すっぴんマスター -27ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第87審/至高の検事23

 

 

 

伏見組が壬生の仲間を探してまわっているのを受け、壬生が捕まっている状況で、久我がかわりを務めてひとりひとり隠しているところだ。菅原はすでに韓国にわたっていて、久我にもはやく来いといっているが、壬生との約束があり、久我はなかなか逃げられない。

 

しかし仲間から連絡を受けてホテルまで向かうところで、久我はついに伏見組に見つかってしまった。やりとりをしていた仲間はすでにつかまってぼこぼこにされており、いわれるがままにメッセージを送っていたようだ。

若頭補佐の雁金正美がじきじきに出向いて久我を詰める。といっても、事務所が監視されていて出向く以外なかったっぽい。韓国に逃げようとしていたことも、たぶん捕まっていた仲間からすでに伝わっている。「責任を取らず逃げる人間は何もしてねェ人間よりタチが悪い」と、京極みたいな説教だ。なんなんだろうな彼らのこの半グレに説教する感じ。

その説教の調子のまま、全員伏見組に入るよう雁金はいう。どことなくマンスプっぽい雰囲気もただよう。半グレを愚連隊と呼ぶところなどもどことなく懐古趣味だ。

 

 

京極と山城が面会中。取調べがきついから警察にウナギの差し入れをしておいてなどといっている。それから壬生についても調べるよういってあった。山城は文句をいっているが、調べはしたらしい。壬生は京極じしんにいわれて隠していた拳銃と弾をもって出頭した。だが不起訴になるという。あのときの描写では、壬生はいきなりバッグをもって嵐山のところに自首したようだったが、じつは裏取引をしており、時間も場所も決まっていたらしい。その取引というのは、九条である。九条が犬飼に逃亡指示を出した件を持ち出すことで、壬生は起訴を免れ、嵐山は憎い九条を逮捕できたというわけだ。だが、それだけではない。九条はもともと京極の弁護士でもあり、京極もかなり信頼していた。この取引は京極の切り札を封じることにもなったのだ。現状伏見組が久我らを拉致していることをおもえばそう変わらないようにもおもうが、それがわかっているだろうにそうするということは、壬生にとって京極がどれだけおそろしいかということかもしれない。京極がなんらかの九条パワーで怒りとともに出所するよりはマシということなのだ。

「守護神」を封じられたことを理解した京極は、顔を歪めて怒りを新たにするのだった。

 

九条の勾留の日々。嵐山は、九条が犬飼に1年後の出頭を指示したことを取り上げる。1年ってなんだろう、というはなしだ。嵐山は勘と経験に基づいた推理で、京極の息子・猛が行方不明になっていることが関係しているのではと言い当てる。嵐山はそこが関係してるの知らないんだっけ? なんかわかんなくなってきた。じゃあそれまで犬飼はなんの「犯人」だったのかな。拳銃の件でということか? もしその共犯で逃亡を指示、しかも1年ということなら、たしかに奇妙な感じがする。単行本にアンダーニンジャみたいな人物相関図つけてくれないかな・・・。

で、その1年というのは、例の遺体の死因特定が困難になる期間で、そうなると不起訴になる可能性が高くなる。犬飼が猛を殺して埋めて、そう指示したんだろうと、嵐山は的確に言い当てるのだった。

九条は20日カンモクパイを当然狙っている。証拠がなければ20日以上勾留できないので、完全に黙秘していればよけいな証拠を捻出してしまわなければ釈放になるという、九条がいつも依頼人に伝えていたワザだ。しかしそれは警察も20日のあいだになんとかしようと本気を出すということも意味する。黙っている相手には人格攻撃でダメージを与えるのが定石だ。そうして弱れば、あることないことぽろっとくちにするかもしれない。そんな態度だから嫁に逃げられ壬生に裏切られると、嵐山も説教モードだ。なんか、なんだろう、九条は嵐山に、壬生は京極に、久我は雁金にという具合に、逃げ切ろうとする側には専属の説教屋がいるような感じだな。

九条はトイレなどいって時間をかせぐ。

 

独房のなかで九条はペンを借りてノートに状況を記載していく。これも九条じしんが依頼人にそうするようにすすめてきたことだ。金本のときは記録用にノートをわたしていたが、しずくのときにはおもったことを書くようにしており、こころの整理というような意味もあるようにおもわれる。じっさい、なんにもなくても黙っているという行為はキツイ。SNSに誰が読むでもない日常を書くのと動機の面ではよく似ているかもしれない。キツイことあっても、文章にして書き出すとすっきりすることあるからね。なにより自分自身でじぶんがどう考えてるのか理解できたりする。

 

書きにくいペンで九条は、まず弁護士的な視点で状況を分析する。人格攻撃が増えてきている、これは、人間性と事件がつながっているものとおもわせ自信を奪う方法だと。なるほど、そうして自信を失えば、「沈黙」という行為の後ろ盾になっているなんらかの戦略も、不安なものに見えてくるかもしれない。

鉛筆削りで自殺をしたものがいたらしく、そのせいで鉛筆類全般が使用禁止になっており、それでこの書きにくいペンということだ。

取調べについて九条は端的に「無意味」といっている。弁護士資格がかかっているというより、苦境に立たされた自分がどう日々に向き合っていくのかが問われていると。九条はそういうが、そういう心理状態こそが、人格攻撃の導き出すもののようにもおもえる。

そしてひとりでいる九条は寒さも感じる。思考は環境に影響されると。悲観的になりつつある九条は、家族と暮らしていたときのことを思い出す。たった5分、子どもから目をはなしていたせいで、なにかが起こってしまったらしい。その直後、子どもの成長は早いのだ、というはなしを奥さんがしているので、死んではいないようだが、なにか事故があった。おもちゃがちらばっているので、誤飲とか、あと転倒とかそういうたぐいのことかとおもわれる。

ともかく、おそらく仕事の電話とかで目をはなして、そういうことになった。仕事、つまり他人ではなく、家族に時間を使うべきじゃないか、九条にとって大切なものはなんなのか、こういうことを奥さんはいっている。そして離婚。このことを思い出しつつ、九条はうつろな目のままペンをバキボキとかじりはじめるのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

回想場面ではランドセルが描かれているが、九条の娘・莉乃はこのあいだ5歳になったところだ。あれからどのくらいたっているのかは不明だが、少なくとも同居していた時代は5歳以下である。小学生でなくてもランドセルを背負うことはありうるのか、そもそもこれはランドセルではないのか(いまのものはぼくが背負っていたものより段違いにオシャレになっているから、よくわからないといえばわからない)、なんともいえないぶぶんもあるが、描写ミスでなければ、このとき事故にあったのは莉乃ではないことになる。とすると、莉乃のうえにもうひとり子どもがいたことになるが、それで逆にその子が亡くなっているということならはなしはわかるが、奥さんが子の成長のはなしをしている、つまり今後のことを語っている以上そうはなっていないようなので、そうするとここで新たに莉乃よりうえの子を登場させる意味はないことになる。作品外観測になるが、亡くなっていない子がここで増えても、九条がいかに家族をほったらかしにしてきたかということを描写するうえではその子と莉乃のあいだにちがいが生じないことになり、意味がないのだ。とするとこれは、ランドセルの描写が誤りであるということになる、かもしれない。

あるいはもうひとつ考えられることとして、ありそうもないことだが、一連の回想描写が時間的に連続していないという可能性だ。奥さんが話しているコマはぜんぶで4つあるが、これがばらばらのタイミングのものであるということである。たとえば、これを逆に読んでいくと、最初にスマホをもって「大切なものはなに?」のコマがきて、その次にランドセルと子どもの成長のはなしになる。こういう小さい不和があったうえで、事故が起き、亡くなった、というはなしであれば、莉乃より年上の子どもがいて、それが亡くなり、しかも奥さんが成長のはなしをしているという状況が成立するだろう。

 

ランドセルについてはこれ以上考えてもなにもないので、ここでは、以上のことはすべて無視して、ともかく九条は仕事のせいで子守をおろそかにし、害を与えてしまったことがある、くらいに受け止めておこう。

寒さもあって悲観的になった九条は、過去を思い出して、ペンを食べてしまう。最初に考えたのは、これで救急車というようなはなしになれば、勾留執行停止ということで、外に出られるのではないかということだ。外に出れば、気分もかわるし、なにかヒントを拾うこともできるかもしれない。じっさい、普段の九条はそういうところにまで考えが及ぶ人間である。だが、読めば読むほど、九条の状態は悪く、そこまで考えがまわるのかな、というふうになってくる。じっさいにこのあと入院とかいうことになって外に出られる可能性が出てくるかもしれないが、それが意図的なものだったのかというと微妙になりそうだ。

 

気持ちを整理するためにこの場でのノートは有効だろうが、はためにはむしろ逆効果のようでもある。嵐山の人格攻撃は、自信を失わせるために行われる。自信がなくなると、つねに味方がいるわけではない状況で、執拗な取調べに対して沈黙を貫くことが難しくなってくる。ほんとうに黙っていていいのか、じぶんは悪くないのか、悪くないとしてなにもしなくていいのかと、こういう不安がおそいかかってくるのである。九条のばあい、じっさいにダメージを受けており、嵐山のおもわくどおりに、じしんの離婚の顛末を思い返す状況に陥っているわけである。そのトリガーはなんだったのか。ひとつには、むしろ九条の理知的強さが導いたもので、苦境に立たされたじぶんがどう日々と向き合っていくのか問われている、というくだりだろう。子どものことや離婚のことは、それじたい悲しい人生の1頁だとしても、九条には弁護士としての信念があり、それが正しいもので、かつベルーフであると確信できる状況が続く限り、抑圧することのできるものだった。気をつけなければならないのは、それは決して乗り越えではなかったということだ。九条は弁護士としての指名をまっとうしつつ、家族のことを乗り越えてはいなかった。文字通り抑圧していただけだ。抑圧されたものは病にかたちを変えて回帰する。だが、ともあれ、目の前にはそれがないという状況にもっていくことはできたわけである。ところが、嵐山の人格攻撃によって自信を失いつつある九条は、この「神から与えられた仕事」に信頼を寄せることが難しくなってきている。これでいいのかと、わずかにでもおもってしまえば、使命感によって堅固に覆われていたその内側に抑圧されていた、この記憶がよみがえってくる。しかも九条はここで、きわめて理知的に、禁欲的に、「どう向き合うか」などということにみずから直面しているのである。万全ではないこの状況でそんなことをすれば皮一枚でつながっていた信念の鎧も崩壊する、というわけだ。

ただ、たんに「崩壊」といってもさまざまで、とりわけ痛みをともなう行為には、本人なりの理屈があることも多い。そこで勾留執行停止を狙ったのでは、というようなはなしにもなるが、それはおいておいて、あくまで九条の内面になにが起こったのかということに的をしぼると、やはり「食べる」という行為が、なんらかの意味を宿すのではないかなとおもわれる。書き出し、それをじぶんで読み、納得するという一連の行動は、もやもやとした気持ちでなにが問題だかわからないなかすすむとき、主観に一定の秩序をもたらすものとして有効だ。なにかに心身が損なわれたとき、ダメージをひきずるのは、その全貌を理解できていないからである。ダメージは、主観によって認識されるので、当然その状況も主観的に認識される。しかしこれを書き出すことによってひとは、地図でもみるように事態を客観できるようになる。物事の関係性や大小、利害関係など、主観の範疇ではないところまで目が届いたとき、ようやくひとはそれを現象として消化できるようになるのだ。しかし九条ではこれは逆効果になっているようにおもわれる。なぜなら、以上の図式でいうと、九条は家族の思い出を弁護士の使命によって上書きするものだからだ。九条は、いつもの冷静さで状況をつぶさに分析しようとする。だが、嵐山の人格攻撃により、状況の分析はいつしか自己分析になっていく。そのとき、彼は、弁護士の使命を大義に抑圧してきた記憶と直面してしまうのだ。

 

ほんらいは、そうした抑圧については、直面することが望ましい。そのように語らずに済ませようとする悪い記憶のことをトラウマという。トラウマは、ドーナツの穴として、「そこにはなにもない」という身振りを記憶の持ち主に強制し、ぜんたいをいびつなものとする。だから、いつかひとは「いや、そこにはたしかにそれがある」ということをいえるようにならなければならない。だがそれは、すぐにそうせよというはなしではなく、タイミングもある。少なくとも拘留中は避けたほうがいいだろう。九条のペン食いは、このことに気付いた結果ではないかとおもわれる。つまり、自己分析をやめるということだ。内省それじたいは拘留中でも望ましく、これまで九条が依頼人にそうするよういってきたのは、まさにそういうことだったはずだ。ノートにあらわれる内なるじぶんは、じぶんの味方であるはずである。ところが、抑圧された記憶をみずから手際よく暴いてしまう九条にとっては好ましい状況にはならない。だから彼は、自己分析をしないという決意を身振りでもって示すのである(そしてあわよくば勾留停止)。

 

 

今回気がついたことだが、本作では誰かが誰かに説教する場面が妙に多いようにおもわれる。今回は、雁金が久我に、嵐山が九条に説教していた。これはたぶん、蔵人的なものと九条的なものの対峙が、作品ぜんたいに影響をもたらしているということだろう。わかりやすく二元論的にいえばロゴス(言葉)とパトス(感情)の対立ということになるが、九条はパトスといって片付けられるようなたんじゅんなものではないので、なるべくこの語は避けたい。

説教は、物事のある面について、ほんらいはこうあるべきだという当為の言葉で語られる。行動半径の定まっている状況、たとえば仕事であるなら、当為の言葉は有効だろう。もっと「常識」とかそういうレベルでもまだ意味はある。しかしそれが、道徳とか倫理とかいうはなしになると、当為は暴力性を帯びることになる。あるせまい状況では有効な「~するべきだ」が、広いところでは議論を呼ぶものとなるのだ。そういう、ふつう議論を呼ぶところのものについて説教をするものは、ある種の無邪気さとともに暴力的な道徳を語るものである。蔵人や嵐山はこれに該当し、法の前に善悪が決定していることを前提に行動する。対する九条は、そうした善や悪といった言葉の区分が多くのものを見落とすことを知っている。また、考えてみれば壬生らの「半グレ」という立ち位置も、ヤクザからすれば奇妙なものであっても、彼らの見落としにほかならないわけである。おもえば壬生は京極にしょっちゅう中途半端とか半端だとかいわれていたが、この「半端」なぶぶんが、まさしく言葉の拾い落としなのである。無邪気に言葉の秩序を信奉するロゴス側の人間からすれば、これらは正すべき説教の対象なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第4話/腕っぷし試し

 

 

前回

 

 

更新が遅くなってすみません。最近また眠れない感じが続いててうまく時間配分が・・・。もう火曜なので、短めにさくさく書きます。

 

 

鎬昂昇がジャック・ハンマーとたたかう!みたいなはなしになっていたとおもうが、今回はどちらも登場せず、花山組の描写からはじまる。なんか色黒のヒゲ男が用心棒として雇ってもらおうとしているところだ。バキ外伝、花山が主人公の『疵面』ではよく見られた風景である。たいがいは身の程知らずの色黒だったが、今回の色黒はわけがちがうようである。バキと縁があると。時代劇じゃあるまいし、用心棒なんていまどき・・・みたいなことを木崎はいって追い払おうとしているが、本音は、組長が日本最強の花山だからだろう。

隣室ではなしを聞いていたという花山が入ってくる。そして、花田と呼びかけるのだった。花田だったのかお前は。久しぶりやらよく覚えていないやら見た目が変わっているやらでただのモブの道場破りに見えた。

花田は本部の弟子で、初期のころはそうとうに強い感じで登場した天才キャラである。が、けっきょくは斗羽さんのかませ犬になってしまい、以後は加藤とたたかったくらいで、いるのかいないのか、花山の顔の傷くらい不安定な存在になっていた。しかし、考えてみれば本作は『刃牙らへん』なのである。鎬昂昇はともかくとして、花田のようなものに照明をあてるのはおもしろいかもしれない。忘れてるキャラはたぶんまだたくさんいる。

 

花山は、銭に不自由しているのか、腕っぷしを試したいのかと、花田に訊ねる。花田と花山が話していて、書いていても読んでいても混乱する。強くてメガネでかっこいいのが花山で、かつて強くて色黒ヒゲで浮かない顔をしているのが花田だ。

花田はもちろん花山が誰だかを知っている。じぶんの要求が後者、腕っぷしだとしたら?ということで、ふたりは駐車場で向き合うことになるのだった。

 

うれしい気持ちを隠せずぺらぺらしゃべる花田に、木崎がすでに開始している、舌を嚙むぞと、警告する。まだしゃべる花田の顔に花山の蹴りが伸びる。花山の場合、蹴りはナチュラルに出てくる技ではないので、目を覚まさせた感じだろう。花田はぎりぎりでかわしたが、頬がぱっくり切れてしまった。鈍重そうだが、花山理論では破壊力にはスピードもかかわっている。意外と速いのかもしれない。

 

なぜか花山もちょっとうれしそう。格的にはかなり開きがあるようにおもわれるが、作中デビュー時のことをおもえばそう差があるものでもなく、花山もそれをわかっているのかもしれない。

メガネを木崎にパスし、花山がふりかぶる。花田は伝説のふりかぶりが見れて大喜びだ。圧倒的なタフネスに支えられ、防御もなにもなく、ただ思い切り、ぎりぎり引けるところまで拳を引ききって解き放つ、花山にしかできない行為だ。

どこで聞いたのだか、花山からはカウンターがとれない、というはなしを花田は思い出す。突進するダンプからカウンターがとれないように。だが、花田はやってのける。岩みたいな拳をかわして抱え込み、背負い投げするのであった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

ここで花田というのはサプライズだったけど、『刃牙らへん』はそういうはなしなんだよ、というわかりやすい表示となるものかもしれない。かつてガイアが何十巻ぶりかで突然あらわれてシコルスキーを圧倒し、登場はしていたけどひどいあつかいだった本部が死刑囚最強とおもわれた柳を半殺しにしたことがあったが、要するにああいうことを、本作ではやっていくのかも。

 

これはカウンターということでいいのかな。意外なアプローチ、でもないのかもしれないが(バキがむかしやっていた)、花山がふりかぶり、また拳を放り出す一連の場面では、なぜか花山に攻撃をさせてしまうという法則は、たしかにあった。ガードするにしても、花山が拳を放つことそれじたいは、みんな最後まで見届けてしまうのである。唯一の例外は武蔵だが、武蔵も最初は見届けてしまっていた。そのうえで、これ以上くらうとまずいということで余裕がなくなり、遊ばなくなったみたいな流れだったのだ。みもふたもないことをいえば、花山があのようにゆっくりふりかぶっているあいだに、2、3歩下がってしまえば、それで終わりなのである。

ここには、なにかこう、贈与論でいう反対給付義務的なものがあるのかもしれない。贈与論を持ち出すとはなしがややこしくなるので(そもそも贈与論は一対一の状況を想定していない)、端的に負債感といったほうがいいのかな、胸襟を開いてじぶんの恥ずかしいところまで開示してくる相手に対してはうっかりこころを開いてしまうように、ファイターは花山の心意気につい応えてしまうのである。花山のふりかぶりは、これからなにをするかということが非常に明確だ。これから、大きくふりかぶって、拳を解き放ちます、ということをひとめでわかる明確なかたちで、無防備なまま、しかもゆっくり示してくるのである、相手はそこに負債感を覚え、それを返済するために、その「これからやってくるもの」に応えようとしてしまうのである。

 

今回花田は花山をダンプにたとえていたが、そもそも、ダンプからカウンターをとるべきなのかという問題がある。歩道を歩いていれば、ダンプの正面に立つこともない。ダンプからカウンターをとれるかどうかという問いじたいが、ふつうはあらわれないのである。ここでそういう問いがあらわれるのは、その負債感ゆえであるとおもわれる。ファイターは、ダンプで突進してくる彼をみて、車道に出ざるを得ない心理に陥るのである。これは、考えてみれば花山の強さの由来なのかもしれない。花山の心意気ゆえに、相手はみんなフェアな態度をとってしまう。いまからやってくる拳を、その威力が尋常ではないと知りながら、その場を動かず待ってしまうのだ。

花田はその現場でカウンターを実現した。この投げには花山じしんの拳の勢いものっているので、交差法以上にカウンターらしいカウンターとなっている。ただ、ダンプのたとえでいえば、チキンゲームで、衝突すると見せかけてぎりぎりでかわし、壁に激突させたようなもので、ある意味花山の魔術的仁義を裏切るものにはなっているとおもわれる。だが、花田は本部の弟子だ。本部というと戦場格闘技なので、武器術にも長けるものであり、なんでもありなら武蔵にも勝ったことのある強者である(逆に、武器がそれほど一般的ではない状況ではあまり強くない)。花田には、同じく弟子であるガイアのようには、そういう気配がないが、武器をつかえるかどうかはともかく、その精神性は継いでいるはずだ。それは、戦場のリアリズムだ。そこでは、相手の心意気に引っ張られてついこちらも「最善の方法」ではない行動をとってしまう、などということは、ないとはいわないとしても、少ないだろう。とはいえ、その裏切りはわずかなもので、花田は、花山の伝説の拳を前に、多くのファイター同様無邪気に対応していた。このカウンターはその無邪気さと戦場格闘技のリアリズムをほどよく混ぜたものになっているように見える。

 

ただ、驚いてはいるが、木崎にぜんぜん焦っている様子がないので、ダメージはなさそう。まあ、ないだろうな。武蔵にずたずたに斬られてふつうに生還してるひとだから・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第86審/至高の検事㉒

 

 

 

九条の弁護士となった烏丸が九条と向き合う。すると、思い出すことがあると烏丸はいう。父親が殺された「東海道新幹線新横浜駅連続殺人」の事件だ。この担当検事が、九条の父、鞍馬行定なのだ(フルネームはたぶん初登場)。今回はその回想である。

 

裁判は、殺したのか殺してないのかというところではなく、動機についてもめているところらしい。犯人はまず住居のアパートで、隣人の中林敏子を小野で殺した。なんでも、メールのなかみがツイッターにもれていて、それは中林がおしゃべりでばらしたからだというのだ。なんだかよくわからないが、中林とはメールをするなかではあったということかな。拡散主の語尾になすがついているのも、中林と一致していたらしい。

こういうことを、犯人は斧で中林の頭を叩き割りながら絶叫していて、それを寝たきりだった彼女の夫が聞いていたと。ということは、中林はけっこう年がいっていたのか。それでも、まだ若そうな犯人とメールをしていたということになる。

犯人の表情、言動は、ちょっと、日常では関わり合いになるたくない感じだ。まず鞍馬は、絶叫していることの意味を訊ねるが、自分で考えろととりあわない。が、なぜ殺したのかと聞かれると、ぺらぺら妄想を話しはじめる。とても興味深い反応であり、彼が叫んでいた内容はいわば客観的事実なわけだが、それについてはこたえず、理由にあたる妄想に関しては、立て板に水でまくしたてているのである。彼がじぶんの所在地をどこに見ているのかということがよくわかる。

 

中林は秘密結社の黒幕で、ずっと監視されていた。世界の支配者が電磁波を使った人類滅亡計画をたくらんでいることに気がついたじぶんは、SNSでそれを暴露しようとした、が、黒幕たる中林が電磁波兵器で攻撃してきたから正当防衛したと。「電磁波兵器」とは、その、ツイッターの拡散のことだろうか。彼のなかでは「SNS」と「電磁波兵器」が、同じものを指すことばとして同居しているようである。

こういう人間であるから、彼の弁護士は当然心神喪失を狙っているのだろう、それをくじくべく、鞍馬は細かい点を指摘していく。まず犯人は薬を服用しているが、服用していないとおかしくなるのでなく、服用するとおかしくなるものらしい。しかし、通院履歴にしたがえば犯行時薬はなかったはずだというのである。

だが指摘はその程度で、犯人の「正気」を引き出すような手には出て行かないようだ。中林を殺したあと、犯人は彼女がもっていた新幹線のチケットを奪い、乗車したのだという。かなりの謎行動だが、理由としては、その席の隣に座った人間が「アーリマン」、ゾロアスター教の闇の神だというお告げがあったからだそうだ。なるほど、ほんらいその席には中林が座るはずだったわけだから、もし、たとえば友達と旅行にいくとか、そういうはなしを犯人が知っていたとしたら、隣が中林の知人である可能性はかなり高くなり、彼女は黒幕なのであるから、その知人は死ぬべきであるということになるのである。

そして、彼は隣席のものを襲った。それをとめに動いたのが烏丸の父、克信だったというわけだ。克信までも殺したのはなぜかって、邪魔されたからじゃないのかなとおもうが、彼によれば克信の正体はルシファーだったのだ。ルシファーはキリスト教のサタンの名前だよね。アーリマンとルシファーはどっちのほうが強いのかな・・・。

 

どう見てもまともではない症状なわけだが、判決は死刑、心神喪失は認められなかった。

 

判決後、母親が弁護団に挨拶するということで、烏丸を廊下において少し離れる。その、角の向こう側に、これもまだ若い苦情と、兄の鞍馬蔵人がいる。烏丸ははなしを盗み聞きするかたちだ。九条はいまより髪が短く、それから、いまの落ち着いた、ものごとに動じない印象が弱く、少年院ウシジマくんの丑嶋のように言葉数が多い。対して蔵人のほうが、いまの矩形で構成されたような印象から遠く、チャラ男みたいなロン毛である。まだ九条は司法試験に合格していない段階のようだ。

 

いまのふたりは思想のちがいが人格的嫌悪感にまで及んでいる感じで、まともな会話は不可能だが、このころはまだ仲のよくない兄弟といった感じだ。死刑はありえないとし、父のドヤ顔が気に入らない九条に、蔵人は間人如きが判決を批判するなという。父の悪口をいうなとも。こうして書き出してみると、いっている内容と衝突の具合はいまとかわらないようだが、やはりまだ兄弟らしい軽口感は残っている。蔵人はこのころからはるかに九条を見下しているが、九条は九条でそれにムカッとくるのを隠さないくらいには子どもっぽい。

あれが心神喪失じゃないならなにが心神喪失なんだよと、九条の意見はもっともなものだ。六法全書をちょっとかじった2ちゃんねらーみたいだと、ムカつくけどやはりまだ軽い感じのある蔵人に、続けて九条はいう。この判決はマスコミが被害者遺族感情を煽った結果だと。つまり、大衆におもねったものなのだ。マスコミは二元論で叩く相手を徹底的に叩く。これでは事実より感情重視の人民裁判だ。

 

 

「裁判は人が作り上げたものである以上、法以外のものから影響を受ける。

 

だからこそ大衆心理と法律は分けて考えるべきなんだ」

 

 

たのみは二審で流木先生が弁護を担当したら・・・ということだが、控訴するかどうかは不明だ。で、この会話を烏丸は聞いていたわけである。このときの烏丸には、父を殺された当事者であるということもあってだろう、九条の言い分はわからなかった。しかしいまはわかるという。人だと憎しみ、災害だと哀しみ、だったらあの事件は災害だったと思うことにしようとしたと。

 

 

 

つづく。

 

 

 

九条と蔵人の若い時代の会話が見れたのが大きい回だった。基本的な思想は変わらないけど、それが職業人格レベルにまで落としこまれたのはじっさいに仕事をはじめてからっぽい。若い時代には机上の空論が真理以外のなにものでもないように感じられて、社会に出てから障害やそれまで気付けなかった視座に目がいくようになって、多かれ少なかれ転向を迫られるものだが、ふたりはよりいっそうそれを強化して哲学としていったというところのようだ。

 

とはいえ、傍目にはむしろ逆の態度のように見えるのもおもしろい。いまの蔵人は、徹底的に「悪」を討ち滅ぼすためにかたくなな法的思考を意図的に貫いている。たほうで九条は、そんな蔵人が必然として見落とすことになる「見えないもの」を拾って仕事をしている。直観的には、「見えないもの」はむしろ大衆感情と親和性が高そうにもおもえる。じっさい、最初に今回の九条の発言を読んだときは、ぼくもおやとなった。若い九条がいうのは、まるで現在の蔵人が実践している冷徹な法的思考のようだったからだ。しかし、そうではないのである。無邪気に言葉の分節作用を信じきり、法的思考を貫徹するためには、悪を「悪」であると、最初から前提しているような態度が必要になるのだ。つまり、あのように確固たる意志と表情のなかに論理的な法的思考法を呼び出しながら、じつは蔵人のほうこそが、大衆感情的な、「これは悪である」と無邪気に断じてしまうような態度を内容しているのである。蔵人はおそらくこれを理解したうえでやっているっぽい。だからこその強さが宿るということはありうるが、そのいっぽうの九条は、たとえば壬生を、法以前の前提として「悪」と臆断することを巧妙に回避してきたわけである。彼のまわりに悪党ばかり集まるのはその結果だ。法がそのように呼びつけるのでない限り、悪は「悪」にならないのである。

 

おそらくこの時点での九条にはまだ、法の原理に見落としが生じうるということには気がついていないのかもしれない。法以前の世界で、壬生は悪でも善でもないかもしれない。「いやいやどう考えても悪だろう」というのが、今回九条が指摘した大衆感情であり、「どう考えても悪なのだから、悪として裁かなければならない」とするのが蔵人や嵐山の立場だ。では、法がもし壬生を「悪」だと判定したのなら、壬生はどんな場合も悪になるのだろうか。そうではないというのが、現在の九条の到達点ではないかとおもわれる。そうでなければ、犬飼に逃亡を示唆したような行動に出ることはない。このとき、九条にとって法とは、一種のあてはめに過ぎない。「犬」と「狼」のちがいは、言葉のちがいでしかない。「狼」という概念がない世界で、彼らはすべて「犬」になる。花の名前を5つくらいしかいえないぼくと植物学者がみるジャングルは、その豊かさにおいてまったく異なっている。そうした言葉のあてはめは、実行されたとき、たしかにちからを宿すことになるだろう。というか、それを認めなければ法治国家は成り立たない。だから、そこに至るまでにおいてやれることはぜんぶやる、依頼人の法益を可能な限り保護しようとする、それが現在の九条が弁護士の仕事として任じているところではないかと考えられる。法律を事象に当てはめる際には、大衆感情がかんではならない。それは、まだ悪かどうかわからないものを悪と決め付ける臆断を誘う。場合によっては、明らかに心神喪失のものも、死刑にしてしまう。心神喪失だろうとなんだろうとここまでのことをしたものは死刑にすべきだ、というような意見もあるだろうが、そういう判断をするのであれば、刑法39条1項は存在じたいが無効になる。それどころか、心神喪失判定が恣意的なものになり、法の権威性まで疑われることになる。だから、法律に携わるものが法律でもって世界を解釈するときには、大衆感情、もっといえば、法的思考以外のものをそこから除かなくてはならない。ここまでが若い九条のいっていることだ。だが、それだけでは足りない。それは、法的思考が世界をあまねくおおいつくすことは可能である、という信憑に基づいた理想像だ。現実には、世界は法律にあわせて歪んではくれない。にもかかわらず、法治国家においては法律に世界をあわせることになる。そこには必ず齟齬が生じる。だから、九条はそこに至るまで感情を放棄し、依頼人の利益という口実のもと、最善を尽くすのである。

 

 

ちなみに、ちょっとしたおもいつきだが、この九条のスタンス、大衆感情と法律はわけるべき、という態度は、真鍋先生の人物描写スタンスそのものといっていい。これは闇金ウシジマくんによく見えたことで、当時の記事やnote、寄稿させてもらった『闇金ウシジマくん本』などにも書いたことだが、通常の生活では接近も厭われるようなものたちにわたしたちが親近感を抱いてしまうのは、真鍋先生が作者の感情を完全に漂白しているからである。技術的には写真をつかった背景がここに一役かっている(とぼくは考えている)が、真鍋作品には、ある人物がきちんと描かれるために、「作者感情」と「描写」をわけて考えるべきである、という哲学が通奏しているとおもわれるのである。

 

 

烏丸は九条の言い分がわからなかった。だがいまはわかる。父を殺した犯人は当然憎い。心神喪失だかなんだか知らないが、理不尽に殺人がおこなわれたことにちがいはない。その理不尽な死をあがなうべきは、どうあれその実行者ではないのか、というのは、きわめて自然な発想だろう。だが、現在の烏丸はそれを災害ととらえることができるという。少し受け身すぎるのが気になるが、少なくとも、弁護士としてというよりは被害者遺族としては、憎しみではなく悲しみを抱くものとして、ある種の気持ちの落としどころを見つけることはできるかもしれない。憎しみは代償を求める。被害者の究極の望みは、状態の復元である。しかし、それはどんな場合も不可能だ。殺されたひとを生き返らせるというようなはなしに限らない。タバコを1本勝手に吸われた、というようなことさえ、復元はできない。同じタバコを1本戻したからとって、そういうことをされたという事実は消えず、不快感がたしかにあったということも、またそれが依然として残っているということも変わらないからだ。だから、かわりにそれを行ったものから自由や財産を奪うことで帳尻をあわせようとする。これは応報刑論といって、罪の反作用として罰が生じるという古くからある考えかたであり、遺族感情に応えるものであるだけに理論としてはある種の力強さがある。問題は、その罰を「誰」が、またどれだけ、つまりどのくらいの「量」与えるべきなのか、というところにある。とりわけ「量」にかんしていえば、ハンムラビ法典の有名な「目には目を」の同害報復の制限が示すように、たんに罪の反作用としてではなく、感情によるものとして罰を設定しようとしたとき、際限のないものとなる。「目には目を」は、目を奪ったものには目を奪う以上の罰を加えてはならないという意味だ。そうした制限を設定しなければ、罰には限度がなくなってしまう。なぜなら、それは決して、遺族が望む究極のところである「復元」にたどりつくものではないからだ。犯人が死刑になったところで、烏丸の父は戻ってこないのである。

そうした遺族感情は当然にあらわれるものであるし、そういう経験をしている烏丸も、これまで弁護士としてそういう見方をしてきたのかもしれない。だが九条のイソベンとしてひとかわ向けた烏丸は、そうした、じしんの経験に基づくところの法律観を更新した。あれは災害だったと、罪を犯したものの人格を考慮せずにとらえることで、ニュートラルなものの見かたができるようになるのである。

 

とはいえ、事実として烏丸の父は殺されたのであり、災害ではない。少し抑圧めいたニュアンスにおもわれるのが心配ではある。だが、弁護士として、九条的な考え方を獲得する一歩としては、まちがっていないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第3話/刀帯びし肉体

 

 

 

前話

 

ジャックの次の相手は五体が刃と化す斬撃空手の鎬昂昇だ!

拳が刃となるという点では、一流どころの空手家ではたいていそうであるともいえる。鎬昂昇が神心会の道場を訪れ、克巳とともに独歩の演武を見ているところだ。

独歩が得意の針金切りを見せている。手刀の、といっているが、よくわからないな、絵の感じだと背刀っぽいんだが・・・。掌を返したところなのかな。

当初独歩を上回る実力と考えられていた克巳だったが、なんやかんやで、けっきょく独歩のほうが強いのかなという感じにはなっていた。そういう停滞期を経た後、ピクル戦で大覚醒して、克巳はようやく超一流どころに仲間入りしたようなところがある。独歩は、この針金切りはじぶんにはできて克巳にはムリないくつかのことのひとつだという。それは逆もいえることだし、克巳的には「やったことがない」だけなんだそうだ。このあたりの親子描写はわりとほっこりポイントである。音速の技を使う克巳ができないということはないとおもうが、もしできなかったらなんかムカつくので、やらないみたいなことだろう。父親への配慮みたいなことも微量にあるかもしれない。

 

今度は昴昇の番だ。独歩は克巳が無造作に縦にもった針金を切っていたが、昴昇が挑戦するのはいかにも儚げにブロックのあいだに渡しただけの針金である。

昴昇は道着のふところに右手をしまい、凶器でも隠し持っているような構えで立つ。そして抜かれた拳は、指を鉤のように曲げた独特なものである。これを、からだを落としながら垂直に落とす。すさまじいスピード感だ。真っ二つにされた針金が転がって落ちる。昴昇は指を使ってこれを切ったようだ。針金を拾った克巳は、独歩のものより滑らかな切り口だという。これもまた、親子関係がもたらすイジワルがあるようだが、事実としてそうっぽい。独歩は、手刀は指刀より遅いと説明するが、ともあれ、克巳でも挑戦をためらう針金切りをいともあっさりやってのけたわけである。昴昇は、釈迦に説法だけどと断りつつ、実戦とはちがうからと謙遜する。

というわけで、実戦がしたい。昴昇は独歩に胸を貸してもらえないかというのである。昴昇はじぶんの拳を刃物と認識している。刃物との対峙なら、独歩にはなれたもののはずだというはなしだ。つまり、昴昇は、出血の避けられないじぶんの斬撃をつかっていく気なのである。

独歩が前蹴りを放つ。回転をしないものではもっとも威力の高い蹴りだ。これを正中線へ。ガードした昴昇が壁まですっとぶ威力である。腕にしびれは残るが、とりあえずダメージはないっぽい。

だが昴昇は武神の前蹴りをただ防いだわけではなかった。独歩の蹴り足から出血。抜け目なくヒザ裏を切っていたのである。ハムストリングに指をひっかけたとかそんなことかな。超痛そう。

 

これは勝敗をかけた試合ではなく、技術の確認のための組手だ。克巳が烈の右手でさすがに止める。なぜか「ちょちょちょ・・・」というセリフが吹きだしの外に示されたのち、「ちょっとダメだよ2人ともォ」とへんなノリで介入する。最初のちょちょちょは烈がいっているのかもしれないな・・・。

へんなノリのまま克巳がくちにした「戦争じゃあるまいし」を拾い、昴昇にひかえているジャック戦は戦争以上かもしれないぜと、独歩がいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

佐部戦では刀という無機物があいだにあることで、そしてそれが折れることで、逆に試合はどちらも無傷で完了した。しかし相手の体の皮膚を破って損壊するジャックと昴昇がたたかえば、出血は避けられないだろう。

 

最新刊でシリーズ最終巻となる『バキ道』17巻を読み返して、「刃牙らへん」という語の登場がどこにあるか確認することができた。以前書いたときは、ピクルが鴨ムシャしてるところを目撃した松永の証言をあげたが、その前に、本部とガイア、加藤とのやりとりにおいて、「エエカッコしいだ」という文脈において、「刃牙らへん」が出てきたのだった。このときのはなしは、武道の要諦は戦力向上にあるのであって、「道」が説くところの人格形成とは無関係なものだということだった。そこで、独歩や渋川は道を説かない、というはなしになる。そんななかで究極レベルに強さだけを求めたのがジャックだったと。そしてはなしはさらに展開する。そんな、道を説かない独歩らを含めた「刃牙らへん」でさえ、嚙みつきを選ぶことはない「エエカッコしい」だと。

 

ここのところの本部たちの議論は、道を説かない独歩らさえ「エエカッコしい」に含めてしまっているぶんわかりにくくなっており、そしていまだによくわからない。だが、ここで本部がいっている「エエカッコしい」は、量的な問題なのかなという気はする。様式美にこりかたまっている武道のものからすれば、道を説かない独歩らは相対的には「人目を気にしないもの」だが、そこにジャックの存在を投入したとき、彼らはみんな(相対的に)「エエカッコしい」になってしまうと。なぜなら、嚙みつきを選ばなかったから。とはいえ、彼らが嚙みつきをしないということはないだろう。特に実戦性に優れたバキや勇次郎、また独歩などは、平気でつかうものとおもわれる。それに特化しないだけだ。だがともかく、強力無比でその点においては誰にも備わっている嚙みつきを、彼らは中心におくことがなかった。「エエカッコしい」だからだと。こういうはなしである。とするならば、「刃牙らへん」の視点からするとこれはカッコわるいものだということになる。たとえば、くりかえされる表現として、これが「オンナコドモ」の技術だということがある。このご時世でも、むかしより弱まってきているとはいえ、おもに光成などのくちを通じて、バキ世界ではあきることなく「男の世界」が明言され、描かれてきた。こういう世界で、嚙みつきは弱者が最初からもっている武器である。こういうものを喜々として用いるのはちょっと恥ずかしいと、こういう価値観が、じっさいのところ刃牙らへんがどうおもっているかは不明だが、あっても不思議はないという状況なのだ。なぜ恥ずかしいかというと、「人目」を気にするからだ。「人目」とは、他人からの評価のことである。だがジャックにとってはそんなことはどうでもいい。「人目」を気にして強力な武器を控えるものは、ジャックと対比したときには強さを求める気持ちにおいてどうしても劣るということになるわけである。

 

もうひとつの考え方として、うえの選択のはなしにも通じることで、刃牙らへんとジャックではそもそも議論の対象が異なっている可能性がある。ふつう、あの格闘技の「技術」というときには、「体系」が思い浮かぶ。打撃格闘技では左足を前にガードをあげた構えが標準になり、空手ではこれを左自然体と呼ぶ。古流ほど複雑な構えを保存しており、また利き腕によってもかわるものなので、一概には言えないとしても、タイピングのホームポジションのようなものとして、この構えは考えることができる。ここから、無数にもおもえるあらゆる動作が現れる。それは戦っている相手に対応した結果としてのことだ。そしてその対応の結果動いた姿勢は、さらなる変化を感じ取り、再び無数の可能性を宿したまま動き続ける。この動作の連続性を体系化したものを「格闘技術」と呼ぶのである。だから、たとえば「空手」とは、じつは指差していうことのできない非実在的な「ありよう」にほかならない。国家が想像の共同体であるように、「格闘技術」もまた想像の技術体系なのである。嚙みつきは、この体系の網目に組み込まれうる選択肢のひとつでしかない。

こうした技術観を発散型とすれば、ジャックは収束型ということになる。発散型は、ひとつの標準から逸脱を続け、あらゆる状況に無数の可能性を想定し、あいまいに、広く視野をとって対応していくものだ。収束型たる嚙道は、逆である。まず、無数の可能性を宿した「相手」が目前にあらわれる。嚙道は、そこにありうる相手の動作をひとつずつ解消していき、ついに自身の「嚙みつき」の動作に収束させるのである。だから、これもまた一概にはいえないことだが、嚙道は原則的にカウンターに優れていくことになる。ここが嚙道の道たる唯一のゆえんかもしれない。カウンターは高等技術であって、一朝一夕にできることではない。嚙みつきじたいは誰でももっている武器ではあるが、それを戦闘のなかにねりこもうとしたら、非常に高度な格闘技術を必要とすることになるのである。

 

こうしたわけで、バキらは「エエカッコしい」である以前に発散型なので、嚙みつきを結果にもっていく嚙道的な発想は、そもそももたないのである。だが、それを誰かが「エエカッコしい」だと受け取るのは自由だ。それが「刃牙らへん」という第三者的呼びかたに含まれる他人事感の由来である。

 

 

本編の主題はジャック的な「人目を気にしない」ものと気にするものの対峙ということになるのかもしれないが、それとは別に、傍流として、発散型と収束型の対決ということがここに組み込まれる可能性がある。では鎬昂昇はどうかというと、微妙なところだが、収束型のような感じがするのだ。つまりジャックと同型である。彼自身は空手家であり、眼底くだきのような豊かな技を数多く備えている人物であるが、基本的にはやはり斬撃に試合の最終シークエンスをもっていきたいのではないかと考えられるのである。このタイプは自然カウンター型になるし、構えからも「なにをしようとしているのか」がよくわかるようになる。いまから噛みつこうとしているひと、いまから指で神経切ろうとしているひとがいて、それが外部からみて丸分かりであるときわたしたちがとるべき行動は、近寄らないことだ。不思議なことだが、収束型は、発散型が選択肢のひとつとしてしかみないものにこだわって人目を気にしなくなることで、むしろ闘争を呼び込まない武術を築いてしまうことになるのである。

 

 

こうみると、ジャック対昴昇は、開始とともに相手のでかたをみる感じになるのかなという気はする。だが、互いにもともと発散型であり、高い技術を備えているということもある。あるいは、この技術でもって、いかにして相手を収束型でいさせないかということがポイントとなるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▪️『条文の読み方(第2版)』法政執務・法令用語研究会 有斐閣






好評書の待望の新版。「基礎知識編」では,法制執務の全体像を体系的に提示するために,Q&A方式から,平易さを維持しつつ章立てによる解説方式に変更。「法令用語編」において解説する法令用語も見直し,解説のアップデートや用語の差替えでリニューアル

Amazon商品説明より



もともと法律の本を読むのは好きだったが、それは新書などに限ったことで、それも憲法学、もっといえば長谷部恭男のものばかりだった。あんまり覚えていないが、現政権に至るまでの問題で、憲法改正、また改正案が話題になって、そのときはけっこう苦手意識のあった憲法、また法律の本を読んでいこうとなったんじゃないかなとおもう。

長谷部恭男はおもしろかった。いまでも好きだが、おもしろい以外出てこなった。おそらく初学者にもわかりやすくということなのだろうが、関連する文学作品なども散りばめられているのもよかった。それにゲーム理論…。最初は新書かなんかを読んだとおもうが、やがで高めの論文集などにすすんでもおもしろさは失われなかった。内容にしても、よく知る哲学書とそう異なるものでもなかった。書店員としてもいいタイミングで会社がかわり、専門書エリアに入ることができたのもよかった。有斐閣、日本評論社、ぎょうせい、日本法令、弘文堂…。郊外店にいるだけではせいぜい客注で見る程度のものだった数々の出版社を、そこで知ることができた。当然、それを並べようとしたら、知らなくてはならない。こうして、素人なりの法学書あさりが始まったのだった。




本書は法律に出現する独特の用語、また言い回しを解説したものだ。執筆は衆議院法制局の方々で、薄手ながら非常にしっかりした内容である。専門書売りをしていた当時から本の存在はもちろん知っていて、ポケット六法の並びに『判例の読み方』と並べて置いていたものだ。しかし読んでいなかったのは、ひとつには、結局のところこの法学書愛好が趣味にすぎなかったからである。実をいうとぼくはまだ六法のたぐいも持っていない(今月発売の令和六年版ポケット六法は買うつもりです)。なんというか、必要なかったのだ。おもしろくて読んでるだけだったので。間違って読んでても問題はなかったし、そもそもそう読み間違いが起こるものでもないだろうと。しかし、まず『九条の大罪』連載開始があった。この記事を単独で読まれてるかたにはどうでもいいことだろうが、ぼくはこの弁護士漫画の感想を毎週書いているのである。たまたま趣味で法学は好きだけど、少しまじめにやったほうがいいかな…などと考えるようになったのだ。次に仕事でけっこう特殊な部門への異動があった。自治体の条例や規則が関わってくる感じのやつだ。これらは当時から問題なく読めたが、こういうわけで、趣味レベルをちょっと超えていこうかなとなっていったのである。


はしがきに触れられているが、いま法学部や会社で法務に携わっているひとなんかが法律を勉強しようとしたら、たぶんほとんどの場合、いきなり解説書にいくはずである。それはそれでいいとして、しかし、「『法律を』勉強する際の基本は、『法律で』勉強すること、すなわち『法律の条文それ自体を読むこと』(I頁)」のはずなのだ。例外的状況では法解釈、そもそも論や立法者の意図を汲む作業が必要になるが、そこに至るまでは、「法律に書いてある」以上の根拠はない。その、解釈に入る寸前までにおいて身につけるべき知識が、本書には収められているのである。


半分以上を占めるのが後半の法令用語編であり、おそろしい読み応えだ。それはたとえば、「場合」と「とき」と「時」の使い分けとか、「公布」と「施行」と「適用」のちがいとか、そういうことだ。例として示される法律そのものも訓練にうってつけである。民法に規定のある初日不算入の原則など、ずっとあいまいなまま生きてきてはじめて鮮明に理解したものも少なくない。だがポケット六法すら(まだ)手にしていないぼくでは、法令に入る前に、前半基礎知識編がたいへんうれしかった。法令どうしの上下関係とか(6頁〜)基本of基本だとおもうけど、「お盆」とか「土用の丑の日」とかの定義くらいあいまいに生きてきたので…。法律の構成とか附則とはなんぞとか、ぼくでは全ページ新情報である。あと息抜き的に入るコラムの豆知識みたいのもおもしろい。一生モノの一冊だ。






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