緊急事態宣言発出から地球が何回か回ったいま・・・みなさん元気でお過ごしですか。ぼくは現金がほしいです。
引き続き仕事のかたは、お疲れさまです。在宅のかたは読書やゲームや映画鑑賞や自重トレにはげんでおられますか。
ぼくは以前までと変わらない日常です。どういう風が吹いて、どういう理屈で桶屋がもうかっているのかよくわかりませんが、本屋はむしろ忙しくなっています。しかし、外出自粛が出始めるころより、普段来店されていたようなお客さんのことごとくは姿を隠してしまっているので、来店されるのはそうではないひとばかりです。したがいまして、店内は混乱のきわみであります。ま、現状、仕事があるだけで喜ぶべきことなのでしょうが、正直いってこれ以上マスクをしていない謎のひとびとの咳を浴びるような感じの仕事を持続していたくない、という気持ちもあります。あまりにリスキーなわけですね。とはいっても、店があいていれば、こんな条件ですし、お客さんはきちゃいますから、こちら側としては売れるだけ売るよう努力するほかないわけです。気になるのは、会社側が、それなりの葛藤のうえに営業持続を決断したわけではないということです。つまり、あけるかしめるか、選ばなければならないという状況になって、なんらかのおもわくのもとに、営業持続を決定した、ということじゃないんです。信じられないかもしれないですけど、ほんとうにそうなんです。なんにも考えてないんですよ。
とはいえ、これにかんしては同情の余地もあります。なにしろ近代になってから人類が経験したことのないようなパニックなのですから。しばらく前から脳裏にこびりついているイメージで、なんの映画だったのか、それとも漫画や小説だったのか思い出せずもやもやしている場面があります。それは、なにかゾンビとかその手のパニック下において、現実逃避的に、誰か登場人物が「じぶんの手に負える」小さな徒労にこだわっているところを、また別の誰かが哀れみをこめて指摘する場面です。『ミスト』かな?という気もしますが、手元に作品がないので確認できません。どうしようもない災厄に呆然としているところで、ぎりぎり解決できそうな、しかし放っておいてもいいようなどうでもいい問題が起こり、そこにムダなリソースを割いて、結果としては生存を危うくしてしまう、みたいな展開です。誰か「この映画じゃない?」とかあったら教えていただきたいのですが、ともあれ、そういう心理が働いている可能性はあるわけです。コロナウイルスじたいがとてつもない脅威であるうえに、会社は多くの従業員を抱える無責任ではいられない様態です。なにを選択しても不正解のようにおもわれる、そういう状況で、書店では、なにがどう転んだのか、不可思議な好況が訪れてウハウハ状態になっている。おすすめはできませんが、もし機会があったら、この状況でも営業している書店をのぞいてみてください。ものすごい混んでいるはずです。こういうところで、「売上」を手にすることに腐心して、一種の現実逃避をしているのです。業界がもともと追い詰められている、という前提条件もあります。これを奇貨ととらえている向きもあるかもしれませんが、ぼくもそこに多少の理を見出しつつも、同意はできません。けっきょく、そこで手に入る利益はあぶく銭だからです。書店が本質的にもっている利点を活用した結果ではないのです。ビジネスの世界では偶然も手伝った「当たり」の神話もないではないでしょう。思い出せませんが、不況とか戦争とかで誰もなにももっていないときにその会社だけがそれをもっていて、ボンと大きくなった、みたいなはなしはよく聞きます。それはそれで価値あることです。けれども、それが意図的に描かれたシナリオでないとしたら、意味がないわけです。
ともかく、ふだんは売上のことなんか誰も、話題にもせず、どうやって本を売るか、どうすれば売れるようになるかなんて誰も考えず、せっせと入ってきた商品を返品にまわして現金をつくることしか考えていないのに、このタイミングでやたら売上のはなしをしだしているというところに、ぼくは徴候をみるわけです。そういう大義を定めなければ、狂ってしまうような状況が、いまなのかもしれないなあと。だから、「ビジネスチャンスを逃さないしたたかな中小企業」の“ふり”をしているのかもしれないと。ぼくとしては非常に複雑です。
まあ、だとしても、個人的にはやはり休みたいです。バイトちゃんたちはことごとく親からいわれて自主的に仕事を避けており、もともと足りてなかった人員がうちの店の棚のようにスカスカになっていて、もはや物理的に営業不可能じゃないか、という状況になっております。これでは異動のはなしなんてできっこありません(ブログに書いたか覚えていませんが、異動のはなしが出ており、それをまずは直接の上司に話すよう、懇意にしているえらいひとにいわれているのです)。休んだら給料がなくなってしまいますから、生活が苦しくなります。ぼくは1ヶ月以上先のお金の計算ができないダメ人間なので、それもあるとおもいますが、それでも、病気になるわけにもいきませんし、場合によっては命にもかかわる、そういう状況で、我々はナニをしとるのかなと、こうなるのも、しかたないんじゃないかなとおもいます。(あとはまあ、休んでやりたいことが無限にある、という私的な事情も、このおもいを後押ししているとおもいます)
さて、いきなりじぶんのはなしから始まってしまいましたが、今回はみなさんのおはなしです。以前ぼくはおすすめ本を列挙して、他者に敬意を払うしぐさを学んでいこう、という主旨の記事をいくつか書きました。それは、ウイルスというものが必然的に他者とのあいだに割り込むものであり、また、接触を含めてそれを忌避させるものだからです。疑いは拒否を呼び、拒否は糾弾や差別を招く。人文系の畑にいる人間としてこれは見ていられない、こういうことで、ぼくは読書を推奨してきました。その際、書店で買うことを特にはおすすめしなかったのも、以上述べてきたような背景があるからです。読書せよ、ということであって、他人と接触せよ、ということではない。科学的に家にいることが正しいということなのであれば、ひとまずはそうすべきなのです。ですから、物流のかたがたにはあたまが上がりませんが、基本的にはネット注文を推奨します。もちろん、書店員としては非常に複雑であり、きっちりマスクして、短い滞在時間のうちに衝動買いを決め込み、ちょうどほかのお客さんがぜんぜんいないタイミングで買ってくださることがベストオブベストではありますが、そうもいかないのが現状なのです。
そういうことで、依然としてまずは読書をおすすめしますが、特に在宅勤務や、休業、解雇などでこの一ヶ月家にいなければならない、というかたもおられるとおもいます。ひょっとしたら感染して部屋からすら出れないかたもおられるかもしれません。そういうかたに、読書が入力だとしたときの出力、すなわち書きものをおすすめしたい、というのがこの記事の目的です。さらにそのなかでも、まとまった書きものは読書感想文以来したことがない、みたいなかたにおすすめします。書いたことがなければ、「書いているじぶん」を、きっとあなたは知らないからです。
なんのためにそんなことをするかというと、書きもの以上にみずからの知性を耕す方法はないからです。読書が他者的なもの、外部からの種や栄養だとすれば、書きものは、それを受けた自己という土を耕す営みになります。いまほど知性的であることが求められている時代もないとぼくはおもいます。だから、読書と書きものをくりかえして、自己という大地を豊かなものにしていかなければならないのではないかと、まあ以上の表現はぜんぶいまの思いつきですが、こんなふうに考えられるわけです。
これを考えたのは、きっかけとして最近絵を描くようになったということがあります。以前書いたPOPの記事で示したような些細なものではありますが、ともかく、ぼくは最近色鉛筆やクレヨンをためらいなく手に取るようになっている。これは去年までの人生では考えられないことでした。というのは、ぼくはじぶんが絵を描けない人間だと思い込んでいたからです。なぜなのかはわかりません。たぶん、人生のどこかの段階で、描いたものがひどい評価を受けたとか、じぶんよりはるかに絵がうまい子が保育園にいたとか、そんなことでしょう。ともかく、ぼくはそう信じ込んでいた。ところが、じっさいには、まあ上手くはないとしても、「描けない」は間違いだったわけです。こういうことが、文章にかんしてもいえる可能性はあると。別に世界でいちばんうまく文章が書ける必要はありませんし、おもしろいはなしを考えつく必要もありません。書けるなら、書いてもいいですけど。しかし少なくともここでいっていることはそういうはなしではなく、うまいとか、おもしろいとか、そういうことは気にしないで、書いてみたらいいと、こういうことです。語彙が貧弱でも、だから何?ということです。最初の読者がじぶんじしんであることは、どんな書きものにかんしても変わらない事実です。そのうえで耕していけばいいんです。
題材も、なんだっていい。じぶんのこれまでの人生でもいい、印象的な風景でもいいし、今日の日記でもいい。好きな漫画の考察でもいいし、映画の紹介でもいい。転生ものの創作でもよければ、自動書記でもいい。いや自動書記じゃだめか。ともかく、なんでもいい。でも、なんでもいいでは書き始まらないかもしれない。そういうときは、高橋源一郎のひそみにならって、お手本の真似をします。好きな小説やエッセイなどに寄せていくのです。最初の一文を借りて書き始め、最後にその一文を消す、みたいな方法も、高橋源一郎は書いていた気がします。文体を借りれば、その思考法になることもできます。疲れたら、いったん休んで、また書き出します。終わるときはさっとやめます(と、丸谷才一がいっていました)。なんなら、ぼくのブログを真似してもいいです。
媒体にかんしては、ぼくはアメブロとnoteしか知らないのでなんともいえませんが、まあなんでもいいでしょう。ふつうに紙のノートに書いてもいいですけど、公開することを前提に書くと緊張感がぜんぜんちがうので、そして緊張感があると書きものの精度はあがるので(ひとそれぞれかもしれませんが)、基本的にはネットに書くことをおすすめします。もししっかり足場が定まって、もっとたくさんのひとに読んでもらいたいということになったら、この記事のコメント欄を使って告知してもらってもかまいません。アメブロはひょっとしたらコメントに他社のURLを貼り付けることができないかもしれませんが・・・。それなら、ブログタイトルだけ書くとか、まあやりようはあるでしょう。他社ではないアメブロであれば、そこの管理人としてコメントができます。(掲示板をつかってもいいですよ。「書きものをしてみよう」の記事に関連してブログを作りました!とか。PCで見たときのトップページにリンクがあります)
まあこれは最終段階のはなしです。ともかく、なんらかの方法でまとまったものを書いてみてください。書けないと思い込まないこと、うまいとかへたとかおもしろいとか、そういうものさしを、少なくとも最初のうちは持ち込まないこと、これが大事です。
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