すっぴんマスター -23ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第11話/久方ぶりの闘技場

 

 

 

鎬昂昇とジャック・ハンマーの対決がはじまる。

鎬のセコンドは花田である。花田は、今さら言うと前置きして、ジャックは嚙みつきだけに特化したファイターじゃないと、なんか当たり前のことをいう。ジャックのことを知っているふうだが、花田は、たたかってもいないし、なんならジャックに視認すらされてないよね・・・。鎬は最大トーナメント出場者だしピクルのときも顔出してたからジャックもぎりぎり知ってたけど。なに言ってんだコイツ。

 

鎬昂昇は優しいので、今さらだねとしつつも、噛みつくだけの猛獣がいないように、地下闘技場には単純なファイターなどいないと一般化する。この前フリは、たぶんたたかいの様相を暗示するものとおもうが、とすると、嚙みつきがなんらかの方法で封じられるような状況がくるのだろうか。

 

地下闘技場のお客からすると鎬は久々みたいだ。通常、拳を鈍器と化す空手を斬撃術へと進化させた逸材である。拳や手刀で「切る」ということは、独歩もやる。つまり、ある段階をこえたところで、鈍器はやがて刃物になるということだ。この煽りは、逆に直前のジャック評にかかるものかもしれない。つまり、鎬は鈍器としての拳も当然もっているはずなのだ。

 

なんのつもりだか、鎬は右足を前蹴上げのように垂直にあげる。柔軟性とバランス感覚を見せているようだ。とはいえ、まあ、これもたぶんみんなできる。

 

そこへジャック登場。鎬のほうに視線をやっている。こういうことは、意外と珍しい感じがする。ジャックは、じぶんの強さに興味があるのであって、相手はどうでもいいからだ。興味があるのか、それとも、鎬昂昇という記憶のあいまいな人物がじぶんのおもっているものにちがいないことを確認しているか、どちらかだろう。

 

両者が向かい合う。鎬昂昇177センチ84キロ。ジャック243センチ211キロ。身長差70センチ近く、体重は倍以上ちがう。見下ろしている、と実況は騒ぐ。それは、身長差があるのだから当たり前のことだが、ジャックはひざに手をおいて身を屈め、大人が子どもにするように視線をあわせる。正しく見下ろしたわけである。

 

 

開始とともに仕掛けるのは鎬。両手足が閃く。空中からの連撃が、ガードしたジャックの腕や肩を、まだ浅く、裂くのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

なぜか渋川剛気が声をあげて感心している。渋川はかつてジャックと対戦した人間だが、なんだろう、ガードをしているのが珍しいのかな?

 

 

ジャックが嚙みつきだけに特化したファイターではないというのは、そんなの当たり前だろうというはなしなんだけど、これは宿禰戦でも言及されていたことで、ポイントのひとつなのかもしれない。で、当然鎬昂昇も、斬撃拳だけの空手家ではないというはなしになって、たとえば眼底砕きみたいな打突系の秘技も彼にはある。そういうはなしだろうか。

 

じっさい、嚙みつきだけに特化したのでは、嚙道は成立しない。宿禰はねりこむという上手い表現をしていたが、まずジャックならではのフィジカルと格闘技術があって、そこに自然に、強力な攻撃技術としての嚙みつきが馴染んでいる状態を作り出す、それが嚙道なのだった。決め技が嚙みつきである必要も、最終的にはない。もっとも強力な技は嚙道では嚙みつきだから、自然とそうなる場合が多いだろうが、そうでなくてもよい。そして、いかにそのたたかいの流れの内に、嚙みつきを自然にのせるか、そこに相手を誘導するかということが要諦ということになる。だから、おおざっぱにいって嚙道はカウンターの技術になる。象徴的に肉食獣のポージングがとられることも多いが、肉食獣のかまえは、「これから噛みにいきます」ということを相手にわかりやすく伝えるものだ。それは、技術ではない。そうなったら、相手はまわれ右して逃げたり、バキみたいに顎を打ちぬいたり、いろいろ、対策できるようにもなる。そうではないのが嚙道の特長なのである。

 

こういうふうにみると、鎬昂昇はどうなのだろうということになる。同じように単純ではない地下闘技場ファイターなら、斬撃拳ではない拳を彼はもっていることになる。じっさい、もっている。だが、もし彼が、あまりにも斬ることにこだわりすぎてしまえば、ジャックにおくれをとるかもしれない。ジャックのスタイルは、嚙みつきが決め技である必要がない。なんなら、使わなくてもいい。しかし鎬昂昇はどうだろうか。そこで、彼は後手にまわってしまうのではないか。板垣作品でよく描かれる、凶器をもってしまうと、それ以外の行動をみずから制限してしまうという、人間の心理なのである。

 

 

 

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第93審/生命の値段②

 

 

 

白栖医院長がSMのプレイルームみたいなところで楽しんでいるところだ。全裸で椅子に全身を固定させて、おしっこをがまんしている。いや、おしっことは限らないのか・・・

近くにはムチムチの女王様がいて、そこでやれと命令している。が、どこか含みのある表情だ。部屋のドアにはサンダルがはさまっていて、しっかりしまっていないのである。そして、スマホをもった壬生が黙って去っていく。女王さまは前回壬生が白栖にいわれて呼んだ子で、彼女はおそらく壬生の指示を受けていてドアを開けておき、壬生はそのプレイ写真を手に入れたというわけである。

 

白栖総合病院はコロナ禍を受け入れるしながらその実病床使用率ゼロで20億の不正受給をしていたということで炎上しているが、加えて、沈下のために医院長色を辞退し息子の正孝に継がせるとしたことがさらなる炎上を呼んでいるところだ。医院長がバカよばわりするから、なんとなく京極猛みたいなのを想像していたが、意外にも正孝は九条とか烏丸とか戌亥よりのインテリっぽい風貌だ。少なくとも、優しそうではある。

 

白栖が弁護士の相楽に愚痴をいっているところに正孝がやってくる。次期医院長を辞退したいと。正気かと怒鳴られてはいと即答するくらいには落ち着いている。ぜんぜん、白栖のいいぶんからイメージされる人間とはちがうなあ。

世間に叩かれているから辞退するのではなく、それ以前、病院の経営方針が間違っているからやりたくないということらしい。誰のための医療なのか考え直したいと。もう少し若い九条みたいな男だな。

医院長にいわせると、病院は経営者一族のためにある。病院の利益の最大化が最優先だと。自己利益の追求はけっこうだけど、それを、あえて病院でやる意味はどこにあるのか、よくわからない。

正孝は、医師と患者の、情報の非対称性や、過度の延命措置について、長いあいだ違和感を抱えていたようだ。医師は、当然患者より医療にくわしい。専門用語をちらせば、患者はおびえて医師のいわれるがままになる。そこに、過剰医療で延命措置をとる。こういうことのくりかえしで、患者を患者でいさせ続ける。

「生き物は自力で食えなくなったら死を迎えるのが自然」という、少し極端な考えかたがあることを、正孝は示す。点滴と胃ろうでむりに栄養をとらせ、意識も精神もなくただ心臓が動いているだけのものを人間と呼べるのかと、こういう葛藤があるのだ。

医院長は、命は地球より重いと、わりとシリアスな顔でいう。ここのぶぶんはどう受け取るべきなのか判断がつかない。それをお前がいうのかという気もするし、あるいはそれを真剣につきつめた結果いまにたどりついたのかもしれない。

 

正孝が去ったあと、Xかなにかで例のプレイ画像が流出していることを医院長は知るのだった。

そしてまた炎上。炎上というのかこれは、ともかく問題発生。車のなかで九条と烏丸が、どこか愉快そうにこの件について話している。こうやって炎上し続ければ、弁護士は仕事が増えてもうかるわけである。白栖委員長の過剰医療と同じ手法というわけだ。大衆は大岡越前的な勧善懲悪が大好きだ。だから、悪いことをしたものが謝って、叩かれれば満足する。この状況を「腹切り」というらしい。どの状況のことかよくわからないが、すいませんでした!と誤りながら腹を切り、どぼどぼ出てくる血はそのまま弁護士費用となる。相楽は10億は稼ぐだろうというのが九条の見立てなのであった。

 

 

 

つづく

 

 

 

いろいろ考え方が明らかになってきた。

ひとつは、白栖総合病院での親子の対立である。父が雅之で息子が正孝。雅之は、病院経営の目的は一族の繁栄だと考える。白栖病院は雅之が一代で築き上げた病院で、ここのところの「一族」のニュアンスは、伝統のなかにおけるじしんというよりは、ファルス的なものと考えられる。とするならば、患者はただの「手段」にすぎない。どれだけもうけて、どれだけ病院が大きくなるのかは、患者からどれだけお金をしぼりとれるかにかかっているからだ。それが、積極的な情報の非対称性行使と過剰医療につながる。対して正孝は、はっきりとしたじぶんの考え方をまだ確立してはいないものの、これではいけないと感じている。少なくとも、専門知識をふりかざして患者をおどかすのはおかしいだろうと。その先端に、延命措置の否定という極北があらわれつつある。

雅之が「一族」というとき、それは要するに、「おれの息子たち(からつらなる家族)」というものになる。代々病院を意地してきて伝統があるとか、そうでないのであれば、これはけっきょく肥大化した自我なのだ。若いころは、その「自分という才能ある病院経営者」を表現するすべとして病院経営は行われていた。それが、老いと息子の出現とともに、「一族」の営為として読み換えられつつある状況なのだ。そのように読み換えることで、彼はじぶんが衰え、また死んだあとも、「自分という才能ある病院経営者」のイメージを保持することができる。肥大する病院はそのまま彼のファルス(男根)である。だから、資質部分ではちっとも認めていないのに、正孝という、じぶんを投影できる「一族」の男性に、それを託すのである。このように自己を肥大化させることを日々の仕事としている人間なので、マゾ気質の行き場が失われ、陰ではあの趣味に走っている、ということなのだろう。

正孝は、病院経営にはまだ深くかかわっていないこともあってか、実務より原理に導かれている。根本的には、治療とはなにか、そもそも、人間とはなにか、という葛藤があって、そうした疑問の範疇からそれた医療行為を、父は行っていると、そういう見立てがあるようだ。

 

両者のちがいは、医療行為が「創出」するものなのか「対応」するものなのかというところで区別・整理できる。雅之は、患者を「創出」する。(正孝にいわせれば)ほんらい延命すべきではないものを生きながらえさせ、患者として持続させる。情報の非対称性を利用した不必要な医療行為もあるかもしれない。要するにイノベーティブであるということで、じっさいのところ、これがふつうの企業なら当然の思考法でもある。正孝はそうではなく、患者に「対応」するものとなる。要は、病院が先にあって、患者が出現するのではなく、患者があらわれるから、病院は建設されるのである。そうである以上、患者は第一の存在となる。第一の存在でなければ、病院は建設されていないからである。だから、正孝の論点は、患者が第一だとして、たとえば延命措置についてどうすべきなのか、というところになる。これを吟味しないまま金儲けを行う父はまちがっていると、こういう理屈だ。

 

これについて雅之がどこまで本気なのか命は重いということをいうのは興味深い。これは、前回相楽がいっていた「依頼人ファースト」と重なる発言である。かれらが、まさにそうではないからこそそうくちにするのか、現時点ではまだわからないが、ぼくは、案外ことばのままなのではないかなと感じている。

 

このぶんだと、壬生と相楽が実は通じていて、SMプレイ盗撮の件も相楽がかんでいる、というはなしになりそうだが、それはまああとの楽しみとして、相楽は謝罪会見から雅之をたくみにコントロールして、微妙に鎮火しないようにしているのだ。これが九条のいう彼の才能だ。これは、さきほどの病院経営のはなしとあわせれば、依頼人の「創出」にほかならないわけである。依頼人が、ずっとなにかで困っていてくれれば、依頼は絶えず、お金がどんどん入ってくる。どうせ、病床使用率ゼロの件も、洗脳くんの神道ばりに、決定的なことはいわず、なんならじぶんはそれをやめるようくちにしつつ、そうするようコントロールしたんじゃないのかな。雅之と相楽は医療と法律という別のジャンルで、同じことをやっているわけだ。

ほんらいであれば、病院も弁護士も「対応」するものであるから、「患者ファースト」「依頼人ファースト」であることはできない。原理的にそうなる。散歩していた医術の知識のあるギリシャ人が、「あっちでひとが倒れています!」と聞かされて駆けつけ、「対応」する状況で、彼は散歩中、その患者のことはまったく知らないのである。こうした「対応」の状況における医術の質を担保するものは、経営理念的な「××ファースト」というものではなく、たんなる誠実さなのである。もちろん、通常この言葉遣いが用いられるとき、このような理路は有効ではないだろう。ふつうは、誠実だから、この言葉が出てくる。しかし雅之や相楽はそうではない。だが同時に、この言葉は嘘でもないわけである。彼らが患者や依頼人を第一に考えるのは、それが金だからだ。値段をつけることのできる商品だからなのである。「依頼人ファースト」「命は地球より重い」という言い方は、じぶんの仕事観を否定しないままに相手を納得させる魔法のことばなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 

大晦日は、開始が遅かったせいで、去年末のまとめ記事がぐだぐだになってしまい、ぎりぎりまでなにか書いているハメに。脳みそだけで書けばいい記事とちがって、読書メーターやX(ツイッター)を使って1年振り返って書かなければならないので、意外と時間かかるのだ。あれを3000文字書くよりステゴロで1万文字書くほうがずっと楽なのである。

考察系記事とちがって、楽しみにしているひとなんていないやつなので、そう一生懸命になることもないのだけど、ずいぶん前からやってることで、本質的には無神経でだらしない人間なのに、そういうときだけへんな完璧主義が発動し、悲壮感とともに「なんとしてもやらなければ・・・」みたいな劇画タッチの表情になるのである。じぶんでもよくわからない。それ以上に「なんとしてもやらなければ」いけないこと無数にあるだろ。財布のなかに無秩序にたまってるレシート捨てるとかさ。あとまず本を処分しろよ。まあ、けっきょく筋トレ記事は間に合わなかったから、これから書くんですけど。

 

 

年越しは毎年のことながら彼女の実家。酒類やアイスを買って20時頃向かい、適当にみんなでテレビみたり、ふたりで映画かWWEをみたりして時間をつぶして、そばを食べて、2355をみながら阿佐ヶ谷姉妹とともに年越し。まあ、いつものことだ。しかし、直前まで書きものでひいひいいっていたせいか、微妙に年越しの空気を堪能できておらず、2023年が終わった感が少ない。年越しの、「いやなことは去年においてきた」っていう大味な雰囲気が好きなんだけど、遅刻しそうで走って、息あがったまま仕事始めちゃったときみたいな感覚で、現実感がない。ジョジョのチープ・トリックのようにぼくの2023年はまだ背中にしがみついてささやきかけてくるのであった。

 

2023年は特に進歩も退歩もなかった感じが強く、それをチープ・トリックのやつがぶちぶちいってくるふうなので、目標もなにもないかなあという気がする。2024年は2023年の言い換えであって、冗談ぬきでまだぼくの2023年は終わっていないのだ。たぶん、日常のささやかな達成感みたいなものが積み重なっていれば、「いやなことは去年においてきた」ができるんだろうけど、なんだろうなこのプラトー感・・・。もっとこう、絶対にぶち倒したい上司とか、誰も解けない難問とか、そういうのがやっぱりぼくは必要なんだろうか・・・。

 

 

まず読書については、「書評を書かない」をしても特に読書数、厳密には読了数は増えないということがわかったので、おもしろかったものについては書いていってもいいのかなというふうにおもう。なにより、九条とバキだけでは腕がなまる。どちらもきっちり週刊連載というふうではないし。ようやく脱出できた「読んだものすべてについてなにか書く」という習慣の肝は、「すべて」というところにある。要するに、特に感銘を受けなかったような、書くことがないようなものについても、とにかくひねりだしてそれなりの読みものにするということ、それが目的だった。だから、おもしろかったからといって書くのは、それとは異なる行動にはなる。でも書かないよりましだろう。

あと最近おもうのは、通勤中に電子や論文を読むことが増えたせいか、読書の単位時間が極端に短くなっているということだ。1時間みっちり本を読むというようなことはもうなくなってきており、同じ1時間でも、5分を12回みたいな感じなのだ。これでは、短い論文や短篇小説は終えても、哲学書や数学の本、長編小説は読めない。やりたいことが増えすぎて、ルーティンがマルチタスク化してきているというのもある。ぜんぶ中途半端なのだ。これは実は去年も書いていることなのだが、克服できていない。トレーニングしながらロシア語のラジオ聴いたって意味ないのである。増えすぎてしまった「目標」をもう少し切り詰めて、なるべく同時に行うことは避け、短い時間でもそれだけを行うと、そういうふうにしていかないと、ぼくの2023年は終わらないだろう・・・。

去年はこれを超回復理論で解釈した。超回復とは筋肉の成長にかんする現象で、トレーニングで破損させた筋肉が24時間~72時間休ませることで大きく、強く成長させるというものだ。これを基本として、トレーニングのメニューというものは構成される。要するに、月曜に胸を鍛えたら、火曜水曜は胸を使わないトレーニングを行う、ということである。これを、もっと複雑に、小さな筋肉まで把握したうえで、メニューは構成される。こういう考え方を学習においても応用しようというはなしである。これは、わるくない考えだとおもうが、いま読み返すまでそう考えたことは忘れていた。まったく意味がない。今年はこの記事を読み返しながら、ルーティンを組み替えていければとおもう・・・。

 

 

 

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他と比べて需要があるわけでもない年末まとめ記事、時間がなさすぎて、漫画と読書を合体、筋トレは最悪来年にまわすということで、とりあえずここまできた。時間がないといっても、忙しいわけではなく、たんに開始が遅かっただけである。通常はクリスマス過ぎくらいからはじめているのだ。ふつうに忘れていた。書評を書かなくなってから、少しこころが離れているのかもしれない。いいのかわるいのかわからないが、書きものじたいはぼくの根幹なので、もしほんとうにこころが離れてしまったら、たぶん別人になってしまうから、それはよくない気がする。

 

去年、2022年の末にはじめてふたりでいってから、3月くらいまでは、月1くらいで鎌倉に出かけていた。はまっていたといっていいだろう。最初に鶴岡八幡宮と大仏にいって、次の1月に長谷寺と大仏、2月にもじゃっかんルートを変えて長谷寺と大仏にいって(1回目にいけなかった長谷寺の観音ミュージアム目当て)、3月には円応寺の閻魔様に会い、ずっと行きたかった建長寺にも行ったのだった。長谷寺と建長寺は、この、ぼくらのなかでの流行りみたいのがくる前から行きたい(懐かしさに似た感覚で「行きたい」とおもっていたので、かつて家族旅行などで行ったことじたいはあるのかもしれない、記憶にない)とおもっていたので、それが達成できたのはよかった。だが、その達成感もあってか、ここで鎌倉探索は休止になっている。いまでもまた行きたいねというはなしはしているので、終了したわけではないのだが、ほかに大量にお金と時間をつかう趣味ができてしまったので・・・。まあ、ディズニーのことなんですけど・・・。

 

 

 

 

 

 

同時期、これも去年末から、左の上の奥歯が欠けて、そこから今年の夏から秋くらいまで歯医者通いをしていた。あれはたいへんだったなあ・・・。いつも歯ぎしりをして痛んでいた箇所で、それとの関係性はよくわからないが、ともかく歯が砕けて、12月28とか29日くらいだったとおもう、ぎりぎりかかりつけの歯医者がまだやっているタイミングに駆け込んだのである。だが、いちどでは治療は終わらない。そのときはとりあえずわるいところを落として詰め物をした感じだったのかな。だが、歯をごっそりととりはらうレベルの治療だったので、詰め物といってもほんとうに詰めているだけだったから、これがすぐとれてしまったのである。それが大晦日とか正月のいまくらいの時期で、歯医者はやっていない。虫歯じたいはとったものの、歯に穴があいたまま、年明けまで放置しておいてよいものかわからず、市のなんとかセンターみたいなところにいって応急的に詰めてもらったりしていたのである。これもまたすぐとれちゃうんだけど。正月にバスや電車を乗り継いでぜんぜん知らない土地にいって歯の応急処置というのは、もちろんたいへんだったけど、でもいまおもうとちょっと楽しかったな・・・。

患部の治療が終わっても、次から次へと(歯医者さんの)気になる箇所が出てくるので、ずっと治療が終わらなかった感じだ。ほんとうはいまも行っていなければおかしいのだが、いちど定期診断を微熱で中止してから行っていない。

 

 

 

 

去年の夏はコロナにかかって自宅療養とかあったけど、今年は無事だった。かわりに、11月頃、原因不明の吐き気と下痢、そのあとに39度近い熱に襲われるという事態に陥って、仕事を休んでしまった。たぶん、食中毒的なやつだとおもうけど、1日で快癒したので、休んだのは1日だけ。毎年11月頃体調崩すことが多くて、数日前、職場のひとに「毎年11月になると体調崩すんですよ笑」みたいなはなしをしたところでもあったので、伏線を張っていたみたいで恥ずかしかった。なんか、すぐ体調崩すんだよなあ最近。仕事休むとか、以前ならありえなかったというか、休むことが物理的に不可能だったからかもしれないが(出勤しないと店が開かない)、なんか最近、かんたんに休みよる・・・。

 

 

今年特筆すべきは、ディズニーである。7月10月12月にディズニーランド、8月の地獄の暑さのときにディズニーシーに、それぞれ行ってきた。

ぼくらはどちらももともとディズニーは好きだった。だが、書店の仕事が忙しくて、休みもろくにとれない状況が10年以上続いて、まったくいけなくなっていたのだ。それに、舞浜が決して近所とはいえなかったということもある。仮に1日同じ休みがとれたとしても、前日深夜2時まで働いてて、翌日は朝からみたいな状況で、ちょっと舞浜まで、という気持ちには、とてもなれなかったのである。そういうわけで、ランドは2010年11月、シーは2009年11月を最後に行っていなかったのだ。それが、いまの職場環境になって、放っておいても同じ休みの日や連休が自然発生するようになり(これまでは意図的にそうならないようにされていた)、これは、ディズニーにいけるのではないかと気がついたわけである。

 

 

 

 

 

ディズニーに行くのが日常になってからは、生活認識が根本的に変わってしまった感じがある。仕事が終わったあと、ほぼ毎日、ネットフリックスかアマゾンプライム、ディズニープラスからなにか映画を拾って観るのが習慣になっているが、ディズニー熱が高まり出してからはその半分がディズニーになった。マーベルを含めずに、である。たんに渇きとともにそれを求めているということもあるけど、もうひとつ、勉強ということもあった。パレードやグッズ売り場なんかにいくと、知らない作品やキャラクターがまだたくさんあることに気付かないわけにはいかなかったのである。だから、特にぼくのほうで、ディズニー的な教養の底上げをする必要があったのだ。特に、アラジンとか王道ものは観てないないのけっこうあったので、徹底的に流し込んでいった。なんでかな、「男らしさという呪縛」かな、とりわけプリンセスものにはなんとなく苦手感があったんだけど、冷静に考えるとぼくはもともと物心つく前から宝塚とともに育ってきた人間だし、苦手なはずがあるわけもなく、親しみの感覚とともに吸収することができたのだった。

 

筋トレについては、別で書くけど、しっかりプルアップできる場所を確保できるようになったのは大きかったかな。まだ計ってないけど、サイズどうなってるかな・・・。

 

この職場にきてから気になっているぼくの「ものを知らない」問題だが、いいのか悪いのか、最近は、それほど気にならなくなってきている。気にならなくても、ものを知らないままではいけないので、勉強は続けているが、正直かなり雑になってきてしまっていて、いけないなあとおもう。去年から読んでる行政学の本とか、半分くらいで止まってしまっている、コロナのときにはじめて習慣になりかけた数学も、最近はやってない。かわりに、共立出版から『証明の読み方・考え方』というものすごいおもしろい本が復刊されたので、それを読んで気をまぎらわせている。

 

 

 

 

法律は、いま優先的にやらないといけないのはプライバシー権と著作権だが、ぐだぐだだなあ・・・。それよりいまは九条の大罪の影響もあって刑法のほうがおもしろくて、団藤重光の『法学の基礎』をいつ買おうかという感じである。あと通勤時にも刑法の論文ばっかり読んでて、増田豊先生の本をなにか手に入れたいのだけど、ものすごい高いのしかなく、増田門下のかたたちが書いた、法律文化社の『刑法総論』を読めばよいのかなあ、などと思案している段階だ。

 

というようなところです。来年もぐだぐだなりにがんばっていきます。みなさま、2023年もお疲れさまでした。よいお年をお迎えくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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通常、漫画と小説等の読書はわけて記事を立てるが、マジで時間がないので、まとめてざっと書きます。

 

【漫画】

今年は『チェンソーマン』13巻から『妻観察日記』4巻まで、ぜんぶで64冊の漫画を読んだ。電子やアプリでもかなり読んでいるので実数はもはや不明だが、まあたいしてちがわないとおもう。月5,6冊くらいのペースということで、順調に減ってきて安定してきた感じである。年400冊とか読んでたころのペースがまったく思い出せないし、このくらいまでに落としても信じられないくらいのスピードで本は増え続けている。細胞分裂しているのかもしれない。

今年もいくつか新発売のものに手を出してもいた。しかし定着したものはひとつもなかったな。たぶんもう、感覚がおじさんになってきて、要するに鈍ってきてるんですよね。それが本に携わるものとしてはこわくて、なるべく新しいものを摂取しようとこころがけてはいるんだけど、いま書店にはいないということが後押しするかたちで、最新の感受性を身につけている必要性はあまりないので、なまけている感じだ。感受性がおじさんになってしまうことじたいは、ものごとの摂理なのでしかたないとしても、楽しいものが減っていってしまうことは悲しい。なるべくがんばっていきたいが、チャンピオンやスピリッツを電子で読むようになっちゃったのも原因のひとつかもしれない。もう、ぜんぜんパラ読みみたいなことしなくなってしまった。じかにバキと九条を探し出して、感想書いたら終わり、みたいな。ふつうにもったいないわけなんだけど、なにしろ読みにくくて・・・。コミック誌の電子は、目次から該当ページに飛べるようにならないかな。

それでもなにか書くとすれば、年始に出た板垣先生の自衛隊漫画と、夢枕獏原作のバキ外伝『ゆうえんち』、そしてジョジョ新連載『ジョジョランズ』あたりになる。自衛隊漫画は、ものすごいおもしろいのにどこでも読めない状態になっていたから、新作とともに1冊にまとまったのはほんとうにうれしかった。おすすめです。『ゆうえんち』も、はじめてバキを読んだときの、荒唐無稽なのにリアルに感じられて読む手がとまらないあの感覚を想起させるもので、とてもいい。『ジョジョランズ』もめちゃめちゃおもしろいぞ!

それから、最近友人のすすめもあってマガポケという講談社のアプリをいれて、1話2話単位で読むみたいなこともはじめた。ログインボーナス等で読めるのである。いま読んでいるのは岩明均の『ヒストリエ』。もちろんもとコミック担当として存在は知っていたが、この手のアフタヌーン系のコミックにはほとんど触れずに生きてきたので、とても新鮮だ。こんなにおもしろいとはおもわなかったな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【読書】

漫画以外の本となると、これは、なんと9冊ということになった。こちらは減らすつもりはぜんぜんないのだけど、なんか、減っていた。去年が17冊、その前が22冊、病みすぎてまったく本が読めなかった2019年が15冊ということで、おそらく人生でもっとも本を読まなかった1年となった。

どうしてこういうことになったか、厳密にいうと、本は読んでいる。それも、大量に読んでいる。50冊くらい並行して読んでいる。ただ、そのせいでぜんぜん読み終わらない。電子もたくさん読んでいる。さらに、通勤時には仕事に関係する論文をたくさん読んでいる。論文だけなら短いものも含めて30本くらいは読んでいるはずだ。いまの仕事は書店時代より厳密さの要求されるものなので、なにかのテーマで本を集めようとしたら、おそらくはそこまでやらなくてもいいのだろうけど、論文を読んで背景を熟知しておきたくなるのだ。

そういうわけで、読書じたいはしている。しているが、それにしても年間9冊とは、馬鹿じゃないかという数字である。しかも、今年は書評をまったく書かなかった。これは去年から実行してきたことである。書くとながくなるが、ぼくはブログを訓練のひとつとして開始した。読んだ本について必ずなにか書くということを決めて、それを15年くらい実行し続けてきたのである。その規律は、ぼくに大きな実りをもたらしたとおもう。いまふつうにバキや九条でしているような読解は、そうした訓練ぬきには不可能だった。だが同時に、ぼくはそれを開始したときから、本を読むのがとても遅くなってしまった。作者や関係者が読むかもしれない公開記事で、適当なことは書けない、だとしたらちゃんと読まなければならないと、当然なったのである。これが、読書量という一点においては大きな障害となっていたわけである。じゃあ書くのを減らそうとしても、なかなか難しかった。もう、書かないと気持ち悪くなってしまう体質になっていたのだ。それが、去年から、ふとした拍子に、書かないでいられるようになった。そして今年はついに、ぜんぜん書かないでも平気でいられるからだになったのである。というわけで、理論的には読書スピードはあがるはずなのだが、あがらなかったということである。ぼくの遅読は精読とは無関係だったということか、芯までしみついた精読癖がぬけていないということか、それはよくわからないが、ともかく読書量は伸びなかった、どころか激減してしまったのである。どうすればいいのかは、わからん。わからんが、影響ないんだったら、もう少し書評を書いてもいいのかもしれない。このままだとせっかく身についたものが鈍ってしまうかもしれない・・・。

 

たった9冊なので書いていくと、出久根達郎『東京歳時記』、ドブロリューボフ『オブローモフ主義とは何か?』、大澤真幸『私たちの想像力は資本主義を超えるか』、鈴木隆美『恋愛制度』、倉田百三『出家とその弟子』、法制執務・法令用語研究会『条文の読み方』、白井智之『おやすみ人面瘡』、山下純司ほか『法解釈入門』、エマニュエル・ボーヴ『ぼくのともだち』、以上である。この読書状況で読みきっただけあって、どれもすばらしかった。特に『法解釈入門』はおそらく今後もお世話になるだろう。批評的創造性については、大澤真幸を読んでおいてよかったかなという感じがある。『ぼくのともだち』もおすすめで、ボーヴのほかの本も読んでみようかと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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