今週の刃牙らへん/第3話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第3話/刀帯びし肉体

 

 

 

前話

 

ジャックの次の相手は五体が刃と化す斬撃空手の鎬昂昇だ!

拳が刃となるという点では、一流どころの空手家ではたいていそうであるともいえる。鎬昂昇が神心会の道場を訪れ、克巳とともに独歩の演武を見ているところだ。

独歩が得意の針金切りを見せている。手刀の、といっているが、よくわからないな、絵の感じだと背刀っぽいんだが・・・。掌を返したところなのかな。

当初独歩を上回る実力と考えられていた克巳だったが、なんやかんやで、けっきょく独歩のほうが強いのかなという感じにはなっていた。そういう停滞期を経た後、ピクル戦で大覚醒して、克巳はようやく超一流どころに仲間入りしたようなところがある。独歩は、この針金切りはじぶんにはできて克巳にはムリないくつかのことのひとつだという。それは逆もいえることだし、克巳的には「やったことがない」だけなんだそうだ。このあたりの親子描写はわりとほっこりポイントである。音速の技を使う克巳ができないということはないとおもうが、もしできなかったらなんかムカつくので、やらないみたいなことだろう。父親への配慮みたいなことも微量にあるかもしれない。

 

今度は昴昇の番だ。独歩は克巳が無造作に縦にもった針金を切っていたが、昴昇が挑戦するのはいかにも儚げにブロックのあいだに渡しただけの針金である。

昴昇は道着のふところに右手をしまい、凶器でも隠し持っているような構えで立つ。そして抜かれた拳は、指を鉤のように曲げた独特なものである。これを、からだを落としながら垂直に落とす。すさまじいスピード感だ。真っ二つにされた針金が転がって落ちる。昴昇は指を使ってこれを切ったようだ。針金を拾った克巳は、独歩のものより滑らかな切り口だという。これもまた、親子関係がもたらすイジワルがあるようだが、事実としてそうっぽい。独歩は、手刀は指刀より遅いと説明するが、ともあれ、克巳でも挑戦をためらう針金切りをいともあっさりやってのけたわけである。昴昇は、釈迦に説法だけどと断りつつ、実戦とはちがうからと謙遜する。

というわけで、実戦がしたい。昴昇は独歩に胸を貸してもらえないかというのである。昴昇はじぶんの拳を刃物と認識している。刃物との対峙なら、独歩にはなれたもののはずだというはなしだ。つまり、昴昇は、出血の避けられないじぶんの斬撃をつかっていく気なのである。

独歩が前蹴りを放つ。回転をしないものではもっとも威力の高い蹴りだ。これを正中線へ。ガードした昴昇が壁まですっとぶ威力である。腕にしびれは残るが、とりあえずダメージはないっぽい。

だが昴昇は武神の前蹴りをただ防いだわけではなかった。独歩の蹴り足から出血。抜け目なくヒザ裏を切っていたのである。ハムストリングに指をひっかけたとかそんなことかな。超痛そう。

 

これは勝敗をかけた試合ではなく、技術の確認のための組手だ。克巳が烈の右手でさすがに止める。なぜか「ちょちょちょ・・・」というセリフが吹きだしの外に示されたのち、「ちょっとダメだよ2人ともォ」とへんなノリで介入する。最初のちょちょちょは烈がいっているのかもしれないな・・・。

へんなノリのまま克巳がくちにした「戦争じゃあるまいし」を拾い、昴昇にひかえているジャック戦は戦争以上かもしれないぜと、独歩がいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

佐部戦では刀という無機物があいだにあることで、そしてそれが折れることで、逆に試合はどちらも無傷で完了した。しかし相手の体の皮膚を破って損壊するジャックと昴昇がたたかえば、出血は避けられないだろう。

 

最新刊でシリーズ最終巻となる『バキ道』17巻を読み返して、「刃牙らへん」という語の登場がどこにあるか確認することができた。以前書いたときは、ピクルが鴨ムシャしてるところを目撃した松永の証言をあげたが、その前に、本部とガイア、加藤とのやりとりにおいて、「エエカッコしいだ」という文脈において、「刃牙らへん」が出てきたのだった。このときのはなしは、武道の要諦は戦力向上にあるのであって、「道」が説くところの人格形成とは無関係なものだということだった。そこで、独歩や渋川は道を説かない、というはなしになる。そんななかで究極レベルに強さだけを求めたのがジャックだったと。そしてはなしはさらに展開する。そんな、道を説かない独歩らを含めた「刃牙らへん」でさえ、嚙みつきを選ぶことはない「エエカッコしい」だと。

 

ここのところの本部たちの議論は、道を説かない独歩らさえ「エエカッコしい」に含めてしまっているぶんわかりにくくなっており、そしていまだによくわからない。だが、ここで本部がいっている「エエカッコしい」は、量的な問題なのかなという気はする。様式美にこりかたまっている武道のものからすれば、道を説かない独歩らは相対的には「人目を気にしないもの」だが、そこにジャックの存在を投入したとき、彼らはみんな(相対的に)「エエカッコしい」になってしまうと。なぜなら、嚙みつきを選ばなかったから。とはいえ、彼らが嚙みつきをしないということはないだろう。特に実戦性に優れたバキや勇次郎、また独歩などは、平気でつかうものとおもわれる。それに特化しないだけだ。だがともかく、強力無比でその点においては誰にも備わっている嚙みつきを、彼らは中心におくことがなかった。「エエカッコしい」だからだと。こういうはなしである。とするならば、「刃牙らへん」の視点からするとこれはカッコわるいものだということになる。たとえば、くりかえされる表現として、これが「オンナコドモ」の技術だということがある。このご時世でも、むかしより弱まってきているとはいえ、おもに光成などのくちを通じて、バキ世界ではあきることなく「男の世界」が明言され、描かれてきた。こういう世界で、嚙みつきは弱者が最初からもっている武器である。こういうものを喜々として用いるのはちょっと恥ずかしいと、こういう価値観が、じっさいのところ刃牙らへんがどうおもっているかは不明だが、あっても不思議はないという状況なのだ。なぜ恥ずかしいかというと、「人目」を気にするからだ。「人目」とは、他人からの評価のことである。だがジャックにとってはそんなことはどうでもいい。「人目」を気にして強力な武器を控えるものは、ジャックと対比したときには強さを求める気持ちにおいてどうしても劣るということになるわけである。

 

もうひとつの考え方として、うえの選択のはなしにも通じることで、刃牙らへんとジャックではそもそも議論の対象が異なっている可能性がある。ふつう、あの格闘技の「技術」というときには、「体系」が思い浮かぶ。打撃格闘技では左足を前にガードをあげた構えが標準になり、空手ではこれを左自然体と呼ぶ。古流ほど複雑な構えを保存しており、また利き腕によってもかわるものなので、一概には言えないとしても、タイピングのホームポジションのようなものとして、この構えは考えることができる。ここから、無数にもおもえるあらゆる動作が現れる。それは戦っている相手に対応した結果としてのことだ。そしてその対応の結果動いた姿勢は、さらなる変化を感じ取り、再び無数の可能性を宿したまま動き続ける。この動作の連続性を体系化したものを「格闘技術」と呼ぶのである。だから、たとえば「空手」とは、じつは指差していうことのできない非実在的な「ありよう」にほかならない。国家が想像の共同体であるように、「格闘技術」もまた想像の技術体系なのである。嚙みつきは、この体系の網目に組み込まれうる選択肢のひとつでしかない。

こうした技術観を発散型とすれば、ジャックは収束型ということになる。発散型は、ひとつの標準から逸脱を続け、あらゆる状況に無数の可能性を想定し、あいまいに、広く視野をとって対応していくものだ。収束型たる嚙道は、逆である。まず、無数の可能性を宿した「相手」が目前にあらわれる。嚙道は、そこにありうる相手の動作をひとつずつ解消していき、ついに自身の「嚙みつき」の動作に収束させるのである。だから、これもまた一概にはいえないことだが、嚙道は原則的にカウンターに優れていくことになる。ここが嚙道の道たる唯一のゆえんかもしれない。カウンターは高等技術であって、一朝一夕にできることではない。嚙みつきじたいは誰でももっている武器ではあるが、それを戦闘のなかにねりこもうとしたら、非常に高度な格闘技術を必要とすることになるのである。

 

こうしたわけで、バキらは「エエカッコしい」である以前に発散型なので、嚙みつきを結果にもっていく嚙道的な発想は、そもそももたないのである。だが、それを誰かが「エエカッコしい」だと受け取るのは自由だ。それが「刃牙らへん」という第三者的呼びかたに含まれる他人事感の由来である。

 

 

本編の主題はジャック的な「人目を気にしない」ものと気にするものの対峙ということになるのかもしれないが、それとは別に、傍流として、発散型と収束型の対決ということがここに組み込まれる可能性がある。では鎬昂昇はどうかというと、微妙なところだが、収束型のような感じがするのだ。つまりジャックと同型である。彼自身は空手家であり、眼底くだきのような豊かな技を数多く備えている人物であるが、基本的にはやはり斬撃に試合の最終シークエンスをもっていきたいのではないかと考えられるのである。このタイプは自然カウンター型になるし、構えからも「なにをしようとしているのか」がよくわかるようになる。いまから噛みつこうとしているひと、いまから指で神経切ろうとしているひとがいて、それが外部からみて丸分かりであるときわたしたちがとるべき行動は、近寄らないことだ。不思議なことだが、収束型は、発散型が選択肢のひとつとしてしかみないものにこだわって人目を気にしなくなることで、むしろ闘争を呼び込まない武術を築いてしまうことになるのである。

 

 

こうみると、ジャック対昴昇は、開始とともに相手のでかたをみる感じになるのかなという気はする。だが、互いにもともと発散型であり、高い技術を備えているということもある。あるいは、この技術でもって、いかにして相手を収束型でいさせないかということがポイントとなるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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