今週の刃牙らへん/第2話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第2話/Ultimate pure boy Jack

 

 

 

前回

 

バキ新連載『刃牙らへん』はほぼジャックが主人公っぽい。

前回剣豪・佐部京一郎の刀を噛み折ったジャックだが、その少年時代が少し描かれる。場面はカトリックの教会、語り手はサミュエル神父だ。なぜだかこの神父が、幼いころのジャックを知っているというのである。

11年前、教会の最奥、キリスト像の前で汗を流している少年に神父は出会う。キリストを「守っていた」というのだ。イエスさまに守られているものがイエスさまを守るのかと、神父は笑う。だがジャックは真剣だ。ふたりは向き合って座り、よく話し合う。守る目的はなにか、守る替わりになにを願ったかと。神のために働いたのであれば、神の愛を授かることになる。だがこれは神父の誘導尋問のようにも感じる。というのは、ピクル戦でジャックは、生まれてはじめて神様にお願いをしているからである。

なにを願ったかというと、むろん「強く」ありたいということだ。どのくらい強くか? 生き物でイチバンである。メジャーリーガーを目指したり宇宙飛行士を目指したり、子どもにとって夢は自然なものだ。しかしジャックのそれは「夢」などというあやふやなものではなかった。リアルな目標だったのである。

神父は、ごく初期のジャックがどういうトレーニングをしていたかの貴重な目撃者だ。ジャックはおそらく10歳か12歳かそのくらい。母親の過去とじぶんの出自を聞かされ、範馬勇次郎を倒すことが初めて人生の目標となったばかりのころだろう。汗が水溜りになるほどプッシュアップ、というか厳密には拳立て伏せを行い、目や鼻から血が出てくるほど長時間の逆立ち。ひとをさかさまに吊るしておくとやがてくちから内臓とかが出てくるって『善悪の屑』だったか『外道の歌』だったかでやってたけど、逆立ちも度を越すと血が出てくるのだな。


その後シャドーボクシングも行うのだが、その最後がどういうものかというと、失神をもって終了ということなのである。「ブッ倒れるまでガンバる」はただの比喩である。ふつう、運動行為で「限界」は、走っているなら、もう動けなくなって地面に丸くなってしまうことをいう。トレーニングにおけるオールアウトも同じことだ。5キロでサイドレイズを行う、もう上がらなくなったところで3キロにもちかえる、そして1キロ、最終的には空手で、もう腕があがらないというところまで同じ動作を続ける、それがエネルギーの枯渇ということであり、体力の限界ということだ。それだけでも経験や胆力、技術の必要なトレーニングになるし、「限界までガンバる」というのはくちでいうほどたやすくない。だがジャックのそれはそんなものではすまない。これらの動作の停止という現象は、不可避的にみえて、実は能動的なものである。神父はたくみに「自ら」動作を停止するという表現をしている。ジャックはそうではないのだ。

 

このはなしは光成が、おそらく間接的に聴き取ったものらしい。光成からはなしを聞いて、ジャックはサミュエル神父を懐かしむ。「懐かしい」は人間らしい時間感覚の感情だが、ジャックにもそういう感情はあったのだな。

さて、次の試合である。ジャックに興味あるのは神父だけではない。相手は武器を帯びている、それも全身に。斬撃空手の鎬昂昇なのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

鎬昂昇かあ・・・。まあいまどれくらい強いのかいちばんよくわからないひとではあるな。ことあるごとに顔は出すし、成長してるっぽいけど、ファイトはしてこなかったから。


武器の本質を、受けを無効にするというところに求めるとしたら、たしかに鎬昂昇も武器を備えていることになる。ジャックの嚙みつきも、よけたらダメージを受けることはないわけだが、腕で受けたら、たとえば首の損傷は免れたとしても、腕が使えなくなってしまう。こういう意味で、素手で牛を解体するレベルまで指を鍛えた昂昇は武器使いということになる。

 

 

かつてジャックはピクルとのたたかいにおいて神に勝利を願っていた。このときジャックは、「初めて貴方にお願いいたします」というふうにいっている。だからといってジャックがこれまでの人生でいちども神のことを考えたことがないと断定するのはあさはかだろうが、今回光成のはなしを聞いてジャックはサミュエル神父のことを覚えていたわけで、少なくとも「初めて」と述懐する際に、サミュエル神父とのことは想起されなかったというふうにはいえるだろうとおもわれる。神を信じるとはどういうことかというと、この世の天蓋というものに畏敬の念を抱えるということだろう。世の中には、人智を超え、コントロールすることのできないものが存在する。そういうおそれの感覚が宗教の初期衝動だろうし、どの国においても、古代の神話などはそうした自然現象などに対応したものとして創作されてきたのである。身近なところでは「死」がそうだろう。そうした、いま冷蔵庫をあけてコーラを取り出し、ふたを開けて飲む、というふうにはいかない、理知の外側に、在るのだが観測できないもろもろ、それをおそれ、敬うということが、宗教の原形ではないかと想像される。こうして考えたとき、遺伝子操作とかクローンの製造などが忌避される現象は、ある種の逆流だろう。どれだけ研究を重ねて、もしこれからそれを知り尽くすということがあったとしても、「人体」が、いまわたしたちが知っているしかたで成立していることをそれじたいはまちがいなく奇跡的なことだ。したがってこれは神の領域であり、おそれ敬われるべき事象だ。順序としてはそうなるが、倫理的にはこれは同時に発生しているものととらえられるのかもしれない。だから、「人体」をいじくりまわす、あまつさえ製造するなどということがあってはならない、というはなしになる。それは神の仕事だからだ。どうしてこういうことになるかというと、宗教は本来人工的なものであるところ、倫理ととけあう際には、無時間的なものになってしまうからかもしれない。そもそも、人間をつくりたもうた「神」が「人工物」のわけはないのである。だから、ふつうは「なぜ神という概念が生まれたか」という発想が、少なくとも宗教の内側でとられることはないのである。

 

それはともかくとして、ジャックはまさに、そうした、ほんらいは「神の領域」と考えられる禁足地に乗り込む男である。今日勝つために、「死」を漂白して多量のドーピングを行う。明日のことなどどうでもいい。勇次郎を倒すためには、時間さえ乗り越え、日に30時間のトレーニングを行う。こういう背景があるから、「初めて」神にお願いするという場面が生まれうる。彼が「死」のようなものをおそれ敬うなどということはありえない。もしそれが強さに必要なことだというのであれば、そこに乗り込んでむしゃむしゃ喰らう、そういう男だ。だからあの場面は、ピクルという、彼と同タイプの、しかし圧倒的に上回る実力者と対峙して、信じがたいほどの世界の広さと歴史の深さを痛感する場面として、迫力を孕むのである。

 

サミュエル神父とのやりとりは、いまのジャックのつながる人格の形成期であって、神にかんしてカウントするような出来事ではない、ともいえるかもしれない。たとえばぼくは、22歳のときに初めて小説を書いて新人賞に送ってみたわけだが、じつをいうと小説じたいは小学生のときから書いていた。神の領域というか黒の領域というか、こう書いてて顔が赤くなってくるような記憶だが、ノートを縦にしてびっしり、推理小説やSF(のようなもの)を大量生産さいていたのである。だが、それが見るもおぞましいしろものであるとか、黒歴史であるとかいうことをいったん忘れたとしても、ぼくはおそらくいつでも「22歳のときにはじめて小説を書いた」と語る。ひとに見せるつもりで体裁を整え、しっかり読める字で原稿用紙を使って書いたのはそれが初めてだったからである。そういうぶぶんは、人間の生にまちがいなくあるだろう。だがそれは現在のジャックの位置から振り返った場合のはなしだ。当時の、10歳くらいのジャックは、ほんとうのところなにを考えてあんなことをしていたのか。

 

そもそも、「守る」というのはどういうことなのだろう。神父はそのことをたずねてはいない。ただ、10歳くらいの少年が教会でトレーニングをして「守る」というのは尋常ではないわけで、そこに裏を読み取るのは自然かもしれない。その結果として、神父はなにを願ったかたずねたのだろう。重要な点は「守る」ということばの意味だろう。ふつう、「守る」という行為は、守る対象の前でトレーニングすることを指さない。義経を守る弁慶がその前で年中ヒンズースクワットをしていたなんてことはない。「守る」という行為はある種の備えのことであって、動詞的に顕現するものではないのだ。だからジャックは、あのときなにをしているのか聞かれて、「守っている」と「鍛えている」のふたつのこたえがあたまに浮んだはずなのである。

 

「守る」の対価として「強くなる」を求めていたという件が宗教上どういう意味をもつかは、ここでは問わない。ポイントは、彼が「守る」と「鍛える」を同時に行っていたということだ。ジャックが日に30時間のトレーニングを行っていたということばがどれくらい真実に近いかというのは、じつをいうとよくわからない。起きているあいだは、移動以外すべて鍛えていた、くらいのところまでいくのだろうか、それとも、失神するまでのトレーニングができたら、その日は終わり、あるいは、できるようになるまでひとやすみ、くらいの感じだったのだろうか。もし「起きているあいだはつねにトレーニング」ということなのであれば、「守る」と「鍛える」をマルチタスク的に同時に行うのは不自然なことではない。時間がもったいないから。そうでないなら、たとえば10時間鍛えた余った時間に、守って、お祈りすればよいはなしのようにもおもえる。

なにがいいたいかというと、このときのジャックにとっては、「鍛えているところをイエスさまに見せる」ことが重要だったのだ、ということだ。なぜか? 報われないからである。こんな小さいころから、ジャックは常識を超えるトレーニングをしていた。しかし、いっこうに強くならない。でかくもならない。世界は努力に応えてくれない。こういう挫折感が、この行為に及ばせたのである。のちにこの願いには際限のないドーピングが応えることとなる。つまり、この時代のジャックにとって、神とは、のちにドーピングがその位置を占めることになるもののことだったのだ。

 

そう考えてみれば、ジャックがピクル戦で「初めて」神を意識し、祈ったことも理解できる。あのときジャックが祈ったのは、いってみれば「本当の神」である。あの瞬間、ジャックはピクルに勝てないということをどこかで理解していた。これで世界を制覇したと確信する冒険家が、そこが小さなひとつの島だったと知ったときの感覚が近いかもしれない。しかもその理解は闘争のスピード感あふれるわずかな瞬間にやってきた。そのときジャックの前にそびえたつ絶壁の圧倒的高さ、広がる海の圧倒的広さを想像しよう。祈りたくもなるというものであり、その感覚はまさに宗教の初期衝動に等しいものなのだ。ところが、幼いジャックがみる神は働きに応じて対価を支払うものである。それが「愛」のような崇高なものならまだはなしはわかる。だがジャックにあったのは、いくら鍛えても強くならない無力感だけだ。度を越すドーピングが悪魔の所業なら、ジャックはその全能感という一点のみにおいて、神を悪魔のようなものと考えていたわけなのだ。


そしてジャックは、そのまま大きくなった。教会通いをいつまで続けたのかはわからないが、報われないという感覚はずっとあったことだろう。しかしやめない。なぜなら、常識的なやりかたでは範馬勇次郎は倒せないからである。彼はずっと、この働きに応え、対価を払う悪魔を探していたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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