すっぴんマスター -27ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第82審/至高の検事⑱

 

 

 

 

40日ぶりくらいで九条の大罪が掲載だ!

久しぶりすぎてこれまでの考察とかほとんど忘れてしまった。

 

犬飼に逃亡を示唆した犯人隠避の疑いで九条が捕まったところだ。九条は独り言として指示をしていたし、録音などもないとおもうが、九条の指示で京極の武器をもって出頭した壬生がばらしたのである。壬生の意図はまだ不明だ。そこで九条は、かつてじぶんの事務所に居候をしており、反社についての価値観のちがいからたもとをわかり、いまは九条の師匠である流木のところでイソベンをしている烏丸を選任弁護人に希望したのだった。ただ、流木は壬生の弁護をしているので、その身内である烏丸が九条の弁護をすることは利益相反になる可能性がある。九条もそれはわかっているはずなので、今回の呼び出しは、対話以外の意味はないのかもしれない。

 

前回、壬生はノートに書いたなにかを流木に撮影させ、九条に伝えるよう頼んでいた。撮影は違反なので烏丸は断ったが、流木はこれを「踏み絵」として、日本の「人質司法」の問題を説きつつ、これを実行していた。しかし烏丸はそもそも写真など撮らずとも記憶できたという。さすが東大法学部首席。

まずひとつは、武蔵坊弁慶の辞世の句とされるもの、「六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習ひありとも」というものである。壬生は丁寧に旧仮名遣いも正しく記している。覚えていたのかな。源義経が、衣川の戦いで藤原泰衡に追い詰められた際に、弁慶が詠んだものということで、これには義経の返歌もあり、それは「後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで」というものになる。六道とは輪廻転生思想において、死後向かう六つの世界の分類のこと。たとえ死ぬ順番に違いがあっても、冥土の道の途中で待っていてくださいということで、業によって衆生の行き先は変わってしまうはずだから、おそらくそれが定まる前の分岐点で待っていてくれ、同じ道を行くから、という意味になるだろう。義経のアンサーはそれに同意するもので、「また後の世も」は、くりかえしどの生においてもという意味か、あるいは次の道で同じ世界に降り立てなくてもという意味か、どちらとも読めそうだが、まあそういう意味だ。

加えて、「飼い犬はもう二度と戻ってこない」というメッセージも加わっている。烏丸は、どう言おうが裏切った人間はもう一度裏切るといっているが、これは弁慶のうたを踏まえたうえで、壬生は忠誠心のようなものを見せているけど、また裏切るよ、ということだろう。では、飼い犬云々という点について、烏丸はどう受け取っているのだろう。これは、犬飼のことのようにも感じられる。つまり、犬飼はもうこの世にはいない、という暗号だ。じっさい、犬飼がどうなったかは、九条も烏丸も、嵐山も知らないはずだ。壬生がキャリーケースに詰めて京極に渡したところなので。だから、たとえば犬飼がどこかで捕まって「九条先生に指示されました」などとくちにすることはありえないよと、こういうことをいっているようにも見える。九条もそう受け取ったのではないかとおもわれる。だが烏丸はどうだろう。烏丸は、犬飼には思い至らないような感じがする。だが彼が「飼い犬」を「壬生」自身のことだと読んだとすると、弁慶の句とはちぐはぐの内容になってしまう。もし烏丸が犬飼のことを想起しなかったとしたら、ここには別の意味をくみとったはずである。忠誠心は持続する、しかし犬のようにただ指示を待つような「壬生」はもういないよと、こういうふうに読んだのだろうか。

 

撮影はしなかたったが、今回の内容では逃亡などにもつながらないので伝えたと、ネクタイをいじりながら烏丸はいう。当初、ネクタイは結び方がわからないのでひとつももっていないということだった烏丸だが、騎士の称号を授けるときみたいに、九条がネクタイをあげることで、つけるようになった(同じネクタイをしているのかどうかは未確認)。九条が導く「この道」のはじまりが、ネクタイには重みとして含まれているのだ。つまり、烏丸は今回ちょっと悪いことをした。それが、猫がむりやり服を着せられているときみたいなストレスを生じているのである。

手紙などは裁判所の許可をもらえば渡せることがあるらしい。しかし時間がかかると九条はいう。というか、まず許可されないと。悪法につきあうのはばかげている。

烏丸はいう。

 

 

「悪法も法なら、

 

法律がおかしい。私は制度と戦います。」

 

 

九条は、対句的に応える。

 

 

「悪法も法ならば、

 

弁護士の特権的立場を悪用してでも掻い潜る。」

 

 

久々に出たふたりの対照表現だ。建前だけで生きていくのか清濁併せ呑むのか。深いことをやろうとしたら綺麗事ではいけない。ドロドロのところを扱っているから、返り血を浴びないわけにはいかないと九条は続ける。返り血どころか大量出血だと烏丸はいうが、どう思われようと自分の人生を生きているのだと九条にいわれる。

 

利益相反について烏丸が述べる。九条は「そうですね」という感じで、やっぱりわかっていたみたいだ。担当は亀岡になりそうだ。そりゃーたよりになるな。

で、九条は依頼人の引継ぎとブラックサンダーの面倒を烏丸にお願いする。利益相反だとわかりきっているのに烏丸を呼びつけた理由はたぶんこれだろう。

 

烏丸が九条のいつもの住まい、事務所の屋上にやってくる。九条が逮捕されたときのまま、フライパンなどが置かれている。ブラックサンダーもおとなしく待っていたようだ。とはいえ、いきなり九条が連れ去られて不安だったろう。烏丸は、もう大丈夫だよと、ブラサンを抱きしめるのだった。

 

独房で支給されたお弁当を食べ、おトイレをしているときに、取調べの連絡。嵐山である。

 

 

 

つづく。

 

 

 

信用していた輩に裏切られてどんな気分?みたいなことを嵐山はいうが、九条は「別に。何も。」という反応である。嵐山は、壬生も京極も九条も一網打尽にできてうれしいだろうな。

 

壬生からのメッセージはどういう意味だろう。うえでもくわしく見たけど、ひとつは弁慶の辞世の句で、もうひとつは飼い犬が云々というものだ。これを、わざわざ、流木に違反をさせて、烏丸には踏み絵をさせて、伝えたのである。つまり、メッセージとして重要なものということになる。

まず弁慶の辞世の句だが、ここで重要なことは、それが辞世の句であるということと義経のアンサーの存在、弁慶というもののイメージだろう。藤原氏に追い詰められていた彼らがのんびりうたなど詠んでいられたのかというような問いは野暮というものだろうが、じっさいこれは創作か、そうでなくても、少なくとも戦争のさなかに詠まれたものではないだろう。つまり、遺言のように、たたかいがはじまるまえに用意しておいたものなのだ。それが戦争による辞世なのだとしたら、たいていのものはそうだろう。もしくは創作か。が、ここでは創作という線は無視することにしよう。つまり、「辞世の句」には、いままさにこの世を去ろうとしているリアリティに、実は準備、用意の感触もわずかに残るものなのである。そして、この辞世の句には、同じくらい有名な義経の返歌もある。じっさい、有名であろうとなかろうと、義経の返歌があるとないとで、弁慶のうたの印象はかなり変わってしまうだろう。義経のうたの存在は、弁慶のうたを、ただの忠誠心や愛のうたではなく、相思相愛の、かたい絆のうたにするのである。

つまり、ここで弁慶のうたが引用されることには、九条もまた同じおもいで、これに応えてくれるはずである、という壬生の確信が見えるのである。そうしなければ、弁慶のうたは完成しないし、これが引用された意味もないのだ。壬生は、弁慶のうたを示すことで、義経のふるまいをとることを、九条に申し出ているのである。

これがこうして暗号になっているのは、もちろんバレたときのことを考えてだろう。これが辞世の句であることの意味はそこにもある。要は、「辞世の句」が引用されている以上、傍目には、壬生はじぶんが「終わった」と感じていることになるからである。そこに飼い犬のくだりも加わる。今世での関係はとりあえずこれで終了である、だが六道を通った先の来世でまたお世話になりますと、表面的にはそういう意味になるのだ。烏丸もそう受け取っているだろう。だがじっさいには、弁慶は義経のアンサーを期待するうたを詠んでいた。それはかたい絆を意味するものであり、義経と弁慶の関係は終わっていないのである。

 

では、具体的に九条はどうすればいいのか。ここに弁慶のイメージが加わる。弁慶といえば、義経が正しく最後を迎えられるよう仁王立ちしていたイメージが非常に強い。じぶんはそのポジションであるということが、数ある辞世の句のうちから弁慶を選んだことのなかには含まれている。それはなにを意味するかというと、道の選択を任せるということではないかとおもわれる。弁慶は、六道の、道のちまたで義経を待つという。この「道」というのは、六道のどれかひとつの道なのか、いまいちはっきりしない。ただ、弁慶は義経と同じ道を歩むことになるという確信があったようではある。とはいえ、両者が合流する前に道がわかれてしまわないとも限らない。したがって、この「道のちまた」とは、いわゆる六道の辻、六道に入る前の門前のことを指すのではないかとおもわれる。そこで、ふたりは合流する。その先は、人間になるのか畜生になるのか、ともあれ、いっしょの道を歩むと。そこで、弁慶は仁王立ちで待つ。地獄のスタッフみたいなのが畜生道に案内しようとしても、義経がくるまで弁慶はてこでも動かない。合流したあとは、義経に委ねる。こういうことではないかとおもわれる。つまりこの句が意味するところは、絆の強さの、またその存在の確認と、じぶんは九条が道を決めるまで動かないからあとは任せる、という委任の感情ではないかとおもわれるのである。

 

絆が確認できれば、それが「裏切り」なのだとしても、先をみた戦略的な裏切りであることが伝わるだろう。あとは九条がなんとかする(してもらう)。ただ、重要なことがひとつある。それが、犬飼はもういないということだと、こんなところではないかといまは推測する。

 

 

今回もわかりやすく烏丸と九条の対比が示された。とはいえ、烏丸は学ぶ側であるし、やりとりを見てもリアルタイムで九条から学習している感じがあるので、蔵人と九条の対比ほど強いものではないが、烏丸の若さ、もしくは青さを通して九条のしたたかさを描いているといったところだろう。

ふたりの主張はこうである。烏丸は、法律、書いてあることがまちがっているなら、正しいものに書き直したい。九条は、書いてあることがまちがっていても、それを正すのはたいへんだから、バレないようにうまくやる。烏丸が「若い」のは、「書いてあること」がまったき善でありうると信じているということだ。いまある法は、誤りである。だから、正す。とするならば、この世には「完全に瑕疵のない絶対法」が存在することになるのである。それを目指すことそれじたいはまちがっていないだろう。そうでなければ、この世のどんな仕事もッモチベーションを書く歯車の運動のようなものになってしまう。ただ、それがリアルで実務的な目標になりうるのかというと、難しいところだ。直観的にもそれが誤りであることはわかるし、言葉というものはそのようにできていない。なぜなら、ある事物をそのように言い当てるということは、そうでないものを捨象するということにほかならないからである。ソシュールは、言語を砂浜に置いた網と表現した。砂浜それじたいは茫漠としたただの広がりだが、「ここ」と「あそこ」のちがい、差異に目をつけたとき、言語は生ずる。だが、これはある種「詩」としての言語のはなしだ。この視点においては、「言語が指示していないもの」は存在しないことになるが、まず第一に、わたしたちは言語で思考している以上、それを確認することはできない。次に、とりわけ法律の分野における語は、特に身近なものになればなるほど、あいまいさを嫌うものである。したがって網それじたいは太く明瞭なものになる。では、その太い網の影に隠れているぶぶんはどうあつかえばよいのか。

 

くりかえすように、烏丸の野心じたいは尊重されるべきもので、それどころか、人類が寝て起きるたび「なぜ生きているのか」という問いに直面しなくても済むのは、そうした志向がじっさいに有効だからだろう。しかしそれが実務においても有効化というと、書生論を出ないぶぶんはある。悪法も法なのではない。原理的に、言語で構成されている以上法とはつねに悪法なのであり、だから、それを掻い潜るすべを九条は身につけているのだ。

 

 

↓九条の大罪 9巻 9月28日発売

 

 

 

 

 

 

 

 

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昨日は超久しぶりにディズニーランド行ってきた。





調べたら、最後にディズニーランドに行ったのは2010年の11月、13年も前だった。昨日プリンセスの姿で遊んでいた子どもたちは全員生まれていないことになる。ディズニーシーはその1年前、2009年の11月が最後だ。行っていないのはわかっていたが、引き算をしてみて改めて年月のすすみをおもう…。ちょうどこの頃に仕事が忙しくなって、相方と一緒の休みがとりにくくなったのだった。休みはあっても、疲れすぎて連休でもなければどこにも行く気になれないみたいな日々が8年くらい続き、会社を移ってからはそもそも一緒の休みがなくなってしまった。今回は特に希望を出してもいないのに自然にふたり一緒の連休が発生したのである。まあ、意図的に誰かが、一緒に休ませないようにしよう、なるべく連休をつくらないようにしようと努力でもしないと、以前までのようにはふつうならないということでもあるが、いまの職場環境には感謝しなければならない。


というわけで連休が発生、なにするかということでディズニーになった。ランドかシーかでかなり迷いはした。ぼくらはあまりアトラクションに参加せず、うろうろするのがメインなので、どちらでもいいといえばそうなのだが、どちらでもいいでは決まらない。どっちかが常に銀杏くさいとかで微妙だったらまだしも、どっちも最高だから困るのである。わずかに、リトルマーメイドを見たばかりでもあるし、シーのほうが好きかな…みたいな感じはあったが、なんかランドになった。なぜそうなったかは忘れた。




ソフトランディングでリトルグリーンまんを食べながら眺めたカモかなんか。人間が通りかからない水辺で、鳩や雀も気楽に遊んでた。


心配なのは足が痛くなることなので、10日前くらいからカーフレイズ(ふくらはぎ)を多めにし、太もも内側のトレーニングも取り入れ、痛くなりがちな小指付け根のタコをせっせと削ってきた。カバンも軽くして万全の態勢、体力を底まで使い切る感じの楽しみかたをすることができた。以前までも、ディズニーに限らずどこかに出かけるときには、翌日のことを考え、常に体力をある程度は温存して帰宅しなければならないところがあった。しかしこの日のぼくらには翌日の休みがある。今回は生まれてはじめて、閉園までディズニーにいることができたのだった。どうやって閉園させるのか、いままでけっこう謎だったが、受付じたいは終了しつつも、けっこうふつうに21時以降もひといるのね。アトラクションに並んで消化待ちのひともまだたくさんいたし、ぼくなんかは帰る前にタバコ吸いたいからスペースマウンテンのとこで吸いだめして外で相方に待っててもらってたけど、急かされることもなかった。そのあともふつうに買い物とかしたし…戦場だったけど。



大好きなプルート。パークの外にいる。プルートはグーフィーと違って四足歩行なのに、パレードで二足になってもなぜか違和感がない。


天候も味方してくれた。曇り空でときどき思いついたように小雨が降りはしたが問題なく、なにしろ直射日光がないのがよかった。1日を使い切る感覚で遊びつつも、帰路や帰宅後に余韻を感じつつ語り合うほどには体力を残すことができたのだった。


さて、久しぶりすぎてなにをどうすべきかわからない感じだったが、まずは入場前にボンヴォヤージュで少し買い物。この時点でジャックジャックの巨大ぬいぐるみと野獣のだきまくらに一目惚れしていたが、荷物になるからあとにしようとこのときは買わず、後悔することになる。入ってからはとりあえずソフトランディングでリトルグリーンまんとポテトを食べて回復、カウンター席で鳥やゲストを眺めながら行く先を考えた。ぼくらは、あんまり並んでアトラクションに入ることはないのだけど、美女と野獣のやつはさすがに行きたいなあということで、「魔法のものがたり」に向かった。前日からアプリでみていた限り90分待ちとかだったのが75分待ちになっていたことも後押しになった。空間じたいがエンターテイメントなので、ディズニーでは並ぶことは苦ではないが、これだけ長い列に入るのは初めてのことだった。ぼくではせいぜいハニーハントに並ぶくらいで、これもだいたいは60分くらいだからな。

しかし、あんな世界を体験できるのなら、90分なんてものの数ではない。すばらしすぎて涙出てきたけど、まわりに人がいっぱいいるのでガマンした。あれ、人形なんだよね?どうなってんのか、なんであんな滑らかな動きが可能なんだろ…。開始前、まだ乗り物に乗る前の、ベルと野獣のやりとりのところで野獣が咆哮、赤ちゃんが弾ける感じで泣いちゃったのには一同爆笑という感じでドッとなり、なごんだ。野獣のしょんぼりした顔が誰のあたまにも浮かんだはずである。












オレタチのガストン。


美女と野獣で胸いっぱいになったところでトゥーンタウンに行く。子ども向けアトラクションが多いけど、古いディズニーアニメが好きなので、居心地のいいところだ。そこでピザとか食べながら17時からのパレードを見た。といっても、ずいぶん遠くから人混み越しになのでほとんど見えなかったが。現在は東京ディズニーリゾート40周年ということで、ハーモニー・イン・カラーというテーマで、カラフルな演出のなかにキャラクターがすすむ。チョイスとしては、カラフルなイメージのあるというかことなのか、インクレディブル・ファミリーやカールじいさんが出ていたことに驚喜した。カールじいさんはたぶん風船がカラフルだからだろう。知らずにきたが、ボン・ヴォヤージュになぜかカールじいさんのバッジが売っていて、そういうことだったかと腑に落ちた。



巨大ジャックジャック。ようやく見えるのがこういう位置だった。


そのあとは、いつも行っているので、とりあえずハニーハントと小さな世界に行くことに。小さな世界、イッツ・ア・スモールワールドは、自分でもなんで毎回乗ってるのかよくわからなかったが、美女と野獣に並んでいるとき、後ろの家族が「次は小さな世界行こう!あれ、いい感じに休憩になるから!」と話しているのを聞いて、すごい納得してしまった。たしかに、まあ楽しくて乗ってはいるんだけど、休憩の面もかなりあるなとは思ったわけである。並ばないし。

乗ってみて驚いたが、ぼくが知っているのとぜんぜんちがうのである。基本哲学や雰囲気は変わらないが、なにかこう、洗練されているのだ。しかも、各所にディズニーのキャラクターがたくさん出てくるので、なにしろ13年ぶり、はじめは気のせいかとおもわれた雰囲気の変化も、そうではないと理解されてきたのだった。2018年にリニューアルされたらしい。



生まれ変わったイッツ・ア・スモールワールド。もう休憩とは呼ばせないという雰囲気をかもしだしている。


そうこうするうちにエレクトリカル・パレードである。てきとうなところに腰掛け、開始を待つ。至近距離ではなかったし、道に背を向ける感じでしか座れない場所だし、その前の道は立ち止まらないよう注意されてる感じだったから、すいてるだろうと思ったのだが、はじまるとやっぱりひとが集まってしまった。が、ディズニーはそういうときも配慮を欠かさず、パレードも段階的に句読点のような空白を持っているので、そういうタイミングで、立ち止まらないでくださいとうながしていた。

宝塚でもぼくはフィナーレのパレードが好きで、ちょっとムカつく悪役も、パレードではキャラを保ちつつも中和された笑顔で階段をおりてくるのがたまらず、MCUにハマったのも結局そういうことなんだろうなとおもう。要するに、アッセンブルが大好きなのである。もとをたどれば、ウルトラ6兄弟とかそういうのが原風景なのかもしれないが、ともかく好きなのだ。ディズニーのパレードは素晴らしい音楽とともにこれに応えてくれる。


残り時間が少なくなってきた。あとスターウォーズのやつもいつも乗ってるから行きたい、となったが、昼のパレードでみた巨大ジャックジャックが忘れられない。ボンヴォヤージュと、あと他にもどこかで見かけたが、どこだったかな…と、ここで後悔である。しばらく駆け回りようやくゲット。ギリギリでスターウォーズに駆け込む。そしてこのスター・ツアーズも2013年にリニューアルされており、驚愕することになるのであった。


このあたりでもう21時近い。初めて閉園アナウンスも聞いた。たしかに帰宅の波があらわれはじめている。が、ショップなどにはまだひとが大量におり、各アトラクションも、新規入場じたいは終わっているものの、まだ並んでいるひとは大勢いる。これは、まだ余裕があるのでは?ということでもう一体、野獣のだきまくらを探しにいくことにした。最初から手触りがヤバすぎて絶対買うんだろうなということはわかっていたのに、買わずにいたものだ。そしてこれが見つからない。しばらく探し、そもそもどこでみたかが不明確なので、ボンヴォヤージュにあったことは間違いなかったから、ここでパークをあとにし、ショップに向かうことに。が、ないのである。相方はあきらめかけていたが、ここまで汗だくになって探したということもある、キャストのひとに在庫をたずね、持ってきてもらったのだった。キャストのかたは、5体くらい抱えた野獣から選ばせてくれた。持ち帰って抱きしめ、改めて思ったが、これはひとをダメにするだきまくらである。全人類に購入をおすすめする。



https://share.shopping.tokyodisneyresort.jp/landing/landing.html?start=3&prod_cd=123012660



あまりにも強烈な多幸感で、帰りたくない、明日もまた来たい状態になってしまったが、これにはわけがあり、じっさい、パーク内は異空間だ。あそこでは、他の場所では見逃せないようなこともたいがい笑って赦せる。評価や感情の起伏について、用いられる尺度が、現実世界とちがうのである。同形の世界では宝塚もそうだが、「ものの価値」みたいなものもここでは歪むので、お金をじゃぶじゃぶ使いがちなのもそのためだ。こういう異空間は、雨ざらしの現実世界の問題を解決しはしないが、少なくとも完全に切断してはくれるものだ。現実世界が継続的な雨ざらしを求めるいっぽうで人間の存在領域が有限である以上、ぼくはそういう時空間は必要だとおもう。直接のちからになりはしないが、それがなければ現実は継続していかない、そういうものかとおもう。

また、パークにいくと映画などをもとにしたアトラクションがあるわけだが、じっさいの皮膚感覚として、逆に思われることがある。そういう映画もいくつかあるにはあるが、まずアトラクションがあって、それが映画になったのではと感じられることがあるのだ。これも、パークがその異空間っぷりを自覚したうえで活用した結果だろう。なにしろパークではその作品世界に実際に入ることができるのだ。この“実際に”というのは、ディズニーが社をあげて歴史的に構築してきた「公式」という概念と無関係ではないが、ビジネスレベルでそんなふうに無味乾燥の語りかたをしなくても、多くのゲストはそう感じるだろう。そして、自身の経験として記憶されるものが、ある種間接的な映画経験を下回るということはないわけである。


もう来週とかにまた行きたい感じだけど、いくらナイスな職場環境でもそうそう揃って連休なんてないし、だいいち夏休みが始まってしまう。今回パークの西側にあまり行かなかったから、秋口にそのあたり探索したい。シーも行かなきゃ…






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あまりにもなにも書いていないので、たいした内容にもならないとおもうが、備忘録的な意味で最近みた映画について書いておこうかとおもいます。

 

最近は鎌倉には行っていない。飽きたわけではないのだけど、建長寺にいって、とりあえずはずっと行きたいとおもっていたところは行ってしまったので、切迫感のようなものはなくなった感じだ。また、わりとかんたんにいけるということを学習したことも大きいかもしれない。

映画も、実をいうと去年ほどは見ていないように感じるのだけど、映画館のある場所に出かけはしてもスケジュールが合わなかったりたんに観たいものがなかったりでからぶりしていることが多いような感じがある。

 

4月9日にはM.ナイト・シャマランの『ノック 終末の訪問者』をみた。WWE出身のレスラーで、MCUのドラックス役で世界的に有名になったデイヴ・バウティスタが出演している。あとハリーポッターのロン役、ルパート・グリントも出ていた。ロンは、ダニエル・ラドクリフと同じで、殻を破るべく前衛的な映画や役に積極的な印象だが、今回もがんばっていた。バウティスタはクレーマー顔が当初苦手だったが、ドラックスのイメージがついたおかげもあって、好きになりはじめている。今回は体育教師の役である。いくらなんでもあそこまで刺青がっつりであんなガタイの教師がいるかよという感じだが、不思議と違和感はなく、彼の役柄が担っていたある「役割」にぴったりの包容力だった。評価としては微妙なようで、じっさいシャマランは小ぶりの世界観にわずかな違和をまぎれこませて、それをカタルシスとともに解きほぐす、みたいな作品を撮るひとで、世界規模のおはなしとなった『ハプニング』的な作品は、あまり言及されない印象があるが、ときどき急に観たくなる奇妙な中毒性がある(その世界観の小ぶりさと中毒性が合致したのが『サイン』)。

 

4月20日はハロウィンシリーズのリメイク版完結篇『ハロウィン THE END』。いまでも毎晩のように「なんかホラー映画みよう」ということになってネットフリックスやアマゾンプライムで玉石混交のメニュー画面を流す日々だが、ハロウィンは意外と最近まで観たことがなかった。最初に観たのは今回のリメイク、というかオリジナルの第一弾の続編であって、そこから続く三部作の完結篇ということになる。オリジナルからの2作目以降は見ていないのだが、調べてみるとけっこう迷走していたようで、一部では「なかったこと」にされているようなところもあり、ぼくでは大好きな『トゥルーライズ』で親しいジェイミー・リー・カーティスが同じ役で出演、あの伝説的第1作をしっかり作り直し、しっかり葬ろうとしているのがよく伝わってきた。マイケルの無造作な立ち姿だけでも見る価値のあるシリーズ。

 

5月1日は『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』。予告されてからずっと待っていた映画で、期待通りといってよかったとおもう。とりわけ、マリオのゲームは敵キャラがぜんぶかわいいので、そこのところがいちばんの楽しみだった。で、じっさい敵はみんなかわいいのだが、出てこないやつはぜんぜん出てこない。たとえば、ぼくがいちばん好きなのはテレサだが、キングテレサっぽいのがいっしゅんうつるだけで、お化け屋敷っぽい舞台もあるのに、肝心のテレサはまったく登場しない。ハックンとかハナちゃんとかも期待したけど、見かけなかったなあ。だけど、これは続編が予定されているためじゃないかとおもう。

 

5月9日には『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME3』。人生通して指折りの傑作。詳細は記事にしてあります。

 

 

 

 

6月15日『リトル・マーメイド』。はじまる前から主演について出ていない見解はないというほどありとあらゆる言説が入り乱れたが、ふたをあけてみれば、ただのとてつもない傑作だったという印象である。はじまる前の喧々諤々については記事にしてあるので以下に。これについてはしっかりした記事を書きたいけど、ぼくなんかが書く意味が果たしてあるのかというほど見事な批評がかなり出回っているので、いつか必要を感じたら書いてみたいかも。無理に探し出そうとしてもケチのつけられないたいへん見事な実写映画だった。いちばん心配したのはものすごいカニなセバスチャンだったが、あれも、あのビジュアルではないと浮いてしまってへんなのかな、などと考えた。2秒くらいでなれるので心配ないです。あとセバスチャンが歩くときの、足先が岩をたたくカツカツいう音が気持ちいい。(作品の影響とか外部的な意味については堂本かおるさんの記事がいいです)

 

 

 

 

7月8日、ついこないだだが、『パール』を観にいった。ほんとうはインディ・ジョーンズをみようとしたのだが、あまりにも混んでいたので、たまにはまったく予定していないものでも衝動的にみるかということで、これを選んだ。『パール』は実は『X エックス』という作品の続編というか三部作のふたつめのものになるのだが、まったく知らずにみることになった。いちおう問題なく見れるが、エックスをみているとなおよいことはまちがいない、が、ぼくらは帰宅してすぐエックスのほうをアマプラでみたのだけど、その見方もこれはこれでありで、どちらでもよいようにおもう。イースターエッグ的なしかけがたくさんある作風で、作品どうしの響きあいも細かく計算されて作られている。予定されている三作目も、主演はミア・ゴスという奇才(といっていいとおもう)で、ホラー好きな観客はみんな彼女のとりこになってしまうだろう。エックスにはいまをときめくジェナ・オルテガも出演しており、主演がふたりいるような、へんなお徳感もある。はなしとしては、エックスでは、ミア・ゴスはマキシーンという若い女性の役で主演しており、彼女が仲間とともに映画撮影のためにやってきたのが、パールというおばあさんの住んでいる家だったという流れだ。このおばあさんのパールもミア・ゴスが特殊メイクで演じており、この年をとった(という印象は「パール」を観たからこそなのだが)女のすさまじさに、こんな映画をこれまでまったく知らずに来たとはと、じぶんたちの視野の狭さをおもわずにはいられなかった(とはいえ、エックスもパールも2022年の作品なのだが)。そのパールというおばあさんの若い時代を描いたものが『パール』になり、予定されている三部作完結篇は『マキシーン』というタイトルになって、『エックス』で生還した彼女がまた主人公となるようである。マキシーンはすれた女の子だが、若いパールは(表面的には)素朴な、かわいらしい田舎娘で、これがホラー映画の文法とは異なった、段階を踏まない滑らかな動作の必然の結果として、人体破壊的なことをしていくさまには、もう完全に降参してしまった。それから、役者なら当然のことなのかもしれないが、マキシーンと年老いたパール、それに若く元気なパールが、ぜんぶミア・ゴスによって演じられているということに、新鮮な驚きがある。特にぼくは『パール』で若くてかわいらしいパールを見た直後だったので、すれたマキシーンと老いたパールがそれと同一人物だとは、いわれても信じられないほどだった。そもそも、『パール』の作品のなかでさえ、パールは信じられないくらい雰囲気の落差がある。すごいなあとおもう。日本ではまだ封切りされたばかりのはずなので、必要ならアマプラで『エックス』を観て、ぜひ鑑賞してもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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最終話(第151話)/東京都心狩猟民族

 

 

 

 

バキ流相撲道完結!今回はいつものように新作への引き回のようです。

 

どこか都心の公園、スペックと花山がたたかったところによく似ている。そこにカップルがいて、ここはキツネやタヌキが出るというはなしをしている。都心なのに?ということだが、捨てられたペットが野生化してそうなるようだ。

そこに、野生の人間、ピクルがあらわれる。左手にタヌキ、右手にキツネをつかまえて棒立ちだ。ズボンははいているが、太ももあたりで切れていて、ベルトの位置には、なにやらふんどしっぽいものが巻かれている。で、髪は結んでいる・・・。

ピクルは、絶叫し、それからキツネとタヌキをみて呆然とするカップルをしばらく眺めてから、太陽のような笑顔を見せて、去っていく。これは、ひょっとして言語を理解しているのでは? そのキツネとタヌキ、捕ったよ、みたいな・・・。あとの描写では髪がほどけている描写もあり、髪を束ねているのも、ズボンがおちないようにつけているベルト的なものも、なにか、じぶんでやっているのでは、という感じがする。

 

久々にペイン博士が登場、光成と話している。このひとはピクルとセットなので、もちろんピクルのはなしだ。

博士はピクルを「東京都心狩猟民族」と命名した。都心で狩りをして暮らしていたのは以前からのことだ。だが、ペインはピクルが完全に適応したとみてそう呼ぶようだ。くわしい説明はないが、要するに、前にピクルがあらわれたときは、異常成長したワニとかを食べていた。ピクルはじぶんより強そうなものとしかたたかわず、そしてたたかって勝ったものしか食べない。幸い、というか、東京の毒は、巨大ワニのようなものをときどきは生み出していた。だが、いまのピクルはその段階を越えて、いまみたように、ピクルからすればものの数ではないキツネなども食べるようになっていると、こういうはなしだろう。さらっと通過しているが、けっこう重要な変化である。強いものとしかたたかわず、しかも食べない、というのは、ピクルが現代で生き抜くにあたってはネックだった。ピクルより強い、もしくは大きいものなど、指で数える程度しかあがってこないだろうからだ。残るは動物園や水族館襲撃などというはなしになり、それはまた世論的におだやかに済むものではなく、要するに、決定的ではないにしても、ピクルの生活はじわじわと終わりに近づいていたわけである。これが解消されたのだと、そう見ていいだろう。それがファイターとしてよいことなのかどうかは、まだ不明だ。

だけど、いつまでそんなちまちましたものを食べて暮らせるものかねと、光成がもっともなことをいう。強くも大きくもないだろうが、東京にも動物はたくさんいる。ペインは、そもそもピクルはTレックスを常食していた最強の狩人である、というよくわからないことをいう。Tレックスがいないから困っているというはなしなのだが、これはつまり、それほどの狩人が、どうあれ狩るものに困るなんてことはないだろうという、大雑把なはなしだろう。強いものだけを狩る、という信念は、ピクルの脳内にだけ存在している無形物だ。無形物なら、解釈も可能かもしれない。たとえば、強いものを狩る、という経験をするためには、ひとまずいまを生き延びなければならない、など。ともあれ、超一流の狩人たるピクルが、狩りにおいて「まちがい」をおかすはずはないだろうと、超訳するとそんな意味かもしれない。

 

再びピクル、川に潜み、のんびり進む鴨を下からわしづかみにして丸ごとバリバリ食べている。これを、飲食店経営・松永智文が目撃。このひとは宿禰とオリバのたたかいを目撃したひとだ。ちゃんと車直してもらったのかな。

生涯二度目の「刃牙らへん」との遭遇、松永は興奮しながら食われるかとおもったと語る。まあ、冗談ではないだろうな。でも、ピクルはどうもひとは襲わないようにしてるっぽい。原始人だけど、知能はめちゃくちゃ高いんだろう。球体人間が巨大力士を食うところを目撃した人間である、松永は「何か起きてる」と熱弁するのだった。

 

で、また本部道場に画面が移る。加藤、ガイア含め、まだジャックのはなしをしている。闘争にかんする純度、純粋性では、全人類の誰であれジャックに優るのは容易ではないと。ガイアはそこにピクルの名を出す。ピクルもかと。まあ、人類といえば人類だ。しかしあれはさすがに別枠だろと、本部はいう。加藤とガイアはそれに嫉妬するのだった。

 

 

 

おしまい。

 

 

 

新作は時期未定。とりあえず、やはり刃牙シリーズ6部ということになるもよう。

7月26日からはアニメ『範馬刃牙』第2期がネットフリックスで一挙公開となる。まずはピクル編そして8月24日には親子喧嘩編ということでわくわくがとまらない。7月26日までに新作が再開されれば、アニメのボス役であるピクルが本編にも登場するということになるかもしれない。ピクルは女性人気もある(管理人調べ)ので、かわいいピクルをもっと供給してほしい。個人的には武蔵に動物の内臓をおすそわけしようとしてあの武蔵がドン引きするところとかすごい好きです。

 

ピクルの「適応」に関しては、よいのかわるいのか、よくわからない。彼のファイターとしての本質が強者を食料として選ぶという点にあったのだとすれば、これは弱くなったとみてもよいかもしれない。しかし、それでは生きていけない。まず第一に、いくら日本が自然豊かでも、ピクルが満足するような野生動物がそうごろごろいるものではない。山に入れば熊がいるかもしれないが、はっきりいってものたりないだろう。サバンナですらそうだ。象やライオン、サイにカバにキリンにセイウチ、こういったところでようやくおやつレベルではないだろうか。バキ界にはそれらを上回る強さの人間がいる。といっても、そうたくさんいるわけではないが、とりあえずいる。しかしそれを食べるわけにもいかない。烈、克巳にかんしては、食べてたが、いろいろな事情があって、完食はしていない。そして、そもそも、食人にかんしては人間には強い禁忌感があり、もしこれが常態化すれば、ピクルへの対応はいまとは異なるものになってしまうだろう。つまり、このままではピクルは餓死する以外になかったのだ。巨大ワニは例外中の例外だったはずである。

こういう状況で、強者を食することが「存在理由」だとしたとき、彼は存在を持続させることそれじたいを求めるようになった。というのは、「存在理由」は、原因のようにみえて、じつは「存在」が自明のところでしかあらわれないものだからである。たたかうために、ピクルは存在する。しかし、存在じたいが危うければ、この言説じたいが成立しないのである。

このはなしは武蔵篇でも経由したことだ。武蔵の「斬り登る」生きかたは、現代では認められない。それがバキのいう「存在しちゃいけない」ということの意味だと考えた。それは、ファイターとして武蔵のありかたを否定するものではなかった。武蔵的ありようは、現代のファイターは咀嚼し、現代的に解釈したしかたで、内面化している。その最先端にいるバキが、現代格闘家を代表する立場で、武蔵的ありようを「存在」のレベルから引きずり落としたのである。芸術的価値が高くても人権的観点から認められない古い作品が、削除されないまでも非公開となり、実質的に「存在」することをやめることがあるが、それとよく似ている。そこに息づいていた技術や哲学は、現代の芸術家に受け継がれているだろう。忘れられることもない。だが、現実の「存在」レベルでの、評価の俎上には、もうあげることができない。同じように、「斬り登る」ことでしか自己実現ができない武蔵は、冷凍保存されるほかないのである。

同じように、ではないが、ピクルの生きかたは、現代では貫くことが非常に難しい。彼が小型の野生動物を狩っているくらいにとどまれば、「いちゃいけない」となることはないだろう。だが、誰かにいわれるまでもなく、いることが難しい。それならばと、動物園を急襲したり、道場破りをくりかえしたり、軍隊を破壊したり、そしてそれらをぜんぶ食べたりということをすれば、それはすぐさま「いちゃいけない」に転じるだろう(転じないひともいるわけだが・・・)。ピクルは、「存在理由」を求めて、つまり強者を求めて生きる。しかしそれを絶対条件とすることはもうできない。ただ、バキや勇次郎、武蔵にジャックに烈に克巳など、彼の経験上、「存在理由」を満たす強者がいないわけではない。その成功体験だけが、彼が「存在」それじたいを選んだ理由だろう。そのために、「存在」を観察する立場から一歩さがり、ピクルは存在の持続を選んだのである。

 

ここにみえるのはもうひとつ、かつてのピクルにとっては一体だった「食」と「ファイト」が分離しているということである。なにかを食べるということは、そのものを打ち倒し、殺すということだ。そして彼は強者としか戦わず、非常に強いものに対して、彼は友情に近いなにかを感じてもいた。それがあの、食事の際の涙だったわけである。友情を感じるということは、それを食べるということと等しかったのである。これが分離している。今回の鴨などは、もはや攻撃をしてくるような存在ですらない。ピクルもそれを期待することはなく、川のしたから急に襲いかかっている。彼のなかで、「食べる」という行為は「たたかう」という行為と別のものだということが、「存在持続」を求めた結果、実現したのだ。そしてこれは、世界の分節ということなのである。極端ないいかたをすると、それまでのピクルにおいては、世界は、「強いもの」と「強くないもの」の二色によってのみ色分けされていた。「強くないもの」は、たたかうこともないから、食すこともなく、食べることが非常に重要だった太古の時代においては、それは「存在しない」ものに等しかったろう。だから、厳密にいえば、彼の世界はただ一色、「強いもの」だけに焦点が結ばれる、とてもたんじゅんな視界だったのだ。しかし現代では、「強いもの」に出会うことがあまりない。ピクルにとっては灰色の世界だったろう。「強いもの」が見えない以上、食料も見えてはこない。そこではじめて、これまで灰色だった「意味のない世界」から、「強くはないけど食える」ものが浮かび上がってきた。彼の視界に、もうひとつの色が差し込まれた瞬間である。これはフロイトの現実原則の発見によく似ている。古代ではまったく顧みられることのなかった「強いもの」の存在が当たり前ではない世界において、ピクルはそれが「外部」のものであるということを学んだにちがいない。ピクルの知能なら、そこから「他者」の概念や「憐れみの情」を獲得するまで時間はかからないだろう。そうしてそこに、殺人や、その相手を食べてしまうことについてのためらいが生じた可能性がある。今回の描写では、カップルの会話を聞いていたうえで、その、話題のキツネとタヌキを捕まえたよ、とでもいうかのような笑顔が見られた。言語を理解している可能性があるのだ。彼の知能と、現実原則の獲得のことを考えれば、それも自然かもしれないのだ。

 

この感じでは、次回はジャックとピクルのはなしがメインになるようだ。身体能力ではダントツとおもわれたジャックも、ピクルにはまったく歯が立たなかった。だがいまのジャックには嚙道がある。身体も大きくなり、格闘能力それじたいもあのころとは比較にならないのかもしれない。武蔵もそうだが、ピクルも、必然的に0身体の欠損をともなうファイトになりがちなので、そこが心配だが、いまのピクルとならそこまでではないきれいなファイトになるのかもしれない。

 

さて、相撲がテーマだったバキ道が完結したわけで、ベルーフ的な意味では、いつものように考察まとめを書くところだ。いちおうそのつもりではあるが、とりあえずは単行本が出揃ってから、そのときなにをおもうかで決めたい。

板垣先生、お疲れさまでした。次回作も期待しています!

 

 

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第81審/至高の検事⑰

 

 

 

 

流木が伏見組についてのネットニュースを見ているところだ。九条の作戦通り、壬生が持ち込んだ武器庫の武器により、京極は銃刀法違反で逮捕された。流木は、長期実刑を食らうかもしれないとつぶやく。

 

その近くにはいまは流木のところに居候をしている烏丸がいる。ふたりは壬生の接見にいくというはなしだ。事件の経緯をまったく知らない烏丸からすれば、九条が担当するのではないのか、というところからが意外である。

警察と取引して不起訴の可能性がある、などと流木が話しているところで、壬生が「頼み」をくちにする。それは、ノートに書いたなにかをガラス越しに撮影して九条に伝えてほしいというものだ。手紙は検閲が入るからだめだと。ということは、検閲に引っかかる内容だということだ。ただの季節の挨拶なんかではないわけである。

だがこの手のことは京極のときも烏丸が断っていた。今回も即烏丸が「弁護士バッジが飛ぶ」とくちをはさむ。しかし、流木はある種の不良弁護士である。烏丸を諌めるように、接見禁止がついているひとが外部と連絡をとるのは大事ではないかと説く。ほんとかどうか知らんが、カルロス・ゴーンが逃亡を決意したのも、奥さんと会えなかったからだとか。で、接見禁止は日本独自のルールで、世界的にみても極めて野蛮だと。ふーん・・・

 

流木には流木の一貫性がある。被疑者の身柄を拘束し続けることは、ほんらい望まない自白を生む可能性を呼び出す。外部交通の遮断はそうした「人質司法」の根幹だというのが流木の持論だ。こうした手紙の撮影みたいなことは刑事弁護士としての踏み絵だとまでいう。そして、流木は撮影をするのだった。

 

烏丸はいろいろ惑うところがあるだろう、外に出て、少し流木から離れてタバコを吸う。そこへ、嵐山から電話がかかってくる。九条が烏丸を選任弁護士として指名したと。そもそも九条が逮捕されたというところから驚きなわけだが、罪状は京極の息子殺害実行犯の犬飼に逃亡を示唆した、犯人隠避である。

 

禁煙のエリアで、電子タバコをつけて、烏丸は、近くにいるだろう流木に電話して報告する。九条を告発したのは壬生であるから、九条の指名を受けるなら、流木の仕事とは利益相反となってしまう可能性がある。そうなるなら、烏丸は流木のもとを離れなければならないのかな。選任の指名が出たあとにそういうことをしてもいいのか、事務所がなくても単独で仕事を請けることはできるのか、よくわからないが、まあそこらへんはスルーしよう。

 

弁護士が万が一実刑判決を受けたら、業務停止では済まず、弁護士会除名や退会の処分となる、と流木はいう。弁護士としての死である。刑の執行から10年で弁護士の権利は復活するが、まず登録は認められない。烏丸の雨にぬれた猫みたいな顔がよりシャープになる。

そうして、烏丸はガラス越しに九条と接見するのだった。

九条は、ガラス越しの弁護士を初めて目にする。藁に見えると。烏丸は、縋れないですよと、にべもないのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

なんかすごいクライマックスっぽいんだけど、九条はもしかして12巻くらいでおしまいなのかな・・・。

 

九条は、烏丸のことを「藁」という。烏丸はこれに「縋れないですよ」と応えているので、むろん、追い詰められたときにつかもうとする藁のことと受け取っている。が、これは「藁人形」のようにも読み取れる。

 

これが縋る「藁」だとすると、九条は追い詰められていることになるが、前回の不敵な笑みもあり、むしろこれは余裕の表現のようにおもわれる。要するに、ついに烏丸が心配していたとおりの状況になってしまい、疲労感と皮肉の感性とともに、諧謔的にそういっているのかもしれない。まあ、じっさい追い詰められているのかもしれないが。

たほうでこれが「藁人形」だとすると、けっこう意味は広がってしまう。「藁人形」にはいくつかのニュアンスやイメージがあるからだ。たとえば、ひとつにはたんなる操り人形的なイメージでの、サンドバッグ的な意味での空洞の存在であり、もうひとつは、民法学者のいう「ワラ人形」であり、もうひとこえということであれば、ツイッターなどで散見される「ストローマン(藁人形)論法」などにあらわれる藁人形である。「呪いの藁人形」なんてものもあるか。だが、それらのものは「ダミー人形」、つまり「くぐつ」のイメージに集約できそうである。つまり、実在するかどうかに関わらず、ある人物を模して造形された、実情はからっぽの存在ということなのだ。

 

一般の用法と異なり、法律上ではある事実を知らないことを善意、知っていることを悪意というが、民法学でいうワラ人形は、なんらかの財産が悪意のなか移動する、そのあいだにさしこまれた善意のものをいう。なにか不当な利益を得るために、虚偽の契約書を作成し、AがBに土地の移転登記を行ったとする。しかしその後、Bは所有名義が自分であるのをいいことに、勝手に善意の、つまりなにも知らないCにこれを売却してしまった。いやはなしがちがう、ということで、Aは土地を取り戻したいが、このとき、善意のCは保護され、Aの訴えに応じなくてもよいことになっている。なにも知らないのだから当然のことだ。問題はこのCがDに土地を売るときだ。このDは悪意のもの、つまり、AB間の虚偽表示のくだりを知っているものとする。このときAは、善意のCからは土地を取り戻せなかったが、悪意のDからは土地を取り戻せるのだろうか。Dは悪意なわけだし、保護する必要はなさそうなので、取り戻せそうな感じはする(相対的構成)。しかしそれがルールとなってしまうと、Cがかわいそうなことになる。Cがもし土地を売りたいと考えても、このルールでは、新たにその土地を購入した誰かが悪意(AB間の事情を知っている状況)だった場合、Aから取り戻しの訴訟を起こされてしまうだろう。そんな土地は誰も欲しがらない。つまり、売れない。Cは、土地を売ろうとしたら、この件について知らないものを探し出すという、不誠実な態度を強いられることになるのである。というわけで、ここでいうCのような善意のものが介入した場合、取引の権利関係は確定すると解釈するのである(絶対的構成)。このCをワラ人形と呼ぶ。現実には例外ルールが設けられるようだが、要するにこれは悪用可能なので、悪いことをしようとするものは、Cというワラ人形をもってくることになるわけである。

 

またストローマン論法は、相手の主張を意図的に歪めて解釈したり、部分的に強調して取り上げたりすることで、もはや主張人の原型をとどめていない架空の「主張人ストローマン」を捏造する方法のことだ。ツイッターではサービスの制約上、発言が部分的に取り上げられ、炎上するということはよくあることだが、ストローマン論法ではこれを意図的に行い、みずからに有利になるようはなしを進めていくのである。

 

いずれにせよ、これらの「藁人形」ということばのもつ響き、ニュアンスは、「目的を達成させるために利用される人型のなにか」というようなイメージに集約できそうである。しかもそれは、もともと存在している「本人」の印象や気配を残したまま「代理人」として機能する点に特徴がある。「善意のC」は、ワラ人形である以前に、Cという人間である。が、これが「善意である」という点において悪意のなかに活用され、ワラ人形と化す。「善意である=なにも知らない」ということは、それじたいではなにも意味しない。しかしそれが(一般的な意味であれ法的な意味であれ)悪意のなかで活用されると、ワラ人形になるのだ。

ストローマン論法においても、歪められた、またいちぶが切り取られたもとの発言やその発言者じたいは存在しており、多少歪められていても、接続関係がまったくないということはほぼありえない(まったく関係がないようではそもそも論法として成立しないだろう)。「本人」の気配がする、つまり、ちょっとそういうことをいいそう、ということを受信者が感じてしまうからこそ、ストローマン論法は信憑性をもって機能することになる。

これは「呪いの藁人形」ですらそういうぶぶんがあるだろう。呪いにおいては、髪の毛をいれるなどの条件はあるものの、ただの藁で編んだ人形に与えたダメージが本人にいくというのだから、まさに「代理人」である。

 

そして、いうまでもなく、弁護士は、法律の専門家として、「本人」である依頼者のかわりに法務を担う「代理人」である。こうした本人・代理人関係において、本人がもつ権限を代理人に委ねることで成り立つ関係を「プリンシパル・エージェント関係」という。依頼人は、みずからを弁護したくても、その能力もないし、そもそも捕まっていては自由に動くこともできない。そこで、みずからを守る権利を弁護士に預け、目的を達成するために「人型のなにか」として動いてもらう、というわけである。

むろん、この読みには致命的な欠陥がある。以上みた「藁人形」は、基本的によくない意味で用いられてきた。よくない意味というのは、「本人」の与り知らないところで、無断で「代理人」がでっちあげられている、というようなことだ。「代理人」という点で藁人形と弁護士は交差するものの、存在理由という点で両者は決定的に異なっているのである。異なってはいるが、九条がどういうつもりで「藁」という語を用いたのかは、少し様子を見てみなければわからないだろう。ガラス越しに見た弁護士は、じぶんで想像していたよりずっと空虚で、「でっちあげ」っぽかったのかもしれない。じっさい、「縋るもの」としての「藁」だったとしても、これはもともとは「溺れるものは・・・」ということわざなわけであり、頼み、縋るにしてはいかにもはかないものなのだ。わずかなユーモア感覚のようなものもみえるのであっさり言い切ることはできないが、やはりここには、すべてを肯定できるというものではない、微妙な評価の感覚が流れているようなのである。

 

ただ、これらの九条の感覚は、たんに「ガラス越しにみた弁護士」一般にかんするものにとどまるのであって、烏丸の実力とは無関係だろう。じっさい、烏丸は九条の指名でここにやってきたのだ。ここまでのところは、九条じしんの自己評価も含めた「弁護士一般」についての皮肉ではないかと、こういうふうにおもわれるのだ。

 

 

今週、もうひとつ印象的だったのは、烏丸の喫煙だ。烏丸は以前、第24審で、自殺した親友・有馬を思いつつ吸っていたことがあるが、烏丸じしんは喫煙者ではない。それどころか、タバコを吸う人間の気持ちはわからない、とまでいっていた。有馬は喫煙者であり、烏丸は彼が亡くなったホテルの部屋まできて、有馬と同じタバコを吸っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

烏丸は、おのれの優秀さもあってか、四角四面にしか物事をみれないぶぶんはあった。その意味では蔵人側のようにすら見えるときもある。蔵人は、ごく単純化していえば、法律文書のような言語が世界をあまねく覆い尽くしているという世界観において、善悪をくっきり分けて判別する人間である。対して九条は、こうした言語観の見落としを拾う、「象を飲んだうわばみ」を透視する星の王子さまスタイルだ。烏丸は、おそらく若いということもあり、逐語訳的に物事を読み取る段階をまだ出ることができていない。だから九条に関心をよせたわけだが、今回も普段同様、壬生の撮影の依頼を即座に退けていた。それを受けて流木は、これは踏み絵だという。これまで九条とともにいて覆されなかった彼の言語観が、流木のふるまいひとつで変わるものか、という疑問はある。流木は九条との関係においては第三者となるので、彼の言動によって九条が相対化され、ようやく価値判断ができるようになり、そうした踏み絵的なふるまいも認めるようになった、という可能性はあるが、どうもそういう感じは弱い。禁煙箇所でタバコを吸うふるまいは、明らかに烏丸の今後、つまり弱い違反行動を厭わない行動指針への転向のようなものを示しているが、彼がすんなりそういうふうに考え方を変えたということが、どうもこれまでの流れになじまないのである。つまり、おそらく烏丸は、まだ「考えかたを変えた」というところにまでは至っていないのである。ではなにをしたのかというと、有馬のときと同様、わからないものを理解しようと努力しているのである。ここで喫煙はそういうシンボリックな働きをしているのだ。

 

しかし、象徴は象徴である以上のものにはならない。「犬」という漢字はワンワンほえないのである。タバコを吸いたいという動機は、タバコを吸うという行動だけではトレースできない。なぜなら、動機は必ず行動の前にあるものだからだ。ただ、推理のために必要な条件とはなるだろう。有馬回のじぶんの感想を読み返してみて思い出したが、烏丸はプロファイリング的な推理力に長けている。家具の状態や部屋の様子から、家主の性向や心理状態を見抜いていくのだ。これは、正しく推理能力である。世界最初の推理小説といわれる「モルグ街の殺人」を書いたエドガー・アラン・ポーは、同時に怪奇小説の作者でもあった。当時のイギリスでは大量生産により生活に「モノ」があふれており、家主たちはまるでみずからの生活の動線を想起させることを最初から目的としていたかのように、インテリアにじしんの痕跡を残していった。その家主が死亡した場合、わたしたちは家具を通じて、その死者を感じることができる。家主が生きていたときの行動を縁取るようにしてセッティングされた家具たちが、そのときの動きをそのまま浮ばせるのだ。これは、もちろん、探偵が推理を行うときにつかう観察力と同形の感性となる。推理能力とはじっさい、ある種の霊感なのである。

この意味で家具は隣接的な表現となるが、烏丸は、そうした「家主の縁取り」たる家具を、ただ観察するばかりでなく、いま空白となっている「家主」の位置に、みずからを置くことでコミットするものなのだ。彼には、タバコを吸うものの気持ちはわからない。もちろん、有馬や九条の気持ちも、ほんとうの意味ではわからない。だがそれは誰にとってもそうだろう。誰も他人の気持ちを真に理解することはできないし、他人の感受性を使ってものごとを感じることもできないのだ。だからわたしたちは、じぶんじしんの記憶と、ある種の飛躍をともなった推理を配合して、コミュニケーションをとることになる。だが、烏丸のようなタイプは、そこに「じぶんじしんの記憶」を配合することをよしとしないのである。それはまったくちがうもののはずだから。それは決して、ほんとうには理解できないものである。だが推理することはできる。くわえて、現在空白になっているその場所に身をおけば、コミットすることもできるかもしれない。こうして烏丸は、独特のやりかたで「理解できないもの」との断絶を解消しようとするのである。

 

ここでタバコはそうした志向性のあらわれを意味するだろう。では、いま彼が理解できないものとして、それでもコミットしようとするものとして浮かべているものはなにかというと、九条なのである。九条はけっきょく烏丸のいったとおりの結果に陥ってしまった。しかし逆にいえば、九条はそうまでして自身の方針を貫いたということである。ここに流木の踏み絵云々も深く響いているかもしれない。いま、もともと九条がいた「弁護士」という位置には、誰もいない。ほかならぬ九条が捕まっているからだ。つまり、そこは空白になっている。烏丸は、有馬の部屋でタバコを吸うように、空白になっている九条の椅子に移ることで、これまでは隣にいて観察・推理するだけだったものにコミットすることになるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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