかしそのちがいは大きいだろう。そしてそれは、感情を雨にうつすことでようやく可能になるのである。

 

 

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