すっぴんマスター -25ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第86審/至高の検事㉒

 

 

 

九条の弁護士となった烏丸が九条と向き合う。すると、思い出すことがあると烏丸はいう。父親が殺された「東海道新幹線新横浜駅連続殺人」の事件だ。この担当検事が、九条の父、鞍馬行定なのだ(フルネームはたぶん初登場)。今回はその回想である。

 

裁判は、殺したのか殺してないのかというところではなく、動機についてもめているところらしい。犯人はまず住居のアパートで、隣人の中林敏子を小野で殺した。なんでも、メールのなかみがツイッターにもれていて、それは中林がおしゃべりでばらしたからだというのだ。なんだかよくわからないが、中林とはメールをするなかではあったということかな。拡散主の語尾になすがついているのも、中林と一致していたらしい。

こういうことを、犯人は斧で中林の頭を叩き割りながら絶叫していて、それを寝たきりだった彼女の夫が聞いていたと。ということは、中林はけっこう年がいっていたのか。それでも、まだ若そうな犯人とメールをしていたということになる。

犯人の表情、言動は、ちょっと、日常では関わり合いになるたくない感じだ。まず鞍馬は、絶叫していることの意味を訊ねるが、自分で考えろととりあわない。が、なぜ殺したのかと聞かれると、ぺらぺら妄想を話しはじめる。とても興味深い反応であり、彼が叫んでいた内容はいわば客観的事実なわけだが、それについてはこたえず、理由にあたる妄想に関しては、立て板に水でまくしたてているのである。彼がじぶんの所在地をどこに見ているのかということがよくわかる。

 

中林は秘密結社の黒幕で、ずっと監視されていた。世界の支配者が電磁波を使った人類滅亡計画をたくらんでいることに気がついたじぶんは、SNSでそれを暴露しようとした、が、黒幕たる中林が電磁波兵器で攻撃してきたから正当防衛したと。「電磁波兵器」とは、その、ツイッターの拡散のことだろうか。彼のなかでは「SNS」と「電磁波兵器」が、同じものを指すことばとして同居しているようである。

こういう人間であるから、彼の弁護士は当然心神喪失を狙っているのだろう、それをくじくべく、鞍馬は細かい点を指摘していく。まず犯人は薬を服用しているが、服用していないとおかしくなるのでなく、服用するとおかしくなるものらしい。しかし、通院履歴にしたがえば犯行時薬はなかったはずだというのである。

だが指摘はその程度で、犯人の「正気」を引き出すような手には出て行かないようだ。中林を殺したあと、犯人は彼女がもっていた新幹線のチケットを奪い、乗車したのだという。かなりの謎行動だが、理由としては、その席の隣に座った人間が「アーリマン」、ゾロアスター教の闇の神だというお告げがあったからだそうだ。なるほど、ほんらいその席には中林が座るはずだったわけだから、もし、たとえば友達と旅行にいくとか、そういうはなしを犯人が知っていたとしたら、隣が中林の知人である可能性はかなり高くなり、彼女は黒幕なのであるから、その知人は死ぬべきであるということになるのである。

そして、彼は隣席のものを襲った。それをとめに動いたのが烏丸の父、克信だったというわけだ。克信までも殺したのはなぜかって、邪魔されたからじゃないのかなとおもうが、彼によれば克信の正体はルシファーだったのだ。ルシファーはキリスト教のサタンの名前だよね。アーリマンとルシファーはどっちのほうが強いのかな・・・。

 

どう見てもまともではない症状なわけだが、判決は死刑、心神喪失は認められなかった。

 

判決後、母親が弁護団に挨拶するということで、烏丸を廊下において少し離れる。その、角の向こう側に、これもまだ若い苦情と、兄の鞍馬蔵人がいる。烏丸ははなしを盗み聞きするかたちだ。九条はいまより髪が短く、それから、いまの落ち着いた、ものごとに動じない印象が弱く、少年院ウシジマくんの丑嶋のように言葉数が多い。対して蔵人のほうが、いまの矩形で構成されたような印象から遠く、チャラ男みたいなロン毛である。まだ九条は司法試験に合格していない段階のようだ。

 

いまのふたりは思想のちがいが人格的嫌悪感にまで及んでいる感じで、まともな会話は不可能だが、このころはまだ仲のよくない兄弟といった感じだ。死刑はありえないとし、父のドヤ顔が気に入らない九条に、蔵人は間人如きが判決を批判するなという。父の悪口をいうなとも。こうして書き出してみると、いっている内容と衝突の具合はいまとかわらないようだが、やはりまだ兄弟らしい軽口感は残っている。蔵人はこのころからはるかに九条を見下しているが、九条は九条でそれにムカッとくるのを隠さないくらいには子どもっぽい。

あれが心神喪失じゃないならなにが心神喪失なんだよと、九条の意見はもっともなものだ。六法全書をちょっとかじった2ちゃんねらーみたいだと、ムカつくけどやはりまだ軽い感じのある蔵人に、続けて九条はいう。この判決はマスコミが被害者遺族感情を煽った結果だと。つまり、大衆におもねったものなのだ。マスコミは二元論で叩く相手を徹底的に叩く。これでは事実より感情重視の人民裁判だ。

 

 

「裁判は人が作り上げたものである以上、法以外のものから影響を受ける。

 

だからこそ大衆心理と法律は分けて考えるべきなんだ」

 

 

たのみは二審で流木先生が弁護を担当したら・・・ということだが、控訴するかどうかは不明だ。で、この会話を烏丸は聞いていたわけである。このときの烏丸には、父を殺された当事者であるということもあってだろう、九条の言い分はわからなかった。しかしいまはわかるという。人だと憎しみ、災害だと哀しみ、だったらあの事件は災害だったと思うことにしようとしたと。

 

 

 

つづく。

 

 

 

九条と蔵人の若い時代の会話が見れたのが大きい回だった。基本的な思想は変わらないけど、それが職業人格レベルにまで落としこまれたのはじっさいに仕事をはじめてからっぽい。若い時代には机上の空論が真理以外のなにものでもないように感じられて、社会に出てから障害やそれまで気付けなかった視座に目がいくようになって、多かれ少なかれ転向を迫られるものだが、ふたりはよりいっそうそれを強化して哲学としていったというところのようだ。

 

とはいえ、傍目にはむしろ逆の態度のように見えるのもおもしろい。いまの蔵人は、徹底的に「悪」を討ち滅ぼすためにかたくなな法的思考を意図的に貫いている。たほうで九条は、そんな蔵人が必然として見落とすことになる「見えないもの」を拾って仕事をしている。直観的には、「見えないもの」はむしろ大衆感情と親和性が高そうにもおもえる。じっさい、最初に今回の九条の発言を読んだときは、ぼくもおやとなった。若い九条がいうのは、まるで現在の蔵人が実践している冷徹な法的思考のようだったからだ。しかし、そうではないのである。無邪気に言葉の分節作用を信じきり、法的思考を貫徹するためには、悪を「悪」であると、最初から前提しているような態度が必要になるのだ。つまり、あのように確固たる意志と表情のなかに論理的な法的思考法を呼び出しながら、じつは蔵人のほうこそが、大衆感情的な、「これは悪である」と無邪気に断じてしまうような態度を内容しているのである。蔵人はおそらくこれを理解したうえでやっているっぽい。だからこその強さが宿るということはありうるが、そのいっぽうの九条は、たとえば壬生を、法以前の前提として「悪」と臆断することを巧妙に回避してきたわけである。彼のまわりに悪党ばかり集まるのはその結果だ。法がそのように呼びつけるのでない限り、悪は「悪」にならないのである。

 

おそらくこの時点での九条にはまだ、法の原理に見落としが生じうるということには気がついていないのかもしれない。法以前の世界で、壬生は悪でも善でもないかもしれない。「いやいやどう考えても悪だろう」というのが、今回九条が指摘した大衆感情であり、「どう考えても悪なのだから、悪として裁かなければならない」とするのが蔵人や嵐山の立場だ。では、法がもし壬生を「悪」だと判定したのなら、壬生はどんな場合も悪になるのだろうか。そうではないというのが、現在の九条の到達点ではないかとおもわれる。そうでなければ、犬飼に逃亡を示唆したような行動に出ることはない。このとき、九条にとって法とは、一種のあてはめに過ぎない。「犬」と「狼」のちがいは、言葉のちがいでしかない。「狼」という概念がない世界で、彼らはすべて「犬」になる。花の名前を5つくらいしかいえないぼくと植物学者がみるジャングルは、その豊かさにおいてまったく異なっている。そうした言葉のあてはめは、実行されたとき、たしかにちからを宿すことになるだろう。というか、それを認めなければ法治国家は成り立たない。だから、そこに至るまでにおいてやれることはぜんぶやる、依頼人の法益を可能な限り保護しようとする、それが現在の九条が弁護士の仕事として任じているところではないかと考えられる。法律を事象に当てはめる際には、大衆感情がかんではならない。それは、まだ悪かどうかわからないものを悪と決め付ける臆断を誘う。場合によっては、明らかに心神喪失のものも、死刑にしてしまう。心神喪失だろうとなんだろうとここまでのことをしたものは死刑にすべきだ、というような意見もあるだろうが、そういう判断をするのであれば、刑法39条1項は存在じたいが無効になる。それどころか、心神喪失判定が恣意的なものになり、法の権威性まで疑われることになる。だから、法律に携わるものが法律でもって世界を解釈するときには、大衆感情、もっといえば、法的思考以外のものをそこから除かなくてはならない。ここまでが若い九条のいっていることだ。だが、それだけでは足りない。それは、法的思考が世界をあまねくおおいつくすことは可能である、という信憑に基づいた理想像だ。現実には、世界は法律にあわせて歪んではくれない。にもかかわらず、法治国家においては法律に世界をあわせることになる。そこには必ず齟齬が生じる。だから、九条はそこに至るまで感情を放棄し、依頼人の利益という口実のもと、最善を尽くすのである。

 

 

ちなみに、ちょっとしたおもいつきだが、この九条のスタンス、大衆感情と法律はわけるべき、という態度は、真鍋先生の人物描写スタンスそのものといっていい。これは闇金ウシジマくんによく見えたことで、当時の記事やnote、寄稿させてもらった『闇金ウシジマくん本』などにも書いたことだが、通常の生活では接近も厭われるようなものたちにわたしたちが親近感を抱いてしまうのは、真鍋先生が作者の感情を完全に漂白しているからである。技術的には写真をつかった背景がここに一役かっている(とぼくは考えている)が、真鍋作品には、ある人物がきちんと描かれるために、「作者感情」と「描写」をわけて考えるべきである、という哲学が通奏しているとおもわれるのである。

 

 

烏丸は九条の言い分がわからなかった。だがいまはわかる。父を殺した犯人は当然憎い。心神喪失だかなんだか知らないが、理不尽に殺人がおこなわれたことにちがいはない。その理不尽な死をあがなうべきは、どうあれその実行者ではないのか、というのは、きわめて自然な発想だろう。だが、現在の烏丸はそれを災害ととらえることができるという。少し受け身すぎるのが気になるが、少なくとも、弁護士としてというよりは被害者遺族としては、憎しみではなく悲しみを抱くものとして、ある種の気持ちの落としどころを見つけることはできるかもしれない。憎しみは代償を求める。被害者の究極の望みは、状態の復元である。しかし、それはどんな場合も不可能だ。殺されたひとを生き返らせるというようなはなしに限らない。タバコを1本勝手に吸われた、というようなことさえ、復元はできない。同じタバコを1本戻したからとって、そういうことをされたという事実は消えず、不快感がたしかにあったということも、またそれが依然として残っているということも変わらないからだ。だから、かわりにそれを行ったものから自由や財産を奪うことで帳尻をあわせようとする。これは応報刑論といって、罪の反作用として罰が生じるという古くからある考えかたであり、遺族感情に応えるものであるだけに理論としてはある種の力強さがある。問題は、その罰を「誰」が、またどれだけ、つまりどのくらいの「量」与えるべきなのか、というところにある。とりわけ「量」にかんしていえば、ハンムラビ法典の有名な「目には目を」の同害報復の制限が示すように、たんに罪の反作用としてではなく、感情によるものとして罰を設定しようとしたとき、際限のないものとなる。「目には目を」は、目を奪ったものには目を奪う以上の罰を加えてはならないという意味だ。そうした制限を設定しなければ、罰には限度がなくなってしまう。なぜなら、それは決して、遺族が望む究極のところである「復元」にたどりつくものではないからだ。犯人が死刑になったところで、烏丸の父は戻ってこないのである。

そうした遺族感情は当然にあらわれるものであるし、そういう経験をしている烏丸も、これまで弁護士としてそういう見方をしてきたのかもしれない。だが九条のイソベンとしてひとかわ向けた烏丸は、そうした、じしんの経験に基づくところの法律観を更新した。あれは災害だったと、罪を犯したものの人格を考慮せずにとらえることで、ニュートラルなものの見かたができるようになるのである。

 

とはいえ、事実として烏丸の父は殺されたのであり、災害ではない。少し抑圧めいたニュアンスにおもわれるのが心配ではある。だが、弁護士として、九条的な考え方を獲得する一歩としては、まちがっていないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第3話/刀帯びし肉体

 

 

 

前話

 

ジャックの次の相手は五体が刃と化す斬撃空手の鎬昂昇だ!

拳が刃となるという点では、一流どころの空手家ではたいていそうであるともいえる。鎬昂昇が神心会の道場を訪れ、克巳とともに独歩の演武を見ているところだ。

独歩が得意の針金切りを見せている。手刀の、といっているが、よくわからないな、絵の感じだと背刀っぽいんだが・・・。掌を返したところなのかな。

当初独歩を上回る実力と考えられていた克巳だったが、なんやかんやで、けっきょく独歩のほうが強いのかなという感じにはなっていた。そういう停滞期を経た後、ピクル戦で大覚醒して、克巳はようやく超一流どころに仲間入りしたようなところがある。独歩は、この針金切りはじぶんにはできて克巳にはムリないくつかのことのひとつだという。それは逆もいえることだし、克巳的には「やったことがない」だけなんだそうだ。このあたりの親子描写はわりとほっこりポイントである。音速の技を使う克巳ができないということはないとおもうが、もしできなかったらなんかムカつくので、やらないみたいなことだろう。父親への配慮みたいなことも微量にあるかもしれない。

 

今度は昴昇の番だ。独歩は克巳が無造作に縦にもった針金を切っていたが、昴昇が挑戦するのはいかにも儚げにブロックのあいだに渡しただけの針金である。

昴昇は道着のふところに右手をしまい、凶器でも隠し持っているような構えで立つ。そして抜かれた拳は、指を鉤のように曲げた独特なものである。これを、からだを落としながら垂直に落とす。すさまじいスピード感だ。真っ二つにされた針金が転がって落ちる。昴昇は指を使ってこれを切ったようだ。針金を拾った克巳は、独歩のものより滑らかな切り口だという。これもまた、親子関係がもたらすイジワルがあるようだが、事実としてそうっぽい。独歩は、手刀は指刀より遅いと説明するが、ともあれ、克巳でも挑戦をためらう針金切りをいともあっさりやってのけたわけである。昴昇は、釈迦に説法だけどと断りつつ、実戦とはちがうからと謙遜する。

というわけで、実戦がしたい。昴昇は独歩に胸を貸してもらえないかというのである。昴昇はじぶんの拳を刃物と認識している。刃物との対峙なら、独歩にはなれたもののはずだというはなしだ。つまり、昴昇は、出血の避けられないじぶんの斬撃をつかっていく気なのである。

独歩が前蹴りを放つ。回転をしないものではもっとも威力の高い蹴りだ。これを正中線へ。ガードした昴昇が壁まですっとぶ威力である。腕にしびれは残るが、とりあえずダメージはないっぽい。

だが昴昇は武神の前蹴りをただ防いだわけではなかった。独歩の蹴り足から出血。抜け目なくヒザ裏を切っていたのである。ハムストリングに指をひっかけたとかそんなことかな。超痛そう。

 

これは勝敗をかけた試合ではなく、技術の確認のための組手だ。克巳が烈の右手でさすがに止める。なぜか「ちょちょちょ・・・」というセリフが吹きだしの外に示されたのち、「ちょっとダメだよ2人ともォ」とへんなノリで介入する。最初のちょちょちょは烈がいっているのかもしれないな・・・。

へんなノリのまま克巳がくちにした「戦争じゃあるまいし」を拾い、昴昇にひかえているジャック戦は戦争以上かもしれないぜと、独歩がいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

佐部戦では刀という無機物があいだにあることで、そしてそれが折れることで、逆に試合はどちらも無傷で完了した。しかし相手の体の皮膚を破って損壊するジャックと昴昇がたたかえば、出血は避けられないだろう。

 

最新刊でシリーズ最終巻となる『バキ道』17巻を読み返して、「刃牙らへん」という語の登場がどこにあるか確認することができた。以前書いたときは、ピクルが鴨ムシャしてるところを目撃した松永の証言をあげたが、その前に、本部とガイア、加藤とのやりとりにおいて、「エエカッコしいだ」という文脈において、「刃牙らへん」が出てきたのだった。このときのはなしは、武道の要諦は戦力向上にあるのであって、「道」が説くところの人格形成とは無関係なものだということだった。そこで、独歩や渋川は道を説かない、というはなしになる。そんななかで究極レベルに強さだけを求めたのがジャックだったと。そしてはなしはさらに展開する。そんな、道を説かない独歩らを含めた「刃牙らへん」でさえ、嚙みつきを選ぶことはない「エエカッコしい」だと。

 

ここのところの本部たちの議論は、道を説かない独歩らさえ「エエカッコしい」に含めてしまっているぶんわかりにくくなっており、そしていまだによくわからない。だが、ここで本部がいっている「エエカッコしい」は、量的な問題なのかなという気はする。様式美にこりかたまっている武道のものからすれば、道を説かない独歩らは相対的には「人目を気にしないもの」だが、そこにジャックの存在を投入したとき、彼らはみんな(相対的に)「エエカッコしい」になってしまうと。なぜなら、嚙みつきを選ばなかったから。とはいえ、彼らが嚙みつきをしないということはないだろう。特に実戦性に優れたバキや勇次郎、また独歩などは、平気でつかうものとおもわれる。それに特化しないだけだ。だがともかく、強力無比でその点においては誰にも備わっている嚙みつきを、彼らは中心におくことがなかった。「エエカッコしい」だからだと。こういうはなしである。とするならば、「刃牙らへん」の視点からするとこれはカッコわるいものだということになる。たとえば、くりかえされる表現として、これが「オンナコドモ」の技術だということがある。このご時世でも、むかしより弱まってきているとはいえ、おもに光成などのくちを通じて、バキ世界ではあきることなく「男の世界」が明言され、描かれてきた。こういう世界で、嚙みつきは弱者が最初からもっている武器である。こういうものを喜々として用いるのはちょっと恥ずかしいと、こういう価値観が、じっさいのところ刃牙らへんがどうおもっているかは不明だが、あっても不思議はないという状況なのだ。なぜ恥ずかしいかというと、「人目」を気にするからだ。「人目」とは、他人からの評価のことである。だがジャックにとってはそんなことはどうでもいい。「人目」を気にして強力な武器を控えるものは、ジャックと対比したときには強さを求める気持ちにおいてどうしても劣るということになるわけである。

 

もうひとつの考え方として、うえの選択のはなしにも通じることで、刃牙らへんとジャックではそもそも議論の対象が異なっている可能性がある。ふつう、あの格闘技の「技術」というときには、「体系」が思い浮かぶ。打撃格闘技では左足を前にガードをあげた構えが標準になり、空手ではこれを左自然体と呼ぶ。古流ほど複雑な構えを保存しており、また利き腕によってもかわるものなので、一概には言えないとしても、タイピングのホームポジションのようなものとして、この構えは考えることができる。ここから、無数にもおもえるあらゆる動作が現れる。それは戦っている相手に対応した結果としてのことだ。そしてその対応の結果動いた姿勢は、さらなる変化を感じ取り、再び無数の可能性を宿したまま動き続ける。この動作の連続性を体系化したものを「格闘技術」と呼ぶのである。だから、たとえば「空手」とは、じつは指差していうことのできない非実在的な「ありよう」にほかならない。国家が想像の共同体であるように、「格闘技術」もまた想像の技術体系なのである。嚙みつきは、この体系の網目に組み込まれうる選択肢のひとつでしかない。

こうした技術観を発散型とすれば、ジャックは収束型ということになる。発散型は、ひとつの標準から逸脱を続け、あらゆる状況に無数の可能性を想定し、あいまいに、広く視野をとって対応していくものだ。収束型たる嚙道は、逆である。まず、無数の可能性を宿した「相手」が目前にあらわれる。嚙道は、そこにありうる相手の動作をひとつずつ解消していき、ついに自身の「嚙みつき」の動作に収束させるのである。だから、これもまた一概にはいえないことだが、嚙道は原則的にカウンターに優れていくことになる。ここが嚙道の道たる唯一のゆえんかもしれない。カウンターは高等技術であって、一朝一夕にできることではない。嚙みつきじたいは誰でももっている武器ではあるが、それを戦闘のなかにねりこもうとしたら、非常に高度な格闘技術を必要とすることになるのである。

 

こうしたわけで、バキらは「エエカッコしい」である以前に発散型なので、嚙みつきを結果にもっていく嚙道的な発想は、そもそももたないのである。だが、それを誰かが「エエカッコしい」だと受け取るのは自由だ。それが「刃牙らへん」という第三者的呼びかたに含まれる他人事感の由来である。

 

 

本編の主題はジャック的な「人目を気にしない」ものと気にするものの対峙ということになるのかもしれないが、それとは別に、傍流として、発散型と収束型の対決ということがここに組み込まれる可能性がある。では鎬昂昇はどうかというと、微妙なところだが、収束型のような感じがするのだ。つまりジャックと同型である。彼自身は空手家であり、眼底くだきのような豊かな技を数多く備えている人物であるが、基本的にはやはり斬撃に試合の最終シークエンスをもっていきたいのではないかと考えられるのである。このタイプは自然カウンター型になるし、構えからも「なにをしようとしているのか」がよくわかるようになる。いまから噛みつこうとしているひと、いまから指で神経切ろうとしているひとがいて、それが外部からみて丸分かりであるときわたしたちがとるべき行動は、近寄らないことだ。不思議なことだが、収束型は、発散型が選択肢のひとつとしてしかみないものにこだわって人目を気にしなくなることで、むしろ闘争を呼び込まない武術を築いてしまうことになるのである。

 

 

こうみると、ジャック対昴昇は、開始とともに相手のでかたをみる感じになるのかなという気はする。だが、互いにもともと発散型であり、高い技術を備えているということもある。あるいは、この技術でもって、いかにして相手を収束型でいさせないかということがポイントとなるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▪️『条文の読み方(第2版)』法政執務・法令用語研究会 有斐閣






好評書の待望の新版。「基礎知識編」では,法制執務の全体像を体系的に提示するために,Q&A方式から,平易さを維持しつつ章立てによる解説方式に変更。「法令用語編」において解説する法令用語も見直し,解説のアップデートや用語の差替えでリニューアル

Amazon商品説明より



もともと法律の本を読むのは好きだったが、それは新書などに限ったことで、それも憲法学、もっといえば長谷部恭男のものばかりだった。あんまり覚えていないが、現政権に至るまでの問題で、憲法改正、また改正案が話題になって、そのときはけっこう苦手意識のあった憲法、また法律の本を読んでいこうとなったんじゃないかなとおもう。

長谷部恭男はおもしろかった。いまでも好きだが、おもしろい以外出てこなった。おそらく初学者にもわかりやすくということなのだろうが、関連する文学作品なども散りばめられているのもよかった。それにゲーム理論…。最初は新書かなんかを読んだとおもうが、やがで高めの論文集などにすすんでもおもしろさは失われなかった。内容にしても、よく知る哲学書とそう異なるものでもなかった。書店員としてもいいタイミングで会社がかわり、専門書エリアに入ることができたのもよかった。有斐閣、日本評論社、ぎょうせい、日本法令、弘文堂…。郊外店にいるだけではせいぜい客注で見る程度のものだった数々の出版社を、そこで知ることができた。当然、それを並べようとしたら、知らなくてはならない。こうして、素人なりの法学書あさりが始まったのだった。




本書は法律に出現する独特の用語、また言い回しを解説したものだ。執筆は衆議院法制局の方々で、薄手ながら非常にしっかりした内容である。専門書売りをしていた当時から本の存在はもちろん知っていて、ポケット六法の並びに『判例の読み方』と並べて置いていたものだ。しかし読んでいなかったのは、ひとつには、結局のところこの法学書愛好が趣味にすぎなかったからである。実をいうとぼくはまだ六法のたぐいも持っていない(今月発売の令和六年版ポケット六法は買うつもりです)。なんというか、必要なかったのだ。おもしろくて読んでるだけだったので。間違って読んでても問題はなかったし、そもそもそう読み間違いが起こるものでもないだろうと。しかし、まず『九条の大罪』連載開始があった。この記事を単独で読まれてるかたにはどうでもいいことだろうが、ぼくはこの弁護士漫画の感想を毎週書いているのである。たまたま趣味で法学は好きだけど、少しまじめにやったほうがいいかな…などと考えるようになったのだ。次に仕事でけっこう特殊な部門への異動があった。自治体の条例や規則が関わってくる感じのやつだ。これらは当時から問題なく読めたが、こういうわけで、趣味レベルをちょっと超えていこうかなとなっていったのである。


はしがきに触れられているが、いま法学部や会社で法務に携わっているひとなんかが法律を勉強しようとしたら、たぶんほとんどの場合、いきなり解説書にいくはずである。それはそれでいいとして、しかし、「『法律を』勉強する際の基本は、『法律で』勉強すること、すなわち『法律の条文それ自体を読むこと』(I頁)」のはずなのだ。例外的状況では法解釈、そもそも論や立法者の意図を汲む作業が必要になるが、そこに至るまでは、「法律に書いてある」以上の根拠はない。その、解釈に入る寸前までにおいて身につけるべき知識が、本書には収められているのである。


半分以上を占めるのが後半の法令用語編であり、おそろしい読み応えだ。それはたとえば、「場合」と「とき」と「時」の使い分けとか、「公布」と「施行」と「適用」のちがいとか、そういうことだ。例として示される法律そのものも訓練にうってつけである。民法に規定のある初日不算入の原則など、ずっとあいまいなまま生きてきてはじめて鮮明に理解したものも少なくない。だがポケット六法すら(まだ)手にしていないぼくでは、法令に入る前に、前半基礎知識編がたいへんうれしかった。法令どうしの上下関係とか(6頁〜)基本of基本だとおもうけど、「お盆」とか「土用の丑の日」とかの定義くらいあいまいに生きてきたので…。法律の構成とか附則とはなんぞとか、ぼくでは全ページ新情報である。あと息抜き的に入るコラムの豆知識みたいのもおもしろい。一生モノの一冊だ。






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第2話/Ultimate pure boy Jack

 

 

 

前回

 

バキ新連載『刃牙らへん』はほぼジャックが主人公っぽい。

前回剣豪・佐部京一郎の刀を噛み折ったジャックだが、その少年時代が少し描かれる。場面はカトリックの教会、語り手はサミュエル神父だ。なぜだかこの神父が、幼いころのジャックを知っているというのである。

11年前、教会の最奥、キリスト像の前で汗を流している少年に神父は出会う。キリストを「守っていた」というのだ。イエスさまに守られているものがイエスさまを守るのかと、神父は笑う。だがジャックは真剣だ。ふたりは向き合って座り、よく話し合う。守る目的はなにか、守る替わりになにを願ったかと。神のために働いたのであれば、神の愛を授かることになる。だがこれは神父の誘導尋問のようにも感じる。というのは、ピクル戦でジャックは、生まれてはじめて神様にお願いをしているからである。

なにを願ったかというと、むろん「強く」ありたいということだ。どのくらい強くか? 生き物でイチバンである。メジャーリーガーを目指したり宇宙飛行士を目指したり、子どもにとって夢は自然なものだ。しかしジャックのそれは「夢」などというあやふやなものではなかった。リアルな目標だったのである。

神父は、ごく初期のジャックがどういうトレーニングをしていたかの貴重な目撃者だ。ジャックはおそらく10歳か12歳かそのくらい。母親の過去とじぶんの出自を聞かされ、範馬勇次郎を倒すことが初めて人生の目標となったばかりのころだろう。汗が水溜りになるほどプッシュアップ、というか厳密には拳立て伏せを行い、目や鼻から血が出てくるほど長時間の逆立ち。ひとをさかさまに吊るしておくとやがてくちから内臓とかが出てくるって『善悪の屑』だったか『外道の歌』だったかでやってたけど、逆立ちも度を越すと血が出てくるのだな。


その後シャドーボクシングも行うのだが、その最後がどういうものかというと、失神をもって終了ということなのである。「ブッ倒れるまでガンバる」はただの比喩である。ふつう、運動行為で「限界」は、走っているなら、もう動けなくなって地面に丸くなってしまうことをいう。トレーニングにおけるオールアウトも同じことだ。5キロでサイドレイズを行う、もう上がらなくなったところで3キロにもちかえる、そして1キロ、最終的には空手で、もう腕があがらないというところまで同じ動作を続ける、それがエネルギーの枯渇ということであり、体力の限界ということだ。それだけでも経験や胆力、技術の必要なトレーニングになるし、「限界までガンバる」というのはくちでいうほどたやすくない。だがジャックのそれはそんなものではすまない。これらの動作の停止という現象は、不可避的にみえて、実は能動的なものである。神父はたくみに「自ら」動作を停止するという表現をしている。ジャックはそうではないのだ。

 

このはなしは光成が、おそらく間接的に聴き取ったものらしい。光成からはなしを聞いて、ジャックはサミュエル神父を懐かしむ。「懐かしい」は人間らしい時間感覚の感情だが、ジャックにもそういう感情はあったのだな。

さて、次の試合である。ジャックに興味あるのは神父だけではない。相手は武器を帯びている、それも全身に。斬撃空手の鎬昂昇なのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

鎬昂昇かあ・・・。まあいまどれくらい強いのかいちばんよくわからないひとではあるな。ことあるごとに顔は出すし、成長してるっぽいけど、ファイトはしてこなかったから。


武器の本質を、受けを無効にするというところに求めるとしたら、たしかに鎬昂昇も武器を備えていることになる。ジャックの嚙みつきも、よけたらダメージを受けることはないわけだが、腕で受けたら、たとえば首の損傷は免れたとしても、腕が使えなくなってしまう。こういう意味で、素手で牛を解体するレベルまで指を鍛えた昂昇は武器使いということになる。

 

 

かつてジャックはピクルとのたたかいにおいて神に勝利を願っていた。このときジャックは、「初めて貴方にお願いいたします」というふうにいっている。だからといってジャックがこれまでの人生でいちども神のことを考えたことがないと断定するのはあさはかだろうが、今回光成のはなしを聞いてジャックはサミュエル神父のことを覚えていたわけで、少なくとも「初めて」と述懐する際に、サミュエル神父とのことは想起されなかったというふうにはいえるだろうとおもわれる。神を信じるとはどういうことかというと、この世の天蓋というものに畏敬の念を抱えるということだろう。世の中には、人智を超え、コントロールすることのできないものが存在する。そういうおそれの感覚が宗教の初期衝動だろうし、どの国においても、古代の神話などはそうした自然現象などに対応したものとして創作されてきたのである。身近なところでは「死」がそうだろう。そうした、いま冷蔵庫をあけてコーラを取り出し、ふたを開けて飲む、というふうにはいかない、理知の外側に、在るのだが観測できないもろもろ、それをおそれ、敬うということが、宗教の原形ではないかと想像される。こうして考えたとき、遺伝子操作とかクローンの製造などが忌避される現象は、ある種の逆流だろう。どれだけ研究を重ねて、もしこれからそれを知り尽くすということがあったとしても、「人体」が、いまわたしたちが知っているしかたで成立していることをそれじたいはまちがいなく奇跡的なことだ。したがってこれは神の領域であり、おそれ敬われるべき事象だ。順序としてはそうなるが、倫理的にはこれは同時に発生しているものととらえられるのかもしれない。だから、「人体」をいじくりまわす、あまつさえ製造するなどということがあってはならない、というはなしになる。それは神の仕事だからだ。どうしてこういうことになるかというと、宗教は本来人工的なものであるところ、倫理ととけあう際には、無時間的なものになってしまうからかもしれない。そもそも、人間をつくりたもうた「神」が「人工物」のわけはないのである。だから、ふつうは「なぜ神という概念が生まれたか」という発想が、少なくとも宗教の内側でとられることはないのである。

 

それはともかくとして、ジャックはまさに、そうした、ほんらいは「神の領域」と考えられる禁足地に乗り込む男である。今日勝つために、「死」を漂白して多量のドーピングを行う。明日のことなどどうでもいい。勇次郎を倒すためには、時間さえ乗り越え、日に30時間のトレーニングを行う。こういう背景があるから、「初めて」神にお願いするという場面が生まれうる。彼が「死」のようなものをおそれ敬うなどということはありえない。もしそれが強さに必要なことだというのであれば、そこに乗り込んでむしゃむしゃ喰らう、そういう男だ。だからあの場面は、ピクルという、彼と同タイプの、しかし圧倒的に上回る実力者と対峙して、信じがたいほどの世界の広さと歴史の深さを痛感する場面として、迫力を孕むのである。

 

サミュエル神父とのやりとりは、いまのジャックのつながる人格の形成期であって、神にかんしてカウントするような出来事ではない、ともいえるかもしれない。たとえばぼくは、22歳のときに初めて小説を書いて新人賞に送ってみたわけだが、じつをいうと小説じたいは小学生のときから書いていた。神の領域というか黒の領域というか、こう書いてて顔が赤くなってくるような記憶だが、ノートを縦にしてびっしり、推理小説やSF(のようなもの)を大量生産さいていたのである。だが、それが見るもおぞましいしろものであるとか、黒歴史であるとかいうことをいったん忘れたとしても、ぼくはおそらくいつでも「22歳のときにはじめて小説を書いた」と語る。ひとに見せるつもりで体裁を整え、しっかり読める字で原稿用紙を使って書いたのはそれが初めてだったからである。そういうぶぶんは、人間の生にまちがいなくあるだろう。だがそれは現在のジャックの位置から振り返った場合のはなしだ。当時の、10歳くらいのジャックは、ほんとうのところなにを考えてあんなことをしていたのか。

 

そもそも、「守る」というのはどういうことなのだろう。神父はそのことをたずねてはいない。ただ、10歳くらいの少年が教会でトレーニングをして「守る」というのは尋常ではないわけで、そこに裏を読み取るのは自然かもしれない。その結果として、神父はなにを願ったかたずねたのだろう。重要な点は「守る」ということばの意味だろう。ふつう、「守る」という行為は、守る対象の前でトレーニングすることを指さない。義経を守る弁慶がその前で年中ヒンズースクワットをしていたなんてことはない。「守る」という行為はある種の備えのことであって、動詞的に顕現するものではないのだ。だからジャックは、あのときなにをしているのか聞かれて、「守っている」と「鍛えている」のふたつのこたえがあたまに浮んだはずなのである。

 

「守る」の対価として「強くなる」を求めていたという件が宗教上どういう意味をもつかは、ここでは問わない。ポイントは、彼が「守る」と「鍛える」を同時に行っていたということだ。ジャックが日に30時間のトレーニングを行っていたということばがどれくらい真実に近いかというのは、じつをいうとよくわからない。起きているあいだは、移動以外すべて鍛えていた、くらいのところまでいくのだろうか、それとも、失神するまでのトレーニングができたら、その日は終わり、あるいは、できるようになるまでひとやすみ、くらいの感じだったのだろうか。もし「起きているあいだはつねにトレーニング」ということなのであれば、「守る」と「鍛える」をマルチタスク的に同時に行うのは不自然なことではない。時間がもったいないから。そうでないなら、たとえば10時間鍛えた余った時間に、守って、お祈りすればよいはなしのようにもおもえる。

なにがいいたいかというと、このときのジャックにとっては、「鍛えているところをイエスさまに見せる」ことが重要だったのだ、ということだ。なぜか? 報われないからである。こんな小さいころから、ジャックは常識を超えるトレーニングをしていた。しかし、いっこうに強くならない。でかくもならない。世界は努力に応えてくれない。こういう挫折感が、この行為に及ばせたのである。のちにこの願いには際限のないドーピングが応えることとなる。つまり、この時代のジャックにとって、神とは、のちにドーピングがその位置を占めることになるもののことだったのだ。

 

そう考えてみれば、ジャックがピクル戦で「初めて」神を意識し、祈ったことも理解できる。あのときジャックが祈ったのは、いってみれば「本当の神」である。あの瞬間、ジャックはピクルに勝てないということをどこかで理解していた。これで世界を制覇したと確信する冒険家が、そこが小さなひとつの島だったと知ったときの感覚が近いかもしれない。しかもその理解は闘争のスピード感あふれるわずかな瞬間にやってきた。そのときジャックの前にそびえたつ絶壁の圧倒的高さ、広がる海の圧倒的広さを想像しよう。祈りたくもなるというものであり、その感覚はまさに宗教の初期衝動に等しいものなのだ。ところが、幼いジャックがみる神は働きに応じて対価を支払うものである。それが「愛」のような崇高なものならまだはなしはわかる。だがジャックにあったのは、いくら鍛えても強くならない無力感だけだ。度を越すドーピングが悪魔の所業なら、ジャックはその全能感という一点のみにおいて、神を悪魔のようなものと考えていたわけなのだ。


そしてジャックは、そのまま大きくなった。教会通いをいつまで続けたのかはわからないが、報われないという感覚はずっとあったことだろう。しかしやめない。なぜなら、常識的なやりかたでは範馬勇次郎は倒せないからである。彼はずっと、この働きに応え、対価を払う悪魔を探していたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第85審/至高の検事

      

 

 

 

九条弁護のため、一時的に居候していた流木のもとを離れ(同じ事務所にいると、九条を告発した壬生の弁護を流木がしているから、利益相反になる)、独り立ちした烏丸。九条の事務所でそのまま仕事をするっぽい。

 

電車のなかで舌打ちされて相手を暴行した船井という男が事務所にきている。「推しが尊い」と書かれたトレーナーみたいのを着ている。推しの服を着るのはわかるが、「推しが尊い」を背負って生きるというのは、なんかすごいな。「世界平和」みたいなことかな。

すでに傷害で逮捕されたあとだが、船井が怒っているのは、暴行状況を撮影した動画が出回ってしまったことだ。なんでもいいから配信したものを特定して罰してほしい。九条のかわりを務めんとする烏丸はもう以前のようにうぶではない。淡々と首肯し、手順を説明する。

次は隣人のタバコに悩む女の人だ。ベランダで吸うから洗濯物ににおいがつく。苦情としてはふつうにみえるが、「ぶっ殺すかなんかで法的に訴える方法」を探しているらしく、やはりどこかおかしい。ポイントになるのは受任限度、どこまで我慢できるかということだという。なんというか、弁護士も、ふつうに接客業・サービス業だよな・・・。これじゃレジで「注文品はキャンセル不可」を説明してる書店員と変わらないよ。

 

烏丸は公私で仲良しの薬師前と連携しており、薬師前は船井の就職先を見つけてきたところだ。排水の穴にタバコの吸殻を束で見つけた薬師前はそれをビニールに集めている。それをコンビニのゴミ箱に捨てたので、店へのお礼ということで、烏丸のタバコを買ってきた。薬師前を待たせ、烏丸は喫煙所でタダのタバコを吸う。烏丸は「美味しい」といっている。

船井は繊細なぶぶんもあると薬師前は語る。親の言いなりに生きてきて、本来は内気な性格なのに、親が亡くなってから溜まっていた不満を世間にぶつけて乱暴になっているということだ。ともあれ、弱い人間なのだ。

 

 

 

「誰かが汚したら、誰もが汚しても構わないって扱われる。

 

そういうの嫌なんです」

 

 

 

至言だな・・・。

 

烏丸が流木と会っている。烏丸が甘い飲み物を飲んでいるのを見て、流木が脳の疲れをみてとったようだ。目つきを険しくなったという。

烏丸がはなすのは、船井のことではないのかもしれないが、彼が語る親子関係のことだ。親子関係の悪化がいまの軽犯罪を招いていると、その依頼人はいうが、そしておそらく一般的にもそういわれているが、自分は幼い頃父をなくし、母親の苦労を見てきたので、よくわからないと。ひどい親子関係などいくらもある。そのすべてが犯罪者になるわけではないはずだ。流木は、世の中義務感も責任感もない子供みたいな大人だらけだとする。烏丸は大人だからわからないのだ。それに、親子関係というものは千差万別、ひとくくりには語れない。九条も父親とはこじれていたという。烏丸は初耳っぽい。父親の鞍馬と流木は同期で、飲み会ではよく九条のはなしが出ていた。やればできるのに勉強を怠るから厳しくしつけた、しかしそのせいで心が曲がってしまったのかなと嘆いていたという。

 

 

そして九条との接見だ。やつれて元気がない。嵐山に一日中否定され、自信もそがれている、気持ちを切り替えるきっかけもなく、夕方に流れるラジオ以外情報源がない。気を抜くと弱気になると。カンモクパイがどれだけ困難か身にしみて感じているわけである。九条じしんが指示したカンモクを依頼人たちに実行させたのは、九条のまめな接見だった。今度は烏丸が九条の話し相手になると、烏丸は選任届を出す。九条はサイン、これで正式に烏丸が九条の弁護人だ。一言目、20日カンモクパイの指示を出す烏丸に、九条は微笑するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

九条は依頼人の痛みを、烏丸は九条の心労を追っているところなわけである。

前回考えたように、烏丸は九条の椅子に座ることで、まだ真に理解はできていない九条の星の王子さまスタイルを、現場で学んでいる。蔵人、そして若い烏丸の法的世界認識は、言葉によるデジタルな分節によって成り立っている。だから、悪や善がはっきりしていて、善でないものは悪であるということをはっきりいうことができる。ある種の信念のゆるぎなさのようなものはこうした固陋な世界認識で成り立っているぶぶんもあるし、そもそも人間は言葉で思考をするものであるから、こうしたありようをあたまから否定することはできない。九条にしてからが、言葉を用いて法的思考をする。ちがいは、そうしたデジタルな分節について自覚的であるかどうかということだけだ。蔵人などはわかったうえで揺るがぬ法治国家を成立させるべく例外をゆるさない思考法を採っていそうだが、九条では、ある事物とある語を短絡させることによって生じる見落としが、人間の弱さであるという見立てがある。ある地域に、ふたつの方言が確認されたとする。東と西で微妙に語彙や活用に違いがあるのだ。言葉による分節は、この地域に二つの方言が存在するということを確認する。ところが、じっさいにはそのことによって、市の中央部にわずかに確認できた(そもそもこの「確認」が言語的営為である)東と西がブレンドされたような言語作法は、見落とされることになる。たんにそれを発見した学者の論文でそうなっているというだけならいいが、現実には、たとえば方言の保護活動などで、この地域ではふたつの方言が保護の対象となることになる。方言を保護するというきわめて進歩的な行動が、それ以外の方言を廃棄する動きに意図せずつながることになるのである。九条は、「そういうこともありうる」ということを念頭に、あいまいに行動するものなのだ。

蔵人は自覚的にやっているとして、烏丸は言葉の分節を究極の知的営みとして生きてきた人間であるから、これがうまく理解できない。いわゆる秀才型のひとほど、ここにはなにかあると感じつつも、馴染むことができないだろう。だが、おそらく個人的なつきあいを通じ、わからないがとにかくそこにはなにかあるという確信だけが、烏丸にはやってきたのだ。その感覚そのものが、実は非分節的なものなので、同じように法を眺めていけばよいのだが、ともあれ、わからないがどうしてもわかりたいものとして、九条は烏丸の前に立ちふさがることになる。

そこで烏丸が採用する行動が、対象の行動を追ってみるというものだ。何度もくりかえしているが、これは自殺した親友・有馬について、烏丸が実践していたことだ。自殺の理由など、真に理解することはできないだろう。しかしそれは、理解できないから放置してよいということを意味しない。烏丸は一周忌に有馬の死んだ部屋に滞在し、たしなむものの気持ちが理解できないとしていたタバコを吸う。この行動は、その直前で彼が見せていた、プロファイリング的な、家具を通じた推理能力の延長にある。死んだ主人の残した家具は、主人の痕跡を残した状態でじっと解釈を待っている。主人が家でとっていたさまざまなふるまいの縁取りをするように、家具は役目を果たすべく待機しているのだ。だから、ある種の霊感を通じて、見るものが見るとき、家具からは主人の姿が浮かび上がることになる。エドガー・アラン・ポーがモノのあふれかえった時代に現れ、怪奇小説と推理小説を同時にものしたのはこうした理由からである。この意味で霊感と推理能力は等しく、ともにそこに死者の在りし日を見出すものなのだ。

 

 

烏丸にはこうした能力がある。だが、縁取りはけっきょく縁取り、その内側に描かれるものの細かな柄まではわからない。そこで、その家具の内側にじっさいに身をおいてみるという行動に出るのである。その象徴がタバコだというわけだ。気持ちはわからないが、吸ってみれば、喫煙者のおもうところがわかるかもしれない。今回彼はこれを「美味しい」としていたので、かなりのところまで憑依は達成されているものとおもわれる。だが、やはり依頼人のことはよくわからない。家族に問題があるとしても、犯罪者にならないものは大勢いると。ここで流木は、それはひとことで語れるものではないとしつつ、九条もそうだったということをいう。つまり、ひとこと「家族に問題がある」という点でいえば、烏丸も九条も同じだったわけだ。ところが、それをどう受け取るかで、分節思考にむかうか、非分節思考にむかうか分岐しているということなのだ。

 

ちがいは兄の存在だろう。幼い九条が怠けていたのは、おそらく、蔵人が怠けていなかったからである。彼はいつも兄と比べられていた。そんな彼には、そもそもじぶんと兄は別の人間ではないか、という当たり前の感情がわいてきたことだろう。別の人間なのだから、別の行動をとり、別の人生を歩む、そんな衝動が訪れたとしても不思議ではない。だがその行動は、九条を解放しはしなかった。言語によって分節された別人だからこそ、比較、評価されるのだ。問題は別人であるかどうかではなく、評価という行為のほうだったのである。怠けることによって別人であるということを示そうとしても、それは、外部からの評価を手助けするいち要素になるにすぎないものだったのだ。おそらくこれが、九条の原体験である。事物のデジタルな分節は、好むと好まざるとにかかわらず、人間である以上不可避である。ただしそこに「評価」を持ち込むかどうかというのは、任意ではないのかと。

 

そのひとが抱える人生のかたちはそのひとのもので、抱える地獄もひとそれぞれである。九条も、呆れ顔で依頼人のはなしを聞くことはある。だが、九条が呆れることと、その件をどうあつかうかということは、別の問題だ。なぜなら、そのひとの生が呆れるべきものかどうかという「評価」は、すべきではないからだ。

 

優秀で「大人」な烏丸は、そうした評価を体験してきたものではなかったろう。ここでいう「大人」は、星の王子さまにおける大人、言語による、ロゴスによる分節を受け入れ、見えるものだけを存在とするものたちのことでもあるだろう。今回薬師前は、みんながやっているからとくりかえされる小さな悪意について語っていた。これは、前例があり、それでいて罰が与えられていないようだと判断されたものごとのことである。ここには大勢のひとがタバコを捨てている、ということは、誰も注意されたりしていないということである、という具合に推理されて行われる小さな悪事だ。こういう行為を分節思考はどう評価するのか? 薬師前は「悪」というようなはっきりした言葉は使っていないが、ここで彼女に訪れている衝動は、善や悪といった言語的分節作用に基づくものではなく、ルソーのいう、法以前の憐れみの情に由来するものだろう。なにが悪であるか、というような大きな問いかけ以前に、だれにもある、誰かをかわいそうとおもったり、これはちょっと・・・とおもったりするような、原始的良心である。これはロゴス以前の世界に存在するものだ。くりかえすように九条もまた言語に身をゆだねる法的人間である。けれども、その見落としには自覚的であろうとしている。タバコのポイ捨てを厭う気持ちじたいは、法的思考に由来するものであるかもしれない。しかし、いいわるい以前に、あの吸殻の山からは、「吸殻がたくさんあるから捨てていい」という思考停止の痕跡が見て取れる。思考停止しているにもかかわらず、そこに憐れみの情はない。法以前、言語以前に備わっているはずのものが、ここからは抜け落ちている。なぜ抜け落ちているかというと、みんながやっており、罰せられていないからである。この推理じたいは分節型の法的思考なのだ。つまり、驚くべきことに、ここでは、法的思考が思考停止を導いているのである。これもまた予期せぬ見落としだろう。言葉は全能ではない、ただそれを信じきるだけのことがどれだけ難しいかということなのだ。烏丸はそれを、やっかいな依頼人を通してこれから学んでいくのだ。

 

 

↓九条の大罪 9巻 9月28日発売予定

 

 

 

 

 

 

 

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