今週のバキ道/第146話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第146話/丁度よい

 

 

 

 

これまで隠してきたという全力の10秒を示すべく、宿禰は改めて試合を組むよう光成に依頼、負け続きの身でそういうことを言い出す宿禰にイラついたためか、光成はバキの名前を出す。むろん、それでかまわない。そしてバキもそれを電話ごしに承諾、試合成立となるのだった。

 

当日の宿禰のウォーミングアップは徹底的なもので、発汗の感じは試合中か終了後のものだ。彼のいう全力の10秒は、おそらく11秒目には動けなくなるようなものとおもわれる。当然、からだの状態は完全にあたたまっているものでなくてはならないわけである。

たほうのバキは仮眠どころか熟睡レベルで横になっている。御手洗さんに時間だと声をかけられ、大きくて伸びて長いあくびで息吹ばりに息を吐き出す。柔軟っぽいことをするのかと思いきや、すぐにふわりと立ち上がり、首にタオルをかけて出発しようとする。普段着のままなのだ。さすがに御手洗さんが不思議がる。アップをしないばかりか、スニーカーに長ズボンの普段着のままなのかと。バキは、こっちのほうが実戦かなと、はっきりした考えがあるわけではないようだが、直感にしたがうようにしてそうしているようだ。それを御手洗さんが笑いながら「寝起きくらいが丁度よい・・・と」みたいに言い換える。いちおうバキは、そこまでは言ってませんよという。

 

闘技場にあらわれたバキに歓声があがるが、実況とあわせてすぐにバキの普段着の異様さが指摘される。会場にはすでに宿禰がおり、全身滝の汗のまま、ぴょんぴょん飛び跳ねてアップし続けている。あまりに対照的な両者に、観客たちはそれぞれの動揺を見せている。客席のうしろには花山、独歩、克巳がきているぞ。

 

立会人の合図とともに、宿禰は大きく跳躍、巨体をおもわせない身軽さで音もなく着地して位置につく。向き合うと改めて体格差が明らかになる。体格差っていうのかなこれ、バキの頭は宿禰の廻しくらいの位置だ。

 

急な試合の申し込みを受けてくれたことについて宿禰は礼をいう。丁寧な口調だ。バキは、チャンピオンは断れないからと、すごいふつうの態度だ。

いつもどおり、立会人が武器の使用禁止など告げ、試合がはじまるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

花山と独歩はバキの調子がいいといっている。バキは達人であり、いつでもベストであると。

 

はなしとしてはほとんど進んでいないので、前回考察がそのまま通用する内容だった。かんたんにまとめると、バキは宮本武蔵直系の実戦ファイターで、宿禰は、武蔵が作り出した非常に大きな最強戦線の文脈、それこそバキ世界全体を覆うような流れからはずれた(というより厳密にはそれ以前の)古代ファイターということになる。実戦性をとことん追求していった武蔵系では、ウィーミングアップはいかにもアスリート的だが、そもそも宿禰はそこに与するものではない。だから、宿禰のアスリート的ふるまいは、実はぜんぜんアスリート的ではない。バキ世界的な文脈で「アスリート的」というときは、まず武術系の思考法が善としてあり、それの反対命題としてあらわれるものとなる。武術的もアスリート的も、少なくとも評価という意味では、単独ではあらわれない。ところが、宿禰の時代には、武術的を形成した武蔵の系譜も、またもちろんスポーツ的なものもなかった。いってみれば、人類が武蔵以前に格闘技の文脈で採用した最初の方法を、彼はとるにちがいないのである。武蔵的実戦に慣れ親しんだファイター、またわたしたち読者は、いかにも宿禰のありようは非実戦的で、スポーツ的にみえるかもしれないが、そういう評価のものさしがない時代の様式を、彼はまっとうしているだけなのである。

そして、これはじっさい自然なふるまいでもある。というのは、武蔵的な流儀のうちでは、おそらくこれから宿禰が実現するにちがいない「全力の10秒」という身体表現は、不可能とまでいわなくても、なじまないからだ。まず、いま宿禰がやっていることから推測できるように、「全力の10秒」には徹底的なウォーミングアップは欠かせない。バキがげんにそれをしないことで示しているように、日常すべてを闘争と想定するような武蔵的実戦の世界では、こうした発想は生まれてこないのである。また、仮に「全力の10秒」が実現できたとして、万が一それで倒しきれなかったらどうするのかということを、古代相撲は考えていない。オリバ戦でわずかに見せた、通常の出力を上回るパワーを引き出せても、それであのように倒れてしまうのであったら、負けてしまうわけである。武蔵的な流儀が「全力の10秒」にたどりつくということは、このように考えるとまずありえないのだ。というか、それをする理由がなにもないのである。

しかるに、武蔵以前とはいえ、闘争に身をおいていた古代相撲の力士たちは、これを実現する。両者でなにが異なっているのかというと、勝敗観なのではないかということだ。武蔵流が「全力の10秒」をそもそもやろうとしないのは、勝つため、そして負けないためである。ウォーミングアップをしなければ引き出せない技なら、それは備わっているとはいいがたいし、失敗したときに負け、悪くて死亡が決まってしまうような技は不完全であると、武蔵的な思考法はとらえる。しかし、これはそもそも、勝つこと、また負けないことがが最善であるという前提があってのはなしだ。そうでない闘争も、かつてはありえたのかもしれないし、あるいは、神話の世界という彼らの出自が、そのふるまいを様式的なものにこだわらせるのかもしれない。そのあたりはじっさいの攻防を見てみないことにはわからないが、ただ、ややこしいのは、宿禰がそれでいて絶対の勝利を望んでいる、もしくは宣言しているということである。もともと、宿禰や蹴速は、バキたちとはちがう勝敗観をもっているようなところはあった。なんというのか、ギラギラしていないのである。蹴速の仕切り直し理論などは、「勝ち」を求めているがゆえの屁理屈であるともとれたが、それにしても、ほかにやりようはあるだろうとはおもわれたわけである。なんというか、どこかうぶなのだ。こうした先に出てきた宿禰の、まだ見せていないものを見せることができれば勝てるという宣言は、どう受け止めればよいだろうか。ひとつには、やはりジャックやオリバらとたたかった経験が大きいのである。勝ちへの貪欲さと、そのためになにをすればいいのか、どうものを考えればよいのかということを、彼は知ったのだ。そうしたところで、勝ちへの欲望が生じたのかもしれない。だが、おもしろいのは、そのために、つまり「勝ち」を得るために、「勝ち」に貪欲な格闘技者たちのありようにはならないという点である。彼は、勝利よりもそこまでの過程を重視するような古代相撲スタイルのまま、勝利を求めるのだ。ここのところからは、前回見たように、じしんの存在価値、またよって立つところの古代相撲というものの自負、そしてそれを証明したいという欲望が見て取れる。古代相撲は、たしかに、「勝ち」を最善としたものとしては設計されていないかもしれない。しかし、だからといって勝てないということではないと、こういう着想なのではないだろうか。

 

 

 

↓バキ道 16巻 5月8日発売

 

 

 

 

 

 

 

 

管理人ほしいものリスト↓

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1TR1AJMVHZPJY?ref_=wl_share

 

note(有料記事)↓

https://note.com/tsucchini2

 

お仕事の連絡はこちらまで↓ 

tsucchini3@gmail.com