■『星の王子さま』サン=テグジュペリ著/管啓次郎訳 角川文庫
「砂漠に不時着した主人公と、彼方の惑星から来た『ちび王子』の物語。人の心をとらえて離さないこの名作は、子供に向けたお伽のように語られてきた。けれど本来サン=テグジュペリの語り口は淡々と、潔い。原文の心を伝えるべく、新たに訳された王子の言葉は、孤独に育った少年そのもの。ちょっと生意気で、それゆえに際立つ純真さが強く深く胸を打つ――。『大切なことって目にはみえない』。感動を、言葉通り、新たにする」裏表紙より
宝塚歌劇団花組の本公演で「サン=テグジュペリ」という、星の王子さまをベースに作者の人生を描くお芝居が行われたために、手に入れた。たいへん有名な小説だけど、はじめて読む。
たぶん、読んでいない僕のほうが例外であって、ほとんどのひとびとが、子供時代に、断片的にでも、絵本やなにかで見たことがあるのではないかとおもう。もちろん、僕も王子の絵は覚えていたし、そういう小説があることも知っていた。だから、ストーリーについては触れなくてよいだろうとおもう。砂漠の真ん中に不時着したパイロット。途方に暮れる彼の前に、幻のように、金髪の少年があらわれて、不思議な質問をくりかえす。パイロットはときに邪魔におもいながらも彼との関係にかけがえのないものを見出していき、やがて、彼のことばの意味を理解する。
ネットなどでよく見られる感想が、子供時代に愛読していたが、大人になってから読んでみると、衝撃的なほど見える姿がちがう、というものである。そういうことは、ふつうの小説や映画、あるいは音楽でさえも、よくあることだ。年をとれば、ひとは誰でもいろいろなひとに出会って世界の新しい相を知っていくし、いろいろな事件に衝突して、みずからのなかにもさまざまな相を発見し、創出していく。見えるものが異なるのは当然のことである。しかし、そういう一般的な意味での見えかたの変化を越えたものが、たぶん星の王子さまにはある。というのは、この小説がまさしくその「見えかたの相違」について書かれた作品だからだ。この記事を書いている現段階で、僕は花組公演を2度観ていて、多少考察をすすめている。だから、お芝居のほうのイメージが小説の読み方に影響しているぶぶんはかなりあるとおもうけど、それを踏まえても、やはり、この小説に流れているものは、お芝居では「大空と大地のあいだ」というふうに表現されていた、大人にとっての失われた世界の姿であり、またそこへの憧憬なのではないかとおもう。それは、端的にいって、きつねのことばを借りれば「誤解のもと(110頁)」であることばが編まれる以前の世界だ。
お芝居に描かれていたところでは、サン=テグジュペリ(サンテックス)もじっさいにリビア砂漠に不時着する。パイロット仲間たちは彼の生還を願いながらも、こころの理性的なぶぶんではどこか絶望している。そういうときに、彼は、幻想的な王子に出会う。パイロットが皮肉っぽく指摘するように大人は数字が大好きだ。彼らは、ある一定のルール、一定の枠組みのなかにものごとを投げ込んで、論理的に世界をとらえている。その論理の枠組みのなかでは、たとえば「生きていないもの」は「死んでいるもの」である。人間の状態には「生きている」と「死んでいる」しかない。すべての人間は必ず、このどちらかの状態にある。このルールのもとで論理的に考えると、「生きていないもの」は「死んでいるもの」であるし、「死んでいないもの」は「生きているもの」なのである。しかし、ではサンテックスはどうだろう。世間は彼の生還をなかば絶望視していた。生きているはずがない、だとすれば、死んでいるにちがいない。大人のロゴスははっきりとそう告げる。
だがそのサンテックスの前に、ロゴス以前の王子があらわれる。これは、「生」と「死」のあいだにもうひとつべつの、名づけうる「状態」があるということではない。人間の状態がじつは三段階である、などというはなしではない。そうしたデジタルな段階そのものが、ことばの、ロゴスの生み出す、「大人」的なものだ。だから、このときの王子とパイロットのやりとりを、「状態」としてことばにすることはじつはできない。夢の世界の住人のような王子との幻想的な世界、そういうふうに、「生」と「死」のあいだにあるひとつの段階のようにして描けば、王子が本質的に抱えている「ことば以前」のものは消え去ってしまう。おそらく、それだから、最初のうち、王子のしつこさにパイロットは苛立ったりする。そして、もしそのまま、パイロットにとっての王子が、そのほかのすべてのものと変わらない、交換可能な量的なもののままであったなら、けっきょくこの物語は「生」と「死」のあいだにあらわれたもうひとつの段階ということで終わっていただろう。パイロットにとって王子が、地球に到着してからきつねに出会うあいだの王子にとっての薔薇のように、交換可能なものとして、「なつく」ことなく別れてしまったとき、たとえば「生と死のあいだ」と呼べるような段階が、ことばとして成立する。普遍的な、誰にも経験可能な、一種の数量になる。けれども、そうはならなかった。それは、物語内物語として、王子と薔薇の関係、また王子のきつね以後の悟りを、わたしたちが「星の王子さま」を読んでパイロットの王子との関係と悟りを知るようにして、パイロットが受け止めるからだ。それは、ほかのものと交換することのできない、無二の関係だった。ことばや数字は、ものごとを一般化して、もっといえば形而上学的に、五千本の薔薇のように、交換可能にする。だから、「無二の関係」は、前言語の世界でしか成立しない。つまり、それは、ことばとして描くことができないし、試みたとしても、書き加えるごとに微妙にずれていくような、そういうものになっていくだろう。われわれは、ことばをつかって世界を整序することで、特別なもののいっさいを見失ってしまっているのだ。だが、重要なことは、書かれてあることそのものではなく、それを読んでわたしたちのなかに生じた気持ちの働きのほうである。大切なことは目にはみえない。ことばにはできない。だが、わたしたちはなにも、ことばそのもののなかに含まれているなにか科学的な要素に反応して心動かされるわけではない。わたしたちは、ことばを経由して、世界やわたしたちじしんのなかに新しいものを発見するのだ。同じことが、パイロットのなかにも起こったのだ。そもそもことばにすべてを託そうとすることが、世界の真実を損なっていく。ことばをつかうのはべつにかまわない。だが、もっとも重要なことは、それを感じるこころのほうなのである。パイロットは物語のなかからことばにできないものを感じ取り、そうして、重要なことをことばのなかに探すことをやめ、すべてのものを換言するロゴスの、大人的な世界観を抜け、無二の関係に気づくことができたのだ。
ことばは、大人の原理は、わたしと他者をつなぐ不可欠の媒体でもある。そもそも、他者との衝突をくりかえし、世界を細かく区切っていくことで、ひとは徐々に大人になっていく。他者はわたしではない。わたしのおもいは決して通じない。だからこそ、無機質で無感動で無欲なルールと論理が必要になる。わたしたちは行き来する貨幣のようなことばを、受け取り、受け渡すその作業のなかに、こころ動かされるものを見出すことができる。しかし、多くのつまらない「大人」は、その表面上の論理それじたいに真実を求めるようになってしまうのだ。
いっぽうで王子においては、薔薇がじつは彼にとってのかけがえのないものだったということを、あとで知る。これは、うがった見方をすれば、つまらないことにこだわる多くの大人たちに出会って、他者としての異物を知ったためであるかもしれない。また地球には、彼の薔薇とまったく同じかたちの薔薇が五千本もあった。そこには、ロゴスによって整序された交換の可能性が満ちている。しかし、その経験を通して、パイロットとは逆に、彼はじぶんの薔薇が世界に一本しかないものであることに気づくのである。そこでは、「おまえなんかいくらでも変えのある、とるにたらない存在なのだ」という言説が生まれうる不安と向き合わなければならないかもしれない。しかしそこに生じた強さのようなもの、責任感のようなものが、もしかすると、死を経由した、王子の薔薇のもとへの帰還ということにあらわれているかもしれない。
僕はこれがはじめての「星の王子さま」になるわけだが、それでも、すでに、読めば読むだけ新しい発見があるんじゃないかという予感がしている。新潮文庫版も買ってあるので、だいぶ飛躍してしまったから今回はこのくらいにして、考えなおしてみようとおもいます。まあ、一晩の考えですむような小説ではぜったいないですね・・・。
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