2021年あけましておめでとう | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

とはいえ、コロナのせいか、年があけたという感覚はいつもより弱く、昨日と地続きの感じが否めない。大人になってからは忘年会とかほとんどない人生だったので、そういう理由でもないが、いつも通り起きるなり洗濯をして、語学をやって、つまりルーティンをこなしていて、「あれ、これいつも通りの休みじゃん」となったわけである。しかし元日だけ休みなのもここ12,3年は変わらないことなので、なぜだかはよくわからない。かつては年が明けた際の「やっかいなことは去年においてきた」というような現金さが好きだった。これはさくらももこが最初期の短篇で描いていた景色である。無宗教といっていい日本人があれほど初詣に行きたがるのも(ぼくは行ったことないけど)、根本的には同じことかとおもわれる。それは、儀式的なものへの信頼である。動作が、目的意識の結果として出てくるのではなく、まず決まったことをしてしまうことによって、現実を引き寄せるのである。おもえばぼくの語学や筋トレのルーティンも似たような感覚である。年越しのイベント、大掃除や、関係者への決まった挨拶や、新年をカウントダウンすることなど、これらは、ふつうにくちにされる意味での「ルーティン」なのではないだろうか。格闘技イベントや「笑ってはいけない」は近頃の年越しのともがらとなって久しいが、考えてみれば「格闘技」や「お笑い」と年越しとは、なんの関係もないはずである。関係があるとすれば、「くりかえされているということ」以外にないのだ。だから、これらは続けていくことに儀式的な意味がある。とすると、年越しの感覚が薄れているのは、ぼくじしんがぼくの決めたルーティンに強く依存しているということでもあるのかもしれない。

 

さて、今年の目標だが、まあじつをいうと、こういう目標というのは、この記事を書いているときだけあらわれているもので、実情は毎日のその鍛錬的なものをくりかえしていくだけである。なのでそんなに深い意味はないのだが、この行為もまた「ルーティン」であるのだから、いつも通り書いていく。

 

まず筋トレに関しては、片手プッシュアップを完成させる。去年なかばまでは膝をついた状態での片手プッシュアップを行っていたが、これが30回できるようになったところで、通常のプッシュアップの体勢と同じように、つまさきをつけた体勢に移ることになった。まだ深さとしてはハーフプッシュアップといったところであって、完成には程遠いが、ようやくゴールが見えつつあるわけである。プリズナートレーニングの本では、片手プッシュアップ100回がプッシュアップの最終段階だったはずだ。もちろん、ゆっくり深く行う、プリズナートレーニングの方法に則ったうえでのはなしだ。そこまでいくにはたぶんあと2、3年は必要だろう。とりあえず、正しいフォームで、1レップ5秒、胸が地面に接するほど深く沈んで、10回できれば、達成と考えてよいのではないかとおもう。というのは、ぼくの目標はプランシェだからである。言葉で説明してもうまく伝わらないとおもうので、動画サイトなどで検索していただければとおもうが、プッシュアップの体勢(より実際には手が脚のほうに置かれることになるが)から脚をうかせたものだ。よければそこからプッシュアップである。両手プッシュアップで胸に加えることのできる負荷には限度があり、その最高のものがプランシェということになる。そこにいくまでの長い道のりということになるが、腕立て伏せを極めるだけではたぶんまだ足りない。体幹もだし、最近は熱心に行っていないハンドスタンドも進めて、肩も強化していかなければならない。片手プッシュアップ10回に到達したら、プッシュアップは引き続き進化させつつ、そちらの開発にすすもうかという計画である。まあ、計画しているだけで、できる気はぜんぜんしていないが・・・。

技術的には、プランシェではうつぶせになったときの腹のあたりに手を置くことになるので、そこに手をおいて行う「擬似プランシェプッシュアップ」も取り入れてはいる。手の向きはやりやすいように、指先が頭のほうでも、横でも、あるいは脚側に向いていてもいい。ぼくはまだこれも決められずにいるので、結果として3セット指の向きはぜんぶばらばらにしている。まず1セット目はたいがい指先を頭のほうに向けて、反動もつかいつつさくさく30~40回行う。2セット目は指を横に向けて(もしくはプッシュアップバーを使う)最初の10~15回は右足を、次の10~15回は左足を水平に保持、というようなことをやる(回数は適宜決める)。3セット目は脚を椅子に乗せて、ボトムポジションで前方にじゃっかん伸びるような動作を加えながら、ゆっくり深く、限界まで行う。とりわけ3セット目はものすごくきついものになるし、肩に不安があるときはやめたほうがいいが、たぶんこれで技術的には身についていくのではと考えている。また、動作としてはフロントレイズとほぼ同一なので、こちらも開発していくとよいが、ぼくのダンベルは最大10キロなので、それほどの進歩は期待できないかもしれない。いや、10キロでフロントレイズってふつうにきついんだけど、これできつかったら体重が上がるわけないよな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書にかんしては、引き続きフェミニズム研究を行い、そろそろ持論を完成させたくもあるので、この2年くらいずっといってる魯迅とプラトンの研究も進めたい。魯迅にかんしては去年少し読んだので、これは魯迅を研究したいというより、「魯迅を通して研究しようと考えていることをさらに進めたい」というようなことである。魯迅は、「システムに依存しつつシステムについて言及する」という、ひょっとすると中国の作家がみんなとらわれているかもしれないありようを作品に具現しているのである。プラトンは実は途中でどっかいっちゃったりして挫折したやつがけっこう手元にあるんですよね。でも読みきれたものってあんまりないかも。これを、バフチン経由で読み解いていく。つまり、ソクラテスの対話を「モノローグ」ととらえるのである。そうすれば、背理法的に対話のなんたるかが浮かび上がるのではないか、というような直感だ。なんもかんも直感でやってきたので、ぼくはこれを信頼しているが、われながら適当に生きているとおもう。でも、なにしろプラトンであるのだから、読んで無意味ということがあるはずもない。

『九条の大罪』もあるし、法律についてもやっていかなければならない。ほんとうのことをいうと、ぼくは原則作品内情報だけで作品を読んでいくので(作品外から、たとえばフロイトなどを持ち込むのは読解の方法においてである)情報そのものを読み換えてしまうためには知識を用いないが、知っていていけないということはないし、見えかたもちがってくるはずである。また、法律の世界というのは非常に独特の思考法を必要とする。ひとつ、ごくかんたんな新書でも読んでもらえればわかることだが、言葉遣いひとつとっても、ふつうに生きていたらおもいもしないようなある種の見取り図を通して、法学者や実務家は世界を見ているのだ。これが、作品というより九条のような人物解読におそらく必要になる。個人的に法律の勉強はずっと続けている。まず憲法学がおもしろすぎる。ぼくはどなたにも知的興奮を約束するものとして長谷部恭男や『近代立憲主義と他者』をおすすめする。そして、自衛こみで、法務のものがやるような勉強、要するに民法や会社法、労働法の勉強も、やってきた。ぼくはなぜだかはなしが実務になるととたんに理解が困難になるところがあり、民法には苦戦しているが、それでもとりあえずやってはいる。あと幸いにも判例を読むのがおもしろいということもある。ここに、さらに民事訴訟法、刑事訴訟法も加えようかというところである。これらは手続法とよばれ、犯罪やトラブルが発生したときにどういう手順でことが運ばれていくのか、じっさいにどういうふうに裁判が行われるのか定めたものだ。概要をみただけでまさしくぼくの苦手とするところだが、たぶんこれは「九条」を読むうえでやっておいたほうがよいという考えである。

 

 

あと最近はNHKラジオをよく聴いているのだが、そこから派生する読書もしていきたい気持ちがある。アプリを使えば聴き逃しも聴けるので(というか、聴き逃しのものしかぼくは聴いていない)「文学の世界」や「宗教の時間」などを愛聴している。そう難しいことをやるわけではないので、洗濯干したりしながらでも聴けるし、おすすめですよ。

 

 

という感じで、がんばっていきます。今年もどうぞひまつぶしにおつきあいください。

 

 

 

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