コロナパニックに屈しないために、以前書いた5つ(実質6つ)のおすすめ本記事、ご活用いただけているだろうか。
すっぴんマスターおすすめ本
1文芸
2哲学
ぼくがこれを書いたのは、書店員としてではない。たくさん本を読んできたものとしてである。だから、これらの本を書店に出かけて探してきてください、ということではない。どんな方法でもいい。他人の書いた文章を読もう、通常なら触れることのない他者の思考に身をゆだねてみようと、こういうことがこの記事の主旨である。ほんらいであれば、そのためにこそ、書店はある。わたしたちが、それまでの人生で交差することのなかった他者と出会うためには、偶然に頼らなくてはならない。もっとも、じっさいに棚から「おもしろそう」として一冊を選び取るためには直感に頼らなければならず、そして直感には個々の感性が染み付いているので、つきつめるとその出会いは偶然ではない。しかし、そうした衝動買い、「偶然的な出会いをしようとした」という志向性は残る。重要なことはその態度、理解できないものに一定の敬意を払う姿勢である。むろん、敬意を払うといっても、宗教者でもない限り実害をもたらすようなものにかんして及ぶものでもないが、くりかえすように、大切なことはそのように努力をすることである。こちらからはじまる能動的な「検索」からどうしてもスタートするネットでは、これができない。これが実在書店の最後のアドバンテージであるとぼくは考える。
だが、今回にかんしては書店訪問を推奨するものではない。少なくとも、そうしなければならない、という主旨でこの記事を書いたわけではない。書店員としては、来店は喜ばしいことだが、東京都からの自粛要請もあった先週末もふつうに混雑する店内を見ながら、自粛とはいったい・・・となっていたことも否定できない。そりゃ営業してたらお客さんはきちゃうよう、というはなしでもあるので、書店の営業にかんしてはまた別のはなしになるが(具体的にいえば、小売は出版とお客さんのあいだに立つものだから、「売って下さい」と出版が持続し、「欲しいんですけど」とお客さんがくる限り、そうかんたんには営業を中止するわけにはいかないのである)、いま問題としたいのはそこではない。とにもかくにも、わたしたちは本に触れなければならない、ということを、危機的に感じるから、こういう紹介記事を立てたのである。ささやかなものではあるが書店の「棚」のような役割ができれば、ということなのだ。
このことにかんしてもまた、つきつめれば、書店において「直感」が「偶然」ではないように、ある程度の重なりは回避できない。というのは、いまこれを読んでいるあなたは、なんらかの点でわたしと似ているから、このブログに至っているわけである。ウシジマやバキが好きなのかもしれない、チック・コリアのnoteの記事を見て興味をもってくださったのかもしれない。書店員なのかもしれないし自重トレマニアなのかもしれない。いずれにせよ、あなたとわたしは“ある点”では似ており、それゆえに、この記事が読まれるという状況が発生しているのである。そもそも、日本語で書かれている時点で、アクセス解析などみても99パーセントの読者は日本人であることは明らかであるし、それもまた大きな重なりであるといえる。したがって、ぼくの紹介する本が、すでにあなたの内部にあったものと共鳴するという可能性は、「書店の棚」よりはるかに高い。なにしろ、趣味が近いのだから。それではいけない、ということにもなるのだが、くりかえすように、大切なことは志向性である。そうしようと努めていくことである。そののちに、これじゃだめだ、となるのであれば、新しい方法を模索すればよいのだ。ぼくができることとして、あの記事ではなるべく「いろいろな本」を紹介するようにしたつもりだ(特に「その他いろいろ」のやつは、我ながらいろいろ詰め込めたと自負している。文字数オーバーしてしまっていくつか削らなければならなかったのが悔しい)。
とにかく、本を開き、他人の思考法、価値観、世界、肉の感受性に触れて欲しい。なぜそうおもうのかというと、最初の記事にも書いたが、ウイルス蔓延という現況が、不寛容を招くものだからである。
コロナウイルスは、ひとからひとへ、またあいだになにかを介して、広がってゆく。そのためにわたしたちはマスクをし、不要不急の外出を自粛する。他者と接触しないことがなによりのダムになるからだ。しかしそのことが、同時にひとを「理解できないもの」から遠ざける。フロイトでは、乳児は、おもうようにお乳が手に入らないという経験をしたときに、はじめて世界を快/不快に分節する。その以前までは、乳児にとって世界は海のような連続体で、じぶんと他人との区別もない。それが不快を経験することにより、これを外部に追い出し、「じぶんではないもの」の存在を知ることになる。これがぼくの「他者」理解になっている。他者とは、思い通りにならないもの、論理的には追えても、身体を介した追体験的には理解できないものなのだ。ウイルスは、必然的に、「じぶんではないもの」に対して忌避の感覚をもたせる。ここから転じて、ではもっと他人と接触していこう、というはなしではない。ひととの接触を回避しなければならない、ということじたいは自明である。そうではなく、そのことによって生じてくる「他人を避け、理解できないものを拒む」という現象をなんとかしなければと、こういう危機意識をもっているのである。
もちろん、この問題意識は、コロナがはじまるずっと前から、ひとびとの抱えてきたものだ。そのために書店は存在しているという自負もあるし、書きものも続けてきた。しかし、とりわけツイッターでの攻撃的な言説を見ていると、事態は急を要する、というような感想にもなるのである。
ウイルスへの対抗策として他者は遠ざけるべきである。しかし、それと同時に、わたしたちは「理解を絶したもの」も遠ざけてはならない、ということだ。たとえば幽霊がこわいのは、説明できないからである。おそらくいまわたしたちが抱えている不安も、同じ形状のものだろう。不寛容は不寛容を呼び、わからないものを「説明できないもの」としてはじき出して不安を生む。だから、読書を通じてそれらがそれらなりの機能のもとに存在しているということ、またその受容の方法を身につけていこうと、こういうはなしである。志向性や努力に意味を見出すのも、こうした理由からだ。理解できないものを理解せよ、というはなしではないのである。
他者の感性を、論理で、文字の羅列として追うことはできるかもしれない。しかし追体験はできない。こういうところで、本来、既存のロジックの外側から批評を加え、破壊と再生をくりかえしていくのが、芸術である。前衛的なものには限らないし、ほんのささいな、身近な創造物のなかにも、芸術はある。創造される以上、それはそのときまで世界には存在していなかったものであり、したがって、既存の論理構造を揺さぶる可能性を宿している。これを、人類は、呼吸するように行ってきた。創造は、社会や論理が求めるある種の鋳型のなかにおさまりきらなかった、わたくしという人格の余剰物である。だから、つねに芸術は存在してきた。政治的な観念も、人類の理想の姿も、一定のものではないが、それは、こうしたゆさぶりが、わたしたちの内側に発見をもたらすからである。こういうふうにぼくは考えるものであるから、この状況における、ライブイベント等のアート界隈への、ある種の冷淡さには、緊張するものがある。芸術が行われることは人間にとって呼吸するのと変わらない。呼吸には二酸化炭素の排出というデメリットもある。しかしだからといって呼吸を自粛することはないのである。もちろん、念のため付け加えておくが、ここでいっていることはライブイベント等の制限が不当だ、というようなはなしではない。まずなにより優先されるべきは医学的見地からの指示である。そのうえで、わたしたちは、それがもともとどういう意味をもっていて、やれないならやれないでどうしていけばいいのか考えていかなくてはならない、そういうはなしである。
こうしたところで、外に出れない・不寛容が蔓延しつつある、わけなので、読書というのは最善の行動なのではないかとおもわれるわけである。いろいろ書いてきたが、はっきりいってしまえばなにを読んだっていい。ただ、なるべくじぶんから遠いものが望ましい。『方丈記』はどうだろう。『風と共に去りぬ』は?『百年の孤独』は?これを機会に『資本論』に挑戦してみるのもいいかもしれない。そういうことである。外出せずにできて、不寛容解消の一助になり、しかも経済もまわせるという、究極の選択が読書である。
身近な問題として気がかりなのは、不寛容さともつながることだが、自己責任論である。ぼくの認識としては、「自己責任」という語は、みずからを戒めるために用いられる金言であって、他者に求めるものではないので、「自己責任論」というのは矛盾した表現でもある。これもまたコロナ以前からあったことではあるが、感染者がその不注意から叩かれる状況は、ひどいストレスを持ち込むことだろう。ぼくも他人事ではない。だって、こうして、ふつうに店は営業していて、ふつうにお客さんはくるのだから。こんなふうに営業を続けていたら、いつか誰かが感染して、あっという間に全員ダウンして、営業不可能、とかになっても不思議はないのだ。もちろんそれじたいもこわいが、もっとこわいのは、そのことによって「感染源」が責めを負うことだ。そもそも営業していることが悪い、といえばそれまでだ。しかし、国からお金が出るわけでもなく、自粛を求められるだけであるなら、コロナ感染を回避して死ぬわけにもいかないので、ひとは働き続けるだろう。ぼくはまあ、書きものも読みものもおそろしくたまっているので、喜んで休んじゃうだろうけど、noteなどで多少収入があったとしても、そういう生活もせいぜい2、3ヶ月程度が限度であり、お金が出ないなら働かなければならないだろう。だが、このはなしはまた別の問題である。いま意識しておきたいのは、そもそも、病気というのはコントロールしてなったりならなかったりできるものではないということだろう。誰も罹ろうとしてコロナに罹るのではない。なかには厳重に注意を重ねてきたひともいたにちがいない。それでも、ほんの少しの、誰にもありうる気の緩みと偶然が重なって、うつってしまう。営業をするならするで、手洗いマスク等の一連の行動は前提としつつも、感染をありえることとして行動しないと、必ず、感染源となった人物に大きなものを背負わせることになる。いやいや感染を前提として営業するなんておかしいだろ、という意見も当然あるだろうが、これもまた「お金があれば」という前のはなしに循環していくだろう。ぼくがいっているのはそのときに備えて気持ちの準備をしておこう、ということだ。まあ、それはそれで微小だが長いストレス期間をもたらすものかもしれないが。
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