第88審/至高の検事㉔
嵐山の人格攻撃を含む取調べときつい環境のせいで暗い記憶ばかり思い出してしまう九条。ノートに心情を記しつつ、あるところで突如ペンをガリガリかんでしまうのだった。
前回の描写では、うつろな表情も含めて、狂気や崩壊のようなものが感じられたことはまちがいなく、そのように読んだし、それでまちがっているわけではないのだが、九条はおもったよりぜんぜん正気であり、ただ子どものころの癖が出てしまったというだけのことのようだ。とはいえ、かたいペンの先は細かく砕けていて、嚙むというより食べるつもりのちからでやったらしく、なかなか、常軌を逸したひとである。
中学生くらいの九条が描かれる。少し前に扉絵かなんかで描写のあった勉強部屋は、てっきり烏丸のものとおもっていたが、九条だったらしい。鉛筆のお尻のぶぶんはどれもがりがりかまれて変形している。そして、黙って机に向かいながら、無秩序な文字群を書き、それを黒々と塗りつぶしているのだった。そのうえには大きめの漢字で「死」などもみえる。「滅」っぽいのもあるな。
その様子を、九条は父・鞍馬行定に目撃されてしまう。なぜ蔵人のようにできないのか、鞍馬の弟は馬鹿だといわれて悔しくないのか、と説教しながらなぜか行定は上着をぬぐ。殴る準備だ。九条は涙を流しながら鉛筆を噛み、もう勉強したくないという。やがて、鉛筆が折れる。そこで拳骨。正座して反省である。東大法学部に入れなければ絶縁と。現在の仕事ぶりからしても、九条はふつうに頭脳明晰で、ここまでいわれるほどの劣等生だったとはちょっとおもえない。成績不振の原因はふつうに考えて家にあるわけだが、まあいま弁護士になってはいるわけだから、難しいところか。
ひどい思い出だが、九条はそれを笑いながら思い出している。続けて、黙秘は技術だと、ノートへの記録を続ける。そのように述べられているわけではないが、このように笑い飛ばすことも人生の難所を克服するのに必要な技術なのかもしれない。
黙秘に必要なことは3つ、目の焦点をぼやけさせる、視線はネクタイの結び目あたりにおく、そして呼吸を数える。座禅と同じだというのだった。
烏丸との接見で九条はペンのはなしをする。特に怪我をすることはなく、ただ看守に怒られただけのようだ。その表情から烏丸は九条がなにかを乗り越えたというふうに感じ取る。そして、冗談っぽく、司法試験の索漠の時期と比べたら、みたいなことをいう。九条は、東大首席で学生時代に司法試験受かった烏丸がそれをいうかと吹きだしながらつっこむ。もちろん烏丸も九条がそのように受け取るということをわかっていっているのだった。そして九条は、弁護士には真面目さより明るさや笑顔を期待してしまうものなんだなと新たに発見するのだった。
どのくらいたったのかわからないが、九条はもうひとがんばりというところのようだ。壬生の供述だけなら不起訴、そこに犬飼の証言でも加われば別だが、犬飼はもうこの世にいない。
というわけで、九条は20日がんばって解放されたようだ。車をとばしてどこか山奥の別荘みたいなところに到着。そこには壬生がプールに足をつけて待っていたのだった。
つづく
何ページか読み飛ばしたかというような急展開である。
とりあえずは九条が本気で発狂したわけではなかったというのはよかった。よかったが、過去を克服、というより抑圧をするために必要な狂気というものは感じられ、別の意味でこれでいいのかなという感じは残ってしまった。なんというか、現実を現実として受け止めるためにはだれしも多少狂っていなければならないわけだが、九条はそれを技術的に乗り越えてしまったのである。
前回九条は、離婚当時のことを思い出し、ペンをバキボキかみ始めていた。これはむかしの癖だという。それは、勉強がいやでたまらないあのときのストレス下で行っていたものだ。つまり、離婚当時のリアルなストレスが、ちょうどペンをもってノートに向かっていたことも手伝って、少年時代のストレスと同期し、連動してしまったということだ。じっさい、今回の少年時代の回想は、九条が我に返ってから自嘲的に呼び起こされているものだ。今回の噛み癖のあらわれは、それを行っていた勉強時代ではなく、離婚という経験に対応したものなのである。たんに強いストレスである以上に、両者に共通点はあるだろうか。それは、ひとことでいえばいたらなさ、「不行き届き」ということになるかもしれない。
前回考えたように、九条は離婚や子育ての記憶を克服したわけではない。抑圧しているだけだ。なにによってかというと、弁護士としての使命感によってである。弁護士として信じる道を行く、そしてその道は、司法試験合格とともに携えることになった職能ととともに、神の呼び声に応えるものとして、一種の必然として、行動を決定するものだ。弱いものを助けるのがじぶんの仕事、法の手続きを守るのがじぶんの仕事、こういうふうに考えることができれば、それによって失われた重大で大切な物事を、一時的に忘れることができるだろう。しかしそれらは乗り越えられたわけではない。ふとした拍子に戻ってくる。とりわけ、嵐山の人格攻撃で自信を失い、使命感も揺らいでいるいまのような状況では、当時の過失は言い訳もできないただのリアルな「不行き届き」として再現されてしまうのだ。
勉強時代のトラウマ、勉強ができなかった、そのことによって父に虐待をされた、また蔵人や他人に対する強い劣等感、こういうものもまた、克服はされていない。離婚の事実と同様、「弁護士として誇りをもって活動している」という現在の事実によって塗りつぶされているだけだ。こうして、離婚と勉強は同期することになる。九条の自尊心は弁護士業によって、というより彼独自の弁護士観によって保たれている。それが嵐山によって損なわれ、そのしたに隠していた離婚と勉強の記憶が、まるで同一の記憶であるかのようにあたまをもたげ、そのストレスへの反応としての鉛筆噛みをさせたのだ。
ストレスはカタルシスの快楽と表裏一体である。カタルシスの語源は古代ギリシャ語で排泄を意味するものだった。ほんらい、排泄行為は、排泄物がたまらなければ行わずに済むことだ。しかし、生物が時間的存在として持続し、成長と保持のために摂取を続ける以上、排泄は必然の現象となる。排泄物の滞留じたいはストレスである。しかし、それは存在にとって不可避的な現象であり、これをストレスのままにしておくことは賢明ではない。だから、すべての滞留に対応する解放には快楽がつきまとうようになったのである。おそらくそのようにして、わたしたちは「カタルシス」を知ったのだ。それは、存在していることと一体の、無時間的には矛盾を抱えた作用なのである。いかにカタルシスが心地よくても、それの前提となるストレスは不快なものだ。だとするなら最初からストレスなどなければよい、ということに、ふつうはなる。だがそうはいかない。そうはいかなくなったとき、生理的必然性はそこにインセンティブのようなものを設けたのだ。
ストレスそれじたいは、単独では有害なものでしかない。それが排泄物の滞留というような、生物としての必然であるなら、その排泄における快楽というかたちで帳尻合わせも行われるだろう。けれどもそうでない場合、つまり、たとえば勉強を強いられるストレスのばあい、ひとはどうなるのか。通常、そのような生物的な必然性を欠くストレスからは、逃げればよいということになる。満員電車に耐えられなければ、次の駅でおりることでとりあえずは解決だ。だから、そうしたストレスに対応する解放の行為、排泄の行為も、ふつうは不要となる。九条が噛み癖を身につけてしまったのは、ほんらいただ逃げればよいはずのこうした外部的条件によるストレスを、生物学的必然と同レベルに内面化し、受けとめていることを意味するのだ。もちろん、同意のもとそうなったというはなしではない。家庭の事情はさまざまだが、こうしたものから「逃げる」というのは、いうほどたやすくはなく、通常は、「食って寝て排泄しないとひとは死ぬ」くらいに当たり前のこととして考えられるのである。だから、この状況で彼ができることは生物学的必然のようにそれを受け止め、正当化するしかなかったのであり、その結果が、ああした噛み癖による若干の解放運動だったのかもしれない。
しかし、もちろんそんな程度のことで、処理しきれない滞留が消え去るものでもなく、必然性とともに受け取っている以上、そこには理屈もないから、ことばにならない闇が内側には広がっていくことになる。それは、病徴にかわることもあるだろうが、この段階の九条では、英単語や計算式を書くためのノートを黒く塗りつぶすという行為に変わっていた。九条が、こうした記憶を、克服しないまでも押さえつけることに成功はしているとおもわれるのは、噛み癖を起こしながら、引き続きノートへの記述を続けているからだ。嵐山の人格攻撃は、たんに九条の弁護士的な自信を奪い、むかしの記憶をよみがえらせただけの行為ではなかった。それじたいが、彼のなかに眠っていた、父親の人格攻撃を想起させるものでもあった。読みつつ、黙秘についての技術を語る口調が、そうした過去を抑圧する技術についても語っているように見えたのは、だから当然なのである。ここでいう「黙秘」は、もちろん、そうした過去を抑圧する術そのものだったのである。黙秘に必要な条件は、ひとことでいえば「直面しない」ということだ。まさしくそれは抑圧の作法なわけだが、それはいまはいいだろう。「黙秘」とは、過去に直面しないということだったのだ。そういう生きかたもある。それに、九条は「笑い」を通じてそれを少しずつ解消しているようなところもある。思い出しつつ吹きだすのもそうだし、烏丸とのやりとりもそうだ。だが、それも弁護士としての誇りがあってこそのことなのだ。
さて、九条も壬生も解放されたようで、なんかよくわからない感じになっていた「誰がなにについてどう認識しているのか」が整理されることかとおもう。まあ、混乱しているのはぼくだけかもしれないが・・・。いちおう、弁慶のくだりもあって、100パーセントの裏切りではないとわかっているとしても、話し合いなしに壬生が九条を売ったことにちがいはなく、今回最後の九条は斜め後ろから表情が描かれない構図で、ちょっとピリッとした雰囲気はある。久我はたぶん伏見組に入ってるし、菅原は韓国にいるという状況で、特に壬生の環境が大きく変わっているということもあり、ほとんど第1部完結みたいな様相である。
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