すっぴんマスター -28ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第2話/Ultimate pure boy Jack

 

 

 

前回

 

バキ新連載『刃牙らへん』はほぼジャックが主人公っぽい。

前回剣豪・佐部京一郎の刀を噛み折ったジャックだが、その少年時代が少し描かれる。場面はカトリックの教会、語り手はサミュエル神父だ。なぜだかこの神父が、幼いころのジャックを知っているというのである。

11年前、教会の最奥、キリスト像の前で汗を流している少年に神父は出会う。キリストを「守っていた」というのだ。イエスさまに守られているものがイエスさまを守るのかと、神父は笑う。だがジャックは真剣だ。ふたりは向き合って座り、よく話し合う。守る目的はなにか、守る替わりになにを願ったかと。神のために働いたのであれば、神の愛を授かることになる。だがこれは神父の誘導尋問のようにも感じる。というのは、ピクル戦でジャックは、生まれてはじめて神様にお願いをしているからである。

なにを願ったかというと、むろん「強く」ありたいということだ。どのくらい強くか? 生き物でイチバンである。メジャーリーガーを目指したり宇宙飛行士を目指したり、子どもにとって夢は自然なものだ。しかしジャックのそれは「夢」などというあやふやなものではなかった。リアルな目標だったのである。

神父は、ごく初期のジャックがどういうトレーニングをしていたかの貴重な目撃者だ。ジャックはおそらく10歳か12歳かそのくらい。母親の過去とじぶんの出自を聞かされ、範馬勇次郎を倒すことが初めて人生の目標となったばかりのころだろう。汗が水溜りになるほどプッシュアップ、というか厳密には拳立て伏せを行い、目や鼻から血が出てくるほど長時間の逆立ち。ひとをさかさまに吊るしておくとやがてくちから内臓とかが出てくるって『善悪の屑』だったか『外道の歌』だったかでやってたけど、逆立ちも度を越すと血が出てくるのだな。


その後シャドーボクシングも行うのだが、その最後がどういうものかというと、失神をもって終了ということなのである。「ブッ倒れるまでガンバる」はただの比喩である。ふつう、運動行為で「限界」は、走っているなら、もう動けなくなって地面に丸くなってしまうことをいう。トレーニングにおけるオールアウトも同じことだ。5キロでサイドレイズを行う、もう上がらなくなったところで3キロにもちかえる、そして1キロ、最終的には空手で、もう腕があがらないというところまで同じ動作を続ける、それがエネルギーの枯渇ということであり、体力の限界ということだ。それだけでも経験や胆力、技術の必要なトレーニングになるし、「限界までガンバる」というのはくちでいうほどたやすくない。だがジャックのそれはそんなものではすまない。これらの動作の停止という現象は、不可避的にみえて、実は能動的なものである。神父はたくみに「自ら」動作を停止するという表現をしている。ジャックはそうではないのだ。

 

このはなしは光成が、おそらく間接的に聴き取ったものらしい。光成からはなしを聞いて、ジャックはサミュエル神父を懐かしむ。「懐かしい」は人間らしい時間感覚の感情だが、ジャックにもそういう感情はあったのだな。

さて、次の試合である。ジャックに興味あるのは神父だけではない。相手は武器を帯びている、それも全身に。斬撃空手の鎬昂昇なのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

鎬昂昇かあ・・・。まあいまどれくらい強いのかいちばんよくわからないひとではあるな。ことあるごとに顔は出すし、成長してるっぽいけど、ファイトはしてこなかったから。


武器の本質を、受けを無効にするというところに求めるとしたら、たしかに鎬昂昇も武器を備えていることになる。ジャックの嚙みつきも、よけたらダメージを受けることはないわけだが、腕で受けたら、たとえば首の損傷は免れたとしても、腕が使えなくなってしまう。こういう意味で、素手で牛を解体するレベルまで指を鍛えた昂昇は武器使いということになる。

 

 

かつてジャックはピクルとのたたかいにおいて神に勝利を願っていた。このときジャックは、「初めて貴方にお願いいたします」というふうにいっている。だからといってジャックがこれまでの人生でいちども神のことを考えたことがないと断定するのはあさはかだろうが、今回光成のはなしを聞いてジャックはサミュエル神父のことを覚えていたわけで、少なくとも「初めて」と述懐する際に、サミュエル神父とのことは想起されなかったというふうにはいえるだろうとおもわれる。神を信じるとはどういうことかというと、この世の天蓋というものに畏敬の念を抱えるということだろう。世の中には、人智を超え、コントロールすることのできないものが存在する。そういうおそれの感覚が宗教の初期衝動だろうし、どの国においても、古代の神話などはそうした自然現象などに対応したものとして創作されてきたのである。身近なところでは「死」がそうだろう。そうした、いま冷蔵庫をあけてコーラを取り出し、ふたを開けて飲む、というふうにはいかない、理知の外側に、在るのだが観測できないもろもろ、それをおそれ、敬うということが、宗教の原形ではないかと想像される。こうして考えたとき、遺伝子操作とかクローンの製造などが忌避される現象は、ある種の逆流だろう。どれだけ研究を重ねて、もしこれからそれを知り尽くすということがあったとしても、「人体」が、いまわたしたちが知っているしかたで成立していることをそれじたいはまちがいなく奇跡的なことだ。したがってこれは神の領域であり、おそれ敬われるべき事象だ。順序としてはそうなるが、倫理的にはこれは同時に発生しているものととらえられるのかもしれない。だから、「人体」をいじくりまわす、あまつさえ製造するなどということがあってはならない、というはなしになる。それは神の仕事だからだ。どうしてこういうことになるかというと、宗教は本来人工的なものであるところ、倫理ととけあう際には、無時間的なものになってしまうからかもしれない。そもそも、人間をつくりたもうた「神」が「人工物」のわけはないのである。だから、ふつうは「なぜ神という概念が生まれたか」という発想が、少なくとも宗教の内側でとられることはないのである。

 

それはともかくとして、ジャックはまさに、そうした、ほんらいは「神の領域」と考えられる禁足地に乗り込む男である。今日勝つために、「死」を漂白して多量のドーピングを行う。明日のことなどどうでもいい。勇次郎を倒すためには、時間さえ乗り越え、日に30時間のトレーニングを行う。こういう背景があるから、「初めて」神にお願いするという場面が生まれうる。彼が「死」のようなものをおそれ敬うなどということはありえない。もしそれが強さに必要なことだというのであれば、そこに乗り込んでむしゃむしゃ喰らう、そういう男だ。だからあの場面は、ピクルという、彼と同タイプの、しかし圧倒的に上回る実力者と対峙して、信じがたいほどの世界の広さと歴史の深さを痛感する場面として、迫力を孕むのである。

 

サミュエル神父とのやりとりは、いまのジャックのつながる人格の形成期であって、神にかんしてカウントするような出来事ではない、ともいえるかもしれない。たとえばぼくは、22歳のときに初めて小説を書いて新人賞に送ってみたわけだが、じつをいうと小説じたいは小学生のときから書いていた。神の領域というか黒の領域というか、こう書いてて顔が赤くなってくるような記憶だが、ノートを縦にしてびっしり、推理小説やSF(のようなもの)を大量生産さいていたのである。だが、それが見るもおぞましいしろものであるとか、黒歴史であるとかいうことをいったん忘れたとしても、ぼくはおそらくいつでも「22歳のときにはじめて小説を書いた」と語る。ひとに見せるつもりで体裁を整え、しっかり読める字で原稿用紙を使って書いたのはそれが初めてだったからである。そういうぶぶんは、人間の生にまちがいなくあるだろう。だがそれは現在のジャックの位置から振り返った場合のはなしだ。当時の、10歳くらいのジャックは、ほんとうのところなにを考えてあんなことをしていたのか。

 

そもそも、「守る」というのはどういうことなのだろう。神父はそのことをたずねてはいない。ただ、10歳くらいの少年が教会でトレーニングをして「守る」というのは尋常ではないわけで、そこに裏を読み取るのは自然かもしれない。その結果として、神父はなにを願ったかたずねたのだろう。重要な点は「守る」ということばの意味だろう。ふつう、「守る」という行為は、守る対象の前でトレーニングすることを指さない。義経を守る弁慶がその前で年中ヒンズースクワットをしていたなんてことはない。「守る」という行為はある種の備えのことであって、動詞的に顕現するものではないのだ。だからジャックは、あのときなにをしているのか聞かれて、「守っている」と「鍛えている」のふたつのこたえがあたまに浮んだはずなのである。

 

「守る」の対価として「強くなる」を求めていたという件が宗教上どういう意味をもつかは、ここでは問わない。ポイントは、彼が「守る」と「鍛える」を同時に行っていたということだ。ジャックが日に30時間のトレーニングを行っていたということばがどれくらい真実に近いかというのは、じつをいうとよくわからない。起きているあいだは、移動以外すべて鍛えていた、くらいのところまでいくのだろうか、それとも、失神するまでのトレーニングができたら、その日は終わり、あるいは、できるようになるまでひとやすみ、くらいの感じだったのだろうか。もし「起きているあいだはつねにトレーニング」ということなのであれば、「守る」と「鍛える」をマルチタスク的に同時に行うのは不自然なことではない。時間がもったいないから。そうでないなら、たとえば10時間鍛えた余った時間に、守って、お祈りすればよいはなしのようにもおもえる。

なにがいいたいかというと、このときのジャックにとっては、「鍛えているところをイエスさまに見せる」ことが重要だったのだ、ということだ。なぜか? 報われないからである。こんな小さいころから、ジャックは常識を超えるトレーニングをしていた。しかし、いっこうに強くならない。でかくもならない。世界は努力に応えてくれない。こういう挫折感が、この行為に及ばせたのである。のちにこの願いには際限のないドーピングが応えることとなる。つまり、この時代のジャックにとって、神とは、のちにドーピングがその位置を占めることになるもののことだったのだ。

 

そう考えてみれば、ジャックがピクル戦で「初めて」神を意識し、祈ったことも理解できる。あのときジャックが祈ったのは、いってみれば「本当の神」である。あの瞬間、ジャックはピクルに勝てないということをどこかで理解していた。これで世界を制覇したと確信する冒険家が、そこが小さなひとつの島だったと知ったときの感覚が近いかもしれない。しかもその理解は闘争のスピード感あふれるわずかな瞬間にやってきた。そのときジャックの前にそびえたつ絶壁の圧倒的高さ、広がる海の圧倒的広さを想像しよう。祈りたくもなるというものであり、その感覚はまさに宗教の初期衝動に等しいものなのだ。ところが、幼いジャックがみる神は働きに応じて対価を支払うものである。それが「愛」のような崇高なものならまだはなしはわかる。だがジャックにあったのは、いくら鍛えても強くならない無力感だけだ。度を越すドーピングが悪魔の所業なら、ジャックはその全能感という一点のみにおいて、神を悪魔のようなものと考えていたわけなのだ。


そしてジャックは、そのまま大きくなった。教会通いをいつまで続けたのかはわからないが、報われないという感覚はずっとあったことだろう。しかしやめない。なぜなら、常識的なやりかたでは範馬勇次郎は倒せないからである。彼はずっと、この働きに応え、対価を払う悪魔を探していたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第85審/至高の検事

      

 

 

 

九条弁護のため、一時的に居候していた流木のもとを離れ(同じ事務所にいると、九条を告発した壬生の弁護を流木がしているから、利益相反になる)、独り立ちした烏丸。九条の事務所でそのまま仕事をするっぽい。

 

電車のなかで舌打ちされて相手を暴行した船井という男が事務所にきている。「推しが尊い」と書かれたトレーナーみたいのを着ている。推しの服を着るのはわかるが、「推しが尊い」を背負って生きるというのは、なんかすごいな。「世界平和」みたいなことかな。

すでに傷害で逮捕されたあとだが、船井が怒っているのは、暴行状況を撮影した動画が出回ってしまったことだ。なんでもいいから配信したものを特定して罰してほしい。九条のかわりを務めんとする烏丸はもう以前のようにうぶではない。淡々と首肯し、手順を説明する。

次は隣人のタバコに悩む女の人だ。ベランダで吸うから洗濯物ににおいがつく。苦情としてはふつうにみえるが、「ぶっ殺すかなんかで法的に訴える方法」を探しているらしく、やはりどこかおかしい。ポイントになるのは受任限度、どこまで我慢できるかということだという。なんというか、弁護士も、ふつうに接客業・サービス業だよな・・・。これじゃレジで「注文品はキャンセル不可」を説明してる書店員と変わらないよ。

 

烏丸は公私で仲良しの薬師前と連携しており、薬師前は船井の就職先を見つけてきたところだ。排水の穴にタバコの吸殻を束で見つけた薬師前はそれをビニールに集めている。それをコンビニのゴミ箱に捨てたので、店へのお礼ということで、烏丸のタバコを買ってきた。薬師前を待たせ、烏丸は喫煙所でタダのタバコを吸う。烏丸は「美味しい」といっている。

船井は繊細なぶぶんもあると薬師前は語る。親の言いなりに生きてきて、本来は内気な性格なのに、親が亡くなってから溜まっていた不満を世間にぶつけて乱暴になっているということだ。ともあれ、弱い人間なのだ。

 

 

 

「誰かが汚したら、誰もが汚しても構わないって扱われる。

 

そういうの嫌なんです」

 

 

 

至言だな・・・。

 

烏丸が流木と会っている。烏丸が甘い飲み物を飲んでいるのを見て、流木が脳の疲れをみてとったようだ。目つきを険しくなったという。

烏丸がはなすのは、船井のことではないのかもしれないが、彼が語る親子関係のことだ。親子関係の悪化がいまの軽犯罪を招いていると、その依頼人はいうが、そしておそらく一般的にもそういわれているが、自分は幼い頃父をなくし、母親の苦労を見てきたので、よくわからないと。ひどい親子関係などいくらもある。そのすべてが犯罪者になるわけではないはずだ。流木は、世の中義務感も責任感もない子供みたいな大人だらけだとする。烏丸は大人だからわからないのだ。それに、親子関係というものは千差万別、ひとくくりには語れない。九条も父親とはこじれていたという。烏丸は初耳っぽい。父親の鞍馬と流木は同期で、飲み会ではよく九条のはなしが出ていた。やればできるのに勉強を怠るから厳しくしつけた、しかしそのせいで心が曲がってしまったのかなと嘆いていたという。

 

 

そして九条との接見だ。やつれて元気がない。嵐山に一日中否定され、自信もそがれている、気持ちを切り替えるきっかけもなく、夕方に流れるラジオ以外情報源がない。気を抜くと弱気になると。カンモクパイがどれだけ困難か身にしみて感じているわけである。九条じしんが指示したカンモクを依頼人たちに実行させたのは、九条のまめな接見だった。今度は烏丸が九条の話し相手になると、烏丸は選任届を出す。九条はサイン、これで正式に烏丸が九条の弁護人だ。一言目、20日カンモクパイの指示を出す烏丸に、九条は微笑するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

九条は依頼人の痛みを、烏丸は九条の心労を追っているところなわけである。

前回考えたように、烏丸は九条の椅子に座ることで、まだ真に理解はできていない九条の星の王子さまスタイルを、現場で学んでいる。蔵人、そして若い烏丸の法的世界認識は、言葉によるデジタルな分節によって成り立っている。だから、悪や善がはっきりしていて、善でないものは悪であるということをはっきりいうことができる。ある種の信念のゆるぎなさのようなものはこうした固陋な世界認識で成り立っているぶぶんもあるし、そもそも人間は言葉で思考をするものであるから、こうしたありようをあたまから否定することはできない。九条にしてからが、言葉を用いて法的思考をする。ちがいは、そうしたデジタルな分節について自覚的であるかどうかということだけだ。蔵人などはわかったうえで揺るがぬ法治国家を成立させるべく例外をゆるさない思考法を採っていそうだが、九条では、ある事物とある語を短絡させることによって生じる見落としが、人間の弱さであるという見立てがある。ある地域に、ふたつの方言が確認されたとする。東と西で微妙に語彙や活用に違いがあるのだ。言葉による分節は、この地域に二つの方言が存在するということを確認する。ところが、じっさいにはそのことによって、市の中央部にわずかに確認できた(そもそもこの「確認」が言語的営為である)東と西がブレンドされたような言語作法は、見落とされることになる。たんにそれを発見した学者の論文でそうなっているというだけならいいが、現実には、たとえば方言の保護活動などで、この地域ではふたつの方言が保護の対象となることになる。方言を保護するというきわめて進歩的な行動が、それ以外の方言を廃棄する動きに意図せずつながることになるのである。九条は、「そういうこともありうる」ということを念頭に、あいまいに行動するものなのだ。

蔵人は自覚的にやっているとして、烏丸は言葉の分節を究極の知的営みとして生きてきた人間であるから、これがうまく理解できない。いわゆる秀才型のひとほど、ここにはなにかあると感じつつも、馴染むことができないだろう。だが、おそらく個人的なつきあいを通じ、わからないがとにかくそこにはなにかあるという確信だけが、烏丸にはやってきたのだ。その感覚そのものが、実は非分節的なものなので、同じように法を眺めていけばよいのだが、ともあれ、わからないがどうしてもわかりたいものとして、九条は烏丸の前に立ちふさがることになる。

そこで烏丸が採用する行動が、対象の行動を追ってみるというものだ。何度もくりかえしているが、これは自殺した親友・有馬について、烏丸が実践していたことだ。自殺の理由など、真に理解することはできないだろう。しかしそれは、理解できないから放置してよいということを意味しない。烏丸は一周忌に有馬の死んだ部屋に滞在し、たしなむものの気持ちが理解できないとしていたタバコを吸う。この行動は、その直前で彼が見せていた、プロファイリング的な、家具を通じた推理能力の延長にある。死んだ主人の残した家具は、主人の痕跡を残した状態でじっと解釈を待っている。主人が家でとっていたさまざまなふるまいの縁取りをするように、家具は役目を果たすべく待機しているのだ。だから、ある種の霊感を通じて、見るものが見るとき、家具からは主人の姿が浮かび上がることになる。エドガー・アラン・ポーがモノのあふれかえった時代に現れ、怪奇小説と推理小説を同時にものしたのはこうした理由からである。この意味で霊感と推理能力は等しく、ともにそこに死者の在りし日を見出すものなのだ。

 

 

烏丸にはこうした能力がある。だが、縁取りはけっきょく縁取り、その内側に描かれるものの細かな柄まではわからない。そこで、その家具の内側にじっさいに身をおいてみるという行動に出るのである。その象徴がタバコだというわけだ。気持ちはわからないが、吸ってみれば、喫煙者のおもうところがわかるかもしれない。今回彼はこれを「美味しい」としていたので、かなりのところまで憑依は達成されているものとおもわれる。だが、やはり依頼人のことはよくわからない。家族に問題があるとしても、犯罪者にならないものは大勢いると。ここで流木は、それはひとことで語れるものではないとしつつ、九条もそうだったということをいう。つまり、ひとこと「家族に問題がある」という点でいえば、烏丸も九条も同じだったわけだ。ところが、それをどう受け取るかで、分節思考にむかうか、非分節思考にむかうか分岐しているということなのだ。

 

ちがいは兄の存在だろう。幼い九条が怠けていたのは、おそらく、蔵人が怠けていなかったからである。彼はいつも兄と比べられていた。そんな彼には、そもそもじぶんと兄は別の人間ではないか、という当たり前の感情がわいてきたことだろう。別の人間なのだから、別の行動をとり、別の人生を歩む、そんな衝動が訪れたとしても不思議ではない。だがその行動は、九条を解放しはしなかった。言語によって分節された別人だからこそ、比較、評価されるのだ。問題は別人であるかどうかではなく、評価という行為のほうだったのである。怠けることによって別人であるということを示そうとしても、それは、外部からの評価を手助けするいち要素になるにすぎないものだったのだ。おそらくこれが、九条の原体験である。事物のデジタルな分節は、好むと好まざるとにかかわらず、人間である以上不可避である。ただしそこに「評価」を持ち込むかどうかというのは、任意ではないのかと。

 

そのひとが抱える人生のかたちはそのひとのもので、抱える地獄もひとそれぞれである。九条も、呆れ顔で依頼人のはなしを聞くことはある。だが、九条が呆れることと、その件をどうあつかうかということは、別の問題だ。なぜなら、そのひとの生が呆れるべきものかどうかという「評価」は、すべきではないからだ。

 

優秀で「大人」な烏丸は、そうした評価を体験してきたものではなかったろう。ここでいう「大人」は、星の王子さまにおける大人、言語による、ロゴスによる分節を受け入れ、見えるものだけを存在とするものたちのことでもあるだろう。今回薬師前は、みんながやっているからとくりかえされる小さな悪意について語っていた。これは、前例があり、それでいて罰が与えられていないようだと判断されたものごとのことである。ここには大勢のひとがタバコを捨てている、ということは、誰も注意されたりしていないということである、という具合に推理されて行われる小さな悪事だ。こういう行為を分節思考はどう評価するのか? 薬師前は「悪」というようなはっきりした言葉は使っていないが、ここで彼女に訪れている衝動は、善や悪といった言語的分節作用に基づくものではなく、ルソーのいう、法以前の憐れみの情に由来するものだろう。なにが悪であるか、というような大きな問いかけ以前に、だれにもある、誰かをかわいそうとおもったり、これはちょっと・・・とおもったりするような、原始的良心である。これはロゴス以前の世界に存在するものだ。くりかえすように九条もまた言語に身をゆだねる法的人間である。けれども、その見落としには自覚的であろうとしている。タバコのポイ捨てを厭う気持ちじたいは、法的思考に由来するものであるかもしれない。しかし、いいわるい以前に、あの吸殻の山からは、「吸殻がたくさんあるから捨てていい」という思考停止の痕跡が見て取れる。思考停止しているにもかかわらず、そこに憐れみの情はない。法以前、言語以前に備わっているはずのものが、ここからは抜け落ちている。なぜ抜け落ちているかというと、みんながやっており、罰せられていないからである。この推理じたいは分節型の法的思考なのだ。つまり、驚くべきことに、ここでは、法的思考が思考停止を導いているのである。これもまた予期せぬ見落としだろう。言葉は全能ではない、ただそれを信じきるだけのことがどれだけ難しいかということなのだ。烏丸はそれを、やっかいな依頼人を通してこれから学んでいくのだ。

 

 

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第1話/刃と牙

 

 

 

 

バキ相撲篇のバキ道が終わり、ジャック・ハンマーの嚙道をひっさげて新連載開始です。タイトルは『刃牙らへん』! 少し前から板垣先生のなかで流行っていたっぽい言い回しで、作中でも何回か見られたものだ。刃牙のまわり、ということなのであるから、スピンオフとはいかないまでも、主人公の成長譚的なしばりからは抜けた物語になるのかも。

 

武蔵篇以来の佐部京一郎の登場である。もとは独歩が主人公の外伝『拳刃』のキャラクターだったが、武蔵があらわれたごく初期の段階で、武蔵がどれだけ「ホンモノ」なのかということをあらわす定規として登場した。というと言い方がナニだが、要するに現代では一級の刀使いということだ。




佐部は光成邸を訪れる。彼は63歳であるということだが、ひとめみて鍛錬を怠っていない現役だということがわかるというはなしだ。他に取り柄もなく、日々汗と恥をかいていると。肉体もすさまじいが、このひとに関してはまず顔がすごい。


この佐部は、しかし逮捕されたことがあるという。人斬りが逮捕されているわけだから、殺人だとおもうのだが、いまふつうに生活しているのは、「大変だった」とする光成が暗躍したということだろうか。ともかく、刑務所にいる佐部に対して、剣道の猛者ひしめく刑務官や機動隊の面々は、取り締まるより教えを乞いたいというふうに熱望したという。

ともあれ逮捕された佐部。柳なんかとちがって国家権力にたてつくタイプではないだろう。ケツモチのヤクザか、それこそ光成がなんとかしてくれるという確信でもあるのか、取調べ中の佐部は余裕の表情である。そして、彼を逮捕した関係者はくちをそろえて、そのすさまじい微笑の顔貌を前に、10人以上は斬っているんじゃないかと確信するのだった。

 

今回の用事は試合である。双方を武器をもった五分のたたかいだと。佐部はまさかまた武蔵なのではと少し青くなる。いくら現代の剣豪だっていっても、相手が宮本武蔵というのはシャレにならない。光成は笑って否定する。いや笑い事じゃないでしょ、何人死んだんだよ・・・。

相手も武器をもっているというはなしであるが、剣ではない。光成は、佐部を試すようにして、なかなか相手の武器をいわない。佐部としても手の内を探るようでちょっと気が引けるのだろうが、相手は佐部が刀使うことを知っているのだとしたら、聞かなければフェアではない。歯だと、光成はようやく応える。刃ではなく、前歯奥歯の歯だと。

 

そうしてさっそく格闘技の「噛み様」たるジャックと佐部が地下闘技場で相対する。ジャックは243センチ211キロ、佐部は178センチ86キロ。宿禰戦を経てジャックの嚙道の強さは知れ渡ることとなった。しかし今回の相手は剣である。持ち手は正体不明だが、現代では天下無双だということだけは実況にも伝えられている。見た目からして龍書文的なホンモノ感もじゅうぶんだ。じっさいのところ佐部はかなり強いんだろうけど、拳刃からはじまってずっとかませ犬ばかりやらされてて気の毒だな・・・。逆に佐部の外伝が読みたいよ。

 

向き合い、ジャックは無茶な申し出を受けてもらえたことへの感謝を述べる。ふつうにみると、ジャックは素手で佐部は武器をもっており、アンバランスなわけだが、その武器をもつものにジャックは感謝しているのだ。佐部は、よほどの勝算がなければそういう態度はとれないという。ひとまず、武器ありのものにありがちななめた気持ちでやるつもりはないようだ。

立会人が、身に帯びた武器を心ゆくまで使用するよう伝える。武蔵があらわれたときは、地下闘技場に武器を導入することにみんなけっこう抵抗があったようだが、すっかりふつうのことになってしまったみたいだ。

 

太鼓とともに刃対牙開始。駆け寄って距離をつめた佐部がさっそく柄に手、鞘走らせる。首のあたりをねらったのかな。刀をもっていても、65センチの身長さなので、かなり高い角度となる。ジャックはそれを姿勢を落としてかわす。おそらく、あまりにも高すぎるジャックの頭部を低くすることが佐部のねらいだったとおもわれる。そうして、ほぼ同じ高さになったジャックの顔面に、野球のバットでも叩きつけるようなシャープかつパワフルな一撃がめりこむ。しかしむろんのこと、その一撃は、ジャックの歯によってはさみ受け止められてしまうのだった。

佐部の手はしびれ、刀は奪われてしまった。そのまま元の位置に身を起こしたジャックは、くわえたままの刀を折り、地面に落とした。刀がなくなってしまってはもう佐部にできることはない。彼は両手をあげて降参するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

さあ、主人公が「刃と牙」のタイトル以外、名前すら現れない新連載がはじまったぞ!まあ、「刃牙らへん」というくらいだから、もはや「主人公」という概念もないのかもしれないが。

 

「刃牙らへん」という、一部ネットユーザーを動揺させる表現がどこからやってきたかというと、作中からである。いま確認したところでは、『バキ道』最終話で、鴨を捕獲するピクルを目にした松永智文について「生涯2度目の“刃牙らへん”との遭遇である」という表現が出ている。松永はオリバ対宿禰を目撃した人物でもあるのだ。その前にもあったように記憶しているが、見つからない。

「刃牙らへん」は漢字にすれば「刃牙等辺」ということで、要するに「刃牙の周辺」ということだ。松永は、オリバと宿禰、それにピクルという、現実感覚では理解に苦しむ超人たちと立て続けに遭遇した。こういう、現実を超えたような肉体の持ち主たちを、刃牙の周辺にいるものとして一括したのがこの言葉ということになる。

しかし、この表現はいかにも、外部から見たときの、いわば無責任な「見るもの」としてのものだ。これは明らかなことといっていいだろう。オリバやピクルは、まず「刃牙」という現象があって、それから事後的に、あるいは付着的に自律するようになったわけではない。刃牙がいなくても、ピクルは存在した。だが、一般の現実感覚からすると、オリバやピクルのような存在は到底納得のいくものではない、unidentifiedな存在だろう。Identityはフランス語から派生した、「同一性」などと訳される言葉だ。ふつう日本語でアイデンティティというときには、時間的空間的に別々のところに存在する自我を並列してとらえることになる。昨日のわたしと今日のわたしを同一人物であると納得させるものがアイデンティティである、という具合に。しかしUFOのunidentifyなどにおいては、物理的に別々のものにおいて、なんらかの体系や秩序のもと同一の要素を見つけ出せるかどうかということがポイントになる。正体不明で見たことのないかたちをしていても、なにかの理由でそれが飛行機であるということがわかれば、それはunidentifiedではなくなるだろう。

 

松永は、なにものかからのインタビューに応えて、地球規模で何かが起きてる、というふうにいっていた。別の似たなにかをひとまとめにし、体系化し、つまり同一化し、「けっきょくのところそれはなになにである」、というふうにいえないような、常識を超えた事物(3メートルにも見える巨人とそれを喰うオリバボール、鴨をムシャムシャ食べる野人)に立て続けに遭遇した松永にとっては、それが自然な反応だろう。そこへ、「刃牙」という概念が導入されているのが『刃牙らへん』ということになる。もちろん、「刃牙」には、ただの「強い個人」である以上の意味がある。彼は、国勢を占ううえで無視できなり範馬勇次郎の息子であり、それに匹敵する強さをもっている。ただの「強いひと」ではない。だが、それ以上に重要なことは、この作品がずっと彼を中心に描かれてきたということだ。作品として、またその描いている世界として、刃牙を中心にもってくることは、自然であるし、慣習的であるともいえる。刃牙目線、それこそ刃牙らへん目線では、「刃牙らへん」などという呼称は、納得のいくものではないだろう。治安のわるい地区に住んでで、「あそこらへんに済んでるひとはみんな・・・」みたいな雑なまとめられかたをされたら、誰だってカチンとくる。しかし外部目線ではその見かたはきわめて健全であり、「当たり前」であるということは、事実としてある。しかもこの場合対象となっているものたちは、治安の悪い「あそこらへん」に済んでいるもの、などというようなわかりやすいものではなく、3メートルの巨人を飲み込む球体になるような人間なのである。松永は、もちろん刃牙のことなんて知らない。だから、異様な人間が立て続けに地の底からあらわれはじめているような感覚に襲われているだろう。それをひとことでまとめるなにか統一的な概念を、彼は求めていたはずだ。そこに、神の声の位置から、作品が「刃牙らへん」という呼称を与えたのだ。

 

この「外部から見た刃牙らへん」というのは、じつは長年作中であつかわれてきた、「強さ」に継ぐ第2テーマといってもよかった。よく書いていることだし、新しく作品がはじまったばかりでそこまで書くのもなんなので、今回はあっさりにするが、刃牙らが体現している超常識的なものと常識の接合である。もっとも象徴的な場面は、通り魔を独歩が破壊したときの描写である。独歩はこのとき、一般人を相手にするときには通常用いない「存在してはならない技」をたくさん披露した。これを、監視カメラという、公衆の秩序を管理する側の目線が拾い、解析したのである。存在してはならない、また存在するはずもない技や事物、人物が、じっさいには存在する。こういうことを、特にメインバトルのあいまあいまで、作品はよく描いてきた。烈のボクシング挑戦や勇次郎の落雷、ピクルや武蔵の存在そのものがそれだ。その究極が、全世界で中継された親子喧嘩だった。この世には常識ではかりきれない、はかろうにもunidentifiedとしかいいようがない事物が、じっさいにある。この都市伝説を感受するときのような感性に裏づけを与えたのが、あの親子喧嘩だったのだ。

それを通じて世界の表と裏がじっさいに接合したのかというと、そんなことはなかった。MCUの世界では超人が存在することは当たり前になっているが、こういう世界にはならなかった。ただ、表象レベルでは、この接合は実現していた。それが「スカイツリー地下366メートルで誕生した武蔵」という状況だった。なぜ地下366メートルなどという中途半端な数字かというと、武蔵野に由来して「634(メートル)」で設計されたスカイツリーの、テッペンから数えて1000メートルの地点で武蔵は生まれたからである。だが、これはかなり不思議なのだ。これが、「地下634メートル」や「地下1000メートル」ならわかる。スカイツリーは、地表を0メートルとして数え、高さ634メートルになっているからだ。地表が原点なのである。それが、なぜかここでは、スカイツリーの頂上が原点となり、そこから数えて1000メートルの場所で武蔵が生まれているのだ。これを、ぼくは表世界と裏世界の融合とみた。これまでは、地表から頂上までの634メートルが「表」であり、その地下にバキらは生きていた。しかし、親子喧嘩を通じて表と裏は接合した。となれば、原点は地表ではなくなる。地表をはさんだ表と裏の世界は、同一の原点からカウントされた位置表示になる。それがスカイツリーの頂上だったというわけなのである。そして、表裏合体の象徴から誕生したことを証明するように、武蔵は表も裏もなく斬りに斬りまくったのだ。

 

松永のような人間も、たぶんニュースを通じ、親子喧嘩や武蔵の事件のことは知っているだろう。けれども、表と裏が接合したからといって、「そういう超人もいる」というところにいくまでには、まだ時間も事例も足りない。知ってはいても、親子喧嘩と武蔵、またオリバボールと鴨ムシャムシャ男のすべてを結びつけて考えるところまでいくのは難しいのだ。それらを統一して語る語がないからである。だから彼は、「地球規模で何かが」みたいなファンタジーを語る以外なかったのだ。ここに「刃牙らへん」は神の目線から解説をほどこすのである。

 

 

おもえばこうした外部からの目線、見る/見られるの関係性についてはバキ道でもよく描かれていた。結果、作品がどこにたどりつき、ぼくがどういうふうに考えたのか、覚えてないので、あとでふりかえっておくが、本作はタイトルレベルでこの点に自覚的であるということになるだろう。ジャックにはジャックの人生があり、誰かの付属物ではなく、「ジャック・ハンマー」以外のなにものでもないわけだが、外から見たときはそうではない。そして外からこれを見たとき、ある種の無責任さが宿ることになる。これは、よくもわるくも、ということだ。その無責任さは、ひょっとすると、作品を難解な哲学から解放するかもしれない。要するに、「強さとはなにか?」とか、「現世で人斬りが生きる道は?」とか、そういう難問から解放される可能性があるのだ。これはこれで作品として新しい道かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第84審/至高の検事⑳

 

 

 

至高の検事も20話か。丸数字の記号なくなっちゃったな・・・。

 

九条と嵐山の対決が続く。九条がこれまで悪党たちに指示してきたように、基本的には九条も黙っているので、どうしゃべらせるかが嵐山の腕の見せ所となる。

 

九条には莉乃という娘がいて、いまは離れて暮らしている。それを知った嵐山は、がんばって司法試験受けて弁護士になったのに、悪党の味方をして、家族を失っているんだなと、現実を突きつける方向性で攻めていく。九条は莉乃のことを思い出しているようで、ふつうに効いているようだ。しかし、思い出される莉乃の姿は、オモチャを通じて遊ぼうとねだるもので、しかも「パパは忙しいから」と、それが奥さんに連れられていく後姿である。莉乃の顔は浮ばないのだ。じっさい、忙しさを言い訳に、直視してこなかったのである。

人格攻撃は下品だと九条は返す。とにかくしゃべりはしはじめたので、嵐山的には成功だろう。ヤクザに人権があるということを示せるのは裁判だけ、それは嵐山にもわかるはずだと九条はいう。だが、そのあたりのことに嵐山は触れない。ただ、九条が家族をはじめどれだけ他人に迷惑をかけているか、という方向性で執拗に攻め続ける。残るのは元悪徳弁護士という汚名だけ、兄の鞍馬検事にも迷惑だと。それでまた九条は少年時代のことを思い出している。たぶん私立の小学校の制服姿で、キャッチボールかなんかでボールがとれなかったみたいだ。九条はどこまでも「鞍馬の弟」であり、兄と比べて勉強も運動もだめな金魚の糞だと。

 

嵐山は鞍馬蔵人といっしょに仕事をしたことがあるという。女性のバラバラ殺人で、ストーカーに殺された女性は遺体が見つからなかった。しかし蔵人が犯人の血痕を見つけ、自宅の排水官を捜索、肉片を見つけて検挙。この書きかたではほかの誰も見つけられなかった血痕を見つけたということなのか、たんに発見者が蔵人なのか、よくわからない。はなしとしてドラマチックなのは前者だろうが、蔵人が本気で探したら見つかるような血痕を鑑識が見落とすとも思えないので、たんにいっしょに捜査に参加していて、たいへんな集中力を発揮していた蔵人が何度目かの調査でいちばんに見つけたみたいなことだろう。ともかく、蔵人は他人事で仕事をしない。被害者の代弁者として、血眼になって動くのである。その動機は、嵐山にもある「正義」だという。被害者の代弁者、おおいにけっこう、では弁護士は被告人の代弁を・・・というのが九条の立場だろうが、嵐山にはとおりそうもない理屈だ。嵐山的には、九条は最初から「悪人」の味方なのだ。「悪人」かどうかを決める捜査や裁判の前段階でそう決め付けてしまっているのだからわかりあえるはずはないし、げんに九条の依頼人たちは悪人なのでたちが悪い。

だが、このことはいわなくてはならない。もし嵐山たちが間違っていたらどうするのかと。つまり、「悪人」だと決め付けているその相手が、そうではなかったら、どうするつもりなのか。弁護士だけでなく、検事や判事も国家公務員であり、彼らが間違えるということは、国が間違えるということである。国が間違えたとき、戦えるのは弁護士だけなのだ。

 

こういう感じのやりとりだが、嵐山的には九条をだいぶしゃべらせたので収穫アリである。家族の話をしたら饒舌になったということで、部下にもっと調べるようにいうのだった。

 

 

壬生の弁護士になっている流木はしょっちゅう会いにくるので、壬生は感謝している。本音だかなんだかわからないが、壬生は成功できる人間なのだからと流木は語る。これは、更正のことをいっているのだろうか。たしかに、悪の道では、壬生は成功する可能性がかなり高いが・・・。

 

帰り道、烏丸は、誰にも同じ態度でいる流木を讃える。流木はひとりの人間として同じ土俵に立っているだけだと応える。そして、「決めたんだろ?」とうながす。流木のところでのイソベンはおしまいだ。烏丸は独立して九条の弁護を引き受けることを決めるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

九条の弁護人になる、というのは、けっこう大きいはなしなわけだが、烏丸の表情はおだやかで笑みさえ含んだものだ。なにかふっきれたぶぶんがあるのかもしれない。

 

烏丸が九条の弁護をするということは、烏丸の成長物語という意味では大きな意味をもっている。

烏丸は、みずからの共感作用をもとでに他者の感傷を推測することをよしとしない人間だ。もちろん、それは日常生活レベルではむしろ不具合を呼びがちな態度である。わたしはあなたではないのだし、あなたはわたしではない。あなたの痛みをわたしが真に、あなたの痛覚で知ることは決してないのだし、わたしの喜びをあなたが共有することもない。わたしたちは、いつでもじぶんの記憶をたよりに、状況証拠的な客観的事物から推理して、他者のおもいをトレースする。だが、きわめて強度の高い理知によって動く烏丸のような人間には、そういうあいまいさががまんならないのかもしれない。だから、彼にとってわからないことはわからない。そこに「理解」が訪れるのは、ことばによる外部的な定義がほどこされたときだけである。これが、前回蔵人の、烏丸を買っているらしい描写につながる。蔵人は、ことばによって世界があまねく説明されきる世界を見ている。それが法律文書そのものをコメンタールとして成立する言語の宇宙である。この視点は科学的なものとも親和性が高いだろう。もしことばによって説明しきれない事態が訪れたとしても、それはたんに“まだ”説明が存在していないだけのことであり、いつでも、既存の理論によって補完は可能なのだ。こういう世界観のもとに烏丸もいる。九条とはよく対比的に表現されてきたが、最初にあらわれたのは第1審の世界一のたこ焼き屋だ。九条はある種の自然淘汰が意味を決定するとするいっぽうで、烏丸は世界一とはなにをもっていうものなのか、はっきりしていないときもちわるいというようなことをいうのだ。だが、いうまでもなくことばは全宇宙を説明しはしない。たとえば、「世界一」ということについて定義がはっきりしないという点について認めたとしても、では「たこ焼き」は、果たして定義がはっきりしているものだろうか。「たこ」はどうだろう、また「焼く」という動詞はどうだろう。本当に、わたしの思い浮かべる「焼く」という動作は、あなたの想像する「焼く」という動作と一致しているのだろうか。それは「煮る」では、本当にないのだろうか。こうしてことばは必ず、どこかの段階で「こんなところだろう」という合意形成のポイントにたどりつく。「焼く」について本当に全世界で認識が一致しているか確認がとれないといって「焼く」にまつわるすべての会話を停止するわけにはいかないのである。たぶん、これが「焼く」ということでおそらくまちがいないだろうと、どこかで身体的確信に身を任せて定義することを放棄しなければ、ことばはそもそも機能してゆかないのだ。そこにことばというものの危うさはある。ことばはじっさい、ものごとを定義するために使用される。だが、墨で塗りつぶすような定義のしかたは厳密には不可能であり、拡大すれば必ずそれがドットであることが明らかになるようなもの、それがことばなのである。

少し前の悪法にかんするやりとりもそうだ。九条は、悪法は悪法でそれをくぐりぬけるとするいっぽう、烏丸は、それが悪法なら変えなければならないとする。もっともなようにもおもえるが、烏丸の一途な表情も含めてこれをつきつめると、これは、どんな場合にも必ず正解を導く「絶対法」のようなものを要請するのである。これはことばの全能を信じていなければできない発言なのだ。

 

こういう、ことばでなにごとも説明可能であるとする世界観がもたらすものが、蔵人の、そして今回芝居仕立てに示された嵐山の、無邪気にさえみえる一方的な「悪」の判定である。最初から「悪」が決定しているのなら裁判は不要である。これは、壬生が「悪」ではない、というようなはなしではない。そうした予断を、少なくともそれが決定していない場所ではもつべきではないということなのだ。

 

 

この反対にいるのが「星の王子さま」スタイルの九条である。ひとことでいえば、九条はことばの見落としを拾うものだ。象を飲んだうわばみを、ロゴスに毒された大人はただ帽子であるとする。だが、そうではないものはきっとなかにいる象を透視するだろう。ことばは全能ではない。なにかを説明し、定義するということは、ある中心点を見定め、そこに太線で縁取りをし、その周辺にある化外のもろもろを捨象するということなのだ。

 

しばらく居候することで、こうした九条の考えを、烏丸も理解しないではなかったろう。しかし、だからといってあそこまで不良に肩入れする必要はあるのかというのが烏丸の考えだった。九条としては肩入れしているつもりはないのだが、結果としては、利用されるかたちで、九条のまわりには京極のようなものが集まってきていた。そんな弁護士活動は果たして正しいのかと、こういうはなしだったわけである。

だから烏丸は九条のことがやはり理解できない。理解できないが、どこかおもしろい。学ぶべきだと彼の感性は訴えている。こういう状況で、彼は、共感はしない。彼がどのように九条のありようを学ぶか、トレースするかというと、九条のやっていることをやってみて、同じ椅子に座ってみるのである。これが、しばらく前にあった喫煙描写の表象するところである。彼には有馬という喫煙者の友人がいたが、自殺した。烏丸は、有馬の考えていたことはわからないという。だから、有馬が死んだ部屋でじぶんは吸わないどころかたしなむ気持ちはわからないとするタバコを吸ってみる。彼にとって喫煙は、わからないものの代表である「喫煙者」を演じ、その気持ちを確かめてみる行為なのである。では九条にかんしてはどうかというと、むろん、九条の座っていた位置に座って弁護活動をすることである。九条は悪党ではないが、まさしく、ことばの拾いきれない、うわばみのなかの象である。こういうものを九条じしんが拾ってきた。それを、いまからじぶんがやってみようと、こういうことなのだ。

 

 

今回は九条の回想シーンらしきものがふたつ描かれた。ひとつは莉乃である。回想シーンという、誰にも見られない景色でありながら、そこに莉乃それじたいの表情は浮かばない。じっさい、忙しくてまともに子育てはしてこなかったのだろう。彼の思い浮かべることのできる莉乃は、いつでも後姿なのである。

そしてもうひとつは兄・蔵人と比較される少年時代だ。優秀な兄の付属物のようなものとしてつねに認識される鞍馬時代の彼にはつらい時代だったろう。ことばのキャッチボールという表現があるくらいである、ことばとは、相手と適切な距離感や重さで取り交わすときに活発になる。蔵人はその達人である。そのいっぽうで、正統的な意味でのことばのやりとりに、九条は優れなかったのだ。キャッチされなかったことばはどこにいくのか。地面に転がっているボールは、拾われることはないのか。九条は、届かないボールや、とり損ねられてしまったボール、もはやいつ誰が投げたかわからないボールを拾い、ミットにおさめることを旨とする弁護士なのである。

 

 

 

↓九条の大罪 9巻 9月28日発売予定

 

 

 

 

 

 

 

 

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2023年8月10日、ディズニーシーに行ってきた!

 

 

 
 
最後にディズニーシーに行ったのは2009年の11月だという・・・。戦慄の事実である。もちろん、ディズニーに行っていないなあという感覚はあった。あったが、まさか14年も行けていなかったとはおもいもしなかったのである。いま中学生の子の半分くらいが生まれてない。体感的には5年くらい・・・。年とるとマジで時間たつの早くなるな。
ついこの前、ディズニーランドに行けたのをきっかけに再燃している感じで、夏休みが終わってひとが減って、あと多少でも涼しくなった秋口に、ランドにリベンジするか、もっと行ってなかったシーに行くか・・・みたいなことを、記事でもいっているのだが、がまんできなくて出かけてきたしだいである。前回ランドは得難い連休があったからということだったが、今回は連休ですらない。ディズニーの魔力にはおそるべきものがある。
 
 

 

 

 

 

小林一三と並んで一生かけて感謝しなければならないふたり

 

 

前回と同じく、昼過ぎくらいにつくようにして、ボン・ヴォヤージュいってという計画だったが、まあ、とにかくとてつもない暑さだった。わかっていたけど、暑かった。何回もくじけそうになり、やがてなにもかも放棄してハーバーに飛び込みたくもなったのだった。

あと、これもわかっていたことだけど、前回ランドとは比較にならない混雑だった。ギリギリ連休前だし、混雑予想みたいのでも10日は前後よりマシだし…と、いちおうは考えていたのだが、すごかった。閉園後、最後にショップ寄ったときは、混みすぎてベビーカーとか見てても明らかにまずくて、(赤ちゃんの)身の危険を感じて探しものあきらめたからな。本格的にお盆に入ったいま、どうなってるんだろう…。


最初からそんな感じで、2時間くらいはうろうろ、飲み物飲み干しては自販機を探して休み、東に喫煙所があれば行って3本吸い、西に混んだトイレあれば行って手を肘まで洗い、なにをしにきたかよくわからなかったが、明確な目標はいくつかあった。シンドバッド、海底二万マイル、ギョウザドッグ、そしてダッフィー&フレンズである。

 

 

 

 

 

 

 

ダッフィーについてはまだ知識が追いついておらず、相方は亀のオルメル目的だったが、ぼくとしてはせいぜい「まあかわいい、かわいいけど、Eテレみたいなものでは…?」みたいな認識だった。動画とか観てると、撮影者のまわりからジャニーズのイベントばりにかわいいの悲鳴が聞こえてくるが、うん、まあたしかにすごいかわいいが…程度の感想だったのである。しかし実物の破壊力というと、40前の成人男性の価値観を粉々にして再構成するほどのものである。日中実施される「スマイル&ファン」では、フレンズの7人が船に乗って現れ、パレードがわりにハーバーをぐるぐる回るというものだ。彼らはシー限定キャラなので、ディズニーストアなど行ってもグッズは手に入らないし、シーに来なければ当然姿をみることもできないのである。ミッキーなどがグリーティングでパークに現れる際、同時にどこか別のところにミッキーがいることはない、というようなことを聞いたことがあるが、とはいえ、各種アトラクションに彼らは出ているのだし、あいまいなぶぶんはある。そのあたりの、キャラクターの唯一無二性を徹底的に追求したのがダッフィー&フレンズなのだろう。ダッフィーもオルメルも、ぼくが好きなのはジェラトーニだが、誰も船に乗って出てきたあれが唯一のもので、ホンモノなのだ。いつものノープランぶりを発揮して超見にくい場所からの参加になってしまったので(相方は背が低いからほとんど見えなかったっぽい)、次回はしっかり計画していきたい。



かわいすぎる 




そのあとギョウザドッグを食べたのだっけな、忘れた。ギョウザドッグは海底二万マイルとかがある火山の下、ノーチラス・ギャレーにあるのだけど(むかしはワゴンで買ったような気がする)、これがなかなか到達できず苦労した。火山をすぐ見失っちゃうっていうか…。暑さもあってまともにものを考えられず、方向だけたしかめて足の動くままに移動してぜんぜんちがうとこに着いちゃう、みたいなことをくりかえしていた。ようやく火山の内側に入って、眼下にギョウザドッグ食べてるひとたちを見つけたら、今度はおりかたがわからず(階段がある)、たいへんなおもいをしてしまった。


ギャレーにはなぜかカモが2羽、「ふつうのことですけど?」という表情で馴染んでいて、水場に住んでるやつが上がってくるようで、まあ日常なんだろうと思ってたら、キャストのひとに追い立てられてて、しかもその際、すごい迷惑そうに羽バタつかせながら、しかもなんか小さくガァガァ不平をくちにしながらヨタヨタ移動してて、ドナルド、っていうかディズニーっぽすぎて笑った。





心のコンパスに従おうと意識を新たに



シンドバッドは、ランドでいう小さな世界ポジションで、すぐ乗れるので、休憩にぴったりなのだが、これも小さな世界と同じで、アトラクションとしてもぼくらは大好きだ。物語とシンドバッドの言葉に感動して泣きそうにもなるし、あと相棒のちっちゃいトラ、チャンドゥがすごいかわいい。2回乗った。


 

 

 




夕方過ぎにはマーメイドラグーンに入ってピザを食べた。ぼくはボン・ヴォヤージュで小さいセバスチャンを買ってカバンにつけるくらいにはセバスチャンが好きなので、ここもまた快適空間である。


それでもう20時近かったのかな。現状、20時からは「ビリーヴ!〜シー・オブ・ドリームス〜」というショーがハーバーで行われているが、もはや暑さで限界、とてつもない人混みに突入する体力はわずかも残っておらず、これはあきらめ、海底二万マイルに行くことにした。ぼくの記憶では、海底二万マイルもシンドバッドと同じく「休憩になる楽しいやつ」の位置で、ほぼ並ばずに乗れたとおもうのだが、最近はそうでもないのか記憶違いか、終日45分待ちとかで、後回し、ないし今回は見送りの方向になっていたのだ。もう夜だし、イベント中だし、ということで向かい、20分くらいで乗れた。海底二万マイルもいいんだよね…。


まあとにかく暑くて、不完全燃焼としかいいようがない。暑さと人混みに持ちまえのノープランが加わってグダグダであった。帰りの電車も、中学生の頃出かけた花火大会の記憶を凌駕する混雑で、よく帰ってこれたなと。だが、悪い思い出にはなっていないのがすごいよな。その花火大会なんか、女の子もいたはずで、ほんらい甘酸っぱい記憶になるところ、花火はもちろん、誰と行ったのかすら思い出せず、電車の混雑しか覚えてない。同じ状況で行ってよかったとおもわせるディズニーはほんとにすごいよ。次こそ…次こそちゃんと計画立てていくぞ!涼しくなったら…


 

 


 
 

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