今週の刃牙らへん/第5話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第5話/いい風貌(かお)

 

 

前回

 

 

誰かとおもったら花田が、花山の拳を受け止めてカウンターの投げをうったところである。

ダンプからカウンターがとれないように、花山からはカウンターがとれない、というはなしだったが、それは、花山が構えはじめるとなぜかみんなそれを最後まで見届けてしまうという、ヒーローの変身場面にも似た不条理あってのことだった。花田は、逃げつつ、しかし見届けはするという、いいポジションで、投げを放ったのであった。

 

鈍重そうだが花山理論ではスピードも破壊力の要のひとつだ。花田の耳を落としそうな速度で顔の横を拳が通過する。そして、その勢いのまま背負い投げである。花山もちょっと驚いているようだ。

地面に顔からつっこんでしまう花山だが、たいしたダメージではない。複数の銃弾がくちのなかで炸裂して顔が爆ぜても立っている男である。が、のんびり起き上がっているうちに花田は逃げ出してしまったのだった。花山からカウンターがとれた、それだけでじゅうぶん、ということかもしれない。このまままともにたたかったら重傷は避けられないので。

 

 

光成邸には鎬昂昇との対決があるようなないような感じのジャックがきていて、ごちそうされている。ごちそうといっても、ステーキとか寿司ではなく、牛の背骨である。

牛の背骨はライオンでも歯が立たないという。内部にある「髄」にたどりつけるのはハイエナだけ。もちろん、ジャックは除く。相変わらずジャックは揚げパンでもかじるみたいに動物の背骨を食べるのだった。

さて、鎬昂昇だが、なにを知っているかと光成は訊ねる。わりといい質問だ。バキの世界では意外とひととひとの交流が描かれない。あのひととこのひとがどの程度のかかわりでいるのかが、よくわからないのだ。だからこそ、加藤とガイアがスパーリングしたりするとちょっと興奮したりする。で鎬昂昇についてジャックはどうかというと、よく知らないのであって。最後にあったのはピクル争奪の同窓会。まちがってはいないので、いうほど興味ないという感じではないみたい。だが、そのとき「ミカケタ」という、ひどい認識ではある。あまり出番があるほうではないが、鎬昂昇はドイルを圧倒する実力者であって、まちがいなく一流の強者だ。下手したら初期のうぶな宿禰でも勝てないかもしれないくらいには強い。そんなお気楽な相手かと光成は訝しげにいうのだった。

 

 

本部の道場には花山の事務所から逃げ出した花田がきている。彼は本部流の免許皆伝、だったかな、とにかくトップの弟子だったとおもうが、久しぶりらしい。明らかにデザインが変わった花田の顔つきから、本部は場数を読み取る。稽古だけで生まれる「気」ではないという。修羅場、場数が風貌に「武」を宿すと。ならば修羅場ばかりをくぐってきた本部はイケメンである。という和やかな場面に、ごぶさたしてますと鎬昂昇があらわれる。ごぶさたしすぎだろこいつら。本部をなんだとおもってるんだ。

といっても、鎬はじぶんできたわけではなかった。本部が呼び出したのである。花田はどっちなのかよくわからない。でも、流れからして本部がぶつけたのかもしれない。鎬はいう。ここにはなんでもある、本部の技術、数々の武器、そして古流柔術を修め、プロレスラーでもあるという花田。鎬は「ステキな玩具」呼ばわりで花田を挑発するのだった。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

花田は花山と真っ向勝負するつもりはなかったらしい。

本部は花田の表情から踏んだ場数を読み取っている。たぶん、花山のところにいったみたいに、いろいろなところに顔を出して、いままでなかった経験をしてきたのだろう。しかし、なんというか、一晩だけのものも含めてつきあった異性の数をいうような誇張の感じも少しはある。少なくとも花山に関しては、場数に含んでよいのか微妙なところだ。花田はたぶん、花山の前に立てる胆力がじぶんにあるかどうかと、そのパンチからカウンターをとれるかどうかたしかめたかっただけでえ、花山との喧嘩でどうこうというつもりはなかったっぽいのだ。それを修羅場に含んでいいのかな・・・という気持ちは残るわけである。まあ、たんに想像以上に花山がバケモノで、ふつうにムリだってなって逃げただけかもしれないが。

 

バキ作品は主人公にバキを据えつつも魅力的なキャラクターに充実した作品で、群像劇的な面もある(だから外伝も多発する)。ただ、その横のつながりはどうなのかというと、よくわからないところはあった。つまり、「刃牙らへん」の関係性ということである。映画のアベンジャーズのシリーズなどでは、そのあたりを鑑賞者が求めていることを知ってか、明らかに意識的その関係性を描いていくことに注力していたが、あそこまで公式からの供給が親切設計なストーリーは珍しく、たいがいは、物語の中心にあるなにものかに多くのものの目が集中し、いっさいの脇見なしという状況になりがちである。バキを欠き、勇次郎を欠いた遍在の世界で人物たちが描かれるということは、彼らの横のつながりが明らかになっていくということなのかもしれない。だとしたら大歓迎である。そういうのは大好きだ。

 

これまでにもじつはそのようになりかけたことがないではない。刃牙道開始時点での、あくび現象である。親子喧嘩が終わったあと、ファイターたちは以前にもまして厳しいトレーニングを行いながら、なぜかこらえきれないあくびに支配されていた。厳しいトレーニングは危機感を、あくびは倦みを示す。親子喧嘩が終わったことで中心を失い、目標地点をどこに定めればよいのかわからなくなったことにより、また危機感はのちの武蔵出現を予感してのことだったとおもわれる。それまでは、どうやっても届くことはないとわかっていても、どうあれ勇次郎はファイターにとっての「最終目標」としてあった。ぜったいに届かない太陽に向けて毎日跳躍することでジャンプ力がついていくというようなことだったのである。が、親子喧嘩は勇次郎の唯一無二性を失わせた。そばに同レベルといってよいもうひとりの最強者としてバキが立つことで勇次郎は相対化され、神話性を剥がれて、「語ることのできるもの」、要するに現実的なものとなったのである。じっさいには勇次郎の強さが「現実的」ということはないわけだが、計測不能のはずだった絶対者が相対化されたということは大きかったはずだ。これが、ファイターたちからわずかに「張り合い」のようなものを奪ったのである。だが、やはり勇次郎が強者であることにちがいはなく、じぶんが強さを求めていることも変わらない。妙な予感もある。そうして、あくび現象に負けじと彼らは以前にも増してトレーニングにはげんでいたのである。

このときに、バキ世界からはいちど中心が失われかけた。以後、武蔵、宿禰と続くことで主題のようなものはつねにあったわけだが、今度はいよいよ、あくび以後、主題のない世界が描かれんとしているわけである。

 

ただ、ここには少しトリックがあり、それが「刃牙らへん」として語られる以上、実は依然として中心は存在している。鎬昂昇も花田も、刃牙のまわりにいる強いひと、という属性を出ないのである。これは、バキ道でときどき話題にしていた、ファイターにとっての「見られる」ファイトと関係しているとおもわれる。とりわけジャックは、宿禰戦勝利後にかなり自覚的に「見られる」状況を堪能していた。これが作品成立のメタ的次元に引き上げられると、そういう属性が出現することになる。だが、鎬昂昇を「刃牙のまわりにいるひと」と鑑定するのは他者である。無責任な非当事者なのだ。あくびをするジャックは、作品構成レベルでは、「中心点を失い、居場所が不明確にある刃牙周辺のもののひとり」ということになるが、もちろんジャックにとっての自分自身はそうではない。当たり前のことだ。ジャックにとっては、この世界の主人公はジャックなのだ。

とはいえ、この立論は少しイジワルというか、野暮かもしれない。だって、この漫画の主人公はこれまでずっと刃牙で、ジャックらがその周辺にあらわれてきたものであることは事実だからだ。漫画としてはそう説明するほかないというわけである。だが、ジャックにとっても鎬昂昇にとっても花田にとっても、自分自身がじぶんの人生の主人公であるということに、ほんらいちがいはない。そこが明確になったとき、本作は本格的にスタートするにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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