今週の刃牙らへん/第1話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第1話/刃と牙

 

 

 

 

バキ相撲篇のバキ道が終わり、ジャック・ハンマーの嚙道をひっさげて新連載開始です。タイトルは『刃牙らへん』! 少し前から板垣先生のなかで流行っていたっぽい言い回しで、作中でも何回か見られたものだ。刃牙のまわり、ということなのであるから、スピンオフとはいかないまでも、主人公の成長譚的なしばりからは抜けた物語になるのかも。

 

武蔵篇以来の佐部京一郎の登場である。もとは独歩が主人公の外伝『拳刃』のキャラクターだったが、武蔵があらわれたごく初期の段階で、武蔵がどれだけ「ホンモノ」なのかということをあらわす定規として登場した。というと言い方がナニだが、要するに現代では一級の刀使いということだ。




佐部は光成邸を訪れる。彼は63歳であるということだが、ひとめみて鍛錬を怠っていない現役だということがわかるというはなしだ。他に取り柄もなく、日々汗と恥をかいていると。肉体もすさまじいが、このひとに関してはまず顔がすごい。


この佐部は、しかし逮捕されたことがあるという。人斬りが逮捕されているわけだから、殺人だとおもうのだが、いまふつうに生活しているのは、「大変だった」とする光成が暗躍したということだろうか。ともかく、刑務所にいる佐部に対して、剣道の猛者ひしめく刑務官や機動隊の面々は、取り締まるより教えを乞いたいというふうに熱望したという。

ともあれ逮捕された佐部。柳なんかとちがって国家権力にたてつくタイプではないだろう。ケツモチのヤクザか、それこそ光成がなんとかしてくれるという確信でもあるのか、取調べ中の佐部は余裕の表情である。そして、彼を逮捕した関係者はくちをそろえて、そのすさまじい微笑の顔貌を前に、10人以上は斬っているんじゃないかと確信するのだった。

 

今回の用事は試合である。双方を武器をもった五分のたたかいだと。佐部はまさかまた武蔵なのではと少し青くなる。いくら現代の剣豪だっていっても、相手が宮本武蔵というのはシャレにならない。光成は笑って否定する。いや笑い事じゃないでしょ、何人死んだんだよ・・・。

相手も武器をもっているというはなしであるが、剣ではない。光成は、佐部を試すようにして、なかなか相手の武器をいわない。佐部としても手の内を探るようでちょっと気が引けるのだろうが、相手は佐部が刀使うことを知っているのだとしたら、聞かなければフェアではない。歯だと、光成はようやく応える。刃ではなく、前歯奥歯の歯だと。

 

そうしてさっそく格闘技の「噛み様」たるジャックと佐部が地下闘技場で相対する。ジャックは243センチ211キロ、佐部は178センチ86キロ。宿禰戦を経てジャックの嚙道の強さは知れ渡ることとなった。しかし今回の相手は剣である。持ち手は正体不明だが、現代では天下無双だということだけは実況にも伝えられている。見た目からして龍書文的なホンモノ感もじゅうぶんだ。じっさいのところ佐部はかなり強いんだろうけど、拳刃からはじまってずっとかませ犬ばかりやらされてて気の毒だな・・・。逆に佐部の外伝が読みたいよ。

 

向き合い、ジャックは無茶な申し出を受けてもらえたことへの感謝を述べる。ふつうにみると、ジャックは素手で佐部は武器をもっており、アンバランスなわけだが、その武器をもつものにジャックは感謝しているのだ。佐部は、よほどの勝算がなければそういう態度はとれないという。ひとまず、武器ありのものにありがちななめた気持ちでやるつもりはないようだ。

立会人が、身に帯びた武器を心ゆくまで使用するよう伝える。武蔵があらわれたときは、地下闘技場に武器を導入することにみんなけっこう抵抗があったようだが、すっかりふつうのことになってしまったみたいだ。

 

太鼓とともに刃対牙開始。駆け寄って距離をつめた佐部がさっそく柄に手、鞘走らせる。首のあたりをねらったのかな。刀をもっていても、65センチの身長さなので、かなり高い角度となる。ジャックはそれを姿勢を落としてかわす。おそらく、あまりにも高すぎるジャックの頭部を低くすることが佐部のねらいだったとおもわれる。そうして、ほぼ同じ高さになったジャックの顔面に、野球のバットでも叩きつけるようなシャープかつパワフルな一撃がめりこむ。しかしむろんのこと、その一撃は、ジャックの歯によってはさみ受け止められてしまうのだった。

佐部の手はしびれ、刀は奪われてしまった。そのまま元の位置に身を起こしたジャックは、くわえたままの刀を折り、地面に落とした。刀がなくなってしまってはもう佐部にできることはない。彼は両手をあげて降参するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

さあ、主人公が「刃と牙」のタイトル以外、名前すら現れない新連載がはじまったぞ!まあ、「刃牙らへん」というくらいだから、もはや「主人公」という概念もないのかもしれないが。

 

「刃牙らへん」という、一部ネットユーザーを動揺させる表現がどこからやってきたかというと、作中からである。いま確認したところでは、『バキ道』最終話で、鴨を捕獲するピクルを目にした松永智文について「生涯2度目の“刃牙らへん”との遭遇である」という表現が出ている。松永はオリバ対宿禰を目撃した人物でもあるのだ。その前にもあったように記憶しているが、見つからない。

「刃牙らへん」は漢字にすれば「刃牙等辺」ということで、要するに「刃牙の周辺」ということだ。松永は、オリバと宿禰、それにピクルという、現実感覚では理解に苦しむ超人たちと立て続けに遭遇した。こういう、現実を超えたような肉体の持ち主たちを、刃牙の周辺にいるものとして一括したのがこの言葉ということになる。

しかし、この表現はいかにも、外部から見たときの、いわば無責任な「見るもの」としてのものだ。これは明らかなことといっていいだろう。オリバやピクルは、まず「刃牙」という現象があって、それから事後的に、あるいは付着的に自律するようになったわけではない。刃牙がいなくても、ピクルは存在した。だが、一般の現実感覚からすると、オリバやピクルのような存在は到底納得のいくものではない、unidentifiedな存在だろう。Identityはフランス語から派生した、「同一性」などと訳される言葉だ。ふつう日本語でアイデンティティというときには、時間的空間的に別々のところに存在する自我を並列してとらえることになる。昨日のわたしと今日のわたしを同一人物であると納得させるものがアイデンティティである、という具合に。しかしUFOのunidentifyなどにおいては、物理的に別々のものにおいて、なんらかの体系や秩序のもと同一の要素を見つけ出せるかどうかということがポイントになる。正体不明で見たことのないかたちをしていても、なにかの理由でそれが飛行機であるということがわかれば、それはunidentifiedではなくなるだろう。

 

松永は、なにものかからのインタビューに応えて、地球規模で何かが起きてる、というふうにいっていた。別の似たなにかをひとまとめにし、体系化し、つまり同一化し、「けっきょくのところそれはなになにである」、というふうにいえないような、常識を超えた事物(3メートルにも見える巨人とそれを喰うオリバボール、鴨をムシャムシャ食べる野人)に立て続けに遭遇した松永にとっては、それが自然な反応だろう。そこへ、「刃牙」という概念が導入されているのが『刃牙らへん』ということになる。もちろん、「刃牙」には、ただの「強い個人」である以上の意味がある。彼は、国勢を占ううえで無視できなり範馬勇次郎の息子であり、それに匹敵する強さをもっている。ただの「強いひと」ではない。だが、それ以上に重要なことは、この作品がずっと彼を中心に描かれてきたということだ。作品として、またその描いている世界として、刃牙を中心にもってくることは、自然であるし、慣習的であるともいえる。刃牙目線、それこそ刃牙らへん目線では、「刃牙らへん」などという呼称は、納得のいくものではないだろう。治安のわるい地区に住んでで、「あそこらへんに済んでるひとはみんな・・・」みたいな雑なまとめられかたをされたら、誰だってカチンとくる。しかし外部目線ではその見かたはきわめて健全であり、「当たり前」であるということは、事実としてある。しかもこの場合対象となっているものたちは、治安の悪い「あそこらへん」に済んでいるもの、などというようなわかりやすいものではなく、3メートルの巨人を飲み込む球体になるような人間なのである。松永は、もちろん刃牙のことなんて知らない。だから、異様な人間が立て続けに地の底からあらわれはじめているような感覚に襲われているだろう。それをひとことでまとめるなにか統一的な概念を、彼は求めていたはずだ。そこに、神の声の位置から、作品が「刃牙らへん」という呼称を与えたのだ。

 

この「外部から見た刃牙らへん」というのは、じつは長年作中であつかわれてきた、「強さ」に継ぐ第2テーマといってもよかった。よく書いていることだし、新しく作品がはじまったばかりでそこまで書くのもなんなので、今回はあっさりにするが、刃牙らが体現している超常識的なものと常識の接合である。もっとも象徴的な場面は、通り魔を独歩が破壊したときの描写である。独歩はこのとき、一般人を相手にするときには通常用いない「存在してはならない技」をたくさん披露した。これを、監視カメラという、公衆の秩序を管理する側の目線が拾い、解析したのである。存在してはならない、また存在するはずもない技や事物、人物が、じっさいには存在する。こういうことを、特にメインバトルのあいまあいまで、作品はよく描いてきた。烈のボクシング挑戦や勇次郎の落雷、ピクルや武蔵の存在そのものがそれだ。その究極が、全世界で中継された親子喧嘩だった。この世には常識ではかりきれない、はかろうにもunidentifiedとしかいいようがない事物が、じっさいにある。この都市伝説を感受するときのような感性に裏づけを与えたのが、あの親子喧嘩だったのだ。

それを通じて世界の表と裏がじっさいに接合したのかというと、そんなことはなかった。MCUの世界では超人が存在することは当たり前になっているが、こういう世界にはならなかった。ただ、表象レベルでは、この接合は実現していた。それが「スカイツリー地下366メートルで誕生した武蔵」という状況だった。なぜ地下366メートルなどという中途半端な数字かというと、武蔵野に由来して「634(メートル)」で設計されたスカイツリーの、テッペンから数えて1000メートルの地点で武蔵は生まれたからである。だが、これはかなり不思議なのだ。これが、「地下634メートル」や「地下1000メートル」ならわかる。スカイツリーは、地表を0メートルとして数え、高さ634メートルになっているからだ。地表が原点なのである。それが、なぜかここでは、スカイツリーの頂上が原点となり、そこから数えて1000メートルの場所で武蔵が生まれているのだ。これを、ぼくは表世界と裏世界の融合とみた。これまでは、地表から頂上までの634メートルが「表」であり、その地下にバキらは生きていた。しかし、親子喧嘩を通じて表と裏は接合した。となれば、原点は地表ではなくなる。地表をはさんだ表と裏の世界は、同一の原点からカウントされた位置表示になる。それがスカイツリーの頂上だったというわけなのである。そして、表裏合体の象徴から誕生したことを証明するように、武蔵は表も裏もなく斬りに斬りまくったのだ。

 

松永のような人間も、たぶんニュースを通じ、親子喧嘩や武蔵の事件のことは知っているだろう。けれども、表と裏が接合したからといって、「そういう超人もいる」というところにいくまでには、まだ時間も事例も足りない。知ってはいても、親子喧嘩と武蔵、またオリバボールと鴨ムシャムシャ男のすべてを結びつけて考えるところまでいくのは難しいのだ。それらを統一して語る語がないからである。だから彼は、「地球規模で何かが」みたいなファンタジーを語る以外なかったのだ。ここに「刃牙らへん」は神の目線から解説をほどこすのである。

 

 

おもえばこうした外部からの目線、見る/見られるの関係性についてはバキ道でもよく描かれていた。結果、作品がどこにたどりつき、ぼくがどういうふうに考えたのか、覚えてないので、あとでふりかえっておくが、本作はタイトルレベルでこの点に自覚的であるということになるだろう。ジャックにはジャックの人生があり、誰かの付属物ではなく、「ジャック・ハンマー」以外のなにものでもないわけだが、外から見たときはそうではない。そして外からこれを見たとき、ある種の無責任さが宿ることになる。これは、よくもわるくも、ということだ。その無責任さは、ひょっとすると、作品を難解な哲学から解放するかもしれない。要するに、「強さとはなにか?」とか、「現世で人斬りが生きる道は?」とか、そういう難問から解放される可能性があるのだ。これはこれで作品として新しい道かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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