『近代立憲主義と他者』江藤祥平 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『近代立憲主義と他者』江藤祥平 岩波書店

 

 

 

 

 

 

 

 

「「自らの外側にそれ以外の考え方があると知ること、自己の外側に他者をみること、それが憲法の本質である」安保法制以来、かつてない危機にさらされる日本の立憲主義。この危機は一体何に由来するのか。法の世界に“血”“肉体”を招き入れたロバート・カヴァーの憲法論を手がかりに、戦後憲法学があえて視界の外に置いてきた“他者の不在”という難問に正面から向き合う。憲法学・哲学・社会学を横断して展開する、気鋭の研究者による力作論考」Amazon商品説明より

 

 

この2ヶ月くらいはずっとこれを読んでいた。読み終えた、というか、いちおう最後までいったという程度の理解ではあるが・・・。後半がけっこう難しくて、読み終えたあとにネットの書評など参考にしようと調べたが、ほぼ出てこない。個人的にもいろいろ目を開かされたし、管見の及ぶ範囲でということになるが、憲法学的にもかなり画期的な作品ではないかとおもうのだが、専門家以外には知られていないのかもしれない。

特に後半、ハイデガーや現象学、最終的にレヴィナスが出てきたあたりで難解さは極まり、読むスピードがずいぶん落ちてしまったが、それでも、ちょっとずつ読み進めることができたのは、おもしろかったからである。もう、ずっとおもしろかった。『戦後的思考』以来の知的興奮だった。これは、もっと知られていてもいいんじゃないかなあ・・・。

 

まず問題意識からして斬新である。いや、学問的にはひょっとするとトレンドだったりするのかもしれないが、ぼくみたいな素人からすると目からうろこでもあった。ひとことでいえば、これまでほぼ自明とおもわれてきた立憲主義には、「他者」がいなかった、ということになる。ここでいう「他者」がすでにわかりにくいものだが、序論ではかの有名な国旗国歌起立斉唱事件の判決が引かれる。判決は、学校が職務命令として教員に起立を命じることは憲法違反にはならない、とするものだった。この判決じたいにかんしてはいまでも議論があるようだが、これが示したことは「面従腹背」を是とするものだった。つまり、内心ではぜんぜん起立したくなくても、ここでは起立をしてしたがっていればそれでよいではないか、というはなしなのである。これがもし「内心」、つまり腹をしたがわせるような命令の精度であったのなら、それは憲法違反の可能性がある。しかし、少なくともここでの職務命令はただ動作として起立を命じただけであり、国旗国歌に対して敬意を覚えることそれじたいを求めるものではなかったのだ。だがこれは、公私をデジタルに区分けすることで成り立つ近代立憲主義の予定するところだともいう。たとえば「ひとを殺してはいけない」という標語は、通常は道徳の領域のものとなる。法律には、実は「ひとを殺してはいけない」とは書いていないのである。ただ、人を殺すとどうなるかが書いてある、それだけだ。そして、法的には、そして公私を区分することで正しく成り立つとされる近代立憲主義的には、その人物が「人を殺したいと思っているかどうか」は、重要ではない。その兆しを拾って予防するとか、そういうはなしになるとまた別になってくるが、「思う」ことがそのまま罪になることはないのである。

しかし、公と私が截然と分離していることがどうして他者の不在になるのか。これは、言葉をそのままに受け取ればよいことなのかもしれない。ある個人を、「公」と「私」による成立とみなすということが、必然的に他者を見落とす結果を呼ぶのである。かつて河合隼雄は、人間は「心」と「体」にわけて考えることができるが、「心」と「体」を合わせてみても人間にはならない、と書いた。そのとき損なわれるものが「たましい」であると。これは『猫だましい』という著書でとられていた論法である。河合隼雄は、この「たましい」の芸術的現出を「猫」に付託されたものとして、文学作品などを読み解いていた。ここでいう「たましい」は、それじたいを指差して名づけることはできなかった。おそらく同じことが、人間社会にもあてはまる。わたしたちの述語的動作、この世に現出するありようを、「公」と「私」にわけることはできる。げんに、わたしたちはそうしているし、そうすることで社会は安定的に成立している。けれども、逆はないのではないか。

ここで問題となるのが特に日本においていまだ達成されない「公共」と「個人」の安定的な確立である。ラディカルなフェミニズムが理解を得ることなく、事実過度になることがある現状も、おそらくこのことからきているだろう。公私が短絡しているのである。本書を通じてどのように立憲主義に「他者」を呼び込むことができるか、ということは論じられているわけだが、じっさいには、そもそもその「他者」がなんなのかというのが、よくわからないぶぶんもある。それは、ひょっとすると「たましい」のように、それじたいを指差すことができないからなのかもしれない。序論の国旗国歌の事件については、「人格的アイデンティティ」が“他者”を構成要素とするものととらえ、面従腹背を行う際に生じる「腹の痛み」を他者のものとする考え方を導入している。しょっぱなからよくわからなくて躓いたところだが、要は、そのように「起立したくないんだけどなあ」と考える、思想の成立は、他者との連帯のようなものを通じてあらわれたものなのだ、ということのようだ。それは、公私の区分で人間や社会を見ているだけでは、見えてこない。「起立したくないんだけどな」は、「私」の範疇だろう。これをもし「表現の自由」の観点から読み替えれば、命令に背く行動に出ることはできるかもしれない。しかしそれはもはや「私」のふるまいではない。このあたりでも、ぼくはフェミニズムが定着しない現況を思い起こしていた。「アイデンティティ」は、個人の感性や存在を起点とするものではなく、他者とのある種のシンパシーのようなものを通じて成り立つものだという。「私」のなかには本来的に「他者」がいるのである。ところが、それは構造的に見落とされる。これは、「お気持ち」と揶揄されることもある「痛み」の表明が即座に公共レベルに引き上げられていびつなものに変容してしまう現状を説明するものにもなっているのである。事実、「お気持ち」は、気持ちに由来しつつも、アイデンティティの構成要素である「他者(ほかの女性たち)」なしには、そもそも出てこないものなのだ。

 

どうしてこういうことが日本だけに起こるのか。なぜ日本では立憲主義のもと「個人」がなかなか成立しないのか。それは、よくいわれるように、まず神という絶対的他者を経験しているかどうか、というところにあるようである。憲法学者の樋口陽一はこの状況に対して、フランスのシトワイヤンのように、むしろ国家の束縛から自由な客体として立つことで、逆に公共性の豊かな市民が成立する、という考え方を示した。これを「逆接続」という。だが、現実問題、神を知らず、フランス革命もなかった日本人にそれがどのようにして可能か、これが、序論の投げかける問いである。

 

この問いが、どのようにほぐれていくか・・・。序論を読み返しただけで息もたえだえなので、もはやぼくの手に負えるものではない。以後、じっさいの判例や長谷部学批判からはじまり、「ノモス」という鍵概念をとともにロバート・カヴァーを軸にして、微細なサインから証拠をたぐりよせていく名探偵のように、近代立憲主義の本質的問題点がほどかれていく。書いたように、後半のハイデガーが出てきたあたりから難解さは極まっていき、とても理解したとは言い難い状態である。しかしおもしろさは保証するので、はやく誰か本職の法学系のひとに読んでもらって、わかりやすい解説を書いてもらいたいという感じである。「公私」の短絡にかんしてはぼくじしんテーマにしていることなので、深めていきたいが、本書は一個の巨大な作品という感じで、拾い読みがきかないタイプの本なので、あとでもういちど通読しないといけないかもしれない。今回よりは時間かからないだろうし。

 

 

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