すっぴんマスター -24ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

現在までのぼくの筋トレ観は、基本的に書店員になって出会ったマッスル&フィットネスという雑誌によってかたちづくられたものなので、おおよそのところはボディビル的なものの近くにある。もともと少年時代に極真空手をやっていて、これは直接打撃制の、パワーが重視される流派であるから、筋トレ、というか筋肉についての親しみの感覚じたいはだいぶ前からあった。腕立て伏せとかスクワットとか、そういうレベルの「筋トレ」じたいもずっと行ってきたし、じっさい小学生のころから同年代と比較してもちからは強かった。だがいまと比べれば当時のトレーニングは、メニューにしても取り組みかたにしてもずいぶん拙く、理論もなにもないがむしゃらなものだったとおもう。筋肉が破壊され、回復するときに大きくなるという超回復理論についても、からだでは理解していたし、そのように教わったような記憶もあるが、理論として意識されていたということはなかった。これが意識されていない状態では、メニューを立てることもできないわけである。

 

 

 

 

 

 

筋肉については一家言ある、そういうほのかな自負心とともにのぞきみたボディビルやそれに類する世界は、絶望的に広大に見えたものだ。と同時に、それはやはり親しい世界でもあった。超回復理論にしても、読んで覚えるというような必要はまったくなかったわけである。ああ、あれってそういうことなのかと、納得すれば済むことだった。もちろん、ぼくはジム通いなどできるタイプではない。まず「××通い」みたいな継続性を伴い、かつそこに他人の干渉がある状況が苦手だし、なにごともひとり暗い部屋のすみでごそごそやりたいタイプの人間なのである。手持ちの小さなダンベルと自重だけが使用可能器具であり、いまでもそれでじゅうぶんだと考えているが、ではボディビル的なもの、ジム的なもののなにがいまのぼくに影響を与えているのかというと、思考法ということになる。もっと厳密にいえば、筋肉をアイソレートして認識する視点だ。要するに、極端にいえば、これまではたんに「腕力」のひとことで理解していた上腕の働きについて、引く動作で使用する上腕二頭筋(ちからこぶ)と、押す動作で使用する上腕三頭筋があり、それぞれ別々に鍛えることで、細かく効率的なトレーニングメニューの構成が可能になるということなのだ。その上腕二頭筋や三頭筋にしても、名前の通りそこには長頭や短頭などが存在しており、わけてとらえることは可能だ。このはなしは極端なものとしても、若いころのぼくはそういうレベルの筋トレ者だったのである。

スポーツは苦手で興味なし、団体行動もできないぼくには、筋肉研究が性にあっているということももちろんある。競争も苦手であるが、それは他人と争って生じる不和が苦手ということであり、相手が「昨日のじぶん」ということであるならはなしは別だ。ぼくが筋トレに熱中するのは、空手時代からの親しみの感覚からスタートして、自然なことだったわけである。

 

このようにしてはじまった筋トレライフに、次にあらわれたメンターは、プリズナートレーニングのポール・ウェイドだった。詳細はいろいろ書いてきたので省くとして、ウェイドが示すのはバーベルなどを用いた究極にもみえるトレーニングを超えた可能性を自重トレーニングはもっているということだった。プリズナートレーニング、正式にはコンヴィクト・コンディショニングでは、たとえば腕立て伏せ・プッシュアップは、壁に手をついたごく易しいものから開始する。そうやって、関節から鍛えていく。それを、少しずつ難度や強度をあげていき、最終的に片手プッシュアップに到達させるのである。片手プッシュアップというと、多少からだを鍛えているひとなら、そんなものじぶんでもできるとおもうかもしれない。しかし、コンヴィクト・コンディショニングの指示する片手プッシュアップの完成形とは、足をそろえ、胸が床に接触するほど深く沈み、しかも1回に5秒かけたものを100回行うというものである。壁に手をついて腕立て伏せしていたものをそこまでもっていく、そういう発想なのである。むろん、やろうとおもえばその先にも曲芸的なワザは控えているのだ。

ポール・ウェイドの考えかたに異論があるトレーニーも多くいるだろうとはおもうし、ぼくもダンベルをつかうことはある。しかし、自重トレーニングのもつ安全性、関節そのものを鍛えるという格闘技にも似た発想、それに壁の腕立て伏せから少しずつ難度を引き上げて片手までもっていく漸進性など、ジム通いの筋トレ者が見るべき点も多くあることはまちがいない。かくして、ぼくでは、思考法だけ頂戴していたボディビル的な合理性と、自重トレの究極の理論が交差し、いまに至っているというわけである。

 

 

 

 

 

 

こうしたところで、プリズナートレーニングに出会って以来、いちばんのネックだったのが、プルアップ、つまり懸垂だった。これは引きの動作であるから、背中や上腕二頭筋を鍛えるものだ。ところが、ぼくの身の回りにはぶら下がれる場所というものがなかった。厳密にいうとあったわけだが、とにかくそのときはないとおもわれた。だから、背中にかんしては、明らかに重量不足のダンベルを使って高回数のローをやったりしてごまかしてきたのである。

いまぶら下がる場所について妙な書きかたをしたのは、つまり厳密にはプルアップの可能な公園が近所にはあったということである。ぼくは、それがあることを知っていた。しかし、かなり長いあいだ、それを使わなかった。なぜかというと、職質がこわいからである。ぼくは、ほんとうによく職質される。残業していてお腹がすいたからと、いっかい店をしめて、コンビニに出かけて、その足で職質される。真昼間、図書館に本を返しに行こうと自転車に乗っていて、職質される。いまの会社の面接では、面接官の評価のひとつに「なにを考えているかわからない」というものがあったようで、おそらく顔つきが原因とおもわれる。が、ともかく職質される。ふつうに生きていて、警察官が話しかけてくる。こういう人間が、公園にのこのこ出かけていって、何事もなく帰ってこれるだろうかというはなしなのである。

 

だが、2年ほど前に、なにかのきっかけで公園でのトレーニングを開始して、案外大丈夫なものだなという発見をしたのである。まず、公園には警察官がこない。そういう、不審者がいそうなところには、仕事が増えるからなのか、逆にこないのである。なんでもない道路では何度も見かけるのに、そこではいちども出会ったことがない。そして、想像していた以上に、警察官どころか、ふつうの一般人も、誰もこない。特に深夜となると、半径100メートル全員死んだんじゃないかというほど静まり返っており、貸切のジムのようになるのである。当初は、自警団的な住民が「なんかへんなソース顔の男が激しい呼吸音を発しながら突っ立っている」とか通報する可能性を考えて、ごく短く、10分程度のトレーニングで切り上げていたが、マジでなにも起こらないので、最近は平気で30分以上みっちりやるし、昼間にも出かけていく。夕方ころだと、さすがに帰宅するものが通りかかるが、どうおもわれてるかはともかく、みんな足早に通り過ぎるだけで、別になにも起こらない。考えてみれば、ぼくは職質はされるけど、通報はされたことがない。なにか連動するものととらえていたのだが、住民については、それほどおそれる必要もなかったのである。

 

公園はふたつあり、当初つかっていたほうはふつうの鉄棒しかないので、そこはもうあまりいっていない。その後少し家から離れているが、懸垂用の器具があるいい公園を見つけて、現在はもっぱらそこに行く。並行のリングが宙に伸びている器具で、手の向きに厳密にこだわると、これはハンマーグリップといって、鉄棒をつかったオーバーグリップと逆手のアンダーグリップの中間ということになるが、ふつうの鉄棒もあるので、オーバーやアンダーをやりたくなったらそこで補う感じだ。

で、この公園に19時くらいにいくと、外国人のファミリーがたくさん集まっている。どこの国のひとたちかはわからない。少なくとも英語ではない。ロシア語でもない。たぶん、同じ国のひとたちで、何時にあそこに集まろうみたいな決まりがあるのだろう。多いときで20人くらいいる。父親っぽい男のひとがいることもあるが、たいがいは母子で構成されている。子どもたちはみんな小学生になるかならないかくらい。これが超かわいいというはなしだ。ぼくが公園に着いたときにはもうたくさん集まっていることもあるし、やっているときにちょっとずつ集まってくることもある。そして、子どもたちは、よくわからない上下運動をする、面接官いわく「なにを考えているかわからない」半目の男に、興味を示すわけである。まわりで走り回り、ぼくが懸垂器具から離れたところで器具によじ登ろうとしてお母さんに回収され、ぼくがアンダーハンドのプルアップで上腕二頭筋パンパンにさせながら限界回数に挑戦している視界のすみで、低い鉄棒でその動きをまねしたりするのである。

最初は、おそらくじぶんたちが外国人であり、このラクダみたいな目の男が日本人であるということもあってか、異常なほど警戒されていた。といっても、ぼくが通報を心配するタイプの警戒ではなく、逆に通報されることをおそれているタイプの警戒である。子どもたちがまわりに集まりそうになると、血相をかえてとんできて回収して叱ると、そういうことである。むろんぼくでは迷惑ではないどころかかわいいし、まわりに子どもがいたら限界に挑戦する系の種目は行わないし、着地するときには周囲を確認している。だが、会話はない。男の子と並んでにこにこホリゾンタル・プル(斜め懸垂)をしたことはあるが、話したことはない。

だが、最近はどうやら母親たちにも安全認定されたようである。「このひとは子どもが騒いだくらいで怒ったりしないようだ」というふうに認識された感覚があるのだ。それで、いよいよ子どもたちが上下運動をするぼくのまわりで遊び始めている。といっても、さすがに足元にはこないようにしているようではある。あとやっぱり真似をしてくるので、それはかわいいのだが、懸垂器具は危ないので、真似をするのは鉄棒まで、懸垂器具に登ろうとしていたら、それとなく近寄って移動させるようにしている。このごろは子どもたちが挨拶をしてくれるようにもなった。ぼくが公園に到着すると、手をふって合図をしてくるので、ぼくも手を振る。帰ろうとすると、こちらが見えなくなるまで大きな声でバイバイと叫んでくるので、ぼくも振り返って手を振る。かわいいでしょ。いまではモチベーションのひとつである。危ないようでもあるけど、緊張感が増す面もある。腕立て伏せをするとき、眼下に非常に大切なもの、相方とか、小さい動物とかが眠っている姿をイメージし、落下するとそれが傷ついてしまうと想像すると、限界突破できることがある。それと似ているかもしれない。そのうちおはなしもしてみたいが、どうだろうな・・・

 

 

今回はこの短いはなしをしたくて記事を立てたのに前説が長くなりすぎてしまった。すいません。

 

 

 

 

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第5話/いい風貌(かお)

 

 

前回

 

 

誰かとおもったら花田が、花山の拳を受け止めてカウンターの投げをうったところである。

ダンプからカウンターがとれないように、花山からはカウンターがとれない、というはなしだったが、それは、花山が構えはじめるとなぜかみんなそれを最後まで見届けてしまうという、ヒーローの変身場面にも似た不条理あってのことだった。花田は、逃げつつ、しかし見届けはするという、いいポジションで、投げを放ったのであった。

 

鈍重そうだが花山理論ではスピードも破壊力の要のひとつだ。花田の耳を落としそうな速度で顔の横を拳が通過する。そして、その勢いのまま背負い投げである。花山もちょっと驚いているようだ。

地面に顔からつっこんでしまう花山だが、たいしたダメージではない。複数の銃弾がくちのなかで炸裂して顔が爆ぜても立っている男である。が、のんびり起き上がっているうちに花田は逃げ出してしまったのだった。花山からカウンターがとれた、それだけでじゅうぶん、ということかもしれない。このまままともにたたかったら重傷は避けられないので。

 

 

光成邸には鎬昂昇との対決があるようなないような感じのジャックがきていて、ごちそうされている。ごちそうといっても、ステーキとか寿司ではなく、牛の背骨である。

牛の背骨はライオンでも歯が立たないという。内部にある「髄」にたどりつけるのはハイエナだけ。もちろん、ジャックは除く。相変わらずジャックは揚げパンでもかじるみたいに動物の背骨を食べるのだった。

さて、鎬昂昇だが、なにを知っているかと光成は訊ねる。わりといい質問だ。バキの世界では意外とひととひとの交流が描かれない。あのひととこのひとがどの程度のかかわりでいるのかが、よくわからないのだ。だからこそ、加藤とガイアがスパーリングしたりするとちょっと興奮したりする。で鎬昂昇についてジャックはどうかというと、よく知らないのであって。最後にあったのはピクル争奪の同窓会。まちがってはいないので、いうほど興味ないという感じではないみたい。だが、そのとき「ミカケタ」という、ひどい認識ではある。あまり出番があるほうではないが、鎬昂昇はドイルを圧倒する実力者であって、まちがいなく一流の強者だ。下手したら初期のうぶな宿禰でも勝てないかもしれないくらいには強い。そんなお気楽な相手かと光成は訝しげにいうのだった。

 

 

本部の道場には花山の事務所から逃げ出した花田がきている。彼は本部流の免許皆伝、だったかな、とにかくトップの弟子だったとおもうが、久しぶりらしい。明らかにデザインが変わった花田の顔つきから、本部は場数を読み取る。稽古だけで生まれる「気」ではないという。修羅場、場数が風貌に「武」を宿すと。ならば修羅場ばかりをくぐってきた本部はイケメンである。という和やかな場面に、ごぶさたしてますと鎬昂昇があらわれる。ごぶさたしすぎだろこいつら。本部をなんだとおもってるんだ。

といっても、鎬はじぶんできたわけではなかった。本部が呼び出したのである。花田はどっちなのかよくわからない。でも、流れからして本部がぶつけたのかもしれない。鎬はいう。ここにはなんでもある、本部の技術、数々の武器、そして古流柔術を修め、プロレスラーでもあるという花田。鎬は「ステキな玩具」呼ばわりで花田を挑発するのだった。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

花田は花山と真っ向勝負するつもりはなかったらしい。

本部は花田の表情から踏んだ場数を読み取っている。たぶん、花山のところにいったみたいに、いろいろなところに顔を出して、いままでなかった経験をしてきたのだろう。しかし、なんというか、一晩だけのものも含めてつきあった異性の数をいうような誇張の感じも少しはある。少なくとも花山に関しては、場数に含んでよいのか微妙なところだ。花田はたぶん、花山の前に立てる胆力がじぶんにあるかどうかと、そのパンチからカウンターをとれるかどうかたしかめたかっただけでえ、花山との喧嘩でどうこうというつもりはなかったっぽいのだ。それを修羅場に含んでいいのかな・・・という気持ちは残るわけである。まあ、たんに想像以上に花山がバケモノで、ふつうにムリだってなって逃げただけかもしれないが。

 

バキ作品は主人公にバキを据えつつも魅力的なキャラクターに充実した作品で、群像劇的な面もある(だから外伝も多発する)。ただ、その横のつながりはどうなのかというと、よくわからないところはあった。つまり、「刃牙らへん」の関係性ということである。映画のアベンジャーズのシリーズなどでは、そのあたりを鑑賞者が求めていることを知ってか、明らかに意識的その関係性を描いていくことに注力していたが、あそこまで公式からの供給が親切設計なストーリーは珍しく、たいがいは、物語の中心にあるなにものかに多くのものの目が集中し、いっさいの脇見なしという状況になりがちである。バキを欠き、勇次郎を欠いた遍在の世界で人物たちが描かれるということは、彼らの横のつながりが明らかになっていくということなのかもしれない。だとしたら大歓迎である。そういうのは大好きだ。

 

これまでにもじつはそのようになりかけたことがないではない。刃牙道開始時点での、あくび現象である。親子喧嘩が終わったあと、ファイターたちは以前にもまして厳しいトレーニングを行いながら、なぜかこらえきれないあくびに支配されていた。厳しいトレーニングは危機感を、あくびは倦みを示す。親子喧嘩が終わったことで中心を失い、目標地点をどこに定めればよいのかわからなくなったことにより、また危機感はのちの武蔵出現を予感してのことだったとおもわれる。それまでは、どうやっても届くことはないとわかっていても、どうあれ勇次郎はファイターにとっての「最終目標」としてあった。ぜったいに届かない太陽に向けて毎日跳躍することでジャンプ力がついていくというようなことだったのである。が、親子喧嘩は勇次郎の唯一無二性を失わせた。そばに同レベルといってよいもうひとりの最強者としてバキが立つことで勇次郎は相対化され、神話性を剥がれて、「語ることのできるもの」、要するに現実的なものとなったのである。じっさいには勇次郎の強さが「現実的」ということはないわけだが、計測不能のはずだった絶対者が相対化されたということは大きかったはずだ。これが、ファイターたちからわずかに「張り合い」のようなものを奪ったのである。だが、やはり勇次郎が強者であることにちがいはなく、じぶんが強さを求めていることも変わらない。妙な予感もある。そうして、あくび現象に負けじと彼らは以前にも増してトレーニングにはげんでいたのである。

このときに、バキ世界からはいちど中心が失われかけた。以後、武蔵、宿禰と続くことで主題のようなものはつねにあったわけだが、今度はいよいよ、あくび以後、主題のない世界が描かれんとしているわけである。

 

ただ、ここには少しトリックがあり、それが「刃牙らへん」として語られる以上、実は依然として中心は存在している。鎬昂昇も花田も、刃牙のまわりにいる強いひと、という属性を出ないのである。これは、バキ道でときどき話題にしていた、ファイターにとっての「見られる」ファイトと関係しているとおもわれる。とりわけジャックは、宿禰戦勝利後にかなり自覚的に「見られる」状況を堪能していた。これが作品成立のメタ的次元に引き上げられると、そういう属性が出現することになる。だが、鎬昂昇を「刃牙のまわりにいるひと」と鑑定するのは他者である。無責任な非当事者なのだ。あくびをするジャックは、作品構成レベルでは、「中心点を失い、居場所が不明確にある刃牙周辺のもののひとり」ということになるが、もちろんジャックにとっての自分自身はそうではない。当たり前のことだ。ジャックにとっては、この世界の主人公はジャックなのだ。

とはいえ、この立論は少しイジワルというか、野暮かもしれない。だって、この漫画の主人公はこれまでずっと刃牙で、ジャックらがその周辺にあらわれてきたものであることは事実だからだ。漫画としてはそう説明するほかないというわけである。だが、ジャックにとっても鎬昂昇にとっても花田にとっても、自分自身がじぶんの人生の主人公であるということに、ほんらいちがいはない。そこが明確になったとき、本作は本格的にスタートするにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第88審/至高の検事㉔

 

 

 

嵐山の人格攻撃を含む取調べときつい環境のせいで暗い記憶ばかり思い出してしまう九条。ノートに心情を記しつつ、あるところで突如ペンをガリガリかんでしまうのだった。

 

前回の描写では、うつろな表情も含めて、狂気や崩壊のようなものが感じられたことはまちがいなく、そのように読んだし、それでまちがっているわけではないのだが、九条はおもったよりぜんぜん正気であり、ただ子どものころの癖が出てしまったというだけのことのようだ。とはいえ、かたいペンの先は細かく砕けていて、嚙むというより食べるつもりのちからでやったらしく、なかなか、常軌を逸したひとである。

 

中学生くらいの九条が描かれる。少し前に扉絵かなんかで描写のあった勉強部屋は、てっきり烏丸のものとおもっていたが、九条だったらしい。鉛筆のお尻のぶぶんはどれもがりがりかまれて変形している。そして、黙って机に向かいながら、無秩序な文字群を書き、それを黒々と塗りつぶしているのだった。そのうえには大きめの漢字で「死」などもみえる。「滅」っぽいのもあるな。

その様子を、九条は父・鞍馬行定に目撃されてしまう。なぜ蔵人のようにできないのか、鞍馬の弟は馬鹿だといわれて悔しくないのか、と説教しながらなぜか行定は上着をぬぐ。殴る準備だ。九条は涙を流しながら鉛筆を噛み、もう勉強したくないという。やがて、鉛筆が折れる。そこで拳骨。正座して反省である。東大法学部に入れなければ絶縁と。現在の仕事ぶりからしても、九条はふつうに頭脳明晰で、ここまでいわれるほどの劣等生だったとはちょっとおもえない。成績不振の原因はふつうに考えて家にあるわけだが、まあいま弁護士になってはいるわけだから、難しいところか。

 

ひどい思い出だが、九条はそれを笑いながら思い出している。続けて、黙秘は技術だと、ノートへの記録を続ける。そのように述べられているわけではないが、このように笑い飛ばすことも人生の難所を克服するのに必要な技術なのかもしれない。

黙秘に必要なことは3つ、目の焦点をぼやけさせる、視線はネクタイの結び目あたりにおく、そして呼吸を数える。座禅と同じだというのだった。

 

 

烏丸との接見で九条はペンのはなしをする。特に怪我をすることはなく、ただ看守に怒られただけのようだ。その表情から烏丸は九条がなにかを乗り越えたというふうに感じ取る。そして、冗談っぽく、司法試験の索漠の時期と比べたら、みたいなことをいう。九条は、東大首席で学生時代に司法試験受かった烏丸がそれをいうかと吹きだしながらつっこむ。もちろん烏丸も九条がそのように受け取るということをわかっていっているのだった。そして九条は、弁護士には真面目さより明るさや笑顔を期待してしまうものなんだなと新たに発見するのだった。

 

どのくらいたったのかわからないが、九条はもうひとがんばりというところのようだ。壬生の供述だけなら不起訴、そこに犬飼の証言でも加われば別だが、犬飼はもうこの世にいない。

というわけで、九条は20日がんばって解放されたようだ。車をとばしてどこか山奥の別荘みたいなところに到着。そこには壬生がプールに足をつけて待っていたのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

何ページか読み飛ばしたかというような急展開である。

 

とりあえずは九条が本気で発狂したわけではなかったというのはよかった。よかったが、過去を克服、というより抑圧をするために必要な狂気というものは感じられ、別の意味でこれでいいのかなという感じは残ってしまった。なんというか、現実を現実として受け止めるためにはだれしも多少狂っていなければならないわけだが、九条はそれを技術的に乗り越えてしまったのである。

 

前回九条は、離婚当時のことを思い出し、ペンをバキボキかみ始めていた。これはむかしの癖だという。それは、勉強がいやでたまらないあのときのストレス下で行っていたものだ。つまり、離婚当時のリアルなストレスが、ちょうどペンをもってノートに向かっていたことも手伝って、少年時代のストレスと同期し、連動してしまったということだ。じっさい、今回の少年時代の回想は、九条が我に返ってから自嘲的に呼び起こされているものだ。今回の噛み癖のあらわれは、それを行っていた勉強時代ではなく、離婚という経験に対応したものなのである。たんに強いストレスである以上に、両者に共通点はあるだろうか。それは、ひとことでいえばいたらなさ、「不行き届き」ということになるかもしれない。

前回考えたように、九条は離婚や子育ての記憶を克服したわけではない。抑圧しているだけだ。なにによってかというと、弁護士としての使命感によってである。弁護士として信じる道を行く、そしてその道は、司法試験合格とともに携えることになった職能ととともに、神の呼び声に応えるものとして、一種の必然として、行動を決定するものだ。弱いものを助けるのがじぶんの仕事、法の手続きを守るのがじぶんの仕事、こういうふうに考えることができれば、それによって失われた重大で大切な物事を、一時的に忘れることができるだろう。しかしそれらは乗り越えられたわけではない。ふとした拍子に戻ってくる。とりわけ、嵐山の人格攻撃で自信を失い、使命感も揺らいでいるいまのような状況では、当時の過失は言い訳もできないただのリアルな「不行き届き」として再現されてしまうのだ。

勉強時代のトラウマ、勉強ができなかった、そのことによって父に虐待をされた、また蔵人や他人に対する強い劣等感、こういうものもまた、克服はされていない。離婚の事実と同様、「弁護士として誇りをもって活動している」という現在の事実によって塗りつぶされているだけだ。こうして、離婚と勉強は同期することになる。九条の自尊心は弁護士業によって、というより彼独自の弁護士観によって保たれている。それが嵐山によって損なわれ、そのしたに隠していた離婚と勉強の記憶が、まるで同一の記憶であるかのようにあたまをもたげ、そのストレスへの反応としての鉛筆噛みをさせたのだ。

 

ストレスはカタルシスの快楽と表裏一体である。カタルシスの語源は古代ギリシャ語で排泄を意味するものだった。ほんらい、排泄行為は、排泄物がたまらなければ行わずに済むことだ。しかし、生物が時間的存在として持続し、成長と保持のために摂取を続ける以上、排泄は必然の現象となる。排泄物の滞留じたいはストレスである。しかし、それは存在にとって不可避的な現象であり、これをストレスのままにしておくことは賢明ではない。だから、すべての滞留に対応する解放には快楽がつきまとうようになったのである。おそらくそのようにして、わたしたちは「カタルシス」を知ったのだ。それは、存在していることと一体の、無時間的には矛盾を抱えた作用なのである。いかにカタルシスが心地よくても、それの前提となるストレスは不快なものだ。だとするなら最初からストレスなどなければよい、ということに、ふつうはなる。だがそうはいかない。そうはいかなくなったとき、生理的必然性はそこにインセンティブのようなものを設けたのだ。

ストレスそれじたいは、単独では有害なものでしかない。それが排泄物の滞留というような、生物としての必然であるなら、その排泄における快楽というかたちで帳尻合わせも行われるだろう。けれどもそうでない場合、つまり、たとえば勉強を強いられるストレスのばあい、ひとはどうなるのか。通常、そのような生物的な必然性を欠くストレスからは、逃げればよいということになる。満員電車に耐えられなければ、次の駅でおりることでとりあえずは解決だ。だから、そうしたストレスに対応する解放の行為、排泄の行為も、ふつうは不要となる。九条が噛み癖を身につけてしまったのは、ほんらいただ逃げればよいはずのこうした外部的条件によるストレスを、生物学的必然と同レベルに内面化し、受けとめていることを意味するのだ。もちろん、同意のもとそうなったというはなしではない。家庭の事情はさまざまだが、こうしたものから「逃げる」というのは、いうほどたやすくはなく、通常は、「食って寝て排泄しないとひとは死ぬ」くらいに当たり前のこととして考えられるのである。だから、この状況で彼ができることは生物学的必然のようにそれを受け止め、正当化するしかなかったのであり、その結果が、ああした噛み癖による若干の解放運動だったのかもしれない。

 

しかし、もちろんそんな程度のことで、処理しきれない滞留が消え去るものでもなく、必然性とともに受け取っている以上、そこには理屈もないから、ことばにならない闇が内側には広がっていくことになる。それは、病徴にかわることもあるだろうが、この段階の九条では、英単語や計算式を書くためのノートを黒く塗りつぶすという行為に変わっていた。九条が、こうした記憶を、克服しないまでも押さえつけることに成功はしているとおもわれるのは、噛み癖を起こしながら、引き続きノートへの記述を続けているからだ。嵐山の人格攻撃は、たんに九条の弁護士的な自信を奪い、むかしの記憶をよみがえらせただけの行為ではなかった。それじたいが、彼のなかに眠っていた、父親の人格攻撃を想起させるものでもあった。読みつつ、黙秘についての技術を語る口調が、そうした過去を抑圧する技術についても語っているように見えたのは、だから当然なのである。ここでいう「黙秘」は、もちろん、そうした過去を抑圧する術そのものだったのである。黙秘に必要な条件は、ひとことでいえば「直面しない」ということだ。まさしくそれは抑圧の作法なわけだが、それはいまはいいだろう。「黙秘」とは、過去に直面しないということだったのだ。そういう生きかたもある。それに、九条は「笑い」を通じてそれを少しずつ解消しているようなところもある。思い出しつつ吹きだすのもそうだし、烏丸とのやりとりもそうだ。だが、それも弁護士としての誇りがあってこそのことなのだ。

 

 

さて、九条も壬生も解放されたようで、なんかよくわからない感じになっていた「誰がなにについてどう認識しているのか」が整理されることかとおもう。まあ、混乱しているのはぼくだけかもしれないが・・・。いちおう、弁慶のくだりもあって、100パーセントの裏切りではないとわかっているとしても、話し合いなしに壬生が九条を売ったことにちがいはなく、今回最後の九条は斜め後ろから表情が描かれない構図で、ちょっとピリッとした雰囲気はある。久我はたぶん伏見組に入ってるし、菅原は韓国にいるという状況で、特に壬生の環境が大きく変わっているということもあり、ほとんど第1部完結みたいな様相である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第87審/至高の検事23

 

 

 

伏見組が壬生の仲間を探してまわっているのを受け、壬生が捕まっている状況で、久我がかわりを務めてひとりひとり隠しているところだ。菅原はすでに韓国にわたっていて、久我にもはやく来いといっているが、壬生との約束があり、久我はなかなか逃げられない。

 

しかし仲間から連絡を受けてホテルまで向かうところで、久我はついに伏見組に見つかってしまった。やりとりをしていた仲間はすでにつかまってぼこぼこにされており、いわれるがままにメッセージを送っていたようだ。

若頭補佐の雁金正美がじきじきに出向いて久我を詰める。といっても、事務所が監視されていて出向く以外なかったっぽい。韓国に逃げようとしていたことも、たぶん捕まっていた仲間からすでに伝わっている。「責任を取らず逃げる人間は何もしてねェ人間よりタチが悪い」と、京極みたいな説教だ。なんなんだろうな彼らのこの半グレに説教する感じ。

その説教の調子のまま、全員伏見組に入るよう雁金はいう。どことなくマンスプっぽい雰囲気もただよう。半グレを愚連隊と呼ぶところなどもどことなく懐古趣味だ。

 

 

京極と山城が面会中。取調べがきついから警察にウナギの差し入れをしておいてなどといっている。それから壬生についても調べるよういってあった。山城は文句をいっているが、調べはしたらしい。壬生は京極じしんにいわれて隠していた拳銃と弾をもって出頭した。だが不起訴になるという。あのときの描写では、壬生はいきなりバッグをもって嵐山のところに自首したようだったが、じつは裏取引をしており、時間も場所も決まっていたらしい。その取引というのは、九条である。九条が犬飼に逃亡指示を出した件を持ち出すことで、壬生は起訴を免れ、嵐山は憎い九条を逮捕できたというわけだ。だが、それだけではない。九条はもともと京極の弁護士でもあり、京極もかなり信頼していた。この取引は京極の切り札を封じることにもなったのだ。現状伏見組が久我らを拉致していることをおもえばそう変わらないようにもおもうが、それがわかっているだろうにそうするということは、壬生にとって京極がどれだけおそろしいかということかもしれない。京極がなんらかの九条パワーで怒りとともに出所するよりはマシということなのだ。

「守護神」を封じられたことを理解した京極は、顔を歪めて怒りを新たにするのだった。

 

九条の勾留の日々。嵐山は、九条が犬飼に1年後の出頭を指示したことを取り上げる。1年ってなんだろう、というはなしだ。嵐山は勘と経験に基づいた推理で、京極の息子・猛が行方不明になっていることが関係しているのではと言い当てる。嵐山はそこが関係してるの知らないんだっけ? なんかわかんなくなってきた。じゃあそれまで犬飼はなんの「犯人」だったのかな。拳銃の件でということか? もしその共犯で逃亡を指示、しかも1年ということなら、たしかに奇妙な感じがする。単行本にアンダーニンジャみたいな人物相関図つけてくれないかな・・・。

で、その1年というのは、例の遺体の死因特定が困難になる期間で、そうなると不起訴になる可能性が高くなる。犬飼が猛を殺して埋めて、そう指示したんだろうと、嵐山は的確に言い当てるのだった。

九条は20日カンモクパイを当然狙っている。証拠がなければ20日以上勾留できないので、完全に黙秘していればよけいな証拠を捻出してしまわなければ釈放になるという、九条がいつも依頼人に伝えていたワザだ。しかしそれは警察も20日のあいだになんとかしようと本気を出すということも意味する。黙っている相手には人格攻撃でダメージを与えるのが定石だ。そうして弱れば、あることないことぽろっとくちにするかもしれない。そんな態度だから嫁に逃げられ壬生に裏切られると、嵐山も説教モードだ。なんか、なんだろう、九条は嵐山に、壬生は京極に、久我は雁金にという具合に、逃げ切ろうとする側には専属の説教屋がいるような感じだな。

九条はトイレなどいって時間をかせぐ。

 

独房のなかで九条はペンを借りてノートに状況を記載していく。これも九条じしんが依頼人にそうするようにすすめてきたことだ。金本のときは記録用にノートをわたしていたが、しずくのときにはおもったことを書くようにしており、こころの整理というような意味もあるようにおもわれる。じっさい、なんにもなくても黙っているという行為はキツイ。SNSに誰が読むでもない日常を書くのと動機の面ではよく似ているかもしれない。キツイことあっても、文章にして書き出すとすっきりすることあるからね。なにより自分自身でじぶんがどう考えてるのか理解できたりする。

 

書きにくいペンで九条は、まず弁護士的な視点で状況を分析する。人格攻撃が増えてきている、これは、人間性と事件がつながっているものとおもわせ自信を奪う方法だと。なるほど、そうして自信を失えば、「沈黙」という行為の後ろ盾になっているなんらかの戦略も、不安なものに見えてくるかもしれない。

鉛筆削りで自殺をしたものがいたらしく、そのせいで鉛筆類全般が使用禁止になっており、それでこの書きにくいペンということだ。

取調べについて九条は端的に「無意味」といっている。弁護士資格がかかっているというより、苦境に立たされた自分がどう日々に向き合っていくのかが問われていると。九条はそういうが、そういう心理状態こそが、人格攻撃の導き出すもののようにもおもえる。

そしてひとりでいる九条は寒さも感じる。思考は環境に影響されると。悲観的になりつつある九条は、家族と暮らしていたときのことを思い出す。たった5分、子どもから目をはなしていたせいで、なにかが起こってしまったらしい。その直後、子どもの成長は早いのだ、というはなしを奥さんがしているので、死んではいないようだが、なにか事故があった。おもちゃがちらばっているので、誤飲とか、あと転倒とかそういうたぐいのことかとおもわれる。

ともかく、おそらく仕事の電話とかで目をはなして、そういうことになった。仕事、つまり他人ではなく、家族に時間を使うべきじゃないか、九条にとって大切なものはなんなのか、こういうことを奥さんはいっている。そして離婚。このことを思い出しつつ、九条はうつろな目のままペンをバキボキとかじりはじめるのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

回想場面ではランドセルが描かれているが、九条の娘・莉乃はこのあいだ5歳になったところだ。あれからどのくらいたっているのかは不明だが、少なくとも同居していた時代は5歳以下である。小学生でなくてもランドセルを背負うことはありうるのか、そもそもこれはランドセルではないのか(いまのものはぼくが背負っていたものより段違いにオシャレになっているから、よくわからないといえばわからない)、なんともいえないぶぶんもあるが、描写ミスでなければ、このとき事故にあったのは莉乃ではないことになる。とすると、莉乃のうえにもうひとり子どもがいたことになるが、それで逆にその子が亡くなっているということならはなしはわかるが、奥さんが子の成長のはなしをしている、つまり今後のことを語っている以上そうはなっていないようなので、そうするとここで新たに莉乃よりうえの子を登場させる意味はないことになる。作品外観測になるが、亡くなっていない子がここで増えても、九条がいかに家族をほったらかしにしてきたかということを描写するうえではその子と莉乃のあいだにちがいが生じないことになり、意味がないのだ。とするとこれは、ランドセルの描写が誤りであるということになる、かもしれない。

あるいはもうひとつ考えられることとして、ありそうもないことだが、一連の回想描写が時間的に連続していないという可能性だ。奥さんが話しているコマはぜんぶで4つあるが、これがばらばらのタイミングのものであるということである。たとえば、これを逆に読んでいくと、最初にスマホをもって「大切なものはなに?」のコマがきて、その次にランドセルと子どもの成長のはなしになる。こういう小さい不和があったうえで、事故が起き、亡くなった、というはなしであれば、莉乃より年上の子どもがいて、それが亡くなり、しかも奥さんが成長のはなしをしているという状況が成立するだろう。

 

ランドセルについてはこれ以上考えてもなにもないので、ここでは、以上のことはすべて無視して、ともかく九条は仕事のせいで子守をおろそかにし、害を与えてしまったことがある、くらいに受け止めておこう。

寒さもあって悲観的になった九条は、過去を思い出して、ペンを食べてしまう。最初に考えたのは、これで救急車というようなはなしになれば、勾留執行停止ということで、外に出られるのではないかということだ。外に出れば、気分もかわるし、なにかヒントを拾うこともできるかもしれない。じっさい、普段の九条はそういうところにまで考えが及ぶ人間である。だが、読めば読むほど、九条の状態は悪く、そこまで考えがまわるのかな、というふうになってくる。じっさいにこのあと入院とかいうことになって外に出られる可能性が出てくるかもしれないが、それが意図的なものだったのかというと微妙になりそうだ。

 

気持ちを整理するためにこの場でのノートは有効だろうが、はためにはむしろ逆効果のようでもある。嵐山の人格攻撃は、自信を失わせるために行われる。自信がなくなると、つねに味方がいるわけではない状況で、執拗な取調べに対して沈黙を貫くことが難しくなってくる。ほんとうに黙っていていいのか、じぶんは悪くないのか、悪くないとしてなにもしなくていいのかと、こういう不安がおそいかかってくるのである。九条のばあい、じっさいにダメージを受けており、嵐山のおもわくどおりに、じしんの離婚の顛末を思い返す状況に陥っているわけである。そのトリガーはなんだったのか。ひとつには、むしろ九条の理知的強さが導いたもので、苦境に立たされたじぶんがどう日々と向き合っていくのか問われている、というくだりだろう。子どものことや離婚のことは、それじたい悲しい人生の1頁だとしても、九条には弁護士としての信念があり、それが正しいもので、かつベルーフであると確信できる状況が続く限り、抑圧することのできるものだった。気をつけなければならないのは、それは決して乗り越えではなかったということだ。九条は弁護士としての指名をまっとうしつつ、家族のことを乗り越えてはいなかった。文字通り抑圧していただけだ。抑圧されたものは病にかたちを変えて回帰する。だが、ともあれ、目の前にはそれがないという状況にもっていくことはできたわけである。ところが、嵐山の人格攻撃によって自信を失いつつある九条は、この「神から与えられた仕事」に信頼を寄せることが難しくなってきている。これでいいのかと、わずかにでもおもってしまえば、使命感によって堅固に覆われていたその内側に抑圧されていた、この記憶がよみがえってくる。しかも九条はここで、きわめて理知的に、禁欲的に、「どう向き合うか」などということにみずから直面しているのである。万全ではないこの状況でそんなことをすれば皮一枚でつながっていた信念の鎧も崩壊する、というわけだ。

ただ、たんに「崩壊」といってもさまざまで、とりわけ痛みをともなう行為には、本人なりの理屈があることも多い。そこで勾留執行停止を狙ったのでは、というようなはなしにもなるが、それはおいておいて、あくまで九条の内面になにが起こったのかということに的をしぼると、やはり「食べる」という行為が、なんらかの意味を宿すのではないかなとおもわれる。書き出し、それをじぶんで読み、納得するという一連の行動は、もやもやとした気持ちでなにが問題だかわからないなかすすむとき、主観に一定の秩序をもたらすものとして有効だ。なにかに心身が損なわれたとき、ダメージをひきずるのは、その全貌を理解できていないからである。ダメージは、主観によって認識されるので、当然その状況も主観的に認識される。しかしこれを書き出すことによってひとは、地図でもみるように事態を客観できるようになる。物事の関係性や大小、利害関係など、主観の範疇ではないところまで目が届いたとき、ようやくひとはそれを現象として消化できるようになるのだ。しかし九条ではこれは逆効果になっているようにおもわれる。なぜなら、以上の図式でいうと、九条は家族の思い出を弁護士の使命によって上書きするものだからだ。九条は、いつもの冷静さで状況をつぶさに分析しようとする。だが、嵐山の人格攻撃により、状況の分析はいつしか自己分析になっていく。そのとき、彼は、弁護士の使命を大義に抑圧してきた記憶と直面してしまうのだ。

 

ほんらいは、そうした抑圧については、直面することが望ましい。そのように語らずに済ませようとする悪い記憶のことをトラウマという。トラウマは、ドーナツの穴として、「そこにはなにもない」という身振りを記憶の持ち主に強制し、ぜんたいをいびつなものとする。だから、いつかひとは「いや、そこにはたしかにそれがある」ということをいえるようにならなければならない。だがそれは、すぐにそうせよというはなしではなく、タイミングもある。少なくとも拘留中は避けたほうがいいだろう。九条のペン食いは、このことに気付いた結果ではないかとおもわれる。つまり、自己分析をやめるということだ。内省それじたいは拘留中でも望ましく、これまで九条が依頼人にそうするよういってきたのは、まさにそういうことだったはずだ。ノートにあらわれる内なるじぶんは、じぶんの味方であるはずである。ところが、抑圧された記憶をみずから手際よく暴いてしまう九条にとっては好ましい状況にはならない。だから彼は、自己分析をしないという決意を身振りでもって示すのである(そしてあわよくば勾留停止)。

 

 

今回気がついたことだが、本作では誰かが誰かに説教する場面が妙に多いようにおもわれる。今回は、雁金が久我に、嵐山が九条に説教していた。これはたぶん、蔵人的なものと九条的なものの対峙が、作品ぜんたいに影響をもたらしているということだろう。わかりやすく二元論的にいえばロゴス(言葉)とパトス(感情)の対立ということになるが、九条はパトスといって片付けられるようなたんじゅんなものではないので、なるべくこの語は避けたい。

説教は、物事のある面について、ほんらいはこうあるべきだという当為の言葉で語られる。行動半径の定まっている状況、たとえば仕事であるなら、当為の言葉は有効だろう。もっと「常識」とかそういうレベルでもまだ意味はある。しかしそれが、道徳とか倫理とかいうはなしになると、当為は暴力性を帯びることになる。あるせまい状況では有効な「~するべきだ」が、広いところでは議論を呼ぶものとなるのだ。そういう、ふつう議論を呼ぶところのものについて説教をするものは、ある種の無邪気さとともに暴力的な道徳を語るものである。蔵人や嵐山はこれに該当し、法の前に善悪が決定していることを前提に行動する。対する九条は、そうした善や悪といった言葉の区分が多くのものを見落とすことを知っている。また、考えてみれば壬生らの「半グレ」という立ち位置も、ヤクザからすれば奇妙なものであっても、彼らの見落としにほかならないわけである。おもえば壬生は京極にしょっちゅう中途半端とか半端だとかいわれていたが、この「半端」なぶぶんが、まさしく言葉の拾い落としなのである。無邪気に言葉の秩序を信奉するロゴス側の人間からすれば、これらは正すべき説教の対象なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第4話/腕っぷし試し

 

 

前回

 

 

更新が遅くなってすみません。最近また眠れない感じが続いててうまく時間配分が・・・。もう火曜なので、短めにさくさく書きます。

 

 

鎬昂昇がジャック・ハンマーとたたかう!みたいなはなしになっていたとおもうが、今回はどちらも登場せず、花山組の描写からはじまる。なんか色黒のヒゲ男が用心棒として雇ってもらおうとしているところだ。バキ外伝、花山が主人公の『疵面』ではよく見られた風景である。たいがいは身の程知らずの色黒だったが、今回の色黒はわけがちがうようである。バキと縁があると。時代劇じゃあるまいし、用心棒なんていまどき・・・みたいなことを木崎はいって追い払おうとしているが、本音は、組長が日本最強の花山だからだろう。

隣室ではなしを聞いていたという花山が入ってくる。そして、花田と呼びかけるのだった。花田だったのかお前は。久しぶりやらよく覚えていないやら見た目が変わっているやらでただのモブの道場破りに見えた。

花田は本部の弟子で、初期のころはそうとうに強い感じで登場した天才キャラである。が、けっきょくは斗羽さんのかませ犬になってしまい、以後は加藤とたたかったくらいで、いるのかいないのか、花山の顔の傷くらい不安定な存在になっていた。しかし、考えてみれば本作は『刃牙らへん』なのである。鎬昂昇はともかくとして、花田のようなものに照明をあてるのはおもしろいかもしれない。忘れてるキャラはたぶんまだたくさんいる。

 

花山は、銭に不自由しているのか、腕っぷしを試したいのかと、花田に訊ねる。花田と花山が話していて、書いていても読んでいても混乱する。強くてメガネでかっこいいのが花山で、かつて強くて色黒ヒゲで浮かない顔をしているのが花田だ。

花田はもちろん花山が誰だかを知っている。じぶんの要求が後者、腕っぷしだとしたら?ということで、ふたりは駐車場で向き合うことになるのだった。

 

うれしい気持ちを隠せずぺらぺらしゃべる花田に、木崎がすでに開始している、舌を嚙むぞと、警告する。まだしゃべる花田の顔に花山の蹴りが伸びる。花山の場合、蹴りはナチュラルに出てくる技ではないので、目を覚まさせた感じだろう。花田はぎりぎりでかわしたが、頬がぱっくり切れてしまった。鈍重そうだが、花山理論では破壊力にはスピードもかかわっている。意外と速いのかもしれない。

 

なぜか花山もちょっとうれしそう。格的にはかなり開きがあるようにおもわれるが、作中デビュー時のことをおもえばそう差があるものでもなく、花山もそれをわかっているのかもしれない。

メガネを木崎にパスし、花山がふりかぶる。花田は伝説のふりかぶりが見れて大喜びだ。圧倒的なタフネスに支えられ、防御もなにもなく、ただ思い切り、ぎりぎり引けるところまで拳を引ききって解き放つ、花山にしかできない行為だ。

どこで聞いたのだか、花山からはカウンターがとれない、というはなしを花田は思い出す。突進するダンプからカウンターがとれないように。だが、花田はやってのける。岩みたいな拳をかわして抱え込み、背負い投げするのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

ここで花田というのはサプライズだったけど、『刃牙らへん』はそういうはなしなんだよ、というわかりやすい表示となるものかもしれない。かつてガイアが何十巻ぶりかで突然あらわれてシコルスキーを圧倒し、登場はしていたけどひどいあつかいだった本部が死刑囚最強とおもわれた柳を半殺しにしたことがあったが、要するにああいうことを、本作ではやっていくのかも。

 

これはカウンターということでいいのかな。意外なアプローチ、でもないのかもしれないが(バキがむかしやっていた)、花山がふりかぶり、また拳を放り出す一連の場面では、なぜか花山に攻撃をさせてしまうという法則は、たしかにあった。ガードするにしても、花山が拳を放つことそれじたいは、みんな最後まで見届けてしまうのである。唯一の例外は武蔵だが、武蔵も最初は見届けてしまっていた。そのうえで、これ以上くらうとまずいということで余裕がなくなり、遊ばなくなったみたいな流れだったのだ。みもふたもないことをいえば、花山があのようにゆっくりふりかぶっているあいだに、2、3歩下がってしまえば、それで終わりなのである。

ここには、なにかこう、贈与論でいう反対給付義務的なものがあるのかもしれない。贈与論を持ち出すとはなしがややこしくなるので(そもそも贈与論は一対一の状況を想定していない)、端的に負債感といったほうがいいのかな、胸襟を開いてじぶんの恥ずかしいところまで開示してくる相手に対してはうっかりこころを開いてしまうように、ファイターは花山の心意気につい応えてしまうのである。花山のふりかぶりは、これからなにをするかということが非常に明確だ。これから、大きくふりかぶって、拳を解き放ちます、ということをひとめでわかる明確なかたちで、無防備なまま、しかもゆっくり示してくるのである、相手はそこに負債感を覚え、それを返済するために、その「これからやってくるもの」に応えようとしてしまうのである。

 

今回花田は花山をダンプにたとえていたが、そもそも、ダンプからカウンターをとるべきなのかという問題がある。歩道を歩いていれば、ダンプの正面に立つこともない。ダンプからカウンターをとれるかどうかという問いじたいが、ふつうはあらわれないのである。ここでそういう問いがあらわれるのは、その負債感ゆえであるとおもわれる。ファイターは、ダンプで突進してくる彼をみて、車道に出ざるを得ない心理に陥るのである。これは、考えてみれば花山の強さの由来なのかもしれない。花山の心意気ゆえに、相手はみんなフェアな態度をとってしまう。いまからやってくる拳を、その威力が尋常ではないと知りながら、その場を動かず待ってしまうのだ。

花田はその現場でカウンターを実現した。この投げには花山じしんの拳の勢いものっているので、交差法以上にカウンターらしいカウンターとなっている。ただ、ダンプのたとえでいえば、チキンゲームで、衝突すると見せかけてぎりぎりでかわし、壁に激突させたようなもので、ある意味花山の魔術的仁義を裏切るものにはなっているとおもわれる。だが、花田は本部の弟子だ。本部というと戦場格闘技なので、武器術にも長けるものであり、なんでもありなら武蔵にも勝ったことのある強者である(逆に、武器がそれほど一般的ではない状況ではあまり強くない)。花田には、同じく弟子であるガイアのようには、そういう気配がないが、武器をつかえるかどうかはともかく、その精神性は継いでいるはずだ。それは、戦場のリアリズムだ。そこでは、相手の心意気に引っ張られてついこちらも「最善の方法」ではない行動をとってしまう、などということは、ないとはいわないとしても、少ないだろう。とはいえ、その裏切りはわずかなもので、花田は、花山の伝説の拳を前に、多くのファイター同様無邪気に対応していた。このカウンターはその無邪気さと戦場格闘技のリアリズムをほどよく混ぜたものになっているように見える。

 

ただ、驚いてはいるが、木崎にぜんぜん焦っている様子がないので、ダメージはなさそう。まあ、ないだろうな。武蔵にずたずたに斬られてふつうに生還してるひとだから・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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