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空庵つれづれ

宗教学と生命倫理を研究する中年大学教師のブログです。



話題は、日々の愚痴から、学問の話、趣味(ピアノ、競馬、グルメ)の話、思い出話、旅行記、



時事漫談、読書評、などなど四方八方に飛びます。

私は特定の集団内では「つきあいの悪い人」である(たぶん多くの人にそう思われている)が、

相当「社交的な人」の部類に入ると思う。

前に旧ブログ「ヴァージニア日記」で私のヘンテコ音楽人生の始まり について記事にした際、

次のように書いた(下にそのままコピペする)。


私は一人っ子で、かなり過保護に育てられた(とりわけ祖父母に)ので、

幼稚園入園まであまり同年代の子どもたちと遊んだことがなく、そもそも

社会性に欠けているというか、集団行動がまったくできなかったのである。

(今でも集団行動は大の苦手である・・・)


大学のときに数学を習った森毅先生は、

「社会性」と「社交性」はぜんぜん違う
という話をよくされていたが、
彼のいう「社会性」というのは「(自分の属する)社会集団への適応性」のこと、

「社交性」というのは「異なった社会集団に属し、(一見)共通の基盤をもたない者

同士の付き合い」を意味している。

その意味でいうと、私は昔も今も、
「社会性」に欠けていて、「社交性」の高い人

なのだと思う。

「三つ子の魂、百まで」とはよく言ったもので、私は小さい頃から「社交性」は
高かった。

意外に思われるかもしれないが、一人っ子というのは、家のなかには自分以外に子どもは
いないので、あまり
閉鎖的に親(とくに母親)とばかり過ごすのでない限りは、「社交的」に
なるものだ(違う世代の人間とのコミュニケーションの頻度が高いため)。

私の場合、とくに、祖母と母が家で謡曲と仕舞を教えていた、というのは大きかったと思う。
お弟子さんは女性ばかり。年齢もバラバラだし、専業主婦もいれば、お店をやっている人もおり、
会社で働いて
いる人もいて、生活環境はそれぞれまったく違う。
こういう人たちと、けっこう子どものときから話をしたりしているので、
私は今でも、ほとんどどんな人とでも楽しく会話できるのかもしれない。

この能力というか習性は、すごく私の人生にはプラスになっていると思う。

・いろんな分野や職業の友達がいるのは、それだけで楽しいし、

 (これが楽しいと思えない人は、お互いが同級生であるとかいった他の共通の基盤がある

 場合を除いては、そもそもそういう友達はできない)

・たとえば、料理人とか酒屋さんとか、そういう人と友達になるとおいしいものにありつける

 確率が高くなるし^^、普段は別に役に立たなくても、いざという時には頼りになるような

 職業の人も多い。

その分、逆に私は、きまった集団の中での付き合い、というのはきわめて苦手である。

(苦手だ、というよりも「嫌いなので避けている」、という方が近いかも)

前にも書いたが、
とくに、集団のなかで群れる
というのが大嫌いなのだ。

大体、そこで出てくるのは、


・聞きたくもない自慢話を延々と聞かされる(多くの人はそれにあいづちを打つが

  馬鹿馬鹿しくてそんなことはできない)

・特定の人の悪口で盛り上がる(たまには悪口もストレス発散になるが、いつも

  同じ人の悪口を延々としゃべって何が面白いのかさっぱりわからない)


これも前に書いたが(→情交のススメ )、

大体、「集団のなかで群れることが好きな人」というのは、「お互いを低め合って、

低いところで安定するのが好きな人」なので、まあ、これは「社交の楽しさ」とは

正反対のものなのだ。

だって、違う分野や職業でがんばっている人と話していて楽しいのは、
もちろん自分の知らない分野のことを少しは知って見聞や教養が広がる、という
こともあるが、一番大きいのは、(一見ぜんぜん違ったことをやっているようでいて)
実はどんな分野でも、その分野で高いレベルを目指そうとすれば同じようなことに悩み、

同じようなことで努力している、ということがわかって勇気が出、励みになること、

そもそもそういう常に自分を向上させようとしている人(単にもっと出世しようとか、

金を儲けようとかいうのではなくて、自分を磨こうとしている)は見ていて気持ちがいい

からだと思う。

「勝ち組/負け組」というのはイヤな言葉だが、
ホント、こういう意味でいうと、世の中、「張りをもって人生楽しく生きられるかどうか」
ということに関して、ある種の「勝ち組」と「負け組」に分かれてしまうような気がする。



昼休みに同僚とコーヒーを飲みながらテレビを観ていたところ、
こんなニュースをやっていた。

62歳の女性、初ゴルフ第1打目でホールインワン!

アメリカ、フロリダ州で、生まれてはじめてゴルフコースに出たこの女性(ウニ・ハスケルさん)、

スタートホールのパー3の第一打で達成したらしい。

詳しくはコチラ↓

http://sankei.jp.msn.com/world/america/090314/amr0903141116008-n1.htm


まあ、奇跡というしかないが、(確率的に非常に低いだけで)原理的にあり得ない

話ではない。

しかし、これは絶対に破られることのない、不滅の記録である。

生まれてはじめてゴルフコースに出た日にホールインワンを達成した、という

だけでも、私の知る限り、他にはたった一例しかない。

現実の世界だけではなくて、フィクションの世界を含めてのことだ。

それは誰か、って??

みなさんご存じ、バカボンのパパ

「天才バカボン」なかで、バカボンパパがはじめてゴルフに行ったときの話が

あるが、それによると、

第1打目・・・空振り

第2打目・・・ホールインワン

でした。

ちなみに、

・前の人が打って、「まずまずですな~」と言ったのを真似して、

 バカボンパパは一打目でも二打目でも「まずまずですな~」と言っていた。

・2打目がホールインワンして、みんなが驚くなか、バカボンパパはグリーン

 に上がっていき、「こんな穴がなかったらもっと遠くに飛んだのに」と

 カップを必死で埋めていました。

(記憶力の減退に悩む今日このごろですが、変なことはよく覚えているものですね^^;)


【注記】
正確に言うと、ゴルフのルールでは、このバカボンパパの例はホールインワンではありません。

一打目が空振りなので、二打目でカップに入れても、ただのバーディー(パー3のホールで

2打であがった)にしかなりませんから。

「クローン人間」などというと、多くの人は「気持ち悪い」という言葉を口にする。


もちろん、こうした「気持ち悪さ」のなかには、知識の欠如や誤解によるものも少なくない。

たとえば、「自分と同じ人間が生まれるなんて気持ち悪い」というような人がいるが、
もし、私やあなたのような現在生きている人の体細胞を使ってクローン人間が誕生した
としても、その人はせいぜい私たちの「遅れて生まれてきた一卵性双生児」にすぎない

し、一卵性双生児の場合は、母体内の環境も生育環境もほぼ同じであるのに対して、

この場合はそれがみなまったく違うわけなので、実際には一卵性双生児ほども似て

いないだろう。

また、こういう「気持ち悪さ」のなかには、単にそれがなじみのない、新しいテクノロジー

だという部分もたしかにある。

「自然とは古いテクノロジーの別名にすぎない」というマクルーハンの言葉があるが、
要するに慣れてしまえば「自然」だと思えるものも、最初は「自然に反する」「気持ちの悪い
もの」だという印象を与えるのはたしかだ。
写真技術がはじめて登場したとき、多くの人は気持ち悪くて写真をとられるのを怖がった。

「写真に映ると(魂が吸い取られて)病気になって、死んでしまう」と信じていた人もいた。

しかし、

こういう、合理的に考えれば消え去るか、少なくとも薄らいでしまう「気持ち悪さ」の原因を

取り去ったとしても、やはり生命の操作ということには何かしら気持ち悪さが残る
ように、私には思われる。


もちろん、「生命操作」というのは、それ自体何か「気持ち悪い」響きがするが、
じゃあ何が生命操作なのだ(?)といわれれば、定義することはできない。

これまでに私たち人類が開発してきた技術のかなりの部分(生物や生態系に影響

を直接影響を与えるような技術)は、医療技術にしろ、農業や畜産の技術にしろ、
まぎれもなく「生命操作」にちがいない。

なので、私たちがふつう「生命操作」という語をきいて思い浮かべるような、
新しい医療技術や生命科学技術の数々は、別に従来の技術との間に根本的に
「質の差」があるというわけでもない。

とはいえ、一方で、技術の「切れ味」が増してきたことによって、「量の差」がある

種の「質の差」として現れつつある、という印象もまた消すことはできない。


前回挙げたクローン猫の例でもそうなのだが、
なにか私たちは、生命という「一つ一つの個体で違っていて、それぞれ固有の

環境におかれ、歴史をもったもの」に対して、それを計量・操作可能なところだけ

で切り取って人間の勝手なシステムに乗せて操作してしまうことによって、

「生命」という人間を超えた不思議なものに対してある種の冒涜を行っている、
という感じはどうしてもぬぐえないのだ。

これとこれを足したらこうなる、とか、これがこういう要素に分解できるのであれば、

都合の悪い部分を都合の良いものに取り替えれば全体が良くなるだろう、という

ような発想で生命を操作しようとしても、(それは部分的には可能だとしても)

結局は「操作できない」という方が、現実に近いのではないだろうか?

臓器移植だって、あたかも人体のパーツ交換ができるかのように「錯覚」している

だけで、移植された人が拒絶反応に苦しみ、一生免疫抑制剤から離れられない

のは、実際には「パーツ交換」などできない、ということではないのか?

生殖補助技術にしても、体外受精が臨床応用されてもう30年もなるのに、未だ

実質的な成功率はせいぜい15%程度であることを考えれば、それが身体の

自然のプロセスを人工的に代替「できている」などとはとても言えたものではない。

もちろん、それは現段階では技術が未熟だからそうであるにすぎない、という
見方もあるだろうが、私はどうもそれだけではないような気がする。。。


それよりももっと問題だと思うのは、こういう形で(実際には操作不可能なものを)
操作可能なシステムに乗せていくことで、とりわけ人間の生命(それは単に生物

学的な生命であるだけでなく、具体的な生活、人生を伴う)の固有性やかけがえ

のなさに対する私たちの日常の感覚とは相容れないような光景を実際に現出さ

せてしまう、ということだ。

前回述べたように、
このような光景をできるだけ見せないように、そうした技術を

推進するための言説がはりめぐされていくことで、私たちはだまされてしまう

のだ。

こうした例は、臓器移植にしろ、生殖(補助)医療にしろ、いくらでも挙げること

できる。

こうした状況のなかで、

私たちがいわゆる「生命操作」に対して感じている「なんとなく気持ち悪い」という

感覚は、そうバカにできるものではない、と私は思っている。

もちろん、そういう感覚だけでは、そうした技術が(それにふさわしい熟慮と慎重な

検討を欠いたまま)推進されていくことに対する歯止めにはならない。

しかし、そうした感覚は、何かしら実際に生命操作システムのなかに隠された

おぞましいものを見つけ、明るみに出していくためのアンテナにはなり得るように

思う。

(もう少しいろんな具体例を入れたかったのだが、長くなりすぎるのでやめにした。

また補足として続きを書くかもしれません)


前回の続きです。

生命倫理の教育は、学生を倫理的な(倫理的に正しい)人間にするためのものではない。

もちろん、倫理観の乏しい人とか、倫理的にいいかげんな人が、生命倫理の問題について
きちんと考えるのはむずかしいと思う。


しかし、一般的に言って倫理的に優れた人(他人への共感力や思いやりがあり、正義感も

強く、曲がったことが大嫌い、といった人)が、生命倫理の問題について、きちんと倫理的な

思考ができたり、倫理的に正しい判断(それが「唯一正しい」かどうかには関わりなく)が
できるか、と言ったら、それは大きなまちがいである。

いくら善意にあふれた人であっても、
その当の問題を構成している現実についての知識が
非常に乏しかったり、
マスコミ報道などによる一方的、一面的な情報だけにさらされている場合、

それがどのような点で倫理的な「問題」であるのか、ということすらわからない

ことが多い。

たとえば、

・自分だったら、どうやっても今の医学では助からない病気で、ただ苦痛が増していく

 のを避けられないような状態になったら、死なせてほしいから、安楽死や尊厳死を

 認めるべきだ、というような意見。

 (逆に自分ではなく、自分の家族がそのような状態になったときのことや、それに

 手を貸すことについての医師や医療者の葛藤などを想像すらしない人もいる)

・子どもの脳死臓器移植について、マスコミなどの報道は、それを必要としているのに
 「日本ではできない」ために亡くなっていく子どもや親たちの無念さ、寄附などを集めて

 海外で手術を受け、成功し「いのちを贈られた」子どもの感動物語ばかりを流す。

 こういう番組だけを観ている人は、善意にあふれ、思いやりがある人ほど、

 「それを認めない日本はなんと残酷な国なのか」といった短絡に陥りやすいだろう。


「生命倫理の教育」で大切なのは、
その人がその問題について最終的にどのような意見をもったり判断をしたり

するかに関わりなく、いろんな角度からその問題をみる力を養う
ことである、ということは、まずたしかである。

このことについては多くの人がなるほどそうだ、と言うだろうが、

私は、もう一歩進めて考える必要があると思う。
なぜなら、現実には、いろんな角度からそれをみられるような形では情報は与えられて

いない、むしろそれをある特定の方向からしかみないように、あるいは(他の方向から

みるならば当然みえるであろう)他のものを隠すような仕方で、

ある種の情報操作が(時には意図的に、時には無意識のうちに)行われている

のが普通だからである。

そうすると、私たちが生命倫理のほんとうの「問題」を問うためには、
私たちの日常さらされている情報や、表面的に現れている「問題」に隠されているもの、
私たちにみえていないものは何か?
を問う想像力が要求されることになる。


そのことに気づかせるために、私がよく講義で使う一つのお話がある。

数年前、テレビで、「クローン猫誕生」のニュースが流れたときのことだ。

テレビの画面には、このクローン猫作成を依頼した、いかにもお金持ちそうな

初老の女性が当の猫を抱いているシーンが映し出された。

この女性が飼っていた猫が亡くなり、悲嘆にくれた彼女は、その猫のクローン個体

を作成してもらい、もう一度その猫といっしょに暮らしたいと思ったのだという。

上品な笑みを浮かべながらその猫をなで、「しぐさまで、そっくり~」と語るその女性

を観て、私はずいぶん腹が立った

ということを学生たちに話した上で、


「なぜ私は腹が立ったのか、みなさんわかりますか?」 と問いかけてみる。


ほとんどの学生は、キョト~ンとしている・・・・・

大切なのは、このテレビ画面をみたときに、
私のような一部の人には「みえて」いて、それ以外の人には「みえていない」もの

が何か、である。

詳細は省くが、動物の成体からとった細胞(体細胞)をもとにしてクローン個体を

誕生させるためには、その動物の卵子(未受精卵)が必要である。

この猫がどのくらいの試行の末に誕生したのかは正確には知らないが、
何百回の試行の末にやっと生まれた一匹だろうことは確実である。

そうすると、妊娠させられた猫の数はどのぐらいになるだろう?

痛い注射(排卵誘発剤)をされ、全身麻酔をかけられて、卵子を摘出された

猫の数はどのぐらいになるだろう?

この一匹の猫をこの世に生み出すために、どのぐらいの猫が無理矢理実験の道具に

され(猫にインフォームド・コンセントはあり得ない!)、痛い思いをさせられ、妊娠させ

られ、流産してしまったのだろう?

(排卵誘発剤の害によって、あるいは流産の際に命を落とした猫もそう少なくはない

だろう)

私は、猫を飼っているわけでもないし、特に猫好きでもないが、
「この女性には猫を飼う資格はない」、と思った。


さて、ここまで話した後で、学生たちに、次のことを気づかせる。

すなわち、少なくとも、

・体細胞クローン動物というのが、どのようにして作られるか、ということについての

 ごくごく初歩的な知識と、

・体外受精などの生殖補助技術(=ふつう言われる「不妊治療」)についての
 初歩的な知識(たとえば卵子の摘出が女性の身体にどれだけの負担をかけるか

 といったこと)

がありさえすれば、私がこのテレビ画面をみたことによって「みえた」
ものは
「みえるはず」とまでは行かないかもしれないが、「みえてもおかしくない」のである!

実はこの講義のときまでに、学生たちはそれを「知識」としては知っているわけで、
それにもかかわらず、そこに「想像力」がうまくリンクしないために、この「問題」が
みえないのだ、ということに気づくことで、けっこう学生はハッとするようだ。

もう少し書きたいことがあるのだが、それはまた次回。

私の勤める医学部の教員は、医師、看護師、臨床検査技師などの医療専門職の免許をもった人が

多いが、薬剤師や臨床心理士などの人もおり、基礎医学系や生命科学系には、理学部や工学部を

出た生命科学研究者もいる。


いずれにしても、私のような人文系の研究者というのは、ほとんど皆無に近い。

で、学部内で、誰か新しい人と知り合ったとして、
私が「(医学部では)生命倫理を教えている」と言うと、

けっこうきまったタイプの反応が返ってくる。


一つは、「倫理なんか教えられるのか?」という反応

(そこまであからさまには言わなくても、そういう雰囲気が伝わってくる)

つまり、倫理なんてのは(科学とはちがって)非常にあいまいで、相対的なもので、

時代によっても変わるし、文化や社会によっても変わるし、人それぞれに異なった

倫理観があって、どれが正しいとも言えないようなものだ、ということが言いたい

のだろう。


もう一つは、「倫理は大切だから、学生にしっかり倫理を身につけ

させてください」というような反応。

まあ、この言葉でどういうことが言いたいのかは、どの程度その人が、医療や生命科学研究
における倫理的問題について
意識が高いかどうかによるので、一概には言えないのだが、

多くの場合、将来医療専門職となる学生が倫理的にいいかげんな奴では困る、という程度の

ことしか意味していないようだ。

これら二つの反応には、共通の大きな誤解がある。

つまり、生命倫理の講義というものは、学生に「倫理的な規範」を教えたり、
学生を「倫理的
な(倫理的に正しい)人間にする」ためのものだ、という誤解だ。

そんなことは、講義なんかではできっこない。

もともと平気でウソをつきまくっているような学生が、生命倫理の講義を聞いたとたんに、
一点の曇りもないほど誠実な人間になった、などということはあり得ない。

また、(この点では「倫理なんて教えられるのか?」という最初の反応にある程度真実が

含まれているのだが)少なくとも生命倫理の問題というのは、安楽死や尊厳死の是非に

したところで、中絶の問題にしたところで、どんな問題であっても必ず賛否両論あって、
どのどちらかが絶対的に正しい、というような種類のものではない。

(もちろん、すべて倫理が相対的であるとはいえない。たとえば殺人や泥棒、詐欺などが
倫理的に悪いものであるということについては、少々の細かい留保点を除けば、ほとんど

の人が一致しうるだろう)

そうすると、

たとえば、クローン人間を作ってよいかどうか?
(正確に言えば、クローン技術を用いたヒト個体の産出をおこなってもよいかどうか?)

という問題を考えてみた場合、

A)クローン人間を作ることは許される(orいいことである)

という倫理も


B)クローン人間を作ることは許されない(or悪いことである)


という倫理も

両方可能である。

よく誤解されるが、B)のように教える(それはなぜかを含めて)ことが生命倫理を

教えることだというのは基本的には間違いである。
(実際、クローン人間作りに賛成している生命倫理学者は少なくない)

じゃあ、何を教えたら、生命倫理を教えたことになるのか?

クローン人間を作ることに関して、A)のような説とB)のような説をバランスよく紹介して、

「あとは君たち自身で考えなさい」と言えばいいのか?

(もちろん、これがある程度必要なことであるのは否定しないが)
それだけでは、どうもいけないのではないかと思う。

よほど知的思考力にすぐれた学生であれば、それだけでも「自分で考えてみる」
助けになるかもしれないが、(私の経験では)少なくとも大半の学生はそれでは

けっして「倫理的な観点からものを考える」ことはできない。

ちなみに、私はクローン人間の問題を直接に論じたことはないが、
「お前はどうなんだ?」、と言われれば、基本的には反対である。


ならどうするのか?


「自分自身は反対だが」、と断った上で、賛成説も一緒に紹介するのか?


あるいは、賛成説を紹介した上で、それをことごとく批判し、論破するのか?


それよりも、もっと大切なことがあるのではないか、と最近私は考えている。


そのことは次回。