すっぴんマスター -24ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

今年もたくさん映画館にいった。去年ほどではないけど、以前までのことを考えたらこれでじゅうぶんであるともおもえる。それに、今年はディズニーに行くようになってしまって、休日の消化とお金がかなりそちらにまわってしまっているので、やっぱり少しは影響しているっぽい。

映画は映画館で観るようにつくられている・・・という原理的な理由に加えて、やはり「出かける」ということの付加価値も、これが日常になってみてよく感じられる。基本的には同じ地区の映画館にいくわけなんだけど、だんだん、決まったパターンみたいのができていくわけで、そうなってみてそれははじめて日常に組み込まれていく感覚がある。つまり、いま「日常」となっているその時間運用も、最初は非日常だったということなのだ。人生とは、体感的には当たり前のようにそこに存在しているようにおもえて、じっさいはそういう非日常の堆積なんだなということがよくわかる。

 

記事にしていないのがほとんどだし、それならX(ツイッター)で、鑑賞したことだけタグつきでつぶやいて管理しようとしたけど、いま調べてみたらどうも正確に出てこないようで、ほんとうのことはよくわからないのだが、それでもまあ、ブログとXの投稿をあわせて考えると、12作品ということになりそう。2月のアントマン、5月のガーディアンズ・オブ・ギャラクシー、それから7月の『パール』以前までについては以下の記事で。『パール』は傑作だったなあ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月22日はピクサー作品『マイ・エレメント』。川口春奈の声がすごくよかった。ピクサーは若いころから好きで、ディズニーと完全合体するトイストーリー3まではほぼすべてDVDをもっている。英語が苦手で、英語の接客がある仕事をしていたころは、そんなことをしたところでたいした効果はないのに、出勤前に『ファインディング・ニモ』や『バグズライフ』のDVDを英語で流していたものである・・・。

ディズニーは基本的には世界の子どもたちのものなので、原則的に最前線の倫理観をとりいれようと、少なくとも企業としてそう努力しているようにみえるよう努力してきた。虫の居所がわるいとそれが鼻につくときも、それはあるだろうけど、基本的には「さすがディズニー」としかおもわされない日々である。「マイエレメント」は多様性の物語。だが、「世の中いろいろなひとがいる」ということは、ディズニーに限らずさまざまな作品が描いてきたところであるし、現状こころある場所ではもはや自明である。さらに、そこから導かれる「私らしく生きる」といった物語も、なんならディズニーは合意形成のトップランナーだった。そういう倫理観が生まれたから企業として対応してきたのではなく、運命に立ち向かうプリンセスを通じてむしろそういう価値観を作り出してきたのがディズニーなのである。本作はそこからさらにもう一歩進んで、では、立ち向かうことで打ち倒された運命はどうなってしまうのかということに集中したようにおもう。もちろん、これまでの作品でもそこのフォローはないではなかったが、「ヴィラン」という語が現在定着しつつあることが示すように、物語の鮮明さを優先させたとき、どうしてもそこには二元論的単純さが生じてしまうもので、そのとき同時に、「ヴィラン」というほどには悪ではないような「運命」もまた、捨象されがちであったようにおもう。本作主人公のエンバーは、それじたい愛している「運命」から逃れるが、そこへの敬意を欠かすことはなかった。その場面で、ぼくはこれまでのディズニー映画経験でいちばん泣いてしまったようにおもう。

 

 

 

 

 

 

続けて25日、鳥山明原作『サンドランド』。サンドランドはもともとコミックももっていたが、どんな内容だか忘れていた。鳥山明は多分にもれずぼくも少年時代から大好きだが、なにがいちばん好きかというと、扉絵の一枚絵だった。人物の表情や衣装、メカなどがただ描かれているだけの一枚の絵に、世界が宿っている感覚がたまらなかったのだ。その絵に首をつっこむことができれば、左右や反対方向にも、世界が連続しているにちがいないとおもわせるちからがあるのである。サンドランドはこうした鳥山先生のデザインのパワーを感じさせる作品だった。まず、人物やメカが直感的に描かれ、しかるのち、それを自然なものとする世界が構成されていく感覚である。

 

 

 

 

 

 

10月11日には『コカイン・ベア』。いまどき熊一匹でどこまでのものになるのか・・・などとおもっていたけど、めちゃめちゃおもしろかった。脚本的には主人公らしい主人公がなくて、コカインに狂った熊にふりまわされるひとたちが個別に、等価に描かれていく感じで、ブレットトレインとかデッドドントダイとかを思い出した。

 

 

 

 

 

 

11月16日『マーベルズ』。三本目のマーベル作品。ぼくはふつうに楽しんで鑑賞したが、興行的にはインクレディブルハルクを下回ったそうである。キャプテン・マーベルの強さは全マーベルファンの熟知するところで、単独でサノスの軍艦を墜落させるところに狂喜しなかったファンはいないとおもわれるが、なぜそうなってしまったのだろう。ツイッターで見かけた見解としては、初見では理解不能の描写が多すぎた、というものがあり、なるほどとおもった。「初見では理解できない」は、チケットを買って、鑑賞しないと出てこない感想であるから、これは要するに、見る前に「初見では理解できなそう」と感じてしまうひとが多かったということである。その原因としては、エンドゲームのあと、コロナがやってきて、もともと動き出していたドラマ製作が、自宅で見れるものとしてより活発に行われるようになり、それでいてそれはしっかりストーリーに組み込まれている、という複雑さがもたらしたものとおもわれる。ガーディアンズのように作家色を出したり、あるいはスパイダーマンくらいヒーローにパンチがあったりという状況でなければ、マーベルはもはやそういう印象をぬぐえなくなっているのではないかなとおもう。ぼくは引き続きぜんぶ観ているから問題ないけど、興行がふるわないと、製作も難しくなっていくはずなので、どうかみんなあきらめないでついてきてほしい・・・。というところで、カーン役のジョナサン・メジャースが逮捕され、またもや不明確な状況になりつつある感じである。ストーリーからカーンを退場させるか、別のひとがやるか・・・。ともかく、エンドゲームで映画史上最高のものを作り出して以降、マーベルにはなにか「ついてない」という感じがつきまとっている。

 

 

今年の映画納めは12月21日ディズニー作品『ウィッシュ』。非ピクサーのストレートなディズニー作品を劇場でみるのは、少年時代を除けば初めてのような気がする。といっても、本作はぜんぜんストレートなプリンセスものではない。まず、本作はディズニー創立100周年を迎えるにあたってつくられた記念作である。そのため、随処に、「ディズニー100周年」を意識させるメタ的な仕掛けがほどこされているのだ。ふつう、物語というものは、単独で成立するようにできている。それこそマーベルのようなものはそう見えないかもしれないが、それは、たんに物語がものすごくでかいというだけのことで、究極的には、あれらの作品すべてが集まってひとつの物語となっているわけである。だが本作は、物語の外部情報をもった状態ではじめて理解できるようなちょっとした小ネタやなんかが豊富に仕込まれているのだ。物語としても、アーシャがプリンセスではなく、また最終的には魔法をかけられるものではなくかけるものになることなど、冒頭に述べた倫理観の最前線を踏まえつつ挑戦的でもあって、すばらしいものとなっている。そして、ぼくでは今年、久しぶりにディズニーランドに行くようになったという背景もあった。そのため、駆け足気味ではあったが、これまで観ていなかったディズニー作品をけっこう流し込んでいたのである。あとで調べて出てきた小ネタらしき小ネタはほとんど見つけられなかったが、本質的なぶぶんで、製作者のディズニーへの愛は共有できた。ほんとう、ディズニーが好きでよかったとおもう・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第10話/キケン度高まる

 

 

 

 

鎬昂昇とジャック・ハンマーの試合がはじまる!

出血は不可避の危険なたたかいだ。バキ戦前のアライジュニアみたいな気持ちで臨んではいけない感じの試合である。

 

試合前のジャックの異様な補給風景だ。バキも試合前に大量の食事を摂るという異様な人間だが、ジャックではそれが食料ではない。なんだかわからないが、大量の錠剤と注射である。錠剤はばりばり噛み砕いて液体で流し込む。液体はただの水なのかな・・・。注射は腕にさして、なにやら心地よさげだ。

その光景を、選手の見送りをしている御手洗さんが笑顔で眺めている。水分でも補給するように堂々と、悪びれることなく薬物を摂取するジャックに、嫌味ではなく感心してしまっているのだ。御手洗さんは、選手がいってほしいとおもっていることをいってくれるよね。

ジャックは、加えて誇るものでもないという。強くなるために必要だからとっている、野菜や肉と同じだと。もちろん、ふつうの視点では同じではない。御手洗さんは、肉体が蝕まれるとしてもかと、要点をつく。ジャックのこたえは、今夜もちこたえれば、というものだ。このあたりの考え方は基本的に変わっていないらしい。もたなければ、それは「肉体」が弱かっただけだと。ジャックはバキ戦で過剰摂取による身体異常を克服した。克服はしたけど、それは健康体になったということではない。ジャックによればそれは、肉体の強さがもたらしたものだったのだ。

 

 

たほうの鎬は汗をびっしょりかきながら柔軟をしている。汗をかいているということはアップをしたということだとおもうのだけど、従前からの武術家はウォーミングアップをするのかしないのか問題については、彼はどう考えているのだろう。

立位の前屈ではあたまが足のあいだに入るくらい屈むことができる。そして続けて、今度は後方に向けてからだを折りたたみはじめる。サーカスかヨガの達人でしかみたことのない柔軟さで、鎬は後方からも足のあいだにあたまを挿しいれるのだった。そばには花田がひかえていて、感心している。

 

観客席には帽子をかぶって変装しているバキ、光成の横には花山、そしていつもの最後列の立ち見席みたいなところに独歩、渋川、克巳が待機するのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

柔軟もそうだが、鎬はウォーミングアップを行っていたようで、これは、バキのいう武術の自然な姿には反するものになる。

しかし、おそらく今回鎬昂昇が示しつつあることは、新しい武術家像みたいなものではないかとも感じられる。というのは、彼自身、直前に武術家の怠慢を批判していたからだ。それが、体操からも学ぶものがあるとして、今回のありえないからだのやわらかさにも通じる身体操作のはなしにつながっていったのだが、あのはなしはおもったより重要なのかもしれない。武術家は、行住座臥、日常すべてが「たたかい」の前段階でなければならない。いつおそわれるか、いつファイトがはじまるか予測ができない、こういう意識でいることが、真の武術家には求められる。その帰結が、ウォーミングアップをしないというバキのふるまいにつながる。だが、こうして書いてみるとわかるが、ここには少し違和感が残る。というのは、要するに、これは「ウォーミングアップをしてはいけない」ではないのである。してもいいはずだ。武術家は、いつでもたたかえるようでなければならない。それはいい。だがそれであるなら、その条件を満たす限りで、ウォーミングアップをするしないは、たんに試合にかんする自己満足の問題ということになる。ウォーミングアップをしてしまったら、たしかに「行住座臥臨戦態勢」の武術家とはちがう姿になってしまうだろう。しかし、そのときにちがう姿になってしまうからといって、その人物が「行住座臥臨戦態勢」ではなくなるということはないのである。

ある試験が、その人物の「能力」を測定するものだとして、当然出題者は、入学・入社後の活躍を期待して作問をしている。「能力」をはかられる受験者は、その後もその「能力」を維持することを求められるのであり、一夜漬けや直前に呼んだ単語帳などで得た知識や「能力」で合格すべきではない。誠実な受験者はそのように考えて、直前に受験対策に通じるいっさいの行動を封じるかもしれない。しかしそれは、あとになってみないと結果としては判定できないことである。直前にたまたま覚えた単語が未来永劫忘れられない知識となるかもしれない、塾の先生にいわれたなにかおまじないみたいなのが効いてたまたま受かった人物は、その会社にイノベーションをもたらす変人かもしれない。ある規範を最上位の価値観と信じる範囲では、この誠実さは有効だろう。ここでは、それは会社や学校である。誠実な受験者は、会社や学校の求める「能力」のありようを鮮明に見て取って、そこに馴染もうと努力するものである。鎬昂昇はこの規範意識のことをいっている可能性がある。ウォーミングアップは、してもいい。していけないということはない。そして多くの武術家は、誠実さゆえ、ウォーミングアップをしない。しかし、からだをあたためることで臨戦態勢が解かれるわけではないという前提が覆う限りにおいて、むしろその「ちがう姿」になった彼は、イノベーティブな存在になる可能性すらあるのだ。

 

こういう点においても、鎬昂昇とジャック・ハンマーはやはり少し似ている。どちらも、規範意識から逸脱することで勝利を得ようとするものなのだ。規範は、真理ではない。ただのコードなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第92審/生命の値段①

 

 

 

九条の逮捕・釈放を経て、新章で再開!ぜんたいに服の印象が黒っぽくなって変わっている。ずいぶん前のことになるが、釈放されてささやかなお祝いをしたとき、逮捕された人間にとって、たくさん接見に来てくれる弁護士がどれだけ心強いか理解した、といっていた。そして、よりいそう精進すると。そのことそれじたいは、理屈としては九条も知っていたはずである。それを実体験的に、肌で理解したというはなしだ。つまり、じぶんはまだ依頼人の立場からは遠いところにいたということを悟ったわけである。「精進」がなにを指すのかはおそらく複雑だが、端的には、この距離を縮めることを指すものとおもわれる。今回の新章から印象が変わっていることの原因は、ここにある。

 

 

白栖総合病院の医院長、雅之が謝罪会見を行っている。あとでわかるが、横にいるのはヤメ検の弁護士、相楽弘毅だ。むかし烏丸がいた東村ゆうひ弁護士事務所所属ということである。新型コロナ患者を受け入れるとして補助金を受け取りながら、じっさいは患者を拒み病床使用率ゼロで運営をしていたということで、不正受給額は20億を超えるという。責任をとって雅之は辞任、次期医院長には息子の大介を任命すると。ニュースをみている九条と烏丸は炎上すると予言する。炎上もなにも、不正なことをしたのだから非難されるのは当然では・・・とおもったが、ポイントはそこではなく、息子があとを継ぐというところだった。

 

白栖は相楽に文句をいっている。相楽とあたまを下げたら一件落着のはずが、バッシングは過熱しているじゃないかと。ぜんぜん、反省とかはなく、マインド的には生活指導の頭髪検査でつかまった半端な不良高校生みたいな感じだ。

相楽は、息子の件については忠告したということである。しかし白栖的には、開業医の既得権益を他人に譲るわけにはいかないということのようだ。ニュース記事の文章をみても、白栖は独力で病院を大きくしたようで、ここまでくるには苦労もあったのかもしれない。加えて、跡継ぎとして馬鹿な息子に大金をかけてきたという感覚もあるらしい。開業医は医師免許さえあればやっていける、だから何浪させてでも息子に免許をとらせたのだと。

雇われている身として炎上を沈静化させることに依存はない、相楽は人員を増やして対応すると約束する。依頼人ファーストだと。

 

どこかのホテルらしきところで白栖が、今度は壬生に愚痴っている。なんで壬生かっていうと、女の子を用意しようとしているところらしい。病院経営は甘くない、世間はわかってない、というはなしに、壬生は思いのほかのってくる。前回明らかになった意外なほどの保守思想のあらわれである。日本の医療機器は80年代までは技術の高さに定評があった、しかしレーガン・中曽根の協議で、医療品の承認をアメリカに得なくてはならなくなり、輸入が輸出を上回ったと。ここでも不利な立場におかれてしまっているわけである。が、白栖は俗物なので、じぶんに有利なものでも、そういうはなしにはのってこない。だいたい、壬生にそこまでの議論を期待してもいないのだろう。

 

烏丸は相楽のことを知っている。雲の上の存在だったと。あんなふうに炎上させる無能ではなかった。だが九条は、金儲けについては優秀だと笑うのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

烏丸の知っているころから相楽が能力的に変わっていないのであれば、九条がいっていることを踏まえると、今回の炎上は相楽の予想通りということになるのだろう。そうして仕事を増やし、白栖からお金をとっているということじゃないかな。

 

まだ導入部なのでナニだが、「生命の値段」という副題でもあり、当然、人間の価値の交換可能性のはなしになってくるとおもわれる。医療業界が描かれるのだとすれば、白栖のような俗物タイプでは特に、患者がその対象となってくるが、この観点は法律の世界にもあてはまるだろう。

九条は、蔵人が最初から悪人を悪人であると規定するのとは反対に、零度の態度で依頼人に接し、ひたすら手続きを守る。もっといえば、法律がなんらかの決定をくだしても、それは九条になんの影響もない。善も悪もない、ただ、予断を回避し、機械的な対応をするために、彼は感情を捨て去った。回想シーンでは泣いているのに、その記憶を呼び起こした母の墓の前では無表情で雨に打たれているというのは、そうしたことの象徴だ。現実には、九条はそうとうに心優しい男だ。それだからこそ、事前に態度を決定してしまうようなありかたでは見落としてしまうような弱いものに目をかけることができる。それを彼自身は、ある種の公平性による結果だと自己分析するわけである。

こういうふうにみたとき、依頼人に「値段」をつけるとはどういうことだろう。ひとつには、山城がそうであるように、金になるかならないかという視点で依頼人を評価するということがある。だが、医療と法律をあわせて観察している状況で、この見立ては表層的すぎるかもしれない。両者におけるより本質的なことを抽象すると、それは、ある算出可能な価値の原理のなかにおいて、ある人物と人物のあいだに差がないことがある、ということなのである。じっさい、法律はそうなのだ。同じ状況、同じ事件で、AさんとBさんで結果が異なってしまうようでは法治できているとはいいがたい。人治を超越した原理の支配する世界では、必然的にそういう定量的評価のしかたがあらわれてくるのである。もちろん、九条もここに与するものだろう。とするならば、蔵人との対比では感情の抑圧がフィーチャーされたところ、今回では彼の心優しさのぶぶんが際立つものかもしれない。

 

壬生は保守思想を隠さないようになっている。それじたいはひとそれぞれ、自由なので、別にかまわないのだが、気になるのはコミュニケーションのほうである。白栖は俗物で金持ちである。これが、病院経営が理解されないことについて愚痴っている。それを受け、たいへんなのはよくわかると一拍おいたうえで、アメリカとの不平等な関係性にいきなりはなしが飛ぶ。このように、あらゆる問題をひとつの原因に収束させる思考法を陰謀論とよぶ。げんにそうした現実があるかどうかは問題ではない。なにもかもそこに帰着させようとする思考の癖のようなものを、そう呼ぶのだ。今回の壬生からはそれが見えてしまった。まあ、壬生はふつうにキレモノなので、この一事をもってここまで書くのもなんなのだが、なんとなしの違和感は残るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第9話/帰ってこい

 

 

 

鎬昂昇のジャック戦が迫る!というか、試合はもう明日行われるらしい。。花田はいったい、マジでなにしに登場したんだ・・・。

 

 

鎬昂昇は兄・紅葉の前で自重による調整を行っている。調整といっても、内容的には自重でできるもっとも難しい動きの連続だ。三本指での逆立ち、くらいならバキ世界ならできるものはごろごろいるとおもうが、そこから足をつけないまま、腕の外側に足をまわしてVシット的な姿勢になる。パワーとか持続力とかいうことより、筋肉と筋肉、関節や骨の協働性を確認しているようなのだ。肉体と重力の関係、頭や顔の向き、手足の位置、こういうものにおもいを馳せつつ、アクロバティックな動きを含めながら回転して着地、見直し終了としている。紅葉はそれをまるで体操というが、昂昇はそれを受けてなのか、体操からも学ぶべきだとする。武術家は攻防の緻密度と空中での操作性においてルーズだと。独歩のモデルのひとりである大山倍達は、多分にフィクショナライズされたある書物で、格闘家以外で強い可能性のあるものとしてダンサーをあげていた。もちろん、ここに体操を含めてもいいだろう。なにしろ彼らは、からだをどのように動かすか、どれだけ正確にコントロールするかということに血道をあげるものたちなのだから。

 

昂昇は、「見直し」は終わったところで、吊り輪をつかって次の運動に入る。ということは、これは見直しではないということだろうか。見直して、歪みが見つかったから調整してるとか、そんなことかな。人差し指と中指だけをひっかけて自在にからだを動かしていく。最終的には、指をひっかけた状態で臀部を上部にまであげていくのだった。指っていうか手首の柔軟性に驚きである。

 

兄がなにかいおうとするのを、昂昇が制し、明日の相手はアスリートでも武術かでもなく、頭脳を備えた「猛獣」であるとする。ジャックのキケン度はそのまま彼の価値である。とりあえず生きて帰ってくれば必ず治療(なお)すと兄はいうが、昂昇は無傷で戻ると応えるのだった。

 

光成邸には花田がきていて、明日のはなしをしている。光成的には、鎬昂昇がナイフ1本で猛獣に挑む、という構図に見えるらしい。素人なら勝てない、プロのナイフ使いなら、と、花田は応えるのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

まじめなはなし、花田はここで「ものさし」の役割をしているということなんではないかとおもう。鎬昂昇とジャックという、意外性のある対決がどのようなものになるか、いい具合に武術性と実戦性を備えた人物として、計測する働きをしたのかもしれない。それくらい、鎬昂昇とジャック・ハンマーを比べるという行為が、作品にとってはよそよそしいものだということだ。そこにもっとずっと登場回数的によそよそしい花田を出しても意味はない気がするが・・・。しかも花田はジャックと接触してないもんな。なぜか花山にあいさつにいっていたけど。

 

ダンサーや体操選手が強いというのは、少し想像してみればよくわかることかもしれない。相手と向き合い、どのような速度、どのような角度で攻撃がやってくるのか、また当たったときの衝撃はどのようなものか、こういうことを知るには、経験が必要だろう。それなしで、無垢な状態のダンサーが最初から強いということは、あるいはないかもしれない。しかしそういう、闘争の現場のアウトラインのようなものさえわかってしまえば、身体の操作に長けたものが強くなるのは自然なことだろう。だいたい、突きや蹴りがまともに当たる気がしないし。

鎬昂昇は空手家だし、身体の感じからしてもいかにも自重を好みそうなところはあった。だがここに、彼は操作性という要素を付け加えたわけである。といっても、これは彼の特殊性によるものというより、けっこう自然にこういう考え方でいる格闘家は多いかもしれない。瞬発力を身につけるのにフリーウェイトはもちろん有用だが、それらのコントロールは神経と筋肉の協働性によるものなのだ。そして、床やバー、吊り輪をつかったトレーニングは、これを擬似的に、高い強度で行うというわけである。

 

 

通常の格闘技術は、自身の輪郭を淡く保ちながら、相手の動きに応じて変化していく外向きの体系である。それと比較したとき、ジャックの嚙道は、たんに技のひとつとして嚙みつきを用いるだけでなく、それを必殺のカウンターとして用いるところに特色があった。嚙みつきに用いるのは当然歯であり、つまりジャックは攻撃の際顔面を差し出すことになる。このことが、基本的には待ち(とは限らないが)、カウンターの戦術に傾かせるものとおもわれる。宿禰が「練りこむ」といううまい表現をしていたが、相手の動きに対応しつつ、しかるべき「嚙みつき」のベストポジションに状態を運ぶのが、この意味では嚙道の王道ということになるかもしれない。

鎬昂昇では、この「練りこむ」ということが、身体の操作性、つまり自身との対話に該当する。ジャックも昂昇も嚙みつきや貫手だけが決め技ではない。ほかにも無数に相手を倒せる技はもっているだろう。しかし、とはいえ、最終的にはそのもっとも強力な技のあるところに相手を運ぶことができれば勝ちと、こういう理屈がまちがいということでもない。ひとはジャックを猛獣よばわりだが、それはいかにもキャッチフレーズ的というか、周囲を幻惑する言葉遣いで、じっさいにはジャックも身体の操作性を探究した結果、嚙みつきを練りこむことに成功しているのである。こうみると、両者はよく似ているわけである。ナイフ1本でもそれがプロの手さばきなら、猛獣が爪や牙をもっているのと事情は変わらないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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11月30日、またディズニーランドに行ってきた!ランドは今年3回目。さすがに年内はこれでおわりかな






今回の目標は4つ。てっきりシーにあるものと思い込んでいたカリブの海賊の新しいやつに乗る!いつもスルーしちゃうクリッターカントリー行ってミーコがいないか確認!いい加減××マウンテンみたいなのに乗ってみる!パレードをちゃんと座って見る!以上である。


ミーコは『ポカホンタス』に出てくるアライグマで、すごいかわいいんだけど、たまにクリッターカントリーにいるらしいと知って、そういうはなしになった。ビジュアル的にはほんとう、ただのアライグマなんだけど、たまらないかわいさがある。たぶん、イタズラっぽさが表情に出てるんだろう。リゾート40周年ということで日中行われているハーモニー・イン・カラーというパレードにも、こちらは備えつけられた機械だが、登場している。





今回はきちんと座ってハモカラ見たので、ミーコも見えた

クリッターカントリーははじめて行ったのだけど、けっこうすいてて快適だった。近くにあるウエスタンランドにはカントリー系のアトラクションや店がたくさんあり、かなり楽しいので入り浸りがちだが、夜になるとかなり暗くなるということが前回わかってので、なるべく日中に西側を済ませたのだった。まあ、暗いことは暗いんだけど、なんだろうな、小学校とか中学校の課外授業的なやつで体験する、キャンプファイヤー的なわくわく感はあり、夜は案外若い付き合いたてのカップル向けかもしれない。ウエスタンウエアというカッコいいアパレル店もあって、前回は寒すぎてふつうにカーディガン買ってしまった。


https://www.tokyodisneyresort.jp/tdl/shop/detail/539/



で、まあミーコはいなかったんだけど、そういうものなのでしかたない。

そのへんで前回食べ損ねたおにぎりサンド食べたんだっけな。ポテトとセットのやつで、買って、近くの茂みみたいなところの外縁に腰掛けたら、カモの強襲を受け、ひっくり返されて半分くらいポテト失ってしまった。


カリブの海賊は新しくなってからは初めて。なにが新しいって、まずはもともとアトラクションがあって、そのあとジョニー・デップの映画が作られて、そんでその世界観でアトラクションも作り直されたというところ。ジャック・スパロウや映像のみでデイヴィ・ジョーンズが登場する。あと、不明確だが、声からしてバルボッサかなという人物も出てくる。開始時に予想してなかった下り坂によるスピードアップのスリルタイムがあり、仰天した。いや、なんか前から悲鳴が聞こえるなーとはおもってたんだけど。


そんでまあ、流れからするといま西にいるわけだし、スプラッシュかビッグサンダーマウンテンに乗るべきか?となったんだけど、今回よくわかったのは、ぼくらくらいのんびり散歩気分できて、現在行われているパレード3つをぜんぶみようとすると、時間なさすぎて、60分待ち超のものはちょっとためらってしまうということだ。というわけで結局今回もマウンテン体験は見合わせた。スペースマウンテンは来年改装に入ってしまうから乗るならいまなので、まあ、次回は西から東に回って、15時過ぎにやる季節もののパレードはあきらめて、喫煙所があるためにいつも拠点として活用しているところでもあるし、乗ってみようかなというところである。


そういうわけで、今回ももたもた、うろうろ、なにをするでもなく徘徊する時間が大部分を占めてしまい、寒いやら疲れるやらで、ル・フウのチュロスを2回も食べてしまった。ふつうのやつとちがう味なんだけど、慣れたらもとのが思い出せなくなるくらいおいしくて、しかもリアルに体感でわかるくらい体力が回復する、美女と野獣エリアなのになぜかすいてるのもいい。おすすめである。


よかったのはやはりパレード3つをすべて指定の場所に座って鑑賞したことだ。ハモカラは夏に初めてみた時点では半分くらい知らないキャラだったが、それからディズニープラスで勉強を重ねて、ほとんど原典を知っている状態になっている。そうさせる楽しさがあるのだ。とりわけ気に入っているのは『ズートピア』である。ヴィジュアル的には地味にも感じられるカールじいさんが、おそらく風船のイメージを手がかりに前面に出ているのもうれしい。こんなふうにカールじいさんがフィーチャーされることなんてもうしばらくないだろうな…









エレクトリカルパレードはクリスマスバージョン。あまりの多幸感に毎回涙出てくる。ウォルト・ディズニーはえらいものを生み出しよったもんだ…と、巨大な海とか山、建造物を前にしたときみたいな脱力感がいつも訪れるのであった。

後半、また例よってなにするどうするとうろうろしていて、小さな世界に入ろうとしているところで、ミッキーの声が聞こえてきた。ナニナニ、どっかにミッキーいるの?と、うろうろキョロキョロしていたらいきなり花火が打ち上がってたまげた。これも初だった。やると知らなかったぶん、うれしい驚きである。