すっぴんマスター -29ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

5月9日、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』を観てきた。

 

 

 

 

 

 

この日をどれだけ楽しみにしていたか・・・。こんな傑作を同時代に見れて云々という評言をよくみかけるが、正直ぼくも今回はそれをおもった。笑いすぎて頭痛くなるみたいな感じで、おもしろくすぎて、感動しすぎて、途中で具合悪くなってしまった。人生通して指折りの傑作だったとおもう。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のシリーズは、いやシリーズというか世界観や登場人物たちは、アベンジャーズと同じユニバースのものでありながら、どこかこう、コミックでいうと「出版社が違う」みたいな、根本的な空気感を異にしているぶぶんがある。ひとつには、本シリーズをどれも傑作に仕立てるジェームズ・ガン監督の作風であり、またそれに尽きるということになるが、なんというのかな、アベンジャーズの世界に最初に「この世界は“ユニバース”レベルで共有されるものなんだ」ということを示した作品だった。アイアンマンのトニー・スターク、キャプテン・アメリカのスティーブ・ロジャース、またハルクのブルース・バナーは、もちろん常人では不可能なことを行いながら、基本的には常識的感性の拡張で認識可能なヒーローたちだった。なかではマイティソーだけが神話の世界の住人なので別格となるが、それでも、宇宙人というよりは神話の住人であるということが、むしろソーを特別枠に放り込むことを許したようなところがあるようにおもう。それでいてハルクとは互角くらいの強さであるというところ、そのように描くことが可能なところなどもMCUの強みであるのだが、ともかく、そういう目線でいえば、ガーディアンズは異色だった。強いとか弱いとかそういうはなし以前に、世界がちがうのである。木がしゃべってたたかい、アライグマが銃をもってファンキーに立ち回り、スターウォーズばりの色使いでさまざまな異星人が現れる、そういう映画なのだ。MCUの作品では、主人公ではないヒーローがゲスト出演することがほぼ毎回あるわけだが、ガーディアンズではそれもほぼないということもある。インフィニティウォーでサノスと本格的にたたかうようになるまで、地球のヒーローと彼らが交錯することはじっさいなくて、いったいどうやって彼らがアイアンマンらと知り合うことになるのか、ほんとうにわからなくて、げんに彼らが登場したときには、いよいよこのストーリーが宇宙レベルになってきたのだということを実感したものである。

 

おそらくガン監督はガーディアンズが単独で成立することをじっさい求めてもいて、その他の作品が、そこに連なる全作品を視聴することがとりあえずは推奨されるMCU的状況のなかでほとんど唯一、単独でおすすめすることのできる作品でもある。が、もちろん、本シリーズがユニバースの物語に深く関わっていないということはなく、要所でメンバーは活躍しているのであり、インフィニティウォーでもエンドゲームでも、メンバーは深い印象を残してきたのである。

 

こういうふうに、ガーディアンズ単独の世界観を大事にするガン監督だが、同時に、というかものの道理として、登場人物たちも非常に愛され、大事にされているのが、これまでの作品からもよく伝わってきた。本作ではその方向性が極まった感がある。たくさんの人物が登場する映画であるが、セリフと名前があるようなものについてはすみからすみまで目が行き届いているようで、全キャラにそれにふさわしい見せ場が用意されていた。ガーディアンズたちはちょっと変わったものが多いので、会話劇も魅力のひとつであるが、それを冗長ととる向きもあるようである。しかしぼくは、これだけ見せ場をつくって、しかも重厚なストーリーを展開させたうえでのそれなので、これは“あえて”ではないかなと感じた。収納上手のひとがつくった棚のような精密さ、というか精密であることを感じさせることは、物語には不要なので、「全員に見せ場がある」というのは批評的立場からの感想であり、現実に映画をエンターテインするうえでそうした見方はあまり意味がないわけである。むしろ、「全員に見せ場があるなあ」と、誰かの見せ場のたびにおもわせるようでは、脚本が失敗している可能性さえ出てくる。こういうところで、映画に適切な余白、休憩時間をもうけ、観客に余裕を感じてもらうために、あの会話劇は適度に挿入されているのではないだろうか。

 

以下若干のネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

本作ではメンバーのひとり、アライグマのロケットがメインに描かれる。かつてコレクターが住んでいたノーウェアに基地を建設したガーディアンズたちだったが、2に登場した金色の選民的な一族、ソヴリン人のうらみを買い、彼らが作り出したアダム・ウォーロックという超人の襲撃を受けてしまう。ウォーロックはなんとか追い払うも、ロケットはダメージを受け、意識不明の重体になる。このときはじめて、ロケットの発言や、見た目からうすうす感じられていたこと、彼が改造人間であることがはっきりとメンバーに理解される。といっても、ぼくも勘違いしていたのだが、ロケットは人間がアライグマに改造されたものではない。遺伝子操作等で知性を得たアライグマそのものだったのだ。しかしこれまでの言動からも明らかに、ロケットはそのことを肯定的には受け止めていなかった(また、ロケットじしん、実はじぶんの出自をよくわかっていなかった)。だから聞けなかったということもあるだろう。ともかく、ロケットは重体であり、技術が盗まれることを防ぐために設定された「キルスイッチ」が、治療それじたいを拒んでいる(治療しようとするとロケットのからだが破壊されるようになっている)。ロケットの親友を自認する、リーダーのピーター・クイルは、オルゴ・コープ社という遺伝子研究の会社に乗り込むことにする・・・というような流れだ。オルゴ・コープ社の前にはラヴェジャーズという、かつてクイルが属していた宇宙海賊が待っており、そこにはエンドゲームで現代に迷い込んだ4年前のガモーラがいた。ガモーラはクイルと恋仲だったが、エンドゲームの際、ストーンを集めんとするサノスによって殺されている。4年前のガモーラはクイルが誰かもわからない。こういう、胸がしめつけられるような描写も重なる。

ガモーラの協力もあり、やがて彼らはハイ・エボリューショナリーという男の存在にたどりつく。完璧な種、完璧な社会を生み出すため、動物実験をくりかえし、命をいじくりまわしている男だ。この男が、ロケットの生みの親だった。現在の彼は、いちおう、彼が定義するところの「完璧」さに到達し、地球そっくりの星をひとつつくって理想郷を完成させ、人型の動物たちをそこに住まわせている(じっさいには、非マルクス的な社会主義が直面したものと同じ肌触りで、ぜんぜん完璧ではない)。そこに至るまでの、いくつか前のバージョンが、ロケットたちだった。ロケットは、檻のなかで出会ったカワウソのライラなどと、無邪気にハイ・エボリューショナリーのいうことを信じ、いつかいっしょに青空を見る日がくることを信じている。しかし、彼らはハイ・エボリューショナリーにとっては実験台でしかない。ついにおだやかで完璧な種が完成したとなったとき、彼らは処分されることになるのである。

 

ハイエボ(名前が長すぎるので以下こう呼ぶ)にとってロケットたちは最新種より劣った古い種でしかない。しかしロケットだけは、なにか特別なものをもっていた。天才だったのである。ふとしたやりとりで、ロケットはハイエボにヒントを与えてしまう。うまくいかない動物実験と種の更新について愚痴っぽいものをハイエボがくちにしたとき、ここをこうしてこうすればいいのでは?みたいなことを指摘し、しかもそれがハイエボにとっては目からうろこの斬新なアイデアだったのである。だから、種としての興味はなくても、ロケットのことを、厳密にはロケットの脳を、ハイエボは求めていると、こういうわけだ。

 

以後もハイエボは研究を続けており、さらに完璧とおもわれる種を開発しているが、じしんにおいても、また作り出した種においても、もうひとつなにかがたりない。それが、ロケットのもっていた「ひらめき」だったというわけなのだが、ぼくはこのロケットの能力を、人間においてはわりとふつうに行使される類推の能力ではないかと感じた。人間にできてAIにできないことのアレである。あるいは、比喩の能力といってもいいかもしれない。無関係なふたつの事物をもってきて結びつける、あるいは、ある出来事から、まったく別の出来事を想起して結びつけてしまう、そういう、誰もがもっている能力だ。こうしたランダムな生命力みたいなものは、数量的なモデルでは無視せざるを得ないか、捨象されてしまうのかもしれない。

じっさい、ロケットは優秀だろう。チームでは機械関係のことは彼かネビュラがすべて引き受けていたし、エンドゲームでは技術者としてスタークの手伝いをしていた。しかし、ハイエボが感じる天才性がいままで感じられたかというと、微妙でもある。そこで、この能力は、人間的なもの、ハイエボが不要と判断するもののなかに混ざりこむものであって、多くの人間にはふつうに備わっている能力なのではないかと考えたわけだ(ギャグっぽい会話ではあったが、クイルとドラックスのあいだでも「もののたとえ」についてのやりとりがあった)。

 

今度のフェイズ4の大ボスであるカーンと同じく、今回のハイエボも、秩序を作り出した神のようなタイプの敵である。エターナルズもそういうことになるかな。「人間とはこういうものだ」ということを一方的に決めてくる、なにか父なる存在。それに対抗するのがフェイズ4ということでどうもまちがいなさそうだ。

アントマンのときにも考えたが、ここでわたしたちが直面するのは、決定論的にとらえられる運命のようなものと経験の衝突である。

 

 

 

 

 

 

このときはジョジョ6部に登場するフー・ファイターズや、ファイナルファンタジー7のケットシーを例にあげた。彼らは特殊な条件ゆえ、死んでも復活することができた。しかし、フー・ファイターズはそれを拒み、ケットシーは、復活はするけれども、それはこの、いま死につつあるじぶんではない、ということをいう。復活をすれば、同じ能力、同じ性格のものが新たに登場することになるが、しかしそれは、これまで主人公たちと冒険を重ねてきた「その人物」ではない。「その人物」と、復活したものとのちがいはなにかというと、「経験」なのである。

カーンはマルチバースを通じて自己同一性をゆさぶり、ハイエボはひとのありようを型にはめてくる。タイプが異なるものではあるが、共通するものは、その人間がどういう人間であるかということがあらかじめ決定しているということだ。だから、ここに自由意志はない。最初に登場したカーンは、『ロキ』における「在り続ける者」という名前の人物で、彼は神聖時間軸というものを設定し、そこから逸脱するものを剪定(文字通り消し去る)ことで秩序を維持してきて、ある意味もっともマシなカーンだった。ふつうに生きているうちには、わたしたちはカーンの存在を知覚することはないし、そこには実は自由意志はないということに気がつくこともない。ちょうどマトリックスのなかに知らず過ごすものと同じことだ。しかし、剪定を逃れたり、ある条件を満たしたとき、マトリックスでいえば外の世界に「現実」があると知ったとき、また魯迅でいえば「鉄の部屋」の外にも世界があると知ったとき、わたしたちは自由意志を求めることになる。

 

父なるもの、制度、秩序、決定論、ファシズム、こういったものに対決するとき、ひとはなにを求めるのか。とりわけ、マトリックスのように、神聖時間軸のように、また「鉄の部屋」のように、その内側にいるときにはまどろみのなか酸欠で緩慢な死を待つ以上のことを知らなかった状態から、そうした抑圧を知ったとき、ひとはどうするか。フェイズ4はこういうものを描いていると思われる。それが、「ロケット」の象徴するものなのだ。

 

そして、詳細を書くことは避けるが、これは恋愛について考えたとき、よりリアルなものになるだろう。つまり、「運命のひと」がこの世には存在していて、ひとの恋愛的使命はそれを見つけることであり、そうすることでひとの生は完全なものとなるとするような、ロマンチック・ラブ・イデオロギー的なものは、カーンやハイエボに近い発想なのである。この発想では、どのような経緯をたどろうと、わたしたちが結びつく相手は決まっているのであり、そこにたどりつけないのはしかるべき手順を踏んでいないからだ、ということになるからだ。しかし「人間」はそういうふうに生を歩まない。運命は経験を通じ事後的にそう呼ばれるものだ。だから、いかに強い運命が感じられたとしても、ちがう経験を積んだ別の宇宙にいるそのひとと、また恋に落ちるとは限らないのである。

 

ただいっぽうで、グルートの存在もある。グルートは「木」であり、じつはガーディアンズシリーズの1作目でいちど死亡している。が、残った枝が再生し、2のあの、かわいすぎるベビーグルートが生まれ、現在に至っているのである。このグルートはまさしくフーファイターズやケットシー的な位置にある。このことをどう受け止めればよいか? ぼくは、おそらくガーディアンズたちは新しいグルートを、前のグルートと同一のものととらえてはいないのではないかなとおもう。だからこそ、グルートは赤ちゃんの状態から、スクリーンを通じても伝わるよう「経験」を積む姿が描かれてきたのではないかなと。じっさい、いま1をみてみると、現在のグルートとはどこかちがう感じもある。なにかトロいのだ。あの、最後の場面での、ずっと強気なロケットの号泣場面もある。

そして、最後のあの場面だ。本作ではグルートに関して、これまで作品を見てきたものが必ず驚く場面が用意されている。それは、グルートが、「アイ・アム・グルート」以外の言葉を発するというものだ。不思議なことに、このときガーディアンズのメンバーはまったくリアクションをとらない。これはつまり、音声のうえでは、これまでどおりグルートは「アイ・アム・グルート」と発声しているからだとおもわれる。このことについては2通りの解釈が可能だ。ひとつは、彼らガーディアンズは、「アイ・アム・グルート」という発声を受けて、脳内で英語に翻訳し、グルートと会話をしている、だとしたら、グルートがじっさいにほかの英語をしゃべったとしても気がつかないのではないかということ、もうひとつは、そうではなく、ほかでもない、映画を鑑賞するわたしたちが、グルートのいっていることがわかるようになったということである。特に後者の解釈においては、やはり「経験」が生きている。映画を通じ、彼らの楽しいとき辛いときを共有してきたわたしたちにとっての彼らの像というものが、彼らそのものであり、だからこそ、わたしたちはグルートの言葉を理解できるようになったのだ。そのために、グルートは赤ちゃんのところから描かれていかなければならなかった。こういう視点からも、1のグルートと2以降のグルートは、別なのではないかと考えられるわけである。

 

 

ロケットの出自についてはおそらくロケットじしんよくわかっていなかった感じもあり、ネズミだとかウサギだとかいわれるのはまだしも、見たまま「アライグマ」と呼ばれても、彼は怒っていた。その感じがはなしをややこしくもし、ロケットは改造人間であるという勘違いも呼んだとおもうのだが、じっさい、彼はアライグマだったのである。そこに、深い闇をくぐりぬけたものが手にする、二度とゆらぐことのない自己肯定が訪れる。この場面は非常に感動的なので、もういちど観たい。じぶんはなにものなのか、ハイエボの手が加わることで両手を広げて受け止めるというわけにはいかなったところ、むしろハイエボやカーン的な強権的父性と対決することで、彼は悟ったのである。じぶんがなにものなのかは、探し出すものではない。運命の相手も、どこかにいるものではない。いまこうしてあるじぶんがじぶんそのものであり、愛した相手が運命の相手なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第78審/至高の検事⑭

 

 

 

九条の導きで犬飼は1年海外に隠れて死体の状態が変わったころに自首、壬生は預かっている京極の武器を警察にもっていって京極を封じ込め、というところでだいたいはなしがついたっぽいところ、壬生に大気中の菅原から電話がかかってきた。戦争がはじまるかもしれない状況で、兵隊を集めてもらっていたのだ。とりあえずそれは不要になるかもしれないタイミングだったが、しかし電話の持ち主は京極なのだった。呼び出された菅原が京極に電話を貸してしまったのだ。

 

菅原と京極がいるのは、犬飼の連れ・小松が拷問されている場所だ。鼻をそがれ目玉をくりぬかれ、その時点ではまだ生きていたが、腹を裂かれて腸を巻き取られて、さすがに死んでしまったようだ。長渕のはなしなどしているが、菅原はドン引きしている。その後の最後の表情は、なんとなく京極に対する反感が感じられるようでもある。壬生以上にヤクザとはうまくやりそうな雰囲気のある菅原だが、似たような感情はもともともっているのかもしれない。

 

 

壬生は久我と車に荷物を積んでいる。これから京極のところにいって話し合いをしてくるということだ。もともとその気はなく、警察に向かうところだったはずで、菅原が人質にとられているわけでもないわけであるから、そのときから変わったことといえば「電話があった」以外ないわけだが、それだけ、実際に話してしまった、言質をとられた、ということが、界隈では大きな意味をもつということかもしれない。

1時間たって戻ってこなかったら死んでいるから、かわりに武器をもって出頭してくれと壬生は久我に頼む。交渉現場のホテルには、駐車場にまでヤクザたちがひかえており、ものものしい雰囲気だ。

 

壬生と京極が対面、京極が犬飼の居場所を知っているかとたずねると、壬生は意外にもあっさり知っているとこたえる。壬生がなにかをいう前から、それを早く教えるか、外にいる兵隊どうしで戦争するか、ということを京極はいう。これは菅原が待機させていたモブマッチョだろうか。ということは、壬生は菅原ともいちどは連絡をとったことになるか? それともこの現場のどこかに菅原もいるのか。

そこへ、肩を怒らせた鍛冶屋が決意の表情でやってくる。モブの若者と比べるといかにも小柄な老人である。ところが、半グレたちは自然に道をあけてしまう。どれだけ人数をそろえても、肝がすわっていなければ役に立たないと、京極がこの状況を偶然解説するかたちになる。

そして壬生は、それをわかっていると応える。

 

時間をさかのぼって、出発前のはなしだ。壬生と久我が武器庫に行く前か、行った後、つまり京極からの電話の後か、どちらなのかはよくわからない。だが、会話の感じからは、いったんはなしが決まって分かれ、武器庫にいって武器を回収、そこで京極からの電話を受け、改めて犬飼と合流したというような感じがする。

ふたりは犬飼を連れて戦闘機が飛んでいる荒地のようなところにやってきている。犬飼は別の目的を聞かされているのだろう、なにも警戒していないどころか、壬生といたほうが安心だとまでいっている。そして、飛行機の轟音にあわせ、くさむらに小便しにいく犬飼の背中に壬生の銃が向けられ、頭と首、胸が撃ちぬかれる。

 

 

「お前の人生ってなんだったんだろうな。

 

死んだ弟のときと同じだ。

俺がケジメをとった。

 

京極に拷問されて死ぬよりマシだろ?」

 

 

死んだ犬飼はどこにいるのか。壬生は、かたわらのスーツケースを示すのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

動いているものを銃で正確に撃つのは素人には難しいっていうし、壬生はこれ、人間撃つの初めてではないんだろうな・・・。

 

犬飼はけっきょく殺されてしまった。壬生にとっては犬飼を差し出すことが、命の危機という意味ではいちばんにおもわれたのはたしかだが、菅原・犬飼一派を束ねたあのときのカリスマ性は失われてしまうだろう、ということを前回書いたが、どうなるだろう。ただ、今回の菅原の反応を見ていると、案外そういうこともないのかなという気もしてくる。なんというか、半グレにとってヤクザというものが、業種を超えて認識されている地域のクレーマーみたいなもので、厄介なもの、抗いがたいものであるという点で、認識の重なるぶぶんがかなり広いのかもしれない。要するに、多くの半グレは汲んでくれるのではないかということだ。だいたい、モブマッチョの大将である菅原じしんが犬飼の死に間接的にかかわるかたちになってしまったということもある。特に菅原にとっては、京極のいうとおり、全面戦争をはじめるか、沈黙するか以外なかったのだ。あるいは壬生はそこまで見越して犬飼を売る方向に舵を切ったのかもしれない。

 

 

壬生が犬飼を撃ったあとのセリフはなんだろうか。そもそも、弟のはなしはほんとうなのか。前回、壬生の弟のはなしが初めて出てきたときには、これはおもちのことかもしれないと考えた。犬飼が弟に似ている感じがする、だから助けてしまう、というようなはなしである。これが、じつはおもちのことで、おもちは犬だから、もしこれを正直にくちにしてしまうと、「お前が昔飼ってた犬に似てるから・・・」というはなしになってしまい、これだとあんまりなので、弟ということにしたのではないかと。しかし今回の弟のはなしは犬飼が死んだあとにくちにされているのである。とはいえ、近くには久我もいる。久我は壬生の右腕だが、おもちのことは知らないかもしれない。ましてや、それが壬生にとっての京極越えをするにあたってのもっとも大きな原動力であるとは、おもいもしない、かもしれない。丑嶋はわりとふつうにウサギのはなしをしていたが、壬生がそれを隠さないとも限らないのである。

弟か、弟のようにおもっていたおもちか、どちらかはわからないが、ともかく壬生は、今回がそのときと同じだという。そして、自分がケジメをとったと。ケジメをとるとは、責任をとるということだが、これが過去形になっている。とすると、ここで「ケジメをとる」にあたる行為というのは、犬飼を殺したことではないかとおもわれる。猛殺しについて、じぶんがカタをつけた、また、犯人である犬飼を殺すことにより、すべて預かった、責任を負ったというくらいのことだろうか。もし「弟」がおもちのことなら、ケジメもなにもないというか、京極のシマをあらしたのは壬生じしんなのであり、おもちはまったく無関係なので、「ケジメをとる」とわざわざ言葉にするようなことでもないような気もするが、おかしいということでもないかもしれない。おもちの命ふくめてもろもろ背負った、というようなことだろう。はなしは、これがほんとうに弟のことだとしたほうがわかりやすいかもしれない。つまり、壬生にはじっさい犬飼のような弟がおり、これがなにかやらかして、壬生が弟を殺したのである。弟殺しといえばカインだが、ウィキペディアによれば、「カイン」は鍛冶屋を意味し、「金属加工」の祖とする向きもあるようである。そしてアベルは「息」を意味し、「羊飼い」であったそうだ。カインは嫉妬でアベルを殺しているし、そもそも犬飼はぜんぜん遊牧民っぽいタイプではないので、まあ思いついたからいちおう書いてみた、というようなものを出ないが、なんとなく、これはほんとうの弟を指しているのかな、というような気がする。

 

壬生としては、九条の計画に依存はなかったはずで、げんにこれから武器をもって出頭しようとしている。じぶんが戻らなかったら久我に行くようにいっているので、これはすでに実行されているものと見てもいいだろう。そうなれば、京極は10年刑務所で、じぶんがうまくすれば懲役にならない、という状況が訪れる。そこは、犬飼を差し出しても隠しても変わらない。最初に書いたように、今回壬生にとって変化があった点といえば、京極から連絡があったということだけなのだ。

京極から連絡があった、ということがなにを意味するかというと、ひとつにはやはり菅原のことがあるかもしれない。壬生はなにか、常にヤクザくん以降の丑嶋と同じ目をしているというか、いっそ戦争でもしてしまうか、というときには、ほんとうにそう考えていそうなところがある。今回、鍛冶屋との比較で、おそらくヤクザと半グレではそもそも勝負にならないかもしれないということが示されたが、ともかく壬生はそう考えていた。そうするにあたって、統率力のある菅原の存在は非常に大きかった。菅原がいなければ、壬生は戦争をしようかどうかということすら、そもそも考えなかったかもしれない。こういうところで、菅原が京極といっしょにいるらしいということになってしまった。向こうでなにが起きているかはわからない。拷問されているかもしれないし、寝返ったかもしれないし、なにも起こっていないかもしれない。こういう、不確定なぶぶんが、あの瞬間に一気に増えてしまったのである。武器をもって出頭すれば、京極はしばらくいなくなるかもしれないが、伏見組の報復は避けられない。となったとき、警察の保護だけでは不十分で、若いヤクザたちがもらしていたように、菅原軍団が壬生のまわりをうろうろしているという状況は、戦争をしないとしても、必要だったのだ。

もうひとつは、その、「連絡があった」ということじたいがもつ重みである。なにか別のところでも感じた記憶があるのだが、どうも、彼らはこうして「話してしまった」ことにかなりの重みを見出すようなのである。どちらにしても宣戦布告することになるのだから、電話が京極だとわかるなり切ってしまったりしてしまってもよさそうなものだが、そうならない。電話に出て、いっしゅんでも通話してしまった以上、なにか不合理ながら無視のできない関係性のようなものが、新たに作られてしまうのである。

 

これは、例の主体性問題と関連させることができるかもしれない。壬生は、京極によってじぶんの命とおもちの命を天秤にかけさせられ、おもちを殺してしまい、以後京極を恨んでいる。ふつう、選択肢というものは、等価もしくは価値の近いものが並べられるものであり、命のような比較できないものを対象とすることはできない。だが、京極はその選択を壬生に強いた。「選ぶ」という動作をなぞったのはたしかに壬生であるが、彼に逆らうことができたかというとそれもない。そこに主体性はなかった。こういう強制を、強者として京極は行う。そして、京極に限らず彼らヤクザは、この「主体性」と「不合理な強制」の関係を逆転させる。こちらが強者であり、物語の主体であるから、このような強制が可能である、というのがもともとの姿であるところ、彼らは、強制を行うことで、またそれが可能だということを悟らせることで、主体性がこちらにあることを示すようになっていくのである。

小松への常軌を逸した拷問を見てもわかるように、京極は、「目的」があり、それを達成するための「行為」を選択する、というふうには動かない。あそこまで小松をいたぶる必要はまったくない。もしそれに理由があるとすれば、「あそこまでする必要はない」と、菅原や部下たちなど、それを目撃したものにおもわせることである。とりわけ、今回の猛の件では、京極は当然後手にまわることになる。後手にまわるということは、「対応」するということであり、それは物語全体では主体性を欠くことになる。これを、「行為」のインパクトで打ち消すのだ。小松の死体を見たものは、もはや猛や、それを殺した犬飼のことなど忘れ、京極への恐怖や嫌悪感ばかり抱えることになるだろう。その先に浮びあがる京極の姿は、もはや「身内を殺され、その復讐をしようとする者」ではなく、「身内を殺されればとんでもない方法で復讐をする者」なのである。この意味で、復讐をじっさいに実行するその動作は、被害(ここでは猛殺し)より先に、実は潜在しているのである。「小松への拷問」は、実は猛が殺される前から目に見えないかたちで存在しており、犬飼がじっさいに猛を殺したことで、同時的にそれが実現したのだと、そういうふうに感じられるのである。

 

このようにして、彼らは「行為」を充実させることで、主体性を確保する。この現場の、物語の主人公でなければとてもできないことを先んじてしてしまうことで、強引に主体性を引き寄せるのである。壬生との通話に関しても、同じように見ることができるかもしれない。菅原を確保し、その電話を強引に借りて電話する、それがすでに「強制」の表現である。そこから、いますぐ来いという語形で、京極から壬生への指示が実現してしまった。どちらが主語かという点で、壬生は一歩先を行かれてしまったのであり、そしてこれが、「連絡があった」ことの強度一般につながっているのかもしれない。

 

さて、ここまできて蔵人の出番がぜんぜんなくて心配だが、このあとの武器の件などで登場するということなのだろうか。ぼくの考えでは、「至高の検事」とはおそらく蔵人など具体的な個人のことではなく、超越ということになる(第71審参照)。言葉を精密に読み取って目に見えるもので構成する蔵人と、彼の見落としを拾う九条の対立がまずあり、おそらく烏丸のいう「至高の検事」とは、両者を止揚したものではないかとおもわれたからだ。いままでのところでは強者が、つまり主体性を確保したものが、最終的には「至高の検事」になりうるというはなしなわけだが、しかし「強者」は、ソクラテス的に、他者をモノローグに回収しようとするものである。つまり蔵人側なのだ(第74審参照)。とすると、「至高の検事」とは、なんというか、やはり神のようなものを指すのかもしれず、すると、裁判というものが本質的にモノローグとは異なるものであるということが示されることになる。そこには形式的に弁護士、検事、裁判官がいるとしても、「最後の審級」のようなものはないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2023年3月28日、坂本龍一氏が71歳で亡くなった。

 

坂本龍一には多くを学び、非常に強い影響を受けてきた。教授(坂本龍一の愛称)との出会いがあるとないとでぼくはまったくちがう人間になっていたであろう、いまやっていることはすべてやっていなくて、いまやっていないことばかりをやっていただろうというほどには、強い影響を受けてきた。だから、このニュースには、強い衝撃を受けた。しばらくまともにものを考えられないくらいには、衝撃を受けた。当然、なにかを書かなければと、いちファンとして、また書き手として、おもわないではなかったが、なにかを書こうとしても、すべてがむなしく、あまりにも愚かにおもわれ、また、そもそもなにも思い浮かばなかったのである。ようやく、そろそろなにか書けるかもしれないとはじめてみたが、正確な日付等調べて最初の一行を書いた瞬間に、すべてがくだらなくおもわれてくる始末である。

 

教授の音楽的果実や文化的なレガシーについてくわしく分析したり網羅的に紹介したりということは、ぼくにはできない。なぜなら、ぼくは身体が肌になじむ素材の衣服を求めるようにして、教授の音楽をまとってきたからである。ぼくは研究者ではないし、音楽についても、ピアノ演奏から離れて久しく、不心得なファンといっていいところだろう。なにか書くことがあるとすれば、思い出話しかない。ぼくが坂本龍一とどう出会って、どういう影響を受けてきたか、おそらく3月28日以降世界中で語られ、書かれたのと同じく、ぼくも示すしかない。つまり、この記事はぼくじしんのために書かれるものである。

 

ぼくにとっての坂本龍一は、2020年2月に亡くなった天才作家・浦賀和宏の思い出と連動している。というか、ほぼ同一の物語となる。チック・コリアの思い出が島田荘司と連動しているのと同じしかたにおいてだ。ぼくではたいがいのことが、本からはじまる。

高校一年の当時、ぼくはコルグのシンセサイザーを手に入れていた。ずっとジャズを聴いて育ってきて、ハービー・ハンコックが再結成したヘッドハンターズのライブを観にいって衝撃を受けたり、いろいろなことがあってピアノを弾いてみたいという気持ちが強くなってきて、さまざまな条件を満たし、ついに手に入れたところだった・・・というところのぶぶんは、実は詳細があいまいで、シンセを手に入れるのが先だったのか、浦賀和宏の『記憶の果て』を読んだのが先だったのか、いまとなってはよくわからない。ほぼ同時だったのかもしれない。ともかく、浦賀和宏の小説では、ピアノの音楽が非常に効果的に使われていた。わけても坂本龍一である。浦賀先生じしんが坂本龍一のファンであり、作中では安藤直樹という人物がピアノを弾き、YMOを演奏していた。だから、ぼくのなかでは坂本龍一と浦賀和宏が、優しい親しさとともに共存しているのだ。

この安藤直樹が生まれてはじめて弾けるようになった曲というのが、エリック・サティのジムノペディだった。そしてぼくも、まずはジムノペディから弾いてみた。なぜなら、やはり順番についてはあいまいになっているが、当時すでに手元にあった教授の楽譜に採譜されていたからだ。なぜ坂本龍一の楽譜にエリック・サティの曲が載っていたのかというと、『メディア・バーン・ライブ』という名盤で教授が演奏していたからである。かくして、ここのぶぶんは狙ったわけではないとおもうのだが、ぼくの手元には安藤直樹と同じくジムノペディの譜面があるという状況が生まれ、ぼくはこれを弾いたのである。

ジムノペディは、音粒の量という点のみにおいては易しい曲だ。譜面を眺めるだけでそれがわかる感じの、非常にゆっくりとした、しかも短い曲である。楽典的な備えはゼロに等しく、鍵盤楽器など小学校のハーモニカ以外では触れたこともなかったが、こういうときだけ異様に発揮される記憶力と情熱で、ぼくはこれがすぐ弾けるようになった。ずっとジャズ、特にピアノを聴いてきたのだが、ここでぼくははじめて、ピアノ音楽がどのように構成されているのかを理解したのである。そしてその次に弾けるようになったのがついに教授の曲、戦場のメリークリスマスのテーマだった。この曲もそんなに難しいものではなかったが、弾けたときにはうれしかった。次が黄土高原、これはなかなかチャレンジだったが、これをやりきったおかげでのちにチック・コリアのコピー譜などやる際の、リズム感の土台ができたようにおもう。ラストエンペラーは張り切って音楽の授業で弾いたな…

このことと並行して、浦賀和宏の先導のもと、ぼくはずぶずぶ坂本龍一にはまっていった。最初に買ったのはおそらく『グルッポ・ムジカーレ』というベスト盤だったようにおもう。オリジナルの戦場のメリークリスマスやラストエンペラー、その黄土高原にセルフ・ポートレイトにバレエ・メカニック、デビュー作の千のナイフなど、チベタン・ダンス以外の初期代表作がすべて収められている最高のアルバムだった。そこから、その『メディア・バーン・ライブ』や『未来派野郎』、『音楽図鑑』、そのときやたら流行っていた『ウラBTTB』や『BTTB』、トリオ盤の『1996』などを猛烈な勢いで手に入れ、聴いていったのである。やはり楽譜をどのタイミングで手に入れたのかはわからないのだが、たいしたことではないかもしれない。重要なことは、ジャズという背景があって、そこに浦賀和宏がやってきて、もともとあったピアノ弾きたい熱がかたちになり、坂本龍一とともに歩んできたのだと、こういうことだ。

 

誰にとっても高校時代というものは、よくもわるくもようやく具体化されはじめた価値観の骨格を構成する時代である。三年間、ぼくはピアノを弾きまくった。読書する以外の時間はすべてピアノに費やしたといってまちがいではない。なにしろ学校さぼって練習していたくらいだから。ふだんはものを覚えられなくて苦労する人間なのだが、ピアノのときだけは別で、2、3度見ながら弾けばぼくは完全にそれを暗譜することができた。ぼくのもっているものはシンセサイザーであり、実はピアノとはまったく異なる楽器である。弾きでに関してなにが異なるかというと、大きく2点、鍵盤が非常に軽いということ、そしてそれが少ないということがあった。だから、音楽の授業で課題になったり、知人の結婚式で弾くことになったりすると、普段の練習ではたりなかった。シンセのスカスカの鍵盤の感覚でグランドピアノなどにのぞむと、重さがちがいすぎてまったく自由に動けないのである。だから、そういうときはピアノをもっている友人の家などに通い詰めて練習していた。よく知らないクラスメートでも、家にピアノがあるときけば、休みの日にあがりこんで半日弾いていた。正直、超迷惑だったとおもうが、当時は気にしていなかった。ぼくのあたまには、教授のParolibreの名演奏や、ラストエンペラーの荘厳なオーケストレーション、ダイナミックな黄土高原や、最高にクールな千のナイフがいつも鳴り響いていた。夢を絵にする画家のように、言葉にならないものを物語に託す小説家のように、ぼくは、聴取した教授の感性的広がりを受けて、表現しようとうずく身体の衝動に任せて、猛烈にピアノを弾きまくったのであった。あれほどに人生を燃焼している感覚を抱えたことは、あとにもさきにもない。シンセが壊れ、時間もなくなってしまってから、たまにピアノ教室に乗り込んで弾くくらいで、楽器に触れる機会は減っていき、いまではもはやなにも弾けなくなっているとおもうが、そういう時間があったということは、いまこうして書いているものの熱量からもわかるように、貴重なことだった。もちろん、坂本龍一の音楽じたいはいままでもずっと聴いてきた。ほんとうに、ずっと聴いてきた。体内で鳴り続ける教授の音楽は、かつては表現されることを求めて、ピアノを弾きたいという身体的衝動となってあらわれたわけだが、いまそれはどこに向かっているのか。ピアノを弾きたくなることはいまでも頻繁にある。たぶん、大人になって、代償行動的に、別にふるまいに昇華することをどこかで覚えたのではないかとおもう。つまり、ぼくは聴取した教授の音楽を、仕事や文章などのうちに、別のかたちで表現しているのだ。

 

ぼくは、ひとが音楽家から影響を受けるとき、音楽家として、また音楽愛好家として影響を受けるだけでは済まないことがあると感じている。教授の社会活動についてはあまり知らないのだが、音楽そのものによって、当の音楽的感性のみならず、言語や思考、一般的な意味での感受性や運動能力に至るまで、つまり人格のすみずみまで再構築されてしまうということがあるのだ。たぶんそれは、たとえばアジア的アプローチを通じて、創作の素材を選ぶ際の柔軟な目線が培われたとか、そんなようなことなのかもしれない。だが、ぼくの実感としてはもっと全体的な影響なのだ。言語とはそもそも音楽だった、というのは数年前の思いつきだが、そのことももしかするとかんけいしているかもしれない。ソニー・ロリンズやジャコ・パストリアスのようなある種の天才は、ほとんどおしゃべりをするように音楽を奏でる。ジャコは特にそういう細かな音の粒で音楽を構成したこともあり、もう少し音数の少ない演奏家でも、聴きこんでいけばそういうふうにおもわれることはあるだろう。しかもそれは、言語の権威性を帯びる前の、無垢な言語である。音楽的アプローチが前衛的であるからその前衛性に影響を受けるのではない。作曲の動機のぶぶんに、言語化可能な思想があるからその思想に傾くのでもない。音楽それじたいが、それを作り出すものの脈動そのものなのである。ソウルフルとはそういうことだ。

音楽にも文体が、エクリチュールがある。坂本龍一は奇抜だが美しい装飾音を使いこなす作曲家・演奏家だった。そのことを理解したさき、ぼくはそれをどのように消化し、別のものにうつしかえているか、それはわからない。ただ実感があるだけだ。そしてそれだけでじゅうぶんなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第147話/10秒

 

 

 

バキと宿禰の試合がはじまる。

ジャック、オリバと負け続けだった宿禰だが、実はまだ出していないものがあるという。格闘家たちと蹴速含めたじぶんたち古代相撲ではちがうぶぶんがある。彼は、多くの優れたファイターたちとたたかい、またそれをみることで、たくさんのことを吸収してきた。その過程で、気遣いも生じていた。だがじぶんがまだ出していないそのなにかをつかえば、必ず勝てる。こう光成に述べ、光成はバキの名をあげ、試合が決まったのであった。

 

今回の10秒云々は蹴速が言い出したものだったようにおもうが、会場含めムードはすっかりその「10秒」に傾いている。10秒、燃え尽きるように力士が動くとき、なにが起こるのか。しかし対するバキはこれまでにないくらい自然体である。だいたい、普段着だ。両手はポケットにいれたままで、なんかだらっと立っている。やる気がないと受け取る観客もいるくらいである。

 

係りのものが太鼓をたたくとともに、時計が動き出す。宿禰はいったん体重を後ろに預けてからとびこんでいったっぽい。バキはハンドポケットのまま少し歩く。これでもう3秒くらい。

間合いに入ったバキめがけ、アッパーの軌道で宿禰が張り手を繰り出す。5秒目、まだ張り手は到達していない。脱力を極めたバキもまた間合いに反応して動き出し抜拳、宿禰より早く、弧拳を閃かせる。顎先をかすめた美しい一撃だ。

たいがい、バキのこの皮一枚の攻撃では、脳を大きくゆさぶり、脳震盪で相手は倒れてしまう。だが宿禰の攻撃はまだ生きている。ぎりぎりまだ気を失っていないというべきか、たんに解き放った勢いのまま手が動いているのか、ちょっとわからないが、ともかく、顔より巨大な宿禰の右手がバキに襲いかかる。しかし当たる直前、バキの顔が大きく振れる。遠目には当たったかのようだ。しかしこれを、克巳が「スリッピングアウェイ」だと説明する。打たれる方向に顔を振り、拳をすべらせるという、バキ世界では古くから見られる防御術だ。

 

8秒、宿禰が頭から落下、観客が反応。結果は9秒01でバキの勝利となるのであった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

10秒で試合を終わらせる、という意味では、たしかに宿禰は有限実行したわけである・・・。

 

宿禰がやったことは、思い切りよく踏み込んだ張り手だけで、これでは彼がなにをしたかったのかわからない。いや、「なにか」があるというのは読者としての思い込みで、たんに「最初っから手加減なしで突っ込んでいく」くらいの意味だった可能性も出てきたというべきかもしれない。少なくとも、あの張り手が秘密兵器とはちょっといえないわけで、このあたりは少し残念だった。

 

ただ、宿禰の意図がどうであったにせよ、格闘技者としてのバキが極めた「実戦」というものがどういう状況なのかということは、よくわかったわけである。もっとも印象的なのはやはり「10秒」ということについての解釈のちがいである。作中では、はなしを劇的にするために、ストップウォッチ的な数字の変化が表示されていたが、これは、宿禰や観戦するものにとってのみ意味のあるものであって、バキにはまったくなんの関係もない表現だったのである。つまり、たとえば12時ちょうどに試合がはじまるのだとすると、宿禰は12時0分0秒から12時0分10秒までのあいだ、本気で動こうとしていたわけである。しかしバキにとっては、11時59分と12時1分のあいだにまったくちがいがないのだ。

弧拳という技は、極真会館の大山倍達総裁が海外での武者修行時代に愛用していた技である。手首は細かい神経がいっぱい通っているので、部位鍛錬も難しく、道場でも習ったことはないが、大山総裁の著書には頻繁に出てくる。いわく、ナチュラルな立位で、手をぶら下げた状態から即座に攻撃に移れるので、たいへん実戦向きなのだ。現実のフルコンタクト空手ではむしろ相手の拳を弾く防御に使うことが多いだろうが、予備動作がほぼいらない技なのだ。そしてこれは、バキの「日常感」をあらわすハンドポケットとも相性抜群である。抜拳術の元祖、龍書文も、オリバ戦で似たような動作をしていたと記憶しているが、ポケットに拳を入れているときというのは、手首の外側、弧拳に用いるほうが相手側を向いているので、文字通り手を抜いて放り投げるだけで、相手に向かっていくことになるのである。ただ、今回バキはフックの軌道で、腰を切ってこれを行っているので(なぜ両手を抜いているのかはわからない)、ぶらさげた手やポケットにいれた手をそのまままっすぐ伸ばすよりはスピードで劣るとおもわれるが、今回彼がおこなったのは顎をかすめさせる動作なので、これしかないわけだ。

 

ともかく、今回バキが見せたことは、日常のなんでもないありよう、手をぶらさげた立位なり、ハンドポケットなりといった状態が、すでに、ここでは弧拳を用いたが、攻撃の準備そのものなのであり、実戦と接続しているのだということだったのだ。実戦の極意とは、その日常と非日常との距離を、どう縮めるかということなのである。12時0分0秒から12時0分10秒のあいだにピークをもってこようとウォーミングアップをし、「究極の自分」をたぐりよせる宿禰の思想とは正反対であり、また、打撃の強さやパワーの大きさを競うわけでもない実戦の現場では同時に、宿禰ほどの膂力も必要とされないのである。

 

宿禰がやりたかったことはなんなのか、今回見えなかった秘密兵器的な「なにか」があるのか、それともたんに「10秒間じぶんの可能な最大の爆発的動きをする」ということだったのか、それはわからないままだが、実戦ということにかんしては、もはや勘繰っても意味のないことかもしれない。宿禰は、いってみれば、「破壊力は随一だが引き金を引くのがものすごくたいへんな銃」みたいなものだったわけである。銃の破壊力を比べるというはなしなら、それもいいだろうが、少なくとも彼がバキに望むのは格闘技の試合だったわけである。そうであるなら、ごく軽い銃、なんならナイフや針でじゅうぶんなのだ。それどころか、引き金を引くのに集中しているぶん、相手の接近と攻撃をあっさり許してしまう可能性すらある。じっさい、相手がバキであっても、宿禰ならもう少しましな試合ができたはずだ。今回このような決着になったのは、宿禰じしんが10秒決着を望み、すさまじい馬力とともに飛び込んでいったからなのである。

 

爆発的な10秒は、それじたい、実戦には不向きである。こういうことは、武蔵直系の格闘技者であればじぶんでたどりつけることかもしれない。前回考えたように、ウォーミングアップという手続きが必要な技はバキレベルでは技とはいえないし、10秒で燃え尽きてしまうのであれば、ではそれが失敗に終わったとき、11秒目からはどうしたらいいのかという問題も残るのだ。武蔵の流儀の先端にいるものは、この選択をしはしない。ではなぜ、一流の強者である宿禰がそうするのかというと、彼が武蔵以前の古代相撲の人間だったからである。武蔵のほうが異端なのだ。武蔵が、それ以前の世界に「実戦」の概念を持ち込んだ。だから彼らでは勝敗の観念からして異なっているのである。ここからは憶測だが、おそらく、古代相撲の文脈でいう「勝敗」は、武蔵以降のファイターが考える「勝敗」よりずっとゆるやかなものだったのだ。しかし、ほんらい勝敗にゆるやかな古代相撲の人間が、武蔵直系の格闘技者との現代的ファイトを重ね、その思考法を学んでしまった、それがこの結果につながっているものとおもわれる。宿禰は、絶対の勝利を望むべきではなかったのだ。絶対の勝利は、武蔵直系のファイターが望み、求め、そして手に入らないものである。そこに必要な思考法をバキらは身につけている。宿禰は、古代相撲へのプライドもあり、これが現代流にも通用するはずだということを示すため、無邪気にほんらい勝敗にゆるやかな場面で使用される「全力の10秒」を持ち込んでしまったのである。

 

 

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第77審/至高の検事⑬

 

 

 

 

京極の息子・猛をうっかり殺してしまった犬飼。

当初は壬生がなにか知ってるのではくらいで九条を通じて連絡をとろうとしていた京極だったが、やがて逃亡中だった犬飼の連れふたりが捕まり、ぜんぶわかってしまう。逃げてきた犬飼は壬生と合流、九条と今後のことについて話し合っているところだ。

といっても、京極の弁護もつとめる九条は、利益相反になるからということで、犬飼の弁護はできないという。だが、1年たって埋めた死体の死因わからないようになれば検察は起訴しない。だから、犬飼は1年くらい逃げてから自首して黙秘がベストのようだ。累犯前科もあるということで、6年で出てこれる。では壬生はどうするかというと、彼が預かっている京極の武器をもって出頭しようというのが九条の提案だ。このあたりの前回のやりとり、ぼくは微妙に読み違っていたのだが、「独り言」で壬生に対していっているのは犬飼のはなしで、じゃあ壬生はどうするのかというところで、ここからが本題ですとわざわざ言い換えてこういう提案をしている。要するに、猛の殺人について犬飼を弁護することはできないので「独り言」を聞いてもらい、壬生にかんしては京極への一種の攻撃として、おそらく九条じしんの身を守るためもあって、こういうことをいうのである。

しかし現状に加えて裏切りまでしてしまったら、壬生の身が危ない。が、いまはとにかく京極が自由にしていることが問題ということなのかもしれない。ではなにで投獄するかというと、10年以上になる重い刑は銃刀法か殺人くらいしかないと九条はいう。そして殺人で京極を捕まえることは難しい。偉いヤクザは自分で悪いことはしない・・・という背景に拷問中の京極がうつるのがおかしいが、ともかく、仮に殺人をしているのだとしても、捕まるのは下の者だ。だから壬生が、京極の武器をもって自首し、京極の銃刀法違反を証明しようということなのだ。

 

とはいえ、である。九条のはなしでは、銃刀法は自首による減免規定があるので、罪を免れることは不可能ではないという。つまり、じっさいに銃をもっていた壬生も銃刀法違反になるが、捕まるのは持ち主の京極だけで、壬生は懲役にならない可能性もあると。だが、それで京極は10年シャバからいなくなっても、伏見組が消滅するわけではないし、10年のあとはどうすればよいのか。いくら壬生が強い不良でもキツイ事態になることは避けられない。それについては、警察の保護を九条はあげているが、なかなか、かんたんに頷ける条件でもない。

この件でこれ以上の提案はない、九条は、梯子をはずさないでくださいよと、壬生に念を押すのだった。九条がじしんの希望を壬生に告げるというのは珍しい場面だ。たんに「裏切らないでくれ」ということだけではなくて、じぶんはそちら側だということも告げているのである。

 

九条が去ったあと、壬生が犬飼に指示を出す。外資系ホテルをとったから、つまり京極の手配書が出回るラブホテルのようなところではない場所をとったから、海外逃亡の準備が整うまで隠れていろと。犬飼は壬生の指示で嵐山の娘を強姦・殺害し、10年捕まっていた。そのうらみで殺そうとしていたことを、犬飼は馬鹿みたいだったという。逆に、なぜじぶんを殺そうとしたものにここまでしてくれるのかと犬飼は問う。死に別れた弟、いつもそばにくっついてなついていた弟に似ているからかなと壬生はこたえ、犬飼は涙を流す。ほんとかよ。弟のはなしなんて初めて聞いたけど。おもちのことかな。「死んだ犬に似ててさ・・・」だとちょっと逆にひどいもんな。

 

 

少し前の回で、若頭補佐の雁金に怒られていた若いヤクザふたりがそれぞれに動いている。ひとり、久我みたいな顔の男は、待機している菅原のもとへやってきて、京極のもとに連れ出している。もうひとりの金髪の男は、拳銃をもって壬生を探している鍛冶屋といっしょに飲んでいる。鍛冶屋は撃ちかたを忘れないようにときどきフィリピンで練習しているという。そこへなにか連絡、鍛冶屋はどこかへ向かうのだった。

 

壬生と久我はどこかの廃屋へ向かい、厳重にしまってある金庫のなかからいくつもの銃を出す。金庫じたいがみたところ三つもあり、みんな小型だが、ものすごい数の銃が出てくる。そこへ菅原から電話がかかってくる。が、相手は菅原ではなく、京極なのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

菅原は京極が犬飼の連れを拷問している現場につれられ、携帯を渡してしまったようだ。目玉をくりぬかれたり、壮絶な拷問中の彼だが、いまの描写では大腸をひっぱりだされて、目の前のマイクスタンドに巻きつけられており、その横に、菅原が突っ立っている。まあ、彼にはもうそれが見えないわけだが・・・。

 

犬飼にかんしては、埋めた死体がうまく死因のわからない状態になることが前提ではあるが、1年外国に身を潜め、そのあと自首して、暴行の事実が露わにならないよう黙秘する、という流れになるようだ。壬生はというと、被害者の猛が犬飼によって殺されたことは京極らヤクザにとっては「事実」である、ということがある。犬飼が隠れたのなら、いまと同じようにどこにいったかということを詰められるし、伏見組の目の届くところでまともな生活はもうできない。そのうえでの戦略が、今回の九条の提案だった。京極の武器をもって自首すれば、京極は10年刑務所に入ることになり、壬生はうまくいけば罪を問われない。警察の保護もつくから、伏見組の報復にも対応できるはずである。もちろん、問題点はたくさんある。警察の保護があるといっても、年がら年中家を監視してもらえるわけではないだろうし、第一それでは壬生じしんの仕事ができない。そして京極が壬生の裏切りにより10年投獄されるということは、11年目には報復する気満々の彼が野に放たれるということでもあるのだ。完璧な安全が約束されたような方法ではない。だが、ひとまずはそうするしかない。そうしなければ、壬生はいまこの日に、最悪殺されるのである。

 

しかし、もしここで壬生が、犬飼を差し出したとしたらどうなるだろう。いちおう壬生は犬飼の兄貴分ではあるだろうから、責任がまったくないということにはならないとしても、しおらしい態度でそれをすれば、かなり高い確率で壬生は助かるのではないだろうか。今回の犬飼の、なぜここまでしてくれるのかという疑問は、まさにそういうものだろう。これに対して壬生は「弟」を持ち出している。弟のはなしは初耳である。あらすじを追いながらも書いたことだが、これは愛犬・おもちのことのような感じがする。「犬を思い出すから」ではさすがに言い方がナニなので、弟ということにしたのかもしれない。

壬生には、じっさいそういう感情が、いまわいているのかもしれない。だが、仮に彼が犬飼に対してそういう気持ちになっていなかったとしても、もはや彼は犬飼を差し出すという選択をとることはできなくなっている。いや、厳密にはできるのだが、それと同時に、菅原・犬飼コンビを掌握したあのカリスマ性は、失われるどころか、ひどいイメージダウンをともなって地に落ちるのである。菅原の背後には一晩腕を組んだまま黙って直立不動していられる忍耐強いモブマッチョが大勢いる。こういうものも含めて、壬生は、菅原や犬飼を「言葉」で制圧した。それは、ヤクザなんかに負けてたまるかという、半グレの自尊心にも訴えかけるものだったろう。そういう、野心を奥底に抱えた強い不良というイメージが、壬生にひとを引き寄せるのである。そんな彼が、命の危機だからと、ヤクザにこびて弟ぶんを差し出すようなまねはできない。ひとことでいえば「そんなかっこわるいことはできない」ということなのだ。

とすれば、壬生は犬飼をなんとか救わなくてはならない。それは、もはや「壬生」という社会的価値の、不良たちが「壬生」と聞いて思い浮かべるもののとるべき行動そのものなのである。

そのうえで、彼が目標としているのは京極越えである。ウシジマくんのシシックがそうだったように、歴史と権威を備えたヤクザを「越える」ということは、じっさいには不可能に近い。国のしくみを根本からかえるレベルの野望なのだ。可能性があるとすれば、壬生じしんがヤクザになることだが、たぶん、丑嶋や獅子谷兄弟がそうだったように、そのつもりはないのだろう。だからこれはどこまでも「夢」なのだ。しかし、おもちの件も含めて、壬生にはさまざまな感情がうずまいているはずである。けっきょく壬生は最終的にどうしたいのか?ということなのだ。京極を殺す、またやりこめる、それだけで、もしかすると満足してしまうのか? それとも、菅原のような強者をもっと集めて、メキシコの麻薬カルテルみたいにちからだけで国とわたりあうような組織を求めるのか? そのくらいになればそれはヤクザにかわる新勢力だろう。だがそういうふうにも見えない。この問いは、人生について、けっきょくあなたはどうなりたいの?と問うようなものに近いのかもしれない。金持ちになりたいひとは、どの段階を「金持ち」とするのだろうか、物書きになりたいひとは、たとえば本を1冊出版できたとして、それで人生の全可能性をまっとうしたといえるのだろうか? 壬生の野望は、目標であるにしても、具体的な青写真というより、活動の原動力のようなものなのかもしれない。だが、そのなかにもひとつだけはっきりした目標はあり、それが、おもちを殺させた京極への復讐なのである。だから、壬生のうちでは、かなうかなわないは別にして、「より強大に」という野望があり、その内側で、その文脈において、京極に復讐をしたいという動機がたぶんある。今回問題となるのは、壬生にとってどの選択が、この「より強大に」かつ「京極越え」を同時に、安全に行えるものなのかということだ。そこで九条なのである。壬生にとっての九条はなんなのかというと、野生の感覚に近い殺し殺されの世界を法律文書を経由して再構築する、一種の社会化装置なのである。

ただ、社会化のその方法が、法律文書を媒体としたもので、九条が法律の人間であることは、たまたまであるともいえるかもしれない。というのは、社会化のために方法は、なんでもよいからだ。ここで重要なことは、価値判断である。ある行動とある行動を、仮定のまま比較し、どちらがマシか、ということを考えるための媒体なのだ。これがたとえば肉蝮のような単独完結型の不良なら、ルールなんていらない。ただ、じぶんのことだけ考えていればよい。しかし、「より強大に」を求める壬生のまわりにはすでに社会が構成されている。「どうやればダメージがいちばん少なくすむか?」と考えるとき、じぶんの身体のことだけでなく、犬飼のような身内のもの、そしてその関係性という概念的なものにまで気をまわさなければならない、壬生はそういう立場になっているのである。これを、外部的な目線で読み取り、なんらかの地図のうえに配置する、それが社会化するものの仕事である。九条ではそれが法律であるのである。といっても、法律以外なにがあるのかということではある。国というものは、ルールがなければ自律しない。見知らぬ他人とそれなりにうまくやっていける広い土地、それが国家である。九条は壬生にとってのそうした意味でのブレインなのだ。

 

そして九条は、ただ法律の専門家であるだけでなく、蔵人と比較して言葉にすることの困難なものを言葉の領域で扱う専門家でもある。ここで「言葉にすることの困難なもの」とは、リリカルである以上に、壬生のようなものも含むわけである。ふつうにひとも殺している壬生が一般の社会生活に溶け込んでいることは、法治国家の認めるところではない。法律の支配する世界では、壬生は透明な存在になっている。見えないのだ。だが、組織が大きくなるにつれ、他人とのかかわりが増えていくと、そこには責任のようなものが生じることになる。責任とは、このように外部的な目線で野生の感覚を読み取っていったときにあらわれる価値の大きさのことだ。九条がいう「梯子を外さないで」というのは、当然そのことを指している。見えない、だから存在しない、ではすまないものを、九条は拾う。ポジティブな意味では、それはたとえばしずくや曽我部のような社会的弱者のことを指す。しかし、これを言葉のまま行使すると、透明な壬生もあらわれてくる。九条は、じしんのポリシーにしたがって、これもとりあつかう。しかし、曽我部を救うことが困難でありいとわれる事態である以上に、壬生に加担することは大きな問題である。それでも事件に踏み入った九条の立場を汲んで、裏切らないでくれと、こういうはなしだ。

 

だが状況はさらに動きつつある。京極が菅原のスマホで電話をかけてくるということは、少なくとも菅原が京極の近くにいるということである。菅原の描写がないのでわからないが、兵力は失われたと壬生が判断する可能性はある。自首するなら兵力もなにもないが、いま書いてきたかれの社会的価値、守るべきカリスマのようなものが、すでに無意味になっているとしたら、また犬飼を売るという選択肢も出てくるかもしれない。それならそれで、九条にはダメージはないだろうが、もしここでまた売られたら、今度は犬飼が、あることないことしゃべってしまうだろう。あとは鍛冶屋と嵐山の動きがどうなるかだな。

 

 

 

 

 

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