今週の九条の大罪/第2審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第2審/弱者の一分①

 

 

 

 

 

前回

 

新連載第2回、前回はいかにも導入、物語の色と主要人物を紹介するような感じだったが、今回からウシジマくんのときのようにタイトルにも番号がふられて動き出していくようだぞ。

 

初登場は曽我部聡太というへんなノリの若者だ。曽我部は、いま買い物してきました風のビニール袋で菓子箱を運んでいて、そのなかに草の入ったパケットを忍ばせているのである。それと交換に報酬を受け取っている。ビニール袋のなかにはいくつもそういう箱が入っているのだろうか、曽我部は続けて別の客のところに向かう、ところで、複数の警官から職質を受けてしまうのであった。こんなに大人数でぞろぞろ警官が動くものだろうか。けっこう前からなんとなくあやしい・・・という感じで見張られていて、ついに声をかけたというところかもしれない。曽我部はそういうのに気付かなそうな感じだし。

 

九条先生はビルの屋上でテント生活である。公式の内容説明みたいなのでテント生活というのは知っていたが、ほんとに家なしで職場の屋上に住んでいるようだ。プライベートの空間にそれほどこだわっていない、というふうにもとれる。『山と食欲と私』によく出てくる感じのアウトドア用品で目玉焼きをのせたコンビニのハンバーグをつくっている。

そこへ壬生から電話がかかってくる。後輩、これは曽我部のことだが、彼が職質されているからいってもらえないかと。とりあえずは、任意同行には従わず、その場を動かないことと、つかまれた肩を振り払っただけで公務執行妨害になるから抵抗もしないことを九条はいう。ぬう・・・。抵抗せずに不動を保たねばならんのか・・・。騎馬立ちでもしつつ無になるしかないな。

最近は電話機を耳にあてず、ワイヤレスのイヤホンで通話するのがごく当たり前になってきているので、本作でもそういう描写になっている。これをひとりごとや、あるいは漫画的な述懐と区別するためには、あんまりうるさくならない程度にスマホの絵を挿し込んでいかなくてはならないが、今回は壬生がずっとスマホに向かって語りかける感じになっている。漫画の描き方も時代とともに変わっていくな。

さて、そこで壬生が、みんなが気になることを聴いてくれる。なんでテント生活なのかと。九条は、知人から月1万で借りた部屋がカビ臭くてネズミが出るからだという。この言い方だと、その1万の部屋じたいはいまでも借りているのかも。物置代わりにつかっている感じなのかもしれない。そんな不潔なんじゃ大事なものは置けないだろう。しかし、それは1万の部屋だからである。もっといい部屋に住めばよいことだ。稼いでるだろうに、と壬生はいうが、金なんてないと九条はあっさりいう。金へのこだわりはあまりないようだ。離婚した元嫁に全財産あげて、子どもの養育費も払っているから、少なくともいまはぜんぜんお金がないらしい。それは、優しいからそうするのではないと九条はいう。弁護士として離婚裁判に立ち合ってきた経験からの結論だ。2年くらい、互いに憎しみあいながら、お金と労力を底まで使いきってしまうことを考えたら、とっとと渡せるものをぜんぶ渡して円満解決したほうが合理的だと。元嫁は専業主婦だったから稼ぎもないし、仕事をしながら子育てもできないから、トータルでみてこれ以外ない、という判断だったようだ。揉め事で儲けている壬生には理解できないが、九条は考え方生き方なんて人それぞれだからいいんじゃないのと、明るくいう。壬生も、別にその件で九条を理解を絶した他者と見ているふうではなく、ふたりの関係は程よい距離感の好ましいもののようである。

 

 

どれだけその場にいたんだという感じだが、九条が到着したときにもまだ曽我部への職質は続いていた。4人の警官に囲まれて逃げられないようにされている。いちおう、言うことをきいて、動かず、抵抗せず、ということをやっていたようだ。その様子を九条が歩道橋のうえから声をかけて撮影する。警官は威圧的に公務執行妨害だというが、相手は弁護士である。動画撮影は公務執行妨害にはあたらないのだ。違法捜査に備えた証拠保全だと。

九条は、任意ですよね?と確認して、曽我部を連れてその場を去ろうとする。職質に応じる「義務」はない。あくまで市民としての「協力」なのだ。もし、その場を去りたいのに留め置かれるようであるなら、無礼状逮捕とみなされ、違法となる。九条は堂々と曽我部を連れて去っていくのだった。

とはいえ曽我部は不審者である。警官はつけてくる。ふたりはタクシーに乗ってこれを撒き、いったん事務所に入って時間をつぶすことにする。そうか、よく考えたら、なにか依頼があって曽我部と九条は接触したわけではなく、職質から逃れるだけのことなのだから、九条の仕事はここでおしまいなのだ。

 

事務所には飲み物がないということで、自販機で選ぶ段で、曽我部は選べない。事務所の水でいいという。また、出前でとった坦々面の食べ方も、九条は興味深そうに観察する。九条がずるずると音をたてて食べているのをみて、音をたてていいのかと問うのだ。刑務所生活をしていた人間の行動らしい。それだけで挙動不審とみられそうで、服役というものの不思議な矛盾も感じられる。

曽我部は15分後に別の客のところに行くはずだった。その件が心配なのか、彼はガタガタ震えている。そのはずみに、左腕に貼ってあったなにか白いものがはがれて、中に描いてあった・・・これはイレズミなのかな、幼稚な落書きのような絵が露出することになる。

そして、おそらく彼の心配していた事態になる。曽我部に「野菜」を卸している人間なのだろうか、顎がない変な体型のいかつい男から電話がかかってくる。先輩かなにかかなとおもったが、よく見ると曽我部はタメ口だ。いじめっ子いじめられっ子のような関係のようだ。

職質は自己責任、費用は曽我部持ち、さらに「ボクテン入れ墨の刑」だと、顎のない男がまくしたてる。曽我部は大慌てで、九条に挨拶もなく事務所から飛び出ていくのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

曽我部が出て行ったところにちょうど烏丸が帰ってきて、彼を認識する。烏丸は5年前に曽我部を弁護したのだそうだ。さらに、曽我部は麻薬の入っている菓子箱を事務所に忘れていってしまった。運び屋が運ぶもの忘れていって、あいつ手ぶらでどこ行ったんだよという感じだが、これでたんに不審なだけでなく、じっさいに犯罪に関与していたのだということが九条にわかってしまうだろう。もし曽我部が刑務所に入っていたのだとすると、その事件を烏丸が担当したということになるのかな。顎なし男は曽我部とタメ年なのだろうとおもわれる。とすると、先輩後輩の関係のような、個々人の力の差を超えた名目的な「従わなければならない理由」というのは、ひょっとするとないのかもしれない。だが、むしろそちらのほうが問題としては深いだろう。それこそ、小学校のころのいじめっ子・いじめられっ子の関係がずっと続いているのかも。烏丸が担当した前の事件にもからんでそう。なにしろ今回のテーマは「弱者の一分」なので。今回は対いじめっ子のはなしっぽい。

 

 

前回、「つづく」の前ではちょっと触れたけど、書いていくうちに書くことを忘れてしまったこととして、「日本一のタコ焼き」があった。連載初回ということで、九条、烏丸がどういう人間なのかということが示されるうえで、なんでもない、つまり展開上意味のない会話というのは必要である。だが、なぜ「なんでもない会話」がその人格を示すうえで重要なのかというと、「物語の展開」という限定的な状況を抜け出た、ちからの抜けたものになるからである。特殊から、より普遍よりなのが、ああした会話なのだ。

ではそこでなにが語られていたかというと、「日本一のタコ焼き」はどう決められるのかということだった。烏丸は、しっかり定義してから「日本一」といわないときもちわるいといい、九条は、味がついてこなければ淘汰されるから、結果として残っている自称「日本一」が「日本一」だと。これは、言語という、世界を認識する際に人間が用いるメガネの問題である。「日本一のタコ焼き」という名乗りは、言語を通過した世界、言語世界のものになる。烏丸は、それが正しい通過の方法をしたのかが気にかかる。正しい方法をとらずに、ただ名乗っているだけなら、言語以前の原世界にあった「タコ焼き」が見せる言語世界での姿は、偽りとなる。偽りであるかどうかが重要ではなく、ここでのポイントは烏丸がそのように世界を二段階でみているということだ。まず、言語を経由しない原世界がある(厳密には言語による分節のない世界は認識ができないので、これはもっと定義のくっきりした、第三者にも意味が確認可能な意味において、ということになる。あるリンゴが「大きい」が「小さい」かは、見るひとによって異なる可能性があるが、ここでされているのはそうではないレベルの、価値を量に置き換えるたぐいの、共有可能な認識におけるものだ)。それが、言語のメガネを通過することで、定義のくっきりした厳密なものになる。これが烏丸の認識である。

たほうで九条はどうなっているか。「味がついてこなければ淘汰される」のがほんとうかどうか、つまりじっさいにそうなるかどうかはとりあえずおいておこう。この認識では、いま目の前にある「日本一のタコ焼き」は、淘汰された結果残った定義そのものか、現在淘汰の途中にある潜在的な日本一か、どちらかということになる。つまり、九条における、烏丸にとっての「言語メガネ」の世界は、現在進行形で生成・成長していくものなのである。その世界には、未完成の、いまだ定義のかなわない事物も存在するだろうが、いずれはそうなる。0より少ない数は存在しないのではなく、負の数として存在しているとするような数学的発想が持ち込まれているのである。

まとめるとこうなる。烏丸は、現実の原世界をまず経験し、そこに「言語メガネ」をさしこむことで、定義の厳密な世界、そして原世界とは非連続な言語世界を手に入れる。いっぽう九条では、原世界も言語世界もない。定義はただ実っていないだけであり、つまりいずれ実ることが期待されるものであり、事物は連続的に、烏丸がみるところの言語世界に、仮説的にはつながっているのである。

 

前回書き忘れたことはたいがい次のときにも思い出せないものだが、今回それができたのは、むろんテントのくだりがあったからだ。九条は、離婚後の合理的な選択によって、テント暮らしをしている。じっさいに金がないかどうかはちょっとわからないが(お金があったとしてもこの生活をしていそうな感じはある)、無意味にお互い消耗して戦うより、とっとと降参してお金にかえられるものはぜんぶあげてしまったほうがよい、という判断をした結果、1万の部屋を借りることになり(これも、因果の直線で結ばれるものともおもえないが)、そこに住めないということで、ほとんど積極的にテント暮らしをしているのだ。合理的に思考した結果が家なし、ということなのである。勘のいいひとはここでぼくが丑嶋と滑皮について考えるときにしつこく持ち込んだハレとケの概念をみるかもしれない。これは、ネットではあんまり評判がよくなかったのだが、必要なら「聖」と「俗」みたいに言い換えてもよいかもしれない。ただ、そうすると意味的には逆になっちゃうというか、じゃっかんぼくが逆に使っていたような感じもしてくる。たとえば丑嶋では、ウサギと過ごす家での時間は「ケ」と考えられたが、聖俗二元論でいえばむしろこれは「聖」のようにおもわれる。宗教的な、浄化の時間なのだ。俗の世界は均質性のようなものを旨とするから、いままでの文脈でいえばむしろ「ハレ」なのである。とするとやはり誤用、というか逆に使っちゃってたかも・・・と青くもなるが、しかし、言い換えればハレ/ケは、非日常/日常ということでもあり、この視点では、丑嶋や滑皮なんかはしっかり該当する。ヤクザに殺されるかもしれない世界は、ふつうの言葉でいえば、非日常だからだ。とすると、彼らの生き方のじたいが、通常の意味でのハレ/ケを逆転させてしまうものだったのか、というようなはなしにもなる。

この件についてはまた別の機会に考えを深めよう。記事を読み返してみても、その差異にかんしてそこまで重視してきたわけではない。重要なことは、そこに“段階”があるということである。いや、そうではなく、九条にはその“段階”がみられない、ということなのだ。彼は、丑嶋でさえがそうしたように、法律による武装を解いて、単一の個人として筋肉の緊張をほぐすような空間がない。というか、個別のものとして用意されていない。筋肉をゆるめるようなことは、「職場の屋上」で済ませてしまう、つまり、仕事の内側においてやってしまうのである。行住座臥、どの瞬間を切り取っても、量的に小さくなるようなことはあっても、彼は「弁護士」なのである。

 

で、このことがなぜ忘れていたタコ焼きを思い出させたかというと、それが連続的に世界を認識させる視点を最初に示したものだったからなのだ。民法のような巨大な法律のうえに、それがとりこぼすものを拾うようにして、特別法は制定されるが、こうした法の身振りが示すことは、法による秩序を実現するためには、それがあまねく、とりこぼしなく世界を記述可能なものであろうとするかのような姿勢が必要だ、少なくともそのつもりで法を立てなければならない、ということだろう。こういう思考法が刷り込まれていった結果として、九条が事物の潜在的な定義というようなものの見方を採用していった・・・というのは先走りすぎだろうが、無関係ではないだろう。いま法律に書かれていないことも、必要なら書かれる。こういう経験が、輪郭の定まらない事物にも定義が潜在している、仮説的には「言語」である、というふうなものの見方をさせるのではないか、というはなしなのである。これが転じて、彼における「ハレ/ケ」のような区別を忘れさせる。九条にはホームが不要なのである。

 

 

さて、前回登場人物の名前が平安京の通りから来ているのでは、と書いたが、掲示板などでいただいた意見からしても、京都由来ということはまちがいなさそうである。曽我部も京都にあるようだが、平安京とは関係なさそうだ。どちらが先かわからないが、いずれにせよ京都あたりのなにかを基本にしたものということでよいだろう。それが平安京からきたものか、平安京にもきているものか、そのあたりははっきりしない。そういうことを洞察するためには、もっと大雑把で網羅的な勉強が必要になる。こういうのはネット検索ではどうしようもない。もっと、不如意に、勝手に情報が入ってきて、無自覚に知識が血肉となっていく読書が望ましい。そのために、以前から、すでに持っているはずの、池田亀鑑『平安朝の生活と文学』(ちくま学芸文庫)という、時代の風俗を研究した本を探しているのだが、見つからない。まさにうってつけの本とおもわれるのだが、買うなりどこかに放置してしまったのだ。同じ本をまた買うのもナニだし、別のものを探してみるか・・・。

 

 

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