第27話/刃牙vs宿禰
ことばにする限りではよく似ている、何でもありの近代格闘技と古代相撲、これを出会わせるために、宿禰は地下闘技場でたたかうことになる。といっても観客もいないし、公式戦というか、王座をかけたものではないのだが、ともあれ彼の格闘技デビュー戦の相手は、刃牙なのだった。
宿禰はバキのことをせいぜい露払いだという。これは、横綱の土俵入りのときに先頭を歩く人のことだという。後ろにいるのが太刀持ち。三人のなかではいちばん下位ということらしい。
だが光成は、後悔することになるぞと宿禰にいう。宿禰は、巨体もあって、なんかイロモノのイベント化なにかだとおもっているのかもしれないが、バキは闘技場のチャンピオン。勇次郎や武蔵、ピクルと並ぶ世界でも指折りの実力者なのである。胸を借りるのは宿禰のほうなのだ。
宿禰はバキを、多めに見積もっても3分の1という。宿禰は200キロを超えているということで、バキが70キロくらいだったとおもうから、たしかにそのくらいの体重差だ。だが、胸を借りるのはじぶんだと。宿禰は納得したようである。というか、それがもしほんとうなら、ファイターとして非常に興味深いわけだ。宿禰は、だから古代相撲はおもしろいという。反則はなく、バキの小さいからだには、銃弾のように凶器が備わっているのだ。
それを踏まえて、宿禰は「露払い」を撤回しない。弱者には務まらないからだという。たたかうからには、勝つつもりでいるだろうし、胸は借りるけど、勝つつもりであると、そんなようなところだろう。
両者服を脱いで準備する。光成は場外に避難、なんだか知らないがバキに「思い知らせてくれ」と願っている。武蔵とちがって、宿禰がここに存在することに光成はそれほど積極性を発揮したわけではないしな。なんとなく調子にのっててムカつくのかも。小池才明のことも嫌いっぽかったし。光成は財界のひとでリアリスト、宿禰は宗教者に近い文系のひと、という感じで、合わないところもあるかも。
そうはいっても、胸を借りる、貸すというのは、いっしゅの比喩だったようだ。大きく迎えるようにかまえるバキをみて、光成は彼がほんとうに、物理的な意味で胸を貸す気だということを知り、あわてる。だがバキは落ち着いている。上から目線というのではないが、包容力に満ちた、「兄弟子」のような目なのだ。
宿禰がすさまじい速さと重量感でぶちかます。迎えるバキは左ハイキックである。失神、とまではいかなかったが、宿禰はその蹴りに、「蹴速」という文字を思い浮かべるのだった。
つづく。
これは、餓狼伝で鞍馬彦一がやっていたやつだな。柔道の世界王者を相手にして、さんざん挑発したあと、「レスリングと柔道」という、組技を代表する技術の対決という物語を捏造し、ではそれで勝負しようという流れを暗黙に作り出して、組むとみせかけてタックルし、そこから突如飛び上がって上段廻し蹴りを食らわしてあっさりKOを奪ったやつ。「胸を借りる」という表現は光成が用いたものである。しかしバキはそれを利用していく。光成はたとえのつもりだったろうが、その流れで、ほんとうに胸を貸すように構える。そこでまともに相撲をしようとする宿禰の虚をつくようにして、左ハイが伸びるのである。いかにも武蔵の血統という感じの戦略だ。
しかし、宿禰のキャラクターというか動機というか、原動力のぶぶんが、いまいちまだ見えてこないなあ。相撲の復権みたいなことは、金竜山や小池才明を通じて描かれつつあるけど、ほんとにこのひとそれが目的なのかな、という感想がある。なんでそうおもうのか、と考えてみたのだけど、なんというか、宿禰にはどこか集中力に欠けた雰囲気があるのだ。といっても悪い意味ではなく、視野が広すぎるというか。相撲の復権をたくらむ、という意味合いでいえば、金竜山とかはそこに注力している雰囲気がある。しかし宿禰では、もっと大きな視点があるような感じがするのである。だから、ひるがえって目的がわからない。何者なのか見えてこないのである。
そして、彼の最終的な目的がなんなのか見えてこない、ということは、たぶん、古代相撲とアンデモアリが酷似に過ぎない、という点に接続するとおもう。前回書いたけど、宿禰とバキ、古代相撲とナンデモアリが決定的に異なるのは、武蔵を経ているかどうか、である。経ている、というのは、『刃牙道』に描かれたあのたたかいを経験しているか、といいうことではなく、思想のなかに武蔵的なものを含んでいるかどうか、ということだ。宿禰の古代相撲のなかには、武蔵のリアリズムはない。だから、バキの蹴りをもろにくらってしまう。今回の激突は、まったく正しく、古代相撲とナンデモアリの差異をあらわしていたとおもう。
宿禰には、そのうえで、表明したいことがある。ひとことでいえば、古代相撲はすごいのだ、ということだ。その彼の目的を表現するものとして、現代では、適切な語(概念)を見つけることが難しいのではないか、というのが現時点でのぼくの仮説である。古代相撲はすごい、その流れで、本来の相撲を取り戻す、ということになっているわけだが、じっさいには相撲と古代相撲はまったく異なっているわけである。もともとヘブライ語とかで書かれていた聖書がいかにすばらしいか伝道しようとしても、自分自身含めてヘブライ語を理解するものがなく、そもそも原典も手元にないという状況で、やむを得ず、なんとなく納得いかないけど、翻訳のものを片手に布教してまわっている、みたいな感覚だろうか。金竜山ももちろん、あのひとはふつうに地下闘技場でやっていけるホンモノなので、現代の相撲と古代相撲との距離を理解したうえで行動しているとはおもう。しかし、とりあえずいまは、そのような文脈でやっていくほかない。宿禰もそんな感じなのではないかとおもう。で、彼のばあいは、若いということもあって、金竜山以上にその自覚がないのかもしれない。それで、なんとなくつかみとれないような人物になってしまっているのだ。
それを、今回では「ナンデモアリ」との異文化衝突というしかたで物語が表出させた。「古代相撲」が「何であるか」を表現することは難しくても、「何でないか」を表現していくことはできるだろう。武蔵を含まない「ナンデモアリ」であるところの古代相撲は、その点で、ナンデモアリの具現者であるバキとは大きく異なっているのである。その差異を、彼自身は「蹴速」というふうに理解したようである。あのたたかいも第1話で描かれはしたが、細部については誰も知らないので、推測も難しいが、あれは素手のたたかいの祖であると同時に、たたかいによる「相対化」の祖であった、ということもいえるかもしれない。要するに、剛力で鳴らすものがふたりいて、それがぶつかり、勝敗によってふたりの評価はわかれたわけである。「剛力」「比類なし」というような形容のもとで、両者には区別がなかった。しかし勝敗が、ふたりを分節する。宿禰は蹴速ではないもの、蹴速は宿禰ではないものとして、決着の瞬間にわかれたのだ。
むろん、「蹴り」はそれじたいでバキ世界ではキーワードで、武蔵も蹴りには興味があるようだった。戦場の技術としては非合理的ではあるが、タイミングを選べば意味のある技にもなる、それが蹴りの本質である。そうした、伸ばすべきところを伸ばすというより、ほかに伸びるところがないか探して伸ばすような発想が、「蹴り」には隠れており、それは古代相撲にもない発想だろう。そういう意味で「蹴り」に対して一種の感動を覚え、同時に蹴りを得意とした蹴速を想起した、というのが今回の流れだろう。しかし以上見たような異文化衝突という視点でいうと、宿禰はここに勝敗というものが両者を相対化するものだ、という本質的なものを見出したのかもしれない、ともおもえるわけである。「古代相撲」と「ナンデモアリ」は、武蔵というワードを考慮に入れない限りで、区別がない。だが、「蹴り」を経由して、両者は分かたれる。その分裂の最初の事件に、彼の初代はかかわっているのである。
![]() |
バキ道 (少年チャンピオン・コミックス)
490円
Amazon |
![]() |
バキ道 (少年チャンピオン・コミックス)
490円
Amazon |
![]() |
バキ外伝 疵面-スカーフェイス-(8) (チャンピオンREDコミックス)
648円
Amazon |


