すっぴんマスター -28ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第150話/ガブリ

 

 

 

 

本部の道場で本部、ガイア、加藤がジャックについて話しているところだ。バキはタオルを首にかけたままの日常性の延長で宿禰を破った。強さを求めるところに人格形成などほんらい不要である。ただただ強くあろうとする。だが、その「強くあろうとする」欲望じたいにも強弱はあり、そのもっとも強力なもの、強さを求めるという点で見上げてしまう存在、それがジャックだというはなしだった。

前回を読んだときはてっきりジャックが本部の道場の前に来ているものかとおもったが、そうではなかったようだ。ジャックは光成邸でトレーニングをしている。といっても昼間なので(本部描写は夜)、別のときの、ジャックの日々を描いたものだ。

 

ジャックは、車のタイヤをつかって顎をきたえている。両足を輪のなかにいれて踏んづけ、顎にひっかけたハンドルでタイヤを掬い上げ、直立を維持しているのである。雑誌のふろくについている、女性用の弱いチューブとかつかって同じ動作をしても、一般人なら顎を痛めそうである。すごすぎてもはやどこから見ればいいのかよくわからない。

そのいっぽうで、次に行うものは常人でも可能なLシットだ。足をまっすぐ前に投げ出して座り、そこから手で体を浮かせる自重技である。一般的には腹筋運動に分類されるものだが、手や股関節も鍛えられる総合的な技だ。さきほどの顎カールみたいな体勢では、かかとから首まで、背面の全体が緊張していたはずである。ここではいま緊張させていた箇所をすべてのばし、逆側を緊張させていることになるだろう。合理的なトレーニング法だ。

そこからジャックは、徐々に足をあげていき、Vシットを越えて、あたまが足のあいだにはいるくらいのところまで屈曲させる。さかさまにした八分休符みたいなかたちだ。Vシットレベルになると素人には難しいし、たいがいのものは柔軟性がたりなくて筋力云々以前に不可能になる。やっぱりふつうではないのだった。

と、手で飛び上がり、着地。トレーニングを終えたっぽいジャックは、かばんのなかに入っているクスリを大量にくちのなかへ放り込んで、スナック菓子のように噛み砕く。そしてそれをコーラで流すように、なにか別の液体系の薬物で流し込むのだった。

 

場面はもとの本部の道場に戻る。このあいだの続きだ。強さを求めるなら、「道」っぽさ、人格形成的な、教育的な面は、武道には必要ないという、あのはなしの続きだろう。本部は、演武のことをいっている。演武はどれもカッコばかり、実戦とは程遠い荒唐無稽なものばかりだと。そこに嚙道なのである。本部はジャックの嚙道を非常に評価している。つまり、「道」というもののありかたの再認識が、ジャックによって行われているということなのだろう。

実戦志向の空手が、最後には見てくれのいい極めポーズに向かうように、柔術が裸締めに向かうように、ジャックは嚙みつきに向かう。獣じみた、弱者の最終兵器としての嚙みつきを、「最良の武器」として恥じずに堂々と使うのだ。

加藤らもここのところに異論はない。カッコつけないことは強みである。そして、バキ、勇次郎、独歩、克巳、渋川、こういったあたりは、「1人残らず エエカッコしい」だと、ガイアが本部のセリフを奪っていうのだった。人目がきにならない、それじたいが、嚙道にとっては「大きな武器」なのである。

 

 

 

つづく。

 

 

 

次回、最終回!!

「バキ道」は相撲を描ききったところで終了か・・・。意外といえば意外だが、まだすすむであろう「道」のおはなしを、バキ道で続行する理由はない、といったところだろうか。次はパターンでいうと「範馬刃牙道」か、それとも兄弟喧嘩を見越して「範馬道」か? もう「道」とかでもいいぞ。ちょっと歴史小説っぽいけど。

 

強くなることだけを目的とするなら、社会体育的な人格形成の要素は武道には不要である、げんに実戦型の独歩や渋川は「道」を説かない、というのが前回のはなしであった。そうして求める「強さ」だが、なかでもジャックは、この世でイチバン強さに餓えていると、こういうはなしだった。嚙みつき、嚙道もまた、「道」を名乗りながら、人格形成からは程遠い。そして、そこには、バキらさえ抱えている「エエカッコしい」がないと。だから強い。

ここで少し違和感が残るのは、前回「道」を説かないものとして引かれた独歩や渋川も「エエカッコしい」だといわれていることである。しかも、演武の様式美について触れたあとのことだ。ここのところも描写が繊細なので、ほかの読み方があるかもしれないが、おそらくこれは、嚙道を比較にもってきたうえでのはなしなのだろう。つまり、嚙道が捨て去った「人目」を、バキたちはまだ抱えているのである。道を説かない独歩や渋川だって、どちらかといえば人目を気にしないほうだろう。しかし、だったらなぜ嚙みつきを選ばないのか、というようなことなのかもしれない。ここでは、「嚙みつき」が象徴的な意味をも含んでいるわけである。「嚙みつき」は、たんに強力であるということ以上に、「人目を気にしない」というメッセージを含んでいるのだ。

 

これが象徴であることは自明かもしれない。というのは、バキや独歩なんかは、嚙みつきを「選ばない」わけではないとおもわれるからだ。というか、じっさいにバキが嚙みつきを実行したことがあるような気さえするのだが、思い出せない。夜叉猿のときは爪でひっかくのをやっていたとおもうが・・・。ともかく、それが必要なら実行する余裕は、おそらく、特にバキや独歩にはあるとおもわれる。渋川は歯がアレだろうし、克巳はちょっと絵が浮かばないが、バキと独歩ならなぜかかんたんにイメージできるのだ。勇次郎にいたっては戦場では一般的な技術であるとジャックに説教するくらいだったからな。つまり、彼らにとって嚙みつきは技のひとつに過ぎない。そこに特化する意味も、おそらく戦場の合理的には見出せないという状況では、これは象徴にほかならないのである。数ある技術のなかでわざわざ嚙みつきを選び出したということじたいが挑戦であり、強さを引き出すものなのだ。

 

そしてじっさい、ジャックの「嚙道」は、ふつうの格闘技術とは逆方向のアプローチとなっている。技術体系ということで、たとえば空手では、まず「左自然体」という構えがあるだろう。これは右利きの構えになるが、独歩など古流のものが用いる構えはもっとたくさんあるわけだが、とりあえずはそれが基本としてあり、最初に習うものだ。左足を前におき、バランスよく両足に体重を預け、顔面を両手でガード、拳はゆるく備えておく。ここから、無数の技が発生する。左てを突き出せばジャブ、追い突きになるし、後ろ足で地面を蹴り込んで右拳を突き出せばストレート、逆突きになる。蹴りも自由に飛び出すだろう。さらに、相手の攻撃を想定して、さばくなり落とすなりして、次の攻撃が発生もしていく。これが技術体系ということだろう。つまり「技術体系」とは、ある構えや、もっといえば思想のようなものを中心にして、蜘蛛の巣状に「可能性」が広がっていく体系のことをいうのである。ところがジャックはそうではない。宿禰戦で明らかになったように、彼の目的は「嚙む」こと、それだけだ。そして、そこに至るまでの過程が、空手にとっての、構えから派生する「可能性」のように、無数にあると、そのような向きになっているのだ。つまり、「嚙道」とは、カウンターの体系なのである。彼の目前には、「相手」という、存在しているだけで無限大の「可能性」がいきなり現れる。彼は、それをさばき、むだなものをそぎおとし、彫琢し、最終的に「嚙む」に状況を集約させるのである。

 

そうとうに実践的な流派でも、嚙みつきはたいがい禁止されている。なぜなら、強力すぎるからである。特段のトレーニングなしに相手を流血させることができるような技が存在していると、技術の洗練がおろそかになる。試合とは、選手にとってはじぶんの強さを示す場所かもしれないが、流派にとっては技術の修得を確認させる場所なので、そのような不均衡を呼び込む状況が好ましくないのである(だからウェイト制などが発展していった)。要するに、試合のレベルが低くなってしまうのだ。そしてもうひとつ、ここには隠れた意識もある。それは、嚙みつきが「オンナコドモ」の技だということだ。郭海皇がかつて語ったように、女や子ども、老人のような「弱いもの」が使えない「格闘技術」になんの意味があるのか、という点で、嚙道には普遍性がある。しかしそれは表面上のことで、じっさいにはジャックの嚙道は高度な格闘技術が前提として備わっていなければならないものだ。相手の動作を見極め、じしんの嚙みつきに集約させるものなのだから、それは当然のことである。ただ、いっしゅのイメージとして、そこに普遍性が見出されるのは自然なことだろう。嚙みつきはジャックほど顎を鍛えなくてもじゅうぶん強力なのだ。そして、ジャックほどに鮮やかに闘争のなかに嚙みつきを織り込むことができなくても、それじたいがどの段階でも強力であることは変わらないのである。にもかかわらず、バキら実戦派も含めたファイターたちは、これに特段目を向けてこなかった。その理由が、「オンナコドモ」なのである。バキ世界ではおもに光成の目を通じて「男の世界」が語られがちだ。恋愛要素どころか女性キャラが極端に少ない漫画でもあり、資料が乏しすぎるということはあるが、アライジュニア編などで見えたように、バキなどはかなり現代的な感性で男と女の関係をとらえてはいる。が、それでも「男の世界」的な世界の見方は不可避的に見についてしまうものなのだろう。こういう世界で、「オンナコドモ」のイメージがつきまとう嚙みつきを積極的に用いていくことは、どこか回避されがちなのである。これもまた、ジャックが「人目」を気にしないという今回のはなしに通じるぶぶんだ。ジャックは、どこかの段階で、こうした「社会的抑圧」が幻想であることに気がついたのだ。そうなったあとではもはや、嚙みつきが厭われる理由など、彼には見えない。逆になんでみんなそれをしないのか、くらいに感じられているのである。

 

こういうふうに、「嚙みつき」はかなりのぶぶん象徴的なものとなっている。社会的抑圧を突破したジャックには、もはや「エエカッコしい」じたいが理解できないだろう。つまり、美学的に、それがカッコいいというふうにはおもわれなくなっているはずなのだ。様式美も越えた、現実合理性のなかにいるバキたちでさえとらわれているその「エエカッコしい」の鎖の外側に、ジャックはいる。こうみると、ジャックの嚙道は、価値観の相対化が最善とされる現代に自然なものとして現れた最新の技術なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第80審/至高の検事⑯

 

 

 

 

九条の指示通り、持たされていた京極の武器を持って出頭した壬生。たほうの九条は、細かな仕事をこつこつこなしている。猛が殺された事件からけっこう日が経っているということかもしれない。

 

ウシジマくんの最初のはなしを思い出すような描写だ。一人目は薬物使用初犯の男で、執行猶予がつくという。男はご機嫌で、最近みつけた丸亀生面というすごい美味しい店に九条を連れて行きたいという。

二人目は電話で女性からの相談。九条はホストの売り掛け金はたいがい踏み倒して大丈夫、というような危ういアドバイスをする。闇金とはちがって、払う義務がないとかそんなはなしではないのだろうが、裁判にまでなることなんてないから、というはなしのようだ。そんな面倒なことはしないということだろう。

三人目は痴漢、いちおう冤罪ということのようだが、股間がたまたまお尻に食い込んだだけということだ。示談にすればすぐ出られると聞いたのにうまくいかないようだ。が、九条がはなしをつけたので、これも大丈夫。男は顔をおおって泣いているようだったが、大丈夫と聞いて指のあいだで目を開けている。

四人目はデリヘル。帰宅したところを覚醒剤所持で逮捕。飼い犬のルルちゃんが心配で泣いているが、捜査員が最低限の水と餌は用意したようなのでひとまずは安心。女性がどうなるかはわからん。

 

仕事を片付けた九条はブラックサンダーと屋上にあがって食事をとる。九条は、そろそろこの生活をやめようと考えていると、ブラサンに語りかける。大型犬可のマンションが見つかったのだと。この生活とは、テント生活のことだ。仕事と生活が連続している、九条のありようを象徴するような生活だったわけだが、これをやめようとしているわけである。

 

酒を飲んで、九条とブラサンがかび臭い物置に入って就寝。てっきりテントですべて済ましているものかとおもっていたが、スーツや寝具などは物置にあるようだし、睡眠はここでとってきたのかもしれない。

 

翌朝、歯磨きをしている九条のところに嵐山を先頭に警察がやってくる。嵐山は逮捕状をもっている。罪状は犯人隠避。犬飼に逃亡の指示を出したことを、壬生が告げ口したのである。

それを聞いて九条は、動揺するどころか、いままでに見せなかったような鋭い笑顔とともに、「上等じゃないですか」というのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

けっこう日が経っているらしいということもあり、明確な状況はよくわからないが、このはなしの感じだと、壬生の証言もあって猛を殺したのは犬飼だということは、嵐山は知っているということになるだろうか。嵐山的には、犬飼は娘を殺した犯人で、壬生はそのボス、猛は壬生のボスの息子で、それらの守護者が九条ということで、勝手につぶしあってくれて最高の展開だろう。嵐山は特になにもしてないけど、状況だけみれば一網打尽というところである。

 

 

九条の日常は続いている。相変わらず、なんだかろくでもないようなものばかりだが、それは偏見というもので、弁護士の世話になっているというだけで、この偏見は加わりうるものだろう。弁護士の日常というのはこんなものかもしれない、ともいえる。ただ、これらの描写は、もちろん、煽りにもあるように、九条にとっての非日常がはじまることの前フリでもあったわけである。

壬生が犬飼について白状したというはなしであり、ふつうに考えると、壬生が裏切った、九条が念をおしていたように梯子をはずされた、ということになるようだが、ふたりのことなので、どうだかわかったものではない。なにかこう、現段階では予測できないような作戦が、ふたりのあいだにないとも限らないのだ。限らないのだが、ここはひとまず、見たままに壬生が裏切ったというふうに読むべきだろう。

 

おもしろいのは九条がテント生活をやめようとしているということだ。これは、はっきりいってかなり興味深い。テント生活は、すべての私的空間を忘れ去って、生活を仕事に直結したものとして生きる九条のありかたの表象そのものだったからだ。それをやめるということは、じぶんの生活に私的空間が流れ込むことを許すということでもある。これは、彼の弁護士としての方針が変更される可能性を示唆するものなのである。

 

ひとつには、いまげんにまわりに壬生がいないということは大きい。銃を持ち込んで、京極がどうなったかは不明である。が、いままでのところ平和っぽいので、たぶん予想したとおりの展開になっているのだろう。要するに、依頼人を選ばないという九条の態度が招く望まぬ客としての半グレやヤクザたちが、いまなりをひそめている状況なのである。

九条がどうして私的空間を生活からしめだしていたか、すっかり忘れていたが、第47審にくわしい考察がある。おもえば、ほんらい私的空間の生活とは関係のない、事件の死者の犬であったブラックサンダーといま暮らしているということも、まさにそうした九条しぐさのあらわれだった。ふつう、流木にせよ山城にせよ(両者は「ふつう」の例にするには極端すぎるが)、弁護士に限らず、「社会人」というものは、ある種の関数を通過したうえで、社会生活を送るものである。たとえば、山城が金持ちばかり相手にするのは、金持ちばかり相手にしようとするからだ。相手が善人なのか悪人なのかは、山城にはあまり関係ない。金になるかならないか、それだけを考えて、いまのスタンスがある。そのために、当たり前のことだが、「金持ちばかりを相手にする弁護士」に至る「金をもっているかもっていないかだけを重視する」私的空間における山城というものが存在するのである。そう判断する個人が、前段階にあるのだ。だが九条はそうではない。九条の想定する法的空間には、弁護士と依頼人がただいるだけだ。そして、傾聴する。一見すると、いまの山城のような見方でいうと、九条はまるで「半グレばかりを相手にする弁護士」のようである。しかし実はそうではない。それはただの結果だ。九条は、ただ零度の弁護士として、依頼人のはなしを聞くだけだ。その結果として、ふつう厭われる依頼人ばかりが抽出されることになる。それはたとえば、まったく金にならない貧乏人であるし、あるいは金があったとしてもキャリアにかかわるような悪人だったりすると、こういうわけなのだ。師匠である流木は貧乏人を相手にした弁護士として有名だが、九条のありかたはこれともちがう。くりかえすように流木もまた、これを関数を通過したものとして扱うものなのだ。そこには、流木の信念とは別に、無意識レベルで「人権派弁護士」として功成り名遂げるにあたり価値があるかどうか、というような価値判断も潜んでいるだろう。流木は、貧乏人をみずから選び取るが、九条はそうではない。結果そうなっているだけなのだ。

 

こういう、依頼人を選別するふるいのようなものが、九条にはない。あるとすればせいぜい、「ほかに受けてくれる弁護士がいる」くらいのものだろう。このスタンスが、彼に「つねに本人」であることを要請する。九条は、生活のどの瞬間を切り取っても、「九条間人」なのだ。弁護士は依頼人を本人とした代理人なのだろうが、それ以前に、じつは私的空間における本人の代理人でもあったのだ。ところが九条では、これが一致している。このようにして九条からは私的空間がしめだされるのである。

 

 

九条がこういうありように至った理由は、おそらく娘の莉乃にある。

 

 

 

 

 

 

この記事でも考えているように、「九条間人」と莉乃はおそらく同時に誕生している。そこで、九条は、莉乃や元妻にプライベートを預けるようにして、私的空間をもたない弁護士「九条間人」として、テント生活を行ってきたのである。

 

今回描かれたのは、そのテント生活が終わりつつあるということである。これはつまり、私的空間の居場所を確保しようということなのだ。それは転じて、仕事のうえで「本人」であることが終わることを意味する。依頼人を選ぶふるいが出現し、それに対応するペルソナが装着される、ということなのだ。

 

といって、九条が、しずくや曽我部のような「弱者」の対応をやめるということではないだろう。だが、依頼人を選ばないという哲学の結果、しずくや曽我部に対応してきたそれまでの現状は、道理として壬生や京極も招いてしまっていたわけである。烏丸が指摘していたのはこのぶぶんだ。依頼人を選ばないのはいい、しずくも助けなければならないのもわかる、だが、選ばないからといって悪党もウェルカムでは身がもたないのではと、烏丸はこういうことをいっていたわけである。

ここに、実は現在九条は到達しているわけである。というのは、壬生が逮捕されたからだ。

 

壬生が武器をもって出頭し、捕まっているのは、そもそも九条の指示だった。京極封じのためとはいえ、よく考えてみれば、この間、ほかならぬ九条じしんが、壬生から解放されているわけである。壬生がどのくらい捕まっているのかはわからないが、少なくとも、九条にとって夏休み的な期間には、実際なっているのだ。その、ある種の解放感が、おそらく彼に家を選ばせたのだ。

 

順序としてはおそらく、まず莉乃らと離れて家族を失ったという経験がまずある。それが、九条を仕事人間にした。そこにテント生活が出現し、彼を常に本人である弁護士に仕立てたのである。だから、「依頼人を選ばない」という哲学じたいは、おそらく九条にとっては自明ではないはずだ。彼はおそらく流木タイプで、弱者を救うことに専心すべきなのである。だが、「つねに本人」がそこに介入することで、悪党も拒まない弁護士が完成してしまった。ここで事態をややこしくしていたのは、「つねに本人」であることが、じっさい、弱者を救うにあたっては有効だったということだ。だが、弱者を救うのに「つねに本人」である必要など、じっさいにはまったくないわけである。このあたりで流木のような「貧乏人ばかりを選び取る」というありようを選択してしまったとしても、それが悪いことだとはならないだろう。が、いまはまだその段階にはない。つまり、その段階に至った結果としてテント生活が終了する、というわけでは、おそらくない。たぶん、たんに近くに壬生がいないことの解放感が、彼に夏休み的な感覚をほどこしているだけなのだ。

 

 

どこまで九条の計算のうちに入っているものかはわからないが、逮捕状がげんに出ている状況でも彼は笑っている。気になるのは、これはまさに彼の兄である蔵人が危惧していた状況だということだ。いまだどうかかわってくるのかよくわからない蔵人だが、よくわからないまま、厄介な弟に逮捕状が出てしまったのだ。「至高の検事」はここからが本番なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第149話/武術界の実戦性

 

 

 

 

宿禰篇がひと段落というところで、今回は本部流柔術の道場の描写からはじまる。弟子のガイアと、なぜか加藤が組手を行おうとしているところだ。加藤も、もともとは刃物つるはしが踊るヤクザの用心棒の世界にいたものなので、武器も含む闘争の世界には近いところにいる。ガイアや本部はその専門家というわけである。

審判的なポジションで本部がはじめの合図を出す。加藤の構えは、これ、なんだろうな、どっかで見たことあるような気がするけど、足が近い位置でそろっちゃってる感じの、へんなやつだ。と、不意に跳躍、後ろ廻し蹴りが身を沈めたガイアの頭をかすめる。まだ空中にいる加藤のアキレス腱のあたりを、ガイアは肘で叩く。すさまじいスピードだ。

ようやく着地した加藤の目前にはすでにガイアがいる。ガイアは手先で加藤の目をはじき、連続して頭突きも顔にめりこませる。実に実戦的な動きだ。が、そこで本部から待てが入る。そして、ガイアに大丈夫かとたずねる。ガイアは汗だくだ。頭突きと同時に加藤の膝かなにかが金的に決まったようだ。

 

稽古を終え、三人はバキと宿禰の対決について話している。話題は実戦性だ。バキは普段着のまま、タオルも首にかけたまま宿禰とたたかい、勝利した。ウォームアップも行っていないであろうことも、三人は見抜く。なんなら寝起きだったのだ。究極の実戦性の体現というわけだ。それは本部の土俵だとガイアはいうが、そこまで「徹する」ことができているかというと、本部じしん少し疑わしいぶぶんがある。たとえば道着である。稽古にあたって、本部は和服を着ているわけだが、ふだんそうしているわけではない。なぜそういう様式的なものにこだわるのか?ということにつながるのかな、本部は、武術にとっては有効性こそが価値であり、人格形成は二の次でいいという。対してガイアは武道の社会体育、「道」としての面を語る。つまり、人格形成がげんにうたわれ、志向されていると。本部の考えは独歩とよく似ている。人格形成が目的なら、わざわざ迂回して殺傷能力を身につける必要なんてないと。座禅でもしていればいい。このとき描かれるのが、たぶん達磨なんだけど、本部と似ていておもしろい。

武術の権化みたいな独歩や渋川も「道」は説かない。ただ強さを求める。その際にどうしても見上げてしまう存在、について本部が語る。この流れはかなりわかりにくい。「渇望」と聴いて、ガイアと加藤は勇次郎とバキをあげるが、あのふたりは「渇望」とはちがうと本部はいう。泣き出すほどの渇望、この世でいちばん強さに飢餓(うえ)た男といえば、ジャック・ハンマーである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

ジャックはどうやらいま本部道場の前にいるようだ。ジャックは以前本部に完敗している。宿禰の戦のあと、彼は多くのファイターに宣戦布告をしていたが、これからひとつひとつ回収していく感じだろうか。だとしたらかなりうれしい。

 

「渇望」のくだりはかなりわかりにくい。ことばのまま流して読むと、武術に「道」などうそであり、ただ「強さ」だけが求められる、そのとき、「渇望」が訪れる。どうしても見上げてしまう存在がいる。だがそれはバキや勇次郎ではない。じゃあ誰かっていうと、それはわからない。ただ、ジャックは、泣き出すほどの渇望で、「強さ」を求めてきたと。要するに、強さを「渇望」するとき見上げてしまう存在いて、それがたとえば勇次郎のような非常に強いものであると、そういうはなしではないのだ。これはもう一歩引いたメタ的な発言なのである。つまり、強さを求める、「渇望する者」として見上げてしまう存在、そこまで「渇望」するのかと感心してしまう存在いると、本部はこういっているのだ。それで、ガイアたちは範馬親子をあげる。じっさい、彼らは強さを求めてはいるが、たしかに、一般に受け取られる意味での「渇望」とはぜんぜんちがう動機でバキらは強くなっていっただろう。しかしジャックはそうではない。あそこまで強い餓え、渇きとともに「強さ」を求めるものはほかにいない、その点で見上げてしまうと、こういうはなしだ。

 

今回の「道」のはなしは、バキ道というタイトルの説明につながりそうな話題だった。前作『刃牙道』に関して、「道」は、これまで彼らがたどってきた道のりのことだったと、ぼくは考えた(刃牙道考察まとめ④参照)。バキは武蔵が作り出した単独の武芸者の最強探究道の先端にいるものである。それが、武蔵を現代に「いちゃいけない」ものとして倒す、刃牙道はそんなはなしだった。なぜなら、現代の格闘技は、武蔵的な思想を内包しつつ、法治国家になじむものとして洗練され、整備され、ある程度の解答を導き出しているからである。刃牙道は、その道が武蔵から連なる実戦の道であることを確認しつつ、それが正しく近代化していることを確認した物語だった。

となれば、『バキ道』は、バキら近代格闘技のものたちがこれからすすんでいく道ということに自然なるはずである。それがバキが宿禰戦で見せた究極の実戦性ということになるだろうか。そこには武蔵的でありながらきわめて非武蔵的とでもいうべき弛緩がある。スマートなのだ。ある種の実戦性は、日常を緊張感とともに送ることで実現するだろう。しかしバキはそうではない。ほとんど眠るように、そして相手もまた眠るように葬り、葬られるのである。

 

いわゆる意味での道を説かない独歩らも、強さを求めるものだ。「強い」こととここで語られている「実戦性」はまっすぐに結びつくものではないが、それは「有効性」にかんするみかたのちがいによってあらわれる見解の相違というものかもしれない。たとえば試合のように、必要なとき必要なだけ強ければよい、という考えかたもあるだろうし、バキのような日常がそのまま実戦であるありようをよしとするものもいるだろう。だが、死刑囚や武蔵を経由したあとでは、「実戦」とはいかにも後者のスタイルが対応すべきものであるのだろうとおもわれる。少なくとも本部にとってはそれが自然な連想なのだ。そして、「日常が実戦型」のバキが、ある意味「必要なとき強ければよい」の究極型ともいえる宿禰を倒したということが、このスタイルの優位を語るものでもあるのだろう。

強さを求めれば、日常の実戦に徹する。これをテーゼとして、基本的に多くのファイターは「渇望」してきたと、こんな見取り図を本部は見ていると考えてよいのかもしれない。そこで、人生をかけて強さを求めてきたジャックの登場と、こういうドラマなわけである。あの宣戦布告のとき、ジャックはガイアのことも名指ししていた。ここでいちどにたたかうことになるのか、いよいよ二度目の兄弟喧嘩に向けてはなしが動き出してきたわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第79審/至高の検事⑮

 

 

 

 

九条からの提案では、犬飼は1年逃亡して死体が誰のものだかわからなくなったところで出頭、それとは別に壬生は京極の武器をもって嵐山のところに自首、ということだったが、菅原の電話をつかって京極が連絡をとってきたことから一転、壬生は犬飼を殺し、これを手土産に呼び出してきた京極のところへやってきたのだった。(このことを九条は知らない)

 

拷問されていた小松は京極の息子が埋められている場所を吐いていた。なので、京極はそこへ行って息子を掘り起こしてこいと部下に命令する。そして、そこに犬飼と他の二体を埋めてくるようにとも。他の二体ということなので、小松以外にもうひとりいた犬飼の連れもすでに死んでいるらしい。たぶん、ひとり生きていればよいとかで、小松への脅しこみで先に殺されたのだろう。

 

犬飼は小さく折りたたまれてキャリーバッグのなかに入っている。京極の命令は生け捕りということだったらしいが、壬生は射殺した。なぜか、ということで、壬生は逃げようとしたからと、うそくさいことをいう。京極は、拷問を避けるための情かという。じっさい、壬生はそういっていたが、京極はじぶんでいったその可能性をすぐ否定する。壬生はそんな人間じゃないと。じぶんと壬生は根本的にちがう。クレジットカードも作れないヤクザをなぜ続けていくのか、ここからしばらく京極の語りだ。いまの人間はわずかな得のために大きな徳を失う。壬生には「この人のためだったら死ねる」という人間がいるか、というはなしである。

 

京極にとってそれは伏見組の親分だったという。京極はこれのボディガードをしていた。それが、昼時にハンバーガーを食べていて倒れた。即119番、救急隊員のいわれるままに心臓マッサージを行う。肋骨が折れたがそのまま続行、死に際に親分は近所迷惑だから救急車のサイレンを消すようにいったという。人事を尽くして天命を待つ、そういう人柄だったのだ。京極は、もしそのようにいわれたら、家族も捨てる気だった。親分が死んだことはそうとうショックだったらしく、そこから酒が増えたともいい、こうして話しながら思い出し泣きしてしまう。そして、なんでかその思い出し泣きの流れで壬生に鉄拳、お前は自己保身のために子分も殺す外道、犬畜生だと罵る。

親分と京極の関係をよく見ていた親分の奥さんは、京極が親分を棺桶に入れて、最後に着るスーツも決めるよういったという。葬式の段取りも京極がやったっぽい。これはつまり、京極の親分への尊敬や愛は、思い込みではなく、第三者的にみてもたしかなものだったということだ。

 

倒れた壬生を足蹴にしながら京極はいう。

 

 

 

「俺とお前の違いは道理があるかないかだ。

 

野良犬だったテメエを躾て牙を抜き

一生、俺の飼い犬として従わす。」

 

 

 

無事京極のもとから戻った壬生は久我と合流、車で移動する。犬飼の死体はどこに捨てるのかと問う久我に、山か海じゃないかと壬生はいう。はなしを聞いていたであろう壬生だが、久我には伝えないようだ。東京湾では毎日死体があがり、なぜか腕ばかり見つかるという。

そうして、目的地に到着。警察署だ。銃を詰め込んだ大型バッグを嵐山の前におろし、壬生は自首したのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

子分を殺すばかりではない、壬生は親分も売るぞ。京極は道理がないといったが、そんなことはない。道義的ではないかもしれないが、一貫性はあるわけである。

 

 

愛するもの、命を預けることのできるものがあるものが強いのは当然のことだ。攻防において、じぶんの安否を勘定にいれないからである。これは、ヤクザと半グレの対比においても有効な視点だ。菅原の用意したモブマッチョたちが、小柄な老人に過ぎない鍛冶屋に道を譲らなければならない理由は、ほんらいないはずだ。しかし譲ってしまう。鍛冶屋は、雁金や京極のために命を捨てる気でいる。つまり、いまたとえばその半グレたちに包囲されたり、殴れらたり、なんなら殺されたりとかいうことを回避しようとはしていないのである。そうするつもりがないということが、鍛冶屋の表情や動作からはにじみでており、それが、モブマッチョたちを遠ざけるのだ。ふつう、たたかうものは、相手を倒すことと身を守ることを同時に行う。それができなくなったときは、戦闘を放棄すべきときであり、戦闘が成立していないとみなされるときだ。けれども、守るべきものがじぶんではないとき、その存在は相手を倒すことに集中していくことになるのだ。しかし、では壬生は京極に勝てないのかというと、そういうこともないのである。壬生にも道理はある。道理といって意味範囲が広ければ、一貫性はある。それは、道理をもたないということだ。命を預けられるものがないということは、守るものがないということでもある。いわばなんでもありだ。愛するものの存在がおびやかされたとき、そのものはいつも以上のちからを発揮するかもしれない。だが、そもそも愛するものをもたないものは、それを失うという恐怖におびえることもないし、おどかされることもない。行動を制限するルールが存在しないのである。

 

ここでルールからの逸脱という点でいえば、壬生はもはやじぶんの身すら守っていない。厳密には京極の魔手から逃れるという意味で自首をしているが、自由を制限されるという意味で、警察に自首するという行動はもともとの意味の自己保身とは異なっている。壬生が有利な点は究極的にはここにある。それは、自己を守るにあたり、ダメージの考量して、「選択」できるということなのだ。

 

ここにおそらく、これまで通奏していた主体性問題の解決が訪れている。主体性問題とは、京極がヤクザとしての腕力を発揮して相手に「強制」を行う過程に見えたものだ。ひとつにはおもちの件がある。壬生は京極に脅されて愛犬のおもちを殺した。これを罪として壬生は受け止め、京極への復讐を誓っているわけだが、あのとき壬生が京極に逆らうことができたかというと難しく、あれは京極のちからを示す場面にほかならなかったのだ。動作としては、壬生が殺しているのに、その主語は、実質京極だったのである。

猛の死以降の京極のふるまいもまさしくそういったものだ。猛が死に、その犯人を探して殺す、という一連の展開は、ほんらいであれば京極は後手にまわるものである。なぜなら、時間の流れというのはひとつの方向にしか向かないものなのであるから、猛の死という現実がまずあって行動を起こしているという因果の理屈からいっても、京極は「対応するもの」にならざるを得ないはずだからだ。ところが、京極は、すさまじい情報収集力と拷問で、因果を逆転させてしまう。相手の右ストレートにあわせた右ストレートのクロスカウンターで相手の顔を砕き勝利したものは、もはや対応者ではない。たんに右ストレートで相手の顔を砕いたものなのである。ほんらい、それの原因にあたる最初の右ストレートは、後日経緯を語る際に但し書きとして添えられる程度の存在感しかもはやもたないのだ。

そのようにして、京極は、「強者」のしるしとして「事態の主体であること」を示し続ける。ほんらい「強者」であるから可能であるふるまいを先取りしてとることでこれを逆転させ、そういうふるまいをとれるのだから強者であると、事態を読み換えてしまうのだ。

この「主体性の確保」という問題において、京極はじしんの強権を根拠にしてきたわけだが、壬生は、ここにすこし異なった解釈をはさむのである。相手をコントロールし、自由を奪うという点では同じだが、差し出しているものがちがうのだ。

京極のいうとおり、一般的な意味での道理が壬生にはないのだろう。しかし、道理がないという一貫性はある。そのおかげで彼は、みずからの自由を差し出して主体性を獲得することができたのだ。京極にはこれができない。なぜなら、彼が守るべきものは他人だからだ。彼が、壬生がやるように、守るべきじぶんのためにじぶんを部分的に差し出す、ということをやろうとしたら、親分を守るために親分を部分的に差し出す、ということをしなければならないのである。そんなことはできない。エゴイストはじぶんを切り売りできるのである。

 

しかし、そんな生きかたでいいのか、という問題は残るだろうし、精神論的な問題で、どちらが最終的に勝利するのかというと、やっぱり京極なんだろうなとはおもわれる。切り売りする自由は有限だからだ。そして、徹底的な自己保身者は孤独である。これは京極の言いぶりにもみえることだ。親分のはなしをして泣き出した彼はいきなり壬生を殴り、これを犬畜生呼ばわりする。そして、なぜかそこで姐さんのはなしをする。これは第三者ということだ。親分への敬愛の気持ちは、自己満足的なものではなく、第三者にも認められるものだったということだ。こういうことが、自己保身者には起こらない。「あいつはよくじぶんのことを守っているなあ。これからもじぶんのことだけ考えていけよ?」とはならないのである。これが、京極のいう徳とか道理とかいうことだ。これらの言葉はいかにも複雑な人間関係のうえで命を宿すものだ。だから、両者の見解がかみあうはずはないのだ。守るべきものをもたず、じしんの自由さえ切り売りして自己保身を果たすものに、徳がない道理がないといっても、ボクシングには蹴りがないというようなもので、それは当たり前のことなのだ。

 

これまでの読みでは、九条と蔵人の対立は、この主体性問題にも応用できるものだった。これは、言葉をどのようにあつかうかという問題である。ひとことでいえば、蔵人は、世界をあまねく覆い尽くす言葉はすべてのものを表象可能であるとするものであり、九条は、その行為によって必ず生じる読みこぼしを拾うものである。世界を気象状況を「暑い」と「寒い」にわけたとき、どちらでもない世界は、無理にどちらかにふりわけられるか、見落とされてしまうというはなしだ。京極が示す強者の道理は、ソクラテスが「対話」形式でじしんの理論ばかりを示し続けたように、自然モノローグ的になる。「強者」に「建設的対話」はありえない。だから、主体性を確保しようとするものはどちらかといえば蔵人側である。では壬生は九条側なのかというと、そうでもなさそうだったのがこれまでのところだった。じっさい、事態の主導権を握ろうと志向する点ではいまだにそれは蔵人的であるのかもしれない。だが、今回の壬生の行動は九条の指示によるものだ。つまり、この行動は現実には京極封じであり、たんに銃刀法違反をしたから自首しました、ということ以上の意味が、ここにはあるわけである。こうして、書かれている以上のこと、もしくは書かれていないことを読み取る、という行為は、どのようにも使われうる。九条じしんそういう弁護士だが、ある種の強さがここにはあるわけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第148話/角刀との決着

 

 

 

 

バキと宿禰と最終決戦が始まり、そして終わった。

接近し、張り手をくりだす宿禰の顎を孤拳でなでて宿禰の意識を奪い、それでも惰性で振りぬかれる張り手を、バキは、ときどきやる首を同じ方向に動かすアレで無効にし、勝利したのだった。試合時間は9秒01。10秒で試合を終わらせるという宿禰の言葉通りにはなったわけである。

 

目覚めた宿禰は取り乱すこともなく、呆然と去り行くバキを見送っている。肉体的には指折りの強者なのに、ここまでずいぶん負けを重ねてしまったな。なんか、もうちょっと活躍してもらいたかったような気がする。花山が武蔵に仕掛けて不発に終わった実戦型アイアンクローを、誰か悪人に本気でかまして頭蓋骨砕いたりとかさ。

 

バキは首にかけたタオルもそのままだ。汗ひとつかかず帰還するバキを御手洗さんが迎える。が、バキは強敵だったという。アライジュニアのときと同じやりとりだ。宿禰の張り手は一発で意識が吹っ飛ぶしろものだろうし、つかまれたら基本的にはおしまいだ。ほんの少しの入力の違いで、試合は別の姿になっていた。起こったことだけを見ればそうでもないが、試合は非常に高度なものだったというわけだ。

 

光成邸でバキと宿禰が向き合って座り、話している。これ以上ない完敗だったと宿禰はちからなくいう。バキは、真っ向勝負など出来るわけがないから小細工で勝負したと語る。小細工というとなにかちがうが、「身体が勝手に動きを選んでくれた」というのはたしかにそうかもしれない。考えての動きではない。バキの経験、禁欲的な反復訓練が、ふさわしいの動作を導き出したという感じだ。

そしてバキは、長きに渡った角刀との対峙は、終了(おわ)った気がするというのであった。

そこへ、突然蹴速が入ってくる。終了ってなどいない、という流れかと思いきや、蹴速は友好的だ。ひとんちでどうやって用意したんだか、飯食っていけよと、バスタブほどの鍋を開陳するのであった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

終了っちゃったよ・・・よく見られる、前回の再放送みたいな描写すらなかった。これはあれかな、板垣先生、次の展開なにかおもいついちゃってる感じかな・・・。

 

相撲という様態、また力士というありかたに謎がある、10秒間、全身を燃焼するような出力はいったいどのようにして行われるのか、そしてそれは、近代格闘技と対戦したときにどのような効果をもたらすのか、それら大相撲の起源と考えられる古代相撲はどういったもので、バキらなんでもありのファイターのたたかいかたとどこが同じでどこが異なるのか、こういった「謎」が、相撲篇の原動力だった。これは、大相撲篇を通じて部分的には解明されたものの、基本的には「思ったとおり」を出なかったと考えられる。もちろん、バキたちに収穫はあったろう。しかしそれは、ファイターとしてというより、格闘マニアとしてというほどのものだったかもしれない。いちばん「勉強」になったのは渋川剛気で、彼だけは、合気の限界を知るとともに、その先につながる、体重が無効になる「空中」という状況を見出していた。だがその他のファイターは、比較的苦戦したほうの独歩にしても、堪能したという程度を出なかったようにおもわれる。こういうところで、相撲の原点である古代相撲を実践する宿禰がもっているものに期待が向くことになる。宿禰や、また遅れて登場した蹴速じたいは、魅力的なキャラクターだった。しかし彼らは、「めちゃくちゃ強い世間知らず」みたいなものにすぎないぶぶんがあった。要するに、修羅場をくぐってきた独歩やジャック、オリバにバキの試合運びには、ついていけなかったのである。宿禰がこのように不完全燃焼気味にバキ戦を終えてしまったのは、けっきょくはここのところに問題があったからだろう。彼は、なにかまだかくしもっている秘密があるような言い方をしていた。それが、具体的な「なにか」、つまり必殺技的なことだったのか、それとも、「本気出してがむしゃらにたたかえば負けることはない」くらいの意味だったのか、それも最後までわからない。だが、どちらにせよ同じ結果になっていた可能性は高い。彼らはうぶなのである。フィジカルも技術も、バキらに並ぶものはおそらくもっている。しかしながら、近代格闘技に関しては宿禰も蹴速も子どものようなものであり、けっきょくはこうして、なにもできないまま終わってしまったわけである。

 

そう考えると「終了った気がする」とするバキがちょっと元気なさそうなのも、理解できるかもしれない。謎がある。そしてそれを解きたい。だから謎に出てきてもらう。しかしそれは、謎が謎として実現してしまう前に、「まあ謎のままでいいか」となってしまうような現実に落ち込んでしまう。そもそも、なぜその謎を解きたいかといえば、みずからの強さのためである。渋川がそうなったように、もっと強くなるヒントがそこにある、ような気がする。だから解きたい。しかし、その謎は、じぶんたちのいる場所からははるかに遠いところにある。この謎解きは批評のものに近い。わたしたちには、じぶんの人生がある。しかしそのいっぽうで、小説や映画などで、わたしたちは他人の人生に触れ、理解できないものや共感できるものに触れることになる。こういう原理のなかで、たとえばシリアルキラーの心理を探ることは、批評的には、また学問的には価値のあることだろう。しかし、わたしたちの日常、つまり、明日の会議、来月のデート、よくわからない確定申告、ぜんぜん行きたくない同窓会、こういう現実に、シリアルキラーの心理解析は、役に立たないとはいわないまでも、有用ではないわけである。バキらは、じしんの知性を活性化させるために、まったく理解の及ばないシリアルキラーの心理解析がひょっとして役に立つかもしれないと考えた。しかしながら、いくら彼らの登場する小説を読んでみても、彼らはひとを殺すだけで、ぜんぜん会社の会議とかに出ないし、確定申告とかやってる気配もない。そうして、やがて興味が失われ、もういいか・・・となってしまったのではないかと、そんなふうに見えるのであった。

 

しかし、くりかえすように、宿禰・蹴速じたいは、決して弱くはない。うぶだっただけだ。だから、彼らが近代格闘技の語法をマスターすれば、そうとうに強いファイターになることはまちがいない。それはみんなわかっている。だがそれはもはや「角刀」ではないのである。だから終わりなのだ。

 

もちろん、相撲に見るべきところがないというはなしではない。どうしてこういうはなしになるかというと、バキたちはけっきょく「じぶんが強くなること」だけを考えているからなのだ。これがたとえば寂海王だったり、組織の長としての克巳とかの目線だったなら、こういうことにはならないだろう。だが、バキは個人として相撲という歴史に触れたのだ。ブレイクダンスの選手が来週の試合のために古典芸能を見ることにあまり意味はないかもしれないが、振り付けをするものにはきっと有効だろう。目線が異なるのだ。そして、個人としてバキは最強レベルである。はじめからかみあっていなかったのだ。

 

 

148話、ここでも相撲についてかなりいろいろと書いてきた。いろいろと、深く考えてきた・・・。時間があったら、武蔵のときのように長いまとめを書きたいが、なにしろ結末が、けっきょく謎は謎のまま、というところなので、難しいかもしれない。たぶん、しばらく寝かせておくとおもいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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