第84審/至高の検事⑳
至高の検事も20話か。丸数字の記号なくなっちゃったな・・・。
九条と嵐山の対決が続く。九条がこれまで悪党たちに指示してきたように、基本的には九条も黙っているので、どうしゃべらせるかが嵐山の腕の見せ所となる。
九条には莉乃という娘がいて、いまは離れて暮らしている。それを知った嵐山は、がんばって司法試験受けて弁護士になったのに、悪党の味方をして、家族を失っているんだなと、現実を突きつける方向性で攻めていく。九条は莉乃のことを思い出しているようで、ふつうに効いているようだ。しかし、思い出される莉乃の姿は、オモチャを通じて遊ぼうとねだるもので、しかも「パパは忙しいから」と、それが奥さんに連れられていく後姿である。莉乃の顔は浮ばないのだ。じっさい、忙しさを言い訳に、直視してこなかったのである。
人格攻撃は下品だと九条は返す。とにかくしゃべりはしはじめたので、嵐山的には成功だろう。ヤクザに人権があるということを示せるのは裁判だけ、それは嵐山にもわかるはずだと九条はいう。だが、そのあたりのことに嵐山は触れない。ただ、九条が家族をはじめどれだけ他人に迷惑をかけているか、という方向性で執拗に攻め続ける。残るのは元悪徳弁護士という汚名だけ、兄の鞍馬検事にも迷惑だと。それでまた九条は少年時代のことを思い出している。たぶん私立の小学校の制服姿で、キャッチボールかなんかでボールがとれなかったみたいだ。九条はどこまでも「鞍馬の弟」であり、兄と比べて勉強も運動もだめな金魚の糞だと。
嵐山は鞍馬蔵人といっしょに仕事をしたことがあるという。女性のバラバラ殺人で、ストーカーに殺された女性は遺体が見つからなかった。しかし蔵人が犯人の血痕を見つけ、自宅の排水官を捜索、肉片を見つけて検挙。この書きかたではほかの誰も見つけられなかった血痕を見つけたということなのか、たんに発見者が蔵人なのか、よくわからない。はなしとしてドラマチックなのは前者だろうが、蔵人が本気で探したら見つかるような血痕を鑑識が見落とすとも思えないので、たんにいっしょに捜査に参加していて、たいへんな集中力を発揮していた蔵人が何度目かの調査でいちばんに見つけたみたいなことだろう。ともかく、蔵人は他人事で仕事をしない。被害者の代弁者として、血眼になって動くのである。その動機は、嵐山にもある「正義」だという。被害者の代弁者、おおいにけっこう、では弁護士は被告人の代弁を・・・というのが九条の立場だろうが、嵐山にはとおりそうもない理屈だ。嵐山的には、九条は最初から「悪人」の味方なのだ。「悪人」かどうかを決める捜査や裁判の前段階でそう決め付けてしまっているのだからわかりあえるはずはないし、げんに九条の依頼人たちは悪人なのでたちが悪い。
だが、このことはいわなくてはならない。もし嵐山たちが間違っていたらどうするのかと。つまり、「悪人」だと決め付けているその相手が、そうではなかったら、どうするつもりなのか。弁護士だけでなく、検事や判事も国家公務員であり、彼らが間違えるということは、国が間違えるということである。国が間違えたとき、戦えるのは弁護士だけなのだ。
こういう感じのやりとりだが、嵐山的には九条をだいぶしゃべらせたので収穫アリである。家族の話をしたら饒舌になったということで、部下にもっと調べるようにいうのだった。
壬生の弁護士になっている流木はしょっちゅう会いにくるので、壬生は感謝している。本音だかなんだかわからないが、壬生は成功できる人間なのだからと流木は語る。これは、更正のことをいっているのだろうか。たしかに、悪の道では、壬生は成功する可能性がかなり高いが・・・。
帰り道、烏丸は、誰にも同じ態度でいる流木を讃える。流木はひとりの人間として同じ土俵に立っているだけだと応える。そして、「決めたんだろ?」とうながす。流木のところでのイソベンはおしまいだ。烏丸は独立して九条の弁護を引き受けることを決めるのだった。
つづく。
九条の弁護人になる、というのは、けっこう大きいはなしなわけだが、烏丸の表情はおだやかで笑みさえ含んだものだ。なにかふっきれたぶぶんがあるのかもしれない。
烏丸が九条の弁護をするということは、烏丸の成長物語という意味では大きな意味をもっている。
烏丸は、みずからの共感作用をもとでに他者の感傷を推測することをよしとしない人間だ。もちろん、それは日常生活レベルではむしろ不具合を呼びがちな態度である。わたしはあなたではないのだし、あなたはわたしではない。あなたの痛みをわたしが真に、あなたの痛覚で知ることは決してないのだし、わたしの喜びをあなたが共有することもない。わたしたちは、いつでもじぶんの記憶をたよりに、状況証拠的な客観的事物から推理して、他者のおもいをトレースする。だが、きわめて強度の高い理知によって動く烏丸のような人間には、そういうあいまいさががまんならないのかもしれない。だから、彼にとってわからないことはわからない。そこに「理解」が訪れるのは、ことばによる外部的な定義がほどこされたときだけである。これが、前回蔵人の、烏丸を買っているらしい描写につながる。蔵人は、ことばによって世界があまねく説明されきる世界を見ている。それが法律文書そのものをコメンタールとして成立する言語の宇宙である。この視点は科学的なものとも親和性が高いだろう。もしことばによって説明しきれない事態が訪れたとしても、それはたんに“まだ”説明が存在していないだけのことであり、いつでも、既存の理論によって補完は可能なのだ。こういう世界観のもとに烏丸もいる。九条とはよく対比的に表現されてきたが、最初にあらわれたのは第1審の世界一のたこ焼き屋だ。九条はある種の自然淘汰が意味を決定するとするいっぽうで、烏丸は世界一とはなにをもっていうものなのか、はっきりしていないときもちわるいというようなことをいうのだ。だが、いうまでもなくことばは全宇宙を説明しはしない。たとえば、「世界一」ということについて定義がはっきりしないという点について認めたとしても、では「たこ焼き」は、果たして定義がはっきりしているものだろうか。「たこ」はどうだろう、また「焼く」という動詞はどうだろう。本当に、わたしの思い浮かべる「焼く」という動作は、あなたの想像する「焼く」という動作と一致しているのだろうか。それは「煮る」では、本当にないのだろうか。こうしてことばは必ず、どこかの段階で「こんなところだろう」という合意形成のポイントにたどりつく。「焼く」について本当に全世界で認識が一致しているか確認がとれないといって「焼く」にまつわるすべての会話を停止するわけにはいかないのである。たぶん、これが「焼く」ということでおそらくまちがいないだろうと、どこかで身体的確信に身を任せて定義することを放棄しなければ、ことばはそもそも機能してゆかないのだ。そこにことばというものの危うさはある。ことばはじっさい、ものごとを定義するために使用される。だが、墨で塗りつぶすような定義のしかたは厳密には不可能であり、拡大すれば必ずそれがドットであることが明らかになるようなもの、それがことばなのである。
少し前の悪法にかんするやりとりもそうだ。九条は、悪法は悪法でそれをくぐりぬけるとするいっぽう、烏丸は、それが悪法なら変えなければならないとする。もっともなようにもおもえるが、烏丸の一途な表情も含めてこれをつきつめると、これは、どんな場合にも必ず正解を導く「絶対法」のようなものを要請するのである。これはことばの全能を信じていなければできない発言なのだ。
こういう、ことばでなにごとも説明可能であるとする世界観がもたらすものが、蔵人の、そして今回芝居仕立てに示された嵐山の、無邪気にさえみえる一方的な「悪」の判定である。最初から「悪」が決定しているのなら裁判は不要である。これは、壬生が「悪」ではない、というようなはなしではない。そうした予断を、少なくともそれが決定していない場所ではもつべきではないということなのだ。
この反対にいるのが「星の王子さま」スタイルの九条である。ひとことでいえば、九条はことばの見落としを拾うものだ。象を飲んだうわばみを、ロゴスに毒された大人はただ帽子であるとする。だが、そうではないものはきっとなかにいる象を透視するだろう。ことばは全能ではない。なにかを説明し、定義するということは、ある中心点を見定め、そこに太線で縁取りをし、その周辺にある化外のもろもろを捨象するということなのだ。
しばらく居候することで、こうした九条の考えを、烏丸も理解しないではなかったろう。しかし、だからといってあそこまで不良に肩入れする必要はあるのかというのが烏丸の考えだった。九条としては肩入れしているつもりはないのだが、結果としては、利用されるかたちで、九条のまわりには京極のようなものが集まってきていた。そんな弁護士活動は果たして正しいのかと、こういうはなしだったわけである。
だから烏丸は九条のことがやはり理解できない。理解できないが、どこかおもしろい。学ぶべきだと彼の感性は訴えている。こういう状況で、彼は、共感はしない。彼がどのように九条のありようを学ぶか、トレースするかというと、九条のやっていることをやってみて、同じ椅子に座ってみるのである。これが、しばらく前にあった喫煙描写の表象するところである。彼には有馬という喫煙者の友人がいたが、自殺した。烏丸は、有馬の考えていたことはわからないという。だから、有馬が死んだ部屋でじぶんは吸わないどころかたしなむ気持ちはわからないとするタバコを吸ってみる。彼にとって喫煙は、わからないものの代表である「喫煙者」を演じ、その気持ちを確かめてみる行為なのである。では九条にかんしてはどうかというと、むろん、九条の座っていた位置に座って弁護活動をすることである。九条は悪党ではないが、まさしく、ことばの拾いきれない、うわばみのなかの象である。こういうものを九条じしんが拾ってきた。それを、いまからじぶんがやってみようと、こういうことなのだ。
今回は九条の回想シーンらしきものがふたつ描かれた。ひとつは莉乃である。回想シーンという、誰にも見られない景色でありながら、そこに莉乃それじたいの表情は浮かばない。じっさい、忙しくてまともに子育てはしてこなかったのだろう。彼の思い浮かべることのできる莉乃は、いつでも後姿なのである。
そしてもうひとつは兄・蔵人と比較される少年時代だ。優秀な兄の付属物のようなものとしてつねに認識される鞍馬時代の彼にはつらい時代だったろう。ことばのキャッチボールという表現があるくらいである、ことばとは、相手と適切な距離感や重さで取り交わすときに活発になる。蔵人はその達人である。そのいっぽうで、正統的な意味でのことばのやりとりに、九条は優れなかったのだ。キャッチされなかったことばはどこにいくのか。地面に転がっているボールは、拾われることはないのか。九条は、届かないボールや、とり損ねられてしまったボール、もはやいつ誰が投げたかわからないボールを拾い、ミットにおさめることを旨とする弁護士なのである。
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