すっぴんマスター -26ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第89審/至高の検事25

 

 

 

嵐山と取引をして九条を売ることになった壬生。壬生は京極の武器を提出することで自首し、みずからの身を守るとともに、10年間京極を封印することに成功したわけである。と同時に、犬飼への逃亡示唆ということで九条についても告発、壬生はその取引の結果無事外に出れたわけである。

 

烏丸のサポートもあり、伝家の宝刀20日カンモクパイで解放されたっぽい九条が壬生と会う。ダーチャみたいな謎の家である。いや、以前こんな描写があったような気も?

壬生はご機嫌でプロテイン入りコーヒーを出そうとして、九条は、それは市民権を得ている当たり前のものなのかとかいったりして、気軽な雰囲気である。しかしもちろん、そんなことはない。なぜじぶんを売ったのかと、九条は率直に訊ねるのだった。

ひとことでいえば、九条を守るためである。京極は九条を非常に信頼していた。「捨て駒」というのがなんなのかよくわからないが、ともかく、京極に利用される前に解放したのだと。さらに、表向き壬生は九条を裏切っているわけで、そんなふたりが共謀して京極を陥れたとは誰もおもわない、ということもあったようだ。なるほど、壬生としてはこれが最適解だった、というわけである。

といっても、京極は死んだわけではない。10年したら出てくる。そうなったら、壬生は確実に殺される。

壬生は、九条との共謀を秘密にするためには、あくまで「九条を裏切った」という物語を生きなければならない。京極やその仲間だけではない、じぶんの部下たちからも、平気でひとを裏切るやつだとおもわれていることだろう。そんな全方位に敵がいる状況で大丈夫なのかと九条はいう。これは、以上の経緯を踏まえて言い換えれば、じぶんと共謀する仲のままでよいのか?ということになる。九条と壬生は誰にもばらすことのできない秘密を抱えることになった。それを他人に打ち明けることじたいは別に難しくない。しかし打ち明ければ九条も殺される。それよりも、全方位に敵をつくって九条と親密でいるほうを、彼は選んだというはなしなのである。

しかし、壬生にはなんらかの根拠に基づいた自信があるようだ。負ける戦いはしない、勝つ戦いだけをすると。

 

山城と面談中の京極が組員のことで相談をもちかける。嫁の銀行口座で給食代を払っていたが、ついにそれまで止められてしまい、給食代が払えなくなって子どもがクラスでいじめられていると。銀行を訴えられないかというはなしだ。いいけど、それどころじゃないのでは?みたいなことを山城はいう。伏見組から絶縁状が出ているというのである。京極はぜんぜん知らなかったみたい。絶縁されちゃったら、お金も動かせないから、こんなふうに弁護士をあごで使うこともできなくなるだろう。給食費の件は組員が面会にきたときに話したんだろうけど、そのとき彼は絶縁状のことを知っていたのだろうか・・・。あと、あれだな、もしかしたら壬生はこの件も見越していたのかもしれないな。

 

雁金は満足しているらしい。京極逮捕から登場し始めた人物だが、たしかに、振り返ってみると、ふたりが会話してる場面とかは描かれなかった。雁金は露骨に反感を出すタイプではないだろうが、用がなければ会わないという関係性だったのかもしれない。暴力丸出しの京極タイプの時代は終わったと。京極は組長に気に入られていたが、武器庫に武器を大量に抱えていた件と、猛についての個人的な復讐心で組員を私物化した件で組長を説得、筋の通った絶縁が成功したと。その彼の横には井森レベル100みたいなメガネひげの宇治という男が座っている。立場的には雁金よりしたみたいだが、これからは金と頭脳と暴力が三拍子そろっているお前の時代だと、雁金はそうとう気に入っているみたい。だが、いつものような名前の表示は出ていないな。

 

気に入っているのは、金をしっかり納めるからだ。DEXとは仮想通貨分散型取引所のことらしく、今月も20億組に入れたと。ふつうにやっている会社もあるみたいだが、それとは別に、ハッキングによる盗難と、もぐりこませたDEX業者に顧客資金を引き出させて傾きかけた会社を買収するということを加えてやっているという。雁金にもぼくにもちんぷんかんぷんだが、まあ金が入るならなんでもいいよ。

その宇治が、雁金に頼みがあると。壬生の手下を預けてくれないかというはなしで、ここで宇治が本編にからむことになるわけである。壬生の手下って、たぶん久我らのことだろうけど、そういう、元半グレみたいな荒っぽい人間が必要なんだそうだ。だが雁金は、その前に裏切りものの壬生を探すよういうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

九条と壬生が海辺で散歩している。九条しかこの場所は知らない、尾行されていなければ大丈夫だというはなしで、壬生の九条への固着はそうとうのものだ。

九条は、裏切られて20日勾留されたことにちがいはないのだし、まだすっきりしているようではないが、とりあえずふたりの関係性が戻ったようでよかった。

 

京極は組から絶縁されてしまった。いま現在、たとえば山城を雇うに際して、どのようにお金が動いているのかよくわからないが、もし組のお金を使っているのだとしたら、山城を雇い続けることも不可能になってしまうだろう。いや、弁護代ってどういうふうに決まるのかも知らないので、じっさいのところぼくにはなにもわからないが・・・。ともあれ、山城は金があるからこそ京極の弁護もするというタイプの人間であるのだから、彼が離れてしまう可能性も出てきたとみるべきだろう。ヤクザ組織という背景なしで、強者だったヤクザがどのようにふるまうことになるのかというのは、考えてみるとウシジマくんでも描かれなかったことだ。この後京極がどうなっていくのか、かなり興味深い。しかも京極は、彼個人の思いいれもあって、上下関係を重んじるタイプの古いヤクザである。それが京極のいう「道理」だった。これが壬生にはないと。雁金は結果として京極を切る方向に動いたが、このときも「筋」は意識していたようである。この件で、道理を重んじつつも雁金に反論するということが、京極にはできなくなっているのである。ソクラテスが死刑を受け容れたように、「道理」のヤクザを自認する以上は絶縁を受け止めなければならないのだ。もしそれができなければ、彼のいう「道理」とは、それが成立することで事後的にまるでそれがアプリオリのものであるかのように語られる、建前上のものでしかないことになる。じぶんが壬生のような半グレとなにがちがうのかということが、絶縁によって試されるかたちとなるわけなのだ。

雁金はそれでも壬生を探してはいる。伏見組のものが裏切られたということにちがいはないから、ということもあるだろうし、「筋」を通すということもあるだろう。京極についてはもう切ってしまっているのだからどうでもいいといえばどうでもいいのだが、大きくみれば伏見組が裏切られたということにちがいはないのだし、ここできちんと筋を通して裏切りものを探し続けるというふるまいをとり続けることは、10年後に京極が出所するときまでひきずることになる禍根を緩和するだろう。

だから、壬生はこの「絶縁」を予測できた可能性はあるのだが、それが彼の考える勝算に直接つながるともおもえない。つまり、この件で彼は10年後確実に京極にねらわれるし、そうでなくてもいま伏見組が彼を探している。なんとなく、雁金は、壬生を殺すよりは久我路線で引き入れるんじゃないかという気はするけど、ともかく探しているのだ。あるいは、雁金の「壬生探し」があくまでポーズであり、やがて弱まっていくだろうということも予測しているのかもしれない。そうなれば、あとは絶縁されてちからを失った京極が残るだけだ。それなら勝てると。

 

壬生の九条への執着はそうとうなものだ。これが恋人関係の固着だったらちょっとゾッとするレベルかもしれない。利害関係で読み取り可能な関係だから、まだ納得できるというものだ。弁慶の辞世の句「六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習ひありとも」の引用は、そのままに、地獄の果てまで運命をともにするという意味だったわけである。

ごく単純化していえば、まず壬生は、武器を提出することで、京極を陥れ、かつじぶんの身を守るということを同時に達成した。しかし九条がシャバには残ることになる。これは二重の意味で見逃せない。まず、凄腕の九条が京極につくであろうということ、そして、京極を落としいれた計画に九条が関与している疑いが生じうる、つまり九条の身に危険が及ぶかもしれないということ、この2点である。だから、壬生は九条を売った。バッジをとばす危険や、そうでなくても逮捕されたという醜聞を勘定にいれてもそのほうがじぶんにとっても九条にとってもよいと壬生は計算したのである。その結果として、表向き「九条を売った壬生」というイメージが完成した。そのイメージが定着するのであれば、壬生と九条が組んでいるというふうに考えるものは出てこないだろう。だが、壬生は多くを失う。菅原がどこまで知っているかにもよるだろうが、その他大勢の半グレからは見放されてしまうだろう。それでも九条を守る、それだけ九条が必要だと、こういうことなのだ。

 

壬生の目的はなにかというと、それはひとつではないだろう。もっと金をかせぎたいだろうし、悪の道をつきすすんでいきたい。だがもっとも直情的な彼の動機は、おもちのかたきうちだ。彼は、京極から逆らえない命令を下されて、みずからの手で愛犬おもちを殺した。そのうらみが、彼のもっとも大きな原動力だったのである。このうらみは、今回の件で果たされたのだろうか。おそらく、こんな程度では足りないはずだ。とすると、おそらく彼は、10年後に無力化した京極が出所してからのことまで考えてこの計画を立てたはずなのである。無力化した京極を壬生が殺すことはかんたんかもしれない。それならある意味すでに目的は達成されたともいえる。だが同時に、この「10年」という保留期間に、なにかべつのものも感じないでもない。というのは、じっさいのところ京極への復讐心というのは、半グレでい続けるためにはとても大きなものだったにちがいないのである。つまり、それは原動力としては失うのが惜しいほどの火力を孕んでいたのだ。じっさい、なんなら殺すか?みたいなはなしさえしていたのに、壬生はそうしなかった。絶縁を見越して、カンモクパイで出てくるような状況にももっていかなかった。これは、彼自身がそう意図してやったというようなはなしではない。おそらく無意識に、壬生は京極への復讐が完了することを回避したのである。誰かを殺そうと決めて行動しても、じっさいに殺さないのであれば、それは犯罪ではない。いつかぶっ殺してやるとくちにしながら、その熱量だけを糧にして、けっきょくは殺すつもりがない、そういう状況が、彼ら不良にとってはベストなのだ。その、犯罪的精神を宿しつつぎりぎりのところでそれを実行しない緩衝材みたいなものが、おそらく壬生にとっての九条なのだ。たんに、じっさいに犯罪を発生させてしまったときのライフラインが九条であるだけではない。そうならずにいるための精神的よすがのようなものとしても、九条は機能するのである。

 

たほうで九条は、前回考えたように、離婚や学生時代の苦痛などを抑圧するために弁護士業を必要とする人間である。厭うべき記憶を抑圧する方法は、直視しないことである。そしてこれが、彼のいう「黙秘」のコツそのものだったのだ。彼は、トラウマ的記憶に関しては黙秘する。そこにいかなる価値判断もくださないよう、自我を再構築する。そのとき彼がすがりつくのが、「神の呼び声」にしたがって歩む弁護士の道なのである。これは、嵐山の人格攻撃によって揺らいでしまっていた。嵐山はたくみに彼が黙秘を決め込んでいた記憶を揺さぶり、呼び起こす。そうして、離婚と勉強は連関するものとしてよみがえり、ペンをがりがりかんでしまったのだ。九条にとっての弁護士としての自負心は、そのまま「黙秘」の強度につながり、嵐山が揺さぶりをかけた「人格」のアウトラインを決めていくだろう。弁護士として必要とされる、そういう状況の唯一無二性が高ければ高いほど、彼の黙秘の強度も高まるというからくりである。かくして、九条と壬生は、共依存的に互いをどうしても必要なものとして規定するのである。

 

こういう唯一無二性を抱えた関係性というものは、それじたいの価値は高いとしても、危ういものだ。それが失われたとき、バランスが大きく崩れて立ち上がることができなくなってしまうからだ。リスクヘッジ的に問題があるのである。それを、特に壬生がわからないはずはない。もちろん、彼には九条が裏切らないという確信があるのだろう。九条の人格を見抜いたうえでのことでもあるだろうし、京極という共通の敵をなかば強制的に抱えさせることで、じぶんについていたほうが得だという状況を作り出しているということもある。だがそれ以上に、退路を立つというような意味もここにはあるだろう。九条にはむりやりつきあわせるかたちにはなるが、それ以外にやりようがないという状況にみずからを追い込むことで、通常であればあらわれようもないパフォーマンスを生み出そうとするのである。

 

 

 

↓九条の大罪 10巻 12月27日発売予定

 

 

 

 

 

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26日、ディズニーランドに行ってきたぞ!今年2回目!

 

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ぼくがハロウィン生まれで相方がハロウィン好きなので、この季節のディズニーには、はるかむかし十数年前から行ってみようということを話してきたのだが、いつの間にか39歳になってしまった。39歳は関係ないけど、まあ、40歳になる前に来れてよかった。孔子にいわせれば、40になったら惑わなくなってしまうからな。まだまだジュディとかジェラトーニみて具合悪くなりたい。

 

 

前回ランドにいったのが7月で、13年ぶりとかだった。まだそこまで暑くなってはいなくて、混雑もそれほどではなく(帰りのショップは戦場だったが)、快適だった記憶しかない。その後8月に行ったシーが、致死的な暑さとお盆休み的な混雑でやられてしまい、シーのあの広さもあって、登山レベルで消耗してしまったことをおもうと、7月のランドはいいタイミングだった。今回は暑さも失せ、混雑もおそらくハロウィン直前のものをおもえば常識の範囲内ということで、さらに快適なものとなった。あと、慣れたらまたはなしはちがうんだろうけど、シーは初心者のままではすごく迷う感じがする。いま歩数をみたら、今回ディズニーが19575、シーが23075、前回ランドが20421だった。でも、そんな程度のちがいなんだな。前のシーは5万歩くらい歩いた感じがした。

なんで13年も行っていなかったかって、仕事で同じ休みがとれなかったからだが、かといって、とれていたとしていっていたかというと、あやしいぶぶんはある。ぼくらにとってもっとも決定的なのは、パークの混雑やなんかではなく、行き帰りの電車である。その混雑と、乗り換えである。だが、今年は新宿・東京を経由しない行きかたを知り、それがとても楽だということを発見して、より積極的になっているのであった。乗り換え回数が増えてはいるので、たぶんこれまでは最初から候補にしていなかったのだろう、覚えていないけど。ディズニーに行く=東京駅経由と思い込んでいたのである。

 

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前回からの課題としては、もう少し効率的に動けたらということで、今回はアプリ以外に講談社のガイドブックみたいなやつを買って、いろいろ調べてから出かけた。見切り発車の即興人生なので、いつもとても時間をむだにするのである。まあ、それはそれで楽しいし、そのスタイルそのものを変えるつもりはないのだけど、もう少しこう、目的地みたいなものがあってもいいのではないかと。それで、ガイドブックについた地図をとりはずし、行けなくてもかまわないくらいの強度で行きたいところに印をつけ、あと前回パークの西側、ウエスタンランドのほうにまったく行かなかったので、そこのほうに行こうとか、チュロスがどこに売ってるのか調べてもわからずあきらめたのを見つけようとか、そんな程度のことだけ決めたのだった。あと、これまでのパーク体験で、ぼくはじつは「××マウンテン」系のやつにいちども乗ったことがなかったので、それもなんとかしようと。正直にいうとそこまであの手の乗り物には興味ないんだけど(極論をいえばただパークのなかを歩くだけでぼくの目的は達成される)、とりあえず森鷗外をまったく読んだことがないというのは文学青年としてまずいから舞姫だけ読んでおこうとか、そういう感覚で、乗っておいたほうがいいかもしれんと考えたのである。ぼくはディズニーの物語の世界が好きで、そこに入り込めるパークが好きなのであるから、美女と野獣のあの「魔法のものがたり」とか、あとハニーハントとか乗れたらそれでいいんですよね。なので、ビッグサンダーマウンテンかスペースマウンテンに乗りたいと考えていったのだけど、結論からいうと、どちらも乗らなかった。細々決めていった「いけたらいく」ところに寄っていたら時間なくなっちゃった。まあ、スプラッシュマウンテンは、背景の物語に問題があって、いつかなくなるかもしれないけど、ぬれるのやだからいいかな・・・っていう感じだし、あとのふたつはなくなるものでもないから、いつか乗れたらいいかな・・・というところだ。

 

 

今年はディズニーリゾート40周年ということで、ハーモニー・イン・カラーというカラフルなパレードが日中行われている。前回も超見にくい場所から見たのだが、あれから基礎力を高めて、よく知らないキャラや物語についての理解を深めてきた。パレード参加のものでいうと、これまで見たことのなかったポカホンタス、リメンバー・ミー、それにズートピアをしっかり鑑賞したのだ。これが13時ということであったから、12時くらいに舞浜につくように行動した。しかし、今回も座る位置を失敗した。きちんと案内される場所に座れば見えるようになっているんだろうけど、ぼくらは、なんというか、ぐいぐい前面に出れなくて、きっと同類のかたもおられるとおもうが、できたらこう、いちばんうしろのほうからこっそり見たいタイプなのだ。しかしそれでは見たいものも見えないのである・・・。この点については、夜のエレクトリカルパレードにおいて、じっさいにはたまたまなのだが(歩いていたら急にキャストのひとに案内・誘導された)、指定の場所に座ってパレードがくるのを待つということを人生ではじめて行い、想像をはるかにこえた距離感と解像度でミッキーたちを目撃、呼吸できなくなるという経験をして克服できたようにおもう。これからはうじうじしてないで案内にしたがい、詰めて座っていこうとおもう。みんなレジャーシートもってきてたけど、そんな用意はないので、あきらめてじかに座った。かといって次回からレジャーシートというのもかさばるので、なにかこう、つかったら捨てられるでかい紙みたいのをもっていけばいいんではないかなと考えている。

 

 

それから、ハロウィンということなので、当然のことながら仮装しているひとがたくさん見えた。見えたが、まだ26日だったということもあるかもしれないけど、おもったほどたくさんいるわけではないというか、コスプレにも程度というものがあり、全身作りこんでいるひともいれば、ただ小物をつけているだけのひともいるわけで、想像したほど超私服の場違い感はなかった。渋谷ハロウィンの非知性的なイメージもあって、コスプレというよりコスプレをするひとたちへの抵抗感というものは当初否定できなかったのだけど、そういう感情もまったくわかなかった。というか、あれとはモノがぜんぜんちがうのだろう。ただただ、来園者の幸福感と愛が伝わってくるだけで、これも新鮮な体験だった。包み隠さずにいうと、そういうコスプレについては、若干冷笑系であることは否定できなかったわけですよ。ところが、現場ではそういう感覚はいっさい生じなかったのだ。ズートピアのニックとジュディのカップルが多かったようにもおもうが、それはたんにじぶんがズートピアを見たばかりだからそう感じるだけかもしれない。みんなかわいかった。また、プリンセスの仮装とか、あそこまで完璧にがっつりやるのか・・・という衝撃もあった。園内のホンモノのプリンセスのひとたちは、グリーティング気合入るだろうな、などとくだらないことをおもった。

 

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ジュディラブ

 

 

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ガジェットラブ

 

 

記録の意味もあるから正確に書きたいのだけど、もう忘れちゃったな。スペースマウンテンのところには喫煙所があるので、わりとそのあたりを拠点にしがちである。トイレもすぐ近くで座るとこもいっぱいあるのだ。前回もそこを中心に動いたけど、今回も同じだったな。で、最初はガジェットのコースターに乗ったのだったかな。トゥーンタウンにあるやつ。ガジェットは大好きなのだけど、ちょっと子ども向けかなとおもっていた。調べたら大人もヨシということなので、乗ってみた。並んでいるところからガジェットの手作り感が出ていてたまらなかった。ただ、やっぱりコースターの椅子は小さかったかな・・・。ディップスマシンでトレーニングするシェイマスみたいにみっちりになってしまった。

 

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美女と野獣のやつは、前回入ったし、また行きたい気持ちもあったが、今回は西側を開拓することがメインと決めていたから、さびしかったがスルーした。ハニーハントももう人生で10回くらいは乗っているからスルー。ルフウのチュロスだけ食べて、西側に行った。といっても、ここでハロウィンのパレード的なやつがはじまってしまったのだったかな、しかもなんか寒くなってきて、カントリーベア・シアターに入ったり、その足でウエスタンウェアに入ってふつうにカーディガン買って、エレクトリカルパレードまでの時間を考えてまた小さな世界に入って・・・などと、けっきょく無計画に入りたいところに入るうち時間は過ぎていったのだった。ただ、このあいだは閉演後にショップを駆けずり回って野獣の抱き枕を買って、その日の消耗の3割くらいがそれだったことから、買い物は早いうちに済ませており、閉演までいることもないのかな・・・とか考えて、パレードのあとスターウォーズ乗ってそれで帰ろう、とか話していたのだけど(スターウォーズはなぜか締めのラーメンのように最後に乗る習慣になっている)、また例の帰りたくない病が出てきて、まだ20分くらいはあったので、日中は混んでいて並ぶ気にもなれないモンスターズインクの「ライド&ゴーシーク」に入ることにした。なにしてもなに見てもかわいくて幸せで、なんで帰らなきゃならないのか?帰るって、どこへ?みたいな気持ちにもなるのだった。

 

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西側を開拓・・・といっても、けっきょくはほぼなにもしていなくておもしろいが、まあそこでピザ食べたり船眺めたりはしたので、とりあえずはそれでいいのかもしれない。ただ、スペースマウンテンなどがあるトゥモローランドと比べると、あのあたりは夜になるとけっこう暗くて、ぜんぜん建物の位置がわからなくなってしまうな。次は最初に西側いって、ビッグサンダーマウンテンにまず乗ってしまって、という流れがよいかも。ハーモニー・イン・カラーがやってるうちにもういっかいは行きたいな。

 

 

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現在までのぼくの筋トレ観は、基本的に書店員になって出会ったマッスル&フィットネスという雑誌によってかたちづくられたものなので、おおよそのところはボディビル的なものの近くにある。もともと少年時代に極真空手をやっていて、これは直接打撃制の、パワーが重視される流派であるから、筋トレ、というか筋肉についての親しみの感覚じたいはだいぶ前からあった。腕立て伏せとかスクワットとか、そういうレベルの「筋トレ」じたいもずっと行ってきたし、じっさい小学生のころから同年代と比較してもちからは強かった。だがいまと比べれば当時のトレーニングは、メニューにしても取り組みかたにしてもずいぶん拙く、理論もなにもないがむしゃらなものだったとおもう。筋肉が破壊され、回復するときに大きくなるという超回復理論についても、からだでは理解していたし、そのように教わったような記憶もあるが、理論として意識されていたということはなかった。これが意識されていない状態では、メニューを立てることもできないわけである。

 

 

 

 

 

 

筋肉については一家言ある、そういうほのかな自負心とともにのぞきみたボディビルやそれに類する世界は、絶望的に広大に見えたものだ。と同時に、それはやはり親しい世界でもあった。超回復理論にしても、読んで覚えるというような必要はまったくなかったわけである。ああ、あれってそういうことなのかと、納得すれば済むことだった。もちろん、ぼくはジム通いなどできるタイプではない。まず「××通い」みたいな継続性を伴い、かつそこに他人の干渉がある状況が苦手だし、なにごともひとり暗い部屋のすみでごそごそやりたいタイプの人間なのである。手持ちの小さなダンベルと自重だけが使用可能器具であり、いまでもそれでじゅうぶんだと考えているが、ではボディビル的なもの、ジム的なもののなにがいまのぼくに影響を与えているのかというと、思考法ということになる。もっと厳密にいえば、筋肉をアイソレートして認識する視点だ。要するに、極端にいえば、これまではたんに「腕力」のひとことで理解していた上腕の働きについて、引く動作で使用する上腕二頭筋(ちからこぶ)と、押す動作で使用する上腕三頭筋があり、それぞれ別々に鍛えることで、細かく効率的なトレーニングメニューの構成が可能になるということなのだ。その上腕二頭筋や三頭筋にしても、名前の通りそこには長頭や短頭などが存在しており、わけてとらえることは可能だ。このはなしは極端なものとしても、若いころのぼくはそういうレベルの筋トレ者だったのである。

スポーツは苦手で興味なし、団体行動もできないぼくには、筋肉研究が性にあっているということももちろんある。競争も苦手であるが、それは他人と争って生じる不和が苦手ということであり、相手が「昨日のじぶん」ということであるならはなしは別だ。ぼくが筋トレに熱中するのは、空手時代からの親しみの感覚からスタートして、自然なことだったわけである。

 

このようにしてはじまった筋トレライフに、次にあらわれたメンターは、プリズナートレーニングのポール・ウェイドだった。詳細はいろいろ書いてきたので省くとして、ウェイドが示すのはバーベルなどを用いた究極にもみえるトレーニングを超えた可能性を自重トレーニングはもっているということだった。プリズナートレーニング、正式にはコンヴィクト・コンディショニングでは、たとえば腕立て伏せ・プッシュアップは、壁に手をついたごく易しいものから開始する。そうやって、関節から鍛えていく。それを、少しずつ難度や強度をあげていき、最終的に片手プッシュアップに到達させるのである。片手プッシュアップというと、多少からだを鍛えているひとなら、そんなものじぶんでもできるとおもうかもしれない。しかし、コンヴィクト・コンディショニングの指示する片手プッシュアップの完成形とは、足をそろえ、胸が床に接触するほど深く沈み、しかも1回に5秒かけたものを100回行うというものである。壁に手をついて腕立て伏せしていたものをそこまでもっていく、そういう発想なのである。むろん、やろうとおもえばその先にも曲芸的なワザは控えているのだ。

ポール・ウェイドの考えかたに異論があるトレーニーも多くいるだろうとはおもうし、ぼくもダンベルをつかうことはある。しかし、自重トレーニングのもつ安全性、関節そのものを鍛えるという格闘技にも似た発想、それに壁の腕立て伏せから少しずつ難度を引き上げて片手までもっていく漸進性など、ジム通いの筋トレ者が見るべき点も多くあることはまちがいない。かくして、ぼくでは、思考法だけ頂戴していたボディビル的な合理性と、自重トレの究極の理論が交差し、いまに至っているというわけである。

 

 

 

 

 

 

こうしたところで、プリズナートレーニングに出会って以来、いちばんのネックだったのが、プルアップ、つまり懸垂だった。これは引きの動作であるから、背中や上腕二頭筋を鍛えるものだ。ところが、ぼくの身の回りにはぶら下がれる場所というものがなかった。厳密にいうとあったわけだが、とにかくそのときはないとおもわれた。だから、背中にかんしては、明らかに重量不足のダンベルを使って高回数のローをやったりしてごまかしてきたのである。

いまぶら下がる場所について妙な書きかたをしたのは、つまり厳密にはプルアップの可能な公園が近所にはあったということである。ぼくは、それがあることを知っていた。しかし、かなり長いあいだ、それを使わなかった。なぜかというと、職質がこわいからである。ぼくは、ほんとうによく職質される。残業していてお腹がすいたからと、いっかい店をしめて、コンビニに出かけて、その足で職質される。真昼間、図書館に本を返しに行こうと自転車に乗っていて、職質される。いまの会社の面接では、面接官の評価のひとつに「なにを考えているかわからない」というものがあったようで、おそらく顔つきが原因とおもわれる。が、ともかく職質される。ふつうに生きていて、警察官が話しかけてくる。こういう人間が、公園にのこのこ出かけていって、何事もなく帰ってこれるだろうかというはなしなのである。

 

だが、2年ほど前に、なにかのきっかけで公園でのトレーニングを開始して、案外大丈夫なものだなという発見をしたのである。まず、公園には警察官がこない。そういう、不審者がいそうなところには、仕事が増えるからなのか、逆にこないのである。なんでもない道路では何度も見かけるのに、そこではいちども出会ったことがない。そして、想像していた以上に、警察官どころか、ふつうの一般人も、誰もこない。特に深夜となると、半径100メートル全員死んだんじゃないかというほど静まり返っており、貸切のジムのようになるのである。当初は、自警団的な住民が「なんかへんなソース顔の男が激しい呼吸音を発しながら突っ立っている」とか通報する可能性を考えて、ごく短く、10分程度のトレーニングで切り上げていたが、マジでなにも起こらないので、最近は平気で30分以上みっちりやるし、昼間にも出かけていく。夕方ころだと、さすがに帰宅するものが通りかかるが、どうおもわれてるかはともかく、みんな足早に通り過ぎるだけで、別になにも起こらない。考えてみれば、ぼくは職質はされるけど、通報はされたことがない。なにか連動するものととらえていたのだが、住民については、それほどおそれる必要もなかったのである。

 

公園はふたつあり、当初つかっていたほうはふつうの鉄棒しかないので、そこはもうあまりいっていない。その後少し家から離れているが、懸垂用の器具があるいい公園を見つけて、現在はもっぱらそこに行く。並行のリングが宙に伸びている器具で、手の向きに厳密にこだわると、これはハンマーグリップといって、鉄棒をつかったオーバーグリップと逆手のアンダーグリップの中間ということになるが、ふつうの鉄棒もあるので、オーバーやアンダーをやりたくなったらそこで補う感じだ。

で、この公園に19時くらいにいくと、外国人のファミリーがたくさん集まっている。どこの国のひとたちかはわからない。少なくとも英語ではない。ロシア語でもない。たぶん、同じ国のひとたちで、何時にあそこに集まろうみたいな決まりがあるのだろう。多いときで20人くらいいる。父親っぽい男のひとがいることもあるが、たいがいは母子で構成されている。子どもたちはみんな小学生になるかならないかくらい。これが超かわいいというはなしだ。ぼくが公園に着いたときにはもうたくさん集まっていることもあるし、やっているときにちょっとずつ集まってくることもある。そして、子どもたちは、よくわからない上下運動をする、面接官いわく「なにを考えているかわからない」半目の男に、興味を示すわけである。まわりで走り回り、ぼくが懸垂器具から離れたところで器具によじ登ろうとしてお母さんに回収され、ぼくがアンダーハンドのプルアップで上腕二頭筋パンパンにさせながら限界回数に挑戦している視界のすみで、低い鉄棒でその動きをまねしたりするのである。

最初は、おそらくじぶんたちが外国人であり、このラクダみたいな目の男が日本人であるということもあってか、異常なほど警戒されていた。といっても、ぼくが通報を心配するタイプの警戒ではなく、逆に通報されることをおそれているタイプの警戒である。子どもたちがまわりに集まりそうになると、血相をかえてとんできて回収して叱ると、そういうことである。むろんぼくでは迷惑ではないどころかかわいいし、まわりに子どもがいたら限界に挑戦する系の種目は行わないし、着地するときには周囲を確認している。だが、会話はない。男の子と並んでにこにこホリゾンタル・プル(斜め懸垂)をしたことはあるが、話したことはない。

だが、最近はどうやら母親たちにも安全認定されたようである。「このひとは子どもが騒いだくらいで怒ったりしないようだ」というふうに認識された感覚があるのだ。それで、いよいよ子どもたちが上下運動をするぼくのまわりで遊び始めている。といっても、さすがに足元にはこないようにしているようではある。あとやっぱり真似をしてくるので、それはかわいいのだが、懸垂器具は危ないので、真似をするのは鉄棒まで、懸垂器具に登ろうとしていたら、それとなく近寄って移動させるようにしている。このごろは子どもたちが挨拶をしてくれるようにもなった。ぼくが公園に到着すると、手をふって合図をしてくるので、ぼくも手を振る。帰ろうとすると、こちらが見えなくなるまで大きな声でバイバイと叫んでくるので、ぼくも振り返って手を振る。かわいいでしょ。いまではモチベーションのひとつである。危ないようでもあるけど、緊張感が増す面もある。腕立て伏せをするとき、眼下に非常に大切なもの、相方とか、小さい動物とかが眠っている姿をイメージし、落下するとそれが傷ついてしまうと想像すると、限界突破できることがある。それと似ているかもしれない。そのうちおはなしもしてみたいが、どうだろうな・・・

 

 

今回はこの短いはなしをしたくて記事を立てたのに前説が長くなりすぎてしまった。すいません。

 

 

 

 

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第5話/いい風貌(かお)

 

 

前回

 

 

誰かとおもったら花田が、花山の拳を受け止めてカウンターの投げをうったところである。

ダンプからカウンターがとれないように、花山からはカウンターがとれない、というはなしだったが、それは、花山が構えはじめるとなぜかみんなそれを最後まで見届けてしまうという、ヒーローの変身場面にも似た不条理あってのことだった。花田は、逃げつつ、しかし見届けはするという、いいポジションで、投げを放ったのであった。

 

鈍重そうだが花山理論ではスピードも破壊力の要のひとつだ。花田の耳を落としそうな速度で顔の横を拳が通過する。そして、その勢いのまま背負い投げである。花山もちょっと驚いているようだ。

地面に顔からつっこんでしまう花山だが、たいしたダメージではない。複数の銃弾がくちのなかで炸裂して顔が爆ぜても立っている男である。が、のんびり起き上がっているうちに花田は逃げ出してしまったのだった。花山からカウンターがとれた、それだけでじゅうぶん、ということかもしれない。このまままともにたたかったら重傷は避けられないので。

 

 

光成邸には鎬昂昇との対決があるようなないような感じのジャックがきていて、ごちそうされている。ごちそうといっても、ステーキとか寿司ではなく、牛の背骨である。

牛の背骨はライオンでも歯が立たないという。内部にある「髄」にたどりつけるのはハイエナだけ。もちろん、ジャックは除く。相変わらずジャックは揚げパンでもかじるみたいに動物の背骨を食べるのだった。

さて、鎬昂昇だが、なにを知っているかと光成は訊ねる。わりといい質問だ。バキの世界では意外とひととひとの交流が描かれない。あのひととこのひとがどの程度のかかわりでいるのかが、よくわからないのだ。だからこそ、加藤とガイアがスパーリングしたりするとちょっと興奮したりする。で鎬昂昇についてジャックはどうかというと、よく知らないのであって。最後にあったのはピクル争奪の同窓会。まちがってはいないので、いうほど興味ないという感じではないみたい。だが、そのとき「ミカケタ」という、ひどい認識ではある。あまり出番があるほうではないが、鎬昂昇はドイルを圧倒する実力者であって、まちがいなく一流の強者だ。下手したら初期のうぶな宿禰でも勝てないかもしれないくらいには強い。そんなお気楽な相手かと光成は訝しげにいうのだった。

 

 

本部の道場には花山の事務所から逃げ出した花田がきている。彼は本部流の免許皆伝、だったかな、とにかくトップの弟子だったとおもうが、久しぶりらしい。明らかにデザインが変わった花田の顔つきから、本部は場数を読み取る。稽古だけで生まれる「気」ではないという。修羅場、場数が風貌に「武」を宿すと。ならば修羅場ばかりをくぐってきた本部はイケメンである。という和やかな場面に、ごぶさたしてますと鎬昂昇があらわれる。ごぶさたしすぎだろこいつら。本部をなんだとおもってるんだ。

といっても、鎬はじぶんできたわけではなかった。本部が呼び出したのである。花田はどっちなのかよくわからない。でも、流れからして本部がぶつけたのかもしれない。鎬はいう。ここにはなんでもある、本部の技術、数々の武器、そして古流柔術を修め、プロレスラーでもあるという花田。鎬は「ステキな玩具」呼ばわりで花田を挑発するのだった。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

花田は花山と真っ向勝負するつもりはなかったらしい。

本部は花田の表情から踏んだ場数を読み取っている。たぶん、花山のところにいったみたいに、いろいろなところに顔を出して、いままでなかった経験をしてきたのだろう。しかし、なんというか、一晩だけのものも含めてつきあった異性の数をいうような誇張の感じも少しはある。少なくとも花山に関しては、場数に含んでよいのか微妙なところだ。花田はたぶん、花山の前に立てる胆力がじぶんにあるかどうかと、そのパンチからカウンターをとれるかどうかたしかめたかっただけでえ、花山との喧嘩でどうこうというつもりはなかったっぽいのだ。それを修羅場に含んでいいのかな・・・という気持ちは残るわけである。まあ、たんに想像以上に花山がバケモノで、ふつうにムリだってなって逃げただけかもしれないが。

 

バキ作品は主人公にバキを据えつつも魅力的なキャラクターに充実した作品で、群像劇的な面もある(だから外伝も多発する)。ただ、その横のつながりはどうなのかというと、よくわからないところはあった。つまり、「刃牙らへん」の関係性ということである。映画のアベンジャーズのシリーズなどでは、そのあたりを鑑賞者が求めていることを知ってか、明らかに意識的その関係性を描いていくことに注力していたが、あそこまで公式からの供給が親切設計なストーリーは珍しく、たいがいは、物語の中心にあるなにものかに多くのものの目が集中し、いっさいの脇見なしという状況になりがちである。バキを欠き、勇次郎を欠いた遍在の世界で人物たちが描かれるということは、彼らの横のつながりが明らかになっていくということなのかもしれない。だとしたら大歓迎である。そういうのは大好きだ。

 

これまでにもじつはそのようになりかけたことがないではない。刃牙道開始時点での、あくび現象である。親子喧嘩が終わったあと、ファイターたちは以前にもまして厳しいトレーニングを行いながら、なぜかこらえきれないあくびに支配されていた。厳しいトレーニングは危機感を、あくびは倦みを示す。親子喧嘩が終わったことで中心を失い、目標地点をどこに定めればよいのかわからなくなったことにより、また危機感はのちの武蔵出現を予感してのことだったとおもわれる。それまでは、どうやっても届くことはないとわかっていても、どうあれ勇次郎はファイターにとっての「最終目標」としてあった。ぜったいに届かない太陽に向けて毎日跳躍することでジャンプ力がついていくというようなことだったのである。が、親子喧嘩は勇次郎の唯一無二性を失わせた。そばに同レベルといってよいもうひとりの最強者としてバキが立つことで勇次郎は相対化され、神話性を剥がれて、「語ることのできるもの」、要するに現実的なものとなったのである。じっさいには勇次郎の強さが「現実的」ということはないわけだが、計測不能のはずだった絶対者が相対化されたということは大きかったはずだ。これが、ファイターたちからわずかに「張り合い」のようなものを奪ったのである。だが、やはり勇次郎が強者であることにちがいはなく、じぶんが強さを求めていることも変わらない。妙な予感もある。そうして、あくび現象に負けじと彼らは以前にも増してトレーニングにはげんでいたのである。

このときに、バキ世界からはいちど中心が失われかけた。以後、武蔵、宿禰と続くことで主題のようなものはつねにあったわけだが、今度はいよいよ、あくび以後、主題のない世界が描かれんとしているわけである。

 

ただ、ここには少しトリックがあり、それが「刃牙らへん」として語られる以上、実は依然として中心は存在している。鎬昂昇も花田も、刃牙のまわりにいる強いひと、という属性を出ないのである。これは、バキ道でときどき話題にしていた、ファイターにとっての「見られる」ファイトと関係しているとおもわれる。とりわけジャックは、宿禰戦勝利後にかなり自覚的に「見られる」状況を堪能していた。これが作品成立のメタ的次元に引き上げられると、そういう属性が出現することになる。だが、鎬昂昇を「刃牙のまわりにいるひと」と鑑定するのは他者である。無責任な非当事者なのだ。あくびをするジャックは、作品構成レベルでは、「中心点を失い、居場所が不明確にある刃牙周辺のもののひとり」ということになるが、もちろんジャックにとっての自分自身はそうではない。当たり前のことだ。ジャックにとっては、この世界の主人公はジャックなのだ。

とはいえ、この立論は少しイジワルというか、野暮かもしれない。だって、この漫画の主人公はこれまでずっと刃牙で、ジャックらがその周辺にあらわれてきたものであることは事実だからだ。漫画としてはそう説明するほかないというわけである。だが、ジャックにとっても鎬昂昇にとっても花田にとっても、自分自身がじぶんの人生の主人公であるということに、ほんらいちがいはない。そこが明確になったとき、本作は本格的にスタートするにちがいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第88審/至高の検事㉔

 

 

 

嵐山の人格攻撃を含む取調べときつい環境のせいで暗い記憶ばかり思い出してしまう九条。ノートに心情を記しつつ、あるところで突如ペンをガリガリかんでしまうのだった。

 

前回の描写では、うつろな表情も含めて、狂気や崩壊のようなものが感じられたことはまちがいなく、そのように読んだし、それでまちがっているわけではないのだが、九条はおもったよりぜんぜん正気であり、ただ子どものころの癖が出てしまったというだけのことのようだ。とはいえ、かたいペンの先は細かく砕けていて、嚙むというより食べるつもりのちからでやったらしく、なかなか、常軌を逸したひとである。

 

中学生くらいの九条が描かれる。少し前に扉絵かなんかで描写のあった勉強部屋は、てっきり烏丸のものとおもっていたが、九条だったらしい。鉛筆のお尻のぶぶんはどれもがりがりかまれて変形している。そして、黙って机に向かいながら、無秩序な文字群を書き、それを黒々と塗りつぶしているのだった。そのうえには大きめの漢字で「死」などもみえる。「滅」っぽいのもあるな。

その様子を、九条は父・鞍馬行定に目撃されてしまう。なぜ蔵人のようにできないのか、鞍馬の弟は馬鹿だといわれて悔しくないのか、と説教しながらなぜか行定は上着をぬぐ。殴る準備だ。九条は涙を流しながら鉛筆を噛み、もう勉強したくないという。やがて、鉛筆が折れる。そこで拳骨。正座して反省である。東大法学部に入れなければ絶縁と。現在の仕事ぶりからしても、九条はふつうに頭脳明晰で、ここまでいわれるほどの劣等生だったとはちょっとおもえない。成績不振の原因はふつうに考えて家にあるわけだが、まあいま弁護士になってはいるわけだから、難しいところか。

 

ひどい思い出だが、九条はそれを笑いながら思い出している。続けて、黙秘は技術だと、ノートへの記録を続ける。そのように述べられているわけではないが、このように笑い飛ばすことも人生の難所を克服するのに必要な技術なのかもしれない。

黙秘に必要なことは3つ、目の焦点をぼやけさせる、視線はネクタイの結び目あたりにおく、そして呼吸を数える。座禅と同じだというのだった。

 

 

烏丸との接見で九条はペンのはなしをする。特に怪我をすることはなく、ただ看守に怒られただけのようだ。その表情から烏丸は九条がなにかを乗り越えたというふうに感じ取る。そして、冗談っぽく、司法試験の索漠の時期と比べたら、みたいなことをいう。九条は、東大首席で学生時代に司法試験受かった烏丸がそれをいうかと吹きだしながらつっこむ。もちろん烏丸も九条がそのように受け取るということをわかっていっているのだった。そして九条は、弁護士には真面目さより明るさや笑顔を期待してしまうものなんだなと新たに発見するのだった。

 

どのくらいたったのかわからないが、九条はもうひとがんばりというところのようだ。壬生の供述だけなら不起訴、そこに犬飼の証言でも加われば別だが、犬飼はもうこの世にいない。

というわけで、九条は20日がんばって解放されたようだ。車をとばしてどこか山奥の別荘みたいなところに到着。そこには壬生がプールに足をつけて待っていたのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

何ページか読み飛ばしたかというような急展開である。

 

とりあえずは九条が本気で発狂したわけではなかったというのはよかった。よかったが、過去を克服、というより抑圧をするために必要な狂気というものは感じられ、別の意味でこれでいいのかなという感じは残ってしまった。なんというか、現実を現実として受け止めるためにはだれしも多少狂っていなければならないわけだが、九条はそれを技術的に乗り越えてしまったのである。

 

前回九条は、離婚当時のことを思い出し、ペンをバキボキかみ始めていた。これはむかしの癖だという。それは、勉強がいやでたまらないあのときのストレス下で行っていたものだ。つまり、離婚当時のリアルなストレスが、ちょうどペンをもってノートに向かっていたことも手伝って、少年時代のストレスと同期し、連動してしまったということだ。じっさい、今回の少年時代の回想は、九条が我に返ってから自嘲的に呼び起こされているものだ。今回の噛み癖のあらわれは、それを行っていた勉強時代ではなく、離婚という経験に対応したものなのである。たんに強いストレスである以上に、両者に共通点はあるだろうか。それは、ひとことでいえばいたらなさ、「不行き届き」ということになるかもしれない。

前回考えたように、九条は離婚や子育ての記憶を克服したわけではない。抑圧しているだけだ。なにによってかというと、弁護士としての使命感によってである。弁護士として信じる道を行く、そしてその道は、司法試験合格とともに携えることになった職能ととともに、神の呼び声に応えるものとして、一種の必然として、行動を決定するものだ。弱いものを助けるのがじぶんの仕事、法の手続きを守るのがじぶんの仕事、こういうふうに考えることができれば、それによって失われた重大で大切な物事を、一時的に忘れることができるだろう。しかしそれらは乗り越えられたわけではない。ふとした拍子に戻ってくる。とりわけ、嵐山の人格攻撃で自信を失い、使命感も揺らいでいるいまのような状況では、当時の過失は言い訳もできないただのリアルな「不行き届き」として再現されてしまうのだ。

勉強時代のトラウマ、勉強ができなかった、そのことによって父に虐待をされた、また蔵人や他人に対する強い劣等感、こういうものもまた、克服はされていない。離婚の事実と同様、「弁護士として誇りをもって活動している」という現在の事実によって塗りつぶされているだけだ。こうして、離婚と勉強は同期することになる。九条の自尊心は弁護士業によって、というより彼独自の弁護士観によって保たれている。それが嵐山によって損なわれ、そのしたに隠していた離婚と勉強の記憶が、まるで同一の記憶であるかのようにあたまをもたげ、そのストレスへの反応としての鉛筆噛みをさせたのだ。

 

ストレスはカタルシスの快楽と表裏一体である。カタルシスの語源は古代ギリシャ語で排泄を意味するものだった。ほんらい、排泄行為は、排泄物がたまらなければ行わずに済むことだ。しかし、生物が時間的存在として持続し、成長と保持のために摂取を続ける以上、排泄は必然の現象となる。排泄物の滞留じたいはストレスである。しかし、それは存在にとって不可避的な現象であり、これをストレスのままにしておくことは賢明ではない。だから、すべての滞留に対応する解放には快楽がつきまとうようになったのである。おそらくそのようにして、わたしたちは「カタルシス」を知ったのだ。それは、存在していることと一体の、無時間的には矛盾を抱えた作用なのである。いかにカタルシスが心地よくても、それの前提となるストレスは不快なものだ。だとするなら最初からストレスなどなければよい、ということに、ふつうはなる。だがそうはいかない。そうはいかなくなったとき、生理的必然性はそこにインセンティブのようなものを設けたのだ。

ストレスそれじたいは、単独では有害なものでしかない。それが排泄物の滞留というような、生物としての必然であるなら、その排泄における快楽というかたちで帳尻合わせも行われるだろう。けれどもそうでない場合、つまり、たとえば勉強を強いられるストレスのばあい、ひとはどうなるのか。通常、そのような生物的な必然性を欠くストレスからは、逃げればよいということになる。満員電車に耐えられなければ、次の駅でおりることでとりあえずは解決だ。だから、そうしたストレスに対応する解放の行為、排泄の行為も、ふつうは不要となる。九条が噛み癖を身につけてしまったのは、ほんらいただ逃げればよいはずのこうした外部的条件によるストレスを、生物学的必然と同レベルに内面化し、受けとめていることを意味するのだ。もちろん、同意のもとそうなったというはなしではない。家庭の事情はさまざまだが、こうしたものから「逃げる」というのは、いうほどたやすくはなく、通常は、「食って寝て排泄しないとひとは死ぬ」くらいに当たり前のこととして考えられるのである。だから、この状況で彼ができることは生物学的必然のようにそれを受け止め、正当化するしかなかったのであり、その結果が、ああした噛み癖による若干の解放運動だったのかもしれない。

 

しかし、もちろんそんな程度のことで、処理しきれない滞留が消え去るものでもなく、必然性とともに受け取っている以上、そこには理屈もないから、ことばにならない闇が内側には広がっていくことになる。それは、病徴にかわることもあるだろうが、この段階の九条では、英単語や計算式を書くためのノートを黒く塗りつぶすという行為に変わっていた。九条が、こうした記憶を、克服しないまでも押さえつけることに成功はしているとおもわれるのは、噛み癖を起こしながら、引き続きノートへの記述を続けているからだ。嵐山の人格攻撃は、たんに九条の弁護士的な自信を奪い、むかしの記憶をよみがえらせただけの行為ではなかった。それじたいが、彼のなかに眠っていた、父親の人格攻撃を想起させるものでもあった。読みつつ、黙秘についての技術を語る口調が、そうした過去を抑圧する技術についても語っているように見えたのは、だから当然なのである。ここでいう「黙秘」は、もちろん、そうした過去を抑圧する術そのものだったのである。黙秘に必要な条件は、ひとことでいえば「直面しない」ということだ。まさしくそれは抑圧の作法なわけだが、それはいまはいいだろう。「黙秘」とは、過去に直面しないということだったのだ。そういう生きかたもある。それに、九条は「笑い」を通じてそれを少しずつ解消しているようなところもある。思い出しつつ吹きだすのもそうだし、烏丸とのやりとりもそうだ。だが、それも弁護士としての誇りがあってこそのことなのだ。

 

 

さて、九条も壬生も解放されたようで、なんかよくわからない感じになっていた「誰がなにについてどう認識しているのか」が整理されることかとおもう。まあ、混乱しているのはぼくだけかもしれないが・・・。いちおう、弁慶のくだりもあって、100パーセントの裏切りではないとわかっているとしても、話し合いなしに壬生が九条を売ったことにちがいはなく、今回最後の九条は斜め後ろから表情が描かれない構図で、ちょっとピリッとした雰囲気はある。久我はたぶん伏見組に入ってるし、菅原は韓国にいるという状況で、特に壬生の環境が大きく変わっているということもあり、ほとんど第1部完結みたいな様相である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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