第87審/至高の検事23
伏見組が壬生の仲間を探してまわっているのを受け、壬生が捕まっている状況で、久我がかわりを務めてひとりひとり隠しているところだ。菅原はすでに韓国にわたっていて、久我にもはやく来いといっているが、壬生との約束があり、久我はなかなか逃げられない。
しかし仲間から連絡を受けてホテルまで向かうところで、久我はついに伏見組に見つかってしまった。やりとりをしていた仲間はすでにつかまってぼこぼこにされており、いわれるがままにメッセージを送っていたようだ。
若頭補佐の雁金正美がじきじきに出向いて久我を詰める。といっても、事務所が監視されていて出向く以外なかったっぽい。韓国に逃げようとしていたことも、たぶん捕まっていた仲間からすでに伝わっている。「責任を取らず逃げる人間は何もしてねェ人間よりタチが悪い」と、京極みたいな説教だ。なんなんだろうな彼らのこの半グレに説教する感じ。
その説教の調子のまま、全員伏見組に入るよう雁金はいう。どことなくマンスプっぽい雰囲気もただよう。半グレを愚連隊と呼ぶところなどもどことなく懐古趣味だ。
京極と山城が面会中。取調べがきついから警察にウナギの差し入れをしておいてなどといっている。それから壬生についても調べるよういってあった。山城は文句をいっているが、調べはしたらしい。壬生は京極じしんにいわれて隠していた拳銃と弾をもって出頭した。だが不起訴になるという。あのときの描写では、壬生はいきなりバッグをもって嵐山のところに自首したようだったが、じつは裏取引をしており、時間も場所も決まっていたらしい。その取引というのは、九条である。九条が犬飼に逃亡指示を出した件を持ち出すことで、壬生は起訴を免れ、嵐山は憎い九条を逮捕できたというわけだ。だが、それだけではない。九条はもともと京極の弁護士でもあり、京極もかなり信頼していた。この取引は京極の切り札を封じることにもなったのだ。現状伏見組が久我らを拉致していることをおもえばそう変わらないようにもおもうが、それがわかっているだろうにそうするということは、壬生にとって京極がどれだけおそろしいかということかもしれない。京極がなんらかの九条パワーで怒りとともに出所するよりはマシということなのだ。
「守護神」を封じられたことを理解した京極は、顔を歪めて怒りを新たにするのだった。
九条の勾留の日々。嵐山は、九条が犬飼に1年後の出頭を指示したことを取り上げる。1年ってなんだろう、というはなしだ。嵐山は勘と経験に基づいた推理で、京極の息子・猛が行方不明になっていることが関係しているのではと言い当てる。嵐山はそこが関係してるの知らないんだっけ? なんかわかんなくなってきた。じゃあそれまで犬飼はなんの「犯人」だったのかな。拳銃の件でということか? もしその共犯で逃亡を指示、しかも1年ということなら、たしかに奇妙な感じがする。単行本にアンダーニンジャみたいな人物相関図つけてくれないかな・・・。
で、その1年というのは、例の遺体の死因特定が困難になる期間で、そうなると不起訴になる可能性が高くなる。犬飼が猛を殺して埋めて、そう指示したんだろうと、嵐山は的確に言い当てるのだった。
九条は20日カンモクパイを当然狙っている。証拠がなければ20日以上勾留できないので、完全に黙秘していればよけいな証拠を捻出してしまわなければ釈放になるという、九条がいつも依頼人に伝えていたワザだ。しかしそれは警察も20日のあいだになんとかしようと本気を出すということも意味する。黙っている相手には人格攻撃でダメージを与えるのが定石だ。そうして弱れば、あることないことぽろっとくちにするかもしれない。そんな態度だから嫁に逃げられ壬生に裏切られると、嵐山も説教モードだ。なんか、なんだろう、九条は嵐山に、壬生は京極に、久我は雁金にという具合に、逃げ切ろうとする側には専属の説教屋がいるような感じだな。
九条はトイレなどいって時間をかせぐ。
独房のなかで九条はペンを借りてノートに状況を記載していく。これも九条じしんが依頼人にそうするようにすすめてきたことだ。金本のときは記録用にノートをわたしていたが、しずくのときにはおもったことを書くようにしており、こころの整理というような意味もあるようにおもわれる。じっさい、なんにもなくても黙っているという行為はキツイ。SNSに誰が読むでもない日常を書くのと動機の面ではよく似ているかもしれない。キツイことあっても、文章にして書き出すとすっきりすることあるからね。なにより自分自身でじぶんがどう考えてるのか理解できたりする。
書きにくいペンで九条は、まず弁護士的な視点で状況を分析する。人格攻撃が増えてきている、これは、人間性と事件がつながっているものとおもわせ自信を奪う方法だと。なるほど、そうして自信を失えば、「沈黙」という行為の後ろ盾になっているなんらかの戦略も、不安なものに見えてくるかもしれない。
鉛筆削りで自殺をしたものがいたらしく、そのせいで鉛筆類全般が使用禁止になっており、それでこの書きにくいペンということだ。
取調べについて九条は端的に「無意味」といっている。弁護士資格がかかっているというより、苦境に立たされた自分がどう日々に向き合っていくのかが問われていると。九条はそういうが、そういう心理状態こそが、人格攻撃の導き出すもののようにもおもえる。
そしてひとりでいる九条は寒さも感じる。思考は環境に影響されると。悲観的になりつつある九条は、家族と暮らしていたときのことを思い出す。たった5分、子どもから目をはなしていたせいで、なにかが起こってしまったらしい。その直後、子どもの成長は早いのだ、というはなしを奥さんがしているので、死んではいないようだが、なにか事故があった。おもちゃがちらばっているので、誤飲とか、あと転倒とかそういうたぐいのことかとおもわれる。
ともかく、おそらく仕事の電話とかで目をはなして、そういうことになった。仕事、つまり他人ではなく、家族に時間を使うべきじゃないか、九条にとって大切なものはなんなのか、こういうことを奥さんはいっている。そして離婚。このことを思い出しつつ、九条はうつろな目のままペンをバキボキとかじりはじめるのだった。
つづく。
回想場面ではランドセルが描かれているが、九条の娘・莉乃はこのあいだ5歳になったところだ。あれからどのくらいたっているのかは不明だが、少なくとも同居していた時代は5歳以下である。小学生でなくてもランドセルを背負うことはありうるのか、そもそもこれはランドセルではないのか(いまのものはぼくが背負っていたものより段違いにオシャレになっているから、よくわからないといえばわからない)、なんともいえないぶぶんもあるが、描写ミスでなければ、このとき事故にあったのは莉乃ではないことになる。とすると、莉乃のうえにもうひとり子どもがいたことになるが、それで逆にその子が亡くなっているということならはなしはわかるが、奥さんが子の成長のはなしをしている、つまり今後のことを語っている以上そうはなっていないようなので、そうするとここで新たに莉乃よりうえの子を登場させる意味はないことになる。作品外観測になるが、亡くなっていない子がここで増えても、九条がいかに家族をほったらかしにしてきたかということを描写するうえではその子と莉乃のあいだにちがいが生じないことになり、意味がないのだ。とするとこれは、ランドセルの描写が誤りであるということになる、かもしれない。
あるいはもうひとつ考えられることとして、ありそうもないことだが、一連の回想描写が時間的に連続していないという可能性だ。奥さんが話しているコマはぜんぶで4つあるが、これがばらばらのタイミングのものであるということである。たとえば、これを逆に読んでいくと、最初にスマホをもって「大切なものはなに?」のコマがきて、その次にランドセルと子どもの成長のはなしになる。こういう小さい不和があったうえで、事故が起き、亡くなった、というはなしであれば、莉乃より年上の子どもがいて、それが亡くなり、しかも奥さんが成長のはなしをしているという状況が成立するだろう。
ランドセルについてはこれ以上考えてもなにもないので、ここでは、以上のことはすべて無視して、ともかく九条は仕事のせいで子守をおろそかにし、害を与えてしまったことがある、くらいに受け止めておこう。
寒さもあって悲観的になった九条は、過去を思い出して、ペンを食べてしまう。最初に考えたのは、これで救急車というようなはなしになれば、勾留執行停止ということで、外に出られるのではないかということだ。外に出れば、気分もかわるし、なにかヒントを拾うこともできるかもしれない。じっさい、普段の九条はそういうところにまで考えが及ぶ人間である。だが、読めば読むほど、九条の状態は悪く、そこまで考えがまわるのかな、というふうになってくる。じっさいにこのあと入院とかいうことになって外に出られる可能性が出てくるかもしれないが、それが意図的なものだったのかというと微妙になりそうだ。
気持ちを整理するためにこの場でのノートは有効だろうが、はためにはむしろ逆効果のようでもある。嵐山の人格攻撃は、自信を失わせるために行われる。自信がなくなると、つねに味方がいるわけではない状況で、執拗な取調べに対して沈黙を貫くことが難しくなってくる。ほんとうに黙っていていいのか、じぶんは悪くないのか、悪くないとしてなにもしなくていいのかと、こういう不安がおそいかかってくるのである。九条のばあい、じっさいにダメージを受けており、嵐山のおもわくどおりに、じしんの離婚の顛末を思い返す状況に陥っているわけである。そのトリガーはなんだったのか。ひとつには、むしろ九条の理知的強さが導いたもので、苦境に立たされたじぶんがどう日々と向き合っていくのか問われている、というくだりだろう。子どものことや離婚のことは、それじたい悲しい人生の1頁だとしても、九条には弁護士としての信念があり、それが正しいもので、かつベルーフであると確信できる状況が続く限り、抑圧することのできるものだった。気をつけなければならないのは、それは決して乗り越えではなかったということだ。九条は弁護士としての指名をまっとうしつつ、家族のことを乗り越えてはいなかった。文字通り抑圧していただけだ。抑圧されたものは病にかたちを変えて回帰する。だが、ともあれ、目の前にはそれがないという状況にもっていくことはできたわけである。ところが、嵐山の人格攻撃によって自信を失いつつある九条は、この「神から与えられた仕事」に信頼を寄せることが難しくなってきている。これでいいのかと、わずかにでもおもってしまえば、使命感によって堅固に覆われていたその内側に抑圧されていた、この記憶がよみがえってくる。しかも九条はここで、きわめて理知的に、禁欲的に、「どう向き合うか」などということにみずから直面しているのである。万全ではないこの状況でそんなことをすれば皮一枚でつながっていた信念の鎧も崩壊する、というわけだ。
ただ、たんに「崩壊」といってもさまざまで、とりわけ痛みをともなう行為には、本人なりの理屈があることも多い。そこで勾留執行停止を狙ったのでは、というようなはなしにもなるが、それはおいておいて、あくまで九条の内面になにが起こったのかということに的をしぼると、やはり「食べる」という行為が、なんらかの意味を宿すのではないかなとおもわれる。書き出し、それをじぶんで読み、納得するという一連の行動は、もやもやとした気持ちでなにが問題だかわからないなかすすむとき、主観に一定の秩序をもたらすものとして有効だ。なにかに心身が損なわれたとき、ダメージをひきずるのは、その全貌を理解できていないからである。ダメージは、主観によって認識されるので、当然その状況も主観的に認識される。しかしこれを書き出すことによってひとは、地図でもみるように事態を客観できるようになる。物事の関係性や大小、利害関係など、主観の範疇ではないところまで目が届いたとき、ようやくひとはそれを現象として消化できるようになるのだ。しかし九条ではこれは逆効果になっているようにおもわれる。なぜなら、以上の図式でいうと、九条は家族の思い出を弁護士の使命によって上書きするものだからだ。九条は、いつもの冷静さで状況をつぶさに分析しようとする。だが、嵐山の人格攻撃により、状況の分析はいつしか自己分析になっていく。そのとき、彼は、弁護士の使命を大義に抑圧してきた記憶と直面してしまうのだ。
ほんらいは、そうした抑圧については、直面することが望ましい。そのように語らずに済ませようとする悪い記憶のことをトラウマという。トラウマは、ドーナツの穴として、「そこにはなにもない」という身振りを記憶の持ち主に強制し、ぜんたいをいびつなものとする。だから、いつかひとは「いや、そこにはたしかにそれがある」ということをいえるようにならなければならない。だがそれは、すぐにそうせよというはなしではなく、タイミングもある。少なくとも拘留中は避けたほうがいいだろう。九条のペン食いは、このことに気付いた結果ではないかとおもわれる。つまり、自己分析をやめるということだ。内省それじたいは拘留中でも望ましく、これまで九条が依頼人にそうするよういってきたのは、まさにそういうことだったはずだ。ノートにあらわれる内なるじぶんは、じぶんの味方であるはずである。ところが、抑圧された記憶をみずから手際よく暴いてしまう九条にとっては好ましい状況にはならない。だから彼は、自己分析をしないという決意を身振りでもって示すのである(そしてあわよくば勾留停止)。
今回気がついたことだが、本作では誰かが誰かに説教する場面が妙に多いようにおもわれる。今回は、雁金が久我に、嵐山が九条に説教していた。これはたぶん、蔵人的なものと九条的なものの対峙が、作品ぜんたいに影響をもたらしているということだろう。わかりやすく二元論的にいえばロゴス(言葉)とパトス(感情)の対立ということになるが、九条はパトスといって片付けられるようなたんじゅんなものではないので、なるべくこの語は避けたい。
説教は、物事のある面について、ほんらいはこうあるべきだという当為の言葉で語られる。行動半径の定まっている状況、たとえば仕事であるなら、当為の言葉は有効だろう。もっと「常識」とかそういうレベルでもまだ意味はある。しかしそれが、道徳とか倫理とかいうはなしになると、当為は暴力性を帯びることになる。あるせまい状況では有効な「~するべきだ」が、広いところでは議論を呼ぶものとなるのだ。そういう、ふつう議論を呼ぶところのものについて説教をするものは、ある種の無邪気さとともに暴力的な道徳を語るものである。蔵人や嵐山はこれに該当し、法の前に善悪が決定していることを前提に行動する。対する九条は、そうした善や悪といった言葉の区分が多くのものを見落とすことを知っている。また、考えてみれば壬生らの「半グレ」という立ち位置も、ヤクザからすれば奇妙なものであっても、彼らの見落としにほかならないわけである。おもえば壬生は京極にしょっちゅう中途半端とか半端だとかいわれていたが、この「半端」なぶぶんが、まさしく言葉の拾い落としなのである。無邪気に言葉の秩序を信奉するロゴス側の人間からすれば、これらは正すべき説教の対象なのだ。
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