第26話/八角形の土俵
大関を通して恥をかかされた相撲協会理事長の嵐川は、若い衆、宿禰が何者かのか知りたい。彼を訪れている金竜山は、会おうとおもえば会えるという。ただし、場所は八角形の土俵。地下闘技場なのである。
嵐川は表世界のカタギの人間だが、地下闘技場のことを知っているらしい。格闘技の世界でも金メダリストとか、それが狙えるくらいのレベルになると、ふつうに参加が現実的になってくる世界なのだから、大相撲という日本一巨大な格闘組織を仕切る立場で知らないということは考えられなかったが、そういうはなしではなく、兄弟子が出ているというのである。相手は久隅公平というプロレスラー、つまり、横綱・龍金剛が彼の兄弟子だったのである。これまたおそろしく古いエピソードが出てきたな。しかし、え?龍金剛って勝たなかったっけ・・・。該当巻が手元にないんだけど、ウィキとかでもやっぱり勝利って書いてあるぞ。いや、嵐川は「秒殺だった」といっているだけなので、これは秒殺で勝った、ということか・・・。
そしてもちろん金竜山も出たことがある。通常の単発の試合ではなく、最大トーナメントに出場した、ある意味歴史に残る人物だ。しかし彼は二回戦で猪狩に負けてしまった。あれはいい試合だった・・・。
金竜山はそのときのことを悔やんでいる。もっと相撲に徹していれば負けなかったと。あの試合では、猪狩の心理的な戦略もあって、金竜山は相撲を「やらされる」結果となった。そういう心理的なものこみで実戦なのだろうが、そういうのはなにもかも無視して、相撲だけをやっていたら、勝っていたにちがいないと、こういうはなしだろう。
まあそれはいいとして、宿禰はそこにいるのか、というはなしである。嵐川が、なんでもありの選手(として)か、と訊ねるのに対して、金竜山は力士としてだと応える。要するに、彼が悔やんでいること、相撲に徹していればということを実現させているのが、宿禰だということなのである。
しかし力士といえば大相撲に属しているはずで、そうでないのだから、ということは大学生、学生相撲かと、現実的な嵐川はいう。そうではない、「古代相撲」なのだ。
地下闘技場にきている光成と宿禰に戻る。調べてみたが、古代の相撲はずいぶん荒っぽいと光成はいう。どうやって調べたんだろう、細かな文献があるわけでもないだろうが、このあたりはまあ、『バキ道』の最初のほうで描かれた、初代宿禰と当麻蹴速のたたかいを踏まえたものだろう。宿禰がつかう古代の相撲は、拳を握るし、蹴るし、倒した相手のマウントをとって打ち込みもするのだ。眼球への攻撃すら認めたと・・・。うーむ、ことさらに眼球への攻撃が記されるには、眼球への攻撃がありえないことだという合意形成が必要で、近代化が欠かせないとおもうのだが、古代の文献でもそういうのは載っているものだろうか。それとも、眼球への攻撃というのは、ルールなんかがない時代から、すでにかなり強烈な攻撃方法だった、ということだろうか。
で、そういう古代相撲のありようというのは、いかにも地下格闘技的である。だが光成はまだ宿禰を信用していないという。オリバをあんなにかんたんに倒せる男が地球上にそうたくさんいるとはおもえないが、ともかく光成はまだ信用していない。というわけで、いまから立ち合ってもらう、というわけだ。力士として立ち合いを厭うことはない、という余裕の宿禰の背後に、何者かが立つ。気配を察した彼が見つけたのは範馬刃牙である。バキは、もう少しで「間合い」に入るところだったらしい。その直前で気がついた宿禰を、彼はたたえる。
大相撲のルールでやったら、いくらバキが強くっても、なんてことないミスであっさり負けてしまうかもしれない。しかし古代相撲のルールなら、まちがいなく彼は大横綱だ。オリバもピクルも武蔵も、ぎりぎりのところでバキは倒している。勇次郎にだって負けを認めさせたのだ。この形容はまちがってないだろう。
宿禰の顔つきが大きく変わる。そのことは、見たらわかる。身を落として構え、それでも、露払いにすぎないと、宿禰は言ってのけるのであった。
つづく。
新しい強キャラにしょっぱながバキが挑む(そして「ポコーン」という感じで負ける)、というのはよくある展開だが、なにかいままでとはちがう雰囲気もある。たぶん、相手の実力がわからないのは同じだとしても、まだ敬意と慎重さが感じられるためだろう。これはたぶん、ふたりとも学ぶところの多いたたかいになるにちがいない。
ふたりのやろうとしていることはかなり似ている。それは、作中では古代相撲とナンデモアリというふうに形容されており、古代相撲の内訳を調べてみると、それはナンデモアリの景色とほとんど同じだと、こういうはなしだ。それには、近代格闘技の結晶であるバキと、初代宿禰さえなしえなかった石炭の総ダイヤモンド化を達成した宿禰は、それぞれふさわしい代表者ということになる。が、両者には決定的にちがうところがある。『刃牙道』での一連の考察を踏まえることになるが、それは、宮本武蔵を経由しているかいないか、という点だ。
刃牙道で争点となったことはたくさんあったが、もっとも重要なことは、宮本武蔵の体現するリアリティだった。要するに、じっさいに決着がつく、つまり相手が死ぬまでたたかってみないことには、勝負の結果を述べることはできないし、その意味で、それまでの過程なんかどうでもいいのである。近代格闘技は、武蔵的リアリズムを内面化することで技術的に発展していった。ある制限をかけることで別の技術が発達するということは格闘技の世界ではふつうにある。極端な例がボクシングで、パンチ以外の攻撃をすべて無効にしたからこそ、パンチに関わるありとあらゆる技術があそこまで進化したのである。極真空手では顔面への突きが禁止されてきたが、そのことによって、特に至近距離からの下突きと下段蹴りはすばらしい進化をした。黒澤浩樹や数見肇の下段蹴りが実戦的でないという者などいないのである。
近代格闘技にかかる制限はもっと広く、それはたとえば遵法意識であり、教育意識であり、要は技術としては相手を倒す殺人術でありながら、そうではないものとしてルールによる制約をみずからに課し、そのなかで独自の発展をとげてきたのである。それがいびつであったのなら、武蔵の言ももっともだというはなしになる。だが、それはファイターの気の持ちようともいえたわけである。近代格闘技の思想それじたいは、常に護身術、また殺人術としての意識を忘れたことはなかったはずだし、だからこそ、ルールは、たとえば倒れた相手に追撃しない等の約束事を設けてきたわけなのだ。
そうしたわけで、近代格闘技は、じつをいうと宮本武蔵のリアリズムをそのままに含んでいたのである。だからこそ、強度の高い制約が、法律の機能する世界では必要になってきたのであって、バキはそれを象徴するものとして、武蔵に挑むことになったのだった。
そのときに、彼は武蔵を葬る、という表現を用いた。これを、当ブログでは、近代格闘技が成り立つ現代において、宮本武蔵が存在し、その価値を存分に発揮して活動することが大きな矛盾である、という視点から考察した。近代格闘技は武蔵を含んでいる。つまり、現代を生きるものとして遵法的に克服しているのである。そこに武蔵が存在してしまってはならない。これが、バキのいう「葬る」の真意である。
このようにして、バキの内側には「宮本武蔵」の血統、リアリズムの思想がしっかりと息づいている。しかし宿禰はそうではない。武蔵が単独で「最強」であることの具体的な意味を明らかにするはるか以前のありようをそのままに現代に持ち込んでいるのである。ふたりの、おそらく短く済むにちがいないたたかいのポイントは、おそらくここになってくるだろう。武蔵が最強を名乗る前から、闘争のリアリズムを具現するありかたはすでにあったのである。その技術というか思想が、相撲、というか、角力なのだ。これは、けっこうおもしろいことになるかもしれない。いま「闘争のリアリズム」などというときに想像されるものは、たとえば「倒れた相手にとどめをささず、チャンスを逃した」とか、「毒だろうとだましうちだろうと、倒してしまったものの勝ち」とか、そういう景色だが、これはすべて武蔵のもたらすリアリズムなわけである。ところが、宿禰はそれとはまったくべつの流れで実戦を生きているのだ。
ではそれはどういう発想に基づくものか、というところで、おそらく、金竜山が猪狩戦にかんしてもらした感想、相撲を徹底していれば、というようなところにつながってくるのだろう。おもえば猪狩は武蔵的リアリズムの現代的権化みたいな男である。ほんの一瞬のスキをつくるために、バキの母親そっくりな女性を用意してくるような男なのだ。バキも一流のファイターである、死んだ母親そっくりのひとがいたからといって、気持ちがそれるのはほんの一瞬である。そのためだけに、大金と長い時間をかける。これが闘争のリアリズムなのである。
猪狩の金竜山戦はぼくもけっこう好きだが、鞍馬対片岡みたいなもので、猪狩の強さがどういう質のものであるかよくわかる試合でもあった。あれは、いわば、相撲が現代の実戦思想にのっかってしまった試合なのだろう。では乗っからないとしたら、金竜山はどうするべきだったのか? こういうところから、宿禰対バキ戦は掘り下げられていくのかもしれない。
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