第77審/至高の検事⑬
京極の息子・猛をうっかり殺してしまった犬飼。
当初は壬生がなにか知ってるのではくらいで九条を通じて連絡をとろうとしていた京極だったが、やがて逃亡中だった犬飼の連れふたりが捕まり、ぜんぶわかってしまう。逃げてきた犬飼は壬生と合流、九条と今後のことについて話し合っているところだ。
といっても、京極の弁護もつとめる九条は、利益相反になるからということで、犬飼の弁護はできないという。だが、1年たって埋めた死体の死因わからないようになれば検察は起訴しない。だから、犬飼は1年くらい逃げてから自首して黙秘がベストのようだ。累犯前科もあるということで、6年で出てこれる。では壬生はどうするかというと、彼が預かっている京極の武器をもって出頭しようというのが九条の提案だ。このあたりの前回のやりとり、ぼくは微妙に読み違っていたのだが、「独り言」で壬生に対していっているのは犬飼のはなしで、じゃあ壬生はどうするのかというところで、ここからが本題ですとわざわざ言い換えてこういう提案をしている。要するに、猛の殺人について犬飼を弁護することはできないので「独り言」を聞いてもらい、壬生にかんしては京極への一種の攻撃として、おそらく九条じしんの身を守るためもあって、こういうことをいうのである。
しかし現状に加えて裏切りまでしてしまったら、壬生の身が危ない。が、いまはとにかく京極が自由にしていることが問題ということなのかもしれない。ではなにで投獄するかというと、10年以上になる重い刑は銃刀法か殺人くらいしかないと九条はいう。そして殺人で京極を捕まえることは難しい。偉いヤクザは自分で悪いことはしない・・・という背景に拷問中の京極がうつるのがおかしいが、ともかく、仮に殺人をしているのだとしても、捕まるのは下の者だ。だから壬生が、京極の武器をもって自首し、京極の銃刀法違反を証明しようということなのだ。
とはいえ、である。九条のはなしでは、銃刀法は自首による減免規定があるので、罪を免れることは不可能ではないという。つまり、じっさいに銃をもっていた壬生も銃刀法違反になるが、捕まるのは持ち主の京極だけで、壬生は懲役にならない可能性もあると。だが、それで京極は10年シャバからいなくなっても、伏見組が消滅するわけではないし、10年のあとはどうすればよいのか。いくら壬生が強い不良でもキツイ事態になることは避けられない。それについては、警察の保護を九条はあげているが、なかなか、かんたんに頷ける条件でもない。
この件でこれ以上の提案はない、九条は、梯子をはずさないでくださいよと、壬生に念を押すのだった。九条がじしんの希望を壬生に告げるというのは珍しい場面だ。たんに「裏切らないでくれ」ということだけではなくて、じぶんはそちら側だということも告げているのである。
九条が去ったあと、壬生が犬飼に指示を出す。外資系ホテルをとったから、つまり京極の手配書が出回るラブホテルのようなところではない場所をとったから、海外逃亡の準備が整うまで隠れていろと。犬飼は壬生の指示で嵐山の娘を強姦・殺害し、10年捕まっていた。そのうらみで殺そうとしていたことを、犬飼は馬鹿みたいだったという。逆に、なぜじぶんを殺そうとしたものにここまでしてくれるのかと犬飼は問う。死に別れた弟、いつもそばにくっついてなついていた弟に似ているからかなと壬生はこたえ、犬飼は涙を流す。ほんとかよ。弟のはなしなんて初めて聞いたけど。おもちのことかな。「死んだ犬に似ててさ・・・」だとちょっと逆にひどいもんな。
少し前の回で、若頭補佐の雁金に怒られていた若いヤクザふたりがそれぞれに動いている。ひとり、久我みたいな顔の男は、待機している菅原のもとへやってきて、京極のもとに連れ出している。もうひとりの金髪の男は、拳銃をもって壬生を探している鍛冶屋といっしょに飲んでいる。鍛冶屋は撃ちかたを忘れないようにときどきフィリピンで練習しているという。そこへなにか連絡、鍛冶屋はどこかへ向かうのだった。
壬生と久我はどこかの廃屋へ向かい、厳重にしまってある金庫のなかからいくつもの銃を出す。金庫じたいがみたところ三つもあり、みんな小型だが、ものすごい数の銃が出てくる。そこへ菅原から電話がかかってくる。が、相手は菅原ではなく、京極なのだった。
つづく。
菅原は京極が犬飼の連れを拷問している現場につれられ、携帯を渡してしまったようだ。目玉をくりぬかれたり、壮絶な拷問中の彼だが、いまの描写では大腸をひっぱりだされて、目の前のマイクスタンドに巻きつけられており、その横に、菅原が突っ立っている。まあ、彼にはもうそれが見えないわけだが・・・。
犬飼にかんしては、埋めた死体がうまく死因のわからない状態になることが前提ではあるが、1年外国に身を潜め、そのあと自首して、暴行の事実が露わにならないよう黙秘する、という流れになるようだ。壬生はというと、被害者の猛が犬飼によって殺されたことは京極らヤクザにとっては「事実」である、ということがある。犬飼が隠れたのなら、いまと同じようにどこにいったかということを詰められるし、伏見組の目の届くところでまともな生活はもうできない。そのうえでの戦略が、今回の九条の提案だった。京極の武器をもって自首すれば、京極は10年刑務所に入ることになり、壬生はうまくいけば罪を問われない。警察の保護もつくから、伏見組の報復にも対応できるはずである。もちろん、問題点はたくさんある。警察の保護があるといっても、年がら年中家を監視してもらえるわけではないだろうし、第一それでは壬生じしんの仕事ができない。そして京極が壬生の裏切りにより10年投獄されるということは、11年目には報復する気満々の彼が野に放たれるということでもあるのだ。完璧な安全が約束されたような方法ではない。だが、ひとまずはそうするしかない。そうしなければ、壬生はいまこの日に、最悪殺されるのである。
しかし、もしここで壬生が、犬飼を差し出したとしたらどうなるだろう。いちおう壬生は犬飼の兄貴分ではあるだろうから、責任がまったくないということにはならないとしても、しおらしい態度でそれをすれば、かなり高い確率で壬生は助かるのではないだろうか。今回の犬飼の、なぜここまでしてくれるのかという疑問は、まさにそういうものだろう。これに対して壬生は「弟」を持ち出している。弟のはなしは初耳である。あらすじを追いながらも書いたことだが、これは愛犬・おもちのことのような感じがする。「犬を思い出すから」ではさすがに言い方がナニなので、弟ということにしたのかもしれない。
壬生には、じっさいそういう感情が、いまわいているのかもしれない。だが、仮に彼が犬飼に対してそういう気持ちになっていなかったとしても、もはや彼は犬飼を差し出すという選択をとることはできなくなっている。いや、厳密にはできるのだが、それと同時に、菅原・犬飼コンビを掌握したあのカリスマ性は、失われるどころか、ひどいイメージダウンをともなって地に落ちるのである。菅原の背後には一晩腕を組んだまま黙って直立不動していられる忍耐強いモブマッチョが大勢いる。こういうものも含めて、壬生は、菅原や犬飼を「言葉」で制圧した。それは、ヤクザなんかに負けてたまるかという、半グレの自尊心にも訴えかけるものだったろう。そういう、野心を奥底に抱えた強い不良というイメージが、壬生にひとを引き寄せるのである。そんな彼が、命の危機だからと、ヤクザにこびて弟ぶんを差し出すようなまねはできない。ひとことでいえば「そんなかっこわるいことはできない」ということなのだ。
とすれば、壬生は犬飼をなんとか救わなくてはならない。それは、もはや「壬生」という社会的価値の、不良たちが「壬生」と聞いて思い浮かべるもののとるべき行動そのものなのである。
そのうえで、彼が目標としているのは京極越えである。ウシジマくんのシシックがそうだったように、歴史と権威を備えたヤクザを「越える」ということは、じっさいには不可能に近い。国のしくみを根本からかえるレベルの野望なのだ。可能性があるとすれば、壬生じしんがヤクザになることだが、たぶん、丑嶋や獅子谷兄弟がそうだったように、そのつもりはないのだろう。だからこれはどこまでも「夢」なのだ。しかし、おもちの件も含めて、壬生にはさまざまな感情がうずまいているはずである。けっきょく壬生は最終的にどうしたいのか?ということなのだ。京極を殺す、またやりこめる、それだけで、もしかすると満足してしまうのか? それとも、菅原のような強者をもっと集めて、メキシコの麻薬カルテルみたいにちからだけで国とわたりあうような組織を求めるのか? そのくらいになればそれはヤクザにかわる新勢力だろう。だがそういうふうにも見えない。この問いは、人生について、けっきょくあなたはどうなりたいの?と問うようなものに近いのかもしれない。金持ちになりたいひとは、どの段階を「金持ち」とするのだろうか、物書きになりたいひとは、たとえば本を1冊出版できたとして、それで人生の全可能性をまっとうしたといえるのだろうか? 壬生の野望は、目標であるにしても、具体的な青写真というより、活動の原動力のようなものなのかもしれない。だが、そのなかにもひとつだけはっきりした目標はあり、それが、おもちを殺させた京極への復讐なのである。だから、壬生のうちでは、かなうかなわないは別にして、「より強大に」という野望があり、その内側で、その文脈において、京極に復讐をしたいという動機がたぶんある。今回問題となるのは、壬生にとってどの選択が、この「より強大に」かつ「京極越え」を同時に、安全に行えるものなのかということだ。そこで九条なのである。壬生にとっての九条はなんなのかというと、野生の感覚に近い殺し殺されの世界を法律文書を経由して再構築する、一種の社会化装置なのである。
ただ、社会化のその方法が、法律文書を媒体としたもので、九条が法律の人間であることは、たまたまであるともいえるかもしれない。というのは、社会化のために方法は、なんでもよいからだ。ここで重要なことは、価値判断である。ある行動とある行動を、仮定のまま比較し、どちらがマシか、ということを考えるための媒体なのだ。これがたとえば肉蝮のような単独完結型の不良なら、ルールなんていらない。ただ、じぶんのことだけ考えていればよい。しかし、「より強大に」を求める壬生のまわりにはすでに社会が構成されている。「どうやればダメージがいちばん少なくすむか?」と考えるとき、じぶんの身体のことだけでなく、犬飼のような身内のもの、そしてその関係性という概念的なものにまで気をまわさなければならない、壬生はそういう立場になっているのである。これを、外部的な目線で読み取り、なんらかの地図のうえに配置する、それが社会化するものの仕事である。九条ではそれが法律であるのである。といっても、法律以外なにがあるのかということではある。国というものは、ルールがなければ自律しない。見知らぬ他人とそれなりにうまくやっていける広い土地、それが国家である。九条は壬生にとってのそうした意味でのブレインなのだ。
そして九条は、ただ法律の専門家であるだけでなく、蔵人と比較して言葉にすることの困難なものを言葉の領域で扱う専門家でもある。ここで「言葉にすることの困難なもの」とは、リリカルである以上に、壬生のようなものも含むわけである。ふつうにひとも殺している壬生が一般の社会生活に溶け込んでいることは、法治国家の認めるところではない。法律の支配する世界では、壬生は透明な存在になっている。見えないのだ。だが、組織が大きくなるにつれ、他人とのかかわりが増えていくと、そこには責任のようなものが生じることになる。責任とは、このように外部的な目線で野生の感覚を読み取っていったときにあらわれる価値の大きさのことだ。九条がいう「梯子を外さないで」というのは、当然そのことを指している。見えない、だから存在しない、ではすまないものを、九条は拾う。ポジティブな意味では、それはたとえばしずくや曽我部のような社会的弱者のことを指す。しかし、これを言葉のまま行使すると、透明な壬生もあらわれてくる。九条は、じしんのポリシーにしたがって、これもとりあつかう。しかし、曽我部を救うことが困難でありいとわれる事態である以上に、壬生に加担することは大きな問題である。それでも事件に踏み入った九条の立場を汲んで、裏切らないでくれと、こういうはなしだ。
だが状況はさらに動きつつある。京極が菅原のスマホで電話をかけてくるということは、少なくとも菅原が京極の近くにいるということである。菅原の描写がないのでわからないが、兵力は失われたと壬生が判断する可能性はある。自首するなら兵力もなにもないが、いま書いてきたかれの社会的価値、守るべきカリスマのようなものが、すでに無意味になっているとしたら、また犬飼を売るという選択肢も出てくるかもしれない。それならそれで、九条にはダメージはないだろうが、もしここでまた売られたら、今度は犬飼が、あることないことしゃべってしまうだろう。あとは鍛冶屋と嵐山の動きがどうなるかだな。
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