すっぴんマスター2020‐いろいろあった | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

ようやくいつもの自己満記事を更新し終わって、ひと安心である。

 

 

今年は、なにをやっても、なにについて語ろうとしても、コロナがついてまわる1年だった。これはどなたもそうだったはずだ。ここまで、全人類レベルで同じ物語が共有されたことがあったろうか。世界大戦くらいかもしれない。その世界大戦にしても、参戦していない国はあるわけだし、その国に影響があるのは、貿易を通じた交換の体系が国の中枢と結びついていてこそだったはずだ。現在のグローバル化社会、国際人を超えて地球人であることが求められるこの時代、これこそが、ある意味では「ウイルス」の増殖をどこまでも許した、というようなことがいえそうである。結果としては門戸を閉ざす鎖国のような姿勢や、民主的な政体ほど時間がかかる指揮系統という現実を前に礼賛される独裁的な指導者など、時代を逆行しているかのような現象もかなり見られた。人類のたゆまぬ善の探究の、そのある種の見落としが、こういうかたちで浮かび上がるとは、皮肉なものである。誰も経験したことのない道ではあるけれど、どうすればこの現実の前に善が可能か、ありとあらゆる分野で、問われているのだ。政治とか教育とか芸術とかだけではない。ぼくみたいな、ただ書店員のかっこうをしてレジを打っているようなものにおいても、それは変わらなかった。今年は、がんばらなかった人類はひとりも存在しないといっていいだろう。よくがんばったよなオレタチ・・・。

 

自由を得た市民たちが、なぜか積極的に、主体的に自由を放棄する、こういう状況を、エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で描き出した(らしい。未読)。いまこういう状況になってみると、じぶんや身内の安全を守るという限りにおいて、そういう心理はわからなくもないわけである。極端なはなし、それをつきつめると、じぶんさえ生きのびれば、かわりにほかのどうでもいい連中が全員死んでしまったとしてもいいわけだ。しかしそれは知性の放棄でもあった。自由は、知性とともにある。知性とは、「わからないもの」に敬意を払う態度のことだ。この視点では、そもそも「どうでもいい連中」なんて存在しないはずなのだ。

 

そういうわけで、3月頃からいくつか読書を推奨する記事や、メタ認知の考察を書いた。あれは5月くらいだったけ、緊急事態宣言が出たときに、周辺店舗がすべて閉店し、考えられないくらいの猛烈な忙しさに見舞われたこともあって、ぼくじしんひどく疲れており、自分自身に言い聞かせるつもりもあって書いた記事もある。ちょっと多いけど、どれもまだ有効だとおもうので、ぜんぶ貼っておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書にかんしては、ステイホームが始まって創造的営為がすべて遮断されていた状況で、唯一可能であり、しかももっとも「知性」的な行動としてぼくはとらえた。いまできる最善は「本をたくさん読むこと」、それしかないと。『音楽の危機』という本に書かれていたことだが、ウイルスがはばんだ人間的営みのほとんどは、人類学的に価値のあるものごとだった。芸術表現だけではない、スポーツ観戦や競馬などのギャンブル、お酒の接客や性風俗まで、禁止された「ひととひとが集まる状況」はすべて、わたしたちが他者と接触し、回復し、学び、霊的に活性化されるものだったのだ。ギャンブルや風俗がどうして?とおもわれるかもしれないが、お祭りと賭け事や性が不可分であることを想像してみればよいだろう。むしろそれらは、霊的交通という意味では典型なのだ。

じっさいにスポーツ観戦が日常であるようなひとからすればわかりやすいダメージもあっただろうが、ぼくみたいな家で漫画読んだりゲームしたりが人生のベストみたいな人間であっても、もし愛するひとといっさい接触が禁止されたらとおもうと、ゾッとするわけである。「知性」的であること、ここでは、わからないもの、つまり「他者」に敬意を払うこと、これは、ただ志向されるモデルなのではなく、現実にわたしたちをわたしたちたらしめているものなのだ。つまり、それが失われるということは、わたしたちがじぶんを見失うということにほかならなかったわけである。不思議なことだ。人類は、他者を見失うとき、自己も見失うのだ。

 

いまの感じでは、来年コロナがおさまっているとはとてもおもえないが、いま気になっていることは、「経済をまわす」というワーディングである。よく「地球がたいへんなことになっている」ということで環境保全活動をしている大学生などを馬鹿にする向きを見かけるが、なんというか、それと語りの高さ的には同程度であるのに、なぜかこうした言説が、「大人」のものとして受け取られている風潮である。もちろん、他者を受け容れた「社会人」の発想の果てには、こういうものが当然出てくるだろう。大人はそうでなくてはいけない。しかし、それはスポンティニアスな動機になるようなものなのだろうか。「ならない」ということではなく、その感じがいまいちよくわからないということだ。たとえば、いま感染者増加を受けて店が閉店するようなことになると、ぼくなんかはあつかいはアルバイトかパートか、わからないけどそんな感じなので、リアルに明日の生活に困ることになる。それの量的拡大が「経済をまわす」という動機になるのかもしれない。じっさい、この様子をみていると、コロナが根絶されるようなことはしばらくないのではないか、というような気もしてくるし、そうすると、一時期いわれていたように、コロナありきの生活、共生というような考えかたも出てくるわけである。「経済をまわす」はその初期衝動になりうる。それはわかる。しかし、それが動機として、じぶんのなかから自発的に出てくるような感じが、ちょっとないのである。たんにぼくが「社会人」として未熟だからかもしれないが、どこかこう、自己欺瞞的なものも感じてしまうのだ。それはまあ、「言いよう」ということなのだろう。

これもまあよくいわれていることだが、コロナを根絶することと経済は、対立しないのだ。だから、たとえばほんとうはやましい気持ちを抱えて飲み会に出かけている状況をみずからに覆い隠すために「経済をまわす」が言い訳として用いられることには、違和感を覚えるわけである。大学生がクジラの心配をして運動をするように、わたしたちは仕事を続け、映画館に出かけ、飲み会にいくわけではないだろう。お金が必要だから、見たい映画だから、みんなに会いたくてもう我慢できないから、そうするはずである。そこに大義名分をほどこす必要はあるのだろうかと。

いや、「大人」なのだから、それは時と場合、あるいは便宜的なもの、理由が必要となるときにだけそういうことをくちにする、ということなのかもしれない。「いやどうしてもみんなに会いたくて・・・」という理由では、ダメなのだ。おそらく問題点はそこにこそあるのだろう。

 

 

しかし、そうはいっても、来年もこんな状況が続くのであれば、たとえばぼくでは宝塚歌劇団とか、とても心配になってくる。つまり、「経済をまわさないと」のひとことも言いたくなってくる。世界の様子は以前とはすっかり変わってしまう、これはまちがいないとしても、問題はどう変わるのかだ。『音楽の危機』ではベートーベンの第九がメインになっていたが、たしかに、今後第九が、なんのうしろめたさもなく、全力で、しかも大勢で歌える日が、くるのだろうか。宝塚は大衆演劇を志向したもので、そのためにチケットを安くしようと努力してきた。その結果が大劇場主義だった。いちどの公演にたくさんのお客が入るようにすれば、チケットは安くなる。そして、大劇場公演が導いたのが、オーケストラだった。広いのだから、大きな音量で音楽が響かなくてはならない。宝塚に限らないが、いまある物事の姿がそこに至るまでにたどった過程には、こういうふうにいくつか前提があったのだ。これが、部分的に無効になるのである。どんなにあたまのいいひとでも、ここから先起こることはまったく予想できないだろう。ぼくらができることというのは、できるだけ優しく、それでいてムリをせず、ベストを尽くすだけである。なにがベストか、それを導くために、来年もたくさんの本を読んでいきたい。

今年は、まちがいなくどなたもたいへんなおもいをされたはずだ。1年間ほんとうにお疲れさまでした。来年も、ともにがんばっていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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