今週の九条の大罪/第10審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第10審/家族の距離②

 

 

 

 

年明け初九条感想です。

 

前回は九条の背景がいろいろとわかる回だった。九条は離婚していて、莉乃という5歳の娘がいる。今日は娘の誕生日だが、同時に父の誕生日でもある。父は鞍馬という名で、実は九条の名字もほんとうは鞍馬、現在は別れた嫁の名字を使っているということである。鞍馬(父)には流木(ながらぎ)と山城という同期がおり、流木を九条は「師匠」と呼ぶ。大学院で教わったとかそういうことだろうか。流木は人権派で、ひとことでいえば弱者側に立つ理念の弁護士だが、融通はきかないっぽい。だが九条は「師匠」であるという。山城はそれとは正反対に俗物であり、徹底して「どうやってもうけるか」にこだわっている人物だが、九条は彼の事務所で3年修業を積んだのち、いまから5年前に独立したのだ。

 

前回、九条はジョギングに出かけ、その足でどこかの家族の家を見ているようだった(ふつうに考えると莉乃の家だろうが、そうともいえないということは前回書いた)。ジョギングはそれで終わりではなく、九条はそのまま父の墓参りに向かったのである。

そこへ、非常に精悍な印象の、威風堂々といった出で立ちの男が現れ、「勘当された人間が何をしてる」と、いきなり威圧的に話し始める。九条の兄・鞍馬蔵人なのだ。検事ということである。雨が降っているので、蔵人はもちろん傘をさしているのだが、テント生活でテレビもない九条はおそらく天気予報なんかまめに見ないだろうし、もちろん運動のままのかっこうで、フードだけかぶっている。そのふたりが向き合っている場面は印象的だ。

蔵人は攻撃的だが、九条ももちろん相手にするつもりはなく、さっさと去ろうとする。だが、蔵人は、墓が汚れるから、九条が挿した花を持って帰れという。九条は言うことをききつつ、高圧的な口調が父親そっくりだという。それを蔵人は、「お前がだらしないからだ」という。これは、どういう意味だろう。九条がだらしないと、なぜ父親にそっくりになってしまうのだろうか。

学生時代遊び呆けた九条は、司法試験に5回も落ちたのだという。どうもその時点で兄からすれば「馬鹿」という感じみたいだが、それが弁護士事務所を開いて、ロクでもない客ばかりとっている。そういう噂は兄のもとにも届いており、「鞍馬家の恥さらしだ」とまで彼はいう。九条が「九条」と名乗る理由のひとつは、少なくともこれなのだろう。とはいえ、たとえば流木、山城はみんな九条がなにものか知っているし、業界では共有されている事実だろう。いってみればポーズにすぎない、そう意味のあることでもない。しかし、だとすればどうすればいいというのだろう。兄の気に入らないポイントは、第一には司法試験に落ちまくった「馬鹿」ということのようだが、どうもことばの感じでは、独立して事務所を開いたことも問題のようだ。そのまま山城のところにいて、事務所の機能として存在を消していればよかったのだろうか。どこかに所属した弁護士と、独立した弁護士の業績がどのように比較され、評価されるのか、業界のものしかわからないことなので、なんともいえないが、やはり「じぶんの事務所」を開くとなると、依頼人やこなしている事件の質など、いろいろな点で、その人物に属する情報として加味されたとしても不思議はないだろう。兄としては、馬鹿が勝手に独立して好きなことをやって名前を汚している、という感覚なのだ。しかしながらそのいっぽうで、弁護士の姿の両極端といってもいい流木も山城も、九条の評価は高いようだったというのが興味深い。流木と山城は一種の象徴で、どちらかのスタイルをとることはどちらかのスタイルを捨てることを、ほぼ意味していると考えられる。弱者の救済を最優先させた先に大金はないし、大金を優先させた先に貧乏な弱者の救済はないのだ。その両方から評価されているというのは、ふつうでは考えられないわけである。どう考えても九条は「馬鹿」ではないのだ。

 

 

 

 

「あなたには見えなくて

 

私には見えているものがある」

 

 

 

九条は去りつつそういう。蔵人はそれがなんなのか問うが、九条は自分で考えろと、もう応えない。それを、蔵人は「逃げ」だという。自分を説得できないからだと。法律家らしいリアクションだ。だが、九条は話す気にならないのだった。

 

 

金本の死体の回収現場だ。あのはなしの終わりかたからして、いつものウシジマくんのエピソード終わりを考えると不思議な感じだが、はなしは連続しているようである。

ひとりの捜査官が新人に体温計を預けている。これを死体の尻につっこんで死亡時刻を予測できるそうだ。引き抜いたそれがポッキーみたいなので、以後ポッキーが食べられなくなるという。

ポッキーはどうだったかわからないが、ふたりが金本を取り調べていたベテランの風格の嵐山と焼肉にきている。豚足を見ていて、新人は金本の水死体を思い出したそうだ。嵐山もホルモンが食べれなくなった時期があった。中華店で発狂したものが店員3人を切り殺して、その後電車に飛び込んで自殺したのだと。計4体の現場検証をして、散らかった内臓にたくさん触れて、しばらく内臓系がムリになったのである。

新人ではないほうの捜査官は、40代なかばくらいに見えるが、嵐山にタメ口なので、けっこういっているのかもしれない。金本を殺した人間のはなしだ。ふつうに考えると伏見組だが、嵐山はすでに壬生に目をつけている。若いころはよく警察の世話になっていたが、いまは表向き自動車整備工場の社長をしている半グレだ。裏では伏見組とつながり、セキュリティや水商売で稼ぎまくりと。ほかの半グレともめて和解金をせしめ、勢力をのばしている。まるっきりシシックですね。

嵐山は壬生の取り調べもしたらしいが、キレ者の壬生がなにかを残しているはずもない。だが嵐山は、もっと本質的なことに気がついている。九条が気に食わないというのだ。九条のようなふるまいの弁護士は、たぶん珍しくもないのだろうし、ほかのふたりの反応はは、なんというか、鼻で笑う感じだ。気に食わないのは嵐山と同意だが、たんに目障りとか、そんな感じである。だが嵐山は事態を正確に見抜いている。どの点においてか。それは金本である。金本みたいな不良は、まわりに逮捕されたものがたくさんおり、半端に法律を知っているぶん、べらべらしゃべってボロが出る。それを、20日間黙らせて釈放させたのが九条なのである。相当な腕前であり、いずれ厄介な存在になると、嵐山はいうのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

実にベテランらしい着眼点である。「金本を20日間黙らせる」ことの難しさに気づけるというのは、じっさいに弁護士として活動していたのならともかく、客観的には意外と気がつけないところだろう。少なくともぼくは読んでいてもスルーしてしまった。よくもわるくもベテランにばっかり評価されてておもしろい。

 

 

九条の兄は蔵人という名前で、検事であるという。流木・山城が弁護士としては対極で、そのあわいにいる九条とはまったく異なる人物だ。彼は見た目からしていかにも厳格であり、頑固そうでもある。雨のなかのふたりの対比からは、彼が主知主義的に、生や世界を知性でコントロールできるもの、またつかみとれるものと考えている感じが見て取れる。前回、九条がどこかの家を眺める場面まで、雨は降っていない。電話をかけてきた流木は、これは公園なのかな、ともかく野外で孫と遊んでいる。おそらく、天気予報でもせいぜい「雨が降るかも」程度のことで、それほどひとびとの意識にのぼるような事柄ではなかったとおもわれる。蔵人は、そのわずかな降水確率に備えて傘を用意したか、あるいはもう車にずっと傘を置いてあったわけである。それじたいはどうということでもないが、九条のなりと比較されるとき、九条の即興的な雰囲気も含めて、両者のありようが際立つわけである。「蔵人」も平城京や平安京のころからあることばで、ウィキペディアにもなにやらいろいろと書かれているが、天皇の秘書的なポジションで、事務を行っていたそうである。文書の管理や訴訟も取り扱っていたこともあるようだ。まさに彼らしい名前ということになる。

 

前回、なんとなくということではあるが、莉乃の誕生と九条の事務所開設、そして父の死は、ぜんぶ同じ5年前のような気がする、ということを書いた。もしそうだとすると、父の鞍馬は九条の5浪を知っていることになる。蔵人はもちろん九条より年上であるし、浪人を馬鹿にするくらいなのだから、そのころには弁護士になっていたはずだ。山城や流木のような、スタイルは異なっても巨大な存在であるものと同期の偉大なる父、そしてそれを継ぐ自分という優れた存在、こういうイメージに、九条は傷をつける。名前が傷つくことがそこまでの重要になるためには、社会規範的にそうであるという時代背景を除くと、そこに自己同一性を見出している必要がある。つまり、父から自分へと受け継がれる鞍馬の血統のようなものを強く意識し、げんにそれをじぶんが体現している、というような順路で自己認識をしているときに、九条の不出来が気にかかるのである。ほんらいであれば九条がほんとうにたんなる馬鹿だったのだとしても、蔵人の評価には関係のないことだろう。そうならないのは、彼が「鞍馬」にナルシシスティックな愛着をもっているからだ。彼自身は、こういう口ぶりでもあることだし、おそらくそうとう優秀なのだろう。だが、彼はそこへのプライドよりも、父から引き継いだ「鞍馬」という名前に誇りをもっている。ここには弁護士業界的な「あるある」のようなものもひょっとしたらあるのかもしれないが、なぜだか、彼は、彼の価値を、自己同一性のみなもとを、「鞍馬」に求めている。だから、九条の存在は、彼に不安をもたらすことになる。もし九条が「馬鹿」なら、それは「鞍馬」が不完全であることを示すからだ。去年の終わり頃に読んだエーリッヒ・フロムの『悪について』では、ヒトラーなどにみられる、極端に肥大化したナルシシズムは、自己の外部にある異物を弾き、抹消しようと働くことになる。九条が「存在していない」のであれば、「鞍馬」を揺さぶるものもなくなるのだ。

 

その兄に、九条は印象的ななぞなぞのようなことばを刺す。「あなたには見えなくて私には見えてるものがある」だ。これは、どこか『星の王子さま』の「大切なものほど目に見えない」を思い起こさせる。

 

 

 

 

 

リンク先の書評にくわしいが、『星の王子さま』は「見えかたの相違」の物語である。有名なうわばみの絵もそうだが、大人が正しいと思い込んでいる正当な、論理的な世界認識が構造的に見落としてしまうものを描いた作品なのだ。人間の状態は「生きている」と「死んでいる」に分けることができる。したがって、「生きていない」ものは「死んでいる」ものである。論理的にはそうなる。王子が生きているのは、このあいだの空間である。といってもそれは、「生」と「死」のあいだに線をひいて、別の、認識しがたい空間が現れる、ということなのではない。その線引きこそが、ロゴスであり、大人の論理の感覚なのだった。

ひとが大人になるということは、世界を細分化していく言語の習得に長けていくということでもある。海のように連続して一体にある「世界」を、わたしたちは不快とともに線で区切っていく経験を重ねていく。その際、わたしたちはある種の矯正を必ず経由することになる。それは、よく似たふたつの現象をあらわすふたつの語において、そのどちらともいえないようなものを、どちらかに分類するという経験においてである。そしてこれは、その「どちらともいえないようなもの」に限ったはなしではない。すべてのあらゆる認識において、わたしたちは一種の妥協やあきらめを通過しているのだ。このとき見落とされる事物の唯一無二性が、王子のいう「大切なこと」だというのがぼくの考えである。

言葉はソシュール的には面積のようなものであり、大人の完成としては数量にほかならない。このとき意図的に見落とされるもの、便宜上「なかったこと」にされるもの、これが、兄の蔵人に見えないものであると考えられる。これは、烏丸とのやりとりで「どちらの味方なのか」と問われたあの場面とも響きあうものだ。九条は、善と悪の対立のような二元論で見落とされるものを拾う。そのときに行動原理となるものが、法律である。しかし、法律こそがまさしく言葉の、ロゴスの領域であり、無数の見落としによって世界を合理化するものでもあるだろう。だからこそ、蔵人のような男には半端者にみえる。

 

セロニアス・モンクというピアニストは、合理的な平均律に支配された音楽理論から抜け出すために、「シ」と「ド」のようなとなりあった鍵盤を同時に叩くことで、独自の音楽空間を作り出した。「シ」と「ド」のあいだにももちろん音は存在するが、ピアノの音階に拘束され、そこを出発点に音楽を学ぶ現代人には知覚することも難しい。これは、じっさいに「シ」と「ド」のあいだにある音を弾こうとしたというより、そうしたしばりから抜け出そうとした、というふうに見たほうがよいかもしれない。九条のありようはそういうものだ。バイオリンのように、フレットのない弦楽器であれば、左手をすべらせていけば、音がなめらかに繋がって高くなったり低くなったりしていく。九条は、その瞬間にわずかに響く、しかし西洋音楽理論のもとでは聴き取ることもできないであろう「シ」と「ド」のあいだにある音を拾うのである。

 

 

 

こうして九条の評価が見えてくるなかに、警察の目線もあるというのは非常にわくわくしてくる展開だ。嵐山も、地味だがいいキャラクターになりそうである。気にかかるのは「いずれ厄介な存在になる」というぶぶんである。つまり、九条を評価するひとりである嵐山にとっても、九条はまだ予感的な存在であり、未完成なのである。とすれば、彼の完成体というものが、想像的には存在することになる。それはどのような姿になるのだろうか。彼は、たんに「落としどころ」を見つけるのがうまい弁護士、というだけではないということなのだろうか。大人がロゴスで支配する世界に、いくら星の王子さまが金言を落としていっても、それが覆るということはないだろう。つまり、蔵人にとっての九条の悪評は、九条が彼の見ている(そして兄が見落としている)ものを見ている限りで、変わることがない。ではいったい、どのぶぶんにおいて、彼は「完成」するのだろうか。どこか壬生にかんしても、たとえばウシジマくんで戌亥がヤクザについて語るような感じではない、というところも気になる。なにか、壬生も現在進行形で成長しているような言い方なのである。ポイントは、嵐山が九条の実力を見抜いた金本の件だろう。なぜ金本が20日間完全黙秘したかというと、それは、九条が流木の教えどおりに金本とよくコミュニケーションをとったからである。その先に、なにかいまは想像もできないような九条の姿があるのかもしれない。

 

 

 

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