すっぴんマスター -25ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第8話/親子

 

 

 

ジャック・ハンマーと範馬勇次郎が街を練り歩く!

よくこういう場面あるけど、歩くからには、どっかに向かってるんだよな。それとも、散歩しようと声かけてこうなるのか・・・。

 

すれちがう通行人はあっけにとられている。ジャックは二度の骨延長手術で243センチにまでなっている。こないだディズニーで2メートル近い外国人を見たけど、「でっか・・・!」と声が出てしまうくらいでかかった。以前いた道場でも190センチ程度が最大で、知人にも2メートル超はいない。ジャックは、そんなまれにみかけるレベルの身長のものを、40センチ以上上回るのだ。ほとんど着ぐるみなのであった。しかも、ジャックの骨延長手術は手足を伸ばすものなので、要するにものすごい足が長いということなのである。もしかしたら、それに対応しようとして、からだのほかのぶぶんが変化しているなんて可能性もあるかもしれない。

そこにあの筋肉。パッと見は「ものスゴく足が速そう」ということらしい。

ジャックと比べれば勇次郎はいかにも小柄である。しかしそれでも190センチ以上はあり、彼のばあいはまた、数量的な大きさの問題ではない、印象レベルの個性がある。不自然な犬歯と逆立つ紅蓮の毛髪、皮膚からは金属質の光沢が放たれる。以前、勇次郎のフィギュアが出たとき、あまりにもテッカテカだったので、そうポストしたら、バキ公式から先生の指示でそうなったとリプライがついたことがある。金属的な印象は板垣先生のイメージする勇次郎に欠かせない要素なのだ。

 

このふたりは親子なわけだが、いっしょにいることはあまりない。ジャックは勇次郎にこだわっているが、勇次郎は「血が薄い」として、ジャックをあまり顧みてこなかったのだ。

ジャックは、身長に機能が追いついたと、むかし光成にいっていたことをそのままいう。勇次郎は、「立ち姿」にそれはあらわれているという。完全とはいえないらしい。ということは、まだ伸びる可能性があるということだ。しかし追いついていると。この反応にジャックは驚いてしまう。九条を殴る父親ばりに、勇次郎はジャックに低評価をくだし続けてきたのだ。読者的にも驚きである。

「立ち合いの位置取り 敵より高きに身を置くこととす」と、勇次郎は宮本武蔵の言葉を引く。といっても、五輪書を通じて知られる歴史上の“あの宮本武蔵”ではなく、彼らがたたかった武蔵だ。オビワンの「I have the high ground」だな。

高ければ有利、なら伸ばす、というジャックの発想を、勇次郎は短絡、安易、無節操と形容する。ジャックは言葉を受け取り、少し落胆したようである。それを嫌いますかと、敬語で問う。だがこれは否定の言葉ではなかった。「出来ることではない」と勇次郎はいうのだ。ジャックの人目を気にしない強さへの渇望には、嘲笑もつきまとうだろう。骨延長には想像もできない激痛もともなう。加えて、知っているのに誰も踏み込まなかった聖地・嚙みつきに踏み入り、技術体系として確立させた。勇次郎はその純度を評価するのだ。初めて誉められて、ジャックは立ち止まり、へんな汗をかくのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

これで勇次郎のお墨付き、ジャックの方向性がまちがってはいなかったということがわかったわけである。

勇次郎からの評価は、これまで書いてきたこと、つまり本部たちによるジャックの評価のこたえあわせでもある。本部たちが指摘した、人目を気にするエエカッコしいの「刃牙らへん」には、勇次郎さえ含まれていた。今回勇次郎はじぶんのことを語ってはいないので、彼の自己評価がどうなのかということはわからないが、できるものではないとすることで、純度という点においてジャックはたしかに類を見ない、「刃牙らへん」を超越した存在であるということを認めたのである。

 

ジャックの強みはカッコつけないことにある。ここでいうカッコ、つまり格好というのは、たんに見た目とか美学的なこととかを超えて、通常の生活が成立するための条件のようなものも含まれている。これは「強さ」に限らないだろう。なにか追っている夢のようなものがあるとして、家族を捨て、生活を捨て、そのことによって生じる社会的立場の損失も気にせず、人生の全時間をそこに費やす、そんな生きかたができたら、じぶんだって××ができるかもしれない、ということを考えたことのないひとはいないだろう。ぼくは若いころピアノにかんしてはそういうことをおもっていた。学校なんかなければ、家族なんていなければ(でも住むところと食べるものは自然に生じてほしい)、睡眠なんて不要な肉体であれば、もっとピアノ上手くなるのにと、そういうふうに毎日考えていた。しかし、ふつうのひとは、ピアノのために将来を棒に振らないし、家族を捨てないし、眠いから眠るのである。ジャックにとっての格好とはそういうはなしだ。必要ならそれをやる。そのことによって生じる不都合すべてを無視する。じぶんの立場に引き寄せて考えてみればよくわかることだが、まさしく勇次郎がいうように、「出来ることではない」のである。

 

これが勇次郎にとってもそうだったというのが今回のポイントで、勇次郎にかんしては、その必要がなかったという可能性はある。彼にも生活のこだわりのようなものはあるだろう。「人目」を気にする生きかたはしてこなかったとしても、たとえば、ふるまいにかんする美学のようなものは感じ取れる。古めかしい言葉遣いや、特に親子喧嘩開始前に見えたことだが、スノッブなこだわりを通じて、彼なりのイメージというものがあるらしいということがわかるのだ。勇次郎はそれを捨て去る必要もなくすでに強いからそうしなかったわけだが、強さのためにそれを捨て去れるのかというと、たぶんちょっとためらうのである。つまり、勇次郎がジャックを評価するということは、勇次郎にも「こういうふるまいがカッコイイのだ」という美学が存在していることを示すのである。

 

だが、ではそもそも「カッコイイ」とはなんなのか、という問題がここでは生じる。というのは、勇次郎は世界最強の男、どんなわがままも腕力だけで通す人間だからである。彼を笑う人間などいない。彼の“かっこよさ”を評価できる人間が、この世にはいないのである。しかし、それは言葉や身振りを通じて表面には出てこないというだけのはなしだ。みっともないふるまいについて、「みっともないなあ」と、誰もそれをくちにすることはできなくても、思うのは自由だ。逆に、勇次郎ほどの強者であればこそ、こういう点は気にかかるのかもしれない。誰も彼に本音はもらさない。なにもかも思い通りにできるのに、内心の自由だけは侵すことができない。これはある意味、「なにもかも思い通りにできる」という状況がもたらす背理かもしれない。なんでもおもうがままの強者だからこそ、相手の内心からは遠ざかる。侵す範囲が広ければ広いほど、見えないものが増えていくのである。

そういうわけで、なんでもわがままで通せる彼がなぜカッコつける必要があるのかという点については、まずこのように、地上最強の生物としての延長線上としてとらえることができる。ここでは「強くなる」ということは版図の拡大のようなものととらえることができるだろう。しかし、人間には外面と内面がある。「強さ」は外面までしか捕捉することができない。そして、外面を侵すほどに、内面は隠されてしまう。地上最強の生物として版図を拡大する行為が次に目指すものは、自然その内面ということになる。こうして、彼はごく当たり前のマナーとか、じぶんなりの美学のようなものを身につけていったのである。

 

もうひとつの可能性としては、女性のほうが理解しやすいかもしれないが、たんにその美学をじぶんのために行使しているという可能性である。直観的にはむしろこちらではないかという感じもする。つまり、生を賦活する、モチベーションの源としての美学だ。これはそもそもどこかから評価されることを期待していない。想定していないということではないが、主題ではない。ミニスカートを履くのは、男性の性的興味を期待してのことではなく、たんにそれがかわいいからである。ひとことでいえば、なりたいじぶんになるということだ。勇次郎ほど「他人」がどうでもいい立場であれば、むしろこちらにいきそうな感じがするのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第91審/至高の検事27

 

 

 

 

ブラックサンダーが釈放された九条を隠しきれない喜びとともに迎える。ブラックサンダーは烏丸が面倒をみていたので、烏丸もセットだ。お祝いに流木と薬師前も呼んでるということだ。そして、この日は母親の命日でもあるらしい。なんか、父親的なものとの確執にばかり目を向けてきたので、九条の母親がどうなっているのかというのは、意外と考えたことなかった。亡くなっていたのか。

 

九条はブラサンといっしょにまず母親の墓参りに向かう。また雨が降っている。第10審、はじめて蔵人が登場した、父親の墓参りでも雨は降っていた。

九条は雨の中、傘もささず、ジョギングのかっこうのまま母親の好きだった花を供え、当時を思い出す。ちょうど、烏丸の父親が殺された事件をやっていたころのような感じがする。まだ司法試験には通っていないっぽい。病室で動けない母親のあたまを、水のいらないシャンプーで洗っているところだ。

九条は、成績が落ちて、また蔵人と比較されて父に叱られたというはなしをする。父の望むような人間にはなれない。しかし誰かの役には立ちたい。いまからは想像もできないが、九条はぼたぼた涙を流していう。母親は、大丈夫だと、誰よりも優しいからというが、そのあとに、蔵人と呼びかける。衰えた母のあたまのなかにも、もう九条はいないのだった。

 

会場は、これは、九条が寝泊りしている事務所の屋上ではなくて、以前薬師前と三人で話していたところだろう。烏丸、流木、薬師前がビールをもってあらわれる。お料理もおいしそう。

流木は、なにはともあれ九条が弁護士のままでいられてよかったという。手助けしようにも、流木は壬生の弁護をしていたので、利益相反となり、動けなかったのだ。ひとえに、これは独立までした烏丸のおかげだ。九条は、中に入ってわかったという。たくさん接見にきて、会いにきてくれる弁護士がどれだけ心強いかを。心機一転、より精進していくことを九条は誓うのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

前回、今回から新章に入るみたいなことが書かれていたけど、それは次回になったようだ。クリスマス発売の4・5合併号か・・・けっこうあとだな・・・。

直近の数回と比べると極端に情報量が少ない回だったが、まあ、こういうワンクッションが必要だったということだろう。

 

九条は、母親との関係においても安らぎを見出すことはなかった。おそらく、あのように泣きつくからには、母親は父の行定のようには、九条に厳しくあたることはなかったものとおもわれる。けれども、おそらく病気のせいで混濁した母親の意識は、「泣きじゃくる息子をなぐさめる」という物語の情景に、蔵人を組み込んでしまうのである。もちろんこれは、成績優秀な蔵人のほうが、母親のなかにおいても存在としては大きかったということなのだろう。しかし同時に、弱り、洞察力を欠いた意識の内側において、母親は「泣きじゃくる息子」を蔵人と判断したということでもある。そもそも、誰かの役に立ちたいという願いのあとに、優しいから大丈夫という反応は、なんだか、かみあっているのかいないのか、よくわからない。優しいから、役に立つことができるということなのかもしれないが、兄弟をとりちがえるほど混濁した意識なのであれば、ここは相手のいうことを反復するようななぐさめかたをしそうなものである。しかも、ここには「いつもありがとう」という言葉まで付け加わっているのだ。というわけでぼくはここに、母親のもとに通い詰めている「誰よりも優しい」蔵人の姿を見るのである。取り違えたというより、「泣きじゃくる息子」の招待として、母親のなかではそれを蔵人とすることがきわめて自然であったということなのだ。

 

墓参りをする九条は雨にぬれ、その彼が思い起こす過去の彼は泣きじゃくっており、対比的である。つまり、この雨は彼の抑圧された感情のあらわれということだ。ここでの雨は、悲しさ・さびしさのようなある特定のこころの働きというよりは、大きく「感情」というようなものとおもわれる。彼が感情を抑圧するのは、ありとあらゆる前提条件をふたしかにするためだ。じっさいには、根底的に彼の感情が機能しているからこそ、弱いものへのまなざしは生き続けているのだが、もっと前の段階、仕事に着手するはじめのときには、感情は不要である。それは、蔵人や嵐山が「悪」であると決めつけるような結論ありきの二元論を呼び込む。これを、九条は回避する。そうでなければ、「手続きを守る」ことはできないからだ。そういう判断をくだす「感情」は、父や母の墓においてきたのである。しかし、行き場を失った心的エネルギーは発露の場所を探し出す。それが、作品としては雨になっているということなのだろう。

 

 

さて、最長となった「至高の検事」もこれでおしまいということであるが、けっきょく至高の検事とはなにを指していたのだろう。いままでスルーしてきたが、じつは単行本では副題が変わっていて、最初の9話が「検事の権限」、そのあとが「暴力の連鎖」となっている。おそらく、「至高の検事」としては、兄の蔵人、ないし父の行定が描かれる予定だったのだろう。だが、そうはならなくなり、単行本ではこのように方針が変更されたのだ。本誌では、「至高の検事」としてはじまってしまっていることは変えられないので、最後まで突っ走った、ということだろう。だがそんな野暮なことをいっていてもつまらないので、もう少し考えてみる。とはいえ、それが蔵人を指すものではないようである、ということはまちがいないだろう。けっきょく蔵人は事件にも九条にも直接かかわらなかった。「至高」かどうか判定する現場にそもそもいないのだ。ではそれがなにを意味するのかというと、若い烏丸や、もちろん蔵人らのスタンスの先にどうしても想定されることになる「絶対法」のようなものとおもわれる。

 

蔵人の世界観においては、「悪」は常に指定可能である。しかし九条ではそうではない。ただ法律とそれを遵守するための手続きに基づいた結果があるだけであり、悪もなにもない。これは、悪法をめぐる九条と烏丸の対立にもあらわれる。烏丸は、悪法は変えなければならないとする立場だ。しかし九条は、悪法もなにもない、ただかいくぐるとする。つまり九条は、法律そのものの意味内容を重視しない。もちろんなんでもいいということではないが、一定水準以上の条件を満たした法律なら、とにかく機能していればよい。そして、それだけなのだ。だが烏丸は制度とたたかわなければならないとする。このとき、法を「悪」と判定するものはなんなのだろう。そして制度とたたかって悪法を改正できたとして、それはいったいどういうものになるのだろうか。かくして烏丸のスタンスは、到達できるかどうかは別問題として、自然と「完全無欠の、瑕疵のない絶対法」を要請するのである。どんな事件も完璧に中立的かつ理論整合的に裁定できるシステムがもし存在するなら、そこにはもはや裁判は必要ない。ただ、インプットと同時に出現するアウトプットを述べあげるものがいればよいだけなのだ。検事という仕事にもし「至高」があるとすれば、それはおそらくそういうものになるだろう。そこでは弁護士も不要である。絶対法においては、守られるべき権利は自然と守られることになる。悪は裁かれ、世界には正義が漲る。しかしもちろん、こんなものは幻想である。目指すのはいっこうにかまわない、というか人類のミッションといってもいいくらいのことかもしれないが、現実的にはまぼろしなのである。

 

法が、言葉が全世界を説明しきるとする蔵人的立場は、こういうものを想定しなければためらいなく動くことはできない。もし、法、つまり言葉が全世界を説明“しきれない”のだとすれば、見落としがあるということになる。検事であるわたくしが、裁判官が、法が、見ることのできないものがこの世にあるということを認めることになる。世界は法の述べるかたちをしていない。世界のほうで、法になじむように歪んでくれるということもないのだ。これが九条のいう、蔵人には見えないというものの正体である。といっても、九条にもそれが見えているということではない。九条はただ、「見えないものがあるかもしれない」と、どのようなふるまいの前にも一拍保留の時間をおくようにしているだけなのだ。しかしそのちがいは大きいだろう。そしてそれは、感情を雨にうつすことでようやく可能になるのである。

 

 

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第7話/花田派と鎬流

 

 

 

本部の道場で鎬昂昇と花田が激突する。

はなしとしてはジャック対戦権をめぐってということになっているようだけど、ワンマッチでもあり、ここの喧嘩で決まるようなことでもないだろう。ジャックとしても花田なんて、最大トーナメントの会場で見かけたことがあるくらいでぜんぜん知らないだろうし。でも、本部がくちをきいたら別かもしれない。

 

実戦ということでスタートしたものでもあり、それらしく、花田が脱いだ上着を足でひっかけて投げつける。途中で広がってしまって、失速することは避けられないので、これは視界を覆う意味があったんではないかとおもう。が、昂昇は造作もなく指でこれを両断する。

昂昇は、このふるまいを、本部流なのかプロレス流なのかと問う。花田は本部の弟子であるとともにプロレスラーという、考えてみればけっこう異色の背景をもった人物だ。ふつう、プロレスと武術というと正反対ということになるわけだが、本部にかんしてはそうではないと昂昇はいう。爆薬、ロープ、手裏剣、火炎、まるでプロレスだと。たしかに、手裏剣はともかく、どことなくプロレスチックな響きの武具ばかりだ。毒もつかうからな。霧ではないけど。

花田は反論する。隠し武器は本部の専売特許であり、「寸鉄身に帯びず」が花田派だと。そもそも、プロレスは相手を傷つけない格闘演劇である。毒霧を顔に噴かれても失明することはないわけで、やっぱり武術と対極であることにちがいはないよと。

 

よく喋るな2人ともと、本部がくちにしたことで一瞬場が和んだが、むしろその瞬間を見逃さないのが鎬昂昇だった。シャープな後ろ廻し蹴り飛び出し、花田は驚きつつもこれを体勢を落としてかわす。続けて鎬昂昇の連撃、花田はぎりぎりかわしているようではある。そして最後の突きを肩のうえに抱え、地面に投げをうつ。あの体制で投げられながらふつうに着地してる昂昇のほうがすごい気がするんだけど、彼はともかく最後の一発がはずされたことに驚いているようだ。むろん、この投げは、ほんのちょっと前に花山薫でテスト済みである。なるほど、あれは打撃対策だったのか。スピードではまだうえがいるとはおもうが、少なくとも花山のパンチであれができるということは大きな自信につながるだろう。

 

だが花田の全身はずたずただ。攻撃そのものは防いでいたようだが、ちょっと触れた指先などで切られてしまったのだろう。バキ世界では試合不可能というほどの傷ではないが、本部が止めに入る。「組手」の域を超えた、ここまでとすると。いや「実戦」ということだったのでは・・・と花田いうが、想定は想定であって実戦ではないと本部は強弁、試合終了となるのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

本部はいいなあ、すごい本質的なことをさらっとやってくれるよ。実戦なのかどうかを確認してからはじまる実戦は、そりゃ実戦とは似て非なるものだよね。

そういうこと以前にも、ぼくはここから本部の大人っぷりが感じ取れるような気がした。強いものがいるときけば飛んでいく範馬一族のような生きかたも、存在としてはもちろんあっていいのだろうけど、現実の日常生活というものは、そういう極端さを受け容れるようにはできていない。勇次郎やバキのようにじぶんより強いものがまず見つからないような人生ならまだしも、花田のように勝ったり負けたりがふつうのファイターではもっとそうだろう。強いとみるなり挑んでいく、それも、腕試しレベルではなく命のやりとりのレベルで勝負する、そういう毎日の人物が、ふつうの日常生活を送るのは難しい。そしてそれは、場合によっては彼が求めている強さそのものから彼を遠ざけてしまう可能性すらある。たとえば、ただの喧嘩自慢ではなく、それこそ花山レベルに強い素人がいたとして、こういうものが道場破りをくりかえしているとする。彼は、どこにいっても苦戦するということがない。だから、空手だろうと柔道だろうと、どこの大将とやりあっても負けず、そしてなにも学ぶことなく道場を去っていく。強さの一点をとっても、たいがいの人間というのはそうたんじゅんにできていないのである。もちろん、範馬一族のような例外もあるだろう。しかし、本部は道場主でもある。つまり、学校の教師のように国家主導のものではないにしても、いちおう、教育的立場にある人間なのである。学校教育ほど一般論によらないにしても、ある程度の普遍的指導は、当然行っていかなければならないのである。

 

書いていて気付いたが、おもえばこの本部の立場というのは、『バキ道』最終話付近でジャックを誉める流れに至ったあの描写と対である。ガイア、加藤との、「実戦」についての議論だ。正直いま読み返してもなにが主旨なのかよくわからない議論なのだが、もっとも強さに餓えた男としてジャックの名があがるのである。

ちょうど目の前にバキ道17巻が落ちていたので、じゅんばんに、読みながら議論を追ってみる。バキは、普段着のまま、ウォームアップもなしで宿禰を倒したという。まさしく「実戦」である。となれば本部の土俵ということになるが、本部は、いうほど自分を含めた武術界は「実戦」的ではないという。たとえば、なんのためにこうして和服を着ているのか?ということだ。人格形成より有効性が武術では優先されるべきだ。つまり、もし和服が不便なら、ほんらいは変わっていかなければならないということだろう。社会体育的武道は「道」をうたちがちだが、人格形成が必要なら殺傷能力を身につける武術である意味なんてない。だから、愚地独歩や渋川剛気も道を説かない・・・。この次のはなしでは、「カッコばかり」が議題にあがる。演武、様式美に染まった武道は「カッコばかり」。前後して書くと、ジャックにはそれがない、というはなしだ。他人からどう見られるかなんてかんけいない、必要なときに嚙みつきも敢行するのがジャックだと。カッコつけないことは強みである。それと比べると、バキや勇次郎、道を説かないとされた独歩や渋川さえ「エエカッコしい」だと。そしてこのとき「エエカッコしい」とされたものたちを、本部は「刃牙らへん」と呼んでいるのである(←このぶぶんは思い出しては忘れをすでに何回もくりかえしている)。

 

その当時の記事でもう少し考察したような気もするが、ここでは読み返さないでおこう。いまこうしてまとめて書いてみて見えたものもある。ここで本部がいっていることは、要するに、実戦性の高さというのが、どれだけ餓えているかということに比例するのだということだったのだ。流れからしてそうなのである。「強さ」への餓えかたにも個人差がある。わけてもジャックは、他に類をみないほど「強さ」を求めていると。そんな彼の到達した境地が、象徴的な「嚙みつき」をメインにした嚙道なのである。この文脈では、いかにして人目を、「カッコつけたい」という欲望を取り払うかということが、武術性の高さに関係しているということになるのである。そうして、究極の武術体ともおもわれるジャックを配したとき、道を説かない独歩や渋川や、勇次郎や、つい先日、本部らも賞賛した「実戦」性とともに宿禰を葬ったバキですらが、「エエカッコしい」になると。そしてそれが「刃牙らへん」なのだ。

 

 

「刃牙らへん」というのが、この「エエカッコしい」のひとたちのことだ、ということを、なぜかすぐ忘れてしまうので、またこのひと忘れてるなとおもわれたかたには指摘していただきたいなとおもうが、ともかく、そうすると、本作のタイトル「刃牙らへん」は、「エエカッコしい」の、ジャックと比べればまだまだ実戦性、闘争への餓え、また純粋性に劣るものたちということになる。もちろん同時に、というか出版流通的な意味ではそれが「顔」になる以上こっちがメインだろうが、バキ周辺のサブキャラクターたちによる群像劇的な意味もあるだろう。だが、『バキ道』最終部分での本部たちの議論を踏まえると、ここにはそうした意味が含まれていることがわかるわけである。勇次郎が実戦性に欠ける?というのはいかにも疑問だが、「エエカッコしい」だといわれれば、そうかもしれないなとはおもわれる。時代がかった物言いや立ち居振る舞いなど、彼なりの「美学」は、たしかにそこにある。ふつうに考えると、それは別にあっていい、というか、あるのがふつうである。そういうレベルの、「それは人目を気にしているとはいわないのでは」という程度の「カッコつけ」さえ排除したのがジャックなのだ。ではバキはどうか? バキは、まさしく実戦というにふさわしいスタイルで宿禰戦にのぞみ、それを本部たちも讃えていた。しかし、果たしてあのときバキは、普段着である必要はあったのだろうか? 寝起きのまま試合に臨んでいたが、あれはほんとうに眠かったのか? 付き人の御手洗さんのくちから他人にそのことが伝えられることをほんとうに意識しなかったか? 普段着で試合場に出ることで観客がどう反応するかをまったく意識しなかったのか? 等々、考えてみれば「エエカッコしい」に相違ないのである。もちろん、勇次郎がそうであるように、誰しもそうした鏡像的自我を通じてはじめて自己確立を果たすものだ。しかも彼らには実力も伴っている。いまならともかく、バキや勇次郎は、ジャックよりも強かった。結果としてはカッコつよけようとなんだろうと、強さにはあまり影響はないともいえる。しかし、ここで本部たちが見出したのは強さへの「餓え」だったわけである。そこに、カッコつけをそぎ落とした真の実戦性は宿ると。

 

こうしたジャックの実戦性は、讃えるくらいならともかく、それをまっとうしようとするととたんに困難になる。というか、ふつうできない。人間には生活というものがあるからだ。それは、強さを求めるものにおいても同じである。程度のちがいはあれ、「じぶんがいちばん強いこと」を最良とする独歩や渋川のような人物がたがいにうまくやれているのは、最低限の社会性あってのことだ。これを、本部のような教育的立場のものはないがしろにできない。花田がもしこの鎬昂昇とのたたかいをほんとうの実戦に相違ないものと考えていたのだとしたら、ちょっと考え方が甘かったかもしれない。いや、それとも逆に、ここしばらく顔を見せないあいだに修羅場をくぐりすぎて感覚がにぶっているのか。ほんとうに実戦がやりたいのであれば、筋を通す必要なんてないし、ましてやじぶんのホームである本部の道場でやることもないのである。

 

ただ、これもまたいまふと思い出したのだが、ジャックは宿禰に勝利したあと、観客の声援を受け、甘いしびれとともに喜びを感じていた。彼にも、「強く思われたい」という「人目」への意識がないわけではない。だがその直後、まさに「刃牙らへん」を名指しし、尻の穴をさらしてでも勝つことと求める、じぶんのような渇望がなければ、(おそらく、じぶんに勝つのは)無理だ、ということをいうのである。つまり、ジャックは、「人目への意識の排除」を、意識的に行っているのである。彼にもそういうおもいはあるし、それが達成されれば喜びもする。しかし、それは実戦性や強さには直接関係しないことも、彼は理解している。だから、いつまでも「スマートさ」にとどまっている「刃牙らへん」に、「無理だ」といえるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第6話/どっちがイケる



水曜になってしまいました。毎回更新遅れてしまってすいません。明日発売号にも掲載はあるようで、記事に穴があくのも嫌なので、ざっと眺めるだけのものを書きます。そんな奇特なかたはそう多くないとおもいますが、ぼくの刃牙考察の理論構成に興味があるかたには、読まなくても済むように深入りしたものは書きません。



本部の弟子、花田が面構えもキャラデザインも一新して活躍する!そこへやってきたのはジャック戦をひかえる鎬昂昇である。

昂昇は、このたたかいが組手なのか実戦なのかを本部に訊ねる。彼にとっては、なにしろ技が技なので、とても重要なことだ。まあ、組手で独歩のハムストリング切ってたわけだけど。

行きがかり上始まったことであるからこれは実戦だ、というのが両者一致した見解だ。開始の合図はいらない、昂昇が花田のえりのあたりをつかむ。しゃべっている流れで筋的へ膝があがるが、花田はこれを防ぐ。続けて伸びた左正拳を、脇固め的な動きで花田が制す。だがその回転のまま、昂昇は蹴りを放つ。


花田はプロレスラーでもある。タフさはそうとうなものだろう。蹴りをまともに喰らいながら、ほんらいの昂昇じゃないということをいう。続けて、それじゃジャックなんてムリだと挑発。むろん、昂昇の貫手を引き出すためだ。突然突き出た昂昇の指は、かわされながらも花田の頬を裂く。


花田は両手をあげ、すばやく引き抜きつつわずかに跳んで上着を脱ぐパフォーマンスだ。そして足先でその上着を昂昇の眼前に放って視界を遮る。しかしこれは難なく引き裂かれるのだった。




つづく。



どうもジャック戦をかけた試合になるっぽい。花田はいっつもなにかの参加権をかけてたたかってるな。


ふつうにみると、花田は勝てないようにおもえる。昂昇は死刑囚ドイルともふつうに渡り合える強キャラなのだ。でも、花田だってほんとうは天才だ。柳戦の本部みたいに、作中で機会を得られなかっただけかもしれない。それに、これで花田が負けたら、ちょっと登場した意味がなさすぎるもんな…。ということは花田が勝つ?!勝てるかなあ。






第90審/至高の検事26

 

 

 

組から絶縁状を出されてしまった京極。面会に訪れるものもいるだろうに、京極はそれを弁護士の山城から聞かされたのだった。

いつも落ち着いている京極が激怒、椅子を投げつけて暴れる。絶縁されたことに切れているというより、されるはずがないということのようだ。組長がじぶんの首を切るはずはない、誰か裏で絵を描いているやつがいると。事実、組長は京極を気に入っており、雁金はそれを説得することでこれを実現したのである。猛の件で構成員を私物化するようなふるまいをとったことを雁金は強調したのだった。げんに猛は殺されているのだし、私物化というほどのものでもないような気もするが、まあ、雁金はうまくやったのだろうな。

 

その雁金が期待するのが宇治という大物新人である。仮想通貨をつかって先月20億も組に入れたという男だ。これからの仕事をすすめるのに、今回の件で組の傘下に入った壬生の部下が欲しい、ということだったが、その前に裏切り者の壬生を見つけろ、という指示だった。

ホテルの外で車を待つ宇治は、痰を吐き捨てる老人をとがめる。そして、汚いから拭けとポケットティッシュを差し出すのだった。じぶんのティッシュを出すのがおもしろポイントだ。しかもこれ、鼻にやさしい種類のしっとりしたやつじゃん。未開封のやつがひとつ尻ポケットに入ってないと不安になるタイプだな・・・。

老人は宇治がヤクザだとわかったようだが、ぜんぜん臆することなく口の利き方などに文句をいうツワモノである。宇治は、ヤクザとか関係ない、人より長く生きてきたなら想像力を使えともっともな言い分だけど、老人が無視してどこかにいってしまったので、宇治はじぶんでこれを拭くのだった。マジで「汚いから」だけの理由で声かけたっぽいな、丑嶋社長かよ。

 

その宇治がメッセージアプリで連絡をとるのは壬生である。前回この予想はコメントでいただいた。京極絶縁、雁金は組長に昇進、そのボンクラ雁金のもとでじぶんは若頭となり実権をとると。壬生はそれをみて微笑む。要するに壬生と宇治はグルだったわけである。しかも、口調からすると、利害が一致したからそうなったというよりは、長年の友人のようなのだ。強固な関係というわけだ。

 

少し前の描写になるのか、どこかのお寺の境内で宇治と壬生が雑談している。アメリカの軍事産業株が上がっているはなしをしている。戦争勃発の予想が的中したと・・・。どの戦争のことかわからないが、これはいまより前のはなしのわけであるから、ウクライナのことかもしれない。

そこで、国産の武器のはなしになる。きっと国産は性能がいい。しかし宇治は、自首防衛能力を剥奪されている現状では無理なはなしだという。

壬生もこのことについては同意するもので、アメリカの核の傘で守ってもらえるとほんとうにおもっているのかなという。占領軍が9日間でつくった憲法を80年後生大事に崇めているさまはまるで新興宗教だと。

核兵器を使用して戦争を終わらせたアメリカと同盟って馬鹿げてる、憲法9条により丸腰のまま核武装した国と交渉したってなめられるに決まってる、このままではアメリカだけではなく中国の属国にもなってしまうと、このあたりまではふたりの見解は同一のようだ。壬生はもう少し具体的にはなしをもっていく。9条をいますぐ破棄して、核弾頭を装備すれば済むはなしだと。だが宇治は、それを「物騒だなぁ。お前らは。」と寝転がりながらいう。

※この部分、読み違いがありましたので、最後に追記があります。

 

 

 

「俺たちが絶対に奪われてはならなかったものは、

自首防衛権でも、金でもない。

 

信念だ。

信念が奪われた。」

 

 

 

価値基準がないから判断できない。目先の損得だけの拝金主義。これを変えるにはどうすればよいのか? 奪われた信念はどう回復するか? 宇治は敗戦後の、占領軍も驚く日本の屈服っぷりをいう。宇治の言い分を補うと、このときに、信念らしきもののいっさいは消滅した。つまり、信念がそれとして生きるためには、まずちからが必要なのである。

 

 

そして現在、九条と壬生の描写に戻る。壬生は、明治以前の教えを説く塾に通っていたらしい。天皇や武士道、仏教、儒教などを教わったと。そこの塾生についてのはなしだが、たぶん宇治のことだろう。そして、いま思い返していたことをそのままいう。自分だけが大事の価値観でよいのか? 命をかけて守るものがあるなら死ぬ覚悟が必要だ、広い海を眺めながら、壬生はそのときこういう美しい景色を思い浮かべたという。壬生は九条に、その男、宇治の顧問弁護士になってもらいたいというのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

なんかクライマックスっぽい、終わりそう、みたいな印象が続いていたところですごいのが差し込まれたものである。

 

壬生と宇治が通じているのでは?という指摘はコメントでもあった。壬生は、負ける戦いはしないといっていた。つまり勝算があって、京極を陥れたわけなので、その勝算とはなにか、というところだったわけである。絶縁まで予想できたとして、10年後、無力化は果たされてもある種無敵になった京極をどうするつもりなのか、という問題は、壬生の暴力の大きさを勘定にいれても、わずかには残っていた。こたえは宇治だったというわけである。これは、菅原と犬飼を倒したときにも使っていた手だ。菅原は、圧倒的な人数にものいわせて壬生から金を奪い、介護施設ビジネスをなきものとされたうらみをはらそうとした。しかし、菅原の背後にひかえたモブマッチョはみんな壬生の手に落ちていたのである。

この「実は敵のなかに味方が潜んでいた」という戦略は、危うさも含んでいる。モブマッチョたちをどのように手なずけたのかは不明だが、金が理由だとしたら、それはいつ転倒してもおかしくないということになる。そういう領域に入るということは、じしんもそれをされても文句がいえない状況になるということなのだ。これを予防する方法はひとつしかない。その、敵を手なずける根拠を、交換不可能なものとすることである。たとえば、モブマッチョたちが壬生のカリスマ性に感服したうえで味方についたのだとすれば、この問題はかなり解消されるのだ。仮にカリスマ性が測定可能な数値で、壬生以上のカリスマがあらわれたとしても、じっさいには壬生のカリスマは彼しか持ち得ない固有のものなのだ。その点、宇治は長年の友人っぽいので、とりあえず心配しなくてよさそう。

 

今回、壬生と宇治、そして作品そのものは、憲法9条問題に突撃することとなった。本作のタイトルが明らかになった当初の真鍋読者や、また現在でもまだ本作を読んでいない未来の読者が想像する内容は、むしろこれだったろう。闇金ウシジマくんで一世を風靡した一級の社会派漫画家が、今度は憲法に切り込むのかと。じっさい、その気はあったんだろうなという感じはする。なぜいまここに切り込むのかといえば、おそらく準備が整ったということではないかとおもう。準備というのは、作品として、また作品内のキャラとして、憲法より高次のレベルで「法とは」という問いかけがなされているということだ。

いくつかポイントはあるが、いちばん最初に思い浮かぶのはやはり九条と烏丸の「悪法」にかんするやりとりだ。たぶん10巻収録になるとおもうが、九条が逮捕されたあと、アクリル板ごしのやりとりで、まず烏丸が、悪法も法なら、制度とたたかうという。対して九条は、掻い潜るという。こういう、「法とはなにか」というもっとも広い問いかけについて、いくつかの異なるスタンスが描かれている、そういう状況をもってして、はじめて憲法9条の描写が可能になったのである。

 

複雑そうにみえてそうでもないかもしれないが、ぼくの想像も含めて書くと(ここに書かれていることはすべて想像だが)、まず真鍋先生の物語のスタイルとして、作者の漂白ということがある。要するに、作者個人の主張、価値観、美意識みたいなものをぎりぎりまで薄めてしまうというものだ。このことが、通常は感情移入できない異物的な人物へのそれを可能としてきた、というのがぼくの見立てである。バカで同情の余地もない犯罪者的人物を、「バカで同情の余地もないなあ」という作者の価値観を隠さないまま描いては、この人物はただ既存の記号的立ち位置を出ることがない。ウシジマくんも九条もそういう漫画ではなかったはずだ。読者は、ちょっとうしろ下がってみると明らかにふだんの人生とは無関係で、関係しそうになったら逃げ出したくなるような人物に、感情移入してきた。それは、仮に「バカで同情の余地もないなあ」と作者がおもったとしても、漫画として実現するにあたってはそれが(とりわけ写真的技法を通じて)零度になっているからなのだ。

これを踏まえて、憲法について書こうとする。だが、9条に関しては、おそらくこれまでの「作者の価値観の漂白」では、たりないのである。なぜなら、国民的合意形成の現場で、いくつもの言説が、それぞれ強固に成立しきってしまっているからだ。ただ作者不在の状況を作り出して、写真を撮るように物語を抽出しても、それが受け取られる場所ではそうもいかないという状況になりかねないのである。亀岡がフェミニスト的ふるまいをとっても、それはたんに亀岡というフェミニストがどのようにふるまっているか以上の意味をほんらいもちえない。作者がそういう価値観であるということでもないし、あるいは亀岡と意見を異にする九条と同じ見解であるということもない。けれども、ある程度以上の強固さをもってげんにわたしたちの世界にあらわれている「ものの見方」は、そういう漫画的技法を無視して作用するのである。

 

こうしたわけで、憲法9条を真鍋作品として抽出するためには、準備が必要だった。これまで通りの「作者不在」だけではたりない。その準備とは、「法とはなにか」という問いかけと、それに対するいくつかのこたえ、姿勢だったというわけである。

さて、壬生と宇治は9条を破棄しようとするものである。つまり、悪法も法なら、制度とたたかうという、烏丸と同型ということだ。烏丸が9条についてどう考えるかはわからないが、もしそれが「悪法」なら、変えなければならないというのが、この種類のものたちの立ち位置ということになる。問題は九条がそうではないということだ。九条では、もはや憲法9条が「悪法かどうか」さえ問題の俎上にはあがらない。ただ、巧妙に掻い潜り、利用するだけである。というか、それが弁護士の仕事だと信じている、といったほうがいいだろうか。これが、宇治の顧問弁護士になるということなのだ。

 

ただ、注意してみると、宇治と壬生では厳密には異なった視点にいるようではある。

※この部分、読み違いがありましたので、最後に追記があります。

ひっかかるのは、「物騒だなあ お前らは」の、「お前ら」は、なにを指すのかということである。ひとつには、まず「半グレ」だろう。宇治と壬生では仕事の内容もそれにかかわる人間関係のもろもろも異なっている。もうひとつは、9条を破棄しようと主張する壬生の背後に広がる「9条を破棄しようと主張するひとたち」である。ふたりの考え方はほとんど等しいが、このぶぶんでのみ、わずかにかみ合っていない感じがある。壬生は、とにかく「なめられている」という感覚が強い。丸腰で外交したってそりゃそうなると。そして、この感覚は丑嶋社長以来続く不良たちの自尊心保持の根拠と地続きだ。いま「不良」としたのは、半グレだけでなくヤクザも同型の価値観でいることがあるからである。ただ、ヤクザはそもそもそういう命題が前景化されることは少ないようにおもわれる。どちらかといえば、ハブがそうだったように、すでになめられており、おわりが近づいていると、そういう感覚が訪れたときのみ、この感情があらわれるようなのである。そもそも、ヤクザになるということが、そういう「なめられたらおわり」の世界から脱し、なめられない世界に身をおくということを意味しているからだろう。だから、理論的危うさを認めつつも、この価値観は半グレのものであると言い切ってしまってもいいかもしれない。そう考えると、いま書いた「お前ら」の指示するものは、二者一致することになる。つまり、半グレと、9条破棄を主張するものである。これに、おおむね同意しつつも、物騒だなと、宇治はわずかな違和感を表明するのである。

対する宇治は、ではどういう考えかというと、引用した信念のくだりに集約される。ここでいう信念とは、状況によってかわるようなものではない確固とした価値観のようなもののことだ。「ひとの悪口をいわない」ということが信念なら、占領軍に銃を向けられても悪口をいうことはないだろう。だが、圧倒的ちからの差でこころを折られたものは、いつまでもそれをしないで済むだろうか。だから、占領軍に銃を向けられても屈することがないちから、「権力」を宇治は求める。ともに暴力を求めつつ、壬生は「なめられないため」、そして宇治は「信念を折らずに済むようするため」、互いに微妙に異なった動機からはじまっているのである。

 

壬生は、このようにして、ある種の幼さも残した根拠により9条破棄を求めるものだったが、宇治のはなしは黙って聴いており、しかもこのときのことばをそのまま引用するかたちで九条にはなしている。したがって、現在の壬生も回想シーンのままの観点ではない可能性がある。このあたりからはなしは複雑になる。というのは、九条こそが、信念に生きるものだからだ。宇治は、信念を折らないために、ちからが必要だという。だが九条は、そこにちからを必要としない。掻い潜るのだから。これが宇治の弁護士になるというのがどういうことか? この状況が複雑さを呼ぶのである。


※コメントをいただき、致命的な読み間違いを発見しました。ご指摘感謝いたします。壬生と宇治のやりとりの場面には、彼ら以外もうひとりおり、それが寝そべってはなしをしている人物でした。したがって彼のいう物騒な「お前ら」とは、壬生と宇治のことでした。この場面で立ってるひとが、この場面では座ってる、みたいなことがよくあるので、そういうやつかと思ってスルーしてしまいました、すいません。


人物は白州次郎みたいな帽子を顔にのせて寝そべり、少し離れたところからはなしを聞いていたようである。壬生がこの人物のセリフを引用し、九条に依頼しているところをみると、どうやら九条が顧問になるのはこの白州次郎みたいな男っぽい。宇治をその人物と読み替えれば意味は通るので、もとの即興スタイルを保持するためにも、原文はいじらず間違ったまま示すことにする。

どことなく先輩感のある人物だが、壬生の言い方や「世代」という発言からして、同世代と思われる。壬生と宇治はほぼ同じ思想で、彼がもう少し大局的な、本文で宇治のものとした、信念云々の考えをもっていて、壬生らは影響を受けているという感じだろう。としたら、壬生も宇治も、いまではもはや「なめられたらおわり」的な価値観からは脱しているのかもしれない。

 

 

↓九条の大罪 10巻 12月27日発売予定

 

 

 

 

 

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