今週のバキ道/第145話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第145話/ウォーム・アップ

 

 

 

 

 

オリバに敗北した宿禰は、実は知り合いだった蹴速と会食、これまでたたかってきた格闘家たちにはまだ見せていないぶぶんがあるとする。格闘家たちは格闘家たちで、じぶんとはちがった育ち、理念、原理でたたかっており、学ぶところは多かった。それに気遣いもしていたという。そうもいっていられないと、バキ道開始当初さかんにいわれていた例の力士にとっての全力の10秒のはなしを蹴速が持ち出し、けしかけるのだった。

光成と会談する宿禰は、相手は誰でもいいという。ジャックに負け、オリバに負けたばかりの宿禰がそういうことをいうものだから、光成もちょっとイラッときてしまったのかもしれない、よりによってバキの名前を出す。宿禰のこたえはかわらない、そしてバキも、携帯の電話口で即OKするのだった。

 

電話を切る光成。光成がスマホをつかっているのがなんかじわじわくる。お年寄り用の使いにくいアレ使ってんのかな・・・。

宿禰は試合が即決まったことに驚いている。即決どころか、退屈していたからありがたいというのがバキの返事だ。宿禰は「退屈」しのぎの言葉に引っかかっているようだが、光成がいうように、バキはああみえて地下闘技場の王者で、敵なしの人間だ。次のたたかいは2度目だということを強調する宿禰だが、光成はあれはリハーサルにすぎないという。じっさい、バキは合気っぽいかわしかたとかトリケラトプス拳とかで遊んでる感じがあり、宿禰としてもなんかよくわからないままごまかされたみたいなところがあるのかもしれない。宿禰はまだバキを知らない。だがそれは向こうも同じである。バキどころか、誰も知らない。そういうはなしなのだ。

 

光成は10秒の件を持ち出し、10秒で終わらせるつもりだということをバキが知ったらどうするかななどという。10秒で終わらせるというのは、試合が10秒というより、全力の動きが10秒間持続するということだろうが、戦術のいちぶではあるだろう。だがいってもいいと宿禰はいう。結果は変わらないからと。たんに自信のあらわれなのか、それとも、彼が見せていないというその姿の本質にかかわることなのか、それはわからない。

 

当日、東京ドーム地下、宿禰はめちゃめちゃにからだをあっためている。いきなりフルパワーを出さなければいけないのでしかたのないことかもしれない。光成はマイク・タイソンのことを思い出していた。タイソンも十分すぎるほどのウォームアップから、1ラウンド目のケタはずれのパフォーマンスを生み出していたのだ。

10秒の件は、光成はちゃんと伝えたらしい。バキのリアクションは、そうですかと、ひとことだけだ。本音はどうだかわからないが、宿禰はさすがだとする。

 

たほうのチャンピオン、いつもの御手洗さんが腕時計を見て時間を知らせる。バキは、バッグを枕にして仮眠をとっているのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

開始前から対照的なふたりである。

宿禰の隠しているものがいったいどういうものなのかわからないので、ここまでの描写がなにを表現したものかということも、まだなんともいえない。両者は、ウォームアップということにかんしてまったくちがう考えかたをしている。ふつうに考えると、宿禰の「全力の10秒」は、ぎりぎりまでからだをあっためることでようやく出現するものだとおもわれるので、この行為は自然だが、バキ的な実戦の観点から、これはいかにもアスリート的であり、非日常である。いつでも「全力の10秒」が出せるようにからだをあたためておくことなんてできないからだ。だとするなら、実戦においてはバキのようなふるまいが正しいことになる。しかし、それでもしバキが敗北したときには、それをどう受け止めればよいのだろう。実践的な日常の準備は、スポーツ的な非日常の準備に勝てないということになってしまうのだ。

 

前のバキ対宿禰がどういう内容だったかぜんぜん思い出せなくてじぶんの記事を読み返して、ついでに思い出したのだが、そのころぼくは、バキを武蔵の系譜につらなる闘争のリアリズムの先端にあるものと考え、宿禰をそれ以前の原闘争的なものに取り組むものと考えていたようである。第26話あたりでそのはなしをしているのだが、読み返してもいまいちそのときの考えのリズムがつかめなくて、ポイントがどこかわからないのだが、おもえばいまから行われるものも「バキ対宿禰」なのであるから、同様のことが引き続きいえるかもしれない。

 

バキは、武蔵的なリアリズムの先端にいる。これは、イメージ的なもので説明するなら、小細工を弄してでもとにかく勝ちを奪うというスタイルのことだ。ともかく勝つこと、それだけが重要であり、過程はどうでもいい。だから、倒れている相手にとどめをささない、みたいなことが、武蔵ではありえない。このへんの議論はバキではいやというほどくりかえされてきたし、あんまり思いだせないが、ここでもいやというほど熟考してきたはずなので、読者のみなさんは、記憶力に難のあるぼくなんかよりよほど論点を理解していることともうが、ともあれ、武蔵的な視点でいえば、過程はどうでもいい。そこと、小細工や卑怯さは直接的にはつながらないが、武士道やスポーツマンシップ的なものと親和性の高いこうした闘争においてふつう厭われるそのようなスタイルが自然に馴染むという点において、やはり無関係とはいいがたいだろう。

だが、「武蔵的なもの」の居場所は、現代にはもはやない。ルールの整備や格闘技術の洗練により、「武蔵的なもの」は、理念レベルでも技術レベルでも、すでに克服され、内面化されている。生殺与奪の権について語られるときには、つい「殺」や「奪」のほうに目がいきがちである。おそらく、そうすることによって変化したものは、もとにもどすことができないからだろう。だが、言葉をそのままに観察すれば、この権利はどの向きにおいても等価のはずだ。とどめを“ささない”を選択した、相手を生かす権利を行使したと、このようにとらえ、ルールの内側にその思想を宿したものが、現代の流儀なのである。なぜなら、殺し、奪って、物事を復元できない状態にすることは、法治国家では認められないからである。これらの発想の背景には法律や社会といった、異なるひとびとと暮らす平和な共同体というモデルが自然に描かれているのだ。そのあとに、自然な感性のままにみればより強い意味をもつとおもわれる「殺」や「奪」は鈍化し、並びのそのままの価値になっていく。そこで、近代格闘技は「生」や「与」を選択できるようになったのである。

こういうしかたで現代のファイターは「武蔵的なもの」を内面化している。バキたちのような実戦派ですらそうなのだ。これを、武蔵から牙をぬいたような状態とみる向きもあるだろうが、おそらくそうではないのであり、それこそが、前作『刃牙道』で描かれたことだったのである。(詳細はすごいがんばって書いたまとめがあるので読んでください。超長いけどおもしろいよ)

 

 

 

 

 

 

では宿禰はどうなのかというのがわからないわけだが、ふつうに考えると、彼は武蔵以前の世界の流儀を継いでいるのだから、この血統からははずれていることになる。それが、彼や蹴速に多くを学ばせたのだ。でも、今回のたたかいではこの学びはあんまり関係ないっぽい。そうではなく、彼らが知らないものを見せてやるという感じが、どうやら強いようだ。以上のように考えてみると、それこそが、武蔵がつくってしまった「武蔵的なもの」により、むしろ排除されてしまった闘争の姿が、そこにはあるのではないかとおもわれるわけである。それこそが、「全力の10秒」なのだ。「武蔵的なもの」は、結果だけが重要なので、たとえば不意打ちとかもOKである。だから、日常すべてが闘争の前段階になり、「ウォーミングアップ」という概念が消失する。結果として、宿禰がこれから発動しようとしている「全力の10秒」という、人生そのものを燃焼してしまうかのような燃費の悪いファイトスタイルを、完全に失ってしまったのだ。じっさい、武蔵的な意味でいえば「全力の10秒」は実戦的ではない。ウォームアップをしなければ使えないということは不意の攻撃に対応できないということだし(「不意の攻撃」がそもそも武蔵的なわけだが)、もし相手を倒すのに失敗したら、11秒後からはただやられるのを待つだけの時間が過ぎていくのである。このスタイルは、明らかに「結果」をそれほど重視していない。結果、つまり勝敗を重視するなら、このスタイルにはならない。彼が重視するのは、10秒間全力を出せたということ、そしてその出力がすばらしいものであったということ、それだけのはずだ。この発想はすこし儀礼的でもあり、短絡的だがいかにも神事にたずさわるものの考えという感じもする。だが宿禰はさらにここに「絶対勝つ」という結果を伴わせようとしているのである。この最後のぶぶんは、おそらく、彼がいままでたたかってきた、バキや勇次郎、ジャック、オリバの影響だろうとおもわれる。蹴速なんかは仕切り直し理論を用いて「最終的に勝てばいい」みたいな感じだったわけだが、宿禰はもっと勝ちを志向するのである。

 

勝ちを目指し難いスタイルで勝ちを目指す、それがなにを意味するかというと、存在価値ではないかとおもわれる。宿禰が、たんにじぶんの勝利を願うだけなら、格闘家的スタイル、武蔵直系スタイルに学べば済むことだろう。あれだけの才能の持ち主なのだから、すぐ連勝ファイターになれるはずだ。だが彼はそうしない。それは、武蔵以前のじぶんお古代相撲的ありようこそが真に価値あるものだという自負があるからだ。つまり、ここでいわれている「勝利」は、一般的な意味とも少し異なっている。わるくいえばもっと幼稚な、「じぶんの古代相撲スタイルのほうが優れている」というような願望のあらわれなのである。優れたスタイルなのだから、それをしっかりやれば勝つに決まっている、そういう考えなのではないかとおもわれるのである。

 

 

 

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