今週の刃牙らへん/第43話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第43話/腕っぷしだけ



ジャック・ハンマー対花山薫、路上で開始!光成はいない。悔しがるだろうなあ。


開始早々、花山の拳がジャックの顔面にめりこむ。襲いかかるジャックを、ハンドポケットから抜いた手でカウンターで迎えうった感じである。花山は「持って生まれたもの」であり、そのぶんのアドバンテージを相殺するために、たいがい最初は無抵抗に技をもらう。それをせずいきなりカウンターというのはかなり珍しい。花山的に武蔵同様遠慮がいらない相手ということなのだろうか。


すばやく抜拳した感じでもあり、いつもの威力特化なパンチではない。だがあの岩のような拳だ。花山が小柄に見えるほどのジャックの巨体がふっとぶ。だが、ただ攻撃をくらったのではない。ジャックは噛道のマスターなのだ。殴られるなり歯を使ったらしく、花山の拳がぱっくりと割れている。花山が拳から血を出すのは木崎もはじめてみるという。たしかにあんまりないかもなあ。骨折はしてるけど。武蔵戦でも刀が食い込んでたが、ちょっとちがうよな。


ジャックは歯が無事であることをアピールする。ジャック的には、硬い拳と歯の比べ合いでもあるわけだ。しかしこのパンチはまだ花山薫らしさを出し切ったものではない。花山が両手をあげていつものあの構えになる。他人のスタイルにうといジャックも、花山の防御なし攻撃一本スタイルは聞いたことがあったらしい。競技ではない、腕っぷし比べとしての喧嘩のやりかただ。


そうして、からだを捻って繰り出された花山の一撃を、ジャックはまたも顔面にくらうのだった。




つづく



前回と同じような終わりかただ。ジャックは花山の神話的握力を認めた上でこれを噛み砕こうとするもので、だからあのように花山の出血と歯の無事を比較する。わざと食らってるぶぶんもあるのかもしれない。


ジャックが拳を噛み砕く、ということの文脈的な意味は、そこには同時に花山を認めるということが含まれているということにある。今回ジャックが、拳を裂きながら、歯は無事だとアピールしたのは、前に描かれた、花山の握力は花山じしんの拳を潰してしまうという「神話」を受けて、じゃあじぶんはそれを噛み砕く、としたことの流れのなかにある。「つぶれた拳を噛み砕く」という状況は、まず握力で拳が潰れるという状況に至っていなければ成り立たない。つまり、彼が歯でもって花山の拳に勝とうとすることは、同時に花山の「神話」を認めるということでもあるのである。


ジャックは基本的に彼以外のファイターを「エエカッコしい」と相対化する存在としていま現れた。そのニュアンスは、歓声を喜ぶ姿にもみえるように、ジャックじしんに「認められたい」という気持ちがあってこそのものであったから、ある種余裕のない態度で、いくぶん相手の否定を含むものだった。そこへ、花山である。花山は、ファイトの前に噛まずとも飲み込めるレバ刺しを送りつけることで、噛まない、つまりエエカッコしいなありかたもそんなに悪いものではないよと、レバ刺しの旨さを通じてエレガントに伝えたのだ。これは否定ではなく、提案だ。ジャックは、非エエカッコしいを否定されていない。だがエエカッコしいも悪くないと伝えられたことで、否定のニュアンスを大きく削がれたのである。これが、花山の「神話」をいったんは受け止めているいまの意識につながっているのだ。

直前のピクル戦は、ある意味花山戦への準備だったと考えられる。ピクルは、この世で唯一の「ジャック側」のファイター、非エエカッコしいの人物だった。ピクルとはエエカッコしいがいいのか悪いのかというような「文脈」ぬきにたたかうことができる。しかもこれはリベンジマッチだ。いわばピクル戦でジャックはプライドをたしかなものとし、同質のものの存在を通じて自身のありようの客観、また点検もできるようになったはずである。おそらくそれは余裕を生む。孤独は余裕を奪う。ピクルが笑顔で去っていったことには、そういう意味があったのだろう。このおかげで、ジャックは、キザな花山の「提案」を受け入れることができるようになったのだ。



最近の花山は着衣のままかまえることが多いが、もともとあの構えは花山が「花山薫」を殺し切ったあとに、いっさいのためらいが解消されたしるしとして、侠客立ちとともにあらわれるものだった。長くなるのでかいつまんで書くと、花山は「持って生まれたもの」で、そのやましさ、負い目がある。この負い目がすっかりなくなれば、迷いはなくなる。だからたいがいファイト開始時に彼はやたら技をもらう。そうして彼が、彼という原罪を、相手の攻撃を通じて滅ぼし切ったとき、花山薫の純粋体のようなものが露出する。それがパンチそのものと化した純粋行為体としての、あの振りかぶる花山である。ここにはもはや、ふつうの文章、ふつうの論理構造における主語や主体というものがない。述語しかない。花山が殴る、のではない。ただ「殴る」という現象だけが輪郭も明瞭に出現するのである。

そしてこの純粋行為体としての花山と侠客立ちの物語は響きあう。侠客立ちの物語は、“名もなき”博徒が、花山の祖先である少年を、背負った鐘に隠し、襲いくる盗賊から守り、しかも守ったまま死亡するというものだ。博徒には名前がない。誰でもない。ただ、“守る”という「述語」だけが、博徒が死亡し、この世からいなくなったのちまで現象する。見てわかるように、これは花山が自身を滅し、「述語」そのものになる構造と同一なのである。


こうしたわけで、あの両手をあげた構えと侠客立ち、つまり脱衣はほんらいセットだ。しかし、武蔵戦を最後に侠客立ちは描かれていない。大相撲体験でも花山は同じく着衣のまま構えていた。あのときも考えたが、花山はできた人間なので、TPOをわきまえている可能性はある。一般人が見ているところではそうそう入れ墨を見せないのだ。なにしろエエカッコしいだから。無意識かもしれないが、花山なりにファイトの本気度みたいなものがあって、なにがなんでも、死んでも勝つみたいなファイトもあれば、負けるつもりはないがすべてを無視していいというほどではない、というファイトもあるのかもしれない。たとえば武蔵戦は、まさに生死をかけたたたかいだったから、本気も本気で、路上でも最初からふんどしだった。ジャックについてはどこか楽しんでいる感じがある。そういう状況では、花山なりの常識が作用し、脱がずにすますということになるのかもしれない。










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