すっぴんマスター -30ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第146話/丁度よい

 

 

 

 

これまで隠してきたという全力の10秒を示すべく、宿禰は改めて試合を組むよう光成に依頼、負け続きの身でそういうことを言い出す宿禰にイラついたためか、光成はバキの名前を出す。むろん、それでかまわない。そしてバキもそれを電話ごしに承諾、試合成立となるのだった。

 

当日の宿禰のウォーミングアップは徹底的なもので、発汗の感じは試合中か終了後のものだ。彼のいう全力の10秒は、おそらく11秒目には動けなくなるようなものとおもわれる。当然、からだの状態は完全にあたたまっているものでなくてはならないわけである。

たほうのバキは仮眠どころか熟睡レベルで横になっている。御手洗さんに時間だと声をかけられ、大きくて伸びて長いあくびで息吹ばりに息を吐き出す。柔軟っぽいことをするのかと思いきや、すぐにふわりと立ち上がり、首にタオルをかけて出発しようとする。普段着のままなのだ。さすがに御手洗さんが不思議がる。アップをしないばかりか、スニーカーに長ズボンの普段着のままなのかと。バキは、こっちのほうが実戦かなと、はっきりした考えがあるわけではないようだが、直感にしたがうようにしてそうしているようだ。それを御手洗さんが笑いながら「寝起きくらいが丁度よい・・・と」みたいに言い換える。いちおうバキは、そこまでは言ってませんよという。

 

闘技場にあらわれたバキに歓声があがるが、実況とあわせてすぐにバキの普段着の異様さが指摘される。会場にはすでに宿禰がおり、全身滝の汗のまま、ぴょんぴょん飛び跳ねてアップし続けている。あまりに対照的な両者に、観客たちはそれぞれの動揺を見せている。客席のうしろには花山、独歩、克巳がきているぞ。

 

立会人の合図とともに、宿禰は大きく跳躍、巨体をおもわせない身軽さで音もなく着地して位置につく。向き合うと改めて体格差が明らかになる。体格差っていうのかなこれ、バキの頭は宿禰の廻しくらいの位置だ。

 

急な試合の申し込みを受けてくれたことについて宿禰は礼をいう。丁寧な口調だ。バキは、チャンピオンは断れないからと、すごいふつうの態度だ。

いつもどおり、立会人が武器の使用禁止など告げ、試合がはじまるのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

花山と独歩はバキの調子がいいといっている。バキは達人であり、いつでもベストであると。

 

はなしとしてはほとんど進んでいないので、前回考察がそのまま通用する内容だった。かんたんにまとめると、バキは宮本武蔵直系の実戦ファイターで、宿禰は、武蔵が作り出した非常に大きな最強戦線の文脈、それこそバキ世界全体を覆うような流れからはずれた(というより厳密にはそれ以前の)古代ファイターということになる。実戦性をとことん追求していった武蔵系では、ウィーミングアップはいかにもアスリート的だが、そもそも宿禰はそこに与するものではない。だから、宿禰のアスリート的ふるまいは、実はぜんぜんアスリート的ではない。バキ世界的な文脈で「アスリート的」というときは、まず武術系の思考法が善としてあり、それの反対命題としてあらわれるものとなる。武術的もアスリート的も、少なくとも評価という意味では、単独ではあらわれない。ところが、宿禰の時代には、武術的を形成した武蔵の系譜も、またもちろんスポーツ的なものもなかった。いってみれば、人類が武蔵以前に格闘技の文脈で採用した最初の方法を、彼はとるにちがいないのである。武蔵的実戦に慣れ親しんだファイター、またわたしたち読者は、いかにも宿禰のありようは非実戦的で、スポーツ的にみえるかもしれないが、そういう評価のものさしがない時代の様式を、彼はまっとうしているだけなのである。

そして、これはじっさい自然なふるまいでもある。というのは、武蔵的な流儀のうちでは、おそらくこれから宿禰が実現するにちがいない「全力の10秒」という身体表現は、不可能とまでいわなくても、なじまないからだ。まず、いま宿禰がやっていることから推測できるように、「全力の10秒」には徹底的なウォーミングアップは欠かせない。バキがげんにそれをしないことで示しているように、日常すべてを闘争と想定するような武蔵的実戦の世界では、こうした発想は生まれてこないのである。また、仮に「全力の10秒」が実現できたとして、万が一それで倒しきれなかったらどうするのかということを、古代相撲は考えていない。オリバ戦でわずかに見せた、通常の出力を上回るパワーを引き出せても、それであのように倒れてしまうのであったら、負けてしまうわけである。武蔵的な流儀が「全力の10秒」にたどりつくということは、このように考えるとまずありえないのだ。というか、それをする理由がなにもないのである。

しかるに、武蔵以前とはいえ、闘争に身をおいていた古代相撲の力士たちは、これを実現する。両者でなにが異なっているのかというと、勝敗観なのではないかということだ。武蔵流が「全力の10秒」をそもそもやろうとしないのは、勝つため、そして負けないためである。ウォーミングアップをしなければ引き出せない技なら、それは備わっているとはいいがたいし、失敗したときに負け、悪くて死亡が決まってしまうような技は不完全であると、武蔵的な思考法はとらえる。しかし、これはそもそも、勝つこと、また負けないことがが最善であるという前提があってのはなしだ。そうでない闘争も、かつてはありえたのかもしれないし、あるいは、神話の世界という彼らの出自が、そのふるまいを様式的なものにこだわらせるのかもしれない。そのあたりはじっさいの攻防を見てみないことにはわからないが、ただ、ややこしいのは、宿禰がそれでいて絶対の勝利を望んでいる、もしくは宣言しているということである。もともと、宿禰や蹴速は、バキたちとはちがう勝敗観をもっているようなところはあった。なんというのか、ギラギラしていないのである。蹴速の仕切り直し理論などは、「勝ち」を求めているがゆえの屁理屈であるともとれたが、それにしても、ほかにやりようはあるだろうとはおもわれたわけである。なんというか、どこかうぶなのだ。こうした先に出てきた宿禰の、まだ見せていないものを見せることができれば勝てるという宣言は、どう受け止めればよいだろうか。ひとつには、やはりジャックやオリバらとたたかった経験が大きいのである。勝ちへの貪欲さと、そのためになにをすればいいのか、どうものを考えればよいのかということを、彼は知ったのだ。そうしたところで、勝ちへの欲望が生じたのかもしれない。だが、おもしろいのは、そのために、つまり「勝ち」を得るために、「勝ち」に貪欲な格闘技者たちのありようにはならないという点である。彼は、勝利よりもそこまでの過程を重視するような古代相撲スタイルのまま、勝利を求めるのだ。ここのところからは、前回見たように、じしんの存在価値、またよって立つところの古代相撲というものの自負、そしてそれを証明したいという欲望が見て取れる。古代相撲は、たしかに、「勝ち」を最善としたものとしては設計されていないかもしれない。しかし、だからといって勝てないということではないと、こういう着想なのではないだろうか。

 

 

 

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第145話/ウォーム・アップ

 

 

 

 

 

オリバに敗北した宿禰は、実は知り合いだった蹴速と会食、これまでたたかってきた格闘家たちにはまだ見せていないぶぶんがあるとする。格闘家たちは格闘家たちで、じぶんとはちがった育ち、理念、原理でたたかっており、学ぶところは多かった。それに気遣いもしていたという。そうもいっていられないと、バキ道開始当初さかんにいわれていた例の力士にとっての全力の10秒のはなしを蹴速が持ち出し、けしかけるのだった。

光成と会談する宿禰は、相手は誰でもいいという。ジャックに負け、オリバに負けたばかりの宿禰がそういうことをいうものだから、光成もちょっとイラッときてしまったのかもしれない、よりによってバキの名前を出す。宿禰のこたえはかわらない、そしてバキも、携帯の電話口で即OKするのだった。

 

電話を切る光成。光成がスマホをつかっているのがなんかじわじわくる。お年寄り用の使いにくいアレ使ってんのかな・・・。

宿禰は試合が即決まったことに驚いている。即決どころか、退屈していたからありがたいというのがバキの返事だ。宿禰は「退屈」しのぎの言葉に引っかかっているようだが、光成がいうように、バキはああみえて地下闘技場の王者で、敵なしの人間だ。次のたたかいは2度目だということを強調する宿禰だが、光成はあれはリハーサルにすぎないという。じっさい、バキは合気っぽいかわしかたとかトリケラトプス拳とかで遊んでる感じがあり、宿禰としてもなんかよくわからないままごまかされたみたいなところがあるのかもしれない。宿禰はまだバキを知らない。だがそれは向こうも同じである。バキどころか、誰も知らない。そういうはなしなのだ。

 

光成は10秒の件を持ち出し、10秒で終わらせるつもりだということをバキが知ったらどうするかななどという。10秒で終わらせるというのは、試合が10秒というより、全力の動きが10秒間持続するということだろうが、戦術のいちぶではあるだろう。だがいってもいいと宿禰はいう。結果は変わらないからと。たんに自信のあらわれなのか、それとも、彼が見せていないというその姿の本質にかかわることなのか、それはわからない。

 

当日、東京ドーム地下、宿禰はめちゃめちゃにからだをあっためている。いきなりフルパワーを出さなければいけないのでしかたのないことかもしれない。光成はマイク・タイソンのことを思い出していた。タイソンも十分すぎるほどのウォームアップから、1ラウンド目のケタはずれのパフォーマンスを生み出していたのだ。

10秒の件は、光成はちゃんと伝えたらしい。バキのリアクションは、そうですかと、ひとことだけだ。本音はどうだかわからないが、宿禰はさすがだとする。

 

たほうのチャンピオン、いつもの御手洗さんが腕時計を見て時間を知らせる。バキは、バッグを枕にして仮眠をとっているのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

開始前から対照的なふたりである。

宿禰の隠しているものがいったいどういうものなのかわからないので、ここまでの描写がなにを表現したものかということも、まだなんともいえない。両者は、ウォームアップということにかんしてまったくちがう考えかたをしている。ふつうに考えると、宿禰の「全力の10秒」は、ぎりぎりまでからだをあっためることでようやく出現するものだとおもわれるので、この行為は自然だが、バキ的な実戦の観点から、これはいかにもアスリート的であり、非日常である。いつでも「全力の10秒」が出せるようにからだをあたためておくことなんてできないからだ。だとするなら、実戦においてはバキのようなふるまいが正しいことになる。しかし、それでもしバキが敗北したときには、それをどう受け止めればよいのだろう。実践的な日常の準備は、スポーツ的な非日常の準備に勝てないということになってしまうのだ。

 

前のバキ対宿禰がどういう内容だったかぜんぜん思い出せなくてじぶんの記事を読み返して、ついでに思い出したのだが、そのころぼくは、バキを武蔵の系譜につらなる闘争のリアリズムの先端にあるものと考え、宿禰をそれ以前の原闘争的なものに取り組むものと考えていたようである。第26話あたりでそのはなしをしているのだが、読み返してもいまいちそのときの考えのリズムがつかめなくて、ポイントがどこかわからないのだが、おもえばいまから行われるものも「バキ対宿禰」なのであるから、同様のことが引き続きいえるかもしれない。

 

バキは、武蔵的なリアリズムの先端にいる。これは、イメージ的なもので説明するなら、小細工を弄してでもとにかく勝ちを奪うというスタイルのことだ。ともかく勝つこと、それだけが重要であり、過程はどうでもいい。だから、倒れている相手にとどめをささない、みたいなことが、武蔵ではありえない。このへんの議論はバキではいやというほどくりかえされてきたし、あんまり思いだせないが、ここでもいやというほど熟考してきたはずなので、読者のみなさんは、記憶力に難のあるぼくなんかよりよほど論点を理解していることともうが、ともあれ、武蔵的な視点でいえば、過程はどうでもいい。そこと、小細工や卑怯さは直接的にはつながらないが、武士道やスポーツマンシップ的なものと親和性の高いこうした闘争においてふつう厭われるそのようなスタイルが自然に馴染むという点において、やはり無関係とはいいがたいだろう。

だが、「武蔵的なもの」の居場所は、現代にはもはやない。ルールの整備や格闘技術の洗練により、「武蔵的なもの」は、理念レベルでも技術レベルでも、すでに克服され、内面化されている。生殺与奪の権について語られるときには、つい「殺」や「奪」のほうに目がいきがちである。おそらく、そうすることによって変化したものは、もとにもどすことができないからだろう。だが、言葉をそのままに観察すれば、この権利はどの向きにおいても等価のはずだ。とどめを“ささない”を選択した、相手を生かす権利を行使したと、このようにとらえ、ルールの内側にその思想を宿したものが、現代の流儀なのである。なぜなら、殺し、奪って、物事を復元できない状態にすることは、法治国家では認められないからである。これらの発想の背景には法律や社会といった、異なるひとびとと暮らす平和な共同体というモデルが自然に描かれているのだ。そのあとに、自然な感性のままにみればより強い意味をもつとおもわれる「殺」や「奪」は鈍化し、並びのそのままの価値になっていく。そこで、近代格闘技は「生」や「与」を選択できるようになったのである。

こういうしかたで現代のファイターは「武蔵的なもの」を内面化している。バキたちのような実戦派ですらそうなのだ。これを、武蔵から牙をぬいたような状態とみる向きもあるだろうが、おそらくそうではないのであり、それこそが、前作『刃牙道』で描かれたことだったのである。(詳細はすごいがんばって書いたまとめがあるので読んでください。超長いけどおもしろいよ)

 

 

 

 

 

 

では宿禰はどうなのかというのがわからないわけだが、ふつうに考えると、彼は武蔵以前の世界の流儀を継いでいるのだから、この血統からははずれていることになる。それが、彼や蹴速に多くを学ばせたのだ。でも、今回のたたかいではこの学びはあんまり関係ないっぽい。そうではなく、彼らが知らないものを見せてやるという感じが、どうやら強いようだ。以上のように考えてみると、それこそが、武蔵がつくってしまった「武蔵的なもの」により、むしろ排除されてしまった闘争の姿が、そこにはあるのではないかとおもわれるわけである。それこそが、「全力の10秒」なのだ。「武蔵的なもの」は、結果だけが重要なので、たとえば不意打ちとかもOKである。だから、日常すべてが闘争の前段階になり、「ウォーミングアップ」という概念が消失する。結果として、宿禰がこれから発動しようとしている「全力の10秒」という、人生そのものを燃焼してしまうかのような燃費の悪いファイトスタイルを、完全に失ってしまったのだ。じっさい、武蔵的な意味でいえば「全力の10秒」は実戦的ではない。ウォームアップをしなければ使えないということは不意の攻撃に対応できないということだし(「不意の攻撃」がそもそも武蔵的なわけだが)、もし相手を倒すのに失敗したら、11秒後からはただやられるのを待つだけの時間が過ぎていくのである。このスタイルは、明らかに「結果」をそれほど重視していない。結果、つまり勝敗を重視するなら、このスタイルにはならない。彼が重視するのは、10秒間全力を出せたということ、そしてその出力がすばらしいものであったということ、それだけのはずだ。この発想はすこし儀礼的でもあり、短絡的だがいかにも神事にたずさわるものの考えという感じもする。だが宿禰はさらにここに「絶対勝つ」という結果を伴わせようとしているのである。この最後のぶぶんは、おそらく、彼がいままでたたかってきた、バキや勇次郎、ジャック、オリバの影響だろうとおもわれる。蹴速なんかは仕切り直し理論を用いて「最終的に勝てばいい」みたいな感じだったわけだが、宿禰はもっと勝ちを志向するのである。

 

勝ちを目指し難いスタイルで勝ちを目指す、それがなにを意味するかというと、存在価値ではないかとおもわれる。宿禰が、たんにじぶんの勝利を願うだけなら、格闘家的スタイル、武蔵直系スタイルに学べば済むことだろう。あれだけの才能の持ち主なのだから、すぐ連勝ファイターになれるはずだ。だが彼はそうしない。それは、武蔵以前のじぶんお古代相撲的ありようこそが真に価値あるものだという自負があるからだ。つまり、ここでいわれている「勝利」は、一般的な意味とも少し異なっている。わるくいえばもっと幼稚な、「じぶんの古代相撲スタイルのほうが優れている」というような願望のあらわれなのである。優れたスタイルなのだから、それをしっかりやれば勝つに決まっている、そういう考えなのではないかとおもわれるのである。

 

 

 

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第76審/至高の検事⑫

 

 

 

 

更新遅くなってしまってすいません。

九条と壬生が合流したところだ。壬生のそばには犬飼がいる。京極の息子・猛を殺した犬飼らはラブホテルに潜伏していたのだが、部屋から出て公衆電話から連絡をとってきた犬飼に、壬生はすぐそこを出るようにいっていた。伏見組の指名手配がかかっていてホテルには顔写真がいっているにちがいないというはなしである。それで犬飼はあわてて(たぶんそのあしで)逃げてきたのだが、壬生の予感は的中し、ホテルにはヤクザたちが乗り込んでいったのである。犬飼は海外に逃亡できるかどうかだけ考えているので、最初九条を密入国の業者かなにかとおもっている。

 

まず委任契約だと九条はいう。要するに逮捕された際の弁護をするということだろう。だが犬飼のぶんの書類はない。犬飼は京極の息子を殺したものであり、それを弁護すると、別の依頼人である京極と利益相反になってしまう。というか、そんなこと以前に、犬飼の態度は悪すぎるし、立場がわかっていない感じがありありだ。

海外逃亡するといっても数百万円しかない、その後どうするつもりかと壬生は犬飼を諭すようにいう。他のふたりはラブホ以来連絡がついていないが、いつでも逃げれるように靴をはきっぱなしにして、金も三等分したと犬飼はいう。それを壬生は甘いという。いまごろふたりは拷問されて居場所を問い詰められているにちがいないと。数百万しかもっていないという見通しの甘さを突きつけられて、犬飼は、しかしじぶんはこれくらいのことを考慮して行動してきたと、ぬかりのなさを伝えるつもりで靴のはなしなどしたわけである。だが、壬生からすれば全体的に大雑把で見通しが甘いというわけだ。

犬飼の連れは、壬生のいうように捕まって、どこかの廃屋であちこち切除されているところだ。猛殺しの依頼人と同じく、鼻や指を落とされ、たったいまスプーンで目玉をくりぬかれたところである。耳や舌が無事っぽいのはいま問い詰めているところだからかな・・・。

 

 

犬飼が黙ったところで、いつものように九条が「独り言」をいう。死体遺棄で出頭しろと。壬生は3年、前科のある犬飼は6年で出てこれる。犬飼は文句をいうが、人を殺して6年なら安いと壬生はいう。そもそも壬生は殺してないしな。犬飼はこの件にかんして特になにもしてないのに3年いくことになる壬生のことを少し考えてほしい。仲間も生きているなら出頭して黙秘、死んでいればそれはそれでヨシ。

死体を埋めるのにどれくらい掘ったのかと、九条が具体的なはなしをする。犬飼は動物に掘り返されるのを考慮して150センチくらい掘ったと。ハブサンは3メートル掘ってたけど、浅いぶんにはバクテリアが繁殖しやすくていいらしい。ともかく、それなら1年後には白骨になっているか、なんらかの理由で腐敗を免れて死蝋化するという。白骨、もしくは死蝋なら、検察は起訴しないのだという。死因がわからなければ殺害と死体を結びつけることはできないからだ。死蝋でもそうなるというのはよくわからないが、まあそういうことなのだと了解しておこう。とにかく、証拠がない状態で完全に黙秘する、それしかないというのが九条の考えだ。壬生は犬飼に、1年くらい逃亡してから出頭したらどうかなどといっている。

 

ここからが本題だと、九条は独り言を続ける。京極の武器庫の場所は知っているかと。知ってるもなにも、預かっているのは壬生だというはなしである。九条は、それをもって出頭するよう伝えるのだった。

 

壬生にいわれて兵隊を集めた菅原は、夜明けまでそのまま待っていたようだ。腕組んで駐車場に散って立っているモブマッチョも、夜明けまで腕組んで駐車場に立っていたようだ。見上げた忍耐力だな。

 

艮が乗ったトラックの突っ込んだ壬生の工場には嵐山たちがきて調査している。防犯カメラですでにドライバーが伏見組の元構成員であることはわかっている。伏見組と壬生がなんらかの事情でもめていることはまちがいない、両方つぶすのにいい流れだと嵐山はいうのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

ほんとに最終章なんじゃないかっていう展開だ。誰かが誰かを出し抜いて、負けたほうが舌打ちして終わる、ということにはならなそうだな・・・

 

今回は久々に九条の悪いところが見えた感じだ。これまでけっこう繊細な描かれかたが多かったので忘れていたが、九条は表面的にはこういうことをしているんだよということが非常にわかりやすく見えるとおもう。

 

現状では壬生は菅原の兵力を使って伏見組と戦争をはじめるようなところにまでなっていた。しかも、今回わかったところでは京極の武器は壬生が預かっていたというからすごい。京極としては、壬生の居所がわからないというのはかなり大きかったわけである。ヤクザは組織なので、じっさいに戦争がはじまってしまったらとても壬生たちの勝てるものではないわけだが、武器がないとなれば、モブマッチョをあれだけ集めている状況で、しかも朝まで腕組んだままじっとしていられる忍耐力のある連中なのであるから、伏見組壊滅くらいまでいった可能性がある。だがそれは九条としても避けたかった。壬生の友人として、ということも少しはあるだろうが、いくらなんでもその状況に一枚かんでいる弁護士という立場は厄介すぎるわけである。

 

もし戦争が起きて、京極が死に、壬生が逮捕や指名手配ということになったら、伏見組の実質的顧問みたいな立場だった九条はかなり有名になってしまう。週刊誌とかにも取り上げられるだろう。これは、九条というより兄の蔵人のほうがおそれていた状況となる。彼の同僚たちがうわさしていたあの状況というわけだ。だがもちろん、彼が兄のためにそういうことをしたのだということではない。九条は九条の考えのもとに、今回の作戦を指示したにちがいないのだ。それはどういう考えかというと、当たり前のことになるが、はなしが大きくなりすぎる前に、要するにどうにかなる段階でなんとかしようというだけのことだ。そして、壬生と犬飼が出頭を飲む限りで、じっさいこれはどうにかなりそうである。犬飼の連れにかんして死んでいたらそれはそれでいいとしたり、猛の死が死という事実の重みをまったくともなっていなかったり、なにか不良弁護士的な当初の九条のイメージそのままという感じの今回の言動だが、こうみると、彼はたんにこの先おこりうることを予測して、しかもそこにじぶんがどうかかわる可能性があるのかということを見通して、解決可能な段階に事態を押しとどめただけなのだということがわかるし、そもそも弁護士的観点というものは法律文書的に事物を統一的に観察する立場にあるものなので、語の感触としては非常に冷たく感じられても、現実にとられうる言動というものはこんなものなのだろう。

 

ただ、それだけではなさそうにおもわれるのが、武器庫の件である。壬生が6年刑務所に入るというはなしの時点では、その間の壬生の安全を確保するというようなことかともおもわれたが、最後に唐突にこういう発言が出てきたわけである。武器庫の武器をぜんぶ警察にもっていくことがなにを意味するのかはわからないが、九条が考えなければならないことはおそらくふたつあった。ひとつは、6年壬生の安全が確保できたとしても、では7年目はどうするのかということであり、もうひとつは、もう悪い連中とつきあうなという烏丸の忠告なのである。武器庫の件は、このふたつを同時に片付けるものとおもわれる。壬生がいないあいだ、京極が九条を放っておいてくれるということはない。それどころか、アウトローとの付き合いという意味では壬生というはなしのわかる緩衝材がなくなるぶんもっと悪い環境になるだろう。壬生は、まだマシなのだ。このばあい、九条と壬生の利害は一致することにもなるから、壬生からも文句は出ない。ただ、そうすることによってなにが起こるのかは、わからない。そのことによって嵐山に京極を逮捕させるつもりなのか、ヤクザとして丸腰にして弱体化させるだけなのか、それは不明だ。だいたい、逮捕されたとしても、6年以上捕まっていてくれるとも限らない。壬生が出頭するということは、6年の安全とともに、猛の件について関係していることを認めることにほかならず、報復は避けられないわけで、この問題はどうしても解決しなくてはならない。そこに関係しているとはおもうのだが、結果どうなるかはわからない。

 

犬飼の連れは指や鼻を落とされ、目をくりぬかれていた。しかし耳や舌は無事なようである。これはおそらく、コミュニケーションをとるためとおもわれる。耳は、京極の質問を聞くために残り、舌はそれに応えるために残る。それ以外は不要ということだ。このとき、犬飼の連れは、ただ京極の目的のためだけに存在する人間ということになる。彼はもはや主体性をもつことができない。見られはするが、なにかを見るということはできないし、なにかに触れたりにおいを嗅いだりすることもない。耳がなにかの音声を拾い、舌が叫び声をあげることもあるだろうが、それも監禁という状況により封じられる。相手の主体性を削ぎ、じしんの主体性を誇張して表現する、それが彼らの拷問の手法である。犬飼の連れを問い詰めても、彼らは犬飼の場所は知らない。せいぜい、出かけるときに壬生の名前を出していたということをいうくらいであり、それはもう京極にはわかりきっていることだ。だが、どちらにせよ、2週間この苦痛は続く。そうして、痛みの交換様式において、京極は必ずじしんの回収額がもとの損失を上回るよう構成する。そうすることにより、ほんらい後手にまわる「報復」という行為を、まるでそれが運動の出発点であるかのように示すのである。この「主体性の奪い合いゲーム」が、彼ら悪い大人たちにとっての基本的なルールとなる。そして、この思考法は蔵人の「言葉」による全能感にも通じるものだということを、2回くらい前にむりやりこじつけて考えた。これまではピアノの鍵盤を例にして、シとドのあいだにある音を聴き取ろうとするのが九条であり、そんなものは存在しないか、存在するとしてもシかドのどちらかであるとするのが蔵人であるというふうに書いてきた。これは、数字にもたとえることができる。この世界を自然数のみで構成されているものとするのが蔵人で、小数点以下まで想定するのが九条であるというわけだ。そうして、じしんの信仰するルールに読み替えるという蔵人のしぐさが、アウトローたちの主体性問題と響きあうわけである。ただ、かといって延々無理数を小数点以下無限に読み込んでいくというわけにはいかない。どこかであきらめるなり四捨五入するなりして区切りをつけなければならない。芸術家なら、それを別の器に入れ替えて、無限に続く小数点以下の数字を保留したまま表現できるかもしれない。だが九条もまた蔵人と同じ法律家だ。どこかで彼はそれを発声可能な数字にしなければならない。それが「落としどころ」である。『九条の大罪』は当初「性格が悪い」という煽り文句とともに連載を開始していた。その印象は、まさしく今回描かれたような不良弁護士、悪徳弁護士というようなものだったわけだが、現実の彼はそうではなかった。そうではなかったが、同時にそうでもあった。それが今回の描写である。円周率は無限に続く。しかし、それでは計算が不可能になる。3とするなりパイとするなり、計算が可能なかたちにしなければ、解は得られない。それを行うとき、彼は今回のようになるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『82年生まれ、キム・ジヨン』のチョ・ナムジュの短編が、3月に翻訳されて出たんだけど、期待していた以上によくてうれしい。





実をいうとキム・ジヨン以降の小説も出てるのは知っていたのだけど、買ってはいなかった。最近最後まで読めないことも増えてて(読み途中の本が何百冊もある)、短編はそのあたりそんなに気にしなくてもいいし、もともと短編小説という様式が好きなので、今回ようやく手にとれた。

だから作家単位での変化という意味で読むことはできないので、最近はどの作品もそうなのかどうか、そのあたりもわからないのだけど、期待した「以上」という量的な驚きというより、どちらかといえば期待したものと違った感触に驚いているのだった。ちょうどいま一緒に読んでる(というほど読めてないが)チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『なにかが首のまわりに』という短編集と非常に雰囲気が似ていることにも驚いた。




文体にかかる社会的規範性のようなものに目配せしつつも、女性たちの人生を、ただ女性的な属性に投げ込むのでなく、つまり、たとえば「虐げられる女性」というモデルケースとして描くのではなく、個別に、親密に描いていく、そんなスタンスが近いので当然なのだろうが、それにしても、だとしたらこの喪失感っぽい感覚の正体はなんなんだろうなと。

読み終えることができたら記事にしたいのでここではあまり深く追求しないが、どうも「連帯感」なのではないかなという気はしている。これが深いシンパシーを生む。一般に使われるときの「共感」という状況は、閉じたものになる。わたしがあなたに共感するとき、わたしの「共感」という感情作用のなかに、じつはあなたはいない。ただ、あなたをきっかけに、わたしが、わたしの経験を、記憶を思い出しているだけなのだ。だから、ある種ヒーリング的な効果は認めざるを得ないとしても、「共感」はコミュニケーション的なものからははるかに隔たる閉鎖的感情なのである。ではこのシンパシー(本作における共感をこう呼ぼう)はなんなのかというと、連帯感なんじゃないかなと。





連帯感についてどこかでくわしく考えたような…と調べたら九条39話が出てきた。まあまあよく書けてるので読んでもらえればよいが、ひとことでいえば、本質的なことがらに関する連帯は深いシンパシーを呼び込むということだ。女性が連帯するのと労働者が連帯するのはだいぶ異なる。女性が女性と連帯するとき、そこには癒し難い傷みたいなもの共有の感覚が、まずある(そうではない、とするのがボーヴォワール以降なわけだが)。けれども、それらをたとえば「傷ついた女性、ほかならぬ女性」として描くのは、やや循環的だ。彼女の傷は彼女のもので、ほんとうの意味で「わたしの傷」のように感じることはできない。「共感」はなにも意味しない。でも、「私は偶然生き残った」感覚もまた否定できない。そのはざまに生まれる文体が、本書のものであり、アディーチェのものなんではないかと。描かれている対象との、少し遠い感じのする距離感は、その人物個人に対する敬意のあらわれであり、それでもなお連帯を続けようとしたとき、こうした喪失感やふたしかさのようなものが現れるのだ。







キム・ジヨンはなにを描きなにを告発するのかに意識的でありつつも、小説としてどうこうという以上の意味を持ちすぎてしまった(本書収録「誤記」はそういうはなし)。そのつもりで書かれているからといえばそうだが、つまり、仮にこのはなしにこころ動かされたとしても、作品がもたらしたものが逆流することで完成した物体としての書籍の価値みたいなものが、エモーショナルかというとちょっとそういうことではないとかぶせ気味に邪魔してくるのである。それで悪いということではないが、しかしこの新しい短編を通しては、フェミニズムにかんして文学になにができるかということにかんして、一歩進んだ感じがする。




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第75審/至高の検事⑪

 

 

 

 

息子の失踪について事務所に京極が乗り込んできたところだが、九条は烏丸のことを思い返している。九条からの誘いで飲みに出かけるところだ。出雲という、たぶん弁護をしていたものの死刑判決が出たのである。所詮は他人事と割り切るところだが、そううまくいくものではない。こういうことを珍しく九条がいうので、烏丸はとことんつきあうということをいうのだった。

 

そうした、弁護士として必然的に抱えることになるこころの傷に、烏丸は寄り添ってくれたわけだが、物理的危機(に近いもの)とともに京極が乗り込んできたいま、烏丸はいないのである。

壬生が見つかるまで京極は動かないつもりだ。しかし、なにか連絡が入る。有力な情報が入ったのだ。そうして、これからもつきあうことになるであろう九条へ非礼をわび、京極は出て行く。

 

その壬生は、久我とともに車で移動することで身をかくしている。鍛冶屋という年をとったヤクザは銃をもってうろうろしていて、壬生のアジトである工場は艮というヤク中の引退ヤクザがトラックでつっこんだ。けっこうまずい状況なわけだが、逆に壬生はそのことでいっそ京極をぶっ殺してしまおうという決意をかためたようだ。壬生はすでに菅原に連絡をとっており、屈強な男たちを集めさせていたのである。19人かな。菅原が壬生を追い詰めたときにいたものも見える。どいつもこいつもムキムキのゴリマッチョである。伏見組の若いヤクザが理由しだいでは襲撃をためらってしまうのもしかたないよな。とはいえ、菅原の人望や信頼感もなかなかすごい。壬生に敗北したのちの菅原に、彼らはしたがっているということなのだから。背後に壬生がいるからともいえるかもしれないが、この菅原の感じからして、モブマッチョたちとの関係性が以前とそうちがっているようにも見えない。どういうふうに接するのだろうな。

 

菅原や兵隊たちにはそのまま待機を願い、壬生はトイレに出かける。そして逃亡中の犬飼だ。埼玉のラブホテルに隠れているらしい。まわりになにもないところだ。ツーブロックなのかえりあしをそめてるのかわからないが、例の、猛を始末することについて反対していたほうの連れが買い出しから戻ってきたところである。買い出しといってもお菓子とカップ麺、酒ばかりで、まともな食事というものではない。それをとがめる男、犬飼に指を切られたほうの連れは連れで、この状況でポケモンをやっているらしい。じぶんのこととして現実的に受け止められてはいないようだ。

犬飼はひとり外に出て公衆電話から壬生に電話をかける。たぶん、猛をどうするか相談してスマホの電源を切って以来のやりとりだろう。いわれたとおり逃げたけどどうすればいいかという状況だ。

猛を殺したということじたい、今回はじめて報告することになる。いちおう犬飼のなかでの合理性とともに猛殺害は決まったことだが、とはいえ、「で、どうする?」という感じはぬぐえない。金はあるから海外逃亡の手配をしてくれないかと、わりとビビッた感じで犬飼はいう。とりあえず、ラブホには伏見組から犬飼たちの顔などの情報がいっている可能性があるから出てほうがいいらしい。位置情報を送るから待ち合わせようというはなしになる。

ビビッた犬飼は銃をもって走る愛沢ばりにダッシュする。スマホは、電源を切りながらもいちおうもってはいたのかな。その彼の横を、京極たちのものらしきものものしい雰囲気の車が数台過ぎていくのだった。

 

壬生と久我がコンビニ前で一服しているところへ九条から電話、話がしたい、いまから会えないかということである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

九条と対面した壬生のそばにはすでに犬飼がいて、無事合流できたようだ。だが、ほかの連れふたりの姿はない。そのまま逃げたっぽい。犬飼は壬生の舎弟だが、まだいまのところは猛失踪に関して無関係の位置にいた。だが犬飼は部屋を出るとき壬生に電話してくるということをいっており、おそらくつかまった連れふたりがそのことをいってしまえば、いよいよ壬生は関係者ということになる。

 

九条がとるべき態度とはどういうものになるだろう。こういうことになるから、烏丸は以前から警告していたわけなのだが、九条は九条で、彼なりの「依頼人を選ばない」という方針にしたがったうえのことだった。九条の弱みは、その方針それじたいはよいとしても、それが結果として導く今度のような事態を、ではどうするのかということなのだ。今回の事態を受けてどうするのかという問題は、もともとの、依頼人を選ぶとか選ばないとか、そういう次元とは、問題のレベルが変わってしまっているということはある。つまり、この件をなんとか突破したあとで、引き続き九条がいままで通りの弁護士のふるまいを取り続けるということは、原理的にはありえる。ありえるが、果たしてそれは、方針レベルで、持続的なものとして採用可能なままなのだろうか。要するに、ひとことでいえば、弁護士という仕事を持続することはできるのだろうかということだ。ある制度があって、それに反発する理論が生じたとして、かといってその理論のままにすすむと、制度にすがるぜんたいが崩壊してしまい、理論も成立することがないということはよくある。弁護士の使命はいくつかあるのだろうが、それらが成立する前提として、「そのひとが弁護士である」ということは、自明なこととして含まれているだろう。これは現在系だが、それを拡張したところには、「弁護士でありつづける」ということが含まれても不思議ではない。「弁護士の使命」が、AとかBとかあるとして、しかしそうした議論が可能である前提に、そもそもその人物が弁護士である、弁護士であり続けるということが、暗黙のものとして書き込まれているのである。これが自明のことで、いちいち語られないことには理由があり、というのは、これが前景化されすぎると、保守的になってしまうからである。「弁護士の使命」たるAやBより前に「弁護士であり続けること」がきてしまうのだ。だから、大きな声では語られない。それはその「使命」を損なうからだ。しかしそれはたしかにある。九条は、みずからを律するものとしてCという、多くの弁護士が厭う使命を掲げ、行動を限定している。だがそれは、あまり語られない当たり前の前提、「弁護士であること」という現実を毀損するものでもある。烏丸はそのことを指摘する存在なのだ。

 

九条のありようというのは、いってみればファンタジーである。ピーターパンとウェンディは眠りの夜のうち星空に旅立つし、『フック』という映画でティンカーベルはネバーランドの位置を、夢と現実のあいだという表現で示していたが、これらはすべて『星の王子さま』のプチプリンスが表現した、言語のはざまにある、言い当てることのできないものと出自の等しくする。このブログでくりかえししてきた表現でいえば、ピアノの鍵盤における「シ」と「ド」のあいだの音である。言語は、世界を認識するツール、ぜんたいではシステムにすぎない。ここに全能を見出し、むしろ言語が世界であるとするのが蔵人的立場である。だから、善も悪もはっきりしている。それも無理のないところで、彼ら法律文書を通じて世界を掌握するものにとって、言語はそれだけ大きな意味をもつものなのだ。ところが九条は、蔵人に見えないものが見えるという。じっさいわたしたちは、曽我部やしずくのような、非常に弱い、善だとか悪だとかのラベルを貼ることにあまり意味がないとおもえるものを多く見てきたはずである。九条は、蔵人的立場のものが必ず見落とすこういう「言い当てることのできないもの」を拾うものなのだ。ところが、これはじつはネバーランド的なものにならざるを得ないところがあるのだ。それもそうだろう。現実世界は言語で整序されている。少なくとも、いまわたしたちが意志をもってなにかをしようとする認識の世界は、言語で調整されているのだ。その足場のぶぶんには広大な無意識が広がってはいるが、現実の生活感覚にはあまり関係のないはなしだ。そもそも、法律のおおもとである憲法にしてからが、ある種コストパフォーマンス的な、法律家の労力節減のために設定されているぶぶんがある(憲法がない状態で、たとえばただでさえ膨大な民法のようなものを、ありえる個別の状況をひとつひとつ思い浮かべながら立法するという状況を考えてみればいいだろう)。蔵人的な言語観は、ひとつにはそうした経済性という点において、現実的なのである。だから、九条的言語観、また星の王子さまやピーターパンのネバーランド的事物の位置は、ファンタジー的になりがちなのだ。もっといってしまえば、「現実的ではない」のである。

 

九条がアウトローの面倒ばかりみているのは、その方針の副産物にすぎないのかもしれない。つまり、彼の初期衝動としては、曽我部のような弱いものを救うために、ということが、おそらくはあったとおもわれる。しかし結果としてはアウトローばかりが寄ってくることになる。そして九条としても、その方針をすすめる以上それはしかたのないことであると、冷静に仕事として受け止めていく。ここでは、九条のもつ非現実性が、ファンタジーとしてではなく、文字通りアウトローのもの、法律文書の書きこぼしを読むものとして読み換えられているわけである。烏丸の指摘はつきつめればここにたどりつく。九条がファンタジーであるぶんにはまだいいだろうし、そのおかげで救われる「言い当てることのできないもの」たちはたくさんいるだろう。しかしそのファンタジー性を悪く読み換えられたとき、どうすべきなのかということなのだ。個人的には、ファンタジー性を保持しつつアウトローを拒否するのは「あり」ではないかとおもう。誰もが丑嶋や竹本のようにひとつの原則を決めたらそれからはずれた行動は絶対とらない、というふうに生きれるわけではないからだ。けれども、九条はおそらくそうしない。なぜなら、そのようにアウトローたちを拒否するときの判断基準が、言葉によっているものだからだ。それではまったく意味がないのである。

 

ただ、はなしがあるとしてわざわざ呼び出している以上、九条もなにかを決意してはいるようだ。壬生との関係を断つみたいなことはなさそうだが、流れからすると菅原たちをつかった戦争を止める感じかもしれない。そのための落としどころを提案しにきた感じじゃないかな。ただ、直前に烏丸のことを思い返しているくだりもあるので、以後事務所立ち入り禁止的な展開になったとしても不思議ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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