空庵つれづれ

空庵つれづれ

宗教学と生命倫理を研究する中年大学教師のブログです。



話題は、日々の愚痴から、学問の話、趣味(ピアノ、競馬、グルメ)の話、思い出話、旅行記、



時事漫談、読書評、などなど四方八方に飛びます。

旧ブログ、「ヴァージニア日記」ではお世話になりました。
日本帰国を機に、新ブログをスタートします。
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3年前(2006年)に亡くなった阿部謹也という歴史学者をご存じだろうか。


阿部氏とは一度もお目にかかったことはないが、『ハーメルンの笛吹き男』からはじまって

『中世の窓から』『「世間」とは何か』などの彼の著書はずっと私の愛読書であった。


最近になって、阿部氏の一橋大学時代の師匠にあたる上原專禄という人物が、

現代の生命倫理や死生学の隠れた先駆者であるということを知り、いろいろ調べて

いるのだが、その過程で阿部氏が上原を回想した文章なども改めて読み直している。


阿部氏が亡くなってから、遺族の人たちや弟子達で編集した

『阿部謹也 最初の授業・最後の授業』(日本エディタースクール出版部) という追悼本

があるが、そのなかに阿部氏の教え子がこんな文章を書いている。


ある飲み会の時、先生は、出た刺身を食べてしみじみとこう言った。
「魚を獲って暮らす人は幸せだ」

それを聞いた弟子の我々は、飲み会が終わってから延々とその言葉の解釈について
議論した。

「漁師になりたいということかね」

「いや、歴史的にもっと漁師に注目しろと言っているのだ」

「いやいや、所詮、学者などというのは虚業だと言うことだ」

「違う、キリスト教的見地から人間の営みを考えろということだ」

「えー、単純にこの刺身おいしいねっていうことじゃないの」

「(一同)違う!」


こういう師をもった弟子は幸せだ。




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また1ヵ月以上ブロサボしてしまいました。。。

なんだかんだと言っているうちに、もう 7月!!!
今年も半分過ぎたことになります@@・・・早すぎ・・・

ところで、みなさんは英語を習い始めたとき、毎月の呼び名がなんでこんなに

バラバラなのだろう(?)と思った(腹が立った)ことはありませんか?


日本語だと、1月、2月、3月・・・・とただ「月」の前にそのまま数字を入れるだけ

でいいのに、なんでJanuary, February, March,・・・・・・・などと覚えなければ

ならないのか? と。

(曜日などは言い方は違うものの、全部~dayになっているので、日本語と同じ

ですよね)

そのわけは、大学に入ってから、暦についての本を読んで知ったのですが、
簡単におさらいすると、

最初、ローマ建国の祖といわれるロムルスの暦では、
1月から順に、Martius, Aprils, Maius, Junius, Quintilis, Sextilis,
September, October, November, December となっていました。

これは、1~4月までが神の名前(軍神マルチウス、愛の神アプリリス、農耕の神マイウス

女性の守護神ユニウス)で、5月以降は「~番目の月」という呼び方になっています。

実はこの時はまだ月は10月までしか名前がなくて、11月と12月は農閑期で何もしないから

名前もつけてもらえなかったのです。


それではかわいそう(?)だというので、次のヌマ暦では11月と12月にそれぞれ、
Januarius, Februariusという神の名前がつけられたのですね。

ところが、この11月のJanuariusの名のもとになった神ヤヌスは双面の神で、二つの顔をもち
過去と未来を見据えていることから、1年のはじまりにふさわしいのでは?と誰かが言い出したよ
うで、改訂版では、昔の11月が1月になってしまったのです!

(それで、本来は「7番目の月」という意味であるSeptemberが9月に、「8番目の月」という意味

であるOctoberが10月になってしまった。タコは8本足でオクトパス、音階の8度(ドから一つ上の

ドまではオクターブと言いますので、Octが8であることを知っている人は多いでしょう)



はい、ここから権力者の横暴が始まります!!

まず、かのユリウス・カエサル(シーザー)。
彼は、閏年を導入するという合理的な暦改革も行ったのですが、
自分の権威を誇示するために、7月に自分の名前をつける
という
アホな(迷惑な)こともやってくれました。


それで7月がJulyになってしまったのです。


こういうのが迷惑なのは、必ずマネをする奴が出てくるところ。。。

その通り、ご存じカエサルの妹の孫のアウグストゥスがシーザーの向こうを張って、
8月に自分の名前をつけてしまったので、Augustとなりました。

しかも、8月はそれまで30日しかなかったのですが、アウグストゥスはそれが気に入らず、
2月(29日までだった)から1日とって、8月を31日にしちゃったのです!

なんで7月と8月とふた月続けて31日なんじゃ~~~?と思っていた人も多いはずですが、

アウグストゥスのシーザーへの対抗心のせいです、ハイ。

(ただでさえも日の少なかった2月から1日取るなんて、2月があまりにもかわいそうでは

ないか、と2月生まれの私は同情するのですが・・・)

ま、こういうわけで、ヘンテコな(覚えにくい)現在の月名が成立したということですね。



つくづく、日本語はなんと合理的なんだろうか!! と感動するばかり。


そういえば、数の数え方もそうですね。

日本語は10進法と対応した数の数え方なので楽ですが、

英語だと微妙に12進法が入っている(11と12だけ、13以降の言い方と違う)し、

フランス語になると、それに20進法が入っていたりして、たとえば97だと、

「4×20と17」みたいな呼び方をしないといけない・・・・・・


これじゃあ、子どもが算数などできるわけがないですね!



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立派なんだけど(立派すぎて)、なんとなく近寄りがたい人、というのがいる。

私は、全然人見知りしない人で、他の人が「近寄りがたい」と言う人にもけっこう馴れ馴れしく

声をかけたりする方なのだが、それでもやはりそういう人がいないわけではない。

もちろん、それは「食わず嫌い」みたいなもので、ちょっとこちらから近づけば実際には全然

近寄りがたいような人ではなかった、というようなこともあるわけだが、そうでない場合、そういう

近寄りがたい人に近寄れるようになるには、いくつかのパターンがあるように思う。

1)自分が精神的に成長して、その人の近寄りがたさが少なくなる


2)近寄りがたい人の方から、近寄ってきてくれる(向こうから声をかけてくれるなど)


3)その人との間を媒介してくれるような人と知り合うことによって、距離が近づく

(上の1)~3)はもちろん同時に起こることもある)


クラシック音楽のなかの曲にも、同じようなことがある。

立派な名曲であることはわかるのだが、どうも近づきにくくて「好きな曲」とは言えないような曲、
というのがあるものだ。

私にとって、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」はずっとそういう曲だった。

最初にこの曲を聴いたのは高校生のときで、
グレン・グールドの旧盤、そのあとグールドの新盤を聴いたが、
ピンと来なかった。

その後、アンドラーシュ・シフのCDを聴いたり、(やはりもとがチェンバロの曲だからと)

グスタフ・レオンハルトのチェンバロ演奏のCDを聴いたり、(自分ではとても弾けないが)

楽譜も買ってみたのだが、すごく立派な曲だとは思うものの、やはり近寄りがたい感じは

変わらなかった。。。

そういうわけで、特に熱心にこの曲を聴いた、というような
こともなく、なんとなく遠ざけて
いるうちに、30年が(!!)過ぎた。

ところがところが、

先日、たまたまBS放送でやっていたエフゲニー・コロリオフによるこの曲の演奏の録画

を観て、はじめてこの曲がグーンとこちらに近寄ってきたのである!!

この演奏、2008年のライピツィヒ・バッハ音楽祭でのもの。

(すでにDVD にもなっているので、誰にでも観られます)

・とにかく音がいい。
 地味なんだけど、なんとも言えない暖かい音で、
 ピアノでバッハを弾くときの理想のツボに入っている感じ。

・各声部の動きもくっきり(しかも自然に)聞こえバランスも素晴らしい。

・この長い曲の繰り返しを全部忠実にやっていて、全部で1時間15分ぐらいかかっている
 のだが、全然退屈しない。繰り返しのときに、最初に弾いたのとは微妙に異なったニュアンス
 をつけ加えたりしているので、そこがまた面白い。

 (ちなみに、繰り返しを全部カットしたグールドの演奏は40分ちょっと)

これには感動してしまった!!!


先の1)~3)で言うと、


3)の部分、つまりコロリオフというピアニストが私とこの曲を近づけてくれたというところ、


1)の部分、私自身、いままで全体的に敬遠していたバッハに最近少しずつ目覚めてきた
というところ

の両方が重なって、こういうことが起こったのだろう。

こういうことが起こるから、人生わからないのだが、

こういう可能性に常に自分を開いておく、という姿勢が
実は一番大切なことかもしれない。





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先々週、NHKの「日曜美術館」で取り上げていた片岡球子(昨年103歳の生涯を閉じた日本画家)

の展覧会が岡山県立美術館でやっていたので、昨日、女房と二人、日帰りで岡山までドライブ

してきた。



空庵つれづれ-片岡球子展 空庵つれづれ-花咲く目出度き赤富士

「片岡球子」の名もその絵のこともこれまでほとんどと言っていいほど知らなかったのだが、

「日曜美術館」を見て、「これはすごい!!」と思った。


実際に絵を観ると、印象はますます強くなった。

何よりも、まるで絵のなかから風景や事物、人物が飛び出してくるかのようなエネルギーに

圧倒される!


いくつかの絵の解説に添えられている片岡自身の言葉も面白かった。


たとえば、初めて海(小田原の真田山沖)の写生に出かけたときの話。

「海がおそろしくて命が無くなる様な不安感で、絵を描くどころではなく、

この海に親しくならなければ海は描けないと思いつつ一週間あまり、海と

にらめっこして過ごしました。1枚のスケッチもいたしませんでした。

不思議なことに、この海が恐ろしく無くなった日から海が描ける様になった

のです」


片岡が多く描いた富士の絵(右上の絵は「花咲く目出度き赤富士」)についても、
富士山に向かって「一生懸命描きますから、どうか私の願いを聞き届けてください」

とお辞儀してから制作にとりかかり、感謝のしるしに(絵のなかの富士に)着物を

着せたり、花を捧げたりする。


こうした片岡の創作の本質は、ある種のアニミズムであるように思う。

それも、なにか「調和的な(あるいは)調和を志向するアニミズム」ではなく、
「自然や事物と対峙し、それに入り込み、それに入り込まれていくという

ダイナミックなプロセスとしてのアニミズム」だ。

こうした片岡のアニミズムは、「面構(つらがまえ)」と呼ばれる

歴史的人物の顔を描いたシリーズ(足利尊氏・義満・義政、日蓮、白隠、

千利休など)にもいかんなく発揮されている。


それにしても、

80歳を超えてから、

雪舟を描くために墨絵を一から勉強し始めるとか、

裸婦の絵に挑戦し、「私など、裸婦に関してはまだ小学生程度、
100歳まで
生きてもせいぜい美大を卒業したぐらいね」とさらりと

言ってしまう(片岡の最後の絵は99歳のときの裸婦の絵)、

片岡のエネルギーと探求心のすごさにはただただ感嘆するばかりである!




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ずっと更新をサボっていてすみません。


SSN(ミクシイ)の方ではずっと日記を書いているのですが、向こうでは

書けること(見る人が限られているため)も、こちらのブログ(誰が見るか

わからない)では書きにくいことも多く、ついついブログの方が途絶えがち

になっています。。。


昨日ミクシイの方に書いた文章を、今日は貼り付けておきます。

(音楽関係の文章は久々だし、こちらのブログでしか読めない人も数名

思い浮かぶので・・・)


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「趣味でピアノを弾く人」というのも、
技術レベルから練習量、音楽の好みから楽しみ方まで一人一人で
千差万別だと思う。

私の場合、出張中など家にいない時を除けば、よほどのことがない
限り、毎日1時間はピアノを弾く。

少なくとも、私の技術レベルでいうと、この程度の時間ピアノに さわることが、

自分の技術レベルを下げないために絶対必要である。

特に忙しかったり、体調や精神状態が悪かったりして、しばらく
ピアノにさわらないと、確実に指はふにゃふにゃになり、ピアノ
を弾いても「楽しむ」ことはできなくなる。
(なので、他のことを少々犠牲にしてでも上記の時間は確保する
ようにしている)

そういう状態なので、はっきり言えば、
今後の人生の中で、技術的には今より向上するということはほとんど
あり得ず、現状維持が精一杯というところだ。

なので、今現在、私には技術的に手も足もでないような曲というのは、
一生弾けるようになることはないだろう。

あと何年生きられるのかはわからないが(自分ではプロフィールに
あるように92歳まで生きる予定でいる)、少なくとももう人生半分
は過ぎたことだし、凄腕の世界的ピアニストですら、80近くなると
テクニックはかなり衰えるという現実を考えると、今後の人生の中で
どういう曲を弾き込んでいくことで、最も自分が楽しく音楽できるの
か、ということはかなり意識的に考えざるを得ない。

(ちなみに、私はどちらかというとピアノが弾きたいのではなく、
音楽がしたいのだ。現在は指揮もしていないしホルンも吹いていない
ということで、ピアノ以外には自分の音楽を表現する手段がない。
なので、あくまでピアノは「音楽をする手段」以上のものではない)

そういう状況を考えると、今から「新しいレパートリー」(これまで
に弾いたことがない曲)に手を出す、ということには、けっこう慎重
になってしまう。

ただ、現実には、これまでまったく弾いたことのない曲で、なおかつ
熱心に聴いたこともないような曲に、突然目覚めてしまい、たまらな
く弾きたくなって、かなり時間をかけて練習してレパートリーに加え
る、という曲もないわけではない。

最近ハマッテしまったのが、ショパンの「ノクターント長調 作品37の2」 !

ショパンのノクターンのなかではそれほど有名な曲でもないし、今まで
はあまり聴いたこともなかったのだが、マリア・ジョアオ・ピリスの
CDを聴いてからこの曲に開眼し、自分でも弾いてみたくなった。

ちなみに、ショパンのノクターンでこれまで私のレパートリーに入っていたのは10曲。
有名な曲でも、たとえば作品27の2の変ニ長調のように、「これは
聴くだけで十分。自分では弾いてみたいとは思わない」(技術的に弾け
ないわけではないが)曲もある。

でも、この作品37の2はどうしても「弾きたい。練習して弾きこんで
いけば、自分なりの納得できる表現がきっとできる」と思ってしまう。

そういうわけで、ここ数日、この曲をけっこう練習しています。

まだ全然うまく弾けませんが、「何か」が見えています(この曲の
スピリットが私に「弾け」と言っているような感じがします)。

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