ぼくの筋トレ史 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

最近は定期的な記事が多かったので、たまには筋トレのはなしでも。

 

ぼくが自覚的に筋力トレーニングを行うようになったのは、おそらく中学生のころである。小学生のころより、ぼくは極真会館の道場に通っていた。まだ大山倍達総裁が存命のころ、分裂前の、猛烈な勢いがあった極真会館である。新極真会の緑健児が世界大会で優勝したのが1991年だが、この試合を観戦、および少年部の集団演武みたいのに出た記憶があるので、ぼくは1983年生まれだから、これは8歳、2年生ということになる。なんか、そうなるとちょっと計算がちがってくるな・・・。4年生くらいからはじめたような記憶でいたんだけど。引き算間違ってないよね?

このとき、ぼくの属していた道場からも世界大会の出場者が出ており、のちにぼくはこのひとについていくことになるのだが、ともあれ、そのときは少年部で、どこまでも「習い事」を出ないものであった。というか、高校生になるまでそれは「習い事」だったようにおもう。だが、空手の、というか格闘技の基本的なことはすべてこのとき覚えることになったことはたしかだ。当時ぼくが習っていた指導員にはのちに世界大会で入賞するレベルのひとがほかにもふたりおり、そうとう恵まれていたのではないかともおもう。

筋力トレーニングといえば、極真空手は力の空手なので、パワーを非常に重視する。なので、少年部の稽古であっても、これは稽古では「補強」と呼ぶが、基本稽古、移動稽古、時間があるときは型、ミット、スパーリングというような順番で行った稽古の最後に、たいがい拳立て50回みたいな、当時の少年にはベリーハードなトレーニングが待っていたものである。家でも少しはやっていたかもしれない。だから、当時からふつうに小学生としてはちからがあったとおもうが、くりかえすように「習い事」を出ることはなかったので、それほど真剣には打ち込んでいなかった。

 

大山総裁が亡くなったのが1994年なので、ぼくはたぶん6年生だ。ぼくは中学受験をするために予備校に通うような感じの少年でもあり、このあたりのころの記憶は錯綜している。5年生あたりから、どういう理屈でそうなったのか覚えていないが、時間的に少年部に参加することができなくなり(少年部というのはたいてい夕方の早い時間に稽古する)、大人の、一般部に混ざって稽古していた。あれはあれで、じぶんの3倍4倍くらいのひとたちと稽古するという、大人になってからはできない経験をさせてもらったとおもうが、大人になって振り返るとやりにくかっただろうなとおもう・・・。

そこから受験勉強が本格化していくにつれ、たしかしばらくのあいだお休みしていたのではなかったかな。1回除籍になったかもしれない。しかし、受験を終えて、無事中学生になってから、ふたたび空手を再開することになったときには、もとの級からはじめてもよいということになったことは覚えている。で、極真会館のほうはというと、大山総裁の死後、激しい跡目争い、要するに分裂騒動を迎えることになる。ぼくのいた道場は最終的にその緑健児が代表のようなポジションになる新極真会になったはずだ。が、なにしろクソガキだったので、じっさいのところあまり深く考えたことはなかった。当時はSRSという番組を中心に極真の試合をテレビで追うことができたが、この番組が扱っていたのは新極真会ではなく、フランシスコ・フィリョやグラウベ・フェイトーザ、数見肇などの選手が属する松井章圭派の極真会館で、ぼくの基本的な帰属意識としては「あのフィリョや数見が属する・・・」というようなところだったとおもう(松井章圭は緑健児の前の世界大会王者)。道場生の間でも、いまおもうと師範とか、偉いひとの前ではそうではなかったのかなともおもうが、ふつうにフィリョやグラウベのはなしをしていた。

中学生ということでまだぜんぜんからだもできていなかったが、小学生のときからの延長で、ぼくは一般部に参加していた。別に、強すぎて、少年部や中間的な壮年部とかでは物足りないとか、そういうことではない。たぶん、むしろ楽だとおもったのだろう。だって、大人のあなたがたとえば空手をやっているとして、スパーリングでちっこい中学生とかが相手になるとなったら、しかもたいして強くないとなったら、たぶん本気でやりませんよね。そういうしたたかさみたいなものはぼくにはないけど、無意識にそう考えていた可能性は否定できない。

 

さて、ようやく筋トレのはなしができるが、このあたりのころにようやく、ぼくにも「筋肉」というものへの自覚が芽生えてくるようになる。たぶんきっかけは、故・黒澤浩樹氏である。黒澤浩樹は世代的には松井章圭や緑健児と同じひとで、世界大会のタイトルはとったことはないが、いまでも極真空手史上最強のひとりとして名前があがってくる選手だ。緑健児が優勝したときの世界大会を観戦した、というはなしはしたが、そのときぼくは、親にいわれるままに、購入した大山総裁の写真集の白い頁に名選手たちのサインを集めていた。当時のぼくは誰が有名な選手かなんてぜんぜん把握してなかったし、じゃっかん黒歴史だが、ともかく集めていた。そういうのは父親がくわしく(父は格闘マニア)、のちにくわしくなってから、そこには増田章や八巻健児のサインが描かれていたことを確認した。そして、そのなかに小さく、ちまちまっとした黒澤浩樹のサインも確認できる。このときのことは、ぼくはもちろん覚えていないが、父はいまでも笑い話的にしてくれる。ぼくは、親にいわれるまま黒澤浩樹にサインをもらいにいき、そのまま礼をいって回れ右して戻ってきたのだが、そのとき、あの黒澤浩樹が、握手をしようと手を出してくださっていたのである。お前、アレはないよ、せっかく手を出してくれてたのに・・・と、父はいまでもいうのである。

そういう、ある意味素朴なイメージも伴う黒澤浩樹だったが、格闘する姿は当時いわれていたようにまさしく格闘マシンであった。いまでも動画サイトで無数に試合の様子が見れるとおもうので確認していただきたいが、なにしろその下段蹴りである。人間のからだは、鍛えていけば、どこまでも強度をあげていくことができる。極真空手ともなればそれは徹底的なものになるだろう。これを一撃で倒そうとすると、やはり、手技が禁止されている顔面への蹴り、ということに基本的にはなる。こういう状況で、まともに考えたらもっとも頑丈そうにおもえる太ももを、強烈な下段廻し蹴りで壊していったのが黒澤浩樹である。束ねたバット4本を軽々と折り、ガードした相手の腕ごと、肋骨を折る強烈な蹴りの力。それは、明日を捨てたかのような想像を絶する筋力トレーニングが生むものだった。調べたら、ハーフスクワット(最後までしゃがみこまない)で300キロ5レップとかやっていたようである。

黒澤浩樹にかんしてはもうひとつスネの部位鍛錬も欠かせない要素だろうが、ともかくぼくは、このころの黒澤浩樹に、中学生になってようやく憧れるようになったのである。さらに、当時日本最強だった数見肇もまた強力な下段廻し蹴りを武器にする選手だった。数見も大好きだったぼくが、スクワットを熱心にやらないはずがなかったわけである。

とはいっても、バーベルをかつぐわけもなく、ただ毎日、スクワット、もしくはヒンズースクワットを100回200回とやっていただけのことだ。計画性も超回復もない、幼稚なトレーニングではあるが、ともかくやっていた。たぶん高校生までやっていた。で、そんな幼稚な方法でも結果がついてくるのがあの年頃である。ぼくの太ももはどんどん太くなっていった。くりかえすように、ぼくは別に強い道場生ではなかった、というかふつうに弱かったとおもう。けど、スクワットが関係しているかどうかはわからないが、左のノーモーションの下段蹴りだけはよく誉められた。空手をやっていてぼくが唯一誉められた技である。

 

そういう感じで、人生ではじめて「筋肉」を意識したトレーニングを開始したのは、黒澤浩樹の影響であり、またその種目はスクワットだったわけである。当時は腕立て伏せがあんまり好きじゃなかったのだけど、いまとは逆になっていておもしろい。いまもスクワットが嫌いということはないが、やっぱり筋肉の大きさというようなことを考えると状態を優先させてしまうぶぶんがあることは否めない。ボディビルの鈴木雅選手は、やはりスクワットにそのひとのスタンスが出るみたいなことをいっているし、つい後回しにしがちな気持ちをねじ伏せて今日もスクワットにはげむのである。

 

極真の分裂騒動のあとになるが、その流れで、最初に書いた、世界大会に出場した先輩が独立することになり、これは高校生のころかな、ぼくはそのひとについていくことになった。というのは、よく知っている若い指導員などがみんなそのひとについていくことにしていたからである。というわけでこれもまた深い思慮があったわけではない。なんとなくそっちのほうが楽しそうだから、という理由である。稽古の内容が大きく変わるわけでもない。というか、人数が絞られるぶん、きついものがあった。高校生にもなるともはや一般部、手加減もなにもないので、同じ色帯だけどラグビーかなにかやっていたという猛烈に強いおじさんがいて、そのひととスパーリングするのがものすごい嫌だった。いちど、ぼくが踏み込んで足を開くのとそのひとが回転後ろ蹴りを仕掛けるのが一致してしまったことがあり、真下からすくうように、つまりもっとも痛い角度で、しかも蹴り技のなかでももっとも強力といわれる回転後ろ蹴りを金的にもらってしまったことがあって、人生で3本指に入る気絶級の激痛を味わったのも嫌な思い出である。

こうしたわけで、おじさんとのスパーリングが憂鬱ということもあって、それほど積極的にその新道場に通ってはいなかったのだが、そのころになると、高校のヤンキー友達が道場を見学したいみたいなことを言い出すことが増えていた。K-1が流行っていたこともあるだろう。それでじっさいに入門をしたのはひとりだけだったが、ともかく、それが理由ということもないだろうが、ぼくもまあまあ熱心なふりをしなければならない状況が出てきたことも事実である。しだいにからだが大人として完成しつつあるということも理解していた。こういうところでようやく、腕立て伏せや腹筋などもわりと真剣にやるようになっていた。くどいようだが「どうすれば強くなるか」みたいなことを考え抜いたものではない。がむしゃらで幼稚なものである。が、16歳とかなので結果はついてくる。やがてぼくは、上級者しか参加できない、ビッグミットのトレーニングに参加することを許してもらえるようになったのである。

 

そして・・・、いまから書くことはかなり恥ずかしく、批判さえ浴びそうなことなのだが、もうここまでだらだら長く書いちゃったから書くけど、ビッグミットのトレーニングというのは、要するに誰かが人間サイズのミットをもっているのを、1分間ずっと叩き蹴り続けるという、かなり楽しいトレーニングだ。それはいい。問題は持つ側にまわったときである。きついかきつくないかといわれれば、きついのだけど、ビッグミットというのはほんとうによくできていて、ぼく程度の体格でも(当時は62キロくらい)茶帯とかあんまり熱心でない黒帯とか、そのパワー型おじさんくらいの打撃ならぜんぜん耐えることができた。問題はきつさではなかった。持つ側になったとき、そのものは、打つ側を煽らなければならないのである。「そんなんじゃ効かないぞ!」とか、「ラスト10秒!」とか「ガードが下がってる!」とか。それが、ぼくはいやでいやでしかたなかったのだ。まず第一に、「そんなんじゃ効かないぞ!」っていうのは、ウソじゃないですか。じっさいには「ゴボッ・・・グハア・・・もうちょっと、ブゴオ!・・・優しく・・・」ってなってるわけですよね、耐えられるとはいっても。しかもそれを年も帯も上のひとに、でかい声で言わなければならないのだ。ぼくの苦手なことがすべて集約されたかのようなトレーニングだったのである。これが決定打となり、しだいにぼくの足は道場から遠のき、大学受験もあって、辞めてしまったのである。ようやく一人前のからだになったと認められたところで、「大声を出すのが恥ずかしい」というのが実質的な理由で辞めてしまったのである。わりと最悪だとおもいますよ。

 

そこから大学生になって、飲み会に明け暮れる日々をむかえることになったが、ごく当たり前に、スクワットや腕立て伏せは続けていた。特に、ぼくは腕立て伏せは小学生のときから5本指の指立て伏せをよく行っていたので、握力というか指のちからはずっと強いままだった。むろん、大山総裁の著書や伝記などを通じて指を鍛えることの意味を理解していたからである。このころは胸などの大きな筋肉を鍛えることより、指をどれだけ減らして、どれだけできるかという方向性に熱をあげていた。ピアノを弾いていたのになんだか奇妙なねじれだが、大学生くらいのことまでには2本指で30回くらいはできるようになっていた(いまもできるかどうかはやっていないので不明)。が、これらのトレーニングもやはり幼稚なものを出なかったとおもう。少なくともまだ超回復の理論とかは、やりかたとしては知っていても(鍛えたら休ませなければならない、ということは、稽古を通じて知っていた)、概念としては知らなかった。最初に筋トレを理論としてとらえることができるようになったのは、たぶん20代前半、書店員になってからである。というのは、うちの店には『マッスル&フィットネス』の配本があったのである。これを、毎月読みふけっていた。こうしてぼくはようやく、超回復やスーパーセット、ジャイアントセットなどの語を体感的に取り入れるようになったのである。それは、筋肉をアイソレートして理解するということにほかならない。これは、のちに判明するように、諸刃の剣でもあったとはおもうが、すべての筋力トレーニングは、筋肉を部位ごとにとらえる段階を通過すべきだとはいまでも考えている。そうすることによってはじめて、今日はどこを鍛え、明日はどこを鍛え、というような計画も可能になり、適切な休息もできるようになる。鍛えたなら、休ませなければ筋肉は成長しないのだし、だとするなら、次に行うトレーニングではそこを回避しなくてはならないのだ。そうすると、ある種目でどの筋肉が使用されているのか、ということの厳密さも気になってくる。ここまでくればもう一気にに筋トレ大好き人間のできあがりである。ダンベルも5キロのものをもっていたので、これも使用しつつ、ぼくはやっと無駄がなく、きちんと効き目のあるトレーニングをするようになったのだ。

 

この次にやってきた革命は、もちろん『プリズナートレーニング』である。プリズナートレーニングは、コンヴィクト・コンディショニングといって、監房でも行うことのできる自重トレーニングなので、ぼくにはうってつけであった。さすがに長くなってきたので、プリズナートレーニングについてはまた別の機会にくわしく書くが、基本的には機能と実用性を重視したトレーニングということになる。ぼくに最初に訪れた、筋肉のアイソレーションという段階の先にあらわれたのが、筋肉どうしの連動を旨とするプリズナートレーニングだったのだ。作者のポール・ウェイドは自重トレーニングでも筋肥大は可能だというスタンスだが、それはともかくとして、まずはそのきつさが魅力的だった。そのトレーニングがじっさいにきつく、困難なのであれば、ぼくとしてはやるしかないのである。

 

どうも長い記事になってしまいすみません。また今度続きを書きます。

 

 

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