今週の刃牙らへん/第7話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第7話/花田派と鎬流

 

 

 

本部の道場で鎬昂昇と花田が激突する。

はなしとしてはジャック対戦権をめぐってということになっているようだけど、ワンマッチでもあり、ここの喧嘩で決まるようなことでもないだろう。ジャックとしても花田なんて、最大トーナメントの会場で見かけたことがあるくらいでぜんぜん知らないだろうし。でも、本部がくちをきいたら別かもしれない。

 

実戦ということでスタートしたものでもあり、それらしく、花田が脱いだ上着を足でひっかけて投げつける。途中で広がってしまって、失速することは避けられないので、これは視界を覆う意味があったんではないかとおもう。が、昂昇は造作もなく指でこれを両断する。

昂昇は、このふるまいを、本部流なのかプロレス流なのかと問う。花田は本部の弟子であるとともにプロレスラーという、考えてみればけっこう異色の背景をもった人物だ。ふつう、プロレスと武術というと正反対ということになるわけだが、本部にかんしてはそうではないと昂昇はいう。爆薬、ロープ、手裏剣、火炎、まるでプロレスだと。たしかに、手裏剣はともかく、どことなくプロレスチックな響きの武具ばかりだ。毒もつかうからな。霧ではないけど。

花田は反論する。隠し武器は本部の専売特許であり、「寸鉄身に帯びず」が花田派だと。そもそも、プロレスは相手を傷つけない格闘演劇である。毒霧を顔に噴かれても失明することはないわけで、やっぱり武術と対極であることにちがいはないよと。

 

よく喋るな2人ともと、本部がくちにしたことで一瞬場が和んだが、むしろその瞬間を見逃さないのが鎬昂昇だった。シャープな後ろ廻し蹴り飛び出し、花田は驚きつつもこれを体勢を落としてかわす。続けて鎬昂昇の連撃、花田はぎりぎりかわしているようではある。そして最後の突きを肩のうえに抱え、地面に投げをうつ。あの体制で投げられながらふつうに着地してる昂昇のほうがすごい気がするんだけど、彼はともかく最後の一発がはずされたことに驚いているようだ。むろん、この投げは、ほんのちょっと前に花山薫でテスト済みである。なるほど、あれは打撃対策だったのか。スピードではまだうえがいるとはおもうが、少なくとも花山のパンチであれができるということは大きな自信につながるだろう。

 

だが花田の全身はずたずただ。攻撃そのものは防いでいたようだが、ちょっと触れた指先などで切られてしまったのだろう。バキ世界では試合不可能というほどの傷ではないが、本部が止めに入る。「組手」の域を超えた、ここまでとすると。いや「実戦」ということだったのでは・・・と花田いうが、想定は想定であって実戦ではないと本部は強弁、試合終了となるのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

本部はいいなあ、すごい本質的なことをさらっとやってくれるよ。実戦なのかどうかを確認してからはじまる実戦は、そりゃ実戦とは似て非なるものだよね。

そういうこと以前にも、ぼくはここから本部の大人っぷりが感じ取れるような気がした。強いものがいるときけば飛んでいく範馬一族のような生きかたも、存在としてはもちろんあっていいのだろうけど、現実の日常生活というものは、そういう極端さを受け容れるようにはできていない。勇次郎やバキのようにじぶんより強いものがまず見つからないような人生ならまだしも、花田のように勝ったり負けたりがふつうのファイターではもっとそうだろう。強いとみるなり挑んでいく、それも、腕試しレベルではなく命のやりとりのレベルで勝負する、そういう毎日の人物が、ふつうの日常生活を送るのは難しい。そしてそれは、場合によっては彼が求めている強さそのものから彼を遠ざけてしまう可能性すらある。たとえば、ただの喧嘩自慢ではなく、それこそ花山レベルに強い素人がいたとして、こういうものが道場破りをくりかえしているとする。彼は、どこにいっても苦戦するということがない。だから、空手だろうと柔道だろうと、どこの大将とやりあっても負けず、そしてなにも学ぶことなく道場を去っていく。強さの一点をとっても、たいがいの人間というのはそうたんじゅんにできていないのである。もちろん、範馬一族のような例外もあるだろう。しかし、本部は道場主でもある。つまり、学校の教師のように国家主導のものではないにしても、いちおう、教育的立場にある人間なのである。学校教育ほど一般論によらないにしても、ある程度の普遍的指導は、当然行っていかなければならないのである。

 

書いていて気付いたが、おもえばこの本部の立場というのは、『バキ道』最終話付近でジャックを誉める流れに至ったあの描写と対である。ガイア、加藤との、「実戦」についての議論だ。正直いま読み返してもなにが主旨なのかよくわからない議論なのだが、もっとも強さに餓えた男としてジャックの名があがるのである。

ちょうど目の前にバキ道17巻が落ちていたので、じゅんばんに、読みながら議論を追ってみる。バキは、普段着のまま、ウォームアップもなしで宿禰を倒したという。まさしく「実戦」である。となれば本部の土俵ということになるが、本部は、いうほど自分を含めた武術界は「実戦」的ではないという。たとえば、なんのためにこうして和服を着ているのか?ということだ。人格形成より有効性が武術では優先されるべきだ。つまり、もし和服が不便なら、ほんらいは変わっていかなければならないということだろう。社会体育的武道は「道」をうたちがちだが、人格形成が必要なら殺傷能力を身につける武術である意味なんてない。だから、愚地独歩や渋川剛気も道を説かない・・・。この次のはなしでは、「カッコばかり」が議題にあがる。演武、様式美に染まった武道は「カッコばかり」。前後して書くと、ジャックにはそれがない、というはなしだ。他人からどう見られるかなんてかんけいない、必要なときに嚙みつきも敢行するのがジャックだと。カッコつけないことは強みである。それと比べると、バキや勇次郎、道を説かないとされた独歩や渋川さえ「エエカッコしい」だと。そしてこのとき「エエカッコしい」とされたものたちを、本部は「刃牙らへん」と呼んでいるのである(←このぶぶんは思い出しては忘れをすでに何回もくりかえしている)。

 

その当時の記事でもう少し考察したような気もするが、ここでは読み返さないでおこう。いまこうしてまとめて書いてみて見えたものもある。ここで本部がいっていることは、要するに、実戦性の高さというのが、どれだけ餓えているかということに比例するのだということだったのだ。流れからしてそうなのである。「強さ」への餓えかたにも個人差がある。わけてもジャックは、他に類をみないほど「強さ」を求めていると。そんな彼の到達した境地が、象徴的な「嚙みつき」をメインにした嚙道なのである。この文脈では、いかにして人目を、「カッコつけたい」という欲望を取り払うかということが、武術性の高さに関係しているということになるのである。そうして、究極の武術体ともおもわれるジャックを配したとき、道を説かない独歩や渋川や、勇次郎や、つい先日、本部らも賞賛した「実戦」性とともに宿禰を葬ったバキですらが、「エエカッコしい」になると。そしてそれが「刃牙らへん」なのだ。

 

 

「刃牙らへん」というのが、この「エエカッコしい」のひとたちのことだ、ということを、なぜかすぐ忘れてしまうので、またこのひと忘れてるなとおもわれたかたには指摘していただきたいなとおもうが、ともかく、そうすると、本作のタイトル「刃牙らへん」は、「エエカッコしい」の、ジャックと比べればまだまだ実戦性、闘争への餓え、また純粋性に劣るものたちということになる。もちろん同時に、というか出版流通的な意味ではそれが「顔」になる以上こっちがメインだろうが、バキ周辺のサブキャラクターたちによる群像劇的な意味もあるだろう。だが、『バキ道』最終部分での本部たちの議論を踏まえると、ここにはそうした意味が含まれていることがわかるわけである。勇次郎が実戦性に欠ける?というのはいかにも疑問だが、「エエカッコしい」だといわれれば、そうかもしれないなとはおもわれる。時代がかった物言いや立ち居振る舞いなど、彼なりの「美学」は、たしかにそこにある。ふつうに考えると、それは別にあっていい、というか、あるのがふつうである。そういうレベルの、「それは人目を気にしているとはいわないのでは」という程度の「カッコつけ」さえ排除したのがジャックなのだ。ではバキはどうか? バキは、まさしく実戦というにふさわしいスタイルで宿禰戦にのぞみ、それを本部たちも讃えていた。しかし、果たしてあのときバキは、普段着である必要はあったのだろうか? 寝起きのまま試合に臨んでいたが、あれはほんとうに眠かったのか? 付き人の御手洗さんのくちから他人にそのことが伝えられることをほんとうに意識しなかったか? 普段着で試合場に出ることで観客がどう反応するかをまったく意識しなかったのか? 等々、考えてみれば「エエカッコしい」に相違ないのである。もちろん、勇次郎がそうであるように、誰しもそうした鏡像的自我を通じてはじめて自己確立を果たすものだ。しかも彼らには実力も伴っている。いまならともかく、バキや勇次郎は、ジャックよりも強かった。結果としてはカッコつよけようとなんだろうと、強さにはあまり影響はないともいえる。しかし、ここで本部たちが見出したのは強さへの「餓え」だったわけである。そこに、カッコつけをそぎ落とした真の実戦性は宿ると。

 

こうしたジャックの実戦性は、讃えるくらいならともかく、それをまっとうしようとするととたんに困難になる。というか、ふつうできない。人間には生活というものがあるからだ。それは、強さを求めるものにおいても同じである。程度のちがいはあれ、「じぶんがいちばん強いこと」を最良とする独歩や渋川のような人物がたがいにうまくやれているのは、最低限の社会性あってのことだ。これを、本部のような教育的立場のものはないがしろにできない。花田がもしこの鎬昂昇とのたたかいをほんとうの実戦に相違ないものと考えていたのだとしたら、ちょっと考え方が甘かったかもしれない。いや、それとも逆に、ここしばらく顔を見せないあいだに修羅場をくぐりすぎて感覚がにぶっているのか。ほんとうに実戦がやりたいのであれば、筋を通す必要なんてないし、ましてやじぶんのホームである本部の道場でやることもないのである。

 

ただ、これもまたいまふと思い出したのだが、ジャックは宿禰に勝利したあと、観客の声援を受け、甘いしびれとともに喜びを感じていた。彼にも、「強く思われたい」という「人目」への意識がないわけではない。だがその直後、まさに「刃牙らへん」を名指しし、尻の穴をさらしてでも勝つことと求める、じぶんのような渇望がなければ、(おそらく、じぶんに勝つのは)無理だ、ということをいうのである。つまり、ジャックは、「人目への意識の排除」を、意識的に行っているのである。彼にもそういうおもいはあるし、それが達成されれば喜びもする。しかし、それは実戦性や強さには直接関係しないことも、彼は理解している。だから、いつまでも「スマートさ」にとどまっている「刃牙らへん」に、「無理だ」といえるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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